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湯川秀樹と原子力
2017/12/22(Fri)
 12月22日 (金)

 12月21日、マスコミ各紙は、京都大学が公表した1949年に日本人初のノーベル賞 (物理学賞) を受賞した湯川秀樹の終戦前後の日記について紙面を大きく割きました。

 日記には、45年2・3月の硫黄島の闘い、4~6月の沖縄戦について戦況を詳しく記録、7月5日は各地の空襲被害状況、7月28日には降伏を迫るポツダム宣言の詳細を記しているといいます。新聞記事などを写したとみられるといいます。ただ、直接的な感想などは書かれていません。
 8月6日の広島原爆の投下直後については、軍は新型爆弾と発表したが、8月7日付は 「新聞等より広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」 とあり、原子物理学者として投下されたのが原爆と知っていました。
 8月15日は 「朝散髪し身じまいする。正午より聖上陛下の御放送あり ポツダム宣言御受諾の已むなきことを御諭しあり。大東亜戦争は遂に終結」 と記しています。

 湯川は 「F研究」 と呼ばれる京都帝国大での原爆研究に関わっていました。Fはfission (核分裂) の頭文字です。戦況を打開する手段として、海軍が研究を本格化させたのは43年ごろ。京都大学は委託を受け、44年10月には、大阪・中之島の海軍士官クラブ 「水交社」 で京大と海軍による初会合が開かれました。原爆製造に欠かせないウランの濃縮計画の報告があり、湯川も核分裂の連鎖反応について報告しました。
 45年2月3日付の日記には「午後 三氏と会合 F研究相談」とあるように 「F研究相談」 「F研究 打合せ会」 といった記述が45年2~7月に計4回登場します。5月28日の日記には、F研究 「決定の通知あり」 の記述があります。研究は極秘で進められました。
 日本の原爆研究はF研究と、旧陸軍の委託で理化学研究所 (東京) が行った 「ニ号研究」 があります。

 9月15日の日記には、「午前十時 学士試験 その最中に米士官二名教室へ来たので直ちに面会」、10月4日にも 「朝早く登校、部長室にて米第六軍士官四名と会見。理学部の研究につき質問を受ける」 とあります。F研究について戦後、連合国軍総司令部 (GHQ) から数回取り調べを受けました。
 後に明らかになったGHQの文書は 「湯川はプロジェクトの理論にわずかしか関与していない」 と報告しています。
 10月17日の日記には 「(西谷啓治氏らと) 科学と思想の問題を中心として論議」 とあります。


 戦後の湯川や科学者たちの動向を、山本昭宏著 『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 (人文書院) から探ってみます。
 湯川は敗戦後の数カ月、外部への沈黙を続ける日々を送りました。そして 「週刊朝日」 45年10・11月号に 「静かに思う」 という文章を寄稿します。(ただしこの文章は後に本人が何回か手を加えたものです)
「わが国からはこれに比肩すべき新兵器はついに現れなかった。総力戦の一環としての科学戦においても残念ながら敗北を期したのである。もちろんこれは多くの理由があるであろう。例えば原子爆弾の場合においても、人的、および物的資源の不足、工業力、経済力の貧困等を挙げることはできるであろう。一言にしていえば、彼我の国力の大きな差異が物を言ったのである。敗北の原因が人々によって色々と挙げられているが、全ては結局彼我国力が懸絶していたことに帰着するのであって、最高指導者がこの点を無視したこと自身が最も非科学的であったといわねばならぬ」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』から孫引き)
 科学戦の敗北だと語ります。

 戦後、なぜ日本が戦争に敗北したかを問う時に 「科学戦の敗北」 と理解されました。「大和魂」 や 「神風が吹く」 のような非科学的な思考と体制否定の裏返しでもありました。
 そして科学は 「新しい日本」 の 「民主主義」 や 「平和」 の源と位置づけられました。科学には原子爆弾も含まれていました。これは、湯川の思考でもありました。
 アメリカはフャシズムを倒した、原爆使用は戦争の終結を早めた平和勢力という評価が登場します。

 原子爆弾について、科学者の手による最初の解説論文は理化学研究所所長の仁科芳雄の46年3月に 「世界」 に載った 「原子爆弾」 でした。仁科は45年8月8日に広島に投下された爆弾は原爆だと直感して被爆地調査を行っています。
「今日原子爆弾を製造しうるのはアメリカだけである。そしてこの国は平和を愛し、侵略を否定する国である。こんな国が原子力の秘密を独占しうる間は、侵略行為は不可能であり、従って世界平和は保持せらるることになるであろう。即ちアメリカは世界の警察国として、原子爆弾の威力の裏付けによって国家の不正行為を押え、国際平和を維持しうる能力を有していたのである」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 アメリカを世界の警察官と捉えます。その認識の背景には、46年に創設された国連原子力委員会と、アメリカが提案していた原子力国際管理の存在がありました。
 その後の47年、仁科の主張は、アメリカという認識に代わって平和をもたらす 「世界国家」 という言葉が登場します。原子爆弾は世界の警察となるべき 「世界国家」 が戦争抑止のために保有すべきだと考えます。

 物理学者の武谷三男も、原子爆弾の製造に重要な役割を果たしたボーアやフェルミがそれぞれドイツとイタリアからの亡命者であることを挙げ 「原子爆弾は最初から反ファッショ科学としての性格を強く持っていたのである」 と指摘しました。さらには、原子爆弾の 「技術論的意義」 として、アメリカの工業力だけでではなく、アメリカの労働者の 「民主主義的原動力」 を高く評価していました。このように武谷は戦後民主主義の価値観に合致するものとして原子爆弾を位置づけていました。
 原子爆弾は平和と結びつけられていました。

 「世界の警察官」 のアメリカの独占所有により、世界の平和は維持されるという世論が支配します。そして原子力については国際管理を行って平和利用を進めるという主張です。


 さらに47年にトルーマンが放射性アイソトープを医学研究のために海外の研究所に提供することを申し出ると、原子力研究は 「平和的利用」 と肯定的に捉えられられます。
 48年の湯川の文書 「知と愛について」 です。
「このようにして見出された自然の新しい性格は、私どもにそれが物質とエネルギーの両面にわたるほとんど無尽蔵ともいうべき資源として、将来活用され得るものであるという大きな希望を与えることになった。原子爆弾の成功はこの希望の実現へ向かっての第一歩であった。今後における原子力の平和的活用が人間の福祉にどんなに大きな貢献をするか、おそらく私どもの想像以上であろう」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 物理学者たちは 「原子力の夢」 を披歴していました。
 この頃は、「軍事利用」 と 「平和利用」 は必ずしも区別されていたわけではありません。

 49年11月、湯川はノーベル物理学賞を受賞します。
 科学・原子力への期待は高まります。


 しかし国際的緊張は高まります。49年9月、ソ連は原爆保有を公表します。アメリカの独占は崩れます。10月1日、中華人民共和国が成立します。「東西冷戦構造」 が緊張度を増していきます。
 緊張が高まる中、仁科芳雄は戦争防止のために科学者は世論を喚起させなければならないと説きます。
「現在までのところでは、原子力の応用は一般人に対して原子力爆弾ほど目覚ましいものは見られない。その結果として科学を呪う声も聞かれるのである。原子力の国際管理さえ実現できない今日の国際情勢に於いては、正に科学の進歩が早過ぎたという憾みのあることは拒み得ない事実である。(中略) 今日のような原子力の恐怖時代をもたらせたことに対して科学者はその責任の一端を免れることはできない。その罪亡ぼしとして科学者は戦争を再び起こらないようにする努力をせねばならぬ。これはわれわれの義務である。」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 「科学者の責任」 の言葉が登場します。


 49年4月、パリとプラハで開催された平和擁護世界大会は、原爆の制限と国際管理を求め、これに呼応かたちで10月2日、広島で平和擁護広島大会が開催されます。
 そして50年3月、平和擁護世界大会委員会がスウェーデンのストックホルムで開催され、大会は核兵器廃絶に向けた 「ストックホルム・アピール」 を採択します。そこには 「原子爆弾を使用する政府は人類に対する犯罪人として取り扱う」 などの項目がありました。
 呼びかけに呼応して8月6日から署名運動が開始されます。世界から4億8200万人の署名が集まりました。日本においてもGHQの支配下、朝鮮戦争のさなかに署名運動が展開され、645万筆が集まりました。(17年9月26日の 「活動報告」 参照)
 原爆被害の実態を訴える活動などを通して原子力による平和の主張に抵抗する運動が登場してきます。
 しかし原子爆弾反対と原子力の平和利用は共存していました。


 50年6月、朝鮮戦争が勃発します。11月、トルーマン大統領は、朝鮮戦争で原爆使用を示唆します。しかし反対の世論のなかで使用はできませんでした。
 53年7月23日、アメリカが初めて勝てなかった戦争・朝鮮戦争が休戦協定を締結します。アメリカの覇権が揺らぎます。

 54年3月1日、ビキニ珊礁での米軍の水爆実験で第五福竜丸が被爆します。
 湯川は54年6月号の 『婦人公論』 に文章を寄せます。
「原子力は確かに恐るべき威力を持っている。しかしそれは天然現象ではない。人間の獲得した科学的知識に基づいて、人間のつくりだした仕掛けによってしか、原子力はその威力を発現しないのである。天然現象ならば、人間の力ではどうにでもできない場合もある。しかし原子力は人間の頭脳の中から生まれてきたものである。人間の力で原子力の狂暴性のはつげんを抑え、更に進んでそれを人間のための力として利用することができないはずはない。
 もちろん、原子力が平和的にだけ利用されたからといって、危険が全然なくなるわけではない。原子動力の向上では多量の放射性物質が同時に作り出されるのを避けることができない。それが人間に被害を及ぼさないようにするためには、周到な注意が必要である。そればかりではない。放射性物質がいろいろな形で、今までよりももっと広く人間社会に利用されるようになるに違いない。それに伴って起り得る災害をなくすためにも、細心の注意が必要であろう。しかし、原子力に対する単なる恐怖心によってではなく、一般社会の人びとが原子力や放射性物質に対する一通りの常識を持つことによって、この種の災害は避け得るはずである」(『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 科学の進歩の無謬性に対する疑義が生まれ始めていますが、社会の成長などで乗り越えられると捉えていたと思われます。この捉え方は、のちに原子力発電所建設へと進みます。

 第五福竜丸事件を機に原水爆禁止署名運動が展開されます。しかし 「広島・長崎。ビキニ」 を並置しながら、アピールにおいて広島・長崎の被爆者援護の問題を取り上げなかったように具体的政治目標は掲げませんでした。
 署名運動の広がりを受け、ひろしまの被爆者団体が、被爆者問題の重要性を訴え始めていました。

 湯川は、第五福竜丸事件を機に平和運動に尽力します。科学の平和利用を訴えた 「ラッセル・アインシュタイン宣言」 の共同署名者となりました。
 ラッセル=アインシュタイン宣言は、54年12月23日にラッセルが行ったBBCクリスマス放送での演説 「人類の危機」 を要約したもので、55年4月11日に発表されます。
 演説の抜粋です。
「……
 私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、即ち、“ヒト” という “種” の一員としてである。世界は紛争に満ちている。そうして、全ての小規模な紛争に影を投げかけているのは、共産主義と反共産主義との巨大な戦いである。
 政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題のいずれかに強い感情を抱いている。しかしできるならば、そのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員としてよく考えていただきたい。
 私たちは、一方の陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、全ての陣営がその危険を回避する望みがある。」
 今に通じる内容です。
 宣言に湯川は名を連ねます。
 そして、宣言に基づき、1957年にカナダのパグウォッシュ (Pugwash) で開催された各国の科学者が軍縮・平和問題を討議する国際会議 「科学と国際問題に関する会議」 (「パグウォッシュ会議」) にも参加し核なき世界の実現を訴えました。


 科学の無謬性に対する疑義が人びとを捉えて広がるのは、公害問題間からだといわれます。足尾鉱毒事件、水俣、大気汚染などの問題をとおして原子力発電の問題の捉え返しが行われはじめました。
 捉え返しての運動が展開される最中の2011年3月、取り返しのつかない東日本大震災で福島原発事故が発生します。

   「活動報告」17.9.726
   「活動報告」17.8.4
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