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「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」
2017/10/17(Tue)
 10月17日 (火)

 10月7日と8日、福岡市で第29回コミュニティ・ユニオン全国交流会 in ふくおかが全国から450人の参加で開催されました。
 1日目におこなわれたパネルディスカッション 「混迷する今、確かな一歩で未来を拓く」 に、中野麻美弁護士がパネリストとして登壇しました。
 「安保法制違憲訴訟・女の会と一票で買える女たちの会」 のビラを示しながら 「平和なくして人権なし 人権なくして平和なし」 の視点で問題提起をしました。
 ビラの見出しは 「平和って何だろう ~私たちが実現したいのはコレです~」 で、思いが書かれています。
 「おなかがすいたらごはんが食べられる。」
 「どんな思想や信条や宗教をもっても、誰かに怒られたりいじめられたりしない」
 「本を読んだり、映画を見たり、できる」
 「お金のことを心配しないで学校で勉強できる」
 「悪いことをしたときには 『ごめんなさい』 って謝ることができる」
 「思いっきり遊んだり、唱を歌ったり、絵をかいたりできる」
 「誰かの顔色をみないで嫌なことはイヤだって、意見が言える」
 「たった一つの大切ないのちだから絶対殺し殺されない」
 「だれとどういう生活をするか自分で決められる」
 「みんなと手をつなげるっていうこと。」
 「わたしが生れてよかったっていうこと。あなたが生れたことをよかったと思える。」
 裏面です。
 私たちは
 ・憲法9条 「改正」 で 「戦争できる国」 にするのはごめんです。
 ・差別と暴力のないほんとうの平和を求めます。
 ・女性の権利の否定は許しません。
 ・憲法を侵し、強行採決 (2015年9月19日) された安保法制の廃止を求めます。
 なぜなら
 ◇日本国憲法は、戦争はしないと約束した世界に誇る宝です。国際的にも戦争は違法です。
 ◇戦争は、人を戦争の道具にする、極めつけの差別と暴力そのものです。平和な世界は貧困と差別、
  暴力をなくし、武力紛争による被害の回復に力を注ぐことから生まれます。
 ◇暴力は暴力の連鎖を生み出します。軍事も同じです。私たちは 「軍事による平和」 はありえない
  ことを確信します。
 ◇戦争への道は女性の権利を否定します。結婚するかしないか、子どもを産むか生まないか、どのよ
  うな家族をつくるか、それは1人ひとりの自由です。このような権利を大切にすることが平和の基盤
  です。
 ◇安全保障法制は、国際紛争を解決する手段として武力を行使しないという憲法に違反しています。
  世論を無視した強行採決は、民主主義の基本理念を侵害しました。
 ◇安全保障法制は、女性の権利、男女平等に反します。男女共同参画社会基本法や国連の安保理
  決議を無視して成立した安保法制は許しません。

 中野弁護士は、さらに市川房江の 「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」 の言葉を紹介し、暴力の体験を記憶して過去のものにしようと訴えました。


 市川房江はどのような人物でしょうか。『市川房江自伝』 (新宿書房) から探ってみます。
 1912年に鈴木文治によって創設された友愛会は男性だけの組織で女性は準会員でした。女性を含めて組織が拡大する中で16年に婦人部を設立します。
 19年8月の第7回大会で大日本労働総同盟と改称されます。大会には13人の婦人代議員が出席しました。機関紙 「労働婦人」 の発行と婦人の常任委員の設置を決定し、婦人部から山内みなと野村つちの2人の理事が参加します。このことで山内は勤務先の東京モスリン亀戸工場を首になります。
 この時に市川房江は大日本労働総同盟友愛会婦人部の書記として機関紙の編集の仕事につく誘いを受け、承諾します。後に、首になった山内は市川のところに同居します。

 1919年に創設された国際労働会議 (ILO) は、婦人問題に関する議論には各国に女性代表の参加を要請します。日本からも女性の政府代表顧問を送ることを決定します。代表には随員をつけますが、市川は人選を引き受け、労働現場を知っている山内に相談します。女性の政府代表顧問も希望します。市川は国際会議で初めて日本の婦人労働者の待遇改善の討議がおこなわれ、いくらかでも改善されればいいと思っていました。
 一方、政府は労働者の代表を三重県鳥羽造船所の技師長桝本卯吉を任命します。これに友愛会は抗議行動を展開していました。そして大日本労働総同盟は山内が政府代表顧問の随員としていくのなら友愛会をやめて行けと待ったをかけます。結局、山内の随員は実現しませんでした。
 市川は、随員がだめになるなら、政府代表顧問を呼んで直接労働現場の実態を知ってもらおうと婦人労働者大会を開催します。大会は政府代表顧問に感激を与えます。
 市川はこの混乱の責任をとって3カ月で辞任します。

 ワシントンで開催されたILO大会で、日本の政府代表顧問は婦人の深夜労働の禁止、産前産後の休養などの問題で尽力します。日本の政府代表や使用者代表も賛成して、婦人の深夜労働禁止に関する条約、出産前後における婦人使傭に関する条約は採択されました。

 市川は友愛会を辞めた後、2年半渡米し、労働運動や婦人運動の現場にでかけて多くの人たちと交流します。
 アメリカは、第一次世界大戦中に婦選獲得の運動が盛り上がり、1920年8月全州で婦人が参政権を獲得します。さらに参政権以外の法律上の男女平等を獲得するための憲法改正運動に着手していました。
 滞在中の24年1月にILO東京支局ができるのでそこの職員になってほしいという手紙を受け取り、帰国します。
 支局での仕事はILOの宣伝、や日本の労働事情の報告などでした。機関紙として 『世界の労働』 を発行することになりその担当になります。

 25年3月、東京支局はILOで採択された条約の批准を促進するため国際労働協会を結成します。さらに15年1月に開催された一般委員会で婦人労働の実態を行なうことを決め、婦人委員会および婦人の臨時委員会がそれに当たることにします。
 最初の調査は 「炭坑における婦人の坑内労働」 です。常磐炭坑をおとずれ、地下にも下ります。そして一般委員会で 「婦人の坑内労働禁止に関する決議」 を採択します。
 各地の紡績工場を視察し、「紡績業における徹夜作業禁止に関する決議」 も可決します。
 その傍ら婦人参政権運動などにも関与していました。
 ILOには丸4年間勤務しましたが1927年末に婦人参政権運動に専念することを決意し辞任します。
 友愛会、ILOでの経験はその後の活動でも役に立ったと語っています。

 市川は他者のことを悪くいうことはありませんでした。そこで 『十二歳の紡績女工からの生涯山内みな自伝』 (新宿書房) からもう1人の市川を見てみます。
 山内みなは1913年、東京モスリンに入社します。12時間労働で、休憩時間は午前に15分、昼食時間30分、午後3時に15分で夜勤もありました。社員は食堂がありましたが、原料を運ぶ人夫の臨時工の昼食は弁当を持ってきて食堂の外の広場で立って食べている状況を目撃します。
 14年、賃上げを要求してストライキが行なわれます。しばらくたってから機械の修理工の青年が来て 「俺は首にならなかった。首になった人たちは、会社が交渉に応じないので、友愛会に頼んで交渉中だ。やっぱり友愛会でなければだめだ。みんなで会員になろう」 「みなちゃん、あんたはいちばん若いから、長くこの会社で働くようになるだろうから先に入れ」 ということで入会します。
 会社は指導者を解雇しますが、彼らは金銭を受け取って復職しないで退職します。「友愛会でなければ会社は相手にして話を聞いてくれない、友愛会は自分たちの味方なんだな」 と感じます。
 友愛会は会員も増えて、工場のなかが少しづつ変わっていきます。

 首切りに反対を闘っていた山内は、19年12月、友愛会本部から呼びだしを受けます。鈴木会長と松岡駒吉主事から、会社と交渉をして山内を友愛会が引き取ることにしたと告げられます。
 荷物をもって本部に行くと松岡は山内を自分の家に引き取ることになったと話します。そして 「どうせ知れることだからこの際話しておくと、実は鈴木会長は女癖が悪くて、いたるところ問題を起こし、いま奥さんも恩師の夫人であったのだ。みなちゃんは清純な娘だから、万一のことがあっては気の毒だし、友愛会も責任があるから、私のところで保護する」 といいました。
 松岡の家で3か月過ごしました。
 しかし不安の中で、20年3月、講演会のときに知り合った市川の住所を探して訪ねます。

 山内の訴えを腕を組んで聞いていた市川は 「フン」 と笑い、「私は総同盟の中でどれほど男女の差別が遺されているかを、いやというほど見せつけられてきた。私としては婦人の労働運動をする前に男女平等の婦人運動をせねばならないという結論をだした」 といいます。共同生活が始まります。
 市川は平塚らいてうらと新婦人協会創立準備に打ち込んでいました。


 19年、日本初の婦人団体 「新婦人協会」 を設立し、女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開します。
 24年、「婦人参政権獲得期成同盟会」 を結成し、議会に婦人参政権を求める運動を続けました。
 40年、婦選獲得同盟を解消し 「婦人時局研究会」 へ統合します。
 42年に婦人団体は 「大日本婦人会」 に統合されます。大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組み込まれ、市川は大日本言論報国会理事に就任します。市川は、組織が大きくなれば婦人をめぐる問題で発言力が増し、地位は向上すると期待していたと思われます。
 しかしそうではなく、敗戦を迎えます。

 このような体験から到達した思いが 「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」 だったのでしょう。戦争は男女の役割強化。差別を強化しました。
 市川のその思いを引き継いでいるのが 「平和なくして人権なし 人権なくして平和なし」 です。

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