2017/02 ≪  2017/03 12345678910111213141516171819202122232425262728293031  ≫ 2017/04
大川小学校  児童遺族も教員遺族も遺族
2017/03/14(Tue)
 3月14日 (火)

 東日本大震災から6年が過ぎました。
 6年間、故郷でもある被災地を見て回ってきましたが、どうしても足が向かないところがありました。
 児童74人と教職員10人が亡くなった大川小学校です。地域としてはもっとたくさんの方が亡くなりました (高校時代、同じクラスだった者も亡くなっています)。
 しかし、いつのまにか児童74人が亡くなったところといわれますが、教職員については語られなかったり、教師の判断が不充分だったために児童が亡くなったという雰囲気が生まれていました。「児童遺族」 と 「教員遺族」 を分かつ 「壁」 がうまれました。犠牲者を加害者と被害者に分ける壁でもありました。一部の犠牲者が “排除” される雰囲気の場所に足は向きませんでした。
 教師を加害者とはどうしても思えません。追悼は犠牲者全員におこないたいと思います。


 3月5日の毎日新聞に、父親が大川小学校の教師で震災で亡くなった、今、教育系大学に通う学生と、大川小学校で亡くなった児童の父親との交流の記事が載りました。
 学生は、その前に大川小学校で娘を亡くした、震災の時に女川第一中学校の教師で今退職している方に会います。
 元教師がいいます。
「先生たちも一生懸命だった。でも使命を果たせなかった。彼らは津波を見て、『子どもらを守れない』 と分かった時、どんな気持ちだったか想像してほしい。彼らの後悔を無駄にしないためにも、あの日から目を背けてはいけない」
 学生が答えます。
「自分は生かされた命だと思う。この場所で何があったのか真剣に向き合い、一緒にできることをして生きたい」


 この元教師は国語を担当していました。
 女川第一中学校は生徒数205人でした。1人が死亡、1人が行方不明です。震災後の5月と11月に全校あげて国語の授業で俳句づくりをしました。朝日新聞社の記者はその作品を先生から見せられ、生徒たちを取材して小冊子 『女川一中生の句 あの日から』 (小野智美編 はとり文庫) として出版しました。
 5月と11月の句が並べて紹介されています。(2012年10月26日の 「活動報告」 参照)
 句の背景には、家族や親せきを失った、家を失った、両方失った、両方無事だったなど、それぞれの事情があります。それぞれが他者を思いやって感情を表に出しません。しかし俳句では個人の思いを表現しています。
 5月には震災の悲惨さには直接触れようとしない 「前向き」 の作品が多くありましたが、11月になると感情が出てきます。

 3年生の作品とその思いです。
「    ただいまと 聞きたい声が 聞こえない

 あの日、中学校から近くの総合体育館に避難した。
 同級生が座り込んで泣き始めた。
 『どうしたの?』 聞くと 『お姉ちゃんがいないんだ』。
 かける言葉が見つからない。かたわらに座って、一緒に泣いた。
 自分の家族は無事だった。だが、級友には母を亡くした子もいる。父を亡くした子もいる。5月、友達の心中に思いをはせて詠もうかと考えた。本当のつらさを経験していない私に書けるのか。迷ううちに50分が過ぎた。
 先生は言った。『家で書いてきてもいいよ。明日、提出して』。
 帰宅後、外で働く母が帰ってくる光景を思い浮かべて、書き上げた。朝の何げない 『行ってきます』 を聞いたのが、最後になるなんて。
 仕上げた後、また迷った。この句を提出したら、先生を余計に苦しめるか。先生も震災で娘を亡くしていた。でも、この悲しみを日本中のみんなに伝えたい。もう二度と繰り返してほしくないから。翌日、提出した。
 先生は今もこの句をそらんじている。」 ( 『女川一中生の句 あの日から』)

「俳句づくりは、財団法人 『日本宇宙フォーラム』 からの提案だった。2012年の夏に句集を国際宇宙ステーションへうちあげるという。
 校長が引き受け、教務主任でもある国語教諭に託した。教諭は、子どもたちの重荷にならないか不安だった。だが 『気持ちにふたをするだけではだめだ』 と授業に臨んだ。2011年5月と11月の2回、俳句の授業を行った。最初、震災を題材にした句は限られていたが、11月には多くの生徒が震災と向き合っていた。『前より重くなっている悲しみもある。でも、向き合うから、希望も生まれるのだと思う』。
 震災で教諭は小学校6年の次女を亡くした。『未完成なんですけど』 と11月の思いを詠んだ。

   胸の奥 しみこむ記憶 八カ月     」 ( 『女川一中生の句 あの日から』)


 毎日新聞にもどります。
 学生が児童の父親にメールを送ります。父親は遺族が県と市を訴えた訴訟原告団の中心でした。
「言い出しにくいですが、私も “遺族” になります。大切なお子様を亡くされたご遺族の皆様の事を考えますと、簡単には言い出せません」。
 返事がきました。
「あれから5年が過ぎ、最初は先生たちのことも恨みました。でも色々と分かり始めて先生達も同じ被害者だと思えるようになりました」。

 2人は対面します。
「厳しいことを言うけど、子どもたちの命はお父さんたちが守るべきだった。守るべき立場の先生と、守られる子供の立場は違う。乗り物でいえば、ハンドルを握っていたのは先生で、乗せられていた子はしたがうしかなかった」
「父を思うと残念ですが、自分も先生が子どもを守るべき立場だと思っています」
「後ろめたいと思わず、大川小学校であったことをしっかりと語っていってほしい」
 
 学生は知人の学生を被災校舎に案内し、児童の父親に語り部を依頼します。
「父もきっと無念だったと思うし、その瞬間を考えたら苦しいですが、子どもたちの小さな命が失われた事実とつらくても向き合わないといけないと思い、ここまで来ました」


 一昨年の夏は、学生の亡くなった父親の還暦祝いを児童の遺族ら保護者が開いてくれました。出席した学生は、父の先生としての顔を知り、笑顔の父を思い浮かべられるようになったといいます。


 昨年10月26日、仙台地裁で児童の遺族たちが起こした裁判の判決が言い渡されました。
 裁判所に向かう遺族が持った横断幕には 「先生の言うことを聞いていたのに!!」 とありました。前日、遺族が何と書いたらいいか迷っていると弁護士がアドバイスをして決めたといいます。
 判決後に遺族が掲げた横断幕は 「勝訴」 「学校・先生を断罪」 です。(2016年11月11日の 「活動報告」 参照)
 児童生徒の命を大切にしようと思わない教師がいるでしょうか。横断幕は、震災のもたらした悲劇を部分的にしか見ようとしないで法廷戦術に走った弁護士の利害が産み出しました。
 県と市は教師が浮かばれないと控訴しました。


 学生は、判決を広く教育現場に立つ先生たちに向けられたものだと理解し、冷静に受け止めたといいます。
「判決を聞いて、やはり司法 も 『学校、先生は子どもたちを守る責任がある』 と認めたんだ。受け止めなきゃと思いました」

 ここに至るまで5年、6年の月日が必要でしたが、人びとはそれぞれ、しがらみよりも大きな教訓を受け止めています。何よりの供養です。
 高裁では、 「弁護士の言うことを聞いていたのに!!」 ではなく、法廷内だけでない和解を期待したいと思います。

 学生は語り部を続けるといいます。
 今年の3月11日は伺えませんでしたが、新聞を読んで、近いうちに大川小学校を伺おうと思います。

   「活動報告」 2016.11.11
   「活動報告」 2012.10.26
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 東日本大震災 | ▲ top
| メイン |