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「お疲れさま」 の後に 「ゆっくる休んで」 と                       メッセージを送りあえる職場環境を
2017/01/31(Tue)
 1月31日 (火)

 政府は 「働き方改革」 で現在の実質的に青天井だった企業の残業時間を月60時間に制限する上限規制の原案をまとめました。この後、労使との協議を経て年度内にまとめて働き方改革の実行計画に具体策を盛り込み、年内に労働基準法の改正案を国会に提出します。
 現在は、労使が36協定を締結すれば月45時間、年間360時間までの残業が可能となります。さらに特別条項を付ければ年間の半分は残業時間の制限はなくなります。実質的に青天井です。
 今回の原案は、月45時間、年間360時間までは維持しながらも特別条項に月60時間の上限を設けます。ただし、企業の競争力強化や生産性向上との両立を図ため年の半分の月は100時間まで、前後の2カ月は80時間までとし、その場合でも年間720時間、月平均60時間に抑えるよう企業に義務付けます。
 現在はトラック運転手などの運送業、建設労働者ら一部の職種は除外されていますが、全業種を対象として違反企業には罰則を科します。ただし発注者や取引先との関係に配慮し、人材確保などができるまで導入に移行期間をもうけ、猶予期間の長さは今後経済界と調整します。
 研究開発職など政府が競争力を高めると位置付ける職種では医師との面談や代休の取得を義務付け、上限規制は設けません。公務員に労基法は適用されないが、働き方改革で民間企業と同様に労働時間の圧縮を進めます。
 そして安倍首相は30日の参院予算委員会で 「インターバル規制」 の導入を検討すると答弁しました。
 経済界も 「規制が一律であっては困る」 などと柔軟な運用を求めていますが、業時間を無制限で延ばせる仕組みを変えることには合意しています。


 民主党政権だった2010年6月18日、「『成長戦略』 『元気な日本』 復活のシナリオ~」 が閣議決定されました。その中の 「(6)雇用・人材戦略 ~ 『出番』 と 『居場所』 のある国・日本~」 には
「【2020年までの目標】
 『年次有給休暇取得率70%、週労働時間60時間以上の雇用者の割合5割減』、『最低賃金引上げ:全国最低 800円、全国平均1000円』、『労働災害発生件数3割減、メンタルヘルスに関する措置を受けられる場合の割合100%、受動喫煙の無い職場の実現』 これらの目標値は、内閣総理大臣主宰の 『雇用戦略対話』 において、労使のリーダー、有識者の参加の下、政労使の合意を得たもの。また、これらの目標値は、『新成長戦略』 において、『2020 年度までの平均で、名目3%、実質2%を上回る成長』 等としていることを前提 。」
と記載されています。
 具体的には2010年には週60時間(月間残業時間80時間)の労働者は502万人、全労働者の9.4%を占めていました。しかしその後取り組みが進んだとは思われません。しかし今回の改善が実現したとしたら目標がかなりの前倒しになります。
 これまでは、「脳・心臓疾患および精神障害などの労災補償状況まとめ」 の中には支給決定数 (認定者) の時間外労働時間数が 「160時間以上」 まで区分されて報告されていましたが、ほとんど関心がもたれませんでした。最近になって時間外労働100時間が認定の基準になりつつあります。
 OECDは毎年、各国の労働時間の調査結果を発表しています。調査は時間外労働については20時間の区切りで最長60時間までとしています。これ以上はあり得ないという判断です。日本の長時間労働はそのなかに隠されていました。しかしこれでは実態を掌握できないと厚労省が 「労働力調査」 で週労働時間60時間以上 (月時間外労働80時間)、80時間以上 (月60時間) という区切りを設けたのはやっと2013年からです。
 これくらい長時間労働は問題にされませんでした。

 このような状況の中で経済界、とくに大企業の中には、長時間残業が問題になり労働基準監督署から臨検、指導があっても厚生省は公表をしないという現実の中で甘えがありました。問題が発覚してもやり玉に挙がるのは大型店舗やIT企業で大企業にはおよばないという判断がはたらいていました。
 事実、全国労働安全衛生センターが厚労省への要請行動で 「労災認定された企業名を明らかにしろ」 「長時間労働で臨検を受けた企業を明らかにしろ」 と要求すると厚労省は 「企業からの協力が得られにくくなる」 という理由で拒否してきました。


 それがどうして積極的に取り組むことになったのでしょうか。
 今回の電通過労自殺事件の遺族による記者会見の暴露は、会社にとって大きなダメージとなりました。電通ではそれ以前にも労災認定された労働者が明らかになりました。厚労省の 「企業からの協力が得られにくくなる」 は企業側に立って隠ぺいに加担していたことになります。
 さらに大企業でも社会問題になり批判に曝されることになりました。
 長時間労働で体調不良を訴える労働者が増えています。傷病休暇などに際しての傷病手当を給付する健保組合の9割が赤字に転嫁して久しい状況があります。さらに労災をめぐる交渉や訴訟も増えています。
 使用者は隠していますが、長時間労働は耐えきれないリスクを生み出しています。
 また電通の事件は海外でも取り上げられています。その理由には、海外などでも過労死が身近な問題として捉えられていることがあります。そして1980年代に日本の長時間労働は貿易摩擦を生み出しました。日本企業への攻撃の火種にもなりかねません。年間720時間、月平均60時間の制限は海外からの批判をかわす意図もあると思われます。


 しかし政府と使用者は無条件に労働者の健康や生活を配慮しようとしているわけではありません。抜け道を考えています。
その1つが裁量労働制の採用です。
 厚生労働省労働基準局は5年ごとに 『平成25年度労働時間等総合実態調査結果』 を発表しています。2013年10月発表の中に裁量労働制の実態調査結果があります。(2013年12月3日の 「活動報告」 参照)
 専門業務型裁量労働制で労働時間の状況として把握した時間の1日の平均時間は9時間20分です。具体的には10時間以上が31.1%、さらに12時間以上は10.1%を占めます。「法定休日労働あり」 の割合は21.9%で年間平均4.0日、11以上が10%をしめます。年間実労働に数は平均242.2日です。
 企画業務型裁量労働制では9時間16分です。10時間以上が31.6%、さらに12時間以上は9.5%を占めます。「法定休日労働あり」 の割合は17.2%で年間平均3.1日、11日以上が3.9%を占めます。年間実労働日数は235.2日です。
実態は大きなばらつきがあります。裁量労働制が導入される時のうたい文句からはかけ離れた、労働者側が危険性を指摘した実態になっています。

 そして、一定の年収要件を満たし、職務の範囲が明確で高度な職業能力を有する労働者を対象に 「時間ではなく成果で評価される新たな労働時間制度」 のいわゆる 「ホワイトカラー・エグゼンプション」 の導入です。
 政府と経済界は、生産性を高めて原資を得るためには成果で賃金を払う脱時間給の導入を実現する必要がある、働いた時間ではなく成果に応じて賃金を払うホワイトカラー・エグゼンプションの導入が不可欠だという主張をいまも続けています。法案は対象者が年収によって制限されていますが、いったん導入されたらその後は緩和されていくことは明らかです。労働者派遣法の二の舞になりかねません。
 1月20日の 「活動報告」 で触れましたが、ホワイトカラー・エグゼンプションは 「過労死促進の労働時間制度」 です。高い成果への評価の期待の先には、労働できない結果が存在するという負の教訓が共有されていません。本質的には労働者のことを考えないで企業利益だけが優先されています。

 さらに管理職・「名ばかり管理職」 に対する労働時間の管理の放棄・残業代の未払いの問題があります。この労働者は、企業においても厚労省等の調査でも労働者総数にはカウントされますが労働時間は時間外労働ゼロとして扱われます。平均労働時間の計算においては分母は膨らみますが分子は小さくなります。
 表面的時間外労働の公表のために、管理職がこれまで以上の過重労働になりかねません。
 労働時間の議論には、隠されている実態も明らかにして縮小に向かっていかなければなりません。

 さらに、個人事業主への委託労働が増える危険性が指摘されています。


 政府や経済界を労働時間の改善に向かわせたのは過労死遺族会の闘いと電通過労自殺事件の遺族です。残念ながら労働組合の姿は見えません。というよりも多くの労働組合の対応は使用者と同じでした。
 やっとはじまった労働時間の改善の動きですがまだまだ不充分です。労働者と労働組合はこの動きを止めることなく声をあげて行く必要があります。「ホワイトカラー・エグゼンプション」、裁量労働制の拡大の労基法改正を阻止しなければなりません。

 仕事が終わった時の 「お疲れさま」 のあいさつの後に 「疲れを解消するためにゆっくる休んで」 というメッセージをお互いに送りあえるような職場環境を作っていくことが大切です。


   「長時間労働問題」
   「平成25年度労働時間等総合実態調査結果」
   「活動報告」 2017.1.20
   「活動報告」 2016.12.13
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「僕も君たちと一緒に立つ」
2017/01/28(Sat)
 1月27日 (金)

 アメリカ大統領選でトランプが登場しました。危険な言動の連続に各地で抗議の声が上がっています。しかし世論調査では支持があります。アメリカ社会は貧富の2極化が続いていますが、それだけではなく、単純ではありません。みな明日の自分がどうなるかわからない中で他者を排除しながら自分を守ろうとしています。それが人種差別になっています。横の繋がりや全体の底上げなどということは眼中にありません。しかしその一方で公民権運動の伝統と流れがあります。

 ヨーロッパでも極右の台頭がおきています。数十年前には極少数として存在していましたが少しずつ勢力を拡大してきました。
 彼らの言動を批判するだけでは問題は解決しません。バックには無視できない支持する勢力が存在しているからです。支持する者たちにとってはさまざまな潮流に期待をかけながら辿り着いた地点です。

 危険だと叫ぶだけでなく、今の社会がどのようになっているか、その解決にはどのような方向があるかを示して対置していく必要があります。そのためにも、人種差別が厳しかったアメリカでの公民権運動の歴史と到達した人権の地平をもう一度捉えなおしてみる必要があるのではないでしょうか。
 アメリカで公民権運動が闘われ続けていた1960年代は日本でも部落解放同盟による解放闘争が展開されていました。昔も今も世界の趨勢は共通しています。
 人権とは何かという捉え返しは現在の日本でも切実に問われる状況が生まれています。


 公民権運動が闘い続けていた1960年代。68年にメキシコオリンピックが開催されました。200メートル競技でアメリカの黒人選手が1位と3位になります。2人の選手は表彰台でうつむきながら拳をあげて人種差別に抗議の意思を表明します。2位の選手はオーストラリアの白人選手でした。この選手も2人の選手に連帯して抗議の意思表示をします。
 この話を、数年前の憲法記念日に作家の落合恵子の講演で知りました。詳しくはインターネットで詳しく知ることが出来ました。
 人権とは何かをとらえ直すためにそのインターネット 「イミシン」 の全文を紹介します。(写真割愛)


 表彰台での勇気ある行為が原因で、母国で生涯を通して除け者扱いされ続けたオリンピック銀メダリスト

 この時代を通過してきた人もそうでない人も、この写真が何を示しているかわかるはずです。
 これは1968年、4月にマーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師、その2か月後の6月にロバート・ケネディが暗殺された年に撮られた写真です。ベトナム戦争に対する反戦運動が高まる中、多くの都市で学生運動や反戦運動が起こると同時に、アメリカ国内のいたるところで人種差別が引き金となった暴動や警察との衝突で多くの人が命を落としました。アメリカ、そして世界が揺れに揺れた年です。
 その真っただ中に行われたのが、1968年のメキシコシティオリンピックでした。
 世界が大きな変動の中にあったその年のサマーオリンピックで、1968年10月17日夕刻、メダル授与のために表彰台に上がった二人のアメリカ人が史上に残るある行為を行いました。
 男子200メートル競争を世界記録で優勝したトミー・スミスと3位に輝いたジョン・カーロスが、アメリカ合衆国国歌が流れて星条旗が掲揚される間、壇上で首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げたのです。
 二人が見せたこのブラックパワー・サリュート (アメリカ公民権運動で黒人が拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威行為) は、近代オリンピックの歴史において最も有名な政治行為として知られています。二人は黒人の貧困を象徴するため、シューズを履かず黒いソックスを履き、スミスは黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首に巻き、カーロスは白人至上主義団体によるリンチを受けた人々を祈念するロザリオを身につけていました。

 しかし、この三人目の選手が誰かを知る人は少ないのではないでしょうか。一見、写真の中の彼は、静かにスミスとカーロスの両選手の隣に立ち、歴史的瞬間を目撃しているだけのように見えます。
 彼の名前は、ピーター・ノーマン。オーストラリア史上最速の短距離陸上競技選手で、この写真が撮られたときは世界で2番目に足の速い選手でした。スミスとカーロスは示威行為を行なったことでその後長い間アメリカスポーツ界から事実上追放されることになります。また、メディアからの非難・中傷にさらされた彼らのもとには、殺害を予告する脅迫文が何通も届けられたといいます。しかし多くの人に知られることがなかったのは、ピーター・ノーマンがスミスとカーロスの両選手の意図に共鳴して二人の隣に立っていたということです。そして彼もまた、その報いを受けていたのです。
 当時のオーストラリアには、アメリカと類似した白人最優先主義とそれに基づく非白人への排除政策が存在していました。実際、南アフリカのアパルトヘイトはオーストラリアの先住民に対する差別政策を見習って作られたものだと言われています。1905年から1969年にかけて、「先住民族の保護」 や 「文明化」 という名目で約10万人の先住民族であるアボリジニの子どもを強制的に親元から引き離し、白人家庭や寄宿舎で養育するという政策も行われていました。そのため、この時代に白人オーストラリア人のノーマンが黒人やその他の少数民族と接触を持つ公民権運動に同調するというのは、本国では彼の人生を破壊しかねなない、非常に危険な行為だったのです。
 決勝レース終了直後、銀メダルを獲得したノーマンはスミスとカーロスに 「人権を信じるか」 と尋ねられたそうです。ノーマンが 「信じている」 と答えると、スミスとカーロスは彼に 「神を信じるか」 と尋ねました。その質問にもノーマンは 「強く信じている」 と答えました。そして、その次にノーマンが口にしたことを二人はいつまでも忘れることはないといいます。
「僕も君たちと一緒に立つ」
 そう言ったノーマンの目には少しも恐れはなく、ただ愛に満ちていた、とカーロスは追想しています。
 スミスとカーロスは、「人権を求めるオリンピック・プロジェクト (略称:OPHR)」 のバッジを身につけていました。このバッジはオリンピック選手たちによる平等な権利を求める無言の訴えを示すシンボルでした。表彰台に向かった際にスミスとカーロスが 「ブラック・パワー・サルートをするつもりだ」 とノーマンに打ち明けると、ノーマンは二人の胸に留められたバッジを指差してこう言ったそうです。
「君たちが信じていることを僕も信じている。それ、僕の分もあるかい? そうすれば僕も人権運動を支持していることを証明できる」
 スミスはそのとき、驚いてこう言ったのを覚えています。「何なんだ、この白人のオーストラリア人は? 銀メダルを取ったんだから、それで十分大きなことは成し遂げているじゃないか!」
 スミスは余分なバッジを持っていなかったため、ノーマンは他のアメリカ人選手から借りたバッジを胸に付けました。そして、史上に残る瞬間が実現したのです。
 三人の若いアスリートが表彰台に上がり、スミスとカーロスは拳を高く上げ公民権運動への敬礼をしました。何百万人もの人々を前にした 「非政治的なオリンピック」 の場で、これほど勇気ある政治行為をした人は前にも後にもいないといわれています。三人は、すべての人間は平等であるという信念のために行なったこの行為が永遠に残るだろうということを理解していたのです。事件後、アメリカのオリンピックチームの代表は記者会見で、この選手三人が生涯にわたって大きな代償を支払うことになるだろうと発言しました。

 時代は流れ、アメリカの人種差別が撤廃された後、スミスとカーロスは人権のために戦った英雄になりました。歴史はスミスとカーロスの行為に正当な評価を下し、サン・ホセ州立大学には二人の行為を祝して像が建てられます。しかし、2位の表彰台が空です。
 ノーマン不在の像は、あの日以降オーストラリアでノーマンが辿った運命を象徴するかのようです。それは最も悲しいヒーローの物語と言ってもいいでしょう。
 オーストラリアでは、ノーマンは歴史から抹消されたかのような扱いを受けました。1972年のミュンヘン・オリンピックに選抜で出場資格を得たにもかかわらず、オリンピックのオーストラリア代表から除外され、ノーマンはスポーツ界を引退。その後は体育の教師や肉屋などの職を転々としていたそうです。
 白人中心のオーストラリア社会でノーマンは、あの事件がきっかけで、家族ともども疎外されてしまったのです。その後、怪我により壊疽も患い、除け者にされ、無視された存在となった元アスリートは、アルコール中毒とうつ病に苦しみました。ジョン・カーロスはノーマンのことをこう言います。
「ピーターはたった一人で、国全体に立ち向かって戦っていたんだ」
 ノーマンは当時、信じられない名誉挽回のチャンスを与えられたことがあります。スミスとカーロスの行為を人類に対する冒涜だと公に非難すれば、ノーマンの行為も許されるというものでした。しかし、自分は間違っていないことを知っていた彼はその申し出を退けました。

 2006年、ノーマンは心臓発作で亡くなりました。受けるべき謝罪は何一つとして受けないまま、この世を去ってしまったのです。彼の葬儀ではトミー・スミスとジョン・カーロスが棺を担ぎました。
 2012年、ノーマンはオーストラリア政府から正式な死後謝罪を受けました。政府はピーター・ノーマンに対し、「・・・何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに代表として送らなかったオーストラリアの過ちと、ピーター・ノーマンの人種間の平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかったこと」 を謝罪しています。
 「彼は自身の選択に対して報いを受けた」 トミー・スミスは説明します。「あれは、私たちを同調するという単純な行為ではなく、彼自身の戦いでもあった。彼は白人で、有色人種男性二人に並んで勝利の瞬間に立ち会った白人オーストラリア男性で、私たちと同じ志のもとにあそこに立っていた」

 ノーマンは1968年のあの日、200m陸上で20.06秒の記録で2位に輝きました。この記録は未だにオーストラリア記録として破られていません。本来なら英雄になるはずが、人権のために立ち上がったため批判され、生前は遂に認められずに2000年オリンピックにも招待されなかったのです。
 世界にはもっと多くのピーター・ノーマンが必要かもしれません。あれから約50年、私たちはいまだに平等と人権のために戦っています。ノーマンの物語は、白人だろうが黒人だろうが人種に関係なく、平等を実現するのは私たちみんなの戦いなのだと教えてくれます。
 この物語をシェアして、ノーマンの行為への敬意と彼の愛と思いやりのメッセージを広めてください。たった少数の人間でも大きく世の中を揺るがすことができることがあるのです。


 人権を獲得するには1960年代の後も闘い続けなければなりませんでした。今も続いています。

 オリンピックがナショナリズムを扇動する手段に利用されています。日本はアメリカの事態をどう見るか1人ひとりがが問われています。


   「イミシン」
   「活動報告」 2016.6.3
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ふくしまの経験を歴史として伝える
2017/01/24(Tue)
 1月24日 (火)

 1月から2月5日まで、明治大学でふくしま震災遺産保全プロジェクトが主催する 「震災遺産と福島の経験―暮らし・震災・暮らし―」 をテーマにした震災遺産展 「我暦→ガレキ→我歴」 が開催されています。
 震災遺産とは、震災が生み出した 「モノ」 や 「バショ」、震災が遺した 「モノ」 や 「バショ」、復興の過程を示す 「モノ」 や 「バショ」 の歴史的資料をよびます。

 東日本大震災は、地震、津波、津波火災、そして福島原発事故、放射能被害、風評被害をもたらしました。
 福島は岩手や宮城とも違う体験をしています。岩手と宮城は震災後も被災者の多くは地元にとどまり、救援者や支援者、報道関係者がたくさん駆けつけました。そこではたくさんの記録が残っています。しかし福島は原発事故が起き、避難命令が出ると被災者や住民は着の身着のままで避難し、しばらくは一時帰宅もできませんでした。ですから被災地の記録は当時のまま残された状況と数年後のものしかありません。

   ふるさと

  呼んでも 呼んでも
  届かない
  泣いても もがいても
  戻れない

  ふるさとは
  遠く 遠のいて
  余りにも遠い

  近いけど 遠いふるさと

  あのふるさとは
  うつくしい海辺

  心の底の
  涙の湖にある
        (佐藤紫華子 『原発難民の詩』 より)

 この数年後に収集した遺品が展示されています。県立富岡高校体育館の天井から落ちた照明、地震が発生した時刻を指す商店の大時計、いわき市久ノ浜地区で地震・津波・火災の被害を受けた駅前商店街の街燈、浪江町請戸地区の折り曲がった道路標識などです。震災直後に設置された富岡町災害対策本部は、すぐに原発事故で避難を強いられます。対策本部はしばらくそのままでしたがその写真があります。授業中だった富岡高校の教室のその時の状況が後に写真に写されました。一時帰宅の時に横断歩道に掲げた 「富岡は負けん!」 と書かれた横断幕があります。

 富岡町で津波にのみ込まれたパトカーの部品があります。双葉署の2人の警察官は津波が押し寄せるなかで住民を避難誘導中に殉職しました。1人は沖合で発見されましたがもう1人は今も行方不明です。パトカーは記憶を伝える震災遺品として双葉署近くの公園に展示されています。

 浪江町の新聞販売店に残された配達準備が整った新聞の包みがあります。配達に出たものの津波被害で地区に着けずに配達できなかったものや、途中で原発事故による避難指示を知り持ち帰ったものもあります。
 15年3月20日の 「活動報告」 で福島民友新聞社の闘いの 『記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞』 (門田隆将著 KADOKAWA) を紹介した再録です。
「浪江町の新聞販売店の話です。販売店に新聞が届くのはだいたい午前3時頃。しかし配達員は避難所からいつもより早く姿を見せたといいます。そして避難所にも配りました。配り終わると原発事故で避難指示がだされました。
 地域の人たちはしばらく経って一時帰宅が許された時に自宅で3月12日の朝刊を目にしました。」


 1月22日、「ふくしまの経験を語る・伝える」 シンポジウムが開催されました。
 はじめに、「大学が避難所になるとき -福島大学の48日間」 の基調講演がおこなわれました。大学が避難所になるのはめずらしいことです。福島大学では阪神淡路大震災以降数回の被災者支援の経験を持つ教授を中心に運営を行ないます。
 避難所設営は、予めの空間づくり、コミュニケーションを確保すること、日常性を確保すること、機能的な環境を考慮しました。健康 (食事) 管理としては、あるもので工夫する、冷たいものは出さない (炊き出しを基本)、栄養バランスを考えて野菜をかならずいれるを基本にしました。
 これらが可能になったのは、応用できる機能環境と知識の結果があったのと、学生を含めたマンパワーです。さらに大学や教職員組合の広範なネットワーク機能です。
 
 講演を聞きながら阪神淡路大震災の避難所を思い出しました。連日、業者が作ったおにぎりの配給が続きます。飽きてきたりして食欲はわきません。栄養の傾きが心配になりました。すると飲食店を経営していた被災者が自主的にカンパを集めて材料の買い出しに行き、野菜を中心にした炊き出しをはじめました。その時 「サラダは簡単だけど年寄りは身体が冷えてしまう」 と説明されました。栄養面ということだけでなく相手への思いやりがありました。

 3人から報告がおこなわれました。
 1人目は、富岡町3・11を語る会代表の青木淑子さんです。会は、12年夏頃から 「震災の話を聞かせてほしい」 という要請が寄せられたのがきっかけで、地元出身者ではじめました。最近は若者も参加しています。震災遺産という 「モノ」 に込められた思いを言葉で説明することを使命としています。
 この3月で双葉郡からは5つの高校がなくなります。避難解除になっても戻ってこない人もいます。そのなかで過去・現在と経験・教訓を語ります。
 会をはじめてわかったことは、人が集まって話をすると自治が生まれるということだといいます。1人で黙っていては自治も連帯も、希望も生まれません。職場の労働者がおかれている状況もそうです。

 2人目は、いわき明星大学の震災アーカイブス室の研究員の方による 「震災アーカイブ活動から見えてくるもの」 です。資料、映像などの震災の記録を集積しています。被災者がビデオや携帯などで撮った映像の提供を協力してもらっています。そして被災者から聞き取りを続け、文字におこし体験をつたえようとしています。体験談は、1人で数時間にわたることもあるということです。

 3人目は、ふくしま震災遺産保全プロジェクト実行委員会による 「震災を保全する」 です。
 これまでは被災した建物や 「モノ」 を残すということはあまり行われていませんでした。取り除いての復興が優先しました。東日本大震災の後から被災した建物保存の賛否の議論が起きています。福島では、被災した 「モノ」 も福島県立博物館に集積して 「語り部」 にしようとする活動が進んでいます。
 震災遺産保全プロジェクトは東日本大震災を歴史と位置付け、歴史として共有し、未来に伝えることを目指しています。そのため 「ふくしまの経験」 を明らかにするため歴史的資料として震災が産み出したモノやバショに着目して保全に取り組んでいます。

 それぞれが、それぞれの手法と目的で 「ふくしまを忘れない・忘れさせない」 ために活動しています。
 ふくしまの被災者は、原発事故のため被災地・ふるさとに返ることができませんでした。皮肉なことですが、その分震災遺産はそのまま残っています。しかしそのモノに絡まりついている思いを落としてしまったらただのモノになってしまいます。震災遺産としてのモノを保存し、そこにある思いを共有するなかから本当のふくしまの経験が活かされます。
 瓦礫は我暦であり、我歴です。そして我々の歴史を語っています。

 そして、復興の過程を示す 「モノ」 や 「バショ」 は歴史ではなく現在進行形です。


   「活動報告」 2017.1.17
   「活動報告」 2016.11.11
   「活動報告」 2015.3.20
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長時間を止めるのは労働者の「NO」と思いやり
2017/01/20(Fri)
 1月20日 (金)

 過労死防止の取り組みが社会的課題と確認される中で、電通での過労自殺が明らかになりました。すると他の企業での長時間労働の実態も明らかになっています。昨年から政府内に設置された働き方改革でも長時間労働の問題がテーマに挙げられていましたが形式的提案ではすまなくなっています。
 厚労省も月80時間を超える長時間労働に対して指導が強化されるようになりました。2002年に通知した 「過重労働による健康障害 防止のための総合対策について」 の 「時間外労働が2~6か月で平均80時間を超えると健康被のリスクが高くなる」 ・いわゆる “過労死ライン” に対するが指導がやっと実施されるようになりました。

 一方、デパートや外食産業では人材不足から営業時間を短縮する動きがあります。コンビニでは外国人労働者の採用が増えています。
 高島屋や三越伊勢丹ホールディングスは昨年から一部の店舗や売り場の営業時間を短くしています。さらに三越伊勢丹ホールディングスは年末年始の休業を現在の2日ら来年は3日にする予定だといいます。「最高の状態で働いていれば、最高のおもてなしができる」 という考えだと説明していますが実際は収益が悪化していることが理由です。
 昨年11月、全国223店舗を展開するロイヤルホストは今年1月までに24時間営業をやめることを決めました。早朝や深夜の営業短縮も進めており、定休日も導入を検討していく方針ということです。理由は、人手不足で賃金が上がり、売上高がコストに見合わなくなってきているためです。人が集まらない中で無理に営業すれば、従業員に長時間労働を強いることにもなります。生活習慣の変化で、深夜の利用客が減っているという事情もあります。
 その分、来客が多い昼や夕食の時間帯の人数を手厚く配置したほうが、より充実したサービスができるようになるという説明です。
 ロイヤルホストは昨年の春闘でインターバルを導入させました。それくらい長時間労働があったということにもなります。
 長時間労働の問題はサービス業界でも避けられない課題になっています。

 日本でも、70年代まではほとんどの百貨店が午後6時までの営業で週1回の定休日がありました。そして地域の小売店とは共存していました。しかし徐々に競合するようになると、売り上げを伸ばすためにと営業時間が延長されてきました。他店に顧客を奪われるのを防止するためということで定休日がなくなりました。
 その原因は、利用者の生活サイクルの変化がありましたが、労働者も長時間労働になると夕方の買い物ができなくなります。そのような労働者の顧客を獲得するために営業時間を延期します。
 その結果は、利用者から買い物をしたい時に時に買えるような営業時間になり、それが便利と評価されるようになりました。外食産業も同じです。便利が当たり前の感覚になっていきます。営業時間が延期された分、売り上げが増える訳ではありません。正規職員のサービス残業と非正規労働者によって維持されました。しわ寄せは労働者の賃金です。労基法の労働時間規制は緩和されていきますが労働者の生活や健康は問題にされませんでした。
 利用者の長時間労働が販売員の長時間労働を生み出す結果をもたらしました。そこでは社会全体の生活スタイルでの計画性が奪われ、他の労働者への “思いやり” の感覚も失われています。労働者同士の共食いです。


 日本の過労死問題は海外でもニュースになっています。
 長時間労働が社会的超問題になると海外との比較がおこなわれています。
 10月16日のニュージーランド・ヘラルド紙は、日本は 「世界で見ても与えられる年間の有給休暇がかなり低い」 と紹介しています。
「米経済政策研究センターのデータによれば、日本は世界と比べて有給休暇が少ない国である。同紙によれば、日本では平均10日間の有給休暇が得られる (その後、勤務年数が増えるごとに1日ずつ増え、最大で20日) のだが、他の国と比べて少ない。世界的に見て有給休暇が多いオーストリアやポルトガルは35日、スペインは34日、フランスは31日、英国では28日などと続く。
 さらに問題なのは、日本人は与えられた有給休暇を消化していないことだ。旅行サイト・エクスペディアの調査によると、日本の有給消化率は60%である。ちなみに有給の多いフランス、スペイン、オーストリアなどでは消化率は100%である。」

 ドイツとの比較です。
 16年10月11日の読売オンラインに在独ジャーナリスト熊谷徹が寄稿しています。
「『物づくり大国』 という目指す方向は日本と同じだが、2011年にはインダストリー4.0 (第4次産業革命) を提唱。工業のデジタル化で製造業の様相を根本的に変え、コスト削減で先頭を走ろうとしている。ただ休みが長いだけの国ではないのだ。輸出額を年々増大させ、15年の貿易黒字は経済協力開発機構 (OECD) 加盟国内で最大だった。おまけに、社会保障サービスの水準も日本を大幅に上回っている。
 OECDによると、ドイツの14年の労働生産性 (労働時間あたりの国内総生産) は64.4ドルで、日本 (41.3ドル) を約56%上回っている。
 ドイツの労働生産性が日本を大幅に上回っている理由は、ドイツの労働時間の短さである。ドイツの例は、労働時間が短くても経済成長を維持し、社会保障システムによって富を再分配することが可能であることを示している。
 ドイツは 『時短』 大国だ。OECDによると、14年のドイツでは、労働者1人あたりの年間平均労働時間が1371時間だった。これは、OECD加盟国の中で最も短い。日本 (1729時間・労働者の3分の1を占める非正規労働者を含めた平均) に比べて約21%も短い。日本よりも358時間、OECD平均よりも399時間、韓国よりも753時間短いことになる。」

 ちなみに日本のGDPは39ドルですが、世界各国のランキングで見ると、
 1.ルクセンブルグ 79.3ドル
 2.ノルウェー 79ドル
 3.アイルランド 64ドル
 4.米国 62.5ドル
 5.ベルギー 62.2ドル
 6.オランダ 60.9ドル
 7.フランス 60.3ドル
 8.ドイツ 59.1ドル
  (G7の平均は54.5ドル 2014年)
のずっと下です。

 16年11月22日のITmediaの 「日本人、それってオカシイよ 『過労死』 を生む日本企業の “常識”」 の見出し記事です。
「例えばドイツ労働省は2013年から勤務時間後に上司が職員に連絡するのを禁止しており、同様の対策はすでに世界では始まっている。
 過労死という悲劇を繰り返さないためにドイツではこんな企業も出始めている。フォルクスワーゲン社は勤務時間終了から30分後に、電子メールの転送を禁止にしている。ダイムラー社は休暇の際に受け取った電子メールは削除してもよいとしている (ただ自動返信にして勤務時間に折り返すことが推奨されている)。こうした例は日本企業ではあり得ないだろう。それでもドイツの生産性は日本よりもずっと高いのである。
 今後、過労死という悲劇を繰り返さないためにも、日本は本気で企業の生産性をいかに向上させるのかについて議論を行う必要がありそうだ。」

 16年11月22日の東洋経済に載ったドイツ在住のフリーライター雨宮紫苑さんの 「日本の過剰労働は、『お客様』 の暴走が原因だ 理不尽な要求にノーといえる文化を作ろう」 の寄稿です。
「ブラック企業をなくしたいなら、社員にまともな賃金を払っている、適切な労働時間を働かせていることによって生じる不便さに寛容でないと。『土日休みなんで納品までにもっと時間かかります』 『定時過ぎたんで会社もう閉めました』 と言われて文句言う人は、言ってみれば 『ブラック市民』 ですよ。・・・
 日本のサービスは、『おもてなし』 という言葉で表される。大辞泉によれば、『もて成す』 とは、『心をこめて客の世話をする』 ことを意味する。しかし、心を込めて客の世話をするという意味を、現在は一方的な奉仕をすると理解され、『お客様は神様』 の状況になっている。客の立場が異常に高く、サービス提供者がへりくだるという、歪んだ関係だ。
 ・・・つまり 『おもてなし』 とは、まず客を思いやる気持ちがあり、客もその厚意を感じて感謝する、『互いに心地よくなるための心遣い』 であったということだ。『おもてなし』 が 『互いが心地よくなるための心遣い』 であったことを考えると、現在の不平等な客とサービス提供者の関係は、その精神とは真逆に位置している。・・・
 ブラック企業をなくすためには、そういった悪意のない 『ブラック客』 の意識改革が必要だ。
 『ブラック客』 の目を覚まさせるためのいちばん有効な手は、サービス提供者がノーをたたきつけることだろう。欧米では、過剰なサービスを要求する客を、『客ではない』 と店が拒否する。
 筆者が住むドイツでは、閉店法という法律により、店の営業時間が規制されている。キリスト教では日曜日が安息日と定められているので、『日曜、祝日は閉店』 が基本だ。また、労働者の休息時間を守り、小売店の営業時間延長による競争を阻止するため、『月曜日から土曜日までの小売店の営業時間は、6時から20時』 という決まりが守られていた。
 ただ、2006年には、閉店法の権限が国から州に移り、その後は各州で規制緩和が続いた。現在は16の州のうち、9つの州が月曜から土曜、3つの州が月曜から金曜の24時間営業を認め、14の州が年4回、またはそれ以上の日曜日の営業を認めた。しかし、法律改正後、ドイツ人は喜んで、店の営業時間を長くしたかというと、そうではない。今でも多くの店で、24時間営業や日曜営業は行っていない。フランクフルト中央駅には、スーパーとパン屋が合計17店舗入っているが、24時間営業しているのは、2軒のパン屋だけだ。
 フランクフルトの中心街にある、ドイツの2大デパートのうちのひとつKaufhofは、月~水が9時半から20時まで、木~土が9時半から21時までで、日曜は休館。もうひとつのKARSTADTは、月~土の10時から20時までの営業で、同じく日曜休館。ショッピングセンターのMyZeil、Skyline Plazaは月~水が10時から20時まで、木~土が10時から21時まで営業、同じく日曜は休みだ。フランクフルトにある4つの巨大商業施設でさえこの営業時間なのだから、あとは推して知るべしだ。日曜や深夜にどうしても食料品が必要になったら、大きい駅の構内の店か、閉店法の規制から外されているガソリンスタンドに行くしかない。
 一見不便に思うだろうが、ドイツ人は深夜や日曜に買い物をする習慣がないので、大して気にしていない。「なぜドイツ人は店が閉まっていても気にしないのか」 といえば、「自分も休んでいるから」 の一言に尽きる。ドイツには 『深夜や日曜日は休むべき』 という価値観が前提としてあり、自分自身が休んでいるのだから、他人に『働け』とは言わない。店が閉まっているのなら、前日に食料品を買って家でのんびりしていればいいのだ。
 それでも 『店を開けろ』 『働け』 という客には、はっきりとNOを突き付ける。ドイツだけでなく、欧米では客にNOと言うことが許される。だから対等な立場でいられるのだ。客の要求を拒否することは、サービスの質を下げることではない。労働者を守るために必要なのだ。
 日本の 『お客様』 は、自分の立場が上で、過剰なサービスも当然だと思ってしまっ手いる。・・・客がサービスに感謝し、サービス提供者の目線に立つことができて初めて、日本ご自慢の本当の意味での『おもてなし』になる。客が相手を思いやる気持ちを持てれば、労働環境も少しはマシになるだろう。」
 ドイツはこれでもかなり “緩和” されました。

 長時間労働の改善は経営者の都合では悪循環をもたらします。労働者の生活時間の確保、健康の維持の要求にこたえ、お互いへの思いやりを社会運動として進める中から実現させていくことが大切です。

   「長時間労働問題」
   「活動報告」 2016.12.16
   「活動報告」 2016.12.13
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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「市民主体の復興」 の理念を根付かせるために
2017/01/17(Tue)
 1月17日 (火)

 1月17日は阪神淡路大震災から22年目を迎えます。ちょっと前のように思ってしまいますが現地では震災を知らない世代が半分を占めるようにまりました。
 午前5時46分はテレビで現地からの中継を観ていました。神戸では確実に体験が語り継がれています。しかし東京では中継時間も短いです。淡路島では 「神戸の壁」 の前で集会がもたれていました。

 神戸では竹の筒にろうそくの灯をともして文字を描いています。これは1年後から行なわれていますが、この時は、数日前の土曜日に横浜・山下公園で使用した竹の筒を佐川急便が無料で運んでくれたものでした。神戸に思いを寄せるたくさんの市民が集まって夕方5時46分を合図に「YOKOHAMA 1.17」と灯をともしました。合わせて氷川丸が汽笛を鳴らしてくれました。

 「神戸の壁」 はもとは神戸市長田区若松町にありました。震災でも壊れずに残りました。その後淡路島に移設されました。
 若松町に残っていた時に何度か見に行きました。直後は更地にそびえるように建っていました。頑張る神戸の象徴のようでした。 その後、近くにプレハブなどが立つようになるとそのまま残すのは難しくなってきます。神戸の壁保存実行委員会の説明版が掲げてありました。
「神戸の壁    神戸の壁保存実行委員会
  『神戸の壁』 よ永遠なれ (保存運動)  06 Oct 17
 『神戸の壁の由来』
 ここ若松3丁目は、今回の大地震により倒壊、全焼し、13名の方が亡くなりました。
 ゴーストタウン化した街には、1927年 (昭和2) 年に若松市場の延焼防火壁として設置された 「神戸の壁」 は大2次世界大戦の空襲によっても残り、兵庫南部大震災にも耐え、多くの人々を救って、威風堂々として建っている。
 この歴史ある 「神戸の壁」 が解体されようとしていたが、勇気ある土地所有者と行政、地域の方々の協力によって解体が延期されている。
 震災の証人として 「神戸の壁」 が永遠に残る様保存活動を展開中である。
 震災で亡くなった人、救出にいって命を失った人、その勇者は地震の怖さを、苦しみを、悔しさもはや他人に語ることが出来ない。
 幸いにして生存している我々は、亡くなった人々の代弁者として強く伝えたい。せめて 「神戸の壁」 を残すことが、我々に課せられた責務である。
 「神戸の壁」 をみんな手をつないで人類の為に 「物質的語り部」 の遺産として引き継ぐ後世に残すことが大切である。」


 大都市では震災遺跡を含めて遺跡を残すのは難しいです。しかし路地にはいくつものお地蔵さんが建っています。これも語り部です。
 また、兵庫県の人たちは、この間も震災などが発生した時には各地にかけつけ経験を活かした支援をしています。震災の体験は決して無駄にはされていません。
 しかし時ととも記憶がうすれたり忘れていくのも防ぐことはできません。忘れないためためにはしっかりと記録が残され、語り継がれ、受け継がれていかなければなりません。
 子の責務を神戸新聞はしかりとになっています。
 神戸新聞は震災後、路地を這うようにして取材を続け、復興の取り組みでも市民と一緒に苦闘してきました。そして阪神淡路大震災から20年目に、今後いつ起こるかしれない震災に向けて提言をおこないました。阪神淡路大震災と復興に向けての挑戦の経験は活かされています。この後もいつどこで発生するかわかりません。災害は防ぐことはできません。しかし被害を小さくする・「減災」 はできます。そのためには体験を共有しておくことが必要です。神戸新聞社からの6つの提言を紹介します。

 6つの提言
 阪神・淡路大震災の発生から20年になるのを前に、神戸新聞社は 「兵庫発」 の経験と教訓を次世代と国内外に発信するため、6つの提言をまとめた。世界的に巨大災害の発生リスクが高まる中、災害への備えを 〈守り〉 の取り組みと捉えず、社会の在り方を根本から見直し、暮らし方、生き方を創造する 〈攻め〉 の契機とするよう、発想の大胆な転換を求める。
 序文
 かつて関東大震災 (1923年) がそうであったように、阪神・淡路大震災は、災害多発国である日本に重大な転換を迫った。
 1995年1月17日午前5時46分。死者6434人、行方不明者3人。高齢社会に突入した先進国の都市を襲った大震災は、世界的にも例のない被害をもたらした。
 この国はその教訓を生かしているのか。被災地のただ中にある新聞社として、私たちは問い続けてきた。しかし、2011年に起きた東日本大震災は、その努力と覚悟が全く不十分であることを示した。関連死を含め、死者・行方不明者2万1000人以上。この国が抱える課題はより鮮明になり、深く進行している。
 あの日から20年。私たちは自らの原点である1月17日を 「祈りの日」 とし、亡き人々の魂を受け継いで阪神・淡路大震災に向き合い続けていくことをあらためて誓う。「兵庫発」 の経験と教訓を次世代、そして国内外に伝え続けることを自らの責任と位置付ける。
 阪神・淡路、東日本大震災が浮き彫りにした問題は、少子高齢化、人口減少が避けられない日本の全ての自治体、市民に共通する。今の社会のありようでは、南海トラフ地震や首都直下地震など、今後この国を襲う巨大かつ複合的な災害に到底立ち向かえない。
 私たちはまず 「災害とともに生きる覚悟」 を強く持たねばならない。その覚悟がなければ、命を守る行動は生まれない。次代に伝える思想を醸成することもできない。
 私たちは、社会の在り方を根本から問い、生き方や暮らし方の創造へとつないでいく。兵庫から、あるべき成熟社会の姿を模索し続ける。
 それが被災地に生きる者の責務であり・亡き人々の魂に向き合う道である。
 市民主体の復興の仕組みを確立する
 阪神・淡路大震災から20年の過程で明らかになったのは、復興の主役は被災者であり、その地域に暮らす人々であるということだった。
 復興の姿は国や自治体が示すのではなく、被災者自らがつくり上げていくものだ。その過程での議論や葛藤、支援者とのつながりが住民やまちの血肉となり、次の災害に向けて市民主体の防災を進めていくサイクルにもなる。
 阪神・淡路の被災者は行政主導の復興の仕組みやまちづくりに異を唱え、対案を示し、議論を重ねてきた。一人一人の声がうねりとなり、被災世帯に現金を給付する 「被災者生活再建支援法」 が成立し、その後の災害の復興に寄与している。
 震災後の1年間で延べ138万人に上ったボランティアや多様な分野に広がったNPOの活動も復興を支えてきた。被災者に寄り添う市民の力がなければ、20年の歩みはもっと暗いものだった。
 東日本大震災と福島原発事故の被災者、避難者の苦悩は、阪神・淡路からの芽生えがまだ育っていないことを浮き彫りにしている。
 私たちは 「市民主体の復興」 の理念を根付かせ、広めていかねばならない。市民が主役となる復興を、確固たる仕組みとして構築していかねばならない。
 防災省の創設を
 日本の災害対策は、多くの省庁にまたがっている。
 防災の所管は内閣府防災担当だが、国土交通省やその外局の気象庁、総務省の外局の消防庁などもそれぞれの役割を担う。さらに実働部隊を出す防衛省・警察庁なども絡む。
 被災後の復興も、東日本大震災で復興庁という10年間の時限組織ができたが、現実には各省庁の縦割りだ。
 日本は地震、噴火、風水害などあらゆる災害の危険に常に直面する災害多発国である。しかも今、南海トラフや首都直下地震、巨大噴火など国の存立が脅かされかねない災害の危険性が迫る。
 災害対応は自治体主体のボトムアップであり、主人公は一人一人の市民であるという前提は変わらないが、国として防災から復興までを見据えた災害対策のグランドデザインが欠かせない。「防災省」を創設し、兼務でしかない防災担当相も専任として、災害多発国にふさわしい体制を整えるべきだ。
 組織をつくっても対策がすぐに進むわけではない。しかし、防災、復興を担う専門的な人材を育成していくためにも、災害から国民の命を守る覚悟を形で示さねばならない。
  「防災」を必修科目に
 阪神・淡路大震災以降、全国の学校で防災教育は広がりつつある。兵庫県が2002年に舞子高校に設置した環境防災科の取り組みは成果の一つだろう。
 小学校から大学までそれぞれのレベルで震災学習や防災マップづくり、住民と連携したまちづくりなど、多様な活動が増えている。これらをさらに深め、全国的、日常的な取り組みにできないか。
 地震、津波、台風など災害のメカニズムを科学的に学ぶと同時に、復旧・復興の過程、ボランティア、災害弱者の支援、平時からの地域社会の在り方などを幅広く学ぶ科目 「防災」 を新設したい。
 災害から命を守るには、「自分の命は自分で守る」 という思想の定着と実践が欠かせない。自分の命を守ることは、他者の命を助ける力にもなる。
 新科目の導入は簡単ではないが、教科横断的にすることで、授業時間の枠を生み出したい。防災の知恵と技術を身に付けた人材の育成は、将来、災害に強いまちの基盤となる。
  住宅の耐震改修義務化を
 人々が寝静まる未明に発生した阪神・淡路大震災では、8割以上の人が自宅の下敷きになって亡くなった。住宅の耐震化こそが巨大地震から命を守るための対策の根本であることを私たちは学んだ。だが、耐震改修が不可欠な古い住宅の耐震化率は全国平均で3・9%、兵庫県は5・8%(いずれも2008年時点)にとどまっており、補助重視の国や自治体の施策は限界に来ている。
 住宅は私有財産であると同時に、高い公共性を持っている。これは阪神・淡路から20年の議論の中で定着してきた思想だ。
 多数の家が倒壊すれば、避難路をふさぎ、緊急車両の到着を阻む上、大火の原因にもなる。倒壊家屋の撤去は莫大 (ばくだい) な公金の支出につながる。
 家屋の倒壊を最小限にとどめることが、災害からの迅速な復旧・復興につながる。それが阪神・淡路の大きな教訓である。
 耐震改修を義務化する法律を制定し、自ら手掛けることが難しい人には公的支援を惜しまない。「自助」 と 「公助」 を効果的に組み合わせた新たな仕組みを創 (つく) ろう。
 地域経済を支える多彩なメニュー
 地域経済再生の原動力は、資金が地域内で循環する構造を、できる限り早く取り戻すことにある。
 阪神・淡路大震災の際、3年間はインフラや住宅整備などの復興需要が被災地経済を後押ししたが、その間に事業所の移転、廃業が相次いだ。
 事業所の再開が進まなければ、雇用も縮小し、結果として地域の力は衰退する。阪神・淡路の被災地では、事業再開にあたって金融機関の融資が中心となり、その負債が長く事業者を苦しめてきた。こうした問題は、東日本大震災の被災地にも共通している。
 地域経済の再生には、新産業の創造に長期的な視野で取り組む一方、事業所の早期再開を後押しする融資や助成金制度、ファンドの活用など幅広い支援メニューを整えておかなければならない。それは、災害が発生してからでは間に合わない。平時から、これらの仕組みがいつでも機能するように準備をしておくべきだ。
 BOSAIの知恵を世界と共有しよう
 「BOSAI」 は、今や世界の共通語になりつつある。国際協力機構 (JICA) や兵庫の民間団体は、世界の途上国で防災教育の普及に努めている。神戸発の防災福祉コミュニティは 「BOKOMI(防コミ)」 と呼ばれ、海外からも注目されている。
 2005年に神戸市で開催された国連防災世界会議で、防災の国際的な取り組み基準となる 「兵庫行動枠組」 が策定されて10年。国連に加盟する193カ国のうち146カ国が計画に参加し、防災対策を包括的に担う組織を設けた国が4倍、防災教育に取り組む国が3倍になるなど、着実に成果を上げてきた。
 阪神・淡路大震災後に整備された神戸市のHAT神戸は、防災機関の世界的な集積拠点の一つに育った。兵庫県立大学がこの地に防災系大学院を創設する計画もある。
 今年3月、仙台市で開催される国連防災世界会議では 「兵庫行動枠組」 の後継となる計画が議論される。
 兵庫で培ったBOSAIの知恵を世界に発信し、共有するのは私たちの責務である。


 死者6434人の内訳は、4500人が直接死であとは関連死です。東日本大震災では、福島県の関連死はすでに直接死をかなり大きく上回っています。阪神淡路大震災の経験がまだまだ活かせ切れていません。
 「被災者生活再建支援法」の実現は容易ではありませんでした。市民の粘り強い闘いでやっと獲得したものです。このことを忘れてはいけません。
 そして本当の防災は、国や行政に頼るものではなく1人ひとりの力の結合です。
 6434人の死を無駄にしないということは、そして東日本大震災の死者・行方不明者18000人を追悼するということは、経験を活かして後世に伝えていくことです。

   「活動報告」 2016.1.19
   「活動報告」 2015.1.15
   「活動報告」 2014.1.21
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