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「侵略者は 『未来志向』 といった言葉を使いたがり、                     過去を忘れようとする」
2017/01/12(Thu)
 1月12日 (木)

 韓国で建てられている 「少女像」 をめぐって日韓の外交が中断しています。さらに現在、韓国政府は機能していませんが、韓国政府と当事者である元従軍慰安婦の人たち・支援している人たちとの対立もあります。16年1月8日の 「活動報告」 に書きましたが、元従軍慰安婦の人たちは日韓政府の外相会談に関与していません。基本的問題として当時者を抜きにした問題解決はありません。
 そのことを含めて 「少女像」 をどう捉えたらいいか。伊藤正子著 『戦争記憶の政治学 韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題と和解への道』 (平凡社) から探ってみます。


 韓国で1998年、ベトナム戦争中の韓国軍の民間人虐殺に関心を持つNPOナウワリ (私と私たちの意) が設立されます。ナウワリのメンバーがピースボートの船でべトナムに行きます。そのときの討論で日本人の参加者から 「韓国は日本に謝罪し反省しろと言いながら、ベトナムにはなぜ謝罪しないのか」 と質問が出されます。韓国は他国を侵略したことがないという神話が突きくずされます。
 99年4月、ナウワリのメンバーは自分たちの力でこの問題を明らかにすべきだと考えてベトナムに行きます。
 「ハンギョレ21」 は1999年9月2日発行から 「ベトナムキャンペーン」 を開始します。賛否両方の意見がある中1年間続きます。
 そのなかの 「ベトナムの冤魂を記憶せよ」 の見出し記事です。
「駐越韓国参戦三訓には 『敵に勇敢で恐ろしい・・・ベトナム人に礼儀正しくて親切な大韓になろう』 と記されていた。1964年9月22日ベトナム南部ブンタウを通じて非戦闘部隊のテコンドー教官団と医療団が派遣されたのを皮切りに、韓国軍はベトナム戦に配置され始めた。65年10月には青龍部 (海兵第二旅団) と猛虎部隊 (首都師団) が、66年4月と9月 (他資料では8月9日とするものが多い) には、猛虎部隊の第26連隊と白馬部隊 (第9師団) が戦闘部隊としてベトナムに上陸した。……
 1965年から73年まで9年あまりの間、青龍・白馬。猛虎部隊など計31万2853人の大韓が遠い熱帯の土地ベトナムに行った。その中の4687人 (ベトナム戦争中の韓国軍の死者数は、資料によって多少異なるが5000人前後と推測される) はたった1つの命をこの地に落として冤魂となって戻ってきた。この期間に韓国軍は全1170回の大隊級以上の大規模作戦と55万6000回の小規模部隊単位作戦を遂行している。
 ベトナム戦争では韓国軍は4万1400名の敵軍を射殺した。しかしこの他にもまだ知られていない、公式の統計では集計されたことがないベトナム良民たちの犠牲があったベトナム文化通信部は――まだ不完全な統計という但し書きを付けてはいるが――、韓国軍によって集団虐殺された良民の数をおよそ5000人あまりとみている」
 キャンペーンは寄付も呼びかけました。

 ベトナム戦争に参加した軍人たちはこの問題をどのように捉えているのでしょうか。3つのタイプがあります。1つは、当時の政府のスローガンを信じて命がけで参戦したことは誇りであり、その闘いを 「虐殺」 と非難されるのは不愉快だが、戦場の状況からしたら偶然に 「虐殺」 事件は起こり得たかもしれないと感じている人たちです。一番多い意見です。2つ目は、「べトコン」 「アカ」 と勇敢に闘ったことを 「虐殺」 といわれることにどうしても我慢のならない人たちです。3つ目は、ほんの数えるくらいしかいませんが、自分たちがベトナムで行なったことを真摯に反省し、誠実に謝罪し、未来の平和のために活かそうと考える人たちです。
 戦友会の中でも、ベトナムでの民間人虐殺事件についての報道などに反発する人たちは、実際には戦闘に参加していない人が多いといいます。

 韓国による虐殺が載った新聞を読んだベトナムの青年からハンギョレ21に感想が寄せられました。
「私は韓国の歴史を勉強しながら日本軍慰安婦にされたおばあさんの話も知ることになりました。そして新聞を通じて 『老斤里事件』 も知っています。1945年、日本がわが国を占領した1年間に深刻な食糧供給で200万人の同胞が飢えての中で死んで行きました。それで私は長い年月、日本の植民地で生きなければならなかった韓国人の苦痛を想像できます。またベトナム戦争により私たちの民族は300万人が命を失ったし、450万人が身体障碍者になったし、200万人の枯葉剤被害者が発生しました。アメリカが私たちに加えた苦痛に比較すれば、韓国軍の誤りはとても小さいと言うことができます。しかし私は、今までアメリカや日本が私たちに謝罪して補償するどんな姿も新聞紙上で見たことがありません。そのため、韓国人たちの努力が私には衝撃的で、距離が近づいたとも感じました。ベトナムは韓国の経済成長を見ながら韓国に学ぼうと努力しています。最近ベトナムの若者たちが最も楽しんで見るドラマは韓国ドラマです。私の友人たちは韓国人俳優の写真を少なくとも1枚は必ず持っています。・・・今は韓国が私たちのとても近しい友人だと感じられます。」

「2003年1月ベトナムのフーイエン省に韓越平和公園が建設されるに至った。コ・キョンデ記者は、『キャンペーンによって韓国社会はどのように変わったか』 という筆者の質問に、『他者の証言をみつめることは初めてのことだったので、人権運動の意識が上がったと思う。ただ社会は変わっていない』 と答えた。しかし筆者は以下のように考えている。キャンペーンに向き合い真摯に 『ハンギョレ21』 の報道に向きあった人々は、自国の定める歴史館によらず、心の葛藤を抱え込みながらも自国にとっての負の歴史を自ら引き受けて、他者にも思いをはせる機会が生まれたのではないだろうか、と」


 2000年、この問題について初めてハンギョレ21に記事を書いたク・スジョンを主人公にしたドキュメンタリー映画 『怨み霊遺言』 がベトナムで製作されます。しかしホーチミン市の劇場で封切られる予定でしたが韓国外交通商部から 「映画が公開されると両国関係に悪い影響が出るからやめるように」 という申し入れがあり上映は1か月延期されます。
 2003年、ベトナム戦争中に韓国軍が民間人虐殺を引き起こした場所を訪問し、生き残りの人びとや遺族たちの証言を記録した、加害者としての自国の歴史に向き合っていくドキュメンタリー映画 『狂気の瞬間』 が製作されます。


 1999年9月、資金面で追悼碑を建てられないベトナム・クアンナム省ハミ村に青龍部隊の軍陣グループは資金援助を支援することにします。碑は2000年11月に完成します。しかしできあがった碑を見た青龍部隊の元軍人たちは、自分たちがお詫びのつもりで建てた碑に虐殺行為がリアルに表現されていることに耐えられず一部の語彙を変更し、また部分的に削除するよう要求します。越南参戦戦友福祉会は韓国政府に対してこの修正をベトナム政府に申し入れるよう要求し、韓国外交通商部はベトナム政府に圧力をかけます。韓国政府の要求は、碑の語句の修正と一部の削除に応じなければ、碑建設費は援助しないというものでした。
 ベトナム政府は、韓国大使館の申し入れを受けて、クアンナム省に圧力をかけます。ベトナム政府は韓国からの投資と政府レベルでの援助の取り消しを恐れていました。するとクアンナム省人民委員会副主席は「それなら韓国から援助してもらわなくても結構、追悼碑の建設費は省で援助する」と突っぱねます。虐殺事件の時の生き残った3人が反対していました。
 それを聞いた韓国大使館員は 「反対する人が彼らであれば、説得する必要はない。私たちは彼らに再び苦痛を与えたくない。追悼碑の問題はなかったことにして、忘れることにする」
 反対した住民の主張です。
「私たちにとって重要なのは、現在の韓国とベトナムです。私たち住民は韓国軍を赦しました。赦さなかったら、この村に入ることはできなかったでしょう。あなたたちが当時のことで傷つかなければよいのですが。たとえ韓国人の感情からみて碑文がちょっと重たく感じられても、理解してください。私たち住民は韓国人に親しみをもっています。しかし、重要なのはこの碑文の真実です。私たちは祖国が外国から侵略されたら闘います。しかし、戦争が終われば平和で平等な関係となることを願うのです。私たちがこの追悼碑を通じて本当に望むのは過去の戦争が繰り返されず、すべての民族が平等な関係を持つことです。・・・直すつもりはまったくありません。この碑文の内容はすべて村の人たちが話し合ってつくったものです。そして自分たちのお金でつくったならば憎悪碑ができ、追悼碑は建たなかったでしょう」
 憎悪碑とは、敵への復讐を誓う言葉が書かれた碑です。

 しかし村人はいつまでも抵抗を続けることはできませんでした。国家の方針は絶対であり、国家同士の 「友好」 関係の維持の重要性は虐殺を生き延びた末端の村人たちの死者に対するささやかな弔いの気持ちなど粉砕するものでした。
 村人は文言を修理せずすべて削除することで最終合意をします。理由は 「歴史を歪曲して記録するよりは、むしろ記録しない方がよい」 という主張が圧倒的優位を占めたためです。村人は実は、削除ではなく碑文に 「フタ」 をしたのです。「フタを外せばまた読める」 です。


 2001年、金大中大統領が訪越した時、韓国側の謝罪の気持ちを込め、かつ将来の平和と友好を推進できる施設としてフーイエン省に 「韓越平和公園」 が計画されます。さらに元慰安婦の方たちからの寄付をもとに 「国際民主連帯傘下ベトナム戦争真実委員会」 は 「平和歴史館」 をその平和公園内に建設することを計画します。公園は2003年1月に完成します。しかしフーイエン省は虐殺事件にあまり関心をもたず、維持管理はうまくいっていません。
 平和資料館は地元政府の許可が下りないなどで計画は進まず、ベトナムではなく韓国内での建設に変更されます。


 2009年、韓越両国間外交に摩擦が生じます。
 韓国では、キャンペーン以後、「参戦勇士」 から、虐殺事件を起こしたと非難される立場になった参戦軍人たちは、戦友会に属している人びとを中心に間もなむ反撃に出ます。まず国会での法制化通じて自分たちの地位向上と処遇の改善を求めます。
 金大中の謝罪は自分たちの尊厳を冒瀆したと見なす参戦軍人たちは逆に反発を強めて反撃に出、韓国全土で巻き返しに出るようになります。参戦軍人は 「ベトナム参戦碑」 を各地に建てて、ベトナム戦争参戦を自ら顕彰する動きが顕著になっていました。
 国会で審議された 「国家勲章制度」 の全面改定作業での法律の条文の中の 「ベトナム戦争参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」 という文言に、ベトナム政府がかみつきます。金大中の謝罪とは異なる韓国政府の姿勢に対し、ベトナム政府は、韓国が反発する日本の政治家の政治家の靖国神社参拝問題を取り上げて韓国政府に再考を促しました。
 驚いた韓国政府は外交通商相を急きょベトナムに派遣し、外相会談で 「世界平和の維持に貢献」 の文言を削除することを約束します。ベトナム外相は 「侵略者は 『未来志向』 といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」 と指摘しました。そして小泉首相の参拝で中国や韓国の反発を招いた靖国神社問題を例に取り上げ、「この問題を批判している韓国なら、我々の考えが理解できるだろう」 と訴えました。


 では韓国軍による住民虐殺をベトナムではどのように受け止められているのでしょうか。
 ハンギョレ新聞の報道はベトナムの一部の新聞にも掲載されたが、ホーチミン市を中心にした南部と、事件が起きた中部諸省では話題を呼んだが北部では関心を引くことがほとんどなかったといいます。
 理由は、1つは北部は直接地上戦を行ったわけではなく、兵士に直接民間人が虐殺されるということは発生していません。2つ目は、国家の利害という要素から「過去に蓋をして未来に向かおう」というスローガンがあります。ベトナムは、歴史上ベトナムに被害を及ぼしたいかなる国に対しても賠償を求めることをしないで、未来の関係改善こそを重視するという方針をとっています。
 そのためベトナム国家には道義的には歴史にもとづいた真実の報道や、謝罪のために虐殺犠牲者を援助する活動を賞賛すべきだという認識がある一方、韓国の加害者の事実はなるべく外部に知らせず伏せておきたいという外交・経済関係を優先する意図が併存したいました。


 これらの構図からは加害国の韓国政府と被害国ベトナム政府それぞれの思惑、そして韓国の元慰安婦と彼女らを支援している人たち、韓国政府、参戦軍人間の抗争、さらにベトナム政府と虐殺を体験した地域住民の関係が浮かび上がってきます。
 これらに日本政府、従軍慰安婦は存在しなかったと主張する人たち、歴史の改ざんを赦さない人たちを重ねると日韓関係はどうあるべきかが見えてきます。
 そして、日本のアジアへの侵略にたいする日本政府の 「反省」 についてアジアの国々・人たちはずっと監視していることを知らされます。

 『本』 は、日本の問題について歴史学者の笠原十九司の発言を紹介しています。
「日本が加害者としての意識を持ちにくい背景を・・・日本社会の規範と、それによって生じたリアルタイムの記憶の欠落から説明しています。日本社会には、内部の行為は黙認されるが、それを批判したり、外部社会に漏らしたりすると裏切り行為として犯罪以上の制裁を受けかねないという 『内』 と 『外』 を使い分ける社会的規範があるため、厳格な言論報道統制によってではなく、兵士たちが南京事件の体験を国民に語ることはできなかったといいます。」
 侵略の歴史は「内」だけで解決できません。そして 「内」 だけでの解決を了解できない 「内」 の人たちも大勢います。真実の追究こそが了解できるのです。


   「活動報告」 2016.11.15
   「活動報告」 2016.1.8
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