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秩父の子 金子兜太
2018/02/27(Tue)
 2月27日 (火)

 「アベ政治を許さない」 を揮毫した俳人の金子兜太さんが2月20日に亡くなりました。
 「安倍」 では安心や安寧が倍になるからいやだと 「アベ」 にしたのだそうです。反骨精神は旺盛でした。それは自らの戦争体験に基づくもので、戦争反対の主張を貫きました。
 作品も社会性がにじんだのがおおく、しかも上から目線ではなく、地べたからの声を詠みました。選定に際してもそうでした。そして形式にこだわらない、季語を重視しないで、それぞれの思いを深く詠んだ作品を選んでいました。
 最近は俳句ブームが起きています。金子さんが選者をつとめ、毎週月曜日に掲載される 『朝日俳壇』 は楽しみにしている人たちもたくさんいました。

  〈曼珠沙華 どれも腹出し 秩父の子〉

 金子さんは秩父・皆野町出身です。晩年は熊谷市に住んでいましたが、句会を開催する別荘は秩父の山ろくでした。地べたからのこえが聞こえる感性は、秩父の山ろくで磨かれたものかもしれません。
 72年10月末から、金子さんは朝日新聞に 「秩父困民党」 を4回連載します。そのために事件に関する資料を調べ、事件の足跡をたどります。
 秩父困民党とは、1884年 (明治17年) 11月1日に秩父・下吉田村の椋神社に結集した数千名の秩父の農民たちはことです。農民たちは規律を持って行動し、高利貸しなどを襲い、大宮郷 (現秩父市) 郡役所を占拠し、さらに軍と対峙するなどの闘いを展開します。しかし9日に壊滅します。後の裁判では7人が死刑判決を受け、執行されます。

 秩父事件を研究する1つの潮流の人たちは、事件は自由民権運動の影響をうけ、指導部にも党員が多いと解説します。しかし金子さんはちがう見方をします。
「蜂起農民の大方が、かなり自覚的に、『自由党』 を受け入れていた。尋問調書などには、『借金党』 『負債延期党』 とともに、『自由党ニシテ貧民党ヲ合シテ』 とか、『自由困民党』 の呼称がみられる。『板垣さんの世直し』 への期待と同調の意識もかなりあったようだ。軍組織や動員力など、自由党員なしには考えられないことだし、現に秩父自由党の半数程度が参加している。
 にもかかわらず、板垣退助監修 『自由党史』 は、自由民権運動末期の一連の放棄を記述するとき、この事件を 『埼玉の暴動』 として、異質視している。博徒や猟夫、不平農民の類いの集団だという歪曲さえ見える。」
「結論的にいえば、これは単なる百姓一揆でもなく、自由党蹶起事件でもない。もっとユニークなものということである。借金農民の抵抗活動が、おのずから生み出した 〈党行動〉 ―いわば、同じ目的で集り、相談しつつ行動するうちに形成された組織的集団であって、自由党的組織・行動論は、そのなかに吸収され、有効性を発揮した、ということである。」

 記録の表面だけを読むのではなく、農民たちの心情の奥まで読み取っています。これこそ俳人の感性なのでしょうか。
 では実際に自由党員はどれくらいいたのでしょうか。蜂起に際して名前を記載したものがありますが正式な入党届とはいえません。いわば連判状のようなものと捉えた方が無難です。そして 「秩父自由党の半数程度が参加」 という人たちのほとんどは、蜂起のかなり前に逮捕されたり、逃亡しています。しかし自由民権運動の影響をうけたと主張する研究者たちは蜂起のかなり前からを秩父事件として括ります。
 実際は、自由党との関係が絶たれていたから、蜂起にむかう計画が自由党にも警察権力にも漏れなかったので成功したのです。板垣退助監修の 『自由党史』 の方が正しい評価だと思います。


「この農民蜂起が、かなり明確な軍組織をもっていたこととともに、上武信国境地帯にひろがり、参加人員1万名、『その規模において西南の役に次ぐ公判件数といわれ、死刑者7名を出す明治政府へ抵抗する最後の大がかりな暴動』 (重松一義) とされる、その規模の大きさに注目されなければならない。これは困民党の動員力の根強さの証左ともみられるからである。むろん、駆り出された者や野次馬も多いのだが、軍規にさほどの乱れがなかった点、そればかりとはいえまい。
 しかも重松一義氏は、熊谷、浦和両裁判所処断の重罪者中、前科者は1%にも達していないと指摘して、困民党は賭博集団という一部世評の誤りを正している。また参加層 (職業) は広く、熊谷監獄支署未決者581名中には、医師、角力取各1名が含まれており、7割までが中年の妻帯者だったという。まこと、生活要求的日常性に富んでいた、ということであろう。」
 自由民権の政治的主張に裏付けされた行動とはいえません。そうとらえると逆に農民たちの生活実態と要求、そして行動力が見えなくなります。


 では当時の農民がおかれた状況はどうだったのでしょうか。
「養蚕への依存は特に横浜開港以来は、商品経済丸浸りを意味する。いざり機で織っていた白絹は良質の生糸が輸出用として買いとられてゆくようになると、織れなくなった。屑糸で太織をやるしかない。生糸は生糸で、水力や蒸気を使う機械製糸に吸収されてゆく。結局は繭のまま売るしかないから、その値段が彼らの首根っこを押えることになった。繭仲買人が動きまわる。
 その状態の上で、明治15年まで、3回の糸価好調を体験したが、それから2年間で、生糸も米も半値になってしまう。諸物価も西南の役勃発前の水準に戻る。大蔵卿・松方正義の、不換紙幣鎖却を狙う強引な財政政策が実効をあげたわけだが、国税、地方税は増徴され、農家と中小業者の苦渋は著しかった。いわゆる資本の原始的蓄積の強行である。
 それも、好不況に交互に揺さぶられては、たまったものではない。農家は高利貸しに頼り、しかもデフレの進行は、その実質負債を高めた。そこへもってきて、利息制限法違反承知で 『切金貸 (きりかねがし) 月しばり』 という過酷な貸付方法がとられた。」

 思い起こすと金子さんは日銀で働いていました。経済分析は他の歴史書や解説書よりもわかりやすく説得力があります。
 そして俳人でした。
「私は山形情念ということばで、山国住民の内ふかく蟠 (わだかま) る、暗鬱で粘着的な実態を窺 (うかが) うのだが、それはだから、光には敏感だった。開明の空気は、内なる暗と外なる明の対象をより鮮やかにしていったから、見えてきた光 (外からの、あるいは外への) が理不尽に閉ざされたときの暗部の激発は、誰も防げるものではなかったのだ。しかし日頃は、わずかな光でも、遠い峠の上の薄明かりを望むように、それを頼りに耐えるしかなかった。粘り強く、剛気に。」

「11月9日早暁、蜂起農民は鎮台兵の襲撃を受けて潰走 (かいそう) する。困民党は掃蕩 (そうとう) され、その後の取り調べは埼玉、群馬、長野、山梨、東京の一府四県にわたって行われた。埼玉には、大宮 (いまの秩父市)、小鹿野、熊谷、八幡山の4カ所に、暴徒糾問所が設けられた。……
 この厳しさは、警官の恐怖心と苛ら立ちを反映している面もあるが、それだけのことではない。官側は、この蜂起が単なる百姓一揆と違うことを重視し、東京に近い事件であることを警戒した。鎮台兵一コ中隊、憲兵三コ小隊の投入も並みのことではない。事件の影響力を削るために、一部不逞の徒の使嗾 (しそう) による地方的事件という印象を打ち出そうとしたのもそのためで、幹部は重刑、他は軽くの方針を実行した。」

 事件後の現地はどうでしょうか。
「そうした大騒ぎにもかかわらず、事件の基因は改善されなかった。……山地農民の貧窮は一向に軽減されなかった。」
「それらが反感と嫉視を生んで、相互監視的になった。そして、暗い沈黙が広がる。批判は冗談口で語られ、郡長の逃げっぷりを茶化すていどになる。早めに離脱した幹部への不信感がくすぶり、無力感が加わる。……無力感の一方に事大主義が育ち、気に全体の暗い成行きの中で権威追随的になる。祖父たちのことは遠のき、時代も記憶の維持をさまたげていた。戦時中は、秩父事件のことを口にすることも禁じられていたといわれる。」

「しかし、光は消えない。……
 その見事な集約を、私は、(佐久) 東馬流 (ひがしまながし) にたつ 『秩父暴徒戦死者之墓』 に見る。農民の戦死者13名のうち、佐久地方の4名は遺骸を引きとられたが、残る9名は引き取り手がないままに、地元の人によって、鎮守の社前に葬られた。……
 そのそば、……大きな墓が建っていた。……
 墓は片側に 『昭和八年十一月九日菊池貫平孫共建之』 と刻まれ、他の側に 『明治十七年十一月九日朝戦没』 とある。これ以外にはなにもない、まことに簡潔な墓碑銘だが、これらのことばから私には、3つのことが読めた。1つは、『暴徒』 の 『戦死者』 たること、2つは、建てたのが貫平の 『孫共 (ども)』 であること、第三は、碑ではなく、『墓』 であること。
 この墓が建てられた昭和八年 (一九三三年) は、国連脱退の都市で、満州事変勃発して二年になる。……秩父暴徒と刻むしかない時代だった。しかし戦死者ということばには、強盗狡猾敵日常レベルの暴徒ではなく、国事犯たる暴徒という断定がこめられている。大事業をなしたる暴徒なり、の理解だ。そして、その大事業といういいかたは、組織された農民蜂起としてのそれ以後の民衆運動に対しても先駆性についてもいえる。しかも、その組織を、明治政府の圧力と自由党の強い不快感のなかで、自由党左派の協力を吸収しつつ自力で実現し、独自の党への展望までも示しえたことが評価される。むろん先駆行動のもつ未熟と問題を、十分にかかえているわけだが、それだけにかえって、現在の民衆運動と民衆の党のありかた、その関わりかたへの示唆は大きい。
 そして、これを建てたのは貫平の 『孫共』 だった。この無名の人たちがきいているものは、これまた無名の農民たちの、切なる声だ。自力で立たざるをえなかった借金農民の、やむにやまれぬ声がきこえないものに、この事件の一かけらもわかることはない。その声は、理想の旗越しに禺民を見下ろしているものの声ではない。地べたからの声なのだ。
そして、碑ではなく 『墓』 だ。顕賞や顕示ではなく、祈りなのだ。」

 「暴徒戦死者」 の墓を建てること自体国家への反逆です。しかし忘れてはならない人びとの叫びを無駄にしないで継承する必要があるというもう一つの叫びがありました。
 農民は後に暴徒といわれようと、自分たちの思いを行動に変えたのです。「先駆行動のもつ未熟と問題」 は、その思いを今に照らして継承しようとする者たちへの課題です。


 2004年に秩父事件を取り上げた映画 「草の乱」 が完成します。秩父での撮影には 「暴徒」 の子孫の人たちもエキストラとして参加しました。地元で上映されると、映りだされる先祖たちの姿を観てあらためて誇りをもつことができるようになりました。事件から120年後に 「暴徒」 の汚名は返上され、名誉ある称号になりました。
 金子さんはもちろん観たと思われますが、感慨深かったものだったでしょう。


   「活動報告」17.11.14
   「活動報告」16.11.2
   「活動報告」15.11.5
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