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本省庁の年間時間外労働363時間 (15年度)
2017/10/27(Fri)
 10月27日 (金)

 10月6日、厚労省は、「28年度過労死白書」 を発表しました。過労死白書は、「過労死防止法」 に基づいて発表されるものですが、それまでは、労働時間、労災認定状況等について個別に発表されてきましたが、ひとつにまとめられただけでも連関性をもった分析が可能になります。
 内容は、9月5日の 「活動報告」 で報告した、8月10日に厚生労働省が発表した2016年度 「過労死等に関する実態把握のための労働・社会面の調査研究事業報告書」 の内容と似ていますので、視点を変えて公務員の問題に絞って検討をしてみます。

 労働時間やメンタルヘルス対策等の状況についてです。
 国家公務員の2015年の超過勤務の状況は、「平成28年人事院勧告参考資料」 によると、全府省平均で233時間です。本省庁363時間、本府省以外では206時間です。本省庁とそれ以外で大きな開きがあります。
 調査は、15年中の全期間において超過勤務手当の対象となった者1人当たりの年間超過勤務時間数です。つまりは管理職等は含まれていません。月平均30時間はにわかには信じられません。

 地方公務員の年間時間外勤務時間は、総務省の 「地方公務員の時間外勤務に関する実態調査」 によると、全国平均158.4時間です。細かくみると、都道府県 (47団体) が150.0時間、政令指定都市 (20団体) 174.0時間、県庁所在市 (政令都市を除く32団体) 159.6時間です。対象は任期の定めのない一般職です。
 本庁については、全国平均219.6時間です。細かくみると、都道府県が223.2時間、政令指定都市234.0時間、県庁所在市198.0時間です。
 出先機関等では、全国平均118.8時間です。細かくみると、都道府県が105.6時間、政令指定都市144.0時間、県庁所在市117.6時間です。
 時間外勤務が多い職員の割合は、全国平均で、1か月あたり60時間超が2.8%、60時間超80時間以下が1.7%、80時間超が1.1%です。

 出退勤の把握方法です。
 全体として、タイムカード、ICカード等の客観的な記録25団体、任命権者からの現場確認30団体、職員からの申告44団体です。細かくみると、都道府県は、タイムカード、ICカード等の客観的な記録7団体、任命権者からの現場確認18団体、職員からの申告22団体です。政令指定都市は、タイムカード、ICカード等の客観的な記録9団体、任命権者からの現場確認5団体、職員からの申告6団体です。県庁所在市は、タイムカード、ICカード等の客観的な記録9団体、任命権者からの現場確認7団体、職員からの申告1タイムカード、ICカード等の客観的な記録9団体、任命権者からの現場確認5団体、職員からの申告6団体です。6団体です。
 職員からの申告による場合の申告の方法です。
 全体として、システムへの入力24団体、紙媒体への記載20団体です。細かくみると、都道府県は、システムへの入力13団体、紙媒体への記載9団体です。政令指定都市は、システムへの入力2団体、紙媒体への記載4団体です。県庁所在市は、システムへの入力9団体、紙媒体への記載7団体です。

 民間に対しては厚生労働省が客観的な掌握方法を指導していますが、官公庁においてはそれが実行されていません。年度内予算の執行との関係では時間外勤務手当が制限され、全額支給されるということがあり得ます。


 国家公務員の公務災害の補償状況です。
 各府省等は、脳・心臓疾患、精神疾患等に係る公務上外の認定を行うに当たっては、事前に人事院に協議を行うことになっています。その協議件数は、脳・心臓疾患は12年度9件、13年度6件、14年度6件、15年度7件、16年度5件です。精神疾患は12年度37件、13年度21件、14年度22件、15年度23件、16年度14件です。
 このうち公務災害の認定件数は、脳・心臓疾患については12年度7件 (死亡3件)、13年度5件 (3件)、14年4件 (1件)、15年1件 (1件)、16年3件 (2件)、精神疾患については12年度6件 (0件)、13年度16件 (5件)、14年10件 (2件)、15年5件 (0件)、16年5件 (3件)です。
 認定率の平均は、脳・心臓疾患が60%、精神疾患が36%です。

 16年度の状況を見ると、脳・心臓疾患は、協議件数は5件で認定件数は3件ですが、職種別では一般行政職の協議件数が4件、認定件数2件です。
 年齢別では協議件数が40歳代2件、50歳代で2件、認定件数は40歳代で3件です。
 認定件数における超過勤務時間数については、60時間以上~80時間未満1件 (1件)、80時間以上~100時間未満1人 (1件)、100時間以上1件です。
 常勤・非常勤別では3人とも常勤職員でした。
 精神疾患は、協議件数は14件で認定件数は5件ですが、職種別では、協議件数はすべて一般行政職です。認定件数では、一般行政職3件、公安職1件、医療職1件です。
 年齢別では協議件数が40歳代4件、認定件数4件、50歳代4件、1件です。
 認定件数における業務負荷の類型別認定件数は、仕事の量(勤務時間の長さ)2件、職場のトラブル2件です。勤務時間の長さは、100時間以上~120時間未満1件、140時間以上1件です。
 常勤・非常勤別では5人とも常勤職員でした。
 脳・心臓疾患、精神疾患とも、40歳代、50歳代に集中しています。


 地方公務員の公務災害の補償状況につてです。
 脳・心臓疾患についての受理件数は、11年度61件、12年度34件、13年度24件、14年度29件、15年度38件です。
 11年度以前の10年間は64件から41件の間でしたが12年度以降減少傾向にあります。
 地方公務員についてはこれ以上公表されていません。


 国家公務員、地方公務員とも実態とはずれがあると思われます。7月26日、中央省庁の労働組合でつくる 「霞が関国家公務員労働組合共闘会議 (霞国公)」 は 「中央府省等に働く国家公務員の第25回残業実態アンケート (2016年1月~12月の1年間) の結果について」を発表しました。(「28年度過労死白書」は2015年の調査結果です。)
 月平均残業時間は、34.1時間 (前年36.7時間) アンケート結果では、34.1時間で、前年の36.7時間と比較して2.6時間減少しました。年代別では、若年層ほど残業時間が多くなっています。昨年との比較では、30歳台が上昇 (49.7時間)、他の年代は減少しています。

 月平均の残業時間別の状況は、過労死の危険ライン (厚生労働省) とされる 「80時間以上」 が6.5% (前年9.0%)、とりわけ過労死の危険が高い 「100時間以上」 が3.1% (前年4.9%) です。
 国家公務員の労働時間は、法律で週38時間45分と定められていますが、法定外労働時間を労使間で協定する権利が奪われているため、無制限に時間外労働を強いられる結果となっています。人事院は、残業実態を改善するために、時間外労働の上限の目安として年間360時間 (月平均30時間) を目標に指針を定めていますが、この上限の目安時間を超えて残業している組合員等は41.4% (前年43.3%) です。

 休日出勤は 「休日出勤あり」 は56.7% (前年59.1%) と前年より減少しましたが、毎年6割前後が休日出勤を余儀なくされています。
 日数については、年間11日以上11.3% (前年11.6%)、さらに21日以上3.6% (前年3.5%) も存在しています。休日出勤に対して、代休または手当で100%補填されている割合は33.1% (昨年47.9%)、「手当も代休もない」 は28.8% (前年28.5%) となっています。

 残業の要因としては、「業務量が多いため」 が57.0% (前年59.5%)、次いで 「国会対応のため」 30.3% (前年29.4%)、「人員配置が不適切なため」 27.1% (前年29.1%)、「不合理な仕事の進め方のため」 18.3% (前年8.5%) が続いています。
 月平均残業時間が80時間以上の職員では、約半数の48.6%で国会対応が残業要因と答えています。

 超過勤務に対して、手当の支給実態をみますと 「全額支給されている」 49.7% (前年49.3%) です。支給割合別にみますと 「20%未満」 が2.7%、「40%未満」 が4.6%、「60%未満」 が10.1%となっており、「不払いがある」 者は、全体の41.2% (前年42.4%) となっています。

 中央府省の各当局は、毎週水曜日の全省庁一斉定時退庁日の設定等を実施したり、省庁毎に週一定時退庁日を設けたりしています。各府省での超過勤務改善の取り組み状況や定時退庁の状況についてです。
 政府が定めた定時退庁日に 「定時退庁出来ない」 とする者が20.7% (前年19.7%) と前年と比べて1.0ポイント上昇しています。「時々出来る」 の33.2%を含めると53.9% (前年52.4%) と、昨年より1.5ポイント上昇し、依然として半数以上が毎週の定時退庁が出来ない状況にあります。

 年次休暇の取得日数については、平均取得日数は11.8日 (前年11.9日) で取得率は59.1%です。これを取得日数別にみると 「10日以下」 が42.2%、「5日以下」 が15.3%です。


 現在の健康状態についてです。
 「不調である」 「薬等服用している」 「通院加療 中である」 という状態に置かれている人が33.9% (前年34.6%) となっています。年齢別では、30歳未満20.9% (20.0%)、30歳代29.2% (28.6%)、40歳代37.9% (39.0%)、50 歳以上47.2% (51.0%) と年代が高くなるにつれ健康に不安を抱えている者の割合が増える傾向にあります。

 過労死の危険を 「現在感じている」 2.7%(3.1%)、「過去に感じた」 26.3% (24.5%) を合わせた割合が29.0% (27.6%) に達しています。「現在感じている」 「過去に感じた」 を合わせた割合を年齢別にみると、30歳未満では15.1% (17.3%)、30歳代では29.6% (27.7%)、40歳代では34.2% (29.3%)、50歳以上では35.3% (35.4%) です。

 疲労や精神的ストレスを感じていると回答した人は全体で52.1% (58.1%) となり、原因として、職場の人間関係28.9%、仕事の量が多すぎる24.7%、業務 上のつきあい17.6%、通勤ラッシュ・長時間通勤16.9%、残業・休日出勤など長時 間労働15.2% が上げられています。
 「からだの具合が悪くて休みたかったが、休めなかった」 と回答した人は全体で47.1% (昨年47.8%) とほぼ半数の人が回答しています。


 長時間残業者 (月平均80時間以上) の実態 「月平均80時間以上の残業者」 は6.5% (9.0%) です。霞が関の職員・組合員34,000人のうち2,210人が、過労死ラインで働いていることになります。2,210人の残業となる原因は、「業務量が多い」 が81.3% (全体57.0%)、「国会対応のため」 が48.6% (全体30.3%)、続いて 「人員配置が不適切なため」 が34.7% (全体27.1%) となっており、いずれも全体平均を大きく上回っています。
 「現在過労死の危険を感じている」 と2.7%が答えています。霞が関には918人もの職員が、過労死の危険を感じながら長時間過密労働にさらされています。とりわけ、80時間以上では、11.8%が、現在過労死の危険を感じています。

 「業務において疲労やストレスを感じている」 は76.4% (全体52.1%) と多く、 その原因は、「仕事の量が多い」 が54.2% (全体24.7%)、「 残業休日出勤などの長時間労働」 が53.5% (全体15.2%) となっています。


 人事院の調査によれば、国家公務員の死亡原因のうち 「がん (40.1%)」、「自殺 (16.4%)」、「心疾患 (14.2%)」、「不慮の事故 (5.5%)」、「脳血管疾患 (4.0%)」 です。(平成26年度死亡者数等調査)。国家公務員の 「心の病」 による1か月以上の長期病休者が、3,389人 (全職員の1.24%) となっています (平成26年度長期病休者実態調査)。

 府省別では厚生労働省の厚生部門が残業時間が55.0時間で最も長く、同省の労働部門が45.3時間で2番目でした。同省がワースト1位になるのは4年連続です。
 調査に応じた同省職員の4割以上が「過労死の危険を感じたことがある」と回答しています。
 過労死ラインとされる月80時間以上の残業をした人は厚労省の厚生部門16.6%、経済産業省14.8%でした。要因は「業務量が多い」が57.0%で最多でした。


 少しづつ改善されてはいるようですがまだまだです。
 国家公務員の労働者が、“本物の働きかた改革”の模範となることを期待したいものです。

   「28年度過労死白書」
   「中央府省等に働く国家公務員の第25回残業実態アンケート」
   「活動報告」17.9.5
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あらためて 「働きかた改革」 反対
2017/10/24(Tue)
 10月24日 (火)

 衆議院選挙の最終日の夕方、新宿バスタ前の立憲民主党の街頭演説会に行きました。
 枝野代表と福山幹事長が演説をするということで、主催者発表で8000人が集まりました。実数は半分、3分の1としてもすごい数です。雨の中、みな自主的に傘を畳んでいます。
 演説者の姿は終始まったく見えませんでした。それでも演説をしていると思われる方を向いて静かに聞き入り、拍手をします。よくある 「○○!」 コールもたまに起こりますが唱和されません。集まっている人たちは経験がないようです。国会前などとはまた違う人たちが集まっているようです。年齢層も10歳くらい若いように思えました。
 この現象は何なのでしょうか。
 安保法制の国会審議の時は国会前に大勢の人びとが駆けつけました。憲法が壊される、軍備が強化されるという危機感です。
 今回の選挙に人びとを駆り出させたのは閉塞感から解放されたいと脱出口を探していたのではないかと思われました。安保法制の強行採決などだけからではなく、この間の生活実感はずっとそうだったのでしょう。そのなかで、自分の思いが共有できる、期待できそうな候補者がやっと登場したという思いなのだと受け止めました。演説者の 「草の根の立憲主義」 は説得力をもって受け止められました。
 選挙結果は、希望の党は人を騙す、ひどすぎたということではありません。
 人びとの意識に変化が見られます。このことを見過ごすし、足し算・引き算で議論を進めるとこの先も見誤ります。

 希望の党の選挙公約には、その後言い変えられましたが、当初「生産性を向上させるため働きかた改革を推し進める」の項目がありました。希望の党は、安全保障の問題だけでなく、自民党と違いがありません。


 先日、使用者側が主催する「働きかた改革実行計画」の講演会に参加しました。講師はこの計画作成に深く携わった方です。講師は 「希望の党が登場した時には、このあと国会で働きかた改革法案を審議する時にさほどの混乱もなく通過すると安心しました」 とストレートに発言しました。しかし立憲民主党の登場でどうなるかどうなるかわからなくなりました。
 講演内容は 「働きかた改革実行計画」 ・働きかた改革法案の解説です。しかしその方向性に注視しなければなりません。
 労基法第三十二条は時間外労働です。
「使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。
 2 使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。」
と謳っています。時間外労働は例外規定です。
 政府は、実行計画で現行の限度基準告示を法律に格上げし罰則によって強制力を持たせ長時間労働に歯止めをかけたと繰り返し主張しています。しかし実際のトーンは、逆に 「ここまで残業させても違法にはならない」 です。
 時間外労働の限度時間の月45時間、年300時間が通常となり、そのうえで特例が年間720時間、さらに一時的に事務量が増加する場合について、上回ることができない上限を設けています。上限は、2か月から6か月の平均で、いずれも休日労働を含んで80時間以内、単月では100時間未満で、特例は年半分を上まわらないようにするということです。
 上限を設けたという説明の中で労使協定の締結では下限が引き上げられる雰囲気がつくられていきます。
 企業は時間管理が複雑になります。これに対して政府は制度制定にコンサルタントを依頼するときは補助金を出すことを予算化しています。そしてソフト会社は制度を受け入れるソフトを開発して売り込みを開始しています。
 労働者を外部や器機に依拠してしか管理できない複雑な制度は、そもそも労働者保護の視点が欠落しています。

 月45時間は、厚労省の 「過重労働による健康障害を防ぐために」 の対策の中で 「健康障害のリスク」 が高くなるラインです。しかし改革といいながらそのラインを越えた、「月100時間未満」 以外はこれまでの通達等の内容を踏襲しています。健康障害を防止するものにはなりません。100時間未満にしても、精神障害の労災認定基準に照らして 「休日労働も含んで」 といういい回しになったということです。結局は労働者が労災申請をした時に認定されにくい限度を法律に盛り込んだだけです。
 そして、連合は、長時間労働に歯止めをかけたと主張しますが、政府が連合の要求を受け入れたのは当初の案の 「上限100時間」 に 「未満」 を加えさせただけです。

 働きかた改革実現会議は、当初は長時間労働を是正してワーク・ライフ・バランスを実現すると主張していました。しかし公表された 「働きかた改革実行計画」 には冒頭の 「働く人の視点に立った働きかた改革の意義」 のなかで 「長時間労働を是正すれば、ワーク・ライフ・バランスが改善し女性や高齢者も仕事に就きやすくなり、労働参加率の向上に結び付く」 と触れているだけでそれ以外には登場しません。
 働きかた改革は、ワーク・ライフ・バランスと相反します。長時間労働の是正の方向には向かっていません。
 さらに 「高度プロフェッショナル制度」 はまさしく過労死促進法です。「高度プロフェッショナル制度」 については反対意見が強まっています。


 しかし使用者が今回の改革で本気で狙っているのは拡大した裁量労働制の導入だといわれています。解説書やリーフレットにはわざとだと思われますが簡単にしか触れられていません。
 13年10月、厚生労働省労働基準局は 『平成25年度労働時間等総合実態調査結果』 を発表しました。時間外労働及び休日労働の実態、割増賃金率の状況、裁量労働制の実態調査を把握することを目的にしたといいます。調査対象事業場は都道府県労働局が無作為に選定しましたが、裁量労働制に係る事業場数を一定数確保するため、専門業務型裁量労働制導入事業場及び企画業型裁量労働制導入事業場を優先的に選定したといいます。11,575事業場を対象に、労働基準監督官が訪問する方法で、4月1日時点の実態を使用者から調査しました。
 裁量労働制についての調査結果です。
 専門業務型裁量労働制で労働時間の状況として把握した時間の1日の平均時間は、最長の者12時間38分、平均的な者9時間20分です。「法定休日労働あり」 の割合は、最多の者39%、平均的な者は21.9%です。4人に1人以上が法定休日に仕事をしています。年間、最多の者で8.5日、平均的な者で4.0日労働しています。
 企画業務型裁量労働制では11時間42分と9時間16分です。「法定休日労働あり」 の割合は、最多の者29.2%、平均的な者は17.2%です。年間、最多の者で5.8日、平均的な者で3.1日労働しています。
 かつて裁量労働制の導入に際して労働省は、みなし労働時間を定め、その分の賃金が支払われ、業務が早期に終了した時は労働者は労働時間を自由に使用することができ、その分生活にゆとりができると説明しました。実態は異なります。ザービス残業が放置されています。さらに現在は労働時間が長くなっています。
 裁量労働制が導入される時のうたい文句からはかけ離れた、労働者側が危険性を指摘した実態になっています。

 調査を踏まえて労政審で 「高度プロフェッショナル労働制」 と裁量労働制の審議が行われ答申がだされました。働きかた方改革では2つは一体のものです。
 企画業務型裁量労働制の対象業務が追加されました。例えば、「法人である顧客の事業の運営に関する事項についての企画、立案、調査及び分析を主として行うとともに、これらの成果を活用し、当該顧客に対して販売又は提供する商品又は役割を専ら当該顧客のために開発し、当該顧客に提案する業務」 は、つまりは営業です。
 かつて、派遣労働が開始された時、職種は限定されていました。しかしその後何度も法改正がおこなわれ、現在では禁止されている職種の方が極めて少なくなっています。企画業務型裁量労働制も同じ轍を踏む危険性があります。

 今年3月に制度が違法だと指摘された損保ジャパン日本興亜は、嘱託などを除く18.000人の職員のうち、入社4年目以上の総合系、専門系、技術調査系職員6.000人以上に企画業務型裁量労働制を導入していることが明らかになりました。対象外であるはずの一般の営業職にまで適用されています。
 一般の営業マンのノルマ達成のための残業を 「みなし労働制」 と扱い無償においやります。たんなる残業代の抑制でしかありません。違法性を指摘されて損保ジャパン日本興亜は廃止を決定しました。
 損保ジャパン日本興亜は働きかた改革を法案を先取りしたのではありません。このような “働かせ方改革” を企業は熱望しているのです。
 改革法案が通ると、このようなことが合法になりかねません。

 8月25日の 「活動報告」 でトヨタの改革を報告しました。
 トヨタ自動車は現在、企画・専門業務の係長クラス (主任級) 約1700人に裁量労働制を導入していますが、“自由な働き方” を認める裁量労働の対象を拡大する新制度を発表しました。7月末に労働組合に提示し、12月の実施を目指します。
 事務職や研究開発に携わる主に30代の係長クラスの総合職約7800人のうち一定以上の自己管理・業務遂行能力を持ち、本人が希望し、所属長、人事部門の承認がある者が対象です。非管理職全体の半数を占めることになります。
 残業時間に関係なく毎月17万円 (45時間分の残業代に相当) を支給し、さらに一般的に残業代を追加支給しない裁量労働制とは違い、勤務実績を把握して月45時間を超えた分の残業代も支払います。これまでの残業代支給額は月10万円程度でした。そのための原資は、以前すすめた人事・賃金制度の改革で浮いた分を充てるといいます。16年1月から、全社員約6万8000人のうち生産現場で働く約4万人の労働者の賃金体系を見しました。
 まさしく、月45時間の時間外労働を違法でないと居直り、労働者の自己責任として常態化します。

 さらに働きかた改革は個人事業主を増やして時間管理の放棄と人件費・「残業代の抑制」 をはかろうとしています。


 総選挙の最中の10月13日、小泉進次郎・自民党筆頭副幹事長の福島市での街頭演説です。
「本来、賃上げ交渉を拳を振り上げてやるのは労働組合のはずですよね。しかしそれを今、国をあげてやっているんです。だとしたら何で労働組合は自民党を応援しないで野党を応援したままなのか。そして労働組合は連合が束ねていますが、本当に労働者の代表は連合ですか。
 私は違うと思いますよ。なぜなら連合の組織率は17%。何で17%の人たちが代表なんですか。今までそうだったから慣例的に代表としてやっているだけで、今の世の中の多くの労働者の代表だとは、とても言えるもんじゃないと思います。」

 小泉氏の演説は半分は正しいです。政府は労働者と労働組合を取りこもうとしています。 「100時間未満」 を受け入れたり、幹部が 「高度プロフェッショナル制度」 をボス交で勝手に了承する連合はすでに取りこまれています。
 政府は長時間労働を合法化するだけの働きかた改革を、政府主導で労働時間の短縮をやったと主張してきます。

 突然の解散で、働きかた改革の法案提出は遅れています。働きかた改革法律案要綱はアメとムチが混ざっています。
 しかし 「高度プロフェッショナル制度」 の了解を全国の労働者と労働組合が撤回させたように “ムチ” の箇所については絶対に認めない闘いを進め、労働者にとっての本物のワーク・ライフ・バランスを対峙し、人間らしい労働を追及していくことが必要です


   「活動報告」 2017.8.25
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三池闘争・三池炭鉱を語るとき
2017/10/20(Fri)
 10月20日 (金)

 10月7日・8日と、福岡市で第29回コミュニティ・ユニオン全国交流集会が開催されました。福岡へは飛行機を利用しましたが、遠路ですので料金は高額です。それ以上にホテル料金が高く、さらに簡単に探せませんでした。
 しかしせっかくなのでともう一泊し、三井三池炭鉱の遺跡を10人で巡りしました。

    紅葉燃 (も) ゆ  石見銀山  処刑場

 10月12日のテレビ・ 「プレバト」で、特待生の東国原英夫が詠みました。
 石見銀山はユネスコ世界遺産になっていますが、過重労働の中で逃亡しようとした坑夫が捕らえられたり、銀を盗んで処刑された場所は除かれているといいたかったとのことでした。マイナスイメージを与えるからだそうです。
 夏井先生のコメントは、直すところはありませんでした。

 三井三池炭鉱の遺跡のなかにもマイナスイメージを与えると判断されるものは観光案内地図からも消えていたりします。
 コースを決めていましたが予定は未定です。

 三井三池争議は1959年から始まります。当時、三井鉱山の従業員数は約4万人です。鉱山全体で4580人の希望退職募集がおこなわれます。三池では従業員数1万6千人でしたが誰も応じません。1278名が指名解雇され、人員整理反対のストライキ闘争が開始されます。
 3月17日、三池労組は分裂し、第二組合が結成されます。

 三川坑跡に行きました。ホッパー (石炭貯蔵槽) 決戦が闘われたところです。
 少し前までは、空き地にされて塀におおわれ、中に入ることができませんでした。
 しかし、万田坑がユネスコ世界遺産になると他の遺跡も保存が進んでいます。三川坑跡は、現在は土・日・祭日には、かつての正門が開けられ、ガイドの方が待機しています。

 かつては施設工として働いていた三池労組員だった方がガイドをしてくれました。
 ホッパー決戦の時は全国から10万人が集まり、石炭の搬出を阻止しました。その時の写真のコピーを示しながらの説明です。集会の壇上には総評の旗が掲げられています。白黒の写真ですが総評の旗だけは赤く塗られてガイドの方の思いが込められています。1人がそのことを指摘すると、案内人のボルテージが上がりました。

 闘争の集会の最中、三池製作所の組合員であった作曲家の荒木栄は作りがけの歌 『ガンバロー』 を披露し評価をあおぎました。最初の歌詞は 「くろがねの男のこぶしがある 燃え上がる男のこぶしがある」 でした。聞いた組合員が 「女もがんばっている」 というと次の時には 「燃え上がる女のこぶしがある」 に変えられていました。(作詞は森田ヤエ子です)

 闘争敗北後、事故が続発します。
 62年8月28日、四山坑で死者1人、重症8人、軽傷2人。29日1人死亡。30日3人負傷。9月、死亡1人、重症147人、軽傷154人。10月、死亡4人、重症144人、軽傷185人。
 「三池炭坑殉職者名簿」 によると61年から63年10月までに47人が亡くなりました。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請組夫が2人です。新労の方が保安に意見をいえない状況がありました。下請組夫の採用は62年から始まります。
 このような状況のなかで63年11月9日、三川坑で炭塵爆発事故が発生、458人が亡くなり、839人が一酸化炭素 (CO) 中毒患者となります。内訳は、三池労組163名、新労242名、職員組合25名、組夫28名です。
 さらに67年9月28日、三川坑で炭塵爆発事故があり、7人の死者と数百人のガス中毒患者となります。
 三川坑の入り口まで行くことができました。事故の時は地響きの後、ここから黒煙が高く吹きあげました。
 そのほかの施設も見学でき、説明を聞いていたら、ここだけで1時間半も要しました。


 大牟田市に隣接する熊本県荒尾市の成田神社に建つ久保清殉難の碑・三池炭鉱災害犠牲者の碑を訪れました。
 60年3月28日、闘争中に会社は生産を強行再開します。その翌日、三池労組の組合員久保清さんが四山鉱正門前で他の組合員とピケを張っていた時、三井鉱山の下請土建会社の人夫をしていた暴力団から刺殺されます。
 その時のことを書いている三池労組発行 『みいけ二十年』 です。
「山代、寺内組 (大牟田、荒尾一帯をナワ張りとする・・・。彼らはふだんは三井鉱山の下請土建会社である三井建設・・・などで人夫をして働いていた) ……暴力団は 『お前の顔は覚えたぞ』 『会社よりよけいに金ば出しきるならあんた達の味方ばしても良か』 などと車上から口々に叫びながら正門前を通りはじめた」
 久保さんを殺したのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者で、ストで仕事からあぶれていた人夫でした。彼らは三池の労働組合の側に組織されることなく、会社に雇われたのでした。
 三池労組は本工主義で、関連会社の労働者に思いをはせることはありませんでした。
 闘争敗北後、解雇された三池労組員はあっせんを受けながら再就職をしていきます。関連会社の労働者のなかにはブラジルなどの中南米に移民した者もいます。棄民です。しかし三池労組員ではなかった彼らはお盆などには懐かしんで 「炭坑節」 を踊ります。

 60年9月8日に三池労組が闘争終結のためのあっせん案を受け入れた後、組合員にその報告をするビラが配布されました。そこに詩が載っていました。

  やがて来る日に
  歴史が正しく書かれる
  やがて来る日に
  私たちは正しい道を
  進んだといわれよう
  私たちは正しく生きたといわれよう

  私たちの肩は労働でよじれ
  指は貧乏で節くれだっていたが
  そのまなざしは
  まっすぐで美しかったといわれよう
  まっすぐに
  美しい未来をゆるぎなく
  みつめていたといわれよう
  はたらく者のその未来のために
  正しく生きたといわれよう

  日本のはたらく者が怒りにもえ
  たくさんの血が
  三池に流されたのだといわれよう

 かつて、久保さんのお墓は四山坑の近くの山の上にありました。お墓の隣に、この詩を刻んだ碑が建てられていました。三池炭鉱が閉山になると現在地に移設されました。今も墓と並んで碑が建てられています。
 そして、三池炭鉱災害犠牲者の碑が建っています。三池炭鉱で亡くなられた労働者を追悼するもので、かつては三池労組の会館の屋上にありましたが、労組が解散した後は久保さんのお墓の隣に移されました。
 会館は、CO患者の闘い、「黒い肺」 の闘い、そして地域的な運動の拠点でした。


 三池監獄があった三池工業高校の構内に入りました。三池工高は、今も一部がかつての三池監獄のレンガの塀に囲まれています。囚人が朝晩数珠うつなぎにされて出入りした扉も残っています。
 日本で “よろけ” の問題が登場する最古の文献は天保時代の佐渡鉱山を取り上げたものだと思われます。塵肺の問題は明治初期から指摘されていました。
 明治初期、三池炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、横須賀造船所などで囚人を労働力として酷使していました。
 三池炭鉱では明治19年から10年間に700人近くが亡くなっています。事故死以外は呼吸器疾患が多いという統計があります。
熊本医学校 (現熊本大学医学部) は熊本監獄の病囚の遺体を研究材料に利用していました (三池監獄は熊本監獄の支所)。データからは三池炭鉱に労働力として送られた5人の坑夫うち4人までが 「病囚の肺患は真の肺労 (肺結核) にあらずして単に炭粉刺激に原由する慢性肺炎即ちアントラコージス (所謂坑夫肺労) なると判然たり」 (沢田猛著 『黒い肺』) ことがわかっています。
 囚人労働は1930年まで続きます。


 一ノ浦囚人墓地を訪れました。
 大きな墓地の端に高いものでも40センチ位、縦横15センチ位の石に番号だけが掘られた墓が40数基地面に並んでいます。囚人墓地だといわれていますが異説もあります。保存会の人たちが管理しています。
 本当はどのような人たちの墓かはわからなくても、名前ではなく番号が彫られているということ自体異常です。
 では囚人は亡くなったらどのように処理されていたのでしょうか。
 もうひとつ囚人墓地があります。そこでは井戸に放り投げて蓋をしていました。井戸は今も残っています。


 残念ながらここで空港に向かわなければならなくなりました。

 ほかの人たちは世界遺産になった万田坑に行きました。
 四山坑などは影も形もなくなっていますが当時の建物も専用鉄道敷とともに保存されています。
 明治時代からの炭坑ですが関連施設も含めて残っています。ガイド付きの見学も可能です。
 米騒動のときは大騒動が起き、処遇改善をかち取っています。


 これ以外の、当初予定していた遺跡です。
 大牟田市の甘木公園に徴用犠牲者慰霊碑が、戦後50をむかえた95年に建立されました。
 41年2月、三池では最初に万田坑に朝鮮人労働者の強制連行が初めて行われました。43年9月に宮浦坑に1666人が連行されました。
 43年に新港朝鮮人収容所と宮山朝鮮人収容所、44年に四ツ山朝鮮人収容所と馬渡朝鮮人収容所、45年に西浜田朝鮮人収容所が開設されました。馬渡社宅には140人が収容されていました。
 馬渡社宅の解体作業の最中に、押入れ壁に書かれたハングルの墨書が発見されました。その壁の様子が碑になって慰霊碑の隣に建てられています。

 強制連行された数は、調査資料ごとに差があります。
 福岡県特別高等課調査に基づく45年1月末現在の 「労務動員計画に依る移入半島人労務者に関する調査表」 (県庁文書) によると、連行朝鮮人の数について、三井三池炭鉱 移入者数2376、逃走者数743、死亡15、電気化学工業大牟田工場移入者数572、逃走者数234、死亡1とあります。
 新藤東洋男著のパンフレット 『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者 -その強制連行と奴隷労働-』 (人権民族問題研究会) では、45年8月現在の三池炭鉱の 「外国人労働者」 の数は、朝鮮人2297人、中国人2348人、俘虜1409人とあります。
 数年前、アメリカ人俘虜だったかたが来日した時、当時の話を聞くことができました。


 交流集会の夜の懇親会では最後にみんなで 「炭坑節」 を踊りました。
 「炭坑節」 のルーツは明治末期の筑豊・田川の三井 「伊田の炭鉱」 が新たに発掘された時の希望の歌だといわれています。ですから元歌の歌詞は 「伊田の炭鉱」、「三井田川坑」 です。
 終戦によって 「勤労報国隊」 が引き揚げ、強制連行された朝鮮人・中国人、そして俘虜などが解放されると炭鉱の労働力は激減します。GHQ (連合軍総司令部) と政府は、エネルギーの供給がなければ、経済再建と活性化はないと電力、鉄道、鉄鋼そしてGHQ用の暖房のため石炭の増産政策を打ち出し、ラジオや新聞などでの石炭増産のキャンペーンを奨励します。そのテーマソングのひとつが歌詞を変えて編曲された 「炭鉱節」 で全国に流されました。おそらく戦後最初に広く歌われた労働歌です。

 このほかに、関係個所に行くことはできませんでしたが、三池炭鉱を語る時、与論島から移住してきた労働者を抜きにはできません。
 三井鉱山は、与論島出身の労働者を 「ヨーロン」 と呼んで差別し、酷使しました。三池闘争は 「ヨーロン」 にとっては労働組合の力強さを知るとともに自分たち 「ヨロンチュー」 の 「人権を回復」 する闘いでもありました。ですから三井鉱山は、三池労組を分裂させたとき、与論島出身者は最後まで残るだろうと判断していました。
 大牟田市では毎年8月に大蛇山祭りが開催され 「炭坑節一万人総踊り」 がおこなわれます。この踊りに 「ヨロンチュー」 は2008年に初めて参加しました。「ヨロンチュー」 が 『炭坑節』 を歌っておどります。三池労組組合員としてではなく大牟田市民としての登場です。先祖が与論島から三池に移住を始めてからちょうど100年目にです。

   「活動報告」 2016.9.6
   「活動報告」 2015.3.6
   「活動報告」 2011.10.7
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「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」
2017/10/17(Tue)
 10月17日 (火)

 10月7日と8日、福岡市で第29回コミュニティ・ユニオン全国交流会 in ふくおかが全国から450人の参加で開催されました。
 1日目におこなわれたパネルディスカッション 「混迷する今、確かな一歩で未来を拓く」 に、中野麻美弁護士がパネリストとして登壇しました。
 「安保法制違憲訴訟・女の会と一票で買える女たちの会」 のビラを示しながら 「平和なくして人権なし 人権なくして平和なし」 の視点で問題提起をしました。
 ビラの見出しは 「平和って何だろう ~私たちが実現したいのはコレです~」 で、思いが書かれています。
 「おなかがすいたらごはんが食べられる。」
 「どんな思想や信条や宗教をもっても、誰かに怒られたりいじめられたりしない」
 「本を読んだり、映画を見たり、できる」
 「お金のことを心配しないで学校で勉強できる」
 「悪いことをしたときには 『ごめんなさい』 って謝ることができる」
 「思いっきり遊んだり、唱を歌ったり、絵をかいたりできる」
 「誰かの顔色をみないで嫌なことはイヤだって、意見が言える」
 「たった一つの大切ないのちだから絶対殺し殺されない」
 「だれとどういう生活をするか自分で決められる」
 「みんなと手をつなげるっていうこと。」
 「わたしが生れてよかったっていうこと。あなたが生れたことをよかったと思える。」
 裏面です。
 私たちは
 ・憲法9条 「改正」 で 「戦争できる国」 にするのはごめんです。
 ・差別と暴力のないほんとうの平和を求めます。
 ・女性の権利の否定は許しません。
 ・憲法を侵し、強行採決 (2015年9月19日) された安保法制の廃止を求めます。
 なぜなら
 ◇日本国憲法は、戦争はしないと約束した世界に誇る宝です。国際的にも戦争は違法です。
 ◇戦争は、人を戦争の道具にする、極めつけの差別と暴力そのものです。平和な世界は貧困と差別、
  暴力をなくし、武力紛争による被害の回復に力を注ぐことから生まれます。
 ◇暴力は暴力の連鎖を生み出します。軍事も同じです。私たちは 「軍事による平和」 はありえない
  ことを確信します。
 ◇戦争への道は女性の権利を否定します。結婚するかしないか、子どもを産むか生まないか、どのよ
  うな家族をつくるか、それは1人ひとりの自由です。このような権利を大切にすることが平和の基盤
  です。
 ◇安全保障法制は、国際紛争を解決する手段として武力を行使しないという憲法に違反しています。
  世論を無視した強行採決は、民主主義の基本理念を侵害しました。
 ◇安全保障法制は、女性の権利、男女平等に反します。男女共同参画社会基本法や国連の安保理
  決議を無視して成立した安保法制は許しません。

 中野弁護士は、さらに市川房江の 「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」 の言葉を紹介し、暴力の体験を記憶して過去のものにしようと訴えました。


 市川房江はどのような人物でしょうか。『市川房江自伝』 (新宿書房) から探ってみます。
 1912年に鈴木文治によって創設された友愛会は男性だけの組織で女性は準会員でした。女性を含めて組織が拡大する中で16年に婦人部を設立します。
 19年8月の第7回大会で大日本労働総同盟と改称されます。大会には13人の婦人代議員が出席しました。機関紙 「労働婦人」 の発行と婦人の常任委員の設置を決定し、婦人部から山内みなと野村つちの2人の理事が参加します。このことで山内は勤務先の東京モスリン亀戸工場を首になります。
 この時に市川房江は大日本労働総同盟友愛会婦人部の書記として機関紙の編集の仕事につく誘いを受け、承諾します。後に、首になった山内は市川のところに同居します。

 1919年に創設された国際労働会議 (ILO) は、婦人問題に関する議論には各国に女性代表の参加を要請します。日本からも女性の政府代表顧問を送ることを決定します。代表には随員をつけますが、市川は人選を引き受け、労働現場を知っている山内に相談します。女性の政府代表顧問も希望します。市川は国際会議で初めて日本の婦人労働者の待遇改善の討議がおこなわれ、いくらかでも改善されればいいと思っていました。
 一方、政府は労働者の代表を三重県鳥羽造船所の技師長桝本卯吉を任命します。これに友愛会は抗議行動を展開していました。そして大日本労働総同盟は山内が政府代表顧問の随員としていくのなら友愛会をやめて行けと待ったをかけます。結局、山内の随員は実現しませんでした。
 市川は、随員がだめになるなら、政府代表顧問を呼んで直接労働現場の実態を知ってもらおうと婦人労働者大会を開催します。大会は政府代表顧問に感激を与えます。
 市川はこの混乱の責任をとって3カ月で辞任します。

 ワシントンで開催されたILO大会で、日本の政府代表顧問は婦人の深夜労働の禁止、産前産後の休養などの問題で尽力します。日本の政府代表や使用者代表も賛成して、婦人の深夜労働禁止に関する条約、出産前後における婦人使傭に関する条約は採択されました。

 市川は友愛会を辞めた後、2年半渡米し、労働運動や婦人運動の現場にでかけて多くの人たちと交流します。
 アメリカは、第一次世界大戦中に婦選獲得の運動が盛り上がり、1920年8月全州で婦人が参政権を獲得します。さらに参政権以外の法律上の男女平等を獲得するための憲法改正運動に着手していました。
 滞在中の24年1月にILO東京支局ができるのでそこの職員になってほしいという手紙を受け取り、帰国します。
 支局での仕事はILOの宣伝、や日本の労働事情の報告などでした。機関紙として 『世界の労働』 を発行することになりその担当になります。

 25年3月、東京支局はILOで採択された条約の批准を促進するため国際労働協会を結成します。さらに15年1月に開催された一般委員会で婦人労働の実態を行なうことを決め、婦人委員会および婦人の臨時委員会がそれに当たることにします。
 最初の調査は 「炭坑における婦人の坑内労働」 です。常磐炭坑をおとずれ、地下にも下ります。そして一般委員会で 「婦人の坑内労働禁止に関する決議」 を採択します。
 各地の紡績工場を視察し、「紡績業における徹夜作業禁止に関する決議」 も可決します。
 その傍ら婦人参政権運動などにも関与していました。
 ILOには丸4年間勤務しましたが1927年末に婦人参政権運動に専念することを決意し辞任します。
 友愛会、ILOでの経験はその後の活動でも役に立ったと語っています。

 市川は他者のことを悪くいうことはありませんでした。そこで 『十二歳の紡績女工からの生涯山内みな自伝』 (新宿書房) からもう1人の市川を見てみます。
 山内みなは1913年、東京モスリンに入社します。12時間労働で、休憩時間は午前に15分、昼食時間30分、午後3時に15分で夜勤もありました。社員は食堂がありましたが、原料を運ぶ人夫の臨時工の昼食は弁当を持ってきて食堂の外の広場で立って食べている状況を目撃します。
 14年、賃上げを要求してストライキが行なわれます。しばらくたってから機械の修理工の青年が来て 「俺は首にならなかった。首になった人たちは、会社が交渉に応じないので、友愛会に頼んで交渉中だ。やっぱり友愛会でなければだめだ。みんなで会員になろう」 「みなちゃん、あんたはいちばん若いから、長くこの会社で働くようになるだろうから先に入れ」 ということで入会します。
 会社は指導者を解雇しますが、彼らは金銭を受け取って復職しないで退職します。「友愛会でなければ会社は相手にして話を聞いてくれない、友愛会は自分たちの味方なんだな」 と感じます。
 友愛会は会員も増えて、工場のなかが少しづつ変わっていきます。

 首切りに反対を闘っていた山内は、19年12月、友愛会本部から呼びだしを受けます。鈴木会長と松岡駒吉主事から、会社と交渉をして山内を友愛会が引き取ることにしたと告げられます。
 荷物をもって本部に行くと松岡は山内を自分の家に引き取ることになったと話します。そして 「どうせ知れることだからこの際話しておくと、実は鈴木会長は女癖が悪くて、いたるところ問題を起こし、いま奥さんも恩師の夫人であったのだ。みなちゃんは清純な娘だから、万一のことがあっては気の毒だし、友愛会も責任があるから、私のところで保護する」 といいました。
 松岡の家で3か月過ごしました。
 しかし不安の中で、20年3月、講演会のときに知り合った市川の住所を探して訪ねます。

 山内の訴えを腕を組んで聞いていた市川は 「フン」 と笑い、「私は総同盟の中でどれほど男女の差別が遺されているかを、いやというほど見せつけられてきた。私としては婦人の労働運動をする前に男女平等の婦人運動をせねばならないという結論をだした」 といいます。共同生活が始まります。
 市川は平塚らいてうらと新婦人協会創立準備に打ち込んでいました。


 19年、日本初の婦人団体 「新婦人協会」 を設立し、女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開します。
 24年、「婦人参政権獲得期成同盟会」 を結成し、議会に婦人参政権を求める運動を続けました。
 40年、婦選獲得同盟を解消し 「婦人時局研究会」 へ統合します。
 42年に婦人団体は 「大日本婦人会」 に統合されます。大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組み込まれ、市川は大日本言論報国会理事に就任します。市川は、組織が大きくなれば婦人をめぐる問題で発言力が増し、地位は向上すると期待していたと思われます。
 しかしそうではなく、敗戦を迎えます。

 このような体験から到達した思いが 「平和なくして男女平等なし 男女平等なくして平和なし」 だったのでしょう。戦争は男女の役割強化。差別を強化しました。
 市川のその思いを引き継いでいるのが 「平和なくして人権なし 人権なくして平和なし」 です。

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共同体・海・山を壊す防潮堤
2017/10/11(Wed)
 10月11日 (水)

 東日本大震災から6年7カ月がたちました。復興はどれくらい進んだといえるのでしょうか。仮設住宅にはまだ1万8000人が住んでいます。やむを得ないことなのでしょうか。
 時間が経過するとともに、被災地では当初とは違う問題が発生しています。
 震災直後の2011年6月に政府の中央防災会議がまとめた津波対策に基づいて防潮堤計画が発表されます。数十年から百数十年に1度起きる津波を 「L1」、1000年に1度とされる最大クラスを 「L2」 に分類し、L1を防潮堤で守ることを基本とします。これを基に国交省や農水省などが高さについての通知を出し、シミュレーションをしたうえで各県が地域ごとにL1を防げるよう、高さを決めました。
 防潮堤事業は青森県から千葉県までの太平洋沿岸の計677カ所です。591カ所が岩手、宮城、福島の3県に集中し、高さ5メートル以上の防潮堤は約300キロです。土地の用途によって所管が国土交通省、農林水産省などに分かれ、総事業費は約1・4兆円です。
 工事は住民の意見を聞いて合意が必要ですが、行政が見切り発車の形で着工した例もあります。
 全677カ所のうち、約200カ所は当初計画より高さを下げたり、位置が変更されたりしました。

 15年12月11日の 「活動報告」 の再録です。
 震災後の状況について語る時、「そこ退け、そこ退け防災が通る」 といういい方があるのだそうです。防災という名のもとに住民の意見は無視され、上からの計画が押し付けられます。東日本大震災の場合には防潮堤がそうです。箱モノ、公共事業で建設・土建業界は好景気です。
 防潮堤は、高さの3倍の幅の土地が利用不能となります。例えば、高さが20メートルの防潮堤では、両側で60メートルの範囲内の土地は使用不可となります。高い防潮堤は海の様子が見えなくなり、遮断されてしまうといわれています。さらに海に行くには回り道をしなければならなくなります。生活上だけでなく、精神的にも物理的にも遠くなります。
 宮城県女川町では、国土交通省と県が高さ30メートルの防潮堤を築こうとしました。地元で頑張る被災者と町民は止めさせました。そして海から逃げないで共存しようと 「津波に弱い町づくり」 を続けています。危険と思ったらすぐ避難できる防災対策を進めています。津波の大きさは予測できません。
 中学生たちは、東日本大震災の時に津波が到達した高さに碑を建てました。今度津波が予想されるときはこれ以上高いところに避難しようという標識です。

 3月23日の毎日新聞の 「記者の目」 です。
 「陸と海を分断」 損なわれる景観
 例えば岩手県大槌町の赤浜地区。住民は高台移転を決めたものの県は高さ14.5メートルの計画にこだわった。住民には高い防潮堤によって景観が損なわれるほか、海の変化が見えずかえって危険になるとの声が根強く、県は結局震災前と同じ6.4メートルに変更した。
 震災前よりは高い防潮堤計画になったが、それでも行政が計画より高さを下げた例が宮城県塩釜市の浦戸諸島だ。高さ3.3メートルの計画に一部島民が 「海が見えず、生活にも支障が出る」 と訴えた。過去の津波の痕跡などから、部分的に2.1メートルに引き下げた。
 住民の賛否が割れる中、行政が見切り発車するような形で建設に踏み切ったのが宮城県石巻市雄勝町 (おがつちょう) の防潮堤だ。
 雄勝町の中心部約600世帯は津波に流された。約4カ月後、住民らでつくる 「雄勝地区震災復興まちづくり協議会」 は、「高い堤防を築かない」 ことなどを盛り込んだ要望書を石巻市長に提出していた。高い防潮堤が 「陸と海を分断してしまう」 が理由だった。一方、市と県は12年3月までに、震災前の4.1メートルの倍以上になる高さ9.7メートルの防潮堤建設を住民に提示。中心部の高台移転は11年秋に住民に示していた。
 住民の意見は割れた。市と県の説明会では 「町に戻りたいけど、防潮堤がないと怖くて戻れない」 と泣いて訴える女性もいたし、「住宅は高台に移転する。いったい何を守るために造るのか」 「海が見えなくなったら、もう古里ではなくなってしまう」 といった反対意見も出た。
 「L1」 対策巡り、行政と識者ずれ
 高い防潮堤には一部住民の根強い反対はあったものの、市側は 「議論がまとまらないと、他の復興が遅れる」 と主張。県は14年6月に 「住民合意は取れた」 と判断し、計画を決定。昨年夏に着工した。
 宮城県の担当者は 「L1は防ぐとの方針がある以上、県民を守るために最大値を想定するのが我々の務め」 と話す。中央防災会議の決定は重いというわけだ。ところが、当の中央防災会議で地震・津波対策に関する専門調査会の座長を務めた関西大の河田恵昭教授 (防災学) は 「L1すべてを防ぐ要塞 (ようさい) を造れとは言っていない。避難路を整備することなどでリスクは軽減できる。地域に合った計画を作れる余地を残した」 と主張する。行政と専門家の間にボタンの掛け違えのようなずれがある。
 かけがえのない家族を亡くしたり、自宅を失ったりした被災者にとっては今も生活の再建こそが最優先課題で、行政も復興を急いでいることはわかる。その意味で防潮堤を巡る議論は必ずしも優先順位は高くないかもしれない。しかし、雄勝町をはじめ各地で住民の反対運動が起きたことを軽視すべきではない。
 677カ所のうち、6カ所は住民が合意しておらず、工事が始まっていない。見切り発車せず、住民と十分に協議して計画を練るよう望みたい。


 防潮堤建設は被災地住民を分断しました。
 9月13日の河北新報、見出し記事 「復興の虚実 (1) 防潮堤 [上] 隔絶された海 賛否が対立、浜を分断」 です。
 東日本大震災の被災地に、復興の理想と現実が交錯する。発生から6年半、崩壊した風景の再建は進んだが、住まいやなりわいの足元は固まっていない。宮城県知事選 (10月5日告示、22日投開票) は、復興完遂に向けた道筋が争点となる。「フッコウ」 の掛け声が響く中、沿岸には被災者の苦しい息遣いとやり場のない嘆きが漂う。
 <「誰も語らない」>
 住民の命を守るはずの防壁が地域を分断し、浜に暗い影を落とす。
 海抜14.7メートル、長さ800メートル、最大幅90メートル。既に表面の大半がコンクリートで覆われた巨大建造物の上を、ショベルカーや巨大クレーンが慌ただしく動く。
 気仙沼市本吉町小泉地区の海岸に、宮城県内で最も高い防潮堤が姿を現しつつある。県は本年度中の完成を目指し、整備を進める。
 「今、小泉で防潮堤の話をするのはタブー。もめたくないから誰も語らない」。建設反対を訴え続けた男性 (50) が打ち明ける。職場の上司から 「防潮堤の話はするな」 とくぎを刺され、男性も外部への発言を極力控えるようになった。
 <しこりは消えず>
 計画が示されたのは2012年7月。「命が大事」 と早期建設を求める賛成派と、環境などへの配慮を求める反対派が対立した。
賛成派で、地域の意見集約に奔走した地元の市議 (55) は 「生々しい津波の記憶が残る中、悩んだ末に出した結論だった」 と振り返る。約20回の説明会を経て県は 「了承を得た」 と判断したが、賛否で生じた地域のしこりは今も消えない。
 国の中央防災会議専門調査会が11年6月に示した提言に基づき、県は数十年から百数十年に1度の津波に対応できる堤防の高さを決めた。「津波から命を守る」 を旗印に建設に突き進む県の姿勢は、しばしば被災地の反発を招いた。
 県が同市本吉町の日門漁港に計画する海抜9.8メートルの防潮堤は、地域住民の反対で着工のめどが立たない。長さ280メートルの防潮堤を築くと、国道から海や港が見えなくなる。
 今年5月に地元の公民館であった説明会。県は2メートル間隔で壁に小窓を設ける修正案を示したが、住民は納得しなかった。地元の漁師 (69) は 「景観は宝。小さな窓では海の様子は分からない。県はわざと騒ぎの種をつくるのか」 と憤る。
 「選択肢がない状況で、住民に是非を迫るのは問題だ」。大谷里海づくり検討委員会事務局長の三浦友幸さん (37) は、県が一方的に計画案を示すやり方に疑問を感じている。
 <歩み寄りに時間>
 三浦さんらは大谷海岸に防潮堤を築く県の計画に反対した。砂浜を守るため、建設位置を内陸に移して国道との 「兼用堤」 とする対案を出し、粘り強い交渉で実現させた。意見集約から交渉まで5年。三浦さんは 「行政と住民が歩み寄り、信頼を築くには時間も必要だ」 と訴える。
 防潮堤に守られる住民から批判を浴び、時に浜の分断を生みながら、県は淡々と整備方針を貫く。各地の浜に出現し始めた巨大な壁が、異論をはね返す。
 気仙沼市議の今川悟さん (42) は 「県にとっては単なる土木事業の一つだが、住民にとって防潮堤は街づくりの一つ。浜ごとの思いをくみ取ってほしかった」 と批判を強める。

 最も強固な防災は共同体の日常的運営です。しかし防災のための防潮堤がそれを崩しています。
 防潮堤に2メートル間隔で壁に小窓を設けるとは滑稽な話です。これで漁民は日和、風向き、波の音、匂いをかいでその日の作業の判断をすることができるでしょうか。しかしすでに作っているところもあります。


 防潮堤建設はこれだけではない問題があります。
「海岸に接する森林は、漁業にとって重要な役割を果たしていた。樹影が付近の水域を暗くすることによって、小魚類には格好の休息の場となり、また敵から逃れる便を与えた。
 樹木の枝葉が落ちて植物質を水面にもたらすため、その腐蝕に伴い魚類の好む水中微生物が増殖した。また、森林中に生活する昆虫類が風雨などで常に海面に落下し、魚類の餌となった。さらに、森林の繫茂は水温を調節し、アルカリ塩類の含有量を増して、海藻類を繁茂させた。そのため、森のそばには魚が集まり、絶好の漁場となったのである (魚附林)。
 樹林に海鳥が棲息・繁殖し、群れをなして魚群の来遊を知らせるため、漁民が森林とともに海鳥を保護している所もあった。また付近の河川からの汚濁した淡水の流入が海水魚を駆逐するのを防ぐために、上流の水源地での森林育成に努めている事例は各地にみられる。このように、海岸近くの森林の存在は漁業の盛衰を左右したのである。
 海岸近くの森林の利用は林業あるいは農業も面からのみ考えるべきではなく、漁業とも深い関係をもっていた。そして、漁業のためには、むしろ農林業的な土地利用を抑制して、森林を保全することが必要なのであった。江戸時代には、漁業と漁民がそれを行なってきたのである。」 (渡辺尚志著 『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』 草思社)

 このことは東日本大震災が証明しました。
 被災地で震災後に収穫した近海ワカメは従来よりいい品質、ホタテの発育もよかったといいます。海底がかき回され海水がきれいになったのと、津波が引いた時に陸から流れ出たプランクトンや栄養素が原因ではないかといわれています。海水だけでは海藻は育ちません。
 陸と海が共存しないと豊漁にならないのです。「森は海の恋人」 です。高い防潮堤は恋人を引き裂きます。

 災害は防ぐことはできません。ですから海と共存しながら 「減災」 をみんなで考えて行く必要があります。

   「活動報告」 2017.6.13
   「活動報告」 2017.4.28
   「活動報告」 2017.4.14
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