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「長崎・浦上天主堂はなぜ壊されたか?」
2018/02/15(Thu)
 2月15日 (木)

 ヒロシマ連続講座の 「長崎・浦上天主堂はなぜ壊されたか?」 に参加しました。
 報告は高瀬毅さん。『ナガサキ 消えたもう一つの 「原爆ドーム」』 (平凡社刊) の著者です。本については13年9月25日の 「活動報告」 で紹介しました。それとダブらないように報告内容を紹介します。
 長崎市は、坂の町といわれますが、浦上川の両側から山にかけて町が細長くつくられました。市の中心部は諏訪神社を中心とした文化圏で、その北側に天主堂中心の浦上が位置しています。原爆は浦上地区に落とされました。
 浦上天主堂の解体については、諏訪神社の文化圏の人たちは関心が薄く、市議会内では議論がありましたが、市全体の議論にはならなかったということがありました。
 そしてさまざまな複合的構造もあります。

 キリスト教の影響です。
 有名ですが、長崎医科大学の医師でクリスチャンの永井隆の原子爆弾合同葬での弔辞があります。
「米軍の飛行士は浦上をねらったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点に持ち来らされたものと解釈されないこともありますまい。終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き羔 (こひつじ) として選ばれたのではないでしょうか?
 戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に献げられるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたのであります。
 主与え給い、主取り給う。主の御名は賛美されよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。」
 原爆投下は、神の摂理で浦上が選ばれ、その結果平和が再来したと説きました。

 映画 『この子を残して』 のこのシーンでは、集まっていた信徒たちから 「意義あり」 の声がおこります。
 しかしキリスト教徒以外も広島、長崎の原爆が終戦を速め、平和をもたらしたという説がおきます。アメリカの戦略とも一致するこの主張は浸透します。その結果、アメリカの原爆投下は免罪されます。

 この弔辞は著書 『長崎の鐘』 にも載りました。GHQは原爆を扱った出版物は発禁にしましたが1949年に出版が許可されます。ただし日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である 『マニラの悲劇』 との合本とすることが条件でした。当時としては空前の売れ行きだったといわれます。


 もうひとつ浦上地区には複雑な問題がありました。浦上地区に浦上町がありました。
 江戸時代の1612年のキリスト教禁教令発布後、宣教師は国外追放され、信徒は地下に潜伏して信仰を続けます。「潜伏キリシタン」 と呼ばれ表向きは仏教徒となります。明治になっても弾圧は続き、海外から人権批判が行われて1873年に禁教が解かれます。
 市の中心部からみて浦上天主堂の手前に位置する浦上町に被差別部落の人たちが移住させられました。キリシタン弾圧、弾圧の手先、密偵の役割としての配置です。浦上では1790年から1867年まで4度の弾圧事件 (「崩れ」) が起きています。
 実は被差別部落の人たちのなかにもキリシタンはいました。しかし双方はいがみ合う関係性が作られました。

 浦上天主堂は明治時代から大正時代に30年かけて建設されました。
 原爆が投下された時、被差別部落の人たちが住んでいた 「浦上町戸数229戸。1300人。原爆によって全戸全焼、430人が死亡」 (『長崎市制65年史』 長崎市役所編) でした。
 借地・借家が多く存在しました。原爆投下で焼け出された後は、戻ってみると立ち入り禁止のロープが張られ、バラックを立てる権利もありませんでした。県内各地や県外に縁故を頼って離散して避難していき、とどまったのは21世帯でした。
「戦災復興土地区画整理事業が決定されたのは、1946年。1949年には長崎国際文化都市建設法が施行され、被爆地域の復興が始まった。
 長崎の被差別部落は、戦後の復興計画のなかでもう一度ふみにじられていく。行政は積極的に部落の壊滅を取り入れ、それをよしとする差別行政が進められていった。
 戦後復興都市計画道路31路線のうち、まず最初に、一本の道路が部落のど真ん中を貫いて走った。全長500メートル、幅10~15メートル。部落を分断する道路は、唯一焼け残った新地共同墓地まで無残に破壊した。」 (『ふるさとは一瞬に消えた 長崎・浦上町の被爆といま』 長崎県部落史研究所編 解放出版社)
 その結果、1971年の長崎市の全国同和地区基礎調査への報告は 「該当なし」 でした。翌年の再調査でもそう報告しました。浦上町の地名も変えられました。
「原爆は、部落から住民から住む土地を奪い、職を奪っただけでなく、部落の存在自体を消し去り、ふるさとの地名すら奪った。それは部落の人びとの被爆の苦しみにも匹敵する精神的支柱の解体であった。」 (『ふるさとは一瞬に消えた 長崎・浦上町の被爆といま』)


 1970年、長崎市が 「長崎港開港四百年」 記念事業で出版した 『長崎市の歴史』、『長崎図録』 に江戸時代の古地図が印刷されて市販されました。古地図には被差別部落の所在地を示す呼称が記されていました。
 当時、長崎地区労働組合議長の磯本恒信氏はこの報に接すると市役所にむかいます。市長応接室の壁にも貼っていました。
「『これがなんだかわかりますよね。この江戸時代の古地図には、穢多村、非人村と出ている。市はこれを図版にして本に載せておられますな。しかしこれは明らかに未解放不落が長崎のどこに存在したかの特定につながる。ただちに回収して、市販を中止してもらいたい』
 ……
『いやいや、これは江戸時代の地図でありまして、いまはこの地図に出ている村はございませんので・・・』
 と、総務課長は両手をまえで組んで、笑みを浮かべた。
『いくら古い地図だからといって、地図にちゃんと名前が出とうじゃないか。ここに住んどう人たちは、自分が未解放部落の人間だと特定されてしまう可能性が出てくるわけでしょう』
『しかしこれはあくまで江戸時代の地図でありまして、歴史的資料でもあるわけですからね』
『では、この地図にある未解放部落は、いまのどこにあたるか言ってください』
『・・・』
『穢多、非人と書かれている部落、地名、町というのは、いまのどこにあるんだい?』
『そういう未解放部落というものは、長崎にはございません。そういう地名のあるところはございません』
 ……
 平行線のまま3時間ばかり過ぎたとき、……
『部落はない・・・と?』
『はい、ございません』
『原爆でなくなったと?』
『はい・・・』
 恒信は両手をテーブルにたたきつけ、立ちあがった。
『私がそこの出身なんだ。浦上町の出身者だ。おいが、その部落民なんだ。それでも部落民はいないというのか!』
 ……
『浦上に部落はいまもあるんだぞ。原爆でみな離散していったというても、四分の三近くの部落民がいまも生活しとるんだ。こんな古地図を売りもんにしたりして、あんたたちは人の心の痛みというものがわからんのか!』
 応接室の空気は、凍りついた。」 (高山文彦著 『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』 解放出版社)

 これを機会に1972年部落解放同盟長崎県連、そして76年長崎支部が結成されます。そして被差別の体験、部落の歴史、そして被爆の体験が語られ始めます。
 いま、長崎県連の書記長は29歳の青年です。

 キリシタン、被差別部落の人たちが一堂に会してお互いの立場を理解し合えたのは、昨年NHKのドキュメントでも放映されましたが、なんと2016年夏のことでした。

 さまざまな、複雑な差別、いがみ合いの隙をぬって浦上天主堂は解体されてしまいました。


 長崎の被爆者・美輪明宏の 『ヨイトマケの唄』 です。 話は美輪明宏自身の体験ではありませんが実話です。

  子どもの頃に 小学校で
  ヨイトマケの子供 きたない子供と
  いじめぬかれて はやされて
  くやし涙に くれながら
  泣いて帰った 道すがら
  母ちゃんの働く とこを見た
  母ちゃんの働く とこを見た

  姉さんかむりで 泥にまみれて
  日に灼けながら 汗を流して
  男にまじって 綱を引き
  天にむかって 声をあげて
  力の限りに うたってた
  母ちゃんの働く とこを見た
  母ちゃんの働く とこを見た

  慰めてもらおう 抱いてもらおうと
  息をはずませ 帰ってきたが
  母ちゃんの姿 見たときに
  泣いた涙も 忘れはて
  帰っていったよ 学校へ
  勉強するよと 云いながら
  勉強するよと 云いながら


 連続講座の最後に、長崎に原爆が投下された時5歳だった方が発言をしました。
「母は祖母の家の近くに6畳1部屋を借りました。そして米や野菜を農家から仕入れて来て街の道路や近所で売っていました。芋をふかしたものや、タバコの葉っぱをまいたもの、新聞紙の袋に入れたピーナツなどを売っていました。
 ……
 あれはたしか小学校高学年の時です。学校から街の映画館へ映画鑑賞に行くことになりました。その頃は1年に1回か2回そういうことがありました。
 団体で約3キロばかりの道を歩いて行く途中、橋の上で5、6人の女の人が座って物を売っていました。なんとそこに母が居たのです。
 母は私の学校じゃないかと眼を見開いて私を探している表情でした。私は自分の母親が道路に座って物売りしているのを友達に見られるのがとても辛く悲しかったので、見つからないようにみんなの陰に隠れて通り過ごしました。母親から声をかけられるのがとても怖かったのです。
 その夜、家に帰っても母には何も話しませんでした。
 親の前を、見つからないように通り過ぎる。ほんとに母に済まないことをしたと、それ以来今までずっと心の中で謝り続けています。」

 話を聞きながら、「ヨイトマケの唄」 が浮かんできました。

 原爆は生き残った者たちに 「はらからの 絶え間なく 労働に築きあく 富と幸 いまはすべて費え去らん」 からの生活を強制しました。生活不安、健康不安等のなかで並大抵の苦労ではありませんでした。


 6月9日 (土) の第49回講座は、ノンフィクション作家大塚茂樹さんの講演、広島の 「原爆と部落差別に立ち向かった人びと」 です。

   「活動報告」 2018.1.19
   「活動報告」 2013.9.25
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