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“微力だけども無力じゃない”
2018/08/28(Tue)
 8月28日 (火)

 8月25日、ナガサキから 「核廃絶」 を訴える高校生平和大使が国連に向かって出発したというニュースがありまいた。14都道府県の平和大使18人と福岡で合流し、高校生1万人署名活動実行委員会がこの1年で集めた10万8476筆 (そのうち海外で集められた署名1,523筆) の署名を28日にジュネーブの国連欧州本部に提出します。
 ジュネーブでは軍縮会議を傍聴、日本政府代表部主催のレセプションに出席、昨年のノーベル平和賞受賞団体 「核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN)」 の事務局なども訪問して31日に帰国します。

 高校生平和大使は1998年5月のインドおよびパキスタンによる核実験を契機に長崎の声を国連に届けるために派遣されました。それ以降も毎年国連に派遣されています。2001年からは世代をバトンタッチしながら高校生が集めた核兵器廃絶を求める署名を夏の国連軍縮会議にあわせて国連に代表が届けています。今年で18回です。
国連欧州本部に提出しています。
  署名を始めた当時は力になるのかの声もききました。しかし継続しました。その時のみんなの思いが “微力だけども無力じゃない” です。今は平和活動を行うときの合言葉となっています。原爆の恐ろしさと核兵器の廃絶をもう一度考えなおすきっかけづくりにもなっています。さらに県外の高校生の仲間も生まれました。大人たちを突き動かしています。
 これまでに集まった署名累計数は、1.785.688筆となりました。国連に展示されている唯一の署名として影響を与えています。
 “微力だけども無力じゃない” のフレーズは、8月9日の平和記念式典での長崎市長の平和宣言でも何度か引用されてます。核廃絶が実現するまでの長崎の合言葉になるようです。

 4月20日、高校生平和大使は、ノルウエーのノーベル委員会から、2018年のノーベル平和賞の候補に登録されたとの連絡がありました。330の候補があります。受賞者の発表は10月5日です。


 長崎に原爆が投下された8月9日早朝、長崎市松山町の爆心地公園では、「原爆落下中心地碑」 を高校生らが手をつないで囲む 「人間の鎖」 を作り、核兵器廃絶への決意を固めました。
 平和記念式典での長崎市長の平和宣言です。
「平和な世界の実現に向け、私たち1人ひとりに出来ることはたくさんあります。
 被爆地を訪れ、核兵器のおそろしさと歴史を知ることはその一つです。自分のまちの戦争体験を聴くことも大切なことです。体験は共有できなくても、平和への思いは共有できます。
 長崎で生まれた核兵器廃絶一万人署名活動は、高校生の発案で始まりました。若い世代の発想と行動力は新しい活動を生み出す力を持っています。
 折り鶴を折って爆心地に送り続けている人もいます。文化や風習の異なる国の人たちと交流することで、相互理解を深めることも平和につながります。自分の好きな音楽やスポーツを通して平和への思いを表現することもできます。市民社会こそ平和を生む基盤です。『戦争の文化』 ではなく 『平和の文化』 を、市民社会の力で世界中に広げていきましょう。」


 「核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN)」 については7月6日と1月20日の 「活動報告」 で触れました。
 昨年7月7日、国連で核兵器禁止条約が採択されました。しかし6月15日から続いた交渉会議にはアメリカ、ロシア、フランス、中国、そして日本の代表は欠席しました。
 参加していた松井広島市長の提案で、これらの国の机に持参してきた平和首長会議の関係者が折った折り鶴が置かれました。松井市長は日本の席には置きませんでした。すると出席していた広島県北広島町から参加していた被爆者のかたが 「市長が置かないなら私が」 と置きました。町役場の職員から預かってきた千羽鶴の一部です。折り鶴は無言の抗議をしています。
 条約は、国連参加国のうち122カ国の賛同を得て採択されました。
 それぞれの政府を突き動かすなどの原動力になったのがICANの運動です。
 ICANは昨年ノーベル賞受賞を受賞しました。核兵器禁止条約の採択とあわせて核を所有する各国政府に対峙して、「核兵器廃絶」 の市民の声が実現できるという新たな希望を与えてくれました。


 核兵器禁止条約に欠席した日本政府は10月、国連総会に核兵器廃絶決議案・ 「核兵器の全面的廃絶に向けた新たな決意の下での共同行動決議案」 を提出しました。1994年から毎年提出しています。
 一昨年は167カ国の賛成を得ました。しかし昨年は144カ国に減りました。一昨年賛成した国のうち14カ国が危険にまわり、危険だったイギリス、フランスが賛成に回りました。
 核兵器禁止条約をめぐって、条約を支持する非核保有国と、反対する核兵器保有国や核の傘に頼る同盟国との対立が強まったのが原因といわれます。

 アメリカ、イギリス、フランスが賛成する核兵器廃絶決議案とはどのようなものなのでしょうか。
 「核兵器なき世界の実現に向けたさまざまなアプローチに留意する」 の表現を新たに盛り込みましたが、核兵器禁止条約については明記しませんでした。また、北朝鮮による核実験や大陸間弾道ミサイル (ICBM) 発射に言及することで 「安全保障上の懸念に向き合わずに核軍縮だけを進めるのは非現実的」 と主張する核保有国や同盟国に配慮します。
 さらに昨年の決議にあった 「核兵器のあらゆる使用」 が壊滅的な人道上の結末をもたらすと明記していた文言から今年は 「あらゆる」 を削除しました。核兵器の非人道性の表現を弱めたことなどから、核保有国である米英仏の支持を得られました。
 核実験全面禁止条約 (CTBT) 発効の障害となっている米国など8カ国の未批准国に批准を要請する文言も表現が弱められ、核保有国に核軍縮の責務を課す核拡散防止条約 (NPT) 第6条への言及も削除されました。
 被爆国として核廃絶を訴えながらも、核禁条約に賛同しない日本の核政策は、整合性がありません。


 もう一度長崎市長の平和宣言です。
「1946年、創設されたばかりの国際連合は、核兵器など大量破壊兵器の廃絶を国連総会決議第1号としました。同じ年に公布された日本国憲法は、平和主義を揺るぎない柱の一つに据えました。広島・長崎が体験した原爆の惨禍とそれをもたらした戦争を、二度と繰り返さないという強い決意を示し、その実現を未来に託したのです。
 昨年、この決意を実現しようと訴え続けた国々と被爆者をはじめとする多くの人々の努 力が実り、国連で核兵器禁止条約が採択されました。そして、条約の採択に大きな貢献をした核兵器廃絶国際キャンペーン (ICAN) がノーベル平和賞を受賞しました。この二つの出来事は、地球上の多くの人々が、核兵器のない世界の実現を求め続けている証です。
 しかし、第二次世界大戦終結から73年がたった今も、世界には14450発の核弾頭が存在しています。しかも、核兵器は必要だと平然と主張し、核兵器を使って軍事力を強化しようとする動きが再び強まっていることに、被爆地は強い懸念を持っています。
 核兵器を持つ国々と核の傘に依存している国々のリーダーに訴えます。国連総会決議第 1号で核兵器の廃絶を目標とした決意を忘れないでください。そして50年前に核不拡散条 約 (NPT) で交わした「核軍縮に誠実に取り組む」という世界との約束を果たしてください。人類がもう一度被爆者を生む過ちを犯してしまう前に、核兵器に頼らない安全保障政策に転換することを強く求めます。
 そして世界の皆さん、核兵器禁止条約が一日も早く発効するよう、自分の国の政府と国 会に条約の署名と批准を求めてください。日本政府は、核兵器禁止条約に署名しない立場をとっています。それに対して今、300を超える地方議会が条約の署名と批准を求める声を上げています。日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます。」

 日本政府は、悲惨な体験はヒロシマ、ナガサキそしてフクシマだけではまだ足りないというのでしょうか。
高校生平和大使、ICANは若者たちが中心です。
「わたしたちは、想像することによって、共感することができます。」
 被爆者を証言をきき、その悲劇を繰り返さないための活動を続けています。
 今年の秋こそは、核兵器廃絶の運動がさらに進んで核兵器禁止条約が締結され、高校生平和大使がノーベル平和賞を受賞する吉報を待ちたいと思います。

 「活動報告」 2018.7.6
 「活動報告」 2018.1.20
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歴史を覆い隠す岡谷蚕糸博物館
2018/08/24(Fri)
 8月24日 (金)

 8月15日は終戦の日です。
 誘われて長野県諏訪湖の花火大会を観にいきました。「諏訪湖の花火大会は戦争で亡くなった人たちへの追悼の行事で、黙とうから始まるんだよ」 という誘い文句に惹かれました。
 明るいうちから確保した桟敷席で待ちます。
 暗くなると、黙とうのあと湖上から打ち上げが始まりました。轟音と色とりどりの光が豪華にコラボレーションします。
 光、音とも大小さまざまです。高く上るもの、低く横一列に連なるもの、しだれ柳を描きだすもの、瞬間に消えるもの、余韻を残すもの、遠くに聞こえる音、近くで迫ってくる音、光、音とも観客席が襲われるうように感じてしまうものなどがあります。最後には、湖面一杯に色とりどりの光が浮かび上がりました。

 轟音が、戦時中の爆撃と重なります。高くからの光と音は子どもを探しまわる母親の叫び声、低い横一列の光は集団で逃げ子どもたち、しだれ柳は街一帯が焼け出されている空襲や原爆の光景にも見えます。湖面に浮かび上がってくる光は、学童疎開の途中で沈められた対馬丸を連想させました。
 「生」 を希求していました。観客席に迫ってくる光と音に 「はやくこっちに逃げてこい」 と叫びたくなります。
 しばらくしたら、光と轟音は死者たちが 「自分たちの悲劇を忘れるな、繰り返すな」 と力いっぱい叫んでいるように聞こえてきました。忘れない、繰り返さないという思いを固めるとき、死者は静かに消えていくことができます。いつのまにか涙が出てきました。


 翌日、諏訪湖の対岸に位置する岡谷市を探索しました。
 岡谷市は明治維新以降、製糸工場で栄えました。日本は生糸を輸出して外貨を獲得し、兵器を購入して富国強兵を推し進めます。まさしく製糸工場の女工たちの下支えが戦争遂行を可能にしていました。しかしその労働条件は過酷そのものでした。

 岡谷、製糸工場というとすぐ思い出されるのが聞き取り調査のドキュメント・山本茂実著の 『あゝ野麦峠』 です。
 毎年2月になると、小学4年を終えた12歳の子どもたちの集団が飛騨地方から野麦峠をこえ、諏訪地方の製糸工場に働きに来ます。
 ドキュメントに政井みねが登場します。
 岐阜県吉城郡河合村角川生まれのみねは1903年 (明治36年) 2月、口減らしのため野麦峠を越えて信州の岡谷の製糸工場山安足立組で働くことになります。そこでは寄宿舎生活です。
 2018年2年2日の 「活動報告」 のコピーです。

 小島恒久著 『ドキュメント働く女性 百年のあゆみ』 (河出書房新社) からの引用です。
「『工場づとめは監獄づとめ』 といわれましたが、寄宿舎はまたそれにおとらずひどいところでした。女工の募集が遠隔地にひろがるにつれて、寄宿舎制度が普及し、1910年の調査では、紡績女工の66パーセント、製糸女工の86パーセントが寄宿舎に住んでいました。(石原修 『女工と結核』 による)。
 だが、この寄宿舎の実態は一般にきわめてお粗末なものでした。どくりつの家屋であればいいほうで、工場の建物の一部をさいたり、事務室の2階などがあてられたりしていました。『生糸職工事情』 はこうのべています。『ソノ設備ハ甚ダ不完全ナリト云ウノ外ナシ。各室ノ広サハ十畳乃至二十畳ナルモノ多ク、往々一室ニシテ、五、六十畳ナルモノアリ。大概一畳ニツキ工女一人ヲ容レ、工女二人ニ対シ寝具一組 (上下各一枚) ヲ給ス。室ニ押入モナク棚モナク、往々畳ニ代ウルニ莚ヲモッテシタル処モアリ、マタ避難設備モナキモノ多シ』。これでは身体を休めるどころか、まさに 『拘置所』 といったところです。」

「そもそも繊維資本が、寄宿舎の付設に力を入れたのは、女工に快適な宿舎を提供するというより、労働力を確保し、労務対策にそれを利用するところにねらいがありました。というのは、寄宿舎はまず女工の出勤督励に好都合です。長時間労働、とくに深夜業のばあいは、欠勤者が多く、必要労働力をなかなか確保できませんが、寄宿舎はその点、労働者をいやおうなしにかり出すのに便利でした。次に寄宿舎は、女工の移動や逃亡が頻発する 『状況』 のもとでは、それを防止する 『城砦』 の役割をはたしました。」


 13年2月5日の 「活動報告」 のコピーです。
 この当時、紡績工場の鐘紡では女工が他の工場に移動、逃亡するのを防ぎ、企業への帰属意識を高めて長く留まらせる方法として考え出します。労働意欲を刺激するために臨時物価手当、家族手当、勤続賞与、皆勤賞与などを支給。定着化がすすむと勤続の長さに応じた賃金体系を成立させます。さらに工場内に学校を開設します。「家族主義」、「温情主義」 の、いわゆる鐘紡的労務管理方式と呼ばれました。これが後の企業内組合に繋がっていきます。


 三年後、みねは 「百円工女」 と云われた模範工女になっていました。逆に、毎日の検査で一定基準に合格しない場合は給金から罰金が差引かれました。賃金格差はこの頃から始まりました。 
 1908年、アメリカに不況が訪れ、その影響は岡谷にも押し寄せます。倒産から逃れるには、国内向けの生糸を安く生産しなければならず、労働条件・環境は日増しに悪化します。
 1909年11月、みねが肺結核で倒れると実家に電報が打たれます。「ミネビョウキスグヒキトレ」
 兄の辰次郎が駆けつけます。そして衰弱しきったみねを背板に乗せ、みねがもときた野麦峠をこえます。
 兄の背中でみねがつぶやきます。「あ~、飛騨が見える、飛騨が見える」 そして息を引き取ります。実際にはまだ見えるところまで到達していませんでした。


 寄宿舎には外から鍵がかけられていました。
 しかし、過酷な労働にたえられなかった女工の逃亡は続きます。『あゝ野麦峠』 にも書かれていますが、諏訪湖に入水したり、鉄道に飛び込む女工があとを絶ちませんでした。「湖水に飛び込む工女の亡骸で諏訪湖が浅くなった」 といわれました。いまも諏訪湖畔にはその遺体が埋められた跡に乗せたと思われる石が見かけられるそうです。
 このような状況にあって、1926年、キリスト教関係の女性社会事業家は長野県諏訪湖畔に 「母の家」 を建て、自殺防止のために湖畔や線路わきに20数本の立札をたてながら巡回し、工女たちを絶望の淵から救う活動をつづけました。立札には 「ちょっとお待ち、思案に余らば母の家」 と書かれていました。今のJR岡谷駅近くの諏訪湖畔です。
 

 女工たちの状況は故郷にも伝わります。
 15年8月25日の 「活動報告」 のコピーです。
 歴史学者の中村政則の著作 『労働者と農民 -日本近代をささえた人々-』 (小学館ライブラリー)からです。
 第一次世界大戦前まで、新潟県魚沼地方は多雪地帯の山間僻地で、これといった副業もないため非常に多くの出稼ぎ婦女子を出していました。第一次世界大戦勃発を契機に近代的大産業が一大飛躍をとげたことにより地方の家内工業は急速に衰退します。そのためさらに出稼ぎ女工が急増します。最盛期の大正末期には北魚沼郡堀之内町から700人近い婦女子が県外に働きに出ていました。
 1916年、その出稼ぎ女工保護のため、堀之内町で北魚沼郡中部女工保護組合がつくられます。奔走したのは役場の書記・森山政吉です。
「戸籍を見るたびに、16歳から22、3歳の村の娘が結核でつぎつぎと死んでいくことがわかる。各工場の寄宿舎もみてまわったが、娘たちはみなせんべい布団にくるまって寝ているんです。これは結核になるのはあたりまえだと思った。それに工場は風紀が悪い。村内には私生児もふえてきた。結核と私生児、このまま放っておいたら村の将来はどうなるか。そう思うと、矢も楯もたまらなくなって、女工保護組合の結成にのりだしたのです。」
 組合長には村長が就任したが、女工およびその父兄、趣旨に賛同するものなど民間の有志が組合員になって自主的に作ったものです。
 目的は、(1) 帰郷中の女工に裁縫その他必要な科目をえらんで講習を行う 「特殊教養」、(2) 「健康診断」、(3) 「慰安会」、(4) 「慰問」、(5) 女工の疾病・死亡にたいし見舞金または弔慰金を贈る 「弔意」、(6) 女工各種の状態を調査する 「各種調査」、(7) 「視察」 などです。
 保護組合は、啓蒙活動に力を入れながら、「ふるさと通信」 を発行して女工たちを慰めたり、会社にかけあって待遇の改善などにつとめました。
 1926年 (大正15年) には、新潟県だけで76もの女工供給組合が出現しました。


  1927年ころ岡谷では200有余の工場に約4万人の製糸労働者が働いていました。
 3月、諏訪湖の近くの岡谷町にある山一林組製糸所で、日本労働総同盟加盟の全日本製糸労働組合が誕生します。
 組合結成後、女工たちは歌をうたいながら街をデモ行進します。

  朝に星を いただきて
  夕になおも 星迎う
  わが産業に つくす身に
  報われしもの 何なるぞ

  搾取のもとに 姉は逝き
  地下にて呪う 声をきく
  いたわし父母は 貧になく
  この不合理は 何なるぞ

  かくまでわれら 働けど
  製糸はなおも 虐げぬ
  悲しみ多き 乙女子や
  されどわれらに 正義あり

 会社に7項目の 「嘆願書」 を出します。その一は 「労働組合加入ノ自由ヲ認メテ下サイ」。七は 「従来の賃金ガ向上一般工場ヨリ非常ニ低廉ナルガ故ニ私共ノ生活ハ実ニ困難デアリマス 可憐ナ私共ノ為ニ左ニ記シマシタ賃金ヲ与エテ下サル様願イマス」 でした。

 労働者は寄宿舎にたてこもってストライキを続けます。会社は工場閉鎖します。
 ストライキ14日目、闘争本部は労働者を映画館につれ出します。そのすきに会社は寄宿舎を閉鎖します。
 労働者たちは闘争本部と 「母の家」 に分宿します。
 ストライキ19日目、女子労働者47人が踏みとどまっていましたが、再会を誓って故郷に帰ることとし、争議団は解散します。
 「声明書」 が出されます。
「・・・私どもの嘆願はかほどまでにあらゆる権力で迫害されなければならぬほどのものであったでしょうか。夜を日についで糸操る私どもの あのわずかな嘆願は、資本家と官憲が袋叩きせねばならぬものでしょうか。・・・私どもは泣きました。初めてこの社会の虚偽を深刻に知ったからであります。強きをくじき弱きを助くる日本人の義侠心は、少なくとも岡谷では滅びました。しかしながら私どもは屈しませぬ。いかに権力や金力が偉大でありましても、私どもは労働者の人格権を確立するまでひるまずたゆまずたたかいをつづけます。私どもは絶望しませぬ。・・・」


「森山政吉は、昭和2年 (1927年) の 『山一林組』 の争議や昭和5年 (1930年) の東洋モスリン争議のときには、わざわざ工場まで出向いて、村の娘たちを連れもどしたりもした。さらに昭和初期の大不況のときには、未払い賃金のとりもどしに奔走し、県下全組合で361件を解決させたこともあったという。
 このように女工保護組合は、よわい立場の女工や女工の父兄にかわって、女工の労働者としいての権利を守るために、さまざまな功績をのこしたのであった。骨ぬき工場法しかだせない日本政府の社会政策の貧困・欠落を、必死になって埋めようとしていたのは、じつにこのような地元の人の郷土愛に発する人道主義的善意だったので」 した。

 この後、女工の処遇は改善されます。


 岡谷蚕糸博物館を訪れました。製糸工場の技術面の変遷は見学できますが、明治期からそこで働いていた女工たちの姿には辿り着くことができません。
  ビデオでは、女工たちは夜は工場内の学校で勉強ができ、地域のさまざまな行事も楽しんだという聞き取り調査を映し出しますが、山一林組争議後の処遇か改善された以降の状況です。
 展示は 「大本営発表」 のようでした。大本営発表は事実を覆い隠し、人びとをだまします。そうするとまた犠牲者をだします。
 労働者の側からの歴史のとらえ返しは、経営者はもとより行政でもしょせん無理ということを実感させられました。

 山一林組製糸所の跡は今も残っています。

 「活動報告」 2018.2.2
 「活動報告」 2015.8.25
 「活動報告」 2013.2.5
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ILO総会で日本政府  「各国における実態を踏まえ、                                    取組みが可能となる枠組とするべき」
2018/08/21(Tue)
 8月21日 (火)

 3月23日、全国労働安全センター連絡会議は厚生労働省と意見交換をおこないました。項目は多岐にわたり、予定した3時間ではこなしきれませんでした。
 そこで8月3日、全国労働安全センターメンタルヘルス・ハラスメント対策局は、再度、意見交換をおこないました。事前に提出した 「要望書」 は、職場のパワーハラスメント防止対策、過重労働による健康障害の防止対策、ストレスチェック制度、精神障害の労災補償について、など多岐にわたりました。
 質問に対し厚労省がその場では回答できなかった項目については、後日文書等で回答を要請しました。その回答が8月17日に届きました。意見交換を、後日の文書回答を含めて報告します。


 ILO第107回総会が、5月28日から6月8日まで開催されました。メインテーマに 「職場における暴力とハラスメント」 です。
 16年、労働の世界における男女に対する暴力に関するILO専門家会合の参加者らは、18年6月の国際労働会議において議論される暴力に関する基準設定課題についての手引きを策定するにあたって宣言 (「報告書Ⅰ」) を想起しました。仕事の世界における暴力とハラスメントの現状を、その内容、関係者、発生場所、影響、推進要素、リスク要因、危険度が特に高い職種や集団などの切り口から解説し、国際・国内の取り組みをまとめたものです。
 ILOは、18年総会準備のために宣言と一緒の各国に質問事項を送付し、17年9月22日までに、もっとも代表的な使用者・労働者組織と協議のうえ見解を提出することを要求しました。日本でも、政府、経団連、連合などが提出しています。
 質問事項への加盟国政労使の見解を記し、要約およびコメントを付した議論のための 「報告書Ⅱ」 では、日本政府の条約制定にたいする見解は 「YES」 でした。しかし 「当該条約では、各締結国が仕事の世界におけるあらゆる形態の暴力およびハラスメント、とりわけあらゆる形態のジェンダーに基づく暴力を禁止す国内法を定めるべきであると規定すべきか?」 には 「O(other その他)」 の回答でした。
 総会での議論はその意見等を集約した 「報告書」 を基調にすすめられました。

 これを踏まえ、対策局は 「日本政府は、総会に向けてどのような意見書を提出し、総会ではどのような報告をしたのか公表すること。特に、意見書で『当該条約では、各締結国が仕事の世界におけるあらゆる形態の暴力およびハラスメント、とりわけあらゆる形態のジェンダーに基づく暴力を禁止す国内法、とりわけあらゆる形態のジェンダーに基づく暴力を禁止す国内法令を定めるべきであると規定すべきか?』 の質問に回答しなかった理由を明らかにすること」 を要請しました。

 厚労省は、ILOに対する意見書や発言についてはこれまでも公開していないと回答しました。また国内法令を定めるべきであると規定すべきかには回答しなかったのではなく、ILOが回答内容をきちんと受け止めなかったと回答しました。
 対策局は、ILOには政労使による 「三者構成原則」 がある、政府の意見等が労働者に明らかにされないのはその原則を逸脱することになると主張しました。総会を傍聴すれば情報は取得できるというものではなく、労働者が知るには多くの困難を伴う、政府は労働者に日本語での情報を提供するよう持ち帰って検討してほしいと要請しました。(奇しくも 「三者構成原則」 は今回のILO総会のテーマの1つになっていました)

 後日、回答が届きました。「本文書について、一律に公表しないとの決定が行われたということはございませんので、必要に応じて判断させていただきたいと考えております。」 という添え書きとともに、日本政府が事前質問票に対して提出した文書が届けられました。  
 「Ⅱ. 前文」 の 「5.1通または複数通の法律文書の前文は、ジェンダーに基づく暴力を含む暴力およびハラスメントの存在しない仕事の世界に対する万人の権利を宣明するべきか?」 への回答です。
「職場における暴力・ハラスメントは、働く人の個人としての尊厳を不当に傷つける許されない行為であり、働く人が能力を十分に発揮することの妨げにもなる。また、企業にとっても、場秩序の乱れや業務への支障につながり、社会的評価に悪影響を与えかねない問題である。
 ただし、『暴力』 や 『ハラスメント』 は、事案ごと(暴力やハラスメントの受け手ごと等)に様々であり、これらの行為に対して何らかの措置の対象に位置付けるに当たっては、暴力およびハラスメントの内容・範囲が措置それぞれに応じて画されることが必要であると考える。
 さらに、各国における実態を踏まえ、効果的な暴力およびハラスメント防止の取組みが可能となるような枠組とするべきと考える。」
 この回答が日本政府の見解・総会での討論の基調になっています。

 後日届いた回答では、日本政府は事前質問書の 「国際法律文書の形式」 についての 「1. 国際労働機関 (ILO) 総会は、仕事の世界における暴力およびハラスメントに関して、1通構成または複数通構成のいずれの法律文書を作成するべきか?」 について 「はい。仕事の世界における暴力やハラスメントのあり方と課題は、各国の産業、文化、非公式経済の割合、労働法と刑法の規定範囲などにより様々であると考えられる。そのため、いずれの国においても対処すべき共通の課題が認識されるのであれば、文書を作成することは有効と考えられる (我々は1本の文書で十分であると考える)。」 と回答しています。
 そして 「2.その場合、法律文書は、以下いずれの形式をとるべきか? (a) 条約 (b) 勧告 (c) 勧告により補足される条約-2通の別々の法律文書または拘束規定と非拘束規定を含む1通の法律文書として」 については 「(b) 暴力及びハラスメントという事案の多様性を踏まえると、各国の国内政策を進めるための指針となる勧告がより実効性が高いと考えられる。」 と回答しています。


 ILO総会についてです。
 加盟国の事前の見解においては、ハラスメントを規制するは60か国でした。しかし日本政府は、「各国の体力を踏まえれば勧告がふさわしい。条約を策定する場合には柔軟性をもった枠組み条約が適当」 と主張しました。使用者側代表は、「各加盟国が国内法との整合性を確保しながら実施できるよう、柔軟な枠組みとすることが求められる。」 と主張しました。つまりは規定には措置等は必要ないという意見です。
 総会では、修正案は政労使からあわせて307本が提出されました。政府側からは191本提出されましたがそのうち32本が日本政府でした。

 最終的には、〈文書の形式〉 は「仕事の世界における暴力及びハラスメントに関する基準を採択すべきである」 としたうえで 「勧告により補完される条約」 とすることが採択されました。
 〈定義及び範囲〉 については、・身体的、精神的、性的または経済的損害を引き起こすことを目的とした、又は結果を招くもしくはその可能性がある一定の許容できない行為及び慣習又はその脅威と解されるべきであって、ジェンダーに基づくハラスメントを含む ・ジェンダーに基づくハラスメントは、性もしくはジェンダーを理由に人に対して行なわれる暴力及びハラスメント、又は特定の性もしくはジェンダーの人に不均等に影響する暴力及びハラスメントと解されるべきであって、セクシャルハラスメントを含む ・仕事の世界における暴力及びハラスメントの被害者及び加害者は、使用者、労働者、それぞれの代表者及び第三者 (依頼人、顧客、サービス提供者、ユーザー、患者及び公衆を含む) がなり得る、などが採択されました。
 〈条約の主な内容〉 では 【しごとにおける基本的原則及び権利並びに保護】 として ・各加盟国は、ジェンダーに基づく暴力及びハラスメントを含む、仕事の世界における暴力及びハラスメントを禁止するための国内法を導入すべきである ・各加盟国は、女性労働者並びに仕事の世界において暴力及びハラスメントによって不均等に影響を受ける一又は二以上の脆弱なグループ又は脆弱なグループに置かれているグループに属する労働者を含む、すべての労働者の平等及び無差別の権利を確保する法令及び政策を導入すべきである、が明記されました。
 今回、勧告内容についてすべてを議論できませんでした。
 日本政府は、職場のいじめ防止対策への取り組みは消極的です。そのようななかでたくさんの労働者が被害に遭っていることを直視する必要があります。
 来年のILO総会は、第二回目の討論が行われます。労働者の人権、人格権・尊厳を守るために日本政府の姿勢を転換させる運動を進めていかなければなりません。


 厚生労働省との意見交換です。
 3月30日、厚生労働省は「職場のパワーハラスメント防止対策についての検討会報告書」を公表しました。そこでは防止対策として措置義務に至らなかった理由のなかに、中小企業での実行が困難などがあげられています。
 これについて対策局は「例えばセクシャルハラスメントについて、中小企業だからという理由で現行法の措置義務を果たすことができない理由などないと考えるが、なぜパワーハラスメント防止については、中小企業では支援がないと可能ではないと考えるのか説明すること。」を要請しました。
 厚労省は回答することができませんでした。ハラスメントが発生する原因は企業の規模ではなく、経営者の理念です。「中小企業」は、大企業等がやりたくないことを言いわけする隠れ蓑です。

 「昨年発表された過労死等調査研究センターが行った労災請求事案のデータベースの分析について、過重労働疾患の労災認定状況の改善のために、データを活用すること。」を要請しました。
 後日、文書で回答がありました。
「労働基準監督署においては、医学的知見を踏まえ策定された災認認定基準に基づき、事業主が有する記録だけでなく、 同僚など関係者からの証言等様々な情報を基に総合的かつ適切に業務上外の判断を行っているもと考えている。
 御指摘のデータベースは、わが国における過労死等の防止のため対策に資することを念頭に置いて分析を行っているものと承知しており、直ちに労災補償業務に活用できるものとは考えていない。」
 同じ省内でもタテ型行政は解除されず、資料は作成することが目的になっています。総合的に、有機的に活用することではじめて本質に迫る対策ができます。
 

 日本の労働行政には、労働者に対する人権保護、権利保障、尊厳・名誉の尊重が希薄です。また多くの労働組合の姿勢も同じです。その中で労働者へのこれらの攻撃は際限なく続けられています。
 労働者はみずから人権、権利、尊厳・名誉の声をあげ、獲得するための闘いは急務です。その闘いで、世界の労働者の闘いに合流し、日本政府、労働組合を追い詰めていかなければなりません。

 「活動報告」 2018.6.5
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「下請けいじめ」を放置している公正取引委員会と経済産業省、国土交通省
2018/08/10(Fri)
 8月10日 (金)

 10日の各報道機関は、総務省が政策評価結果として公正取引委員会と経済産業省、国土交通省に対して、「下請いじめ」 について改善を求める勧告を出したと報じました。
 発注元が下請け業者に代金値引きや遅延などの禁止された行為を不当に迫る下請いじめについて、公正取引委員会、経済産業省は下請法、国土交通省は、建設業法で指導権限を持っています。
 公正取引においては、自己の取引上の地位が相手方に優越している一方の当事者が、取引の相手方に対し、その地位を利用して、正常な商慣習に照らし不当に不利益を与える行為は 「優越的地位の濫用」 として独占禁止法によって不公正な取引方法の一類型として禁止されています。下請法は独占禁止法を補助するために制定された、親事業者の下請事業者に対する取引を公正にし、下請事業者の利益を保護するための法律です。買いたたき、支払い遅延、役務提供などが該当します。

  総務省行政評価局が昨年11~12月に実施した調査では、全国の製造業と建設業の下請け業者計2.701社のうち、下請法や建設業法について70%が禁止行為を十分に理解しておらず、国などが法律の講習会を開催していることについては63%が 「知らない」 と回答しました。
 法規制は機能していないという実態が明らかにされました。

 製造業と建設業の下請け業者計2.131社への調査では、製造業で285社 (26.9%)、建設業464社 (43.4%) が2013年度以降に下請法で禁止されている 「下請けいじめ」 を経験したと回答しました。
 意識調査では、製造業では 「あまり減っていない」 「まったく減っていない」 が合わせて21.4%、建設業では24.7%でした。
 749社のうち、国などの相談窓口を利用したのは22社で、うち11社は 「問題解決につながらなかった」 と答えました。相談すると報復を受けるのではという危惧を抱いているとも回答しているとしています。
 建設業の下請け業者から10都道府県と7つの地方整備局が受けた相談191件を調べたところ、発注元に指導が行われたのは17件で、うち15件は指導後に改善されたかどうか確認していませんでした。

 公正取引委員会がおこなった下請法違反で指導した件数は2012年度4000年代半ば、2013年度4000件後半、2014年度5000件半ば、15年度6000件と増加し、2016年度は6,302件と過去最多を記録しています。
 また、中小企業庁が全都道府県に設置する 「下請かけこみ寺」 では、下請法違反の可能性がある相談は、相談者の意向に応じて指導権限を持つ部署に取り次ぐことになっています。しかし、今回調べた12カ所の7カ所ではそうした意向確認をしていませんでした。
 このことをふまえ、中小企業庁は2017年度4月に専門の調査チーム・「下請けGメン」を発足させました。

 これらの実態は、公正取引委員会と経済産業省、国土交通省においては下請けいじめという問題は放置し、それよりも親企業といわれる企業だけの利益追求を容認してきたといえます。
 犠牲になっているのは下請け企業、そこで働く労働者、そしてさらに末端で働いている労働者です。

 昨年7月、公正取引委員会の指導件数が増加しているということが報道されると、9月19日の朝日新聞は 「無理な発注・時間外の会議『控えます』 経団連など宣言」 の見出し記事を載せました。

 経団連は全国の経済団体と連名で19日、下請けいじめや深夜の労働につながる旧弊や商慣行の是正に取り組むことを内容とした 「共同宣言」 を発表した。今後は加盟企業に残業につながる無理な発注や勤務時間外の会議を控えるよう促していくという。
 共同宣言は、長時間労働につながる納期が短い発注や急な仕様変更を 「非効率な商慣行」 として問題視。労働基準法が決めたルールを守り、取引先にも違反させない配慮を経営者に求めた。短い納期や追加発注が必要になった際はサービスに見合う価格で契約することなども求めている。
 経済同友会や日本商工会議所のほか、全国銀行協会や日本建設業連合会、全日本トラック協会など計110団体が加わったが、呼びかけに応じなかったり 「参加できない」 と回答したりした団体もあったという。

 「長時間労働 『させません』 宣言」
①関係法令・ルールの順守に加え、取引先が労働基準関連法令に違反しないよう、配慮する。
②発注内容があいまいな契約を結ばないよう、契約条件(発注業務・納期・価格など)の明示を
 徹底する。
③契約時の適正な納期の設定に加え、仕様変更・追加発注を行った場合の納期の見直しなど
 に適切に対応する。
④取引先の休日労働や深夜労働につながる納品など、不要不急の時間・曜日指定による
 発注は控える。
⑤取引先の営業時間外の打ち合わせや電話は極力控える。
⑥短納期・追加発注・高品質など、サービスの価値に見合う適正な価格で契約・取引する。


 「働きかた改革」 の議論が本格化する中で労働時間の短縮につながるといいたかったのでしょうか。
 しかしこれまでも、時間短縮などの改革は親会社のためのものであって、逆にそのしわ寄せは下請け会社に押し寄せて長時間労働をもたらし、さらに連鎖している指摘されています。
 明らかに上下関係があり、力関係の優位性が違うなかにあって本当に効果をもたらすためには、法律や業界の宣言で終わらせるのではなく、親会社・子会社などの労働時間、可能な納期期限の厳守などの協約締結と監視機関、違反した場合の申告機関と公表、営業停止など罰則規定などの厳格化などによる担保が必要です。そしてこれらを社会運動として展開し、違反企業に対しては社会的制裁を課すことなどにより効果をあげることが必要です。


 「優越的地位の濫用」 について、少し古くなるが、渡邉正祐・林克明著 『トヨタの闇』 (筑摩書房 2010年) からです。
 デンソーにとってはトヨタは最大の得意先です。
「あるとき会議があり、(デンソーから出向している) 私とは別のデンソーの社員が不具合について報告したことがあります。それは金曜日の午後4じから5時くらい、定時に近い時刻のことでした。(トヨタ社員の) Aさんは、追加データを要求しました。金曜日でもうすぐ就業時刻だというのに。
 そのデンソー担当者は、『その追加報告は水曜日ぐらいでいいですか?」 と言いました。するとAさんは 「なに言ってるんですか。土日があるでしょ。月曜日報告しなさい」 と言い放ったのです。
 金曜日の定時にですよ。土日だって休んだり、家庭のこともある。何も月曜日に報告しなくてもいいはずです。でも、『そんな無茶をいうな』 と言う人は誰もいません。逆らったら大変ですからね。
 こういうとき、私たちのデンソーの上司も社員をかばうことなしに、トヨタの社員の言うことを全部そのまま聞き入れます。トヨタ社員が上で、デンソーの上司は下。イエスマンです。非常に弱い立場です。トヨタの社員に命令されるとそのまま聞きますが、デンソーの上司がやるわけではなく、その部下であるわれわれが実際の命令された仕事をするのですよ。」

「私たち出向者はデンソーの社員なのですから、デンソーの上司だって残業管理とか業務管理などをやらなければなりません。ところが、私たち出向中のデンソー社員は、トヨタの上司によってトヨタ社員とまったく同じように労務管理されるわけです。そして業務上の細かな内容までトヨタの上司に指導・命令されます。
 つまりトヨタは、人件費は一切支払わずに他社の社員の一切の管理をするのです。いくら残業させてもトヨタが残業代を支払うわけではないので、まったく自分たちの懐は痛まない。」
 このような中で、精神的不調に陥り、かなりの休職者が出ているといいます。
 今でも状況は大きく変わっていないと思われます。
 経団連等に加盟し役員を出していますが 「長時間労働 『させません』 宣言」 のすべての項目に該当します。


 昨年7月11日のNHKが放映したクローズアップ現代です。
 愛知県で下請け企業6,000社がひしめく自動車メーカーの関連下請けを取り上げました。アベノミクスによる円安や株価の上昇などで、大手自動車メーカーの経常利益率は2015年度、9.3%と、リーマンショック前の水準を上回っています。
 下請けGメンの調査に、2次下請けの部品加工会社が業界全体の取り引き改善につながればと取材に応じました。
 以前は1次下請けである親事業者と好景気には利益を分かち合い、不景気には効率化を共に探るなど関係は良好だったといいます。「昔は(話し合いが)あったんですよ。でも今はもう (書類で) ぱさっと、(値下げの) 数字になっちゃってて。」
 アベノミクスによる円安で、大手自動車メーカーと多くの1次下請けは業績を大幅に回復しましたが、2次下請けのこの会社には、今も毎年1%の値下げが要求され続けています。
 自動車部品加工会社 「円安になったら戻るかなって期待も少しはあったんです。」
 中小企業庁下請けGメン 「円安になったから価格引き上げの回答という話はまったく出てこない?」
自動車部品加工会社社長 「まったくないです。(値下げに) 協力しないと仕事をもらえないというふうに捉える面もあります。」
中小企業庁 下請けGメン 「そういう怖さがある?」
自動車部品加工会社社長 「「怖いですね、それは。そうすると少しでも(値下げ)やったほうがいいですかというふうになりますね。」
 長年、親事業者の厳しい要求に応える中、売り上げはここ数年で大きく減少。赤字傾向にあります。最終的には社員の給与も抑えましたが、それも限界だといいます。

 では大企業の利益はどこに使われているのでしょうか。製造業では社員の賃上げが31.7%、利益を社内に蓄える内部留保が25%、そして海外の投資が20.3%を占めています。下請けなどへの取り引きの改善には、僅か2%しか使われていませんでした。


 トヨタにとって経団連は、法律、規制は遵守しないための露払いです。そして関係省庁は迎合しています。
 トヨタはジャスト・イン・タイムを標榜しています。しかしそのウエアでは下請け、末端企業のオールタイム待機と道路が倉庫の構造があります。

 このようなことにメスを入れない 「働きかた改革」 は誰のためのものなのでしょうか。

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天を撃つな 戦雲を射て  人を撃つな 戦禍を射て
2018/08/07(Tue)
 8月7日(火)

 8月6日の毎日新聞に 「広島原爆の日 父の悲しみ、語り継ぐ 『伸ちゃんの三輪車』」 の見出し記事が載りました。
 原爆資料館に展示されているあの 「伸ちゃんの三輪車」 です。
「被爆2世として決意
 毎朝小さな地蔵に手を合わせる父の背中が、日常の風景だった。広島市中区の原爆資料館で多くの来館者の心を揺さぶる 『伸 (しん) ちゃんの三輪車』。被爆死した我が子を三輪車とともに自宅の庭に埋めた故・鉄谷信男さんの深い愛情と悲しみを伝える代表的な遺品だ。戦後生まれた三男の敏則さん (69) は、多くを語らなかった信男さんが地蔵の前で毎日つらい記憶と向き合っていたと後に気付いた。『被爆2世として父を語り継ぐ』。73回目の夏、新たな決意をした。
 信男さんはあの日、爆心地から1.5キロの薬局を営んでいた自宅で家族と被爆。3人の子供を失った。自宅前で三輪車で遊んでいた長男、伸一ちゃん (当時3歳) はやけどで顔がはれあがり、『水、水』 とうめきながらその夜に死亡。翌日には焼け跡から長女路子 (みちこ) さん (同7歳)、次女洋子ちゃん (同1歳) の遺骨が見つかった。信男さんは伸一ちゃんを火葬する気になれず、一緒に遊んでいて亡くなった近所の女の子と手をつながせ、大好きだった三輪車と一緒に庭に埋めた。そこに 『伸一に似ている』 という小さな地蔵を置いて、毎朝線香を立てて手を合わせるようになった。
 被爆から40年の1985年7月、信男さんは自宅の建て替えを機に伸一ちゃんを掘り起こそうと決め、親戚や一緒に埋葬した女の子の母親ら十数人が庭に集まった。敏則さんらが50センチぐらい掘ると、三輪車のハンドルが見つかり、さらに掘ると、白い骨が出てきた。丁寧に土を払っていくと、手を重ねたままの2人の姿があった。小さな指先、頭蓋骨 (ずがいこつ) もほぼ残っていた。敏則さんは驚いたが、『父は取り乱すことなく静かに見ていた』。遺骨は墓に移し、三輪車は原爆資料館に寄贈した。
 信男さんは三輪車の展示を機にメディアの取材も受けるようになったが、敏則さんら家族に被爆当時や伸一ちゃんについて語ることは一貫してなかった。幼い敏則さんが伸一ちゃんを埋めた場所のそばを走り回っても怒らず、地蔵に拝めとも言わなかった。強く印象に残っているのは朝食前、庭先で地蔵に静かに向かい合う父の姿だ。遺骨を掘り起こした後もやめず、98年に亡くなるまで続けた。
 『あまりに当たり前の風景だったので、何となく始めた』 とその後は敏則さんが引き継いだ。毎日手を合わせるうちに、気付いた。『毎日地蔵の前に行くことは、毎日子供を失ったあの時を思い出すということ。私なら耐えられないが、どんなにつらくても忘れたくなかったのだろう』
 70歳が近づき、メディアなどを通してしか知らなかった父の体験や思いを自分でたどりたいと考え、書き残したものや記録を探し始めた。6日朝もいつものように手を合わせた敏則さんは 『それぞれの家庭に被爆体験の伝え方がある。うちは父が背中で、ごく自然に忘れてはいけないと教えてくれた』。父の姿を子や孫たちに伝えることが、自分の役割だと思っている。」


 2012年8月3日の 「活動報告」 の再録です。
 1996年8月6日、広島市主催の原爆慰霊祈念式典のあと、国鉄労働組合が建立した 「国鉄原爆慰霊の碑」 が建つ東白島公園に向かいました。10時半から国労主催の慰霊式典が開催されます。
 碑文です。

  天を撃つな
  戦雲を射て
  人を撃つな
  戦禍を射て
   原爆広島に眠る
   無名の霊よ
   国鉄の魂よ
   霊の目はみつめ
   魂の手はつかむ
   平和と未来を

 なっぱ服を着た青年労働者たちが 『機関車のうた』 を合唱しました。

 1.朝日を浴び 夕日を受けて
   地平線を切り開き走る
   ほどばしる汗の中に
   親父の顔がのぞく
   青い旗 赤い旗
   油まみれの黒い旗
   長い歴史を刻み込んで走り続けた
   *あの日 焼け跡の中から
    一番列車を走らせた俺たち
    それは使命 それは愛
    俺たちは機関車 俺たちは機関車
 2.星空の夜も 夜明けに向けて
   暮らし運ぶ 機関車走る
   ほどばしる汗の中の
   おふくろの顔がのぞく
   こみあげるこの思い
   悲しみこらえ 走らせる
   ふるさと愛する心で 走り続けた
   * (くりかえし)
 
   鉄路は誰のもの ふるさとは誰のもの
   涙を怒りに変えよう
   涙を怒りに変えよう
   友よ闘おう 友よ闘おう
   町から町 海から山 国中の大地から
   ひたむきに走れ機関車
   号笛よ響け 鉄路よ歌え あー

 1945年8月6日午前8時15分、爆心地から北東に約1.5キロ離れている東白島公園の北側、京橋川にかかる饒津鉄橋を通過していた貨物車両は脱線、枕木は燃えました。しかし鉄道に従事するものたちの使命感で2日後の15時30分に復旧させ、汽笛を鳴らしなら被災者を乗せた客車を郊外に走らせました。
 「復旧1号列車」 の汽笛は広島の人達に、廃墟の中から立ち上がる勇気をあたえました。まさしく出発の合図です。その汽笛を聞いた、後に全逓信労働組合の結成に参加する山下寛治さんが短歌に詠んでいます。
   けんせつの 一歩の汽笛 なるなべに
     鉄道建設義勇戦闘隊あり
 東白島公園は川から引き揚げた遺体の焼き場となっていました。
 饒津鉄橋を走るとき、荼毘の煙りに、列車の煙りが混ざり合い、天に昇っていきました。

 『機関車のうた』 は、国労横浜・鶴見車掌区分会で、職場の被爆者の先輩からそのときの状況と体験談を聞いた青年労働者が作ったものです。先輩は 「お前らは絶対に弾丸を運ぶなよ」 と涙を流しながら訴えたといいます。その意志をうけつぎました。

 夕方、原爆資料館に行きました。
 「信ちゃんの三輪車」 の前で、婦人がかがみ込んで泣いていました。手に 「東白島町内会盆踊りまつり」 と印刷されたうちわを持っています。信ちゃんも東白島町に住んでいたということは知っていましたが東白島町内会というのも気になり話しかけました。婦人は信ちゃんの家の隣に住んでいる方でした。お母さんは三輪車を見たくないと資料館には一度も足を運ばないといいます。隣の老夫婦はお母さんには黙って命日には三輪車に会いにきていました。
 ・・・
 「東白島町内会って国鉄原爆慰霊の碑があるところですよね」 というと連れ合いの方は 「午前中、おれは式典に出席した」 と答えました。「僕も出席しました」。しばらく会話を交わした後 「またいつか、もっと詳しく話を聞かせてください」 とお願いすると 「いいよ」 といって住所と名前を教えてくれました。
 帰りぎわ婦人は、「広島は暑いから使って」 とうちわをくれました。今も大事に飾っています。
 東白島町内会の盆踊りは、町内で原爆の犠牲者になった方だけでなく、川から引き揚げられた人たち、そして鉄道に従事していて犠牲になった人たちをも弔っているとのことでした。

 その後、機会を作って広島に行き、老夫婦の家を2回ほど訪問しました。そしてたくさん話を聞きかせてもらいました。
 被爆25年目に、国労は慰霊碑を建立することを決定します。しかし平和公園や方々から断られました。その中で北側を一番列車が走った東白島公園の案がうかび、町内会にお願いしたら快く了承されました。町内会はその後は、公園の清掃と一緒に碑の掃除、碑を囲むように国労の各地方本部が植樹をした樹木の手入れを定期的にしてくれています。
 「どうしてそこまですることになったんですか」。ぶしつけにうかがいました。「国鉄の皆さんにお世話になったから」 ということでした。
 町内会のひとたちは、公園の掃除の時には鉄道の保線係の人たちと顔を合わせて親しくなりました。公園の掃除用具やお祭り用の太鼓など町内会の所有物を個人宅で管理していました。
 ある時 「掃除用具などの管理が不便だ」 ともらすと、保線係がコンテナを持ってきて設置してくれたといいます。町内会は助かりました。それから関係は深まりました。
 「信ちゃんのお父さんは町内会のまとめ役で、平和運動にも積極的な方でした」。もしかしたら碑を建立したいとお願いした時に、承諾する方向で町内会をまとめたのはお父さんだったのかも知れません。
 台風で碑の周りの樹木が折れて三角錐の碑のてっぺんを傷ついたことがありました。発見した町内会の方が広島鉄道局に報告し、鉄道局が国労に連絡して修理が行われたということもあったといいます。

 鉄道労働者と町内会、労働組合と住民の交流がありました。
 しかし、「鉄道が高いところを走るようになると鉄道と鉄道労働者は住民を置き去りにして高いところに移った」 と笑っていました。


 広島の惨事を聞いて、県内だけでなく周辺の県からも応援部隊がかけつけ復旧作業、被災者の運送に従事しました。鉄道に従事した者たちの使命感が、生き延びたたくさんの人たちの命を救いました。
 残留放射能をあびていました。今でこそ放射能の影響は知られていますが、当時は想像もできないことでした。

 「国鉄原爆慰霊の碑」 には300人近くの犠牲者が眠っています。
 そのなかの鉄道教習所の生徒たちはいずれも20歳以下、その多くは15歳から17歳の少年たちでした。生徒たちは、昼夜をわかたず救助活動、復旧活動に専心しました。
 その仲間たちに生き残った労働者が誓いました。

  『芽だち』21

    峡 草夫 

  3人写っている中で
  真中に威張っているのが 生きている俺
  右と左にかわいらしいくるくる頭で立っているのが
  死んだ2人の友
  まだ20前の俺を挟んで
  懸命にすましこんでいる
  俺より4つ年下の2人の友
  1945年春の写真。
  その1945年に2人は死んだ
  1人は8月9日に
  1人は10日後に。
  8月9日に死んだ1人を
  10日後に死んだ1人が
  泣きながらかついで来た8月9日。

  親もとにいて徴用されるよりましだろうと
  まだのびきっていない柔らかな手を
  懸命に力ませながら
  機関車の掃除をしていた2人。
  300キロもはなれた親もとに
  毎日手紙を書いていた
  まだ数え年16歳だった彼ら。
  弾丸と兵隊ばかりを牽いて
  地ひびきを立てて走っていた機関車
  徴用がこわいばっかりに その機関車を磨いていた
  かわいらしいくるくる坊主頭の2人。

  8月9日に死んだ1人を
  10日後に死んだ1人と俺が
  呆うけたようにうろうろと
  運んで焼いた屍の街
  そして
  10日後に死んだ1人を 俺1人が
  よろよろと運んで焼いた
  灰色の街。
  1945年の写真。
  1945年に死んだ 俺より4つ年下の写真。
  彼らを俺が焼いた 屍の街の灰色の記憶
  俺が焼いた 彼らの骨の色のような
  灰色の記憶。
  しかし さようなら 俺より4つ年下の
  写真の中の2人
  俺はお前たちに
  俺の「決心」をおくろう
  それは
  お前たちを殺した灰色のような
  その記憶をくり返さぬためにする
  俺の唯一つの決心。
  さようなら
  2人の俺の友だち
      (1954・8)

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