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過労死は長時間労働だけの問題ではない
2018/02/02(Fri)
 2月2日(金)

 地方のあるサークル団体から定期的に交流誌が届きます。
 最新号の扉を開くと詩が載っていました。

   失業者の自殺
           児玉 花外

 鬼こそ堪えめ、人なるを
 長き苦しき 労働 (はたらき) に
 身は青草の 細くのみ
 一たび肺を 病みしより
 血を喀 (は) き遂 (お) はる 杜鵑 (ほととぎす)
 彼方此方と さまよいて
 今はすみかも あら悲し

 両国橋の 欄干に
 流るゝ水を ながめしか
 夜の鷗(かもめ)の 侶となり
 哀れや水に 沈みけり
 越中島の 蘆 (あし) の邊に
 死骸は浮きぬ、そのあした
 嗟呼 (ああ) 惨 (いた) はしや 聞くさえに
 これぞ働く 人の果。

 1903年に刊行された 『社会主義詩集』 に収められていました。
 両国橋は、隅田川に架かる橋です。越中島は下流にある地名です。
 亡くなった失業者の性別はわかりません。しかし 「肺を 病みしより」 から想像すると当時近くにあった紡績工場の女工でしょうか。粉塵のなかでの長時間労働で結核を発病する労働者はたくさんいました。発病し、働けなくなったら “自己責任” です。

 作者の児玉花外は、明治大学の校歌 「白雲なびく 駿河台・・・」 の作者でもあります。
 校歌に関する明治大学のホームページです。
「大正9年当時隅田川で行われた大学の漕艇レースは現在にみる六大学野球に似て全学熱狂的な対校試合であった。校歌作成の動機はこのスライデング式による第1回の対校競漕に歌う歌を必要としたことである。校歌作成の動機は学生大会において可決され、その歌をもって校歌とする約束を大学側からもとりつけた。武田孟 (元総長) ・牛尾哲造両氏が使者となり社会主義詩人であった児玉花外、そして欧州帰りの新進作曲家山田耕筰を説き伏せて出来たのが白雲なびくの校歌である。歌詩は現在と若干異なっているが、しかし、校歌は時代と共に学生と共に歌いやすい様に変わっていったのであろう。」

 2つとも隅田川にまつわります。時代はずれますが対照的な陰と陽です。


 この詩に接した時、2014年11月14日に厚労省主催で開催された 「過労死等防止対策推進シンポジウム」 での過労死弁護団全国連絡会議幹事長の川人博弁護士の講演を思い出しました。
 1926年、長野県諏訪湖畔に 「母の家」 が建てられました。紡績工場の舎監から逃げ出して諏訪湖に入水する女工があとを絶ちませんでした。いまも諏訪湖畔には遺体が埋められた跡に乗せたと思われる石が見かけられるそうです。
 このような状況にあって、女性社会事業家は自殺防止のために湖畔や線路わきに立札をたてながら巡回し、生き悩む工女たちを絶望の淵から救う活動をつづけました。
『ちょっとお待ち、思案に余らば母の家』
 立札にはこう書かれていました。
 「湖水に飛び込む工女の亡骸で諏訪湖が浅くなった」 と言われました。


 1927年3月、諏訪湖の近くの岡谷町にある山一林組製糸所で、日本労働総同盟加盟の全日本製糸労働組合が誕生しました。(15年8月25日の 「活動報告」 参照)
 組合結成後、女工たちは歌をうたいながら街をデモ行進します。

  朝に星を いただきて
  夕になおも 星迎う
  わが産業に つくす身に
  報われしもの 何なるぞ

  搾取のもとに 姉は逝き
  地下にて呪う 声をきく
  いたわし父母は 貧になく
  この不合理は 何なるぞ

  かくまでわれら 働けど
  製糸はなおも 虐げぬ
  悲しみ多き 乙女子や
  されどわれらに 正義あり

 ここにも長時間労働と姉妹が殺されたことが語られています。


 小島恒久著 『ドキュメント働く女性 百年のあゆみ』 (河出書房新社) からの引用です。
「『工場づとめは監獄づとめ』 といわれましたが、寄宿舎のまたそれにおとらずひどいところでした。女工の募集が遠隔地にひろがるにつれて、寄宿舎制度が普及し、1910年の調査では、紡績女工の66パーセント、製糸女工の86パーセントが寄宿舎に住んでいました。(石原修 『女工と結核』 による)。
 だが、この寄宿舎の実態は一般にきわめてお粗末なものでした。どくりつの家屋であればいいほうで、工場の建物の一部をさいたり、事務室の2階などがあてられたりしていました。『生糸職工事情』 はこうのべています。『ソノ設備ハ甚ダ不完全ナリト云ウノ外ナシ。各室ノ広サハ十畳乃至二十畳ナルモノ多ク、往々一室ニシテ、五、六十畳ナルモノアリ。大概一畳ニツキ工女一人ヲ容レ、工女二人ニ対シ寝具一組 (上下各一枚) ヲ給ス。室ニ押入モナク棚モナク、往々畳ニ代ウルニ莚ヲモッテシタル処モアリ、マタ避難設備モナキモノ多シ』。これでは身体を休めるどころか、まさに 『拘置所』 といったところです。」

「そもそも繊維資本が、寄宿舎の付設に力を入れたのは、女工に快適な宿舎を提供するというより、労働力を確保し、労務対策にそれを利用するところにねらいがありました。というのは、寄宿舎はまず女工の出勤督励に好都合です。長時間労働、とくに深夜業のばあいは、欠勤者が多く、必要労働力をなかなか確保できませが、寄宿舎はその点、労働者をいやおうなしにかり出すのに便利でした。次に寄宿舎は、女工の移動や逃亡が頻発する 『状況』 のもとでは、それを防止する 『城砦』 の役割をはたしました。」


「女工の勤続年数は一般に短期でした。石原修の 『女工と結核』 はこういっています。『紡績と織物は女工の半分は1年と続いたものがありませぬ、勤続1年未満のその中の半分は六か月続いて勤めないものであります』。また1909年、新潟など12県の出かせぎ女工2万5600名について調査されたところによると、その年中に約40パーセントの女工が帰郷しており、その帰郷理由の28パーセントが疾病ということになっています (岡実 『工場法論』 による)。
 このように農村からはたらきにでた新鮮な労働力を、資本はつぎつぎに食いつぶし、役立たなくなれば弊履のように捨てました。」

「女工の病気にはむろん種々のものがありましたが、そのなかでもっとも恐れられ、死亡率も高かったのは、当時 『不治の難病』 といわれた結核でした。細井和喜蔵は 『女工哀史』 のなかで、『工場へ行ったがため、やった故に、村にはかつてなかった怖るべき病い――肺結核を持って村娘は戻った。娘はどうしたのか知らんと案じているところへ、さながら幽霊のように蒼白くかつやせ衰えてヒョッコリ立ち帰って来る。彼女が出発する時には顔色も赧 (あか) らかな健康そうな娘だったが、僅か3年の間に見る影もなく変わり果てた』、と書いていますが、同じような光景は当時農村の諸所で見られました。」


「なお、ついでながら紹介しておくと、こうした女工と疾病の関係について、鋭い分析と告発をおこなった先駆的な医学者に石原修がいました。石原は内務省や農商務省の嘱託として、工場や農村の調査に従事し、1913年、論文 『衛生学上ヨリ見タル女工ノ現況』 や講演 『女性と結核』 などをあらわしました。そして、繊維資本の酷使がいかに女工を食いつぶしているかを、詳細なデータにもとづいて明らかにし、つぎのように資本家を断罪しています――
 日本の女工の死亡率は最低に見積もっても、1000人につき18人であり、その死因の7割は結核、残りが脚気、胃腸病などである。いま日本の女工を50万人とすると9000人の女工が死んでいることになり、これは同年齢の一般死亡率4000人より断然多い。この差5000人は女工になったがゆえに早死したものである。『……工業の為にこれだけのものが犠牲になった。春秋の筆法で言えば工業五千人を殺すということを言ってよかろう、謀殺故殺は刑法上の責任がございますのに、人を斯くして殺したのは何の制裁がない、工場は見様に依っては白昼人を殺しているという事実が現れている、然るにその責任を問う者もない……』 (講演 『女工と結核』)。」


 結核をうつ病・メンタルヘルス、死亡・自殺を過労死・自死と置き換えたら今と似ています。長時間労働が結核やうつ病を発生させています。
 現在は、かつての寄宿舎のような心身の拘束はしません。しかし労働者は別の手法で心身を長時間拘束させられています。
 日本には、昔も今も労働者の尊厳は問題にされません。問題にされるのは輸出を稼ぐ経済です。


 過労死や自死は長時間労働だけが原因ではありません。
 電通は、15年末の新入社員の過労自殺を契機に労働時間削減を軸とする働き方の抜本的な見直しを進めたといいます。16年10月下旬から午後10時~翌朝5時の全館消灯を開始。「退社時間を守らないと翌日上司から注意される」 といいます。しかし会社に提出する資料の出退勤は “改革” どおりでも、その後も電気を消して仕事をしている、外部で仕事をしている、家に持ち帰っているなどの実態が語られています。
 電通は16年12月下旬に今回の過労死事件に関する内外の調査結果を公表しました。その中では 「長時間労働や職場での人間関係が心理的なストレスになった」 とあります。また 「パワハラとの指摘も否定できない、行き過ぎた指導があった」 ともあります。
 パワハラとは、一方的な業務指示、催促、無理な目標設定、早期の目標達成強制、周囲の非協力による孤立化などがあります。
 本物の改革のためには、何が長時間労働の原因になっているかを追及しその解消からはじめる必要があります。


 15年8月25日の 「活動報告」 を再録します。
 山一林組製糸所争議が終った翌18日付の 『信濃毎日新聞』 の社説のタイトルは 「労働争議の教訓」 です。
初めに人間があり、人間の生活がある。そして終りも亦人間と、生活とで在る。これが人間史の全部である。/ 人間生活のあるところ、そこにありとしある生活資料の生産がある。(中略) 注意せよ。生産方法在つて生活在るのではない。生活在つて而して生産方法があるのである。従つて生産の方法と態様とは人間のものなのであって、決つしてその逆ではないのだ。(中略) 然るに岡谷に於いては、それが全く逆転してゐるのだ。人間史が、人間生活が、理論的にも現実的にも転倒してゐるのだ。それこそ製糸の街岡谷の、製糸家の、人間としての欠陥である。(中略) / 二旬に亘る女工達のあの悪戦苦闘、それはそもそも何のための苦しみ、何のための闘ひであったか。いふまでもなく、それは生産方法における一手段、即ち生産用具たるの地位から、本然の人間に立ち戻らんとする彼等の努力の表現に外ならなかった。(中略) / 女工達は繭よりも、繰糸わくよりも、そして彼等の手から繰りだされる美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを識つたのだ。(中略) 彼等は人間生活への道を、製糸家よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきが故に、山一林組の女工達は製糸家との悪戦苦闘の後、ひとまづ破れた。(中略) とはいへ、人間への途はなほ燦然たる輝きを失ふものではない。/ 歴史がその足を止めない限り、そして人間生活への道が、その燦然たる光を失はない限り、退いた女工達は、永久に眠ることをしないだらう。」

 労働者の尊厳は労働者自らの手でつかみ取ることが大切です。

   「活動報告」18.1.11
   「活動報告」15.8.25
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