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沖縄問題  他人に対する不寛容が政府の政策を支えている
2017/02/28(Tue)
 2月28日 (火)

 沖縄から写真雑誌 「ぬじゅん (NUJUN)」 創刊号が郵送されてきました。編集は沖縄で活躍する写真家たちの集まり 「まぶいぐみ」 実行委員会です。実行委員会は2015年に発足し、昨年は東京でも 「コザ暴動プロジェクト」 で当時の写真展とシンポジウムを開催しました。(2016年5月10日の 「活動報告」 参照) ぬじゅんとは、沖縄の言葉で 「抜く」 「撮る」 という意味なのだそうです。
 発刊のあいさつ文です。
「2017年、『まぶいぐみ』 は、ギャラリーからもう一歩外に出て、沖縄をとりまく現状、現場そのものに身を投じ、写真の力を発揮していこうと思います。
 辺野古基地、高江ヘリパットの建設強行に代表されるように、沖縄の軍事基地化は、民意を無視する形で進んでいます。墜落したオスプレイも原因究明のなされぬままに沖縄住民の頭上に飛行を再開しました。1972年日本復帰前後の激動の沖縄と、現状はまったく変わらないどころか、ますます悪化しているとも言えるでしょう。……
 沖縄が続けてきた平和を求める 『闘争』 の現場に、いま、写真が何かの力を与えることができないか。東京や大阪で開催した 『コザ暴動プロジェクト』 の会場でも、もっと沖縄の 『現場』 を写真で伝えてほしいという声がありました。
 『まぶみぐみ』 は、沖縄の 『いまここ』 で起こっていることを記録し発信し、写真の力を沖縄の力に変えていくアクションとして 『ドキュメント ぬじゅん (NUJUN) -沖縄写真・まぶいぐみ』 を刊行します。」

 創刊号には2カ所の現場写真が載っています。
 1つは、昨年12月13日に名護市安部ギミ崎に墜落したオスプレイの残骸です。地上に近いところでの事故は、一歩間違ったら住民が生活している頭上に落ちたかもしれないという思いにかられました。
 テレビや新聞などでは海上にただよう破壊されたパーツが映し出されていましたが、写真は海中からのものです。無残に散在しています。あらためてこれが地上で起きた事故だったらと想定すると戦慄します。
 沖縄の海中は澄み切ってきれいです。軍事に占領されるのはもったいないです。
 もうひとつは東村高江のドキュメントです。オスプレイパット建設現場で住民が 「やんばるの森を壊すな!」 「ヘリパット工事を中止せよ!」 のプラカードを掲げて抗議をしています。排除する機動隊の制服の肩に 「8」 とありますので本土・警視庁の機動隊だと思われます。
 やんばるは沖縄の人たちにとっては水瓶です。そこが壊されています。住民は日々爆音に晒されることになります。(2016年5月20日の 「活動報告」 参照)

 撮った方たちも身体をはって闘っています。写真には迫力があります。
 沖縄はいつまで生命が脅かされ続けるのでしょうか。そこに新たな施設が作られようとしています。


 沖縄の現実が黙殺されています。
 その一方、告発、問題提起もつづいています。
 2月15日の朝日新聞の文化・文芸欄は、沖縄の風俗業界で働く女性たちの生き方をインタビュー調査した上間陽子著 『裸足で逃げる』 を紹介しています。
「女性の多くに共通しるのは 『社会に対する信頼感の低さ』 だという。
 『手を差し伸べてもらえないことを悟っているから助けも求めない。同じ境遇の他者に対しても、「自己責任だ」 という冷たい視線を向けるし、他人に対しても不寛容。(上が下に強いるのではなく) 下からの自己責任とでもいうべきことが、社会の一番厳しい層で起きていることを、私たちは黙殺し続けている』
 こうした厳しい現実は、けっして日常とかけ離れたところにあるわけではない。沖縄の外の人たちが思い描く、美しい自然と穏やかな人たちに象徴される 『のんきな沖縄』 の内部に入り込んでいるという。……
 こうした黙殺という 『暴力』 が分断を生み出す構造は、そのまま本土と沖縄の関係にも重なる。米軍による女性への事件が相次いでなお、沖縄から基地をなくす動きは本土では本格化せず、被害者側の 『落ち度』 を非難する声があとを絶たない。」
「基地がらみで痛ましい事件が起これば、メディアも世論も一定の同情を示す。しかし、ひとたび沖縄が 『基地受け入れは嫌だ』 と反発を強めようものなら、困り顔をし、時に厳しい攻撃を表出する。……
 与えられた境遇を黙って引き受けていればいいが、拒絶した瞬間に攻撃される。いやしているうちだけ可愛がられる。上間さんは 『沖縄は言ってみれば、日本社会における女性のポジションに置かれている。』 いつまでも一人前ではない他者扱いだ、と。
 見たい沖縄だけを見る、その視線の中に日本社会の無自覚な暴力が含まれている。」

 「社会に対する信頼感の低さ」 の状況におかれた人たちは、同じ境遇の他者に対しても不寛容になっています。その他の困難に追いやられている人たちに対しても 「自己責任」 をの眼差しを向けます。
 自己の生活防衛にあくせくしている人たちは政治に積極的に関心を示すゆとりがありません。政府の政策に抵抗する人たちの姿も、自分に期待感がないだけ共感しません。そのような関係性は人びとに無力化・無関心をあおります。
 政治との距離が生まれます。そして政府の強引な政策を間接的に容認している状況を作り出し、積極的に抵抗するもの以外は 「味方」 にしてしまいます。沖縄に基地を押し付けているのは政府や政治家だけではありません。
 沖縄の基地問題は沖縄の内でも外でもそのような状況におかれています。


 2月25日の毎日新聞の 「北田暁大が聞く 危機の20年」 は、井上寿一学習院大学学長と対談しています。抜粋です。
「井上 『安倍政権を倒せ』 だけでは有権者が付いて行くのは無理です。多くの有権者にとって、安保法制や憲法改正は優先順位が低い。有権者は、日米安保と憲法の両輪で戦後の平和と安定が維持されてきたと考えていて、『どちらも改正の必要なし』 が多数派だと思います。
北田 安保と9条のセットという矛盾した 『護憲』 ですね。左派は、この矛盾がいかに強固な安心感を人々に与えているかを軽視しすぎ。かつ、この両輪の下に、米軍基地での沖縄の犠牲がある。有権者の漠然としつつも複雑な安保、憲法観に向き合わないと、野党は、沖縄の問題でも説得力のある提起はできないはず。逆に、自民党はこの有権者意識をうまくコントロールしすぎている。
井上 沖縄に対する本土の保守は主権概念に強くこだわるので、他国軍隊の自国領土駐留はもっとも怒るべき事態のはずです。他方で本土の平均的な国民意識からすれば、中国の軍事的膨張が怖いので 『米軍基地をなくす』 と言われても不安です。……」

 日米安保と憲法の両輪で戦後の平和と安定が維持されてきたと考えていている 「護憲」 は自己の生活の現状維持が目的になり、沖縄に関心が向きません。日米安保と憲法が相反するものであるという主張を受け入れません。
 「戦争は絶対ダメ」 と訴える人たちの中には憲法9条が変節してきたという実態を認めようとしない人たちがいます。まだ憲法9条は金科玉条です。そのなかでも沖縄の基地の存在は見捨てられています。沖縄そのものが見捨てられているのです。


 2月24日、米軍嘉手納爆音訴訟の地裁判決がありました。原告住民の訴えは騒音ではなく爆音です。騒音は我慢できる限界をこえて違法だと国が敗訴しました。賠償金はどこが負担するかはわかりません。
 しかし将来分の賠償請求と飛行差し止め請求は退けられました。理由は、日本政府には米軍の行動を制約する権限はないとするまたしても 「第三者行為論」 です。「第三者行為論」 とは何でしょうか。日本政府から当事者意識を奪い、司法は政府に免罪符を与えているということです。いい換えるなら、司法が政府に屈服し、政府はアメリカに屈服しているということです。その中で住民の訴えは無駄ですよという通告です。「復帰」 後、沖縄に米軍基地が集中して移転がすすめられたという理由が浮かび上がってきます。犠牲が集中されたのです。


 これの問題提起に共通点があります。
 沖縄の現実を憂い、ちゃんと捉え返そうとしている人たちも少なくいるということがあります。議論がもっともっと進むことを期待します。
 人びとと沖縄問題の距離の開きは、同時に政府と人びとの距離でもあるという指摘です。格差社会の別な姿でもあります。そして人々にも、政府の姿勢には沖縄の歴史、沖縄とヤマトの関係が捨象されているということです。
 
 
 それぞれのおかれている分断させられている構造、自分も他者にも 「自己責任」 と抑制している意識からの脱出し、自己を見直して大切にしたり、他者の痛みに共感し、思いをよせるゆとりを獲得したいものです。自己責任への埋没から他者への思いやりに転化したなら、その意識を大きく発展させていったら 「壁」 も軍事力なども必要なくなります。
 それを期待するように 「ぬじゅん (NUJUN)」 が発刊されました。

   「活動報告」 2016.5.20
   「活動報告」 2016.5.10
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