2016/09 ≪  2016/10 12345678910111213141516171819202122232425262728293031  ≫ 2016/11
資生堂労組  「人のために、社会のために、そして未来のために」
2016/10/28(Fri)
 10月28日(金)

 ある研究会で、資生堂労働組合の委員長の講演を聞きました。

 資生堂労組については2012年2月3日の「活動報告」で美容部員の労働条件をめぐる 「ベースアップゼロを2年続けて要求」 で紹介、さらに2016年3月18日には社会的問題になった 「資生堂ショック」 について紹介、 そして2016年7月12日には、美容部員の方をお招きして開催したワンコイン講座の 「資生堂 育児時間制度の実施は、男性労働者への働き方の問いかけ」 を報告しました。
 講演は資生堂労働組合はどのようにしてこのような闘いを展開することができたのか、その背景につてでした。
 日本の労働組合は「企業内組合」です。その中で労働組合が使用者に限界まで迫る姿勢が、つねに労働組合とは何かを問い続ける中で構築されていきます。  

    ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

 東京・墨田区に資生堂の東京工場がありました。今はありませんがそこが資生堂労働組合発祥の地だと聞いています。資生堂は化粧品で名前が通っていますが、そこでは石鹸やシャンプーを製造していました。牛脂などの匂いが立ち込め、木造の建屋の梁をねずみが這っているのをよく見ました。
 私は来年で60歳です。工業高校の電気科を卒業して東京工場に工場採用で入社しました。工場の設備で電気担当の前任者が急に辞めたので募集がありました。
 東京工場には労働組合の大先輩の方がたくさんいました。入社して慣れてきたころ、更衣室で先輩から声をかけられました。「仕事が終わってから俺と一緒に行かないか」 と誘われたので 「わかりました」 といったら、近くの錦糸町公園の労働組合の集会に連れていかれました。その時にこういう世界があるのかと思いました。その後いろいろな経験を積むことになります。先輩方からは、こいつは使えると思っていただいていろんなことを教えてもらいました。
 資生堂組合の委員長として、私のような委員長は近年いません。私の前の委員長は慶応の幼稚舎出身で世田谷に住んでいました。団体交渉は敬語です。その前は早稲田出身です。資生堂の看板のもとでの委員長です。私はブラックリストに載っていて、当時の中央の役員からはバッシングを受け、さんざんな目に遭います。絶対に委員長にはしない、工場の委員長にも絶対にしないと言われていました。

 では何で委員長になったのか。資生堂は大きくなって転機を迎えていくなかでいったん壊れていきます。新しく生まれ変われるかというなかでの壊し役として、不思議な役回りでなったと思っています。なぜかというとエリートではなく、育ちのいい委員長では会社に矢を射ることはできないし、しません。それをしなければ変われませんでした。私にはしがらみが一切ありません。
 労働組合の活動をすることを当たり前と考えています。組合役員でなかったのは工場移転の1年間のごたごたした時だけです。支部の青年部からはじまり、ずっと何らかの役員を40年してきました。
 以前は、生活に困っていると労働組合で主張して賃上げを要求することで求心力を持ちました。経済も右肩上がりだったから交渉で成果を出して存在感もありました。ストライキをうって労働組合を肌で感じることができました。
 今はそんな労働組合を感じる機会はないです。


 資生堂労働組合の委員長として上部団体から抜ける経過でバッシングをうけました。労働組合からもうけました。自分たちが権限を持ち続けられるような縛りなんか不要です。そのような中には労働組合としての統一感も意思もないです。私は今の上部団体のやっている活動が本当に労働運動なのかとすごく疑問を持ちました。
 だったら資生堂労働組合は運動なんて偉そうなことは言わない活動でいい。でもどこの組合よりも組合員のことを思う組合にしますと宣言しました。それで労働組合の仲間に声をかけてネットワーク 「未来フォーラム」 を最初4労組で立ち上げました。集まっているのはまったくの異業種どうしで活動を軸にしています。8年たって今26労組に広がっていますが出入り自由です。
 上部団体に入っているところもあります。しかし多くの組合がいうのは、上部団体は組織としての自分たちの活動を話し合うだけで、職場の話はないということです。労働組合の本当の活動は現場ですが職場の中に労働組合が存在しなくなっています。上部団体も連合も本当に労働組合が必要だと思うのなら、今は足元のところに力を注いで支援すべきだと思います。
 そういう思いから活動を軸にしている組織を作りました。活動を共有できる、労働組合の課題の本質を話し合える場にしようということで月1回車座研究会を開いて70数回になっています。テーマの作り方についても時々変え、多い時には100人を超えます。徐々にいい活動になってきています。
 自分たちの労働組合が魅力ある活動をすることによって仲間が広がっていくという理念です。未来フォーラムの理念は 「人のために、社会のために、そして未来のために」 です。
 反面、そういうことを掲げなければならないくらいに労働組合がわからなくなっています。何の抵抗もなく自分のために役員になると平気でいいきる委員長もたくさん出てきています。昔はそんなことは思っても言わなかった、恥ずかしくて言えませんでした。そして委員長になってすぐに2年後に辞めるといいます。任期が2年制だからです。2年後には会社役員に入ったりします。組合員からしたらふざけるなです。
 こんなことを続けていると組合が悪い方に変質します。委員長が自分のための活動をしていますから組合そのものが自分のための組織になってしまっています。自分が出世する踏み台にしたり、組合員がいられない会社になったり、不正を合意したり、リストラみたいなことを平気で受け流したりする組合になってしまうのではないかと心配です。


 未来フォーラムの仲間であるツムラ労働組合の執行委員会の研修会に呼ばれました。その時に、労働組合とは何ですかと聞いてみたら、みなきょとんとしています。
 今、労働組合を感じる機会はなかなかありません。私が話したことについてどこかに記憶があるなら重なりますがないです。それを知識として得るのが精一杯です。そういう人たちに労働組合の役割や使命はこうだといっても難しいです。
 私の話から労働組合とは何かをちょっとは理解してもらう役割できましたと話をしました。
 当時、メーデーは代々木公園に集まります。労働者が集まるとすごいなと思います。シュプレヒコールなどをしました。団結ガンバローを本気でできるのは私の世代までです。メーデーなども本気でやったと思っています。
 先輩たちと行動の後に、夜の行動ですと決まって工場そばの居酒屋に行きました。そこで先輩たちは 「人としてどうなの」 とかいいます。そういうことはその時に教えてもらいました。「今日の君たちの行動は素晴らしかった。どんなに多くの人の命を救うことになるか」 とか。
 近くに大久保製ビン闘争がありました。支援行動に参加して経営者ってこんなにひどいことをするんだなと肌で感じたこともありました。
 労働組合が自主的・主体的活動をするところだと意識している組合は少ないです。企業の一部、下手したら人事部の下部組織です。そんな組織図を書いている組合もありました。
 会社の中で、唯一労働組合だけが社長が言ったことに違います、私たちはそう思わない、それはやりませんと宣言し、自分たちの考えや行動ができる組織です。そんな話からしなければなりません。組合員の幸せ、組合員のために役員はいるといっても作業のことだと思っています。
 今、組合内の組織はガバナンスがききません。組合員が見えなくなったらとんでもない悪の組織になるぞ、大丈夫?って言いました。そこを防ぐのはここにいる役員の正義や良心、役員として2年なら2年でいいからなったときぐらいみんなのためにやるんだよ、ちゃんとやろうよ、自分のためにやっちゃだめだよと言いました。
 そんなこと最初に聞いていなかったぞという顔をしていますがこういう感じです。

 労働組合活動が難しくなっています。社員もどんどん利己的になっています。組合員も仲間のことを考えなくなります。例えば労働組合が組合員に呼びかけてもオレそんなこと嫌だよと平気でいいます。また会社もそういうことを加速させています。今の経営者は会社のことを思っている人は少ないです。ましてや外資系で頑張って来て名前が通っている人は怪しいです。そのような世の中になってきています。
 日本人の良さはそんなことではなかったと思います。立派な経営者はこの企業を成長させてください、社会のために役立つために個の企業を発展させてください、社員を幸せにしたいと言っていました。日本人がもともと持っていたDNA・人間性の中には自分が幸せになりたいという思いがあっても自分以外の人も同じようにしあわせであってほしいという思いがありました。あの大きな地震があったときに世界がびっくりしたのはそこです。あんなつらいことが起きていても、素晴らしい秩序が保たれました。自分の家族が亡くなっているのに、消防士が自分の役割として救援活動に行く、自分の食べ物もないのにみんなで分かち合いました。私たちにしても被災地に入らなくても涙が止まらない、新聞読んでテレビを見てなにかできないかなと涙を流していました。


 上部団体を抜けたらバッシングをうけましたが乗り越えてきました。
 私が中央の書記長になった時、上部団体は化労研という薬業界の団体が中心でした。加盟組合は賃金もダントツにいいし、みな高学歴だし、過激じゃないから会社との関係もいいです。そこに化粧品会社が1つ入っていました。集まっても話があいません。賃金の水準の話はしませんし本当のことをいいません。薬は国に守られていて市場がないです。競争していてもお互いを責めないようなカテゴリーを決めていて住み分けが出来ています。
 資生堂は、価格拘束は独禁法に引っかかるということで安売りにシフトし、市場に巻き込まれて厳しくなっていきました。そこから急におかしくなっていきます。薬業界の人たちとも話が合わなくなっていきます。
 そのような状況ですので、申し訳ないけど抜けさせてください、来ても私たちは意味を感じないです、私たちの会社は今たいへんなことになっているので、社内のことを集注的にやらせてくださいといいました。
 化労研は上品な組織ですのでそんなに反発や抵抗はしませんでした。ただ最後はいやな思いをしました。「お前の組合がいた理由をお前は分かっていたのか。お前のところはナマズだったんだよ。高級魚にナマズ1匹という言葉を知らないか。そういう役目だったんだよ」。「ああそうですか。よかったですね、このまいったらナマズが高級魚を食っちいましたよ」。
 私が書記長の時、慶応幼稚舎出身の委員長に上部団体を抜けさせてくださいとお願いしました。委員長は 「僕はもめ事はいやだからやるならお前が委員長になってからやってよ」 と即答しました。委員長になってすぐに抜けました。資生堂の委員長は化労研の副会長のポストでした。就任の時に抜けますとあいさつしました。

 ところが、化労研は友愛ゼンセンに加盟する約束事が成立していました。友愛ゼンセンから見たら薬業界より資生堂の組合員が圧倒的に多いし、名前も浸透しているということで欲しがっていました。
 友愛ゼンセンは店の前で 「お付き合いをしている資生堂の労働組合はこんなところです」 というビラをまいて不買運動を起こしました。
 抜けた後に、会社の常務が中学時代の同級生から久しぶりに食事をしようと中華料理屋に誘われました。そこには上部団体の幹部がいて 「お前のところの組合はとんでもない、それをさせているのは会社だろう」 ととっちめられました。常務はその店から私に電話をしてきました。「委員長、今こんなことになっているんだけれど、俺、腹立つから喧嘩してもいいか。お前のところには迷惑かからないようにするから」
 常務が翌日にいいました。「労働組合ってそんなことまでするんか。俺は中学の同級生に、お前、人として恥ずかしくないのかと言ったぞ。ましてやうちの組合は俺のいう事なんか聞かない。そもそもお前たちは間違っている。」。
 行政との関係も断ち切るといわれました。断ち切るといっても今の上部団体と行政のつながりなど大したことありません。
 上部団体から抜ける時は、組合大会で議決しなければなりません。その時に 「そんなことしてよ、大丈夫なのか」 と心配する反対意見も出ました。意見に行政との関係もありましたので 「上部団体に関わらなくても関係性が出来たらいいですね、やってみます」 と答えました。しかしまったく行政とつながりがありません。何人も経て厚生労働大臣に会いに行き 「こんなことが起きてていいんですか。厚労大臣が所轄しているんでしょう。労働組合はそもそも何のためにあるんですか」 と報告しました。それを契機にその後は単組としてお付き合いをさせてもらっています。


 労働組合の役割とかはますます高まっているのかなと思いながら活動して来ました。
 しかし偉大なる先輩方が残してくれた資生堂労働組合ですが組合の様子を見ていて心配もありました。
 この組合を残すか、解散をするかを決めようと中央執行委員会で1年かけて議論をしてきました。中央執行委員は30代が中心で40代が少しいて50代が2人で若い人が多いです。そもそも労働組合ってなんだと法的なところから勉強し、それから資生堂組合がこれまで活動してきたこと、これから会社の中に起きそうなことを伝えてたうえで、「利己主義が進んでいることはみんなも感じているだろう、これは労働組合活動を続けていくときにはものすごく困難になるぞ、そこに向かってやっていけるか」 と訊きました。「やっていけないなら、組合員にとって悪の組織になるんだったら解散しよう。その方がよっぽど組合員にとってわかりやすい」 と言いました。
 会社が実力主義というもとに社員がどんどん自分だけアピールするようになっています。仲間という言葉は使うけどラインで繋がっているだけです。労働組合の仲間はそんなちっちゃなものではないです。見たこともない同じ会社で働く者同士も仲間です。会社が違ったって仲間です。そんな考え方は今の若者は持てないです。
 1年かけて議論をした最後に 「解散するんだったら私が責任をもってみんなに理解を求めて進めるから、厄介だと思うな」 と言いました。そしたら残す、「資生堂をそんな会社にしたくない。委員長の言う通りだと自分たちも感じている、社員もどんどん変わってきている。でも出来るところまで精いっぱいやる」 というんです。
 だったらこの言葉を残そうということで残したのが 「自分も仲間も幸せである」。自分だけということに対して、組合って違うよというのを残しました。本当は 「仲間の幸せを考えるのが組合だ」 と思ったんですが、そこまでいったら役員はいいけど組合員までは伝えていったときについてこないんじゃないか、逆に拒絶していくと思ってこうしました。
 2つめは、「会社の発展は社員の幸せとともにある」。これは組合員に向かってじゃなくて経営に向かってです。いいか経営、会社の発展は社員の幸せとともにあるということを絶対に間違えるな、忘れるな、自分たちだけが勝ちたいとか、グローバル企業としてこうだとか、そんなことで会社の持続的な繁栄はない、ということです。
 これを資生堂労働組合が目指す姿としてイメージしようとしました。


   「活動報告」 2016.7.12
   「活動報告」 2016.3.18
   「活動報告」 2012.2.3
   当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 仲間・連帯・団結 | ▲ top
電通の過労自殺は大手企業の傲慢さの象徴
2016/10/25(Tue)
 10月25日 (金)

 大手広告会社の電通で、昨年末に新入社員が過労自殺し、労災に認定されたことを遺族が10月7日に記者会見して明らかにしました。
 昨年4月に入社した新入社員は、試用期間が過ぎた10月以降1か月の時間外労働が105時間におよびました。しかし電通は、社員本人が作成する 「勤務状況報告表」 の時間外労働は月70時間を超えないよう指導し、新入社員は10月に 「69.9時間」、11月に 「69.5時間」 と記載していました。

 電通では、1991年に入社2年目の男性社員が過労自殺したことに対して遺族が提訴し、2000年に最高裁から東京高裁への差し戻し審で電通が損害賠償と謝罪をして和解しました。いわゆる 「電通過労死事件」 です。第一審判決では 「使用者の安全配慮義務」 違反が指摘され、判例はそれ以降の裁判でも踏襲されています。
 しかし電通においては労働環境が改善されていないといううわさはその後も漏れ伝わってきていました。今回の事件が報道されると、13年6月にも当時30歳で病死した男性社員は長時間労働が原因で過労死し、労災認定されていたことが明らかになりました。また14年6月に関西支社が、15年8月に本社が労基署から是正勧告を受けていたことが明らかになりました。新入社員は本社が勧告を受けた4カ月後のです。


 電通過労死事件の一審判決を契機に労働省は労災認定基準の改正作業に取りかかりました。その後、精神障害の労災認定は増えつづきます。
 使用者側も “高額の損害賠償金を支払わないため” のメンタルヘルス対策を開始しました。講習会では電通過労死事件の和解金額が掲載された新聞切り抜きを示し、管理職は社員の動向を監視し、裁判に至ったときに反証するための証拠づくりが命令されました。メンタルヘルス対策は、労働者個人の資質の問題、健康管理は自己責任というとらえ方で職場環境改善には至りません。その姿勢は、昨年12月1日から法的に義務付けられた 「ストレスチェック制度」 の具体的運用においてもそうです。
 労働者個人の資質の問題というとらえ方は、いみじくも今回の過労自殺事件が報道され、政府の 「過労死等防止対策白書」 が公表された直後に武蔵野大の長谷川秀夫教授が言い得ています。ニュースサイトなどに 「月当たり残業時間が100時間を超えたくらいで過労死するのは情けない。自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない」 と投稿しました。抗議が寄せられると 「つらい長時間労働を乗り切らないと会社が危なくなる自分の過去の経験のみで判断した」 と釈明しました。会社のためには労働者は無理を受忍しなければならないという主張です。労働者の健康よりも会社が優先、労働者は使い捨て、いつでも取り換えがきくという多くの使用者の本音が吐露されました。
 さらに 「勤務状況報告表」 の書き替えは、多くの企業で行なわれていますが残業代の未払いも発生させています。

 そのような労務政策によって多くの企業で長時間労働がはびこっています。
 2012年3月、世界人権宣言に基づく社会権規約に対して、国際人権活動日本委員会は 「社会権規約第3回日本政府報告に対する 『カウンターレポート』」 を提出しました。そのなかに過労死問題も盛り込まれています。
「下記の表は日本経団連の会長・副会長歴任者出身企業の36条協定の実態である。これは株主の立場から企業の社会的責任 (CSR) を求めて活動しているNPO株式オンブズマンが、労務上のコンプライアンスの現状を把握するために所轄の労働局を通じて得た情報である。」
 表には企業名、延長することができる最大時間 (1日、1か月、1年)、過半数代表者が記載されています。
 例えば、
  キャノン     15時間、    90時間、1000時間、労働組合
  トヨタ自動車   8時間、    80時間、 720時間、労働組合
  新日鉄製鋼   8時間、   100時間、 700時間、労働組合
  三井物産   12時間45分、120時間、 920時間、労働組合
などです。
 三井物産の労働者は8時間労働で、間に1時間の休憩時間をはさみ、そのうえで12時間45分の残業をしたら、通勤時間を含めたら生活時間はどれくらいになるのでしょうか。
 かつての栄養ドリンクのコマーシャル 「24時間働けますか」 そのものです。
「日本を代表する、かつ日本の経済界をリードする大企業が労働基準法の規定をはるかに超えた36条協定を労働組合と締結しているという実態が示されている。労働組合がその不法不当な協定に合意し、かつ所轄の労働基準監督署がその36条協定を指導し訂正を求めることなく受理しているというゆゆしき結果が示されている。」
 記載されたある企業は、全員が対象ではなく、急に残業が必要になったときの担保だと弁明しましたが果たして実態はそうでしょうか。さらに多くの企業で 「延長することができる最大時間」 を超えた時間外労働が常態化しています。その具体的例が電通ではないでしょうか。

 このような長時間労働を 「合法化」 しているのが、厚労省が2003年10月22日に発した労基法36条の運用に関する 「通達」 (基発第1022003号) のなかの 「特別条項付き協定」 です。
「労使当事者は、……『限度時間』 以内の時間を一定期間についての延長時間の原則として定めた上で、『限度時間』 を超えて労働時間を延長しなければならない『特別の事情』が生じたときに限り、一定期間として協定されている期間ごとに、労使当事者間において定める手続を経て、『限度時間』 を超える一定の時間まで労働時間を延長することができる旨を協定すれば、当該一定期間についての延長時間は 『限度時間』 を超える時間とすることができることとされているところである。」
 具体的には 「特別の事情」 がある場合は 「1日を超え3箇月以内の一定期間について、原則となる延長時間を超え、特別延長時間まで労働時間を延長することができる回数を協定するものと取り扱うこととし、当該回数については、特定の労働者についての特別条項付き協定の適用が1年のうち半分を超えないものとすること」 です。
 要するに、特別条項付き協定を結べば、限度時間を超える時間を延長時間とすることができます。その運用 (悪用) 次第では労働時間の上限はないといえるものになります。
 経団連が、政府への 「おねだり経団連」 と呼ばれて久しいですが、政府・厚生労働省は労働時間の規制においては使用者の都合だけを配慮し、労働者の健康問題については 「通達」 「指針」 で済ませています。
 長時間労働を合法化する特別条項付き協定は直ちに撤廃されなければなりません。

 長時間労働の実態は、特別条項付き協定を含めた36協定を締結している一方の労働組合にも責任があります。さらに、特別条項付き協定を超えた長時間労働の黙認は労働組合も共犯です。
 電通過労死事件の時、遺族は電通の労働組合に裁判へ支援を要請しました。労組は 「中立を守る」 という回答で拒否しました。「中立を守る」 は、会社に非があったことが明らかになっても会社を追求しないで、裁判の結果を黙殺しました。その結果、今回の事件も発生しました。労働組合は共犯です。しかし今回も沈黙を守っています。労働者の生命も守ろうとしない労働組合はもはや労働者への敵対者でしかありません。

 さらに、「カウンターレポート」 にあるように 「所轄の労働基準監督署がその36条協定を指導し訂正を求めることなく受理しているというゆゆしき結果が示されている」 問題が指摘されています。
 電通において労災認定が行なわれ、臨検・指導がおこなわれた後でも過労自殺者が起きるということは臨検・指導が形式に終始し、有効性を発していないということです。
 電通は、なぜ指導に従って労働環境を改善しなかったのでしょうか。指摘や指導があって自分たちには社会的力と存在感があるので見逃される、もみ消せるという大企業の傲慢さがありました。多くの大企業がそうでした。
 数年前から労基署の臨検で長時間労働が摘発され、実態が公表されて報道でも大きく取り上げられ、社会問題化しました。その結果、自主的に改善を進める企業も増えています。
 しかし民間企業の人事関係者の間では、摘発の “いけにえ” は、外食産業の次はIT産業だとささやかれていました。経済団体の中枢部から外れていて影響力が小さい産業だからです。これが現在の労基署の姿勢への評価でした。まさにトカゲのしっぽきりです。
 大企業こそ社会的責任は大きく、規範とならなければならなりません。労基署はそのように指導を強化する必要があります。


 現在、政府はさまざまな労働政策を推し進めています。労働者の保護が強化されると説明されています。しかし実際は経済成長における労働力の功利的活用の発想に基づくものでしかありません。
 過労死防止法は遺族の闘いで成立をかち取りました。労働者と労働組合は、長時間労働防止にむけて、政府の法制化による規制に期待をかけるのではなく、自分たちが獲得した地平を法律で担保させるような闘いを作り上げていかなければなりません。


   長時間労働問題
   「活動報告」 2016.9.9
   当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 長時間労働問題 | ▲ top
「土人」 発言は土壌があって発せられた
2016/10/21(Fri)
 10月21日 (金)

 沖縄・東村高江での米軍の米軍北部訓練場ヘリパッド移設工事現場で、警備していた大阪府警の機動隊員がフェンスをつかんで抗議していた反対派住民に 「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が」 と発言したことが報道されました。当該の機動隊員も認めています。
 これに対して大阪府の松井知事はツイッターに 「ネットで映像を見ましたが、表現が不適切だったとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたことがわかりました。出張ご苦労様。」 と書き込みました。
 機動隊の発言は人権感覚をうかがいますが、知事の書き込みは人権という意識そのものがありません。

 以前は 「現地で抗議をしているのはよそから来た活動家」 という報道が行なわれ、地元の住民は反対していないという世論が作られようとしていました。
 大阪県警の機動隊は地元の人たちが抵抗しているということをはっきりと認識しています。そのうえで沖縄で、沖縄の住民に対して発せられました。単なるネガティブなトーンの発言ではありません。「おまえらには反対する権利などないんだ、国の政策に黙って従え、撤退しろ」 という思いが込められています。
 物理的力の行使のエスカレート予測させるものではありません。しかし相手の確信、正義感をえぐり、意欲を削ぎ、後退させる目的で発したのです。だから差別なのです。差別は本物の刃物より鋭いです
 機動隊員はその効果があると思うから発したのです。そして自分らの行為の正当性を確信しようとしたのです。

 「土人」 という発言には、前提として本土と沖縄には主従の関係が存在しています。なぜ従わなければならないのか。理由は沖縄だから、沖縄で生まれ育った住民だからです。それ以外の理由はありません。
 沖縄で生まれ育った人びとはそれ自身がアイデンティティーです。それを変えなければならない理由は何もないし、変わることもできません。人間が努力しても変えることができないことを否定して攻撃する行為は差別です
 しかし 「私の目の前で差別発言をした人たちの共通点は 『これっぽっちも罪悪感を感じていなかった』 という点だった。」 (浦本誉至史著 『江戸・東京の被差別部落の歴史』 明石書店) のです。これが本土と沖縄の本質的関係です。だから無意識に潜在的に持っている意識が吐かれるのです。

 松井知事の書きこみのような 「表現が不適切」 という問題ではありません。
 なおかつ知事は府警を統括する立場にあります。このような発言が機動隊員から発せられたということは、組織とし職員・隊員への人権教育が不充分だったということです。その認識に至らなかったということ自体が問題です。やはり、本土の政治・支配におとなしく従うべきだ、権力に逆らう権利はないという意思がストレートに表明されたのだと思います。
 だから記者会見では、住民の側だって乱暴な発言をしていると相殺してで許されるような発言をしたのです。


 問題の発端はどこにあったのでしょうか。
 この間、沖縄におけるさまざまな選挙で基地建設反対派が勝利をおさめています。議会制民主主義における民意です。しかし政府・防衛庁は選挙で示された民意を無視して辺野古基地建設を強行してきました。
 高江でのヘリパッド移設工事は、7月10日に投票が行なわれた参議院選挙の翌日から開始されました。沖縄選挙区では、基地建設反対派が有利という状況分析のなかで準備されてきました。政府が議会制民主主義に暴力を対峙してきました。住民に対する問答無用の姿勢の表明です。これは日本政府、米国政府の一貫した姿勢です。差別発言はそのような状況が言わせました。

 選挙で表明した民意を拒否された住民は、生活手段を守るため、沖縄戦の経験を持つ人たちが殺人を目的とする基地の建設を止めさせるため、計画決定のプロセスに納得いかないと主張するのにはあとどのような手段があるでしょうか。座り込んで工事車両を止めるという直接行動しか残っていません。
 
 今年5月中旬、高江に行きました。
 建設予定地に通じる道路の入り口に反対運動の理念を書いた看板が立ててありました。

 「座り込みガイドライン
  私たちは非暴力です。コトバの暴力も含め 誰もキズつけたくありません。
  自分の意思で座り込みに参加しています。
  誰かに何かを強いられることはありません。
  自分の体調や気持ちを大切に
  トイレや食事などではなれる時は
  周りの人にひと声かけてください。
  トランシーバーやケイタイなど活用して ムリのないように!
  いつでも愛とユーモアを」

 抗議行動をつづける住民はこのガイドラインを守っていました。しかし座り込み、説得、抗議が無視され、機動隊によって阻止戦が張られたり、排除されることが繰り返される中で、抗議の声が荒くなったということはあったと思います。住民にも感情があります。エスカレートさせた原因はどこにあるのか。そこにこそ問題の本質があります。
 しかし住民の側から人を傷つける暴言はないと思われます。「何しに来たんだ、帰れ」 「お前の顔はしっかり覚えておくからな」 は暴言ではありません。「お前の家族や親戚が同じ目にあっても排除するのか」 と迫るのは具体的説得活動です。少なくとも差別発言ではありません。

 機動隊員から 「シナ人」 という差別発言も発せられました。
 差別意識は歴史的に作りあげられます。
 歴史認識が薄いというよりは歪曲された歴史を教え込まれた結果としての排外主義丸出しです。
 最近、憲法学者らが 『ヘイトスピーチはどこまで許されるのか』 という本を出しました。許されるヘイトスピーチなどありません。このような痛みを知らない者の感性が社会を支配しています。


 日本には、1997年まで法律の中に 「土人」 の言葉は生きていました。
 1899年3月に制定された 「北海道旧土人保護法」 は、1997年7月1日に 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」 が成立するまで存続していました。
 北海道旧土人保護法は、アイヌ民族に対する保護を名目として制定されましたが、実際はアイヌの共有財産は北海道庁長官が管理する、自由な土地売買や永小作権設定の禁止などが定められ、アイヌの財産を収奪し、内地への同化政策を推進するための法的根拠として活用されました。具体的には、
 1.アイヌの土地の没収
 2.収入源である漁業・狩猟の禁止
 3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
 4.日本語使用の義務
 5.日本風氏名への改名による戸籍への編入
等々が実行に移されました。

 同化政策は、アイヌの人たちのアイデンティティーを劣るものとして否定し、内地の価値観を押し付けて支配・被支配の関係性を作ります。 
 1997年までこのような名称の法律を存在させてきたこと自体が、政府を含めた内地の人びとの人権意識の鈍感さの表れです。
 具体的に実行された内容の 「アイヌ」 を 「沖縄」 といいかえたら、明治維新以降のヤマトの沖縄に対する政策そのものではないでしょうか。人権意識の鈍感さは沖縄に対しても同じです。


 沖縄への差別は、あらためていうまでもなくヤマトが歴史的に作ってきました。外交・防衛、経済成長のために犠牲にしてきました。アメとムチのアメの行使に際しては 「沖縄の振興のために」 と発言します。しかし沖縄の振興のための最大の足かせが基地の存在です。
 沖縄の人たちはその主張をしているのです。
 「沖縄から東京が見える」 と最初に言ったのは永六輔だと言われています。しかし見ようとしなかったら見えません。一方、東京からでも見ようとするとよく見えます。
 普天間、辺野古、高江、伊江島の問題を自分に引き寄せて考えてみる必要があります。


   「活動報告」 2016.7.27
   「活動報告」 2016.5.20
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 沖縄 | ▲ top
国破れて山河もない
2016/10/18(Tue)
 10月18日 (火)

 11日で東日本大震災から5年と7カ月を迎えました。14日で熊本大震災から半年を迎えました。異常気象がつづいていますが、これからは少しづつ寒くなっていきます。しかし東北にはまだ6000戸の仮設住宅が残っています。仮設住宅は7年目を迎えるまで存続することが決定しました。災害住宅の建設は遅れています。熊本の仮設住宅では夏の猛暑はどう過ごされたのでしょうか。

 9日、福島県飯館村に、東電を相手に損害賠償訴訟をしている原告・被災者と交流するためにマイクロバスで現地を訪問しました。13年6月に次いで2回目です。

 常磐自動車道で向かいました。いわき市を過ぎると持参した放射能の測定器が揺れ始めます。町村の境界地点やパーキングエリアには測定器が設置されていますが、基準値標以下の数値を示しているとはいえ高くなっていきます。本来なら、窓外には稲刈りを終えた稲が干してある季節です。しかし見えません。日曜日の午前中でも人影がありません。走っている車もありません。家畜もいません。異様な田園風景です。前回の時にあちこちで見かけたキツネやタヌキ、イノシシもいません。
 その代わり、除染を終えた田んぼや畑には、除染土を詰めた黒いフレコンバックが最高が5段まで積み上げられています。フレコンバックは現在、県内に915万袋あるのだそうです。置き場は11万4千カ所です。
 あまりにも黒い山が目立ちすぎるので、最近は緑色のビニールシートで覆い、自然と一体に装ってカモフラージュをしています。

 フレコンバックが置かれていない田畑は有効活用ということなのでしょうか、太陽光パネルが占領しています。管理はほとんど放置です。原子力発電に代わる安全な発電と騒がれています。しかし太陽光パネルは確かに放射能は出しませんが、電力を作ると同時に周囲に熱を発し、自然破壊をしているという苦情も寄せ始めています。
 今、農業問題が議論されていますが、日本の農業は食料需給だけでなく、田園は自然環境を保護する役割もはたしています。
 フレコンバックも太陽光パネルも自然環境を破壊しています。原発は、自然も社会も破壊し、人間を排除しました。


 飯館村は、原発事故が起きる前の年の9月に 「日本一美しい村」 に選定されました。
 それ以前から、全国から移住する人があいついでいました。
 村は、来年4月に避難指示解除になります。村は今、避難者に帰村を呼びかけています。
 埼玉に死んでいましたが、定年退職後は飯館で余生を送ろうと決め、原発事故が起きる数年前に自分で家を建てた方のところに行きました。一時帰還しています。道路からかなり奥まったところに家は建っています。明かりは高い天井窓からとります。夏でもそう暑くはなりません。暖房は自分で調達する薪をくべるストーブが設置されています。寒さにそなえて窓は二重です。子どもや孫たちが遊びに来ても十分な部屋割りになっています。道路から玄関に至る手前の両側にモミの木が植えてありました。クリスマスに孫が遊びにきた時のため用です。しかしその願いはかないませんでした。
 食料は時給自足をしていました。東京で働く奥さんも退職したらする呼び寄せる予定でした。しかし奥さんの退職間際に原発事故が起き、避難を余儀なくされました。夫婦は現在、福島県内の別のところに新たに家を建てて生活しています。孫たちが安心して遊びにこれる居住地を確保するためです。
 避難指示区域に避難者が所有する住居は、来年4月までは固定資産税は免除です。その後は課税になります。
 「孫が遊びにも来れない家を残していても意味がない」。夫婦は、せっかく建てた家をどうするか検討しているといいます。

 もう一軒の地元で何代もつづく農家だった被災者宅を訪問しました。地震でもびくともしなかった高い屋根の母屋が残っています。しかし誰も住んでいません。屋敷の前に広がる部田んぼを作っていましたが、今は太陽光パネルが占領しています。
 原発で避難を余儀なくされた農家にとって、生活維持・生産手段の家畜や田畑まで避難させることがはきません。生活手段を奪われました。そのためにさまざまな悲劇が生まれています。移転先でかわりに同じ面積の田畑を保障されたとしても、“一人前の” 田畑 に作り上げるにはそれなりの年月を要します。田畑は生き物です。

 要所要所で放射線量を測定しましたが、雨どいや排水溝の近くになると基準を大きく超えます。まだまだ安心して生活ができるまでに至っていません。


 除染土を燃やす仮設焼却施設に行きました。除染度の総量を七分の一から十分の一に減らす目的で作られました。トラックが次々にフレコンバックを運んできます。
 焼却施設とそこに通じる道路は森を切り倒し、土砂を掘って作られました。
 日本一美しかった村の森も破壊されています。


 帰りのマイクロバスで、それぞれが一日見聞きしたことの感想を述べあいました。
 1人が言いました。
「国破れて山河ありというけれど、原発で破壊された村は山河も破壊されてない」
 まさしくその通りです。「城春にして草木深し」 の草木はすすきとセイタカアワダチ草です。


 まだ避難指示解除は無理です。しかし政府と村は強行します。全国が監視する原発被害の実態から目を覆わせるためです。

「国破れて山河もない」
 この実態を全国に暴露する中から、被災者への本当の補償と、原発廃止に向けた政策を実行させていく必要があります。


   「活動報告」 2013.6.18
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 東日本大震災 | ▲ top
相模原殺傷事件における 「真の被害者は誰なのだろうか」
2016/10/13(Thu)
 10月13日 (木)

 今年は障碍者問題において、これまでは取り上げられることがなかったさまざまな問題の議論が起きています。後で振り返った時に大きな転換の年だったということになるのではないでしょうか。

 その1つに 「相模原殺傷事件」 をめぐる議論があります。
 加害者の残酷な行為や措置入院制度、被害者の無念さ、居合わせた在所者や職員のの恐怖や後遺症などとともに、警察による被害者の名簿非公開対応にも賛否両論が起きています。
 事件が報じられると、すぐに加害者の措置入院制度が問題になりました。施設で起きた問題での対策に別の制度・施設で対応する議論です。施設は問題を隔離してしまいます。事件の本質にふたがされます。
 その一方で、全国の障碍者のなかからは、「その前に、そもそも障碍者を閉じ込めておく施設は何のためにあるのか」 というような問題提起がおこなわれています。現在の施設は、入れる側の論理と、入れられる側の人格が乖離します。


 10月12日の毎日新聞 「記者の目」 は相模原殺傷事件についてです。「どうにも腑 (ふ) に落ちない。いったい真の被害者は誰なのだろうか。」 の書き出しの記事のタイトルは 「真の被害者は誰なのか」 です。
 「その前に、・・・」 に関連すると思われる部分を紹介します。
「しかし、植松聖容疑者は 『通り魔』 ではない。事件の5カ月前まで 『やまゆり園』 で働いていた元職員である。勤務中には障害者に対する虐待行為や暴言もあった。なぜこんな人物を雇ったのか、どうして指導や改善ができなかったのか、なぜ犯行予告をされながら守れなかったのか……。被害者の家族がそう思ったとしても不思議ではない。もしも保育所で同じ事件が起きたら、施設は管理責任を追及されるはずだ。なぜ知的障害者施設ではそうならないのか。

 それは、親たちが望んで、あるいはやむにやまれずにわが子を 『やまゆり園』 に預けているからであろう。親は冷たい視線にさらされながら、何もかも背負って生きなければならなかった。私自身も重度の自閉症の子の親である。あわれみや、やっかいなものを見るような視線を容赦なく浴びてきた。ストレスで心身を病んで仕事を失い、家族が崩壊するのを嫌というほど見てきた。そんな親たちを救ってくれたのが入所施設だった。
 しかし、入所施設では自由やプライバシーが制限された集団生活を強いられる。『どうしてこんな山奥の施設に閉じ込められなければいけないのですか』 『僕はお父さんにだまされて連れてこられた』。1997年に白河育成園 (福島県) という入所施設で虐待事件が発覚したとき、被害にあった障害者たちからそう言われた。
 『やまゆり園』 の障害者はそんなことは言わないだろう。それは 『やまゆり園』 が良い施設だからか、障害が重くて話すことができないからなのか。楽しそうな顔をしているように見えても、それは他の選択肢を知らないからではないのか。ハプニングに富んだ自由な地域生活では、さまざまな人との出会いや心の交流がある。挑戦や冒険をして感動したり、悔し涙を流したりすることもある。そうした体験をした上で、それでも彼らは入所施設を選ぶだろうか。
 親も同じだと思う。わが子のためにと思っていろんなことをやるが、わが子のためではなく、親が自分の安心感を手に入れたくてやっていることが多い。自分を振り返っていつもそう思う。孤独と疎外感に苦しんだ経験をすると、わが子を預かってくれる相手が神様みたいに見える瞬間がある。認めたくはないが、親の安心と子の幸せは時に背中合わせになることがある。
 『保護者の疲れ切った表情』 を見て容疑者は 『障害者は不幸を作ることしかできない』 と考え 『安楽死させる』 という考えに至る。あきれた倒錯ぶりだが、保護者への同情が着想の根幹の一つには違いない。県警が被害者を匿名発表した理由も保護者への配慮である。マスコミの報道も保護者への共感である。

 しかし、被害にあったのは保護者ではない。障害のある子の存在を社会的に覆い隠すことが、本質的な保護者の救済になるとも思えない。保護者に同情するのであれば、そのベクトルは差別や偏見をなくし、保護者の負担を軽減し、障害のある子に幸せな地域生活を実現していくことへ向けなければならない。
 ……
 障害者福祉の現場は着実に変わっているのに、<障害者=不幸> というステレオタイプの磁場の中に彼らを封じ込めようとしているように思えてならない。
 真の被害者が何も言わないから、許されているだけだ。」


 外部から施設を見たら、障碍者が不安から解放され、支援を受けながら安心して生活できるところと受け取るかもしれません。しかし入所者のなかには 「入所施設では自由やプライバシーが制限された集団生活を強いられる」 という不安や不満を抱きながらも我慢したり、「他の選択肢を知らない」 ことから従順になってしまっているいる者もいるかもしれません。
 施設の職員がそのような入所者の思いを受け止めてしまったら、介護の仕事は支配であること、職員は入所者の監視・監督者であることに気が付かされます。自分が希望した介護の仕事とは違うと受け止める者も出てきます。仕事に楽しさややりがいが薄れていき、ストレスの解消に迷います。
 もちろん違う思いで献身的に仕事に邁進している職員もいます。
 その双方の職員からの介護を必要としている入所者がいる現実があります。
 相模原殺傷事件の加害者は、最初から障碍者に嫌悪感を持っていたわけではないと思われますが、間違った出口しが探せませんでした。


 しかし 「記者の目」 の筆者は出口のない問題ではないと提起しています。
「神奈川県は施設の建て替えを決める前に、障害者本人の意向を確かめるべきではないか。言葉を解せなくても、時間をかけてさまざまな場面を経験し、気持ちを共有していくと、言葉以外の表現手段で思いが伝わってきたりするものだ。容易ではないが、障害者本人の意思決定支援にこそ福祉職の専門性を発揮しなくてどうするのだと思う。
 横浜市には医療ケアの必要な最重度の障害者が家庭的なグループホームで暮らしている社会福祉法人 『訪問の家』 がある。どんな重い障害者も住み慣れた地域で暮らせることを実証した先駆的な取り組みから学んではどうだろう。」
 障碍者本人が本心から楽しいと思える場所かどうかということです。


 施設はどのようにして創られていったのでしょうか。フランスの歴史です。
「(フランス革命のころに活躍した精神科医の) ピネルは、患者が自分自身を解放できる空間をつくることを、まずビセートルで試み、次にさらに大規模なものをサルベトリエールにつくった。それは医者が保護的な権威を持つ家父長制社会のようであり、かつ厳重な監視が必要な空間でなければならないと、彼は考えた。……
 しかし社会秩序が徐々に優先されるようになる。つねに 〈精神病者の信頼に応える〉 ことを行なわなければならないとしても、彼によれば、それは、〈依存していることを精神病者に感じさせるため〉 であり、彼らの意思を社会での就労に向かわせるためなのである。こうした社会参加を強いる企てに、全体社会国家の予兆を見ることもできるかもしれない。つまり、この企ては経費のかからない、そして 〈権威の中枢〉 に従うよう意図された収容所の組織を当然予想させる。労働は日々の生活にリズムを与える。休息、余暇、睡眠時間など緻密な予定が組み込まれる。規則に従わなかったり違反した場合の罰則も定められ、また恣意的に罰したりしてはならないとした。」 (ジャック・オックマン著『精神医学の歴史』文庫クセジュ)

 収容所についてです。
「ピネルの弟子であるエスキロールは、・・・精神障害について注意力の障害に注目した。注意があまりに拡散してしまい、一貫した注意力が保てず思考が滅裂の常態に至ることもあれば、反対に注意が狭められ過ぎて、何かに取り憑かれてしまう状態になることもある。取り憑かれた状態から精神病者を回復させるために、かつてピネルが治療の前提条件として行っていた隔離が精神病者に必要であるとエスキロールは主張した。妄想患者と向き合わず、妄想を助長させたままにしておくと、患者は全能感に浸っていくのが観察された。さらに精神病者は自分の苦しみの原因は身近な人びとのせいだと思いがちであり、〈家庭生活の鬱慣〉 が原因だと考えているので、いっそう身近な人を信用しない。したがって、隔離は原因と結果の結びつきを断ち切る有効な方法なのである。隔離されることで、精神病者は自身の状態について考えられるようになり、家族や周囲の人びとと新たな関係を築きはじめ、他人を思うことに没頭できるようになる。この新たな関係を用い、それぞれの患者ごとに隔離の適用を考え、医師は規則によって統制された枠組みのなかで隔離を行う。患者の持つ欲望が治療の原動力であり、新たな関係が見出されたときに隔離は終わる。〈精神病者の治療のためにつくられた施設〉 の管理者には、絶対的な権威が必要であり、施設では患者が他の患者たちと一緒に暮らすこと自体が治療になると、ピネル以上にエスキロールは主張した。」 (『精神医学の歴史』)
 
 この後、エスキロールの治療的野心は別の方向に向かいます。政府と関係を持ち、初期の治療構想には影も形もなかった社会的防衛的役割を果たす収容所構想を受け入れたのです。
 1838年に精神病者の治療と彼らの自由を制限した法律が制定されます。各県が施設を独自につくります。
「ここでの収容は、それが家族の要請に基づくものであれ、あるいは第三者通報であれ、さらには当局からの命令入院であれ、強制的に行われた。無能力者と見なされた精神病者は、監督下におかれ、その財産は自分で管理できなくなる。・・・
 入院はかつての投獄を思い起こさせるものであったので、この法律については議会でも激しく議論された。長い議論の末、できあがった法律は、まっとうな治療を目指すものと、1830年代のルイ・フィリップ王政化でのブルジョワたちだけが思い描いた社会防衛との妥協のうえで出現したのである。」 (『精神医学の歴史』)

 収容所についての議論は続きますが、ピネルが危惧したような反精神医学に関するものも登場してきます。
 隔離・施設の思考はフーコの 『監獄の誕生』 などにもつながっていきます。

 そして 「社会防衛」 は現在にもつながっています。社会的支援体制のなかで 「隔離がもっとも安上がり」 という経済的思考が優先しています。労働力におけるコストに対するパフォーマンスの問題による排除、保護者の介護体制の困難、などさまざまなです。

 相模原殺傷事件における 「真の被害者は誰なのだろうか」。施設は誰のためのものか。今回の事件をふまえて議論が巻き起こることを期待します。

   「活動報告」 2016.7.29
   当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | その他 | ▲ top
| メイン | 次ページ