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チビチリガマ  死者は3度殺された
2017/09/15(Fri)
 9月15日 (金)

 沖縄・読谷村波平のチビチリガマが何者かに荒らされました。
 1945年3月26日、米軍は沖縄・慶良間諸島に上陸、4月1日に本島の北谷・読谷に上陸します。住民140人はチビチリガマに避難します。そのうち82人が2日に 「集団自決」 します。47人が子どもたちです。

 1980年代半ば、チビチリガマを初めて訪れました。
 道路から急な階段を降りた谷間の草むらを歩いた先に入口がありました。
 その後に訪れた時はコンクリートで階段が作られていました。入口手前の右わきに彫刻家金城実さんと住民の合作 「世代を結ぶ平和の像」 が設置されていました。87年4月に完成しました。2階造りになっている像には82人の姿が盛り込まれていました。
 上の段に腰を掛けて頭を抱えている姿があります。このモデルになった人がいます。
 戦時中徴兵にとられて読谷を離れていましたが無事に戻ってきます。しかし残っていた妻子4人はチビチリガマでて 「自決」 していました。
 その方は、いつもは気丈夫なのですが集落の催し物などで酒が入ると暴れ出し、みんなから嫌われ、早く帰ることを促されます。あるとき、集落のひとが後をつけていくとチビチリガマに降り、 「なんで自決なんかしたんだ」 と泣きながら語りかけていました。
 遺族は口を閉ざしていましたが、このことを機会にチビチリガマと集団自決が明らかになりました。
 青年団を中心に村で戦時中におきた出来事の掘り起こしが始まります。戦後38年後のことでした。

 沖縄は戦後米軍の支配になります。「復帰」 闘争が続けられますが、72年の 「復帰」 は期待したものにはなりませんでした。そのような中で、人びとはもう一度現実を見つめ直し、米軍基地撤去の闘いと合わせて沖縄戦の捉えかえしを始めます。各地で戦跡の発掘や証言の収録が開始されます。
 チビチリガマと集団自決問題の掘り起こしが始まったのもこのころです。

 像が87年11月に壊されました。壊したのは地元の右翼でした。右翼は戦争の犠牲者を追悼しているものには手をかけることはしません。この右翼は本土の右翼から叱られ解散させられました。ですから今回も、右翼が壊したということは想定できません。
 壊された像は、しばらくはシートで覆われていました。しかし壊されたのも事実といういうことでシートははがされました。3回目に訪れた時見ました。無残としかいい表せません。82人については姿が消えたり、金網や針金の祖型があらわになったものもありました。
 95年、新しい像が設置されました。それが今回壊されました。

 頭を少し屈めながらチビチリガマに入るとすぐに、ベニヤ板に書かれた金城実さんの詩が立てかけてあります。

   チビチリガマの歌
  1、戦世ぬ哀り 物語てたぼり
    イクサユヌアワリ ムヌガタテタボリ
    童御孫世に 語てたぼり
    ワラビンマガユニ カタリテタボリ
  2、波平チビチリや 私達沖縄世ぬ
    ハンザチビチリヤ ワンタウチナユヌ
    心肝痛ち 泣くさ沖縄
    ククルチムヤマム ナチュサウチナ
  3、泣くなチビチリよ 平和世願て
    ナチヌサチビチリヨ ミクルユニガテ
    物知らし所 チビチリよ
    ムヌシラシドコロ チビチリヨ

 今回、荒らした者たちはこれを見ながら奥に入っていきました。
 「戦世ぬ哀り・・・」 とはどういうことかと思いは巡らなかったのでしょうか。

 チビチリガマは大きくありません。
 今は自由に中にはいれませんが、かつてはできました。少し行くと屈まないと奥には進めません。端の方に当時の遺品が集められています。ビン、茶碗、包丁、入れ歯、メガネ・・・。茶色になった骨もあります。地面の土は湿っぽいというよりは油っぽいです。
 鎌を手に取ってみました。この鎌で避難していた住民は家族を殺しました。
 案内してくれた人が語ります。
「集団自決といわれますが1歳や2歳の子供が自分の意思で死ぬことができますか。殺されたのです」

 米軍は住民に出てくることを呼びかけます。しかし聞き入れません。
 竹槍をもって突っ込んでいった2人が銃で虐殺されます。
 家族はなぜ手をかけたのでしょうか。愛するゆえです。
 愛する者が米兵によって辱めを受けないために、虐待されないためにそうしたのです。
 そして教育がありました。「生きて虜囚の辱を受けず」 の戦陣訓がたたき込まれていました。
 看護師がいました。彼女は毒薬注射をそこにいた人たちにうちに打ち始めます。
 石油ランプに火を放って身体の近くで倒したり、近くにある布団などに延焼させます。煙に巻かれて窒息した者もいました。

 中国に派遣されていた従軍看護師がいました、南方から帰って来た兵士がいました。その人たちが自分の体験を話します。日本軍も現地住民にひどいことをした、ましてや米軍は何をするかわからない、死ぬ方が楽だ、と。
 死にきれない人たちがいました。傷つけた身体でガマを出ていきました。

 1995年6月、沖縄・摩文仁の丘に 「平和の礎」 が除幕されました。「平和の礎」 には沖縄戦で亡くなった1人ひとりの名前が刻まれています。
 名前を刻むに際して市町村でもう一度亡くなった方がたの確認をしました。そうしたらチビチリガマでもう1人亡くなっていたことがわかりました。
 今、谷間に建てられている碑には83名と刻まれ、裏側に21世帯、85人の名前が刻まれています。


 毎年4月1日、チビチリガマで遺族会主催の慰霊祭が行われています。
 今年の4月2日の沖縄タイムスの記事です。見出しは 「『うその教育で…』 沖縄戦 『集団自決』 遺族が語る危機感 読谷・チビチリガマで慰霊祭」。
「母方の祖父母ら5人を亡くした遺族会の與那覇徳雄会長 (62) は 『生き残った人は 「あの時、本当のことが分かっていれば」 「 うその教育を押しつけられなければ」 と口々に叫んでいた』 と指摘。『もう一度しっかり足元を見つめ、二度とチビチリガマの悲劇を起こさせてはいけない』 と語った。」
 もう1本の見出しは 「『痛い痛い』 暗闇に響く声、毒の注射器に行列… 8才の少女が目撃したチビチリガマの 『集団自決』」。
「『ここは毒が入った注射を打つための列』 『あそこでは、お母さんに背中を包丁で刺された子どもが痛い痛いと泣いていた』 -。8歳の時にチビチリガマで 『集団自決 (強制集団死)』 を目の当たりにした上原豊子さん (80)。当時のガマの中の状況を語ってくれた。
 避難していた家族は艦砲射撃で負傷した祖父と母、4人きょうだいの計6人。うち祖父が亡くなった。
 4月2日の朝。上半身裸の米兵が投降の呼び掛けに現れた。水も食料もあると言う。だが、周囲からは 『だまされるな』 との声が上がった。その後、次々と自ら命を絶つ惨状が始まった。『痛いよ』 とうめく子どもの声が今も耳にこびり付く。
 子どもに布団をかぶせて火をつける母親、毒が入った注射器を看護師に打ってもらおうと列をつくる住民…。煙が充満する中で、上原さんの母は子ども4人を引き連れて出口に向かった。『真っ暗な中から家族が出たら、光が素晴らしく感じた』 と振り返る。
 ガマの中に設けられた祭壇に、丁寧に手を合わせた上原さん。『天国にいる魂が慰められるよう、平和な世の中になるよう願いました』 と話した。」

 遺族らの願いはかないませんでした。ガマは荒らされました。死者は3度殺されました。


  泣くなチビチリよ 平和世願て
  ナチヌサチビチリヨ ミクルユニガテ

 それでもチビチリガマは語りつづけます。語りつづけなければならないのです。
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