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「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」
2017/08/04(Fri)
 8月4日 (金)

 毎年この季節になると、井上ひさしが書いた朗読劇 「少年口伝隊1945」 の上演がおこなわれます。
 案内チラシです。
「昭和20年8月6日、一発の原子爆弾が広島の上空で炸裂した。
一瞬にして広島は壊滅。このときから、漢字の広島は、カタカナのヒロシマになった。
かろうじて生き延びた英彦・正夫・勝利の3人の少年は、やはり運よく助かった花江の口利きでヒロシマ新聞社に口伝隊として雇われる。
新聞社も原爆で何もかも失ったため、ニュースは口頭で伝えるほかなかったからだ。
3人の少年は、人びとにニュースを伝えながら、大人たちの身勝手な論理とこの世界の矛盾に気がついていく。
やがて敗戦。・・・そこへ戦後最大級の台風が広島を襲う。」

 3人の少年は国民学校6年生で孤児になります。口伝隊の仕事は8月10日から新聞社の臨時雇いとしてです。県知事の 「最後まで戦え」 という布告を伝えます。長崎への新型爆弾投下を伝えます。15日には 「正午にはラジオのあるうちに集まってください」 と伝えます。この日をさかいに大人の態度がガラッと変わります。GHQとアメリカの原爆効果調査団がくることを伝えます。大人の世界はガラガラと変わっていきます。
 9月17日の枕崎台風では戦争で荒れた山が崩壊し、街を高潮が襲います。広島で2012人が亡くなりました。そのとき勝利は水害で命を落とします。そのあと正夫が原爆症で死去。15年後に英彦も原爆症のため亡くなります。


 新聞社の口伝隊については、大佐古一郎著 『広島昭和20年』 (中央公論社) や御田重宝著 『もう一つのヒロシマ』 (中国新聞社) にも出てきます。
 当時、中国新聞は当時38万部を発行していました。輪転機1台と付属設備を郊外の温品に疎開させましたが動力線を引く工事はまだでした。本社は全滅です。6日のうちに軍を経由して他社に相互援助契約による代行印刷を依頼しました。しかし、代行印刷は1か月の期限です。

 7日、特高課長が 「知事布告」 を出したいと要請にきました。
 特高課長の口述を編集局次長が原稿にし、印刷屋を探してタブロイド判の大きさで60枚印刷、市内各所に掲示します。布告は、「我らはあくまでも最後の戦勝を信じあらゆる艱 (かん) 苦 (く) を克服して大皇戦に挺身せん」 と結ばれています。
 この後も 「中国新聞」 と題字をつけたダブロイド版の壁新聞が発行され続けます。飛び込みニュース程度のものを2、3本書き込み、焼け跡の電柱、塀、駅前などに貼りました。
 憲兵が中国軍管区参謀長の命令をもって本社ビルに来ました。「中国新聞社で民心安定のため、口伝隊を組織し、市民に情報を知らせてくれ」 と要請します。編集局次長が断ると、憲兵は 「いや、こんな状況下では、憲兵ではだめだ。民間人でないとうまくいかない」 といいます。軍は火急の場合の広報活動は民間人でないと国民は信頼しないことを知っていたのです。
 新聞社は、生き残った社員でメガホン隊を編成し、焦土の中で市民に情報を伝達していきました。
 整理部長の回想です。
「『万難を排してニュースや諸情勢を伝達し、民心の動揺を防ぐ』 ことを新聞人としての最大任務と心得ていたのである。
 しかし7日には、まだ外部からのニュースは何も入手できないし、墨も紙もない。そこで最大の知恵は古風な口伝隊となって現れた。罹災者の応急救済方針、臨時傷病者の収容所、救援食糧、被害の状況など思いつきを口で伝えるのである」
 最後は 「決して心配はありません」 と結びました。
 比治山、饒津公園、東西練兵場、その他罹災者の集合場所や焼け残った郊外住宅地などに分散して回りました。情報に飢えている被災者には結構喜ばれました。
 しかし内務省の規制は厳しく、戦争が終わるまで原子爆弾の表現は禁止されました。

 大佐古記者の日記です。
「8月12日 (日) 快晴。
 本社焼け跡に行く。三井、佐伯、尾山、八島君らが、鉛筆と紙に代わるメガホンを持って口伝隊員として活躍している。この口伝隊はトラックの上からニュースを流すもので、軍の報道部にいた山本中尉らが、有事の際に憲兵隊を中心に編成することを予定していた。それが制服では信用がなくなったので、新聞社員や放送局員が代わって登場し、軍官の告知事項や重要なニュースを被災市民に伝達しているものである。」


 中国新聞社は疎開先で自力での発行に漕ぎつけますが枕崎台風で水害に遭い不可能になります。新聞発行は再び代行印刷となりますが、鉄道が被害を受けていた運送には困難をきたしました。
 20日から、再びこんにゃく版刷りの壁新聞 「特報第1号」 を発行します。
 大佐古記者の日記です。
「9月29日 (土) 晴れ、のち曇り。
 ここ1週間 『中国新聞特集』 の壁新聞をまた発行する。同盟や県庁だねを中心に数項目ずつをガリ版で刷り、それを販売部員が広島駅、横川、己斐、宇品、向洋など市内の要所に貼り出すほか、社員や県庁員に頼んで鉄道沿線の各駅に掲示してもらうものだが、見出しを長くした程度の内容で果たして何人の市民が見てくれるか。しかしわが社はピカドンにもめげずにまだ生きていることを宣伝するのには役立っている。」

 10月1日から本社移転に漕ぎ着けました。復員した社員、新たに採用した社員を含めて214人でのスタートです。

 8月3日、義勇隊本部から口頭で中国新聞社国民義勇隊に 「4日から8日までの5日間、主水町県庁付近一帯の疎開作業に毎日80人の隊員を出せ」 という出動命令が出ます。
 中国新聞社国民義勇隊には広島に支社をおく他の新聞社員も編入されていました。
 8月6日、中国新聞社員40人と他社員6人合わせて46人が県庁北側にあたる天神町の強制建物疎開作業に出動していました。集合を終え、作業に取り掛かろうとした時、上空で原子爆弾が炸裂しました。爆心地から西南500メートルの距離でした。
 新聞社は一瞬にして113人の社員が奪われました。当時の従業員の3分の1にあたります。助かった社員も熱線を浴び、放射能を浴びていてみな数日後には亡くなっていきました。

 中国新聞労働組合は1985年8月、被爆40周年事業として仲間が動員されて作業をしていた本川のほとりに 「不戦の碑」 を建立します。「碑」 は 「P」 のデザインです。Press、Pen、Peace の頭文字の 「P」 です。原爆で亡くなった新聞労働者を追悼し、二度と戦争のためにペンを執らない、シャッターを押さない、輪転機を回さない 誓いを込めた碑です。


 原子爆弾の被害をうけ、記者は苦闘します。
 大佐古さんの日記です。
「8月24日 (金) 晴れ、のち薄曇り。
 ……そういう新聞人はいったい何だ。反省も贖罪もなしに保身に窮々としている私を含めて……。私は名刺入れの中から日本新聞会が発行した登録記者証を取り出して破り捨てる。
 朝日が 『英霊にわびる』 というシリーズものを連載している。その中の吉川英治が書いた 『慙愧の念で胸さく』 を読み、新聞人の戦争責任についてとつおいつ考えつづけると、布団の上を三転五転して眠れない。」
「8月30日 (木) 曇り、ときどきにわか雨。
 東久邇首相が記者団との会見で 『一億国民はすべて懺悔しなければならない』 と発言したことが戦争責任を国民に分散させ、うやむやに葬り去ろうとするものだとして話題になる。……
『日本人に総懺悔するほどの余裕などあるものか。国民はそれどころか一億総餓死しようとしているのに……。とくに広島の市民は総討死に追い込まれ総ぼけしとる。指揮者が責任を霧消させようとする口実だよ』
 と歌橋君がいうと、佐伯君がそれにつづける。
『われわれを国家総動員法で身動きできないほど縛り上げたうえ、馬のように目隠しをして、一億火の玉になれと号令をかけて一直線に走らせた指揮者はだれだ。その馬に懺悔しろなど、何と虫のいいことをいう指揮者だ。それを批判しないジャーナリストは敗戦の虚脱でふ抜けになってしもうたんじゃないか。英霊にわびるくらいですむ問題じゃあない』
 私も1週間前の県議会議員の打って変った姿を思い出しながら話す。
『われわれが総懺悔論に反発するのもこの間の議員諸公が憤懣を県の理事者へぶっつけたのも、その相手は同じだよ。しかし目標がはっきりしないので、手近なところに対象を見つけて、やりようのない気持を発散させとるんじゃないのかな。ぼくはこの間から戦争責任の問題を深刻に考えとるが、どうも今度の戦争を起こした源流にまでさかのぼって反省し直す必要があるんじゃないかと思う。明治以来の軍閥やそれに加担した政治屋、財閥、官僚が上流で日本という大河を汚染させてしまっていたことをだ……』


 9月21日、GHGは 「日本に与える新聞紙法」 (プレス・コード) を指示します。同法は “自由な新聞の持つ責任とその意味を日本の新聞に教えるためのもの” で新聞以外のあらゆる刊行物にも適用されます。10カ条から成っており “連合軍にたいし破壊的な批判を加えたり同軍に不信もしくは怨恨をまねくようなことこと” “連合軍の動静” “公安を害するようなこと” などの報道を禁じています。

 実際の中国新聞の基本的な論調は 「広島の復興」 で、プレスコードが解除になっても原爆被害の実態や悲惨さを伝える記事は多くありませんでした。
 そのような状況を変えたのが54年3月1日のビキニ環礁での第5福竜丸が死の灰を浴びた事件でした。
 金井利博記者は、原爆を落とされた側の広島が人類に与えることができるのは落とされた現実の報告とそれに基づく忠告であるという視点に立ち紙面づくりを始めます。金井の指導を受けた若い記者も、在韓被爆者問題、沖縄の被爆者問題、被爆小頭症の問題など様々な問題を 「『人間』 の側から核兵器の問題見ていくという視点」 から原爆被害の記事を書き続けました。
 この取り組みはさまざまな集会で呼びかけられます。金井記者は1964年に開催された第10回原水爆禁止世界大会で呼びかけました。分裂含みの大会です。
原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」 「世界に知られているヒロシマ、ナガサキは、原爆の威力についてであり、原爆の被害の人間的悲惨についてでは」 ない。この広島での大会を主催する広島、長崎、静岡の 「三県連絡会議が単なる社会党、総評、親ソ路線に極限された平和運動でなく、もっと広く日本人の大衆的国民運動として幅広く盛り上がるためには、広島、長崎、あるいは焼津の原体験が、はたして十分に世界に知られているかどうか、どういう基礎的事実にもっと注目してよいのではないでしょうか。水爆に比べて、もはや広島型爆弾は威力ではなくなったとされ、その人間的悲惨は国際的に無視され、あるいは忘れられつつあるのではないでしょうか。平和の敵を明らかにする論争のなかで、まず被爆の原体験を国際的に告知する基礎的な努力がなおざりにされてはいないか」、そこで 「今、広島、長崎の被爆者が、その死亡者と生存者とを含めて心から願うことは、その原爆の威力についてではなく、その被災の人間的悲惨について、世界中の人に周知徹底させることである」

「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか。」
 このあくまで原爆被害を被爆者の立場に立って捉えなおそうという呼びかけは、その後の中国新聞の報道姿勢になっています。

 1995年8月6日、中国新聞労働組合は、原爆投下50年目を検証する8ページの 「ヒロシマ新聞」 を発行しました。
 題字の下には次のように書かれています。
「この新聞は、原爆投下で発行できなかった1945年8月7日付の新聞を、現在の視点で取材、編集したものです。被爆50周年に、一日も早い核兵器廃絶を願って製作、発行しました。」
 社説には訴えます。
惨状を前に、原子爆弾を投下した者に対する憎しみはわき起こる。しかし圧倒的な被害を前にして思う。憎悪による復讐は人類を滅ぼすことにつながるだけだ。この爆弾は、アメリカが日本に落としたものでなく、人類が人類に落とした兵器、そして歴史として刻まれるべきだ。
 私たちは、本日ここで起こっているできごとを多くの人に知らせなければならない。国境を越えて世界のあらゆる人々に知らせなければならない。時を超えて後の世のすべての人々にも広く知らせなければならない。
 死と破壊の惨状と、地獄の町に身を置いている者の体験を永遠に伝え続けていく。」



 日本政府は今年7月の核兵器禁止条約の採択に参加しませんでした。
 悲惨な体験はヒロシマ、ナガサキだけではまだ足りないのでしょうか。
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