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「東北でよかった」
2017/04/28(Fri)
 4月28日 (金)

 4月25日、今村復興大臣が自民党二階派の政治資金パーティーの講演で 「東北でよかった」 という趣旨の発言をして辞任に追い込まれました。
 大臣はパワーポイントを使用して20分講演しました。ということは、説明・発言内容を事前に準備をしていたということです。思ってもいないことがぽろっと漏れたのではありません。発言内容です。
「(東日本大震災は) 死者が1万5893人、行方不明者2585人、計1万8478人。この方が一瞬にして命を失ったわけで。社会資本の棄損も、いろんな勘定の仕方がございますが25兆円という数字もあります。これは、まだ東北で、あっちのほうだったからよかった。これがもっと首都圏に近かったりすると、ばく大なですね、甚大な被害があったというふうにおもっております。」
 数字にしか関心がありません。大臣の発言は 「あっちのほう」 です。ここに本心があります。


 「東北でよかった」
 どこかで聞いたことがあると思ったら、思い出しました。直木賞作家の高橋克彦が東北大震災後の2013年に出した 『東北・蝦夷 (えみし) の魂』 (現代書館) の序幕にありました。
「リーダーの条件とは何だろうか? ……
 東日本大震災を経験したことで見えてきた、新たなリーダー像もあるのではないか。頭脳とか行動力といった理由からではなく、何故か自然と和の中心にいる人――なんだか頼りない奴だけど、でも、あいつがいるといいよね――そんな人が、これからのリーダーになっていくのではと思っている。……」
 東日本大震災を経験して東北の人たちはたくさんのことを学びました。多くの人から支援を受け、本当に大切なものは何かを発見しました。「国の姿」 ・政治家の姿勢も見てきました。
 リーダーといわれるにふさわしいのは、政治家においても 「頭脳とか行動力といった理由からではなく、何故か自然と和の中心にいる人――なんだか頼りない奴だけど、でも、あいつがいるといいよね」 といわれる人です。寄り添う人です。
 「東北でよかった」 と平気で言えるような人は、「あいつがいると迷惑だよね」 の存在です。不愉快・ムカツキました。悔し涙がでてきました。

「東北は朝廷など中央政権に負け続けている。
 阿弖流為が坂上田村麻呂に、阿部貞任が源頼義に、平泉の藤原泰衡が源頼朝に、九戸政実が豊臣秀吉に、そして欧州列藩同盟は明治政府により賊軍とされた。」
「東北の民は朝廷軍など中央の権力と何度も戦い、すべて敗北した。負けた側は歴史を消されてしまう。勝った側は当然のように自分たちの正当性を主張する。自分たちは正義の戦いをした、抗った連中は野蛮で文化もなく殺したって構わない奴らだ、と決めつけたのだ。
 東北は……たびたび大規模な戦に巻き込まれたため、歴史をズダズダに書き換えられ、棄てられてしまっている。それでも東北の人たちは逞しく生きてきた。その事実を子供時代に知ることが、どれほど大切か。特に中学・高校生の頃、故郷への思いや誇りを胸に刻み込んでほしい。それが必ず心の支えになっていく。……
 阿弖流為も安倍貞任も九戸政実も、逆賊どころか故郷を守ろうとしたヒーローなのだと正当な評価が広がり、『自分は東北に生まれてよかった』 と思える子供時代を過ごせば、きっと壁を超える力を得られるだろう。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)


 阿弖流為の戦いです。
 785年、朝廷と蝦夷は支配権の均衡が崩れます。あちこちで戦いが始まります。
 蝦夷の中心にいたのが胆沢の長・阿弖流為です。その後28年間戦いが続きます。
 しかし 『続日本紀』 などの歴史書にはほとんど記述がありません。朝廷は5万の軍を送りますが、負け続けている歴史は記録しません。
 蝦夷を 「平定」 した時の記述は蝦夷の首級200に対して朝廷の戦死者は800とあります。実際は、戦って死んだ者25人、矢にあたって死んだ者245人、川に身を投じて溺死した者1036人でした。
 799年、桓武天皇は坂上田村麿を征夷大将軍に任命します。
 802年、田村麻呂は胆沢に進出、阿弖流為は500の手勢を引き連れて本拠地を明け渡します。しかしこの間の資料もありません。
 なぜ阿弖流為は降伏したのでしょうか。蝦夷の疲弊が極に達していたからと推測されます。どうしたら蝦夷に未来が残せるかの苦闘がありました。
 高橋克彦は阿弖流為を描いた小説 『火怨』 で、「リーダーとは共に戦う兵士たちに郷土に対する思いをきちんと伝えられる人間だ」 といっています。
 やはり復興大臣とは違います。


 1198年に平泉の藤原泰衡が、朝廷の命を受けた源頼朝によって攻撃を受け後退したことについては、11年9月1日の 「活動報告」 でふれました。
「戦わずして負けたのは、弱腰だったからではない。入り込んできた20数万の敵兵と戦えば、平泉や奧6郡が灰になってしまうのを恐れたからだ。それよりは、自分たちが立ち去ることで、国と民を守ろうという判断をしたのだろう。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)


 九戸政実については15年8月18日の 「活動報告」 で書きました。
 1591年、豊臣秀吉の軍勢15万が屁理屈をつけて九戸政実の九戸城に攻め入ります。攻防が続きますが最終的に政実は降伏します。
 城下の住民の被害が拡大することを避けるためにも、南部藩に自分ら四兄弟の首を差し出すことを条件にした和議を申し出ます。奥州勢も秀吉の野望に気づき、奥州の共同体を守る方向に転換して和議を成立させます。双方の被害は最小限でくい止められました。そのために 「降伏」 したのです。そして秀吉の野望は頓挫しました。
 政実の思いは、「山の王国」 ・蝦夷を含めて奥州の共同体を守る、農民たちを苦しめない、鉄砲の性能を高める良質の硫黄の山は渡さない、そのためには自分の首を差し出すことも辞さないというものでした。硫黄の山は秀吉に渡ることはありませんでした。現在の松尾鉱山です。
 秀吉はすでに朝鮮への出兵を計画していました。そのため奥州からも人足を集めようとします。朝鮮出兵のためには、寒さに強い兵士が必要でした。
 福島龍太郎の小説 『冬を待つ城』 (新潮社) は秀吉の朝鮮出兵、日本でいうところの1592年からはじまった 「文禄の役」 の場面から始まります。計画通りにはいかなくて苦戦します。
 政実と奧州勢の策略は、秀吉の朝鮮出兵による朝鮮の人びとの被害を小さくしました。今でいうなら 「日朝連帯」 でした。


「中央政権が攻め込んできた時には、東北から奪い取りたいものがかならず中央の側にあった。阿弖流為との戦いでは黄金であり、前九年・後三年の役では武士勢力の源氏が、軍馬や鉄など軍事資源を狙った。源頼朝による平泉制圧はそれら軍事資源に加えて、より高度な軍事技術、すなわち軍馬の育成であり、刀や鎧などの武具製造技術であり、公家政治とは異なる平泉の政治制度をも欲しかった。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)
 九戸城への攻撃をふくめてまさしく植民地そのものでした。


 戊辰戦争で官軍が東北に大量に入り込みます。その後に薩長土肥の新政府によっていわれ始めたのが 「白河以北一山百文 (しらかわいほくひとやまひゃくもん)」 です。「白河の関所より北の土地は、一山で百文にしかならない荒れ地ばかり」 という意味です。
 明治維新後、官軍側の役人が赴任し、急速に東北は差別され虐げられます。武士たちは北海道改開拓移民などに応じて移住します。他の者も明治政府が進めた富国強兵政策のもと軍隊に入っていきます。日露戦争の時、激戦地の203号地で最前線に立たされたのは東北の兵です。新たな差別が始まります。「新植民地」 です。
 戊辰戦争で生活の糧を荒らされ、東北での生活がむずかしくなった人たちは東京などの大都市に職を求めます。明治10年頃の東京の 「下男」 ・ 「下女」 はほとんどが東北出身者で、東北弁を話します。いまも東北弁を使うと笑われたり差別されます。「下男」 ・ 「下女」 が話す言葉だったからです。
 「新植民地」 の典型が、電力供給地、そして危険なものを押し付けた福島原発につながっていきます。沖縄に米軍基地を集注させている発想にそっくりです。


「東北の民、蝦夷と呼ばれる人々に共通しているのは、自分たちから攻めていくことは決してないという点だ。自分たちから攻めないのは、我慢ができるからだ。反対に、いざ戦うとなったら、我慢を重ねた分の重みがあるから、命を賭して立ち向かうことになる。……
 弱いのではなく、遥か遠くまで見ているような意識とでも言おうか。自分という存在は、決して中心にいるのでもなければ、自分だけで生きている世界でもないという認識を東北人の誰もが持っている気がする。」 (『東北・蝦夷 (えみし) の魂』)

 「東北でよかった」 の発言が報道されると、その晩のうちに東北の素晴らしいところを紹介したインターネット 「東北でよかった」 が次々と発信されました。大臣の発言にたいして直接的には攻めてはいませんが真正面からの戦いです。それは東日本大震災という災害に命を賭して戦っているなかで発見した自分たちの確信での対峙です。


「東北の民、蝦夷と呼ばれる人々に共通しているのは、自分たちから攻めていくことは決してない」
 長州出身の、自分たちから攻めていくことを画策する首相に、平和を希求する東北の魂で反対の意思を表明して攻めを続け、重ねて 「東北でよかった」 といえるようにしたいと思います。


   「活動報告」 2015.8.18
   「活動報告」 2011.9.1
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団結ってなに?
2017/04/25(Tue)
 4月25日 (火)

 国会では共謀罪の審議が進んでいます。賛成の声は聞こえてきませんが、かといって反対の世論はなかなか盛り上がりません。沖縄では辺野古基地建設が強行されようとしていますが、本土ではなかなか抗議の声が大きくなりません。
 危険だ、止めさせなければならないと思っている者にとっては歯がゆい思いです。
 さらに自衛隊が我が物顔でマスコミに登場しています。過労死問題が社会問題となっても、労働組合は関心を示しません。・・・
 ある会合で居合わせた人たちに愚痴をこぼすと話がもりあがりました。しかし 「昔はこんなときは・・・」 などといっていても解決のは至りません。なぜなのかを真剣に検討すてみる必要があります。

 その時、浮かんできたのが、少し古くなりますが、生瀬克己著 『近世日本の障害者と民衆』 (三一書房 1989年) でした。著者は第一章で終戦から1980年代までの歴史学における民衆史のとらえ方を差別問題を中心に整理し、検討しています。その間には、被差別部落の解放運動をめぐる論争もありました。
 民衆史を労働運動に重ねて検討すると浮かび上がってくるものがあります。


「人権意識の問題に関しては、〈敗戦〉 後における 〈民主改革〉 なるものが、
 ①専制権力としての天皇制の解体
 ②ファシズムの基盤であった軍国主義思想と軍部への打撃
 ③労働者階級を中心とする人民階級の政治的地位の向上 
といった役割を果たしたため、〈労働者階級の権利〉 といった形での、いわば 〈層としての人権意識〉 は成立しえても、個別の問題、個別の個人に対する確固とした人権意識は成立しにくかったのではないかという疑いも残る。
 人権理論に関する世界史の流れは、1948年の 〈世界人権宣言〉 以降、それまでの自由権的基本権に加えて、人間の生活の基本的必要物を積極的に国家に要求しうることを内容とする社会権的基本権が、基本的人権の内容のなかに追加されるようになっていたとはいえ、人権理論の上でのこうした変化が、少なくとも1960年代までは、歴史研究者に大きな影響を与えなかったと考えた方がよさそうである。」 (『近世日本の障害者と民衆』)

 世界的には第二次世界大戦後すぐに 「基本的人権」 が独立して登場します。しかし日本では 〈民主改革〉 のなかで 「基本的人権」 は 〈層としての人権意識〉 に包摂されると捉えられます。〈民主改革〉 が進めば 「基本的人権」 はおのずと獲得・保障されるという解釈です。それは憲法解釈においてもそうです。「基本的人権」 が独立して取り上げられることはほとんどありませんでした。
「人権保護法案」 が議論にのぼるのは21世紀に入ってからです。

 人びとの生活のとらえ返し、歴史の掘り起こしが進むと民衆史が脚光を浴びます。
 歴史学者の林屋辰三郎は、これまでの歴史研究が 「貴族の歴史」 であったと指摘し、民衆史を追求するためには3つの 「よりどころ」 があるといいます。
「天皇や貴族が京都のような中央を拠点としていたことに対し、民衆は各地に分散して生活していたがゆえに、『地方』 史の究明が必要となる。第二に、民衆の歴史を縦に深く掘り下げていくこには、社会の最底辺にいた被差別部落の存在を忘れることはできない。そして、最後に、いやしくも民衆史を標榜するかぎりは、民衆の半数をしめる女性への考慮なしには成立しない。」

 歴史は過去のものではなく現在につながるものとして、やっと民衆の活動に光があてられていきます。

「いわば 〈部落史研究〉 の先駆者的な役割を担っていた部落史が、それ自体としての学問的市民権を得た、ちょうどその頃 〈1960年代後半〉、いわゆる 〈民衆史研究〉 の側でも、大きな変化の兆候が見え始めていた。
 すでに述べたところであるが、いわゆるマルクス主義歴史学においては、〈生産力〉 〈生産関係〉 といったことに目がいくあまり、〈民衆〉 というカテゴリーについては、ともすれば、一体化された 〈層〉 と認識されているかに思うしかない場合も少なくなかった。こうした 〈方法〉 のもとでは、歴史のなかに埋没させられていた 〈個人〉 を対象とし、この 〈個人〉 を掘り下げ、そうした 〈個人〉 を浮きぼりにするといったことはなされにくい。
 1960年代後半の 〈高度経済成長〉 を背景にした 〈管理社会〉 の進行が、従来のマルクス主義の 〈弱点〉 を認識させ、失われていく 〈個人〉 を取り戻すことに、より大きな必要性を自覚させたのであった。」 (『近世日本の障害者と民衆』)

 著者は、マルクス主義歴史学においては 〈民衆〉 は 〈層〉 (=同一性を持つ) と認識されていたと認識します。しかしここではマルクス主義の理解がヨーロッパと違っています。ヨーロッパでは 〈民衆〉 は権力者の対抗勢力のことですが 〈層〉 とは捉えません。
 マルクス主義歴史学とは、日本独特の 「講座派」 や 「労農派」 を指しますがこれをマルクス主義ととらえると間違いが生じます。マルクス主義歴史学は 「貴族の歴史」 研究だったのです。
 
 この頃の労働運動はどうだったでしょうか。〈民衆〉 を労働組合に置き換えて検討してみます。
 〈敗戦〉 後における労働組合の結成は、多くは戦時中の 「産業報国会」 のつくりかえです。産業報国会の基盤になったのは、「家族主義」、「温情主義」 の “縦の組合” (企業組合) です。
 企業組合はその後、「年功序列」、「終身雇用」、「企業内組合」 といわれる強固な “絆” の日本の労使関係を作り上げていきます。そこで 「企業戦士」 が活躍します。現在 “絆” は従属になっています。
 産業報国会とは違う労働組合もありました。しかしそのイデオロギー的基礎は日本的マルクス主義です。
 これがいわゆる 〈民主改革〉 の一翼を占めた労働運動でした。
 労働者はまさしく 〈層〉 でした。その統一が “団結” です。そこでは 〈個〉 の存在は認められませんでした。それを基盤にした運動の集大成が1958年から始まった 「春闘」 です。要求は企業を越えて産別ごとに中央で交渉します。社会的に盛り上がる時には下からの押し上げなどで成果もありますが、景気が後退すると個別組合の要求は無視され、産業保護・維持のために労使のトップが合意します。個別企業は形骸化していきます。
 確かに労働者は生産手段を行使している労働現場の主人公です。だからといって 〈生産力〉 〈生産関係〉 と一体とみるならば人間としての労働者が欠落します。
 〈生産力〉 〈生産関係〉 に視点が向き過ぎると技術改革や高度経済成長を客観視できなくなり取り込まれていきます。実際には60円代中ばに労使協調の IMF-JC (International Metalworkers' Federation-Japan Council 全日本金属産業労働組合協議会) 派労働運動が登場します。
 〈層〉 のなかから、1960年の安保反対闘争の時から 「市民」 が登場します。(2015年1月23日の 「活動報告」 参照)


 歴史学者の芳賀登は著書 『民衆史の創造』 (1974年) で民衆史研究の目的について 「あるがままの民衆の生態に即しつつ、これを歴史変革の主体に成長させるための手だてを、民衆史を創造・確立する過程のなかで果たしたい」 と告白しながら、戦後のマルクス主義の方法的弱点について述べています。
「戦後の日本の歴史学会は、(中略) もっぱら客観的な法則性を追求し、いわゆる基底還元主義的な歴史のとりあつかいを基本的な学問であるといいつづけてきた。(中略) 何らかの資料に依拠してのみ歴史学が成立するとするならば、史料なき史料、あるいは、記録を残さざる人びとの歴史を復元し、今日に生かすことはできない。そして、民衆の内面を喪失した歴史学は、現実の生活を支える力、生きた人間の心や魂を支える力を持ちえないのは当然であろう。
 〈層〉 として把握された民衆から、〈個〉 としての民衆の復権を願っていました。そして続けます。
「歴史は、死者の叫びや死者ののこした言葉の、生きた人間の問いかけである。虚空をつかんで、無念の涙をこらえつつ死んでいった者の求めにこたえることは歴史学や歴史家の使命である」

 〈層〉 としての民衆から 〈個〉 が取り上げられていきます。
 しかし当時は、学説に少しでも異論をはさもうとすると覚悟がいりました。マルクス主義歴史学と整合性を持たない民衆史研究者は異端児扱いされます。ましてやマルクス主義歴史学を批判すると学会からの “追放” にも至ります。
 1960年代後半から70年代にかけての部落解放同盟の路線をめぐる論争と運動の対立は、この “民主主義” 対、水平社運動の歴史に裏づけられた “人権” 運動の継承と捉えること理解が早まります。
 マルクス主義歴史学が崩壊していくのは昭和天皇の死去のときの情勢をめぐってです。


「1960年代後半の 〈高度経済成長〉 を背景にした 〈管理社会〉 の進行が、従来のマルクス主義の 〈弱点〉 を認識させ、失われていく 〈個人〉 を取り戻すことに、より大きな必要性を自覚させたのであった。」
 1960年後半には、既成の労働組合運動に反対する潮流が青年部などを中心に登場し、独立して組合を結成したりもします。学生運動や市民運動も盛り上がります。“民主主義” の問い直しが主張されます。高度経済成長の中で発生していた公害問題などささまざまな社会問題の告発も行なわれます。〈個人〉 が登場して自己主張を開始します。

 しかし支配者層も黙っていません。高度経済成長のなかで生活向上をあおり、人びとを 〈個人〉 ごとに管理する方向に誘導していきます。労働組合の 〈層〉 としての一糸乱れぬ団結のかけ声は統制がとれなくなります。
 本来なら支配層に先んじて労働組合は 〈個人〉 を尊重し、その総和としての活動、社会と連帯した運動に挑戦されるべきでした。団結のかけ声はさらに孤立を深め、分散化を促進していきます。労働組合が孤立化していきます。
 1980年代から非正規労働者が増加します。しかし 〈層〉 としての団から抜け出せない企業内労働組合は非正規労働者に関心を示しません。体調不良者は 〈生産力〉 のとらえ方から人権や生活権は問題にされないで排除の対象になります。今に至るもそうです。


 歴史学者の鹿野政直の、『講座・日本歴史』 第13巻 (東大出版 1985年) に収められている論文 「現代人間論」 です。
「『人間』 という言葉は、見る角度によってさまざまに異なる意味を反射する。『民衆』 に対する角度からは、それは階級矛盾を消去する役割を演じ、『動物』 に対する角度からは、その “精神” 性が協調され、逆に 『神』 に対する角度からは、その “動物” 性が浮き彫りにされる。
 そういう点からいえば、昨今の 『人間』 復活への動きは、管理による疎外と荒廃を機縁とするだけに、あらゆる 『非人間的なもの』 に抗してとの意味をおびている。とするとき、それは 『非人間化』 をもたらした管理のシステムを告発するにとどまらず、みずからがどんなに 『非人間化』 されているかへの視野を培う。現代の矛盾と課題が、『差別』 と 『人権』 という枠組で急速に意識化されてきたのは、その必然の結果である」
「管理社会に生きるなかで、わたくしたちは日ごとに、万事につけて受け身になることに馴らされてきている。行動において受け身であることが日常化するにつれ、精神の能動性指標というべき想像力は衰退し、自らの周囲に意識の壁をめぐらし、そのなかに閉じこもろうとする。そういう状況下で 『差別』 と 『人間』 の視点は、その想像力を回復させ、壁の向こうがわを透視する能力を人々 (=わたくし) に獲得させることになろう。その意味でそこに、終末論を未来論に逆転させる契機が芽生えている、わたくしは観測する。」

 行動において受け身であることが日常化している 〈個人〉 の分断される単位から、想像力を回復させ、壁の向こうがわを透視する視点をもつ “連帯” の単位に変えていかなければなりません。
 そのためにはどうしたらいいのでしょうか。遠心力が働いている労働運動にどうしたら求心力を持たせることができるでしょうか。
 〈個人〉 の尊重とは、受け身であることや確かさがなければ行動しないことも認めることです。社会的に過労死問題が騒がれても労働者が沈黙を守る理由を探求しなければなりません。そこには 〈民衆〉 なるがゆえの 〈したたかさ〉 や防衛本能も存在しています。企業・労働組合だけではない社会に存在して様々な価値観を持っています。それらを含めて認め合い、違いを確認できる関係を作り上げることから 〈共感〉 や 〈仲間〉 の意識が生まれてきます。

 労働組合運動の復活は、〈民主改革〉 の時のように団結を叫ぶことではなく、団結とはなにかという問い直しから始まるように思われます。

 水平社結成のときに作られた 「解放歌」 の7番の歌詞は
  「あゝ友愛の熱き血を 結ぶ我らが団結の・・・」
です。 「友愛」 と 「団結」 がちがう者たちを対象にしています。マルクス主義歴史学が登場する前は、〈民衆〉 は 〈層〉 ではありませんでした。

   「活動報告」 2017.3.3
   「活動報告」 2017.2.17
   「活動報告」 2015.1.23
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加害と被害を併せ持つ満蒙開拓
2017/04/21(Fri)
 4月21日 (金)

 4月中旬、長野県下伊那郡阿智村にある 「満蒙開拓平和記念館」 を訪れました。
 阿智村は日本一美しい星空の村です。そして花桃の里です。旧暦のひな祭りの少しあとが真っ盛りと聞いていました。
 開館は2013年4月です。全国で唯一の満蒙開拓団に特化した記念館で、民間によって運営されています。4年近くになりますが来館者は10万人を超えています。
 開館に至る経緯です。
 2006年5月の南信州新聞に、開拓2世であり、現副館長の寺沢秀文さんの投稿 「この飯伊 (飯田・伊那地方) にこそ満蒙開拓記念館を」 が掲載されます。それを受け、7月の飯田日中友好協会の定期大会で事業取り組みが採択され、建設計画が始まりました。
 建設候補地は、できれば飯田市内でと選定していましたがなかなか進みません。3年が過ぎた頃、阿智村村長らから 「ならば阿智村のなかでやってみないか」 という提案があり、村有地を無償貸与してもらうことになりました。


 全国からは27万人の開拓団が送られました。満州への開拓団は国家と村による追い出し・棄民政策です。現地における苦闘、そして終戦時における集団自決や逃避行、さらにその後には 「残留孤児」 の問題が発生します。無事故郷に戻ってきた後には各地に開拓団として送られます。
 しかし真実は歴史の片隅に追いやられたままでした。
 祈念館を訪れるに際して、事前の勉強会を開催しました。その時のレジュメの抜粋です。

0.満蒙開拓団の悲劇は5つに区分けされる
 1期 日本での棄民
 2期 満州 “開拓” 時代
 3期 1945年8月
 4期 残留孤児・婦人
 5期 帰国、開拓入植

1.日本での棄民
 (1)15年戦争
 「15年戦争」 という言葉を最初に使用したのは鶴見俊輔。
 1931年から45年を鶴見俊輔著 『戦時期日本の精神史』 から簡単に見てみる。
「31年9月18日、関東軍内部の参謀将校数人がひそかに中国北東部の柳条溝で、満州鉄道の線路を爆破する計画をたてて実行します。しかし中国人がしたことと報道されます。日本軍は 「報復」 作戦に移り、宣戦布告がないまま戦闘状態に至ります。そして事態を既成事実として認めるよう陸軍参謀本部に強制します。「満州事変」 です。満州事変はまさに軍部の独走で始められました。作戦計画の裏には石原莞爾中佐がいました。
 目的は、日本軍が満州に軍事上の砦を作り、西欧諸国との戦闘の準備をするというものです。そして32年に 「満州国」 を作り、国際連盟から脱退します。国連は満州国を承認せず。
 37年7月7日に北京の西南方向盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍との衝突事件が起きます。宣戦布告がないままで戦闘が続きます。当時の政府は 「北支事変」 と呼びました。日本軍は宣戦布告がないままで既成事実を積み上げていきます。
 41年12月8日、日本はアメリカに宣戦布告します。9日、蒋介石の重慶政府は日本に宣戦布告をします。日本政府はこの戦争を何と呼ぶか決めかねていました。いくつかの名前が挙げられます。たとえば太平洋戦争、対英米戦争などです。最後に選ばれたのが 「大東亜戦争」 です。太平洋戦争、対英米戦争では、中国との間で続いている戦闘状態を含まなくなるからです。
 42年6月5日、日本軍は中央太平洋ミッドウェー海戦で敗北、43年2月7日はガダルカナル島を撤収します。43年5月29日、北太平洋のアリューシャン列島アッツ島が米軍支配になり、その後も次々に玉砕が続きます。戦時状況は、本土の視点からずらして見ると日本軍の敗戦はかなり前から明らかでした。」
 満州侵略は、政府や軍部だけでなく日本社会を襲っていた閉塞感から脱出させる役割を果たした。
 満州侵略の前史として、日露戦争・ポーツマス条約 (05年) で日本は長春-大連-旅順間の鉄道および支配を獲得し、その付属地である撫順、煙台、その他の炭鉱も支配下におく。06年 「南満州鉄道株式会社」 設立。

2.満蒙“開拓”
 日本軍は満州を侵略すると同時に約155万人の日本人を送りこむ。そのうちの27万人が開拓民。
(1)31年8月、第63回臨時帝国議会で 「農村経済更生に関する経費」 が予算に追加計上され、疲弊した農村や漁村の救済運動が具体化される。更生計画を資本金不足などのために十分に推進できない町村に対して、特別に助成金を交付するという制度が設けられる。
 しかし、経済更生村指定に際しては詳細に規定された 「経済更生計画樹立上留意スベキ事項」 が付け加えられており、その最後には 「当該村ノ更生上移住ヲ為スヲ必要トスルモノニ付イテハ移住計画 (内地、朝鮮、満州等) ヲ立ツルコト」 とある。
 移民政策の推進は、移民する人の生活維持のためではなく、残る人のためにおこなわれた。「棄民」。

(2)移民は侵略と略奪の片棒を担ぐものであり、「片手に鍬、片手に武器」 を持って開拓と 「北からの守り」 を兼ねた役割を担っていた。
「国家によって満蒙開拓団から与えられた役割は、ソ連と対峙する関東軍への食糧補給、圧倒的に少ない日本人比率の拡大による治安維持、軍ではできない民間レベルでの現地民への影響拡大など、日本による満州支配の補強、人的根拠の確立であった。」
 明治維新の北海道の屯田兵に似ている。

 32年8月、満州への農業移民計画が議会を通過。
 募集資格は 「農村出身者ニシテ多年農業ニ従事シ経験ヲ有スル既教育軍人」
 10月に第一次移民団423人が弥栄村に入植。武装移民。ソビエトに対する第一線兵力の扶植の役割。
 33年夏に第二次移民団455人が千振村に入植。武装移民
 団の中から不満続出 「だまされた」
 民族独立運動組織・反満抗日パルチザンからの襲撃をうける。
  34年2月、土龍山事件。1万人の農兵を率いて十数日間蜂起。関東軍の連隊長以下20人を殺害。
 第一次移民団からは百数十人の退団・帰国者、第二次移民団からも数十人の落伍者がでる。

(3)屯墾病
 ストレス。
 ホームシック
 実際はPTSD

(4)分村移民
 開拓団の募集方法は個々の開拓志望者を対象。
 36年、政府は関東軍の案で満州農業移民計画大綱を発表し20カ年100万戸送出計画を立てる。町村を主地として一定の戸数を送り出す方法に。=分村移民。分村は定着率がいい。
 38年に送り出した長野県大日向村の開拓団は満州への分村移民第1号と言われている。大日向村の分村移民は、映画、小説、講談になって全国に宣伝された。
 移民が多い順に、長野県、山形県、東北がつづく。

(5) 「新天地」 で 「五族協和」、「民族協和」、「王道楽土」 建設、20町歩の地主の呼びかけ
「日清、日露、第一次世界大戦と軍事力による派遣が常態化した世の中に生まれ育ち、徹底した天皇国家主義教育の洗礼を受けた若者たちは、国策と自分の生き方を重ねることで、純粋に新国家建設の役に立ちたいと海を渡った。彼らはスローガンに内包する日本の優越性、侵略性を見破るには余りにもナイーブ過ぎた。今の私たちには想像できないほど徹底した国家による臣民教育、情報操作が行われ、戦勝の躁状態のなかで、大部分の若者たちは国を 『疑う』 という生き方があることを考えつかなかった。彼らの中では内発的な思考とその体現として満州への入植を実行に移していったのだろう。しかし、結果的には若者特有の理想主義が時代に絡め取られていったとしか言いようがない。」 (『東京満蒙開拓団』)
 41年、熊本県菊鹿郷開拓団が送り出された。その中に全国でただ1か所だけの被差別部落からの分村開拓団・来民開拓団が含まれていた。「満州に行けば差別されずにすむ」 という思い。入植地はハルピンの南西部。入植戸数は82戸316人。被差別部落出身以外も3割。
 しかし終戦時のソ連軍の侵攻後、275人が 「集団自決」 に到る。1人が名簿を地元に届けるため先に脱出。「身内殺しの部落民」 の嘲笑をうける。

(6)移民拒否
(7)満蒙開拓青少年義勇軍
 32年7月7日、盧溝橋事件から12月、南京占領までに陸海軍で戦死者1万8千、戦傷者5万2千人。予備役、後備役招集に。
 37年11月3日 (明治節) 「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」。加藤完治
 目的は 「将来の移民地を確保し、あるいは交通線を確保し、一朝有事の際においては、現地後方兵站の万全を資する」
 11月30日 「満州に対する青年移民送出に関する件」 を閣議決定。38年に設立
 応募資格――数え歳16歳から19歳までの者。尋常小学校を終了した者。人物考査と厳重な身体検査委。健康問題については厳しい。
 38年1月の第一次募集5千人に9950人応募。定員を変更して7700人に。
 茨城県内原に訓練所。3か月 その後、現地訓練所で3か年訓練
 45年まで86530人を送り出す。(内原訓練所送出名簿)

(8)大陸の花嫁
 39年暮、「満州開拓政策基本要綱」 付属の 「参考資料」 に 「女子指導訓練施設に関する件」 に 「満州開拓民の伴侶として確固たる信念を有する女子の育成」 のために 「学校または農業道場の施設を拡充して女子訓練所を設置」
 役割は 「開拓民の定着」 と 「民族資源の量的確保と共に大和民族の純血を保持すること」 「日本婦道を大陸に移植し満州新文化を創建すること」 「民族協和の達成上女子の協力を必要とする部面の多いこと」
 日本国内と満州両方に大陸派花嫁養成所――満州女塾

(9)満州映画撮影所の理事長は甘粕正彦
 関東大震災の時、大杉栄ら3人を虐殺した憲兵大尉。
 宣伝映画作成

3.1945年8月
 満州に145万人の在留邦人が放置された。そのうち農業移民関係者27万人。
 混乱のなかで全体で17万6千人死亡。開拓団関係7万8500人。死者のうち、戦死又は自決11520人。
 8月13日未明、皇帝溥儀と后妃秋鴻、政府高官、要人一行が首都新京から特別列車で通化の東方、臨江県の大栗子に向かった。
 8月18日午後1時、皇帝溥儀は仮宮廷で退位式。満州国は13年と5カ月存在。
 その後、列車で逃亡。日本への亡命を希望。しかし奉天飛行場でソ連軍に逮捕拉致

(1)8月前
 現地関東軍の一部はソ連参戦を45年夏秋と見通し。
 戦時中、済州島と沖縄は大本営の本土防衛のために要塞化された。45年初め、満州から軍の主力は沖縄、台湾に移動。大本営は45年2月の段階で満州を放棄した。
 45年7月5日、「敵の前進阻止遅滞のため特に一部の玉砕的敢闘を予期し」、その間に主力は後退して 「適宜連京線以東、京図線以南の山地に集約し敵の侵攻を誘致粉砕し」、長期持久戦をもって選挙区を有利にする。(「関東軍対露作戦計画」)
 開拓団は関東軍の防衛ラインの外側に。
 軍の上層部、満鉄の本社社員、官庁の官吏とその家族は日本にこっそりと帰っていた。だから 「満州残留孤児」 のなかにこの関係家族はいない。


(2) 「集団自決」
 満州で、軍隊は民衆を守らなかった。満州から移動していった沖縄でも軍隊は民衆を守らなかった。それどころか虐殺を繰り返した。
 軍隊が先に逃げたこの2つの戦場で共通して起きたのが、いわゆる 「集団自決」 ・いま言い直された 「軍の命令による集団自殺」。サイパンでも。
 軍が先に逃げたのは広島でも。軍隊は民衆を守らない。

(3)帰国
 46年5月、引き上げが開始される。
 53年3月、「北京協定」 集団引揚げ再開。
 56年、「天津協定」。夫や子供のために引き上げることが出来ない女性たちに一時帰国の道。民間団体の努力。
 58年の岸信介首相の中国敵視発言のために打ち切られる。
 72年、国交回復
 93年9月5日、12人の「中国残留婦人」が帰国、成田空港のロビーで籠城。旗に 「細川総理様、私たちを祖国で死なせて下さい 中国残留婦人」 「私たちを祖国に帰してください」
 94年、「中国残留邦人支援法」 公布
 93年までは10年に1回、1人2回まで一時帰国を認める。
 95年4月、国費で毎年帰国可能に。

4.残留孤児・婦人
 日本に戻れない中国残留邦人のうち、終戦当時13歳未満を 「残留孤児」、13歳以上を 「残留婦人等」 と呼ぶ。13歳以上はほとんどが女性だから。13歳以上は自分で判断して行動できたという区分けで、「自己責任」 といわれる。

5.帰国、開拓入植
 戦災者、海外からの引揚者、復員軍人、離職者等の失業者は700万人といわれた。
 45年11月9日、「緊急開拓事業実施要項」 が閣議決定。
 帰国後、地元にはとどまれないに。各地の開墾に入る。
 Cf. 北那須の開拓地には約700戸が入植。最初の住まいは雑木を切ってきて萱で葺いて雨露をしのぐにたりる掘立小屋。
 Cf. 百里基地反対同盟委員長だった宮沢さんは満蒙開拓青少年義勇軍。
 Cf. 熊谷達也の小説 「光降る丘」 (角川書店 2012刊) は宮城県栗原郡頌栄集落・栗駒山の麓の
  開拓集落が舞台。電気が通ったのは1964年4月。
「福島県農地開拓課の 『福島県戦後開拓史』 によると、全農家のうち、旧津島村は50.7%、葛尾村は50.1%、飯舘村は34.7%が戦後の入植だった。県全体の比率は5%なので非常に高い。
 現在、そこは全て避難区域となった。開拓者の魂が放射能に古里を奪われ、さまよう。」
 13年2月25日から3月1日の 『河北新報』 に 「再び流民となりて 旧満州移民と原発避難」 が連載された。福島県阿武隈の山里・浪江町津島に入植、そして原発事故で非難を余儀なくさせられた佐藤常義さん語っている。
「日本はいつもこうだった。戦争、公害、原発…。発展のために無理をして誰かが犠牲になる。二度あることは三度あるぞ。」


 なぜ長野県からの開拓団が多いのでしょうか。夜の交流会では何人からも疑問が寄せられました。
「長野県歴史教育者協議会編 『満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』 には昭和15年の長野県の義勇軍志願の動機を調べるアンケート表が載っているが、それによると本人希望が49.4%、教師の勧め42.1%、家族の勧め5.4%、その他2.9%になっている。昭和16年になると本人希望の数値がなぜか空白だが、教師の勧めが81.4%で圧倒的に多くなっているのは、拓務省からの割り当てによる強引な勧誘が原因のようだ。
 14、5歳の少年たちを遠い満州にやるにはいくら本人が希望しても両親、とりわけ母親の反対を押し切る必要がある。戦前から教育県として名高い長野県は 『信濃教育会』 が中心になって興亜教育といわれる、欧米に対抗したアジア侵出のイデオロギー教育を熱心にやっていた。教師は親の反対で迷う子供たちにあの手この手で口説き落とした。その結果が日本一の 『義勇軍』 送出人数として現れた。」

 伊那市内の伊那公園に建てられている満蒙開拓青少年義勇軍物故者等を祀る 『少年の塔』 の碑文 「オレたちは、決して忘れない」 が、田端恵美子著 『語り継ぐ満州の悲しみ~山峡に響く平和の鐘』 (サンパウロ発行) に載っています。
 
  「未墾の荒野を 開拓するのだ」 といわれ
  ふるさとに別れを告げたあの日
  「満蒙」 の地はあまりにも大きく
  おおかみの遠吠えにおびえ
  「夜警」 に立つ その銃はふるえた

  「将来は十町歩の土地もちだ」 といわれ
  「お国のために」 命を捧げんとし
  入植した 「開拓地」 で鍬とを握った
  そこが 「略奪の地」 であることも知らずに
  「弾よけのための棄民」 だとも知らずに

  「興亜教育」 に洗脳され 「内原」 で鍛えられ
  「満蒙は日本の生命線」 という響きの中で
  「行け若人 開け満蒙」 の声にのせられ
  「動くトーチカ」 にされて連日の軍事訓練
  関東軍は先に逃げオレたちは置き去りにされた

  飢えと血けむりと驚愕の生き地獄の中で
  現地の人々の怒りと悲しみがからみあい
  死線をさまよい 戦火をくぐりぬけ
  ふる里にたどりついた 「九死に一生」
  だが 曠野で死んだ友の遺骨は帰らない

  戦後慰霊碑は建てられても 生命は還らない
  供養は行われても その声は空しい
  厳冬の針のような風の中で耐えぬいた教練
  厳寒の栄養失調のまま頑張った強制労働
  今は美化され再び戦火のにおいがただよう

  先生たちはあんなにオレたちを送り出しても
  「国や県の政策に応じてやっただけ」 だという
  オレたち 「義勇軍」 を全国一送出したのに
  謝罪も責任の告白も一度だって聞かれない
  みんなが忘れてもオレたちは決して忘れない

 今問題になっている 「教育勅語」 の問題があります。


 調布市の延浄寺の門をくぐると目の前に 「不忘の碑」 が建っています。碑の下段に 「国に従って 国に棄てられた人びとを 忘れず ふたたび 同じ道を歩まぬための 道しるべに」 と彫られています。横に建立に至る説明を記した碑文が建っています。
「一九三〇-四〇年代、『満蒙開拓』 の国策によって、『東洋平和のため、王道楽土を築くため』を名目に、『お国のために、天皇陛下のために』 と、『満州』 (中国東北地方) に送り込まれた人たちがいた。
 しかし、一九四五年日本敗戦時の混乱の中置き去りにされ、多数の死者を出す苛酷な逃避行を強いられた。
 中国人に救われて死を免れた人たちも、帰国の道を閉ざされ、国に見棄てられたまま、長い歳月が過ぎた。
 碑文の鈴木則子 (一九二八年生れ) もその一人。(東京・京橋から一家は転業開拓団に)
 鈴木がようやく帰国できたのは、戦後すでに三三年を経た一九七八年。四年後、中国帰国者の会を起こす。
 『中国残留婦人、残留孤児』 らの帰国の援助、帰国後の生活相談・日本語教育、行政への働きかけ等々の活動を展開。国家賠償を求めて提訴も。
 鈴木則子さんは言います。
『私たちのような 〝中国残留婦人、残留孤児〟 などと呼ばれる存在は、二度と、生み出されてはなりません。
 もう決して、このようなことがくり返されないために、私たちの体験・事実を伝えたい』 と。
 そして 『知ってほしいのは、悲惨な体験をしたことだけではなく、権力に対して疑問や批判をもたない危なさ・怖さです』 と訴えます。
 『騙されないように、流されないように』 との鈴木さんの呼びかけは、時代を超える大事なメッセージです。
この歴史的な経験を忘れず、ふたたび同じ道を歩まぬための、私たちみんなの <道しるべ> にすべく、此処に、不忘 (わすれず) の碑は立っています。」

   「活動報告」 2017.3.28
   「活動報告」 2013.3.8
   「活動報告」 2012.11.9
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沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度としてありません
2017/04/18(Tue)
 4月18日 (火)

 4月1日で、沖縄・辺野古にある米軍キャンプ・シュワブ前での辺野古基地建設に反対する座り込みが1000日になりました。

 1995年の沖縄米兵少女暴行事件を契機に、沖縄の米軍基地に反対する運動や普天間基地の返還要求をする運動が起こります。その結果、96年4月、日米政府は普天間基地を移設条件付きで返還が合意されました。その後、代替地の話がでてき、97年に名護市辺野古付近に固まっていきます。
 辺野古の話がでると地元の人たちは海辺の近くに小屋を立てて座り込みを開始します。この小屋には何度か訪れました。小屋のとなりに 「2000年 基地と金がやってきた。数年後 金はなくなった。そして・・・基地だけが残った」 の大きな看板が掲げられていました。あちこちに 「沖縄県民をなめるな! 名護市民を見くびるな! 」 のプラカードを打ち付けた杭が立てられていました。
 まだ決定でされていませんが、現地では大成建設の青写真ができていると公言されていました。
 座り込みをしているおばあたちと交流しました。
 「基地建設が始まったらどうなさいますか」 誰かが聞きました。「海に座るさー」 という答が返ってきました。「戦時中も、戦後の何もない時も、子供たちに食べ物をくれた海だもの。守っていくさー。そうすれば食う心配はないよー」
 小屋から見渡せる海は、表現方法が見つからないくらいきれいでした。
 辺野古基地建設が本決まりになると座り込みは2014年7月からキャンプ・シュワブ変わります。


 沖縄県は辺野古基地建設に反対です。
 県は最近、『沖縄から伝えたい。米軍基地の話。 Q&A BooK』 を作成しました。21のQに図解入りで分かりやすく答えています。いくつかを紹介します。

Q2 何もなかったところに米軍基地ができて、その周りに人が住んだのではないですか。
 それは、誤った認識です。
 たとえば、米軍上陸前年に宜野湾村には多くの集落が存在し、約1万4千人の住民がいましたが、沖縄に上陸した米軍は普天間飛行場建設のために宜野湾、神山、新城、中原の4つの集落を中心に広い範囲を強制接収しました。
 なかでも、普天間飛行場が建設される前の当時の宜野湾村の中心は字宜野湾という場所で、現在の普天間飛行場のなかにありました。そこは、もともと役場や国民学校、郵便局、病院、旅館、雑貨店がならび、いくつもの集落が点在する地域でした。
 また、字普天間には、沖縄県庁中頭郡地方事務所や県立農事試験場など官公庁が設置され、沖縄本島中部の中心地でした。
 住民が避難したり収容所に入れられている間に、米軍が利用価値の高い土地を強制的に収容したため、戻ってきた住民は自分の故郷に帰りたくても帰れず、その周辺に住むしかないという状況でした。


 13年6月25日の 「活動日記」 の再録です。
 沖縄戦が始まるまでは、首里から普天間まで真っ直ぐな街道が走っていて両側に3000本の琉球松が生い茂っていました。沖縄戦で一番の激戦だった嘉数高地の戦闘で街道が廃墟になると、そこに米軍は普天間飛行場を建設します。朝鮮戦争で重要性が認識され、強化されていきます。基地建設で追い出された住民はその周囲に住居を建てていきました。
 普天間基地周辺は、沖縄では珍しく平地が広がっています。そこの真ん中に基地が居座っています。
 宜野湾市は 「アンパン」 だといわれました。市街地の真ん中のおいしいアンの部分を基地が占め、周囲の皮の部分に住民がへばりついています。基地は市を東西に分断し、学校は日常的に戦闘機の騒音に苦しめられています。それだけではなく振動被害もあります。そして事故があります。
 普天間基地撤去の運動が強まり、そして基地機能を果すには手狭になったということでの移設計画が辺野古基地建設です。基地機能の拡大強化、機能集中化です。
 やはり米軍は黙って撤退しません。


Q4 沖縄にはどれだけの米軍基地があるのですか。
 沖縄には、31の米軍専用施設があり、その面積は1万8,609ヘクタール、本件の総面積の約8%、人口の9割以上が居住する沖縄本島では約15%の面積を占めます。
 その規模は、東京23区のうち13区 (千代田区を中心に取り巻く区) を覆ってしまうほどの広大な面積です。
 沖縄が本土に復帰した昭和47年 (1972年) 当時、全国の米軍専用施設面積に占める沖縄県の割合は約58.7%でしたが、本土では米軍機との整理・縮小が沖縄県よりも進んだ結果、現在では、国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.6%が集中しています。
 また、陸上だけでなく、沖縄県及びその周辺には、水域27カ所と空域20カ所が訓練区域として米軍管理下に置かれ、漁業への制限や航空経路への制限等があります。またその規模は、水域が約54.938㎢で九州の約1.3倍、空域がやく95.416㎢で北海道の約1.1倍の広大なものになっています。米軍専用施設面積の割合は、沖縄県70.7%で2位は青森県の9.9%、神奈川県5.6%の順です。

Q11 沖縄県の経済は米軍基地経済に大きく依存しているのではないですか。
 沖縄の本土復帰 (昭和47年) 時の昭和40年代と現在を比べると、沖縄経済における基地関連収入 (軍用地料、軍雇用者所得、米軍等への財・サービスの提供) 割合は大幅に低下しています。
 本土復帰前の沖縄経済は、軍用施政権の下、高度経済成長下における我が国の経済発展の過程から切り離されていたことなどもあり、総じて製造業が振るわず、基地依存型の経済構造が形成されたため、経済全体に占める基地関連収入の割合が高い時期がありました。
 しかし、復帰後の沖縄経済については、3次にわたる沖縄振興開発計画とその後の沖縄振興計画に基づく取り組みにより、道路や港湾、空港などの社会資本の整備に加え、就業者数の増加や観光、情報通信産業等の成長など、着実に発展してきました。
 基地収入が県民総所得に占める割合は、復帰前の昭和40年度には30.4%でしたが、復帰直後の昭和47年度には15.5%、平成26年度には5.7% (2.426億円) まで大幅に低下しており、基地関連収入が件経済へ与える影響は限定的なものとなっています。

Q16 なぜ普天間基地を辺野古に移設することに反対なのですか。
 戦後71年をすぎても日本の国土面積約0.6%の粋な和犬に、たく70.6%もの米軍専用施設が存在し続け、状況が改善されない中で、今後100年、200年も使われるであろう辺野古新基地ができることは、沖縄県に対し、過重な基地負担や基地負担の格差を固定化するものであり、到底容認できるものではありません。
 沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度としてありません。戦後の米軍占領下、住民が収容所に隔離されている間に無断で集落や畑がつぶされ、日本独立後も武装兵らによる 「銃剣とブルドーザー」 で居住地などが強制収容されて、住民の意思とは関わりなく、基地が次々と建設されました。
 土地を奪って、きょうまで住民に大きな苦しみを与えておきながら、基地がろうきゅうかしたから、世界一危険だから、普天間飛行場の移設は辺野古が唯一の解決策だから沖縄が基地を負担しろというのは、理不尽です。
 一方、辺野古新基地が造られようとしている辺野古・大浦湾周辺の海域は、ジュゴンをはじめとする絶滅危惧種262種を含む5.800種以上の生物が確認され、生物種の数は国内の世界自然遺産地域を上まわるもので、子や孫に誇りある豊かな自然を残すことは我々の責任です。 
 また、5.800種のうち、約1.300種は分類されていない生物であり、種が同定されると多くは新種の可能性があります。新基地建設は、貴重な生物多様性を失わせ、これらかけがえのない生物の存在をおびやかすものなのです。
 さらに、平成26年の名護市長選挙、沖縄県知事選挙、衆議員議員選挙、平成28年の県議会議員選挙、参議院議員選挙では、辺野古移設に反対する県民の意思が示されています。沖縄県は日米安全保障体制の重要性は理解していますが、県民の理解の得られない辺野古移設を強行すると、日米安全保障体制に大きな禍根を残すことになります。
 沖縄県は、これらのことから辺野古への移設に反対しており、今後とも辺野古に新吉は作らせないということを県政運営の柱にし、普天間飛行場の県外移設を求めていきます。

Q18 沖縄県が、辺野古への移設を反対すると、普天間飛行場の危険が放置されるのではないですか。
 政府は、沖縄県が辺野古新基地建設に協力しなければ、普天間飛行場は固定化されるとしています。
 沖縄県は、世界一危険とも言われる普天間飛行場の固定化は絶対に許されないと考えています。
 米軍占領下での強制収容によって住民の土地を奪って、今日まで住民に大きな苦しみを与えておきながら、基地が老朽化したから、世界一危険だから、普天間飛行場の移設は辺野古が唯一の解決策だから沖縄が基地を負担しろというのは、理不尽です。
 政府が普天間飛行場周辺住民の生命・財産を守ることを最優先にするのであれば、辺野古への移設に関わりなく、同飛行場の5年以内運転停止を実現するべきであり、普天間飛行場の固定化を絶対に避けて、積極的に県外移設に取り組むべきであると考えます。
 沖縄県としては、普天間飛行場の閉鎖撤去、県外移設を求めていますが、同飛行場が返還されるまでの間においても、危険性を放置することはできないことから、一日も早く普天間飛行場で航空機が飛ばない状況を実現し、危険性を除去していただきたいと求めています。

Q21 沖縄県は最高裁で敗訴したのだから、辺野古移設を認めるべきではないのでしょうか。
 平成28年12月20日、最高裁判所は、福岡高等裁判所那覇支部の下した 「沖縄県知事が公有水面埋立法42条1項に基づく埋立承認を取り消した処分を取り消さないことが違法であることを確認する。」 との判決が正しいと認めました。
 この訴訟では、前知事の埋立承認処分が適法であり、現知事がその承認を取り消した処分が違法であることは確認されましたが、この判決が確定したからといって、辺野古に新基地を造るかどうか、普天間飛行場を辺野古に移設するかどうかといった大きな課題に決着がついたわけではありません。
 この最高裁判決は、数ある知事権限の一つについて判断が示されたに過ぎません。辺野古新基地建設に関する知事の権限は、その他にもいくつもあり、今回の最高裁判決は、それら権限にまで効力を及ぼすわけではないのです。
 最高裁の判決をもって辺野古の新基地建設問題が全て決着したといえるものではなく、裁判の確定判決後も、「辺野古に新基地を造らせない」 との知事の立場は今までどおり変わりません。
 政府が辺野古の新基地建設を進めるためには、公有水面埋立法や沖縄県漁業調整規則に基づく手続等、今後もさまざまな知事の権限に関わる手続きを経る必要があります。
 今後、これらの手続きが申請された場合は、沖縄県は法令に則って適正に審査を行い、対応していきます。

 政府の強権と世論誘導にきちんと反論し、県としての反対の姿勢を明らかにしています。


 2月20日の朝日新聞・短歌時評のタイトルは 「沖縄をどう詠むか」 でした。沖縄の基地負担をおもわせる作品が紹介されていました。

    次々と仲間に鞄持たされて
     途方に暮るる生徒 沖縄

 現実は、生徒ではなく大人の世界でのことです。

 1月23日の 「朝日歌壇」 に本土の方の投稿が載っていました。

    沖縄の悲劇を語る先生の
     風邪か涙かわからない声

 沖縄が抱えている問題は、沖縄だけが当事者ではありません。

   「活動報告」 2016.10.21
   「活動報告」 2015.9.15
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住宅は安全に、安心して暮らすためのもの
2017/04/14(Fri)
 4月14日 (金)

「地震が多い日本では、大きな地震が起こると、ただちに為政者は救済を行ったという記録が残されています。奈良時代、地震などの災害に対する救済施策の根本的な思想は、天譴論にもとづいたものでした。
 天譴論は、もともと古代中国の孔子・孟子らの儒教にもとづく思想であり、日本にはすでに奈良時代からあったと言われています。天譴論の原義は、地震、風水害、火山噴火などの事前災害を、『王道に背いた為政者に対する天の警告』 とみなす考え方です。
 王道は、天の意思にもとづいておこなわれなければならない。この天の意思とは、公平無私な仁徳に満ちた政治を行うことであって、政治をつかさどる天子 (天皇) はこのような意志に従って国を治めなければならない。これに背いた場合には、ただちに天子としての責任を負わなければならない。
 つまり、自然災害は、『天子の不徳から発生する』 という考えです。しかし、災害に遭遇したとき、実際にその災厄を受けるのは、もちろん人民全体です。このことは、天子が、自分の不徳によって引き起こした災いを人民にかぶせることを意味します。これは、天子としては大きな恥であり、したがって、天子は、善政を行い、同時に、災害の犠牲者に対して手厚い救済処置をとらねばならず、それが天子の唯一絶対の道であるというものです。

 奈良・平安時代の自然災害の記録を調べてみると、地震災害に対する具体的な救済の方法が3つあります。
 その1つは 『検地震使』 の派遣です。地震災害発生の報が入ると、直ちに朝廷から派遣され、王道の欠陥から生まれた人民の困窮・苦痛を慰問し、また被災地の行政官と共に震災対策を講じるのです。例えば、869年 (貞観11年) 5月には、大地震によって東北地方の三陸沿岸に津波が発生し、1000人以上の死者を出しましたが、その際には9月に、京の都から 『検陸奥国地震使』 が派遣されています。
 2つ目は、賑恤 (しんじゅつ) です。賑恤とは、被災者、困窮者の救済で、食料や衣服などの供与、家屋の補修あるいは死者の埋葬などがその内容です。……
 3つ目は、この時代に国民に課せられた納税および労役義務である租・庸・調を免除する 『免租庸調』 です。」(伊藤政雄著 『歴史の中のろうあ者』 近代出版)


 4月11日で東日本大震災から6年と1か月、熊本大震災から1年が経ちました。
 東日本大震災から6年目が近づくと、復興事業の進捗度についての報道が目立ちました。
 具体的数字です。
 除染作業は帰還困難指定区域以外はほぼ終了といわれています(総事業費4.0兆円)。 しかし帰還区域の1つの敷地内においても、放射線量が高いとことが残っている指摘されたりしています。
 住宅についてです。
 被災した住居の対策は、高台や内陸への 「集団移転」、浸水した市街地の 「かさ上げ」 による宅地造成と、返済ができない等の理由で自宅建設ができない被災者にむけて自治体が建設する 「災害公営住宅」 があります。
 これらの進捗状況です。
 高台移転は333地区、48764戸が完了しています。進捗度は84%です (5900億円)。
 災害公営住宅は3万108戸のうち70%が工事完成しています (9600億円)。被災3県の計画は、岩手県5700戸、宮城県1万6000戸、福島県8000戸です。
 土地区画整理 (かさ上げ) は、50地区、1万130戸のうち25%が完了しています (3400億円)。
 
 これが6年過ぎた被災地の状況ですが、あらたな問題が発生しています。
 「かさ上げ」 が待ちきれなくて移転した被災者も多くいます。特に商業を営んでいた自営業の人たちは切実で、我慢の限界にきて諦めざるをえませんでした。人口の減少が続く中で、営業してもこの先あまり期待ができません。空き地のままのところも出てきています。
 災害公営住宅を希望した人のなかにも、待ちきれなくて辞退した人が出てきています。また入居者後に引っ越しをした人もいます。また入居者・入居予定者は小家族の高齢者が多くいます。死亡や施設への入居者も出てきています。将来、空室が大量に出てくることが予想されています。
 被災者が個人で住宅を立てた造成地のなかにはインフラ整備が進んでいなくて、市町村役所などが遠いだけでなく、病院やスーパーも遠く、不便を感じている人たちも出てきています。被災者が個人で住宅を立て直そうとしても造成が進んでいない宅地もあります。
 震災直後は同じ地域に住んでいた人たちと一緒に “街づくり” をした地区でも、ぼつりぽつりと人が減っていき、予定を変更したり、可能に陥っている地区も出てきています。

 その一方、被災3県で、2月末段階で、3万3854人がまだプレハブ仮設住宅に暮らしています。911カ所あった仮設団地は、空室も目立つようになりましたが746カ所残っています。
 県別では、岩手県1万383人、宮城県1万1616人、福島県1万1855人です。
 石巻市は、19年9月末までの仮設住宅解消を目指しています。あと2年以上存在することになります。

 福島県の放射線量が高いということでの避難者についてです。
 原発事故直後の避難指示者は8万1000人でした。現在の住民登録者数は7万6000人です。そのうちすでに解除済みになっていたのは1万9000人です。今年4月1に避難解除されたのは3万2000人で、解除のめどが立っていない人が2万4000人です。
 避難指示区域以外からの自主避難者もいます。合わせると2012年5月時点での避難者は16万4000人でした。県内10万2000人、県外6万2000人です。

 しかしすでに避難指示解除された区域でも、実際に戻った住民の割合は平均13.5%です。戻った住民は高齢者が中心で、子どもがいる世帯は戻っていません。3世代家族では子供の親子は避難先や新たに決めた住居に住み、祖父母だけが戻っています。祖父母は子どもたちに危険だから里帰りや墓参りにも来なくていいと告げています。原発事故は家族をバラバラにしました。
 家業である農業を再開するのも、荒れ果てた田畑を元に戻すには10年かかるといわれます。政府は安易にとらえています。祖父母の世代が今からそれに挑戦します。
 人口が減少したところでは、商業は成り立ちません。新たな産業を誘致するにも働き手がいません。
 自主避難者は、県内に3万9000人、県外に4万人います。3月31日からは仮設住宅の提供や家賃などの国からの支援が打ち切られています。支援打ち切りということでの帰還の強制は人権を無視しています。
 安全と安心は違います。安全にしても基準がまちです。国が示す基準が本当に安全だとはいえません。住宅は住むためだけでなく、安心して暮らすためのものです。
 原発は町を、地域を、共同体を、家族を破壊しました。「天子の不徳から発生」 した人災に対して政府が今進めている政策は棄民です。


 防潮堤は677海岸のうち25%が完了しています (1.4兆円)。
 3月23日の毎日新聞・記者の目はタイトルが 「東日本大震災6年 防潮堤を考える」 でした。
「防潮堤事業は青森県から千葉県までの太平洋沿岸の計677カ所で進む。うち9割近い591カ所が岩手、宮城、福島の3県に集中し、震災前は延長約165キロだった高さ5メートル以上の3県の防潮堤は倍近い約300キロに増える。土地の用途によって所管が国土交通省、農林水産省などに分かれており……。
 防潮堤計画は、震災を受けて政府の中央防災会議が2011年にまとめた津波対策が基になっている。数十年から百数十年に1度起きる津波を 「L1」、1000年に1度とされる最大クラスを 「L2」 に分類し、L1を防潮堤で守ることを基本とした。これを基に国交省や農水省などが高さについての通知を出し、シミュレーションをしたうえで各県が地域ごとにL1を防げるよう、高さを決めた。
 その後、全677カ所のうち、約200カ所は当初計画より高さを下げたり、位置が変更されたりした。集落が高台移転したため当初計画の高さが必要ないと判断されたケースが多く、ほとんどは震災前と同じ高さに落ち着いている。」

 現在の建設状況です。
「東日本大震災から6年が過ぎた被災地で、津波から街を守る防潮堤の建設が進んでいる。津波から街を守る有効な手段であることは否定しないが、高い防潮堤は海とともにあった古里の景観を激変させてしまうのも確かだ。建設には住民の合意が必要と思うが、行政が見切り発車と言われても仕方がない形で着工した例もある。これでは、防潮堤が地域を分断する構造物になりかねない。禍根を残さないよう、自治体は住民と十分協議すべきだ。」
 陸と海を分断してしまう、海の変化が見えずかえって危険になるとの声も根強くあります。一方、「議論がまとまらないと、他の復興が遅れる」 と工事を強行している自治体もあります。
 現在、677カ所のうち、6カ所は住民が合意しておらず、工事が始まっていません。
 防災のために必要なのは強固な建造物だけではありません。共同体の人たちの共通認識と備えと助け合いです。それが壊されたら防災は機能しません。


 地震と津波は天災ですが、「減災」 を考えていなかった社会で生じた被害は 『天子の不徳から発生』 したものです。減災は形あるものだけが対象ではありません。「災害の犠牲者に対して手厚い救済処置をとらねばならず、それが天子の唯一絶対の道で」 す。
 ましてや原発事故は為政者による人災です。「天子としての責任を負わなければな」りません。

 熊本でも多くの被災者が仮設住宅に住んでいます。震災から1年が過ぎますが、東北と同じ轍は踏まないようにしなければなりません。
 復興工事の遅れは、人手不足、資材の高騰などによります。2020年予定のオリンピックがそうさせています。
 「復興五輪」 といわれました。しかし実際は 「復興 VS. 五輪」 の構造になっています。政府はオリンピックを利用して復興を忘れさせようとしています。

   「活動報告」 2017.1.24
   「活動報告」 2017.1.6
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