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三池闘争・三池炭鉱を語るとき
2017/10/20(Fri)
 10月20日 (金)

 10月7日・8日と、福岡市で第29回コミュニティ・ユニオン全国交流集会が開催されました。福岡へは飛行機を利用しましたが、遠路ですので料金は高額です。それ以上にホテル料金が高く、さらに簡単に探せませんでした。
 しかしせっかくなのでともう一泊し、三井三池炭鉱の遺跡を10人で巡りしました。

    紅葉燃 (も) ゆ  石見銀山  処刑場

 10月12日のテレビ・ 「プレバト」で、特待生の東国原英夫が詠みました。
 石見銀山はユネスコ世界遺産になっていますが、過重労働の中で逃亡しようとした坑夫が捕らえられたり、銀を盗んで処刑された場所は除かれているといいたかったとのことでした。マイナスイメージを与えるからだそうです。
 夏井先生のコメントは、直すところはありませんでした。

 三井三池炭鉱の遺跡のなかにもマイナスイメージを与えると判断されるものは観光案内地図からも消えていたりします。
 コースを決めていましたが予定は未定です。

 三井三池争議は1959年から始まります。当時、三井鉱山の従業員数は約4万人です。鉱山全体で4580人の希望退職募集がおこなわれます。三池では従業員数1万6千人でしたが誰も応じません。1278名が指名解雇され、人員整理反対のストライキ闘争が開始されます。
 3月17日、三池労組は分裂し、第二組合が結成されます。

 三川坑跡に行きました。ホッパー (石炭貯蔵槽) 決戦が闘われたところです。
 少し前までは、空き地にされて塀におおわれ、中に入ることができませんでした。
 しかし、万田坑がユネスコ世界遺産になると他の遺跡も保存が進んでいます。三川坑跡は、現在は土・日・祭日には、かつての正門が開けられ、ガイドの方が待機しています。

 かつては施設工として働いていた三池労組員だった方がガイドをしてくれました。
 ホッパー決戦の時は全国から10万人が集まり、石炭の搬出を阻止しました。その時の写真のコピーを示しながらの説明です。集会の壇上には総評の旗が掲げられています。白黒の写真ですが総評の旗だけは赤く塗られてガイドの方の思いが込められています。1人がそのことを指摘すると、案内人のボルテージが上がりました。

 闘争の集会の最中、三池製作所の組合員であった作曲家の荒木栄は作りがけの歌 『ガンバロー』 を披露し評価をあおぎました。最初の歌詞は 「くろがねの男のこぶしがある 燃え上がる男のこぶしがある」 でした。聞いた組合員が 「女もがんばっている」 というと次の時には 「燃え上がる女のこぶしがある」 に変えられていました。(作詞は森田ヤエ子です)

 闘争敗北後、事故が続発します。
 62年8月28日、四山坑で死者1人、重症8人、軽傷2人。29日1人死亡。30日3人負傷。9月、死亡1人、重症147人、軽傷154人。10月、死亡4人、重症144人、軽傷185人。
 「三池炭坑殉職者名簿」 によると61年から63年10月までに47人が亡くなりました。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請組夫が2人です。新労の方が保安に意見をいえない状況がありました。下請組夫の採用は62年から始まります。
 このような状況のなかで63年11月9日、三川坑で炭塵爆発事故が発生、458人が亡くなり、839人が一酸化炭素 (CO) 中毒患者となります。内訳は、三池労組163名、新労242名、職員組合25名、組夫28名です。
 さらに67年9月28日、三川坑で炭塵爆発事故があり、7人の死者と数百人のガス中毒患者となります。
 三川坑の入り口まで行くことができました。事故の時は地響きの後、ここから黒煙が高く吹きあげました。
 そのほかの施設も見学でき、説明を聞いていたら、ここだけで1時間半も要しました。


 大牟田市に隣接する熊本県荒尾市の成田神社に建つ久保清殉難の碑・三池炭鉱災害犠牲者の碑を訪れました。
 60年3月28日、闘争中に会社は生産を強行再開します。その翌日、三池労組の組合員久保清さんが四山鉱正門前で他の組合員とピケを張っていた時、三井鉱山の下請土建会社の人夫をしていた暴力団から刺殺されます。
 その時のことを書いている三池労組発行 『みいけ二十年』 です。
「山代、寺内組 (大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた) ……暴力団は 『お前の顔は覚えたぞ』 『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』 などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた」
 久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者で、ストで仕事からあぶれていた人夫でした。彼らは三池の労働組合の側に組織されることなく、会社に雇われたのでした。
 三池労組は本工主義で、関連会社の労働者に思いをはせることはありませんでした。
 闘争敗北後、解雇された三池労組員はあっせんを受けながら再就職をしていきます。関連会社の労働者のなかにはブラジルなどの中南米に移民した者もいます。棄民です。しかし三池労組員ではなかった彼らはお盆などには懐かしんで 「炭坑節」 を踊ります。

 60年9月8日に三池労組が闘争終結のためのあっせん案を受け入れた後、組合員にその報告をするビラが配布されました。そこに詩が載っていました。

  やがて来る日に
  歴史が正しく書かれる
  やがて来る日に
  私たちは正しい道を
  進んだといわれよう
  私たちは正しく生きたといわれよう

  私たちの肩は労働でよじれ
  指は貧乏で節くれだっていたが
  そのまなざしは
  まっすぐで美しかったといわれよう
  まっすぐに
  美しい未来をゆるぎなく
  みつめていたといわれよう
  はたらく者のその未来のために
  正しく生きたといわれよう

  日本のはたらく者が怒りにもえ
  たくさんの血が
  三池に流されたのだといわれよう

 かつて、久保さんのお墓は四山坑の近くの山の上にありました。お墓の隣に、この詩を刻んだ碑が建てられていました。三池炭鉱が閉山になると現在地に移設されました。今も墓と並んで碑が建てられています。
 そして、三池炭鉱災害犠牲者の碑が建っています。三池炭鉱で亡くなられた労働者を追悼するもので、かつては三池労組の会館の屋上にありましたが、労組が解散した後は久保さんのお墓の隣に移されました。
 会館は、CO患者の闘い、「黒い肺」 の闘い、そして地域的な運動の拠点でした。


 三池監獄があった三池工業高校の構内に入りました。三池工高は、今も一部がかつての三池監獄のレンガの塀に囲まれています。囚人が朝晩数珠うつなぎにされて出入りした扉も残っています。
 日本で “よろけ” の問題が登場する最古の文献は天保時代の佐渡鉱山を取り上げたものだと思われます。塵肺の問題は明治初期から指摘されていました。
 明治初期、三池炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、横須賀造船所などで囚人を労働力として酷使していました。
 三池炭鉱では明治19年から10年間に700人近くが亡くなっています。事故死以外は呼吸器疾患が多いという統計があります。
熊本医学校 (現熊本大学医学部) は熊本監獄の病囚の遺体を研究材料に利用していました (三池監獄は熊本監獄の支所)。データからは三池炭鉱に労働力として送られた5人の坑夫うち4人までが 「病囚の肺患は真の肺労 (肺結核) にあらずして単に炭粉刺激に原由する慢性肺炎即ちアントラコージス (所謂坑夫肺労) なると判然たり」 (沢田猛著 『黒い肺』) ことがわかっています。
 囚人労働は1930年まで続きます。


 一ノ浦囚人墓地を訪れました。
 大きな墓地の端に高いものでも40センチ位、縦横15センチ位の石に番号だけが掘られた墓が40数基地面に並んでいます。囚人墓地だといわれていますが異説もあります。保存会の人たちが管理しています。
 本当はどのような人たちの墓かはわからなくても、名前ではなく番号が彫られているということ自体異常です。
 では囚人は亡くなったらどのように処理されていたのでしょうか。
 もうひとつ囚人墓地があります。そこでは井戸に放り投げて蓋をしていました。井戸は今も残っています。


 残念ながらここで空港に向かわなければならなくなりました。

 ほかの人たちは世界遺産になった万田坑に行きました。
 四山坑などは影も形もなくなっていますが当時の建物も専用鉄道敷とともに保存されています。
 明治時代からの炭坑ですが関連施設も含めて残っています。ガイド付きの見学も可能です。
 米騒動のときは大騒動が起き、処遇改善をかち取っています。


 これ以外の、当初予定していた遺跡です。
 大牟田市の甘木公園に徴用犠牲者慰霊碑が、戦後50をむかえた95年に建立されました。
 41年2月、三池では最初に万田坑に朝鮮人労働者の強制連行が初めて行われました。43年9月に宮浦坑に1666人が連行されました。
 43年に新港朝鮮人収容所と宮山朝鮮人収容所、44年に四ツ山朝鮮人収容所と馬渡朝鮮人収容所、45年に西浜田朝鮮人収容所が開設されました。馬渡社宅には140人が収容されていました。
 馬渡社宅の解体作業の最中に、押入れ壁に書かれたハングルの墨書が発見されました。その壁の様子が碑になって慰霊碑の隣に建てられています。

 強制連行された数は、調査資料ごとに差があります。
 福岡県特別高等課調査に基づく45年1月末現在の 「労務動員計画に依る移入半島人労務者に関する調査表」 (県庁文書) によると、連行朝鮮人の数について、三井三池炭鉱 移入者数2376、逃走者数743、死亡15、電気化学工業大牟田工場移入者数572、逃走者数234、死亡1とあります。
 新藤東洋男著のパンフレット 『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者 -その強制連行と奴隷労働-』 (人権民族問題研究会) では、45年8月現在の三池炭鉱の 「外国人労働者」 の数は、朝鮮人2297人、中国人2348人、俘虜1409人とあります。
 数年前、アメリカ人俘虜だったかたが来日した時、当時の話を聞くことができました。


 交流集会の夜の懇親会では最後にみんなで 「炭坑節」 を踊りました。
 「炭坑節」 のルーツは明治末期の筑豊・田川の三井 「伊田の炭鉱」 が新たに発掘された時の希望の歌だといわれています。ですから元歌の歌詞は 「伊田の炭鉱」、「三井田川坑」 です。
 終戦によって 「勤労報国隊」 が引き揚げ、強制連行された朝鮮人・中国人、そして俘虜などが解放されると炭鉱の労働力は激減します。GHQ (連合軍総司令部) と政府は、エネルギーの供給がなければ、経済再建と活性化はないと電力、鉄道、鉄鋼そしてGHQ用の暖房のため石炭の増産政策を打ち出し、ラジオや新聞などでの石炭増産のキャンペーンを奨励します。そのテーマソングのひとつが歌詞を変えて編曲された 「炭鉱節」 で全国に流されました。おそらく戦後最初に広く歌われた労働歌です。

 このほかに、関係個所に行くことはできませんでしたが、三池炭鉱を語る時、与論島から移住してきた労働者を抜きにはできません。
 三井鉱山は、与論島出身の労働者を 「ヨーロン」 と呼んで差別し、酷使しました。三池闘争は 「ヨーロン」 にとっては労働組合の力強さを知るとともに自分たち 「ヨロンチュー」 の 「人権を回復」 する闘いでもありました。ですから三井鉱山は、三池労組を分裂させたとき、与論島出身者は最後まで残るだろうと判断していました。
 大牟田市では毎年8月に大蛇山祭りが開催され 「炭坑節一万人総踊り」 がおこなわれます。この踊りに 「ヨロンチュー」 は2008年に初めて参加しました。「ヨロンチュー」 が 『炭坑節』 を歌っておどります。三池労組組合員としてではなく大牟田市民としての登場です。先祖が与論島から三池に移住を始めてからちょうど100年目にです。

   「活動報告」 2016.9.6
   「活動報告」 2015.3.6
   「活動報告」 2011.10.7
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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