2017/06 ≪  2017/07 12345678910111213141516171819202122232425262728293031  ≫ 2017/08
治安維持管理を補強した “隣組”
2017/07/11(Tue)
 7月11日 (火)

 6月15日に強行採決された 「共謀罪」 は7月11日に施行されました。
 13年12月に成立した特定秘密保護法、15年7月に成立した安保関連法と 「共謀罪」 は一体のものです。軍事体制に合わせて治安維持管理体制が強化され、監視社会は事前に 「心の中まで監視され」 ることが合法化されます。事前とは日常的にということです。法律の成立だけで人びとは恐怖感と不安感に襲われます。これもこの法律の1つの目的です。
 「共謀罪」 は戦前・戦中の治安維持法に似ているという指摘があります。治安維持法は1925年に成立しますがすぐには行使されませんでした。今回もそうなのでしょう。
 権力の治安維持は法律で上から押さえつけるだけでは完成しません。横から、お互いの監視をさそい、猜疑心をいだかせることで相乗効果が生まれます。今、政府は監視社会を強め、まさしく 「国家と、社会と、個人のあいだの関係を変える」 ことで “強い国家” を作り上げることを狙っています。


 戦前・戦中に人びとを監視させたのが “隣組” で、工場においては産業報国連盟でした。
 明治政府は中央集権国家を目指しますが、支配権力は市町村の末端までは貫徹しませんでした。そのため部落会や町内会組織を利用しようとしますが、そこでは古くからのボスが支配している状況やその地方がもつ独特の問題がありました。徴兵令を成功させるためには 「郷土〇〇隊(団)」 などを組織しますがそれだけでは不十分でした。

 第二次世界大戦において、日本は当初から資源や食糧が不足していました。その確保を中国と東南アジアに求めていくなかで泥沼に陥っていきます。戦争を継続していくには人びとの動員を可能にするあらたな組織が必要となります。
 2014年11月26日の 「活動報告」 の再録です。
「中国との戦争の初期の段階で、中央政府の官吏は、やがて資源が不足して配給制度が必要となるであろうという見通しをもちました。だがその配給制度は、これまで日本では試みられたことがないので、突然に設立するというわけにはいきません。そのためには何らかの教育機関が必要で、それらを通して市民が、配給に馴染んでいくということが望ましいと考えられました。」 (鶴見俊輔著 『戦時期に本の精神史 1931-1945年』 岩波書店)
 1938年、東京市役所の区政課長をしていた谷川昇は、徳川時代の近所付き合いの5人組を復活させて、隣組という新しい名前を与えることを思いつきます。東京市長はこの案を受け入れて、5月19日の東京市の布告に乗せました。
「このとき谷川課長は、徳川時代の5人組という制度だけからではなく、幕末の二宮尊徳の構想した近所の互助組織からも示唆を得ています。ただし、この自発的な相互互助という側面は、谷川課長の意図にはあったとしても、1938年から1947年にかけての隣組制度の歴史においては、実現されませんでした。1947年までというのは、この制度が、占領時代の政府の指令によって廃止されたからです。
 隣組は、政府によって定められた政策を民衆生活のところまで下げていくというための道具として用いられました。……この組織は、すぐに中央政府高等官僚と陸軍軍人に乗っ取られて、これらの役人と軍人が市民の日常生活を細部に至るまで監督しそれに干渉する機関となりました。」 (『戦時期に本の精神史 1931-1945年』)

 隣組についての具体的なことについて、秋元律郎著 『太平洋戦争下の都市生活 戦争と民衆』 からみてみます。
 例えば東京の下町と山の手では住民の近所づきあいは違っていました。特に山の手では交隣共同といった習慣があったわけではありません。
 1940年の内務省訓令で、部落会および町内会が 「市町村ノ補助的下部組織トスルコト」 とされ、さらに大政翼賛会が翼賛運動を徹底させるために、活用しようとします。それは地方制度としての部落会・町内会を、市制あるいは町村制のもとにおくというのではなく、内務省が訓令をもって整備させ、指導・監督していくということです。さらに一歩進めて 「自然発生的隣保共助の精神を生かすような適正な立法」 がおこなわれます。つまりは、国家としての支配体制も変更されます。これが隣組です。
 しかし 「隣組は、こうした階層間にわだかまる人間関係のもつれを、陰湿な世界におしこめたまま、みせかけの平等化をおしすすめていったといえる。」 といいます。
 そのため、東京市市民局長などがかかわって 『隣組読本』 を作成して推進をはかります。
  『隣組読本』 です。
「事実、隣組は部落会などと違って、その困難さは大いにあるであろう、然しながら、他に私共の個人主義的な都会生活を再編して、国家の要求であるところの協同による新しい生活、国家目的に協力する奉仕の生活体制を作る方法があるかどうかというと、一寸見当たらないし、また考へつかない。結局この隣組が一番いいということになる。」

 隣組の組織化が強制されていきました。
「たんに臨保共助の美風の協調だけにあったのではない。この公権力を背景とした国民統合策とは、防空・防火・登録、配給、資源回収、国民貯蓄、衛生、消費規制、防諜等といった業務がともなっていたのである。……しかもそこに行政から注入されてくる業務が、個々人の行動の一挙手一投足や、生活の細部まで規制する力をもって、さまざまな領域で個人の生活を拘束してくる。当然、そこにはこれを仲介し、統括する政治的人間があらわれてくる。こうなれば問題は、もはや純粋な地域集団の生活や機能をこえたものとなる。」

 中央-府県-市町村-町内・部落-隣組の系統にしたがって常会という少なくとも月1回の定例集会を運営します。そして種の地域常会から、職能常会および職場常会というふうに広がっていきました。
「つまるところ常会は、時局認識と相互教化のための寄合いであり、上位下達の貫徹をはかるために仕組まれた装置にほかならなかった。だからこれを徹底化するためには、完全に常会を日常的な催しとしなければならなかったし、一貫した統制のもとにおいておく必要があった。
 タテマエはともかくとして、実際にはギスギスした人間関係を内にひめた隣組生活を軌道にのせ、これを活性化していくためには、どうしても日常的接触を量的にふやし、相互教化の場を制度化していく必要があった。これを疑似自発性によって粉飾したのが常会だったのである。」
 そして大政翼賛会の傘下におさめられ、1943年月に、従来の指導と運営とを再批判して 「戦ふ常会」 の強化に乗り出します。


 隣組は工場の中にも組織され浸透していきます。5月12日の 「活動報告」 の再録です。
 戦前の戦時体制への流れを、アンドルー・ゴートン著 『日本の200年 徳川時代から現代まで』 (みすず書房) からみてみます。
日本軍は中国大陸でのはげしい抵抗にあい、予定していた資源を獲得できなくなります。さらに多くの兵士にも多くの犠牲が出ました。
「近衛内閣は1941年に国家総動員法をもちいて、経済体制の総仕上げをおこなった。すなわち、重要産業団体令を公布することによって、統制会というシステムを導入した。重要産業団体令は、各産業ごとに 『統制会』 と呼ばれる巨大カルテルをつくる権限を商工省に付与するものだった。
 統制会は、それぞれの産業内で、原料と資本の分配を決定し、価格を設定し、各企業に生産シェアと市場シェアを割り当てる権限をもった。実際には、各統制会の理事に名を連ねたのは、財閥系企業の社長たちと官僚たちだった。国家と協力することによって大企業は、これらのカルテルと統制会の運営について大きな影響力をもちゃっかりと保持した。」

 政府は戦争に反対する潮流、とりわけ労働組合の抵抗をおそれました。そのためにさまざまな懐柔をすすめながら一方で徹底した弾圧を行ないます。
経済効率を高めて社会秩序を確立するにはトップダウンの動員にかぎる、と主張する者たちは、こうした経済面の改革と平行して労働新体制の整備も推進した。1930年代のなかば以降、内務官僚と警察官僚たちは、労働者側と経営者側の代表で構成する懇談会の設置を工場ごとに義務づけ、個々の懇談会を地域連合、さらに全国連合へとピラミッド方式で組み入れる、という構想を練っていた。
 1938年7月、内務省と厚生省は、産業報国連盟 (略称産報) という表向きは独立した自主的な労働組織だが、実態としては官製の労働組織を発足させた。残っていたごく少数の労働組合の大半は、すでに戦争を支持し、経営者に協力的な態度をとっていたが、これらの組合は産報とひっそりと共存した。多くの大企業は、1920年代に組合に代わるものとして発足させていた既存の職場懇談会の名称を変更して、単位産報組織へと再編した。……
 1940年、第二次近衛内閣は産報を再編し、政府直轄の大日本産業報国会を創設した。政府は、まだ存続していた500の組合 (組合員36万人) を解散させ、新たな産業組織に参加させたほか、全国のすべての向上に産報懇談会の設置を義務づけた。1942年には、工場レベルの産報組織は約8万7000人を数え、合計約600万人の労働者を擁するまでになった。
 産報運動の推進者たちは、産報の末端組織として工場ごとの懇談会が経営者と従業員の士気を高め、双方の連帯感を育むと同時に、アジアにおける 『聖戦』 のための生産拡大に寄与するものと期待していた。……
 しかしながら、産報が、ホワイトカラーとブルーカラーの従業員がともに加入する職場組織の先例を打ち立てた、ということは少なからぬ意味をもった。産報は、あらゆる従業員が国にとっても、企業にとっても重要なメンバーだとする見方に、公式に、しかも明確なかたちでお墨つきをあたえたのである。やがて戦後の労働組合運動は、この戦時中の先例を基礎として出発し、先例を転換しながら展開していくことになる。」

 産報は、労働者にとっては自分らも参加している組織です。そこでの処遇は、ホワイトカラーとブルーカラーは同じです。そして聖戦の勝利を訴えて我慢を強い、不満を 「貧しさの平等」 で解消していきます。

 実際の体制はどうだったでしょうか。
「全体としてみれば、国家の動員計画は、計画が掲げていた国家の 『改造』 というもっと野心的で、全体主義的とさえいえる目標には到達しなかった。限定されていたとはいえ、かなりの多元主義が存続しつづけた。経済体制も、産業報国連盟も、大政翼賛会も、日本の臣民を国家の全面的な支配下に置いたわけではなかった。しかし、社会を戦争に向けて動員し、その過程で社会を変革する、というこの運動が、国家と、社会と、個人のあいだの関係を変えたことは確かである。国会は周縁的な機関に成り下がった。」
 多くの人びとに犠牲を強いながら財閥の資本家はさらに大きな富を築いていました。


 では昨今の隣組は何でしょうか。
 安倍政権のなかで開始された 「マイナンバー制度」 には1人ひとりのあらゆる情報が集めて管理しようとするものです。「ストレスチェック制度」 は、個人の “こころの問題” をさらけ出させた健康状態を自分以外の誰かに管理されます。
 そして、携帯、インターネット、ツイッターでは出所不明の情報が流され続け、否が応でも目に入ってきます。その情報はすこしづつ浸透していきます。個人が管理できないところで情報が流出されています。時には自らも他者の情報を流出する行為に組したりします。届いた情報に返事をしないと仲間はずれにされるという思いから迎合する返事をします。攻撃のターゲットにされると見ず知らずの者からも人格否定をふくめて攻撃を受けます。かつての隣組以上です。
 携帯、インターネット、ツイッターは 「共謀罪」 などの反対の抗議集会への参加も呼びかけられ、運動の盛り上がりに役立っていますが、そもそもは軍の情報収集が目的で開発されたものであるということを忘れてはいけません。機種は自分のものであってもそこを通過する情報管理は他者がおこないます。使用に際しては自己管理をもっと徹底し、人権、個人保護が認識する必要があります。

 戦時中、厚生省が創設されたのは “強い兵士” と “強い産業戦士” を育てるためでした。
 産業報国連盟の体制から抜け出せないままで日本の戦後の労働運動は出発しました。
 安倍政権は、官製春闘を組織し、“働きかた改革” を推し進めています。しかしこれらは本当に労働者のためをおもってのことではありません。“働きかた改革” は生産性を向上させるのが本質的目的です。
 さらに労働組合を無力化し無用論を登場させようとしています。そして非正規労働者の不満を政府や社会からそらして労働組合と正規労働者に対峙させようとしています。
 労働組合団体はだらしなさすぎます。労働組合は、今一度、横の繋がりとは何かをとらえ直して追究しないと、完全に政府と会社から取り込まれ、産業報国会に再編されます。歴史が足元から繰り返されます。

   「活動報告」 2017.6.30
   「活動報告」 2017.5.12
   「活動報告」 2014.11.26
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 仲間・連帯・団結 | ▲ top
| メイン |