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規制は労働者の生活を守るためのもの
2017/12/26(Tue)
 12月26日 (火)

 全労働省労働組合から 「季刊労働行政研究」 17.11号が贈られてきました。その中に 「労働基準監督官座談会~真に求められる 『働き方改革』 は何か~」 が載っていました。
 政府主導で 「働き方改革」 が進められているなかで、労働行政の第一線で活躍する労働基準監督官が労働時間問題や労使関係の変遷、今労働現場で何が起きているかなどについて座談会形式で明らかにしました。その抜粋です。

○労働時間を巡る問題の変化 についてです。
A (ベテラン監督官) 私が入省した当時 (1980年代後半) も労働時間をめぐる問題はあ
 ったが、行政の中で過重労働の対策はそれほどウェイトはなかった。……ただし一部の業種を
 除き女性労働者の深夜労働が禁止されており、その違反は重視されていた。一部の使用者は女
 性労働者の深夜業務を隠そうと、二重の帳簿を作るなどしていたが、時間外労働手当や深夜労
 働手当は支払っている場合が多かった。手当を支払わずに長時間労働を行なわせるということ
 は少なかったように思う。
  かつては、使用者に労働者に対する一種の公的な責任感があったからではないか。現在はそ
 うした 「旦那衆」 的な意識が薄れ、社会に貢献するというより、「自分さえ儲かればよい」
 という意識が強くなっていないか。企業が地域の中で役割を果たすという意識も薄くなってき
 ている。
C (若手監督官) 使用者の姿勢として、法律ギリギリで法律に引っかからなければ何をして
 もいいという感覚がひろがっているように感じる。使用者から 「(法律上) クロと言えるか
 どうかを言え」 と言われることがよくある。監督官は法律を 「武器」 に仕事をするので、法
 律違反か否かということは基本であるが、使用者による法令ギリギリで構わないという姿勢
 の下で労働者が苦しんでいる姿が見える。

 「過労死」 の言葉が初めて登場するのは78年です。そして過労死はサービス残業とセットになっていきます。95年に成果主義賃金制度が導入されます。
 「使用者に労働者に対する一種の公的な責任感」 は労働者の保護という発想で、家族を含めた生活・生活時間にもおよびました。
 しかし昨今は、さらに使用者に対する 「物言う株主 」 の発言も大きくなっています。より多くの利益を株主に配当するため、労働者が犠牲になっています。労働者も、会社にしがみつく 「物言わぬ労働者」 になっています。


○労使関係の変化と腹らきづらさ について
司会 厚労省が毎年6月に公表している個別労働紛争解決制度の施行状況のなかで、「民事上の
 個別労働紛争」 の 「主な相談内容」 の件数を見ると、最近10年では 「解雇」 の割合が減
 少する一方、「いじめ・嫌がらせ」 の割合が10ポイント以上増加している。この点も、労使
 関係が変貌してきたことの表れではないだろうか。
D (中堅監督官) 今は、「いじめ・嫌がらせ」 が発端になり、監督署への相談につながるケー
 スが多いと思う。自己都合退職などのケースも、「いじめ・嫌がらせ」 が関係している場合が
 多い。労使の良好な関係があれば表面化しない法令違反も、「いじめ・嫌がらせ」 などをき
 っかけに表面化することが多い。
C 労使の力関係の変化も影響しているのではないか。労使間の問題も、労働者自らが使用者に
 申し立て、修復ができれば大事には至らない。それが、自分では直接使用者に言えず、名前も
 出せない、という相談が増えている。使用者側の力が増しているのか、労働者の個別化や孤立
 化が進んでいるのか、労働者がみんなで解決するという回路が失われているのではないか。
 その結果、企業全体の問題を労働者個人が監督署に持ち込むということもある。
F (ベテラン監督官) 労働組合の組織率低下は、その原因でもあり、結果でもあるだろう。
 いずれにしても、労働者にとって働きづらい環境が広がっているのではないか。

 労働組合への相談も同じような状況があります。企業名どころか、業種も職種も語らない相談がかなりあります。具体的状況がわからないと原則的な回答しかできません。せっかく相談しても解決にはつながりにくい状況が続きます。
 会社名を聞くと、一流会社もたくさんあります。しかしそのような会社ほど労働組合はあっても機能していません。
 使用者は、解雇をすると争議になるので、労働者から辞めると言わせるようにさまざまな 「いじめ・嫌がらせ」 をおこないます。しかして周囲の労働者は見て見ぬふりをし、お互いに孤立を深めていきます。そのような会社での雇用が継続しても居心地はよくありません。トラブルは再起します。


○過重労働はなぜなくならないのか についてです。
A 歩合制を取り入れた賃金制度のもとでは、相当残業を行なわなければ必要な収入を得られな
 いという事情もある。とくに自動車運転、営業などの職種では、働かなければ稼げない状況に
 ある。
  また、人員削減が進み、営業に伴う伝票処理の事務等を行う補助者がいなくなったことによ
 り、1人であれもこれもやらなければならないという状況もある。
C 80時間分の固定残業代を組み込んだ、計算すると最賃すれすれの賃金を設定し、「80
 時間は残業させなければ損」 という感覚なのか、残業80時間を前提にシフトを組むという、
 残業を労働者の自由意思でやっているとは到底言えない事情もある。

 労働者はローンを抱えていると、生活費のゆとりは残業代で稼ぐことになってしまいます。労働者は残業代をあてにしますが、使用者もまた労働者の残業をあてにした体制を作ります。
 トヨタの月60時間分の残業代を支払う裁量労働制などはまさにその典型で、残業の強制です。

○使用者の意識変化 についてです。
D 賃金不払 (サービス) 残業の理由を本人の能力によるものだとする使用者が多いのはたし
 か。一方、労働者のもう力を引き出せない使用者の責任が意識されることは少ない。
C 大手企業も、三六協定の特別条項などにより法律に合わせる手法が進んでいるだけで、長時
 間労働に対する根本的か解決に向かっているわけではない。
B 大企業の対応で気になるのは 「長時間労働につながる効率の悪い仕事は、中小下請けに任
 せよう」 という姿勢だ。
C 以前、トラック運送業の長時間労働を指導した際、当該の会社から下請を活用するという対
 策が示されることがあった。労働法の適用を受けない働き手を使う動きともつながっていく。
 こうした請負の取引関係にも何らかの規制が必要なのではないか。

 かつてリストラがはびこった時、会社は中高年労働者を辞めさせました。その結果、社員の世代の構成にひずみができ、若手を指導できる世代がいなくなったと言われました。その時の若手が管理する立場になっています。どのように指導したらいいかわからない管理職が増えています。
 孤立化はお互いの思いやりを奪います。正規労働者は非正規労働者の処遇や精神状況に思いを巡らすことはあまりありません。そのような中で改善をはかるとき、無意識に下請け、外注に無理強いを行なっています。改善されるのは自分の身の回りだけです。


○過重労働対策に問題はないか についてです。
C 現在の労働時間に関する法制度は複雑で理解しにくいのではないか。労働者あるいはその家
 族から長時間労働に関する相談に対し、何ができるかという説明を行なおうとすると、相談者
 が理解できなくなってしまうことがある。……違反は実物の36協定を見てみないとわからない。
 それを伝えると、相談者に驚かれる。
F 法制度に現場の声が反映しておらず、労使が妥協を探る中で、ますます複雑な仕組みとなっ
 ていないか。労働者が一目見てわかる法律であるということは、労働法として大切な要素では
 ないか。
A 当初は職場の労使関係の中で対等な話し合いが行なわれることで妥当な規制ができると考え
 られていたが、これが実態に合わなくなってきているのだろう。
  使用者側が勝手に協定に押印してしまうなど、労働者代表が全く無力なばあいもあり、36
 協定のなかにも手続的に無効なものが一定存在すると思う。
C 時間外労働の上限を法令で規制するというのは重要だと思う。ただ、現在議論されている時
 間では長すぎると思う。さらに適用除外を作らないようにするという姿勢が大事だと思う。
 規制は労働者の生活を守るためのものであり、こうした趣旨の最低限度に例外を設けるのは、
 最低基準という労働基準法の存在意義を脅かすことにつながるのではないか。
F 高度プロフェッショナル制度の適用者は、管理監督者や裁量労働制とちがい、自分で労働時
 間の配分や仕事の進め方を決められる立場でなくてもよく、時間外労働を命じられる側の者。
 従来の適用除外制度とかなり異質なものではないか。

 労働法制は、使用者の逃げ道が確保されています。また時間外労働に関する労働基準法はまさしく “ザル” です。労働者の健康・安全・生活を保護するものとはなっていません。逆に労働者保護をうたう 「過労死ライン」 などは指針・通達で罰則規定がありません。
 高度プロフェッショナル制度はこれらをさらに脅かすものでしかありません。
 労使自治が崩れています。使用者にとっては労働者は 「使用人」 となっています。


○行政運営の課題は何か についてです。
C 監督署の指導手段に集団指導というものがあるが、基本的に使用者相手に指導するというこ
 とを不思議に感じている。労働者にとっても、労働法の趣旨、内容を知ることは重要であり、
 労働者を対象とする集団指導があってもよいのではないかと思う。労働者が自分たちの意思で
 労働環境を決められる部分もあるし、変えられる部分もあるのに、こういった意識を労働者が
 持っていない場合がある。自分たちがこういう制度に守られているということや職場を自ら変
 えていけるということを、労働行政が労働者向けに打ち出していくという観点が、弱いのでは
 ないかと思う。
D 労働者の多くは、働き始めてから労働に関する権利や規制を学ぶが、働き始める前に身に
 着けておくことも大事だと思う。法令や制度を早い段階で確実に教えるべきだろう。

 労働法制は誰のためのものかという議論が起きてきます。本来労働者のための労働法制が、使用者が最低限を守ればいいもの、違法がばれなければいいものになっています。
 それを許しているのが労働組合であり、労働法制の知識を身に着けていない労働者です。日常的に理不尽と思うこと、不思議に思うことは周囲の仲間に話しかけ、解決の道を探ることが必要です。労働法制は活用しなければ宝の持ち腐れです。解決は声を上げることから始まります。


 労働基準監督官は日常的にたくさんの疑問を抱きながら臨検などの業務を遂行していることが垣間見られます。疑問が多いということは、労働者にとって働きづらい職場がたくさんあるということです。
 労働者と労働組合は、第三者や労働基準監督官に頼るのではなく、まず自分たちで労働法制の知識を習得し、自分の職場に照らし合わせて違法行為があれば指摘して改善させる、労働法制を自分たちの下に取り戻すことが必要です。
 そのうえで使用者が違法行為を続ける場合は労働基準監督署との連携が必要となります。

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湯川秀樹と原子力
2017/12/22(Fri)
 12月22日 (金)

 12月21日、マスコミ各紙は、京都大学が公表した1949年に日本人初のノーベル賞 (物理学賞) を受賞した湯川秀樹の終戦前後の日記について紙面を大きく割きました。

 日記には、45年2・3月の硫黄島の闘い、4~6月の沖縄戦について戦況を詳しく記録、7月5日は各地の空襲被害状況、7月28日には降伏を迫るポツダム宣言の詳細を記しているといいます。新聞記事などを写したとみられるといいます。ただ、直接的な感想などは書かれていません。
 8月6日の広島原爆の投下直後については、軍は新型爆弾と発表したが、8月7日付は 「新聞等より広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」 とあり、原子物理学者として投下されたのが原爆と知っていました。
 8月15日は 「朝散髪し身じまいする。正午より聖上陛下の御放送あり ポツダム宣言御受諾の已むなきことを御諭しあり。大東亜戦争は遂に終結」 と記しています。

 湯川は 「F研究」 と呼ばれる京都帝国大での原爆研究に関わっていました。Fはfission (核分裂) の頭文字です。戦況を打開する手段として、海軍が研究を本格化させたのは43年ごろ。京都大学は委託を受け、44年10月には、大阪・中之島の海軍士官クラブ 「水交社」 で京大と海軍による初会合が開かれました。原爆製造に欠かせないウランの濃縮計画の報告があり、湯川も核分裂の連鎖反応について報告しました。
 45年2月3日付の日記には「午後 三氏と会合 F研究相談」とあるように 「F研究相談」 「F研究 打合せ会」 といった記述が45年2~7月に計4回登場します。5月28日の日記には、F研究 「決定の通知あり」 の記述があります。研究は極秘で進められました。
 日本の原爆研究はF研究と、旧陸軍の委託で理化学研究所 (東京) が行った 「ニ号研究」 があります。

 9月15日の日記には、「午前十時 学士試験 その最中に米士官二名教室へ来たので直ちに面会」、10月4日にも 「朝早く登校、部長室にて米第六軍士官四名と会見。理学部の研究につき質問を受ける」 とあります。F研究について戦後、連合国軍総司令部 (GHQ) から数回取り調べを受けました。
 後に明らかになったGHQの文書は 「湯川はプロジェクトの理論にわずかしか関与していない」 と報告しています。
 10月17日の日記には 「(西谷啓治氏らと) 科学と思想の問題を中心として論議」 とあります。


 戦後の湯川や科学者たちの動向を、山本昭宏著 『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 (人文書院) から探ってみます。
 湯川は敗戦後の数カ月、外部への沈黙を続ける日々を送りました。そして 「週刊朝日」 45年10・11月号に 「静かに思う」 という文章を寄稿します。(ただしこの文章は後に本人が何回か手を加えたものです)
「わが国からはこれに比肩すべき新兵器はついに現れなかった。総力戦の一環としての科学戦においても残念ながら敗北を期したのである。もちろんこれは多くの理由があるであろう。例えば原子爆弾の場合においても、人的、および物的資源の不足、工業力、経済力の貧困等を挙げることはできるであろう。一言にしていえば、彼我の国力の大きな差異が物を言ったのである。敗北の原因が人々によって色々と挙げられているが、全ては結局彼我国力が懸絶していたことに帰着するのであって、最高指導者がこの点を無視したこと自身が最も非科学的であったといわねばならぬ」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』から孫引き)
 科学戦の敗北だと語ります。

 戦後、なぜ日本が戦争に敗北したかを問う時に 「科学戦の敗北」 と理解されました。「大和魂」 や 「神風が吹く」 のような非科学的な思考と体制否定の裏返しでもありました。
 そして科学は 「新しい日本」 の 「民主主義」 や 「平和」 の源と位置づけられました。科学には原子爆弾も含まれていました。これは、湯川の思考でもありました。
 アメリカはフャシズムを倒した、原爆使用は戦争の終結を早めた平和勢力という評価が登場します。

 原子爆弾について、科学者の手による最初の解説論文は理化学研究所所長の仁科芳雄の46年3月に 「世界」 に載った 「原子爆弾」 でした。仁科は45年8月8日に広島に投下された爆弾は原爆だと直感して被爆地調査を行っています。
「今日原子爆弾を製造しうるのはアメリカだけである。そしてこの国は平和を愛し、侵略を否定する国である。こんな国が原子力の秘密を独占しうる間は、侵略行為は不可能であり、従って世界平和は保持せらるることになるであろう。即ちアメリカは世界の警察国として、原子爆弾の威力の裏付けによって国家の不正行為を押え、国際平和を維持しうる能力を有していたのである」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 アメリカを世界の警察官と捉えます。その認識の背景には、46年に創設された国連原子力委員会と、アメリカが提案していた原子力国際管理の存在がありました。
 その後の47年、仁科の主張は、アメリカという認識に代わって平和をもたらす 「世界国家」 という言葉が登場します。原子爆弾は世界の警察となるべき 「世界国家」 が戦争抑止のために保有すべきだと考えます。

 物理学者の武谷三男も、原子爆弾の製造に重要な役割を果たしたボーアやフェルミがそれぞれドイツとイタリアからの亡命者であることを挙げ 「原子爆弾は最初から反ファッショ科学としての性格を強く持っていたのである」 と指摘しました。さらには、原子爆弾の 「技術論的意義」 として、アメリカの工業力だけでではなく、アメリカの労働者の 「民主主義的原動力」 を高く評価していました。このように武谷は戦後民主主義の価値観に合致するものとして原子爆弾を位置づけていました。
 原子爆弾は平和と結びつけられていました。

 「世界の警察官」 のアメリカの独占所有により、世界の平和は維持されるという世論が支配します。そして原子力については国際管理を行って平和利用を進めるという主張です。


 さらに47年にトルーマンが放射性アイソトープを医学研究のために海外の研究所に提供することを申し出ると、原子力研究は 「平和的利用」 と肯定的に捉えられられます。
 48年の湯川の文書 「知と愛について」 です。
「このようにして見出された自然の新しい性格は、私どもにそれが物質とエネルギーの両面にわたるほとんど無尽蔵ともいうべき資源として、将来活用され得るものであるという大きな希望を与えることになった。原子爆弾の成功はこの希望の実現へ向かっての第一歩であった。今後における原子力の平和的活用が人間の福祉にどんなに大きな貢献をするか、おそらく私どもの想像以上であろう」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 物理学者たちは 「原子力の夢」 を披歴していました。
 この頃は、「軍事利用」 と 「平和利用」 は必ずしも区別されていたわけではありません。

 49年11月、湯川はノーベル物理学賞を受賞します。
 科学・原子力への期待は高まります。


 しかし国際的緊張は高まります。49年9月、ソ連は原爆保有を公表します。アメリカの独占は崩れます。10月1日、中華人民共和国が成立します。「東西冷戦構造」 が緊張度を増していきます。
 緊張が高まる中、仁科芳雄は戦争防止のために科学者は世論を喚起させなければならないと説きます。
「現在までのところでは、原子力の応用は一般人に対して原子力爆弾ほど目覚ましいものは見られない。その結果として科学を呪う声も聞かれるのである。原子力の国際管理さえ実現できない今日の国際情勢に於いては、正に科学の進歩が早過ぎたという憾みのあることは拒み得ない事実である。(中略) 今日のような原子力の恐怖時代をもたらせたことに対して科学者はその責任の一端を免れることはできない。その罪亡ぼしとして科学者は戦争を再び起こらないようにする努力をせねばならぬ。これはわれわれの義務である。」 (『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 「科学者の責任」 の言葉が登場します。


 49年4月、パリとプラハで開催された平和擁護世界大会は、原爆の制限と国際管理を求め、これに呼応かたちで10月2日、広島で平和擁護広島大会が開催されます。
 そして50年3月、平和擁護世界大会委員会がスウェーデンのストックホルムで開催され、大会は核兵器廃絶に向けた 「ストックホルム・アピール」 を採択します。そこには 「原子爆弾を使用する政府は人類に対する犯罪人として取り扱う」 などの項目がありました。
 呼びかけに呼応して8月6日から署名運動が開始されます。世界から4億8200万人の署名が集まりました。日本においてもGHQの支配下、朝鮮戦争のさなかに署名運動が展開され、645万筆が集まりました。(17年9月26日の 「活動報告」 参照)
 原爆被害の実態を訴える活動などを通して原子力による平和の主張に抵抗する運動が登場してきます。
 しかし原子爆弾反対と原子力の平和利用は共存していました。


 50年6月、朝鮮戦争が勃発します。11月、トルーマン大統領は、朝鮮戦争で原爆使用を示唆します。しかし反対の世論のなかで使用はできませんでした。
 53年7月23日、アメリカが初めて勝てなかった戦争・朝鮮戦争が休戦協定を締結します。アメリカの覇権が揺らぎます。

 54年3月1日、ビキニ珊礁での米軍の水爆実験で第五福竜丸が被爆します。
 湯川は54年6月号の 『婦人公論』 に文章を寄せます。
「原子力は確かに恐るべき威力を持っている。しかしそれは天然現象ではない。人間の獲得した科学的知識に基づいて、人間のつくりだした仕掛けによってしか、原子力はその威力を発現しないのである。天然現象ならば、人間の力ではどうにでもできない場合もある。しかし原子力は人間の頭脳の中から生まれてきたものである。人間の力で原子力の狂暴性のはつげんを抑え、更に進んでそれを人間のための力として利用することができないはずはない。
 もちろん、原子力が平和的にだけ利用されたからといって、危険が全然なくなるわけではない。原子動力の向上では多量の放射性物質が同時に作り出されるのを避けることができない。それが人間に被害を及ぼさないようにするためには、周到な注意が必要である。そればかりではない。放射性物質がいろいろな形で、今までよりももっと広く人間社会に利用されるようになるに違いない。それに伴って起り得る災害をなくすためにも、細心の注意が必要であろう。しかし、原子力に対する単なる恐怖心によってではなく、一般社会の人びとが原子力や放射性物質に対する一通りの常識を持つことによって、この種の災害は避け得るはずである」(『核エネルギー言説の戦後史 1945-1060』 から孫引き)
 科学の進歩の無謬性に対する疑義が生まれ始めていますが、社会の成長などで乗り越えられると捉えていたと思われます。この捉え方は、のちに原子力発電所建設へと進みます。

 第五福竜丸事件を機に原水爆禁止署名運動が展開されます。しかし 「広島・長崎。ビキニ」 を並置しながら、アピールにおいて広島・長崎の被爆者援護の問題を取り上げなかったように具体的政治目標は掲げませんでした。
 署名運動の広がりを受け、ひろしまの被爆者団体が、被爆者問題の重要性を訴え始めていました。

 湯川は、第五福竜丸事件を機に平和運動に尽力します。科学の平和利用を訴えた 「ラッセル・アインシュタイン宣言」 の共同署名者となりました。
 ラッセル=アインシュタイン宣言は、54年12月23日にラッセルが行ったBBCクリスマス放送での演説 「人類の危機」 を要約したもので、55年4月11日に発表されます。
 演説の抜粋です。
「……
 私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、即ち、“ヒト” という “種” の一員としてである。世界は紛争に満ちている。そうして、全ての小規模な紛争に影を投げかけているのは、共産主義と反共産主義との巨大な戦いである。
 政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題のいずれかに強い感情を抱いている。しかしできるならば、そのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員としてよく考えていただきたい。
 私たちは、一方の陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、全ての陣営がその危険を回避する望みがある。」
 今に通じる内容です。
 宣言に湯川は名を連ねます。
 そして、宣言に基づき、1957年にカナダのパグウォッシュ (Pugwash) で開催された各国の科学者が軍縮・平和問題を討議する国際会議 「科学と国際問題に関する会議」 (「パグウォッシュ会議」) にも参加し核なき世界の実現を訴えました。


 科学の無謬性に対する疑義が人びとを捉えて広がるのは、公害問題間からだといわれます。足尾鉱毒事件、水俣、大気汚染などの問題をとおして原子力発電の問題の捉え返しが行われはじめました。
 捉え返しての運動が展開される最中の2011年3月、取り返しのつかない東日本大震災で福島原発事故が発生します。

   「活動報告」17.9.726
   「活動報告」17.8.4
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労働者の誇り
2017/12/19(Tue)
 12月19日

 12月17日の日曜日、TBSのテレビドラマ 「陸王」 は最終回直前です。 
 元来足袋製造のこはぜ屋は、陸王を作り続けるためには資金援助が必要ということで、役所広司が演じる宮沢社長は松岡修造が演じる米国企業 「フェリックス」 の御園社長からの買収案を全社員の前で説得し、了解させます。
 その時のシーンです。平均年齢58歳のこはぜ屋でも最古参の庄司照枝が演じる社員はまえかけを持ち上げて涙を拭います。誇りと悔しさがにじみ出ていました。前話では買収に反対した社員が自分に言い聞かせながら叫びます。「こはぜ屋が支援を受けるのでなく、俺たちの技術がフェリックスを支援したといわせようじゃないか」
 もう1人の社員がいいます。「会社が買収されると、最初に買収された会社の社長の首が危うくなるといいますけど、俺たちが社長を守りますから」
 フェリックスは、自ら商品開発はしないで買収をくり返して拡大してきた会社です。
 ドラマは現在のM&Aの実態をのぞかせていました。


 それを地でいくことが起きています。
 12月16日の日経新聞です。「黒田電気、TOBが成立 MBK傘下に」 の見出し記事が載りました。
 黒田電気に関する15月9月1日の 「活動報告」 の再録です。
 以前のように、銀行を併せ持った財閥グループ企業による株の持ち合いや、その傘下に中小企業を抱えていた時は、株主は株価や配当にあまり関心を持ちませんでした。労働者にとっても労使関係・労働条件決定に大きな影響はありませんでした。
 しかしファンドのような投資が登場してくると会社のあり方も違ってきています。グローバル化による投資の国際化の中で、「物言う株主」 が登場します。投資家は株価の短期の所有期間における上昇と売買を目的にし、長期的会社経営には関心がありまあせん。そのようななかで会社経営を委任されている経営者は存続の対応に必死です。

 15年8月22日の毎日新聞に 「黒田電気 個人株主、村上氏を警戒」 の見出し記事が載りました。村上氏とは、かの 「お金を儲けることはいけないことですか」 と発言した村上ファンドの村上世彰。村上の長女がCEOを務める投資会社C&Iホールディングスは黒田電気の株約16%を握り、21日の株主総会には村上世彰ら4人の社外取締役選任案を提出しました。そして 「今後3年間、最終 (当期) 利益の100%を株主還元できると」 訴えました。
 黒田電機は2015年3月期に2期連続の最高益を達成しています。すでに取締役6人のうち半数は社外取締役です。村上側は定員を増やさなければC&Iホールディングス系が過半数以上を占めることをねらいました。
 株主総会では、現経営陣の従来の手堅い経営を志す政策と、村上側の企業の合併・買収 (M&A) を通じた高成長を求める意見が真っ向から対立したといいいます。村上側からいえば、最高益を達成しているときがM&Aのチャンスで、高騰した株が売れたら撤退です。会社への愛着はまったくありません。それが 「お金を儲けることはいけないことですか」 です。
 しかし村上側の提案は最終的には約6割の株主の反対で否決されました。
 利益の株主配当率を決定するのは取締役会です。現取締役会の提案は40%から65%です。しかし村上らの 「最終 (当期) 利益の100%を株主還元できる」 との主張が退けられた背景には、株主それぞれのリスク管理の意識が働きました。

 黒田電気は本来の業務だけでなく株主対策にも翻弄されました。
 17年8月14日の日経新聞です。記者の目に 「黒田電気、低空飛行が招く波乱第2幕」 の見出し記事がのりました。
「株主総会を巡る旧村上ファンド勢と経営陣の対立が注目された黒田電気の先行きに暗雲が漂っている。2017年4~6月期決算は大幅な減収減益で株価下落に拍車をかけた。車載関連機器などに資源を集中して脱専門商社を急ぐ方針だが、競争は厳しい。経営方針が食い違う大株主の投資ファンド、レノ (東京・渋谷) は株の大量取得で経営陣に圧力を強めている。業績や株価の低空飛行をきっかけに、波乱劇の第2幕が開く可能性もある。
 売上高31%減、純利益25%減――。黒田電気が7月末に4~6月期決算を発表すると、業績不振を嫌気した売りで翌日の株価は4%下落した。」

 その結果です。
 12月16日の日経新聞です。
「電子部品専門商社の黒田電気は16日、アジア系ファンドのMBKパートナーズによるTOB (株式公開買い付け) が成立したと発表した。発行済み株式数の68%にあたる2570万株の応募があり、買い付け予定数の下限 (1891万株) を上回った。黒田電気は今後、臨時株主総会の決議を経て、上場廃止になる見通し。……
 黒田電気の大株主には旧村上ファンド代表の村上世彰氏の親族や同氏が関与する投資ファンドが並び、合計すると発行済み株式数の約4割を握る。村上氏らは黒田電気に他社との経営統合や自社株買いを迫り、本業の立て直しを優先したい経営陣との対立が深まっていた。
 経営の自由度を高めたい黒田電気はMBKによるTOBに賛同。MBKは村上氏らとの交渉を進め、TOB価格を引き上げるなどして村上氏らの賛同も得ていた。」

 TOB (株式公開買い付け) は、「不特定かつ多数の者に対し、公告により株券等の買付け等の勧誘を行い、取引所有価証券市場外で株券等の買付け等を行うこと」 と定義されています。つまりは融商品取引所 (証券取引所) を通さない取引を行います。
 決められた期間に、決められた株数、一定の価格で買いますと宣言して不特定多数の投資家から株を買い集めます。おもに企業の経営権を取得して企業の買収や子会社化を目的とするものがおおいといいます。
 その結果、旧村上ファンドはMBKパートナーズに高い価格で所有株を売ることが可能となります。村上ファンドは 「お金を儲けることはいけないことですか」 とこのようなことをくり返しています。

 「陸王」 の松岡修造の会社はファンドではありませんが、似たようなことをくり返してきていました。
 ファンドが 「お金を儲けることはいけないことですか」 を実行すると 「会社が買収されると、最初に買収された会社の社長の首が危うくなる」 が起きますが、「俺たちが社長を守りますから」「 とはなりません。次に登場するのは労働者の合理化です。
 ファンドは 「お金」 以外に関心がありません。


 もう一度15年9月1日の 「活動報告」 の再録です。
 バブルが崩壊し、ファンドが飛び交うようになった頃から、会社は誰のものかという議論が起きると 「ストックホルダー」 (株主) という主張がはびこっています。経済のグローバル化が進む中でのグローバル・スタンダードではさらにそうです。「コンプライアンス」 が登場し、重視されます。

 では、村上らのような株主のものでしょうか。労働者は、労働者の側からの 「コンプライアンス」 ・秩序を対峙させて主張する必要があります。なぜなら、会社の利益をつくり出しているのは労働者だからです。
 会社は、社会の中に存在し、関連する事業・企業があって存在でき、利用者があって維持できています。そして会社の中には労働者がいます。「ステークホルダー」 (利害関係者) のものです。さらに利害関係者は拡大し、顧客・消費者、そして事業所が存在する地域の人たちも含めるまで捉えられるようになっています。法人としての会社は社会的存在・責任もあります。会社は株主が 「お金を儲ける」 だけの組織ではありません。
 そして、労働組合にも社会的責任があります。


 12月17日のTBSテレビ 「サンデーモーニング」 は12月11日に発生した新幹線 「のぞみ34号」 の台車亀裂問題を取り上げました。そのなかで涌井雅之氏は 「最近は技術は発展しているが技能は劣化しているのではないか」 とコメントしました。
 技術者が異常事態を発見しながら判断を上に仰ぐというのは任務を放棄しています。異常事態が 「現場で起きている」 のです。現場が状況を一番知っているのであって、原因も推測できます。判断は現場がくだすべきです。
 技術者は、身に着けた感覚で、音、色、匂いから異常・正常を判断します。それ以上の的確な正しい判断はありません。
 しかし、事故が拡大するという判断よりも列車を遅らせない、そのために上司の判断を仰ぐという行動をとります。安全と遅延のどちらを選択するかの判断など論外です。
 今回の事故で失ったのは、もっとも取り返しが難しい会社の安全対策の管理システムへの信頼です。会社はそのことを自覚する必要があります。

 こはぜ屋の労働者は自分たちの仕事に誇りを持っていました。鉄道の労働者も、自分の経験・感覚・技能への誇りと安全を守るという責務をもっと自覚する必要があります。

   「活動報告」15.9.51
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沖縄で米軍からの被害をなくす方法は
2017/12/15(Fri)
 12月15日 (金)

 1960年代末にベトナム戦争反対、日米安保条約に反対する運動が各地で展開されていた時は戦争に反対する歌もたくさん歌われました。

  栄ちゃんの家に ジェット機が落ちたら
  栄ちゃんはきっと 死んでしまうだろう
  栄ちゃんはきっと 後悔するだろう
  安保条約 やめときゃよかったと

 コミカルな曲想の 「栄ちゃんのバラード」 です。栄ちゃんは、当時の総理大臣佐藤栄作です。

 当時、沖縄では米軍支配下で “本土復帰” 運動が展開されていました。沖縄の人たちにとって “復帰” は 「憲法9条のもとへの復帰」 でした。佐藤は 「沖縄の復帰なくして戦後は終わらない」 と発言していました。
 しかし実際の “復帰” は本土の米軍基地と自衛隊基地の沖縄への移転・強化でした。まさに核廃棄物の青森・六ケ所への集中ににています。他の地域の人びとは知らんふりです。
 沖縄は、ベトナム戦争の基地でした。その動向をみているとベトナム戦争の進展がわかるといわれました。

「西側の盟主たる米国は欧州のみならず、アジア太平洋地域においても、米軍占領下にあった沖縄を起点に1954年末から核兵器の実戦配備をひそかに進めた。……
 グアムを含むアジア太平洋地域に持ち込まれた核兵器の総数は最大3200発をこえた。沖縄にはその多くが配備・貯蔵されることになり、ベトナム戦争ピーク時の1967年、沖縄でその数は約1300発に上った。沖縄はベトな区への重要な米軍の出撃拠点であると同時に、アジア最大の 『核弾薬庫』 だったのだ。」 (太田昌克著 『偽装の被爆国 核を捨てられない日本』 岩波書店)
 沖縄には “復帰” 後も核配備が続きます。了承の密約をしたのは 「栄ちゃん」 です。佐藤はこの功績として1974年、ノーベル平和賞を受賞します。
 ベトナム戦争でアメリカが敗北しても、沖縄の基地は縮小されませんでした。


 沖縄にある宜野湾市・普天間基地以外の米軍基地は、戦時中日本軍が建設した基地を日本軍が逃亡した後に占領して居座ったものです。
 普天間基地は、1950年代に米軍がそこに住んでいた住民を銃剣とブルドーザーで追い出して建設しました。反対運動のなかで歌い続けられた 「一坪たりとも渡すまい」 です。

  東シナ海 前に見て
  わし等が生きた 土地がある
  この土地こそ わしらが命
  祖先譲りの 宝物

  わしらはもはや 騙されぬ
  老いたる固き 掌は
  野良の仕事の 傷の痕
  一坪たりとも 渡すまい

  黒い殺人機が今日も
  ベトナムの友を 撃ちに行く
  世界を結ぶ この空を
  ふたたび戦で 汚すまい


 普天間基地は今も居座っています。
 宜野湾市のど真ん中に居座る普天間基地に接した北東に佐喜眞美術館があります。かつては普天間基地でしたが、1994年に粘り強い交渉で返還させた用地に建設されました。
 美術館の外の階段で2階にあがり、さらに階段を6段のぼり、つづけて23段のぼると壁に丸い穴が開いています。沖縄慰霊の日の6月23日にはこの穴の正面に東シナ海に沈む夕日を眺めることができます。
 美術館の中には大きな空間に、丸木位里・俊さんの 「沖縄戦の図」 が展示されています。
 「沖縄戦の図」 には、海を埋め尽くす米軍艦、座間味島、渡嘉敷島での集団自決、激戦地の本島南部での住民虐殺などが画面いっぱいに描かれています。これ以外の作品としては、今年9月に壕が荒らされた読谷村のチビチリガマを描いのもあります。チビチリガマの光景は母親が子供を抱き、もう一方の手には竹槍を持っています。しかしまもなく集団自殺をします。その人たちと同じ数の頭蓋骨が描かれています。
 戦争後の光景の作品もあります。読谷村・残波岬にある巨大なシーサーが描かれています。その近くで若者たちが竹槍をバチに持ち替えて残波太鼓を叩いています。

 佐喜眞美術館のポスターがあります。
 普天間基地を中心にすえた航空写真です。宜野湾市がどのような市なのかが一目でわかります。基地の右下に隣接して沖縄国際大学があります。2004年8月13日、米軍ヘリコプターが墜落し、校舎の一部を破壊して炎上、樹木も燃やしました。ポスターではわからないですが校舎には今も焼跡が残っています。
 滑走路の北端近くに、基地と金網を境界にした普天間第二小学校があります。12月13日午前、校庭に米軍ヘリコプターから90センチ四方ほどの金属製の窓枠が落下しました。校庭では体育の授業が行われていて、男児1人が軽いけがをしました。
 12月7日にも、基地近くの保育園の屋根の上で米軍ヘリの部品が見つかっています。
 戦闘機は毎日すぐ真上を爆音を立てて飛び交います。
 住民はずっとがまんをし続けていますがもう限界です。しかし日本政府は他人事の対応です。


 日常的に危険にさらされている住民は早期に基地を撤去して欲しいと訴え、政府が撤去を約束してから25年が過ぎています。
 何処へ撤去? 
 政府な辺野古基地建設が進まないから移転できないと説明します。
 住民の声です。
 「移転してくれるなら、移転先のことは考えない」
 「政府が移転を約束している」
 「移転して辺野古の人たちが今度は危険な目に合うなら、今のままでいい。自分たちが我慢する」
 「辺野古に移転というけれど、私たちがいらないものは、辺野古の人たちもいらない。基地はいらない」
 意見はさまざまです。

 政府は、被害が発生する危険性を予測できる危険物建設は、場所を選定するとき、人口密度が少ない地区、経済的発展が遅れているところ、反対する住民が少ないところを選びます。それでも反対する住民は札束でほほを殴ります。住民を分断し共同体を破壊して追い出します。
 しかし辺野古の人たちは、沖縄戦のときの記憶を思い出し、伝承しながら粘り強く反対の闘いを続けています。沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」 です。

 普天間基地を辺野古に基地を新設して移転する計画が進んでいます。辺野古基地は日本政府が建設し米軍に提供します。漁民から海を奪おうとしています。
 宜野湾市に住む住民も、人口密度が低い地区で生活する住民も、命の重みは同じです。
 しかし政府は沖縄を差別します。それは本土による沖縄差別でもあります。アメリカの日本差別もあります。そして辺野古地区を差別します。その構造は重層的になっています。
 それに対し、沖縄住民だけでなく、本土の人たちの頭上にも、そして 「栄ちゃんの家にも」 ジェット機を落とさせてはいけない運動を続けています。危険にさらされている住民は泣き寝入りはできません。運動を止めた時はおとなしく殺される時だからです。

 沖縄の人たちは、アメリカに、そして世界に基地の理不尽さを訴えてきました。
 11月26日、ドイツ・ベルリンに本部を置く 「国際平和ビューロー」 (IPB) が平和運動に携わった人や団体に贈る 「ショーン・マクブライド平和賞」 の授賞式がスペイン・バルセロナで行なわれました。今年選ばれたのは、辺野古移設に反対する政党や団体でつくる 「オール沖縄会議」 です。IPBは、市街地に囲まれた普天間飛行場を 「世界で最も危険な軍事基地の一つだ」 と指摘しました。
 政府は、辺野古基地建設を沖縄の一地域の問題ととらえていますが、国際的にその危険性が明らかになり、基地建設に反対する世論が形成されています。
 沖縄の人たちは孤立していません。

 
 2016年12月13日夜、辺野古の海にアメリカ軍の輸送機オスプレイが不時着しました。
 これ以外にも沖縄では米軍による被害が続いています。
 戦争は、敵・味方の兵士を恐怖に落とし込めます。兵士はその恐怖・苛立った心を紛らすため酒を飲み、喧嘩をし、殺傷に及びます。逃避の精神状態は性犯罪の暴力を引き起こします。戦争という暴力が別の暴力を連鎖させます。連鎖は元から断たなければ解決しません。
 沖縄からこれ以上の戦闘機事故、被害・犠牲者を出させないための唯一の解決方法は、すべての基地をなくすことが最も手っ取り早い方法です。

   「活動報告」17.5.26
   「活動報告」17.4.18
   「活動報告」17.2.28
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フォーククルセダーズと時代
2017/12/08(Fri)
 12月8日 (金)

 フォークシンガーのはしだのりひこが12月2日に亡くなりました。
 1967年、加藤和彦、きたやまおさむとグループ・フォーククルセダーズを組み、レコードを早回しさせた曲 「帰って来たヨッパライ」 をアングラソングとして発表し、テレビにも登場しました。大ヒットすると、次に発表した曲が 「イムジン河」 です。加藤和彦が、友人が歌っていたのを採譜しました。元歌は一番だけですが、フォークルが二番・三番の歌詞を書き加えました。

  イムジン河 水清く とうとうと流る
  水鳥自由に むらがり飛びかうよ
  我が祖国 南の地 思いははるか
  イムジン河 水清く とうとうと流る

  北の大地から 南の空へ
  飛び立つ鳥よ 自由の使者よ
  誰が祖国を 二つに分けてしまったの
  誰が祖国を 分けてしまったの

  イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
  河よ 思いを伝えておくれ
  ふるさとはいつまでも 忘れはしない
  イムジン河 水清く とうとうと流る

 しかしラジオで流れ、レコードが発売されるとまもなく中止になります。
 政治的圧力、自主規制等と噂されましたが、朝鮮総連から作詞・作曲者は実在するので著作権を無視して勝手に歌うなというクレームが寄せられたのが実情のようです。


 加藤和彦の友人は映画 『パッチギ』 (井筒和幸監督) の主人公です。
 映画のストーリーです。
 舞台は68年の京都。主人公は朝鮮人家族が花見をしている公園に行って 『イムジン河』 を歌います。それを近くでラジオ局のディレクターが聞いていて、生番組のオーディションに参加するよう勧めます。本番中プロヂューサーはディレクターに 「危ない歌」 だから止めるよう指示します。しかしディレクターは聞き入れず強行し 「イムジン河」 がラジオから流れます。

 西村秀樹著 『大阪で闘った朝鮮戦争 “吹田枚方事件の青春群像”』 (岩波書店刊) によれば、実はこのディレクターは、吹田・枚方事件の被告でした。
 52年6月25日、大阪・吹田で朝鮮戦争に反対する労働者・学生・朝鮮人約3.000人は 「伊丹基地粉砕・反戦・独立の夕べ」 を開催します。その後参加者は吹田操車場に向い、軍需列車運行を阻止し、さらに大阪駅に向かって御堂筋でデモ行進を予定していました。
 当時伊丹基地にはアメリカ軍が進駐し、連夜朝鮮半島に向けて爆撃機が飛んでいました。また吹田操車場からも軍事物資を載せた列車が走り、神戸港から朝鮮半島に送られていました。
 途中で警官隊と衝突、火炎瓶が投げられ、騒擾罪と威力業務妨害が適用されて250人近くが検挙され、111人が騒擾罪で起訴されます。
 裁判で、被告団長はずっと沈黙をまもってきましたが 「転向」 します。その内心は、自分1人ですべての罪をかぶり他の被告を無罪にするためでした。
 しかし裁判闘争は、そのような方法でではなくて、一部の被告人は威力業務妨害罪で有罪となりましたが、一審から三審まで騒擾罪の成立を認めさせませんでした。

 朝鮮半島は、45年8月15日の解放もつかの間、内乱状態になり、連合軍にかこつけたアメリカ軍が上陸します。
 1950年6月25日、勃発した朝鮮戦争は、日本が後方基地となります。レッドパージ、破防法制定が行なわれた。8月、自衛隊の前身警察予備隊が発足しました。

 朝鮮戦争は戦後社会を大きく変えました。
 戦争関連産業の金ヘン・糸ヘン景気が起き、失業者は基地関連施設に雇用されていきます。
 朝鮮問題研究家の平林久枝さんは、朝鮮戦争中の『神 奈川新聞』 から県内の相模原基地や横須賀港の記事を調べて 『在日朝鮮人研究』 (84.11号) で報告しました。
「(50年) 7月8日・日本の企業は敗戦後慢性的に続いていた不況から一気に米軍の軍需好景気にみまわれ息をふき返した。……先日の初旬までは毎日職業安定所に 『職よこせ』 のデモがひっきりなしだったのに昨今は好景気であぶれるものがいない。……
 一方朝鮮人は 『はじめはそんなに故国のことを考えなかったが、こんな状態がつづけば国はめちゃくちゃになってしまう。戦争は断じてやめるべきだ』 と故国を心配している。……
 『神奈川新聞』 には連日のように 『連合軍要員緊急募集』 の広告が掲載されている。例えば横浜公共職業安定所渉外職業課では 『化学建築電機造船関係原価計算担当降級顧問・生産検査能率顧問・検査技師・BM電気計算機操作係・海務工・電気計器・電池各修理工・フォークリフト各運転手・ボイラーマン (要免許2級以上)』また、横須賀公共職業安定所では 『通訳・クラークタイピスト・ (男女40ワード以上) 各種研磨工・精密中グリ工・鍛冶工・ターレット工・ブローチ工・ミーリング工・プレス工・機械修理工・車体修理工 (電気熔接可能) 板金工・冷間機打工・鋳型工・グレンカー運転手・材料検査工 (専卒以上英解) 以上50歳迄経験5年以上』 あるいは川崎職安や相模原職安でも同様な広告がしばしば掲載されている。」

 このような中で朝鮮戦争に反対する闘いが各地で展開されます。強制連行され、戦後帰国できなかった・しなかった朝鮮・韓国出身の人たちにとっては他人事ではなく積極的に朝鮮戦争反対の闘争に参加していきます。大量にビラが撒かれました。逮捕されると軍事裁判でスピード判決が出されました。外国人登録令違反の一斉検挙なども行なわれました。

 50年3月、平和擁護世界大会委員会がスウェーデンのストックホルムで開催され、大会は核兵器廃絶に向けた 「ストックホルム・アピール」 を採択します。呼びかけに呼応して8月6日から署名運動が開始されます。
 一方、50年11月、トルーマン大統領は、朝鮮戦争で原爆使用を示唆します。
 署名は世界から4億8200万人分集まりました。日本においても645万筆が集まりました。在日朝鮮・韓国人の人たちは必至で署名を呼びかけて回りました。
 反対の世界的世論のなかでアメリカは使用できませんでした。


 さて、『イムジン河』 が歌われ始めた頃の日本の状況はどうだったでしょう。
 68年2月20日、在日二世の韓国人金嬉老が、静岡県・清水市で暴力団員を殺し、寸又峡に立て篭もる事件が発生しました。裁判では著名な文化人が支援運動の呼びかけ人になり、特別弁護人になります。
 70年10月6日、父親が帰化をした早稲田大学の学生・梁政明 (山村政明) が、「被植民地支配下の異民族の末えいとして、この国の社会の最底辺で25年間うごめき続けてきた者の、現代日本に対するささやかな抗議でもあります。」 という 「抗議・嘆願書」 を残して焼身自殺をしました。そこには 「一、金嬉老同胞の法廷闘争断固支持!」 も書かれています。

 彼の日記が 『いのち燃えつきるとも』 (大和書房 1971年) と題して出版されました。
「日本人の友へ 日本には現在、約60万人の在日朝鮮人が居住している。どうか彼らに理解と友情の心を向けて欲しい。
 彼らは何も好きこのんで異郷の地で、みじめな生活をすることを選んだのではない。多くの日本人は簡単に言う。馬鹿にされるのがいやならば自分の国に帰ればいいじゃないかと。けれども彼らは日本にのみ生活の基盤を持ち、純粋な民族性をも剥奪されてしまっているのだ。さらに日帝の植民地支配の後、祖国は東西の対立ために分断と同民族相撃つ戦乱の憂き目をみた。祖国の政情は未だ不穏であり、生活の条件はきびしい。……
 私は敢えて言おう。あなたたち日本人の多くは、戦争をただ過去のものとし、経済的な繁栄を謳歌しているが、アジアの多くの国では、あなたたちの残虐な侵略による傷痕の故に、今もなお多くの人が苦しんでいることを思い起して欲しい。」

「民族の宿命 ぼくはこんな国で生まれたくはなかった。どんなに貧しくとも祖国朝鮮で生きたかった。……
 父母は苦心の末、この国の市民権を取得した。ぼくたちは法的には日本人になったのである。しかし、本質的平等はたんに法によって保障されはしないのだ。
 ぼくが9歳の少年でなかったら、国籍帰化を拒んだろう。父母はぼくたち子供の将来、進学、就職等の不利を免れるためにというが、ただそれのみで、自らの祖国を棄てることができたのか?」
 金嬉老の暴力という手段での訴え、梁政明の抗議自殺という手段での訴え。その訴えは、在日朝鮮・韓国人問題が未処理のままあることを明らかにしました。

 「パッチギ」 の最後は、鴨川のなかでの日本人高校生と朝鮮人高校生の乱闘です。映画を観ながら監督はどちらに勝たせるのかなと考えていました。結局は中止されます。
 双方から流された血は混じり合いながら流れていきます。監督の期待と受けとめました。

 朝鮮戦争から70年近く、フォーククルセダーズが 「イムジン河」 を発表してから50年、日本と朝鮮半島の政治情勢、日本社会における在日韓国・朝鮮の人たちがおかれている状況は、本質的にどこまで変わったといえるのでしょうか。いわゆる “戦後処理” はちゃんと済んだといえるのでしょうか。
 乱闘では血は混じり合いましたが、一方では分離したまま流れています。


 フォーククルセダーズの 「イムジン河」 が発売禁止、放送中止になった次に発表したのが 「悲しくてやりきれない」 です。聞き方によっては抗議の歌にも聞こえました。

   胸にしみる 空のかがやき
   今日も遠くながめ 涙をながす
   悲しくて 悲しくて 
   とれもやりきれない
   このやるせない モヤモヤを
   だれかに告げようか

 映画 『この世界の片隅に』 の冒頭で、主人公が歌います。
 モヤモヤした今の人びとの心境を歌っているようにも聞こえてきます。

 あらためて、フォーククルセダーズが存在した意義とその音楽家としての偉大さを実感させられます。

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