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「焼き場の少年」 と 「にんげんをかえせ」
2018/01/20(Sat)
 1月19日 (金)

 フランシスコ・ローマ法王は15日、南米訪問に向かう専用機内で記者団に原爆投下後の長崎で撮影された 「焼き場の少年」 の写真を印刷したカードを示し 「これを見た時、とても心をかき乱された。『戦争の結果』 という言葉しか思い浮かばなかった」と語ったという報道がありました。

 「焼き場の少年」 のタテ80センチ、60センチのポスターを事務所に貼っています。左下には、撮影したジョー・オダネルのメモも載っています。
 10年以上前に原爆症認定集団訴訟を支援する全国ネットワークが主催した集会で入手しました。
 ポスターが会場のあちこちに貼ってあり、残部がテーブルに置いてありました。「これは分けてもらえないんですか」 尋ねると断られました。すると周囲の人たちも 「私も欲しいから売ってよ、残しておいて捨てるよりもいくらでもお金にした方がいいじゃない」 と粘ります。担当者は関係者に相談し、「では気持ちだけ頂くことにして」 と分けてくれました。すると瞬く間になくなってしまいました。
 数枚購入して帰ると欲しいという人が何人もいました。

 集会では歌手・横井久美子のCD 「にんげんをかえせ」 が販売されました。峠三吉の詩をアメ-ジング・グレースのメロディーに乗せています。ジャケットは 「焼き場に立つ少年」 の写真です。
 横井久美子も歌いました。歌の前に朗読がはいります。

 「焼き場の少年」
 
 1945年9月―佐世保から長崎に入った私は
 小高い丘から下を眺めていました。
 10歳ぐらいの歩いて来る少年が目にとまりました。
 おんぶ紐をたすき掛けにし
 背中に幼子をしょっています。
 この焼き場にやってきた強い意志が感じられました。
 しかも、少年は裸足でした。焼き場のふちに
 5分から10分ほど立っていたでしょうか。
 おもむろに白いマスクをした男たちが少年に近づき
 ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。この時、
 私は背中の幼子が死んでいるのに気がつきました。
 幼い肉体が火に溶け、ジューッと音がしました。
 まばゆい炎が舞い上がり、直立不動の少年の
 あどけない頬を夕日のように照らしました。
 炎を食い入るように見つめる少年の唇には
 血がにじんでいました。
 あまりにもきつく唇を噛みしめているので、
 唇の血は流れず下唇を赤く染めていました。
 炎が静まると、少年はくるりときびすを返し
 沈黙のまま焼き場を去っていきました。
 背筋が凍るような光景でした。

    占領軍のアメリカ空爆調査団の公式カメラマン、ジョー・オダネル

 歌・横井久美子 「にんげんをかえせ」

 ちちをかえせ ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ

 わたしをかえせ わたしにつながる
 にんげんをかえせ

 にんげんの にんげんのよのあるかぎり
 くずれぬへいわを
 へいわをかえせ


 ポスターとCDを採り入れ、関千枝子著 『広島第二県女2年西組』 と広島第二県女の同窓会誌 『しらうめ』 をもとに朗読劇 『「ヒロシマ ガイド」 (教師編) ―“にんげんをかえせ”―』 のシナリオをつくり市民運動団体の例会で発表しました。「焼き場」 の箇所の抜粋です。

(ガイド)
 長崎においても、広島でも、原爆で殺された親を子が、子を親が、兄弟を、家族を、自らの手で焼きました。職場の同僚を焼きました。
 学校でも、教師が同僚を、そして生徒を焼きました。
  ……
(朗読 教師・有田) 
 「波多先生っ、波多先生っ」 と、私は大きく叫んでその身体に取り縋っていた。旧女専の1室である。両腕に生徒を抱きかかえたまま、千田町の日赤病院の庭で亡くなっていらっしたというその遺体が3日目にやっと学校へ帰ってきた。……
 白い肌は無残に焼け爛れ、そのお顔は3倍位にも膨れ上がっていた。
 焼けた手首が茶色に膨れて白いブラウスの袖が食い込んでいた。「痛いでしょう」 私はそっとボタンを外して差し上げた。熱線だけは透らず真白い先生の皮膚がそこにあった。「死者に涙をかけてはならない」 ということを思い出した時、私は大変な努力をしなければならなかった。「先生お苦しかったでしょう、どんなにか、どんなにか」 額に焼きついているお髪の1条、1条を掻き揚げた。眉毛も睫毛も皆、皆焼け縮れていた。「熱かったでしょう、痛かったでしょう」 私はせめてもと冷水で絞ったタオルをお顔の上にのせた。……
 でも私が先生のお傍にいて上げられたのはほんの僅かな時間でしかなかった。身体がいくつあっても足りない程の忙しさの中の僅かな時間であった。昼も夜もなかった。……

(ガイド)
 8月6日、学校を休んでいたために助かった2年西組の関千枝子さんは学校に駆けつけました。
(朗読 関)
 本地文枝の死体が運び出されるのを見送ったあと、私と林綾子は、玄関脇の部屋に入ってみた。この部屋に波多ヤエ子の遺体が置いてあると聞いたからである。……
 逃げ出したかったが、足がすくんでしまい、震えていると、急に、福崎教師ともう1人誰かが入ってきた。
(朗読 教師・福崎)
 「オッ、ちょうどええ。手伝ってくれ」
(朗読 関)
 否も応もなかった。私と綾子は担架の足の柄を1つずつ持って、波多の遺体を学校の東隣に運んだ。そこは一面、蓮畑になっていた。
 蓮畑に波多の遺体を置き、そのあたりにあった木を運び、福崎が経を唱え、火をつけた。煙がまっすぐ上った。空は真っ青に晴れあがり、風もなく、強烈な太陽が照り返していた。
(朗読 教師・福崎)
 「煙がまっすぐ上ると極楽へ行けるんじゃ」
(朗読 関)
 うめくような声で福崎はいった。私は福崎の気持ちがよくわかる。こうでもいわなければ、救いようがない気分だったのだろう。
だが、その時の私は腹が立ってたまらなかった。福崎にだけではない。誰に対してもくってかかりたかった。
 「極楽へ行ってなんになる。こんなに苦しんで、焼けただれて――。極楽へ行ってなんになる」

  (朗読 正田))
    酒あふり 酒あふりて 死骸焼く
      男のまなこ 涙に光る (正田篠枝)

(朗読 教師・有田) 
 翌朝ザラ紙にお骨を拾い上げた。8月9日の朝だったと思う。
  ……

(ガイド)
 学校の裏は川が流れていて、土手は桜並木が続いていました。
 その土手にたくさんの穴を堀り、有田先生たちは、たくさんの遺体を焼きました。1か月ほど、煙の絶えたことはありませんでした。
 8月12日か13日の朝のことです。
 誰も家の人が来ない生徒の遺体を前夜も焼きました。

(朗読 生徒)
 「先生お客様です」
(朗読 教師・有田)
 原爆投下の日以来ずっと被爆生徒の看病その他を手伝ってくれている女専の生徒の1人が私を呼びにきた。……
 初老の婦人が胸に四角い箱のようなものを抱いて1人歩いてきた。
 「有田でございます。あなた様は?」
(朗読 野村の母親)
 「私は野村の母親でございます。娘はどこにおりますでしょうか」
(朗読 教師・有田)
 小腰をかがめて丁寧に頭を下げた。「あっ、野村さんの!」 私は絶句した。この手で前夜野村さんの遺体を焼いたのである。私が手にしているザラ紙は、その野村さんと、もう1人の生徒のお骨上げに持って行こうとしていたものである。
 「あのう、その箱は?」 1分間でも野村さんの死の報らせを延したかった。
(朗読 野村の母親)
 「はーい」
(朗読 教師・有田)
 とまるで赤ん坊に乳房を含ませながらその子の頭を抱きしめ、もう一方の手で上を撫でながらその人は言った。
(朗読 野村の母親)
 「はーい、これはあの子の兄の遺骨を、今、市役所からもろうて来たたところです、まだ暖かいんですよ。ほら、このように」
(朗読 教師・有田)
 と箱を差し出され、私だまって受け取った、温いように思えた。
 「どうぞこちらへ」
(朗読 野村の母親)
 「どこにおるんですか、火傷をしとるんでしょうか」
(朗読 教師・有田)
 ……「さあ、どうぞこちらへ」 と近くの一室に招じた。小さな室だった。誰もいなかった。お茶をすすめた。……
 私は目を閉じ大きな息をして、お母様の前に立った。
 「お母様、実は、あのう」
(朗読 野村の母親)
 「昭子はもしや」
(朗読 教師・有田)
 間髪を入れない問いかけであった。「はーい」
(朗読 野村の母親)
 「やっぱり、やっぱりそうでありましたか」
(朗読 教師・有田)
 「私が引率して専売局へ参っておりました。何ともお詫びの申し上げようも」 と後はことばにならなかった。
(朗読 野村の母親)
 「やっぱり死んだんですのう」
(朗読 教師・有田)
 「はい」
 野村さんを生み育てて17年間、優しく素直でお腹の底から優等生だった野村さんの記憶が、一度に蘇ってお母様の全部を占領してしまったのであろうか、どうしようもなく、どうしようもなく泣き崩れておしまいになった。その嗚咽は直かに私の胸を刺し、拳を握っても握っても立っているのがやっとであった。
  ……
 女専の物理教室で昏睡状態のまま4、5日間生き続けた野村さんであったが、どんなにかお母様に会いたかったのであろうか。
(朗読 野村の母親)
 「それでどこに」
(朗読 教師・有田)
 「はい申し訳ございません、遺体は昨夜火葬にいたしました」
  私は消え入りたかった。涙がこぼれた。頭が上がらなかった。
(朗読 野村の母親)
 「2人も子供をとられて私はこれから何をたよりに生きて行ったらええんでしょうか」
(朗読 教師・有田)
 私は床にすわり、お母様の手をとったまま何も言えず2人で唯々哭いた。
 「野村さんともう1人の生徒のお骨上げに行こうとしている所へ、お母様がいらっして下さったのです。せめて、どうぞお骨拾いを」

 よろめくような足取りのお母様のお伴をして学校の裏へ出た。
 「野村さん、お母様がいらっして下さったわよ、野村さん、お母様よ」
(朗読 野村の母親)
 「昭子っ」
(朗読 教師・有田)
 灰はまだ熱かった。

(ガイド)
 学校は43年3月、文芸誌 『かがみ』 を発行しています。その中に野村昭子さんは詩を載せています。 

(朗読 野村昭子))
  「影」
          野村昭子
 
  昔とほったこの道で
  私の影は母さんの半分ほどもなかったのに
  今2人でとほったら
  母さんよりも 私の影が長くなった
  私の影よ

(ガイド)
 お母さんは、自分の背丈を越えるまでに育て上げた娘の遺骨を拾いました。
  ……

 1971年8月4日、広島平和公園の南側緑地帯の西端に、女性教師が子供をすくい上げているブロンズ像が建立されました。市内の国民学校で犠牲になった教師と児童の慰霊碑、「原爆犠牲国民学校教師と子供の碑」 です。
 像の姿は、波多先生に似ています。
 像の裏側に、正田篠枝さんのうたが刻まれています。

  (朗読 正田)
    太き骨は 先生ならん
      そのそばに 小さき頭の骨 集まれり

  (バックミュージック 『にんげんをかえせ』 に合わせて、みんなで合唱)
  ちちをかえせ ははをかえせ
  としよりをかえせ
  こどもをかえせ

  わたしをかえせ わたしにつながる
  にんげんをかえせ

  にんげんの にんげんのよのあるかぎり
  くずれぬへいわを
  へいわをかえせ

                    (了)

 昨年は、長崎で被爆体験を語りながら核兵器廃絶を訴え続けてきた林京子さん、谷口稜曄さんら多くの被爆者が志半ばにして亡くなられました。
 しかしその思いをしっかりと受け止める長崎の高校生は 「微力だけれど無力ではない」 を合言葉に核兵器反対の署名運動を続けて国連に届け続けています。

 17年12月のノーベル平和賞受賞は 「核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN=アイキャン)」 が受賞しました。若者が中心となって活動している団体です。授賞式には広島・長崎の被爆者も出席しました。

 1月8日の 「朝日歌壇」 です。

   被爆国 口を閉ざすも
    被爆者は 世界に向けて口を開きぬ

   「活動報告」 2017.8.4
   「活動報告」 2016.11.15
   「活動報告」 2016.4.15
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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