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 管理される心 -労働者の尊厳と人権の回復に向けて-
2016/05/31(Tue)
 5月31日 (火)

 5月29日、ひょうご労働安全センター第11回通常総会が開催されました。
 第二部で、「管理される心 - 感情労働の現状と対策」 のテーマでの講演を依頼されました。講演全体の再録ではなく、「感情労働」 に至るイントロダクションの 「管理される心」 「管理される心からの脱出――労働者の心の取り戻し」 の部分についてだけ紹介します。


 現在の労働の中で 「心」 はどう扱われているでしょうか。さまざまな形で管理・支配が行なわれています。具体的にあげてみます。
 使用者による心の管理は、雇用契約に基づく業務命令・指示などで行なわれて従属させられます。帰属意識による安心感も生まれますが、依存に陥ったりもします。「会社人間」 です。従属は雇用継続、出世のためだったりしますが、基本的には生活のためです。
 組織 (部署・部門) による心の管理は、グループ・チームの共同作業、目標管理などのために集団による相互監視などで行なわれます。連帯責任・集団的防衛、秩序維持が要求されます。個々人の労働者は、目標達成での同僚への迷惑回避、仲間はずれ回避のために努力します。それが不可能になった時は差別、孤立の状態におかれます。
 機械による心の支配は、生産性を優先させた効率追求のためのテンポの強制です。労働者は機械への従属を強制され、心身のゆとりがうばわれます。
 ITによる心の支配は、会社や上司からの指示・命令が24時間とおして行なわれる状況を作り出しました。またコミュニケーションが一方通行になったり、行き違いが生じたりします。業務遂行指示がマニュアル化され、個々人の労働者の裁量や工夫の幅は小さくなりました。IT産業の労働者のあいだでは 「IT奴隷」 という言葉が使われています。
 顧客や行政の窓口における住民からの心への侵略があります。サービス・営業活動に従事する労働者に売り上げ目標設定やノルマが課せられます。目標達成のために低姿勢になって顧客の引き留めをはかると相手は逆手にでます。このような本来の自分の感情を押し殺して対応する行為は感情労働と呼ばれます。オイルショック以降、その傾向が大きくなりました。また、行政窓口などにおける住民からの過剰な要求やクレーム、いわれのない非難への対応もそう呼ばれます。
 社会や慣習からの心の強制があります。会社に、受け入れがたい風土や社風が存在したりします。法律や就業規則に違反するようなこともあります。長期にわたる慣習になっていて労働者はそのようなものだと思い込んで受け入れたりしています。おかしいと思う労働者は我慢を強いられます。指摘すると協調性がないと批判されます。不正などが公然と行われていたりします。「みんなで渡れば怖くない」 がもたれ合い構造と安心感をつくり、疑問を持つ労働者も “みて見ぬふり” をしています。正義感への攻撃です。 
 経済的理由からの心の管理とは、格差者社会において底辺におかれる労働者から声を上げる手段もゆとりも奪います。声を上げる前に現在の貧困状態での生活を維持していくことで精いっぱいです。常に恐怖間に支配され、我慢、無理を続けます。


 管理・支配される構造は時代とともに変化します。
 「管理される心」 は、労働者からはあまり関心がもたれていないテーマです。慣らされてしまって気づかない状況におかれたり、我慢、あきらめ、服従、自己の喪失に支配されています。その中からさまざまな問題が発生しています。労働者は自覚・無自覚のストレスを、他者を対象に発散します。労働現場で抱えているさまざまな課題の違う形での問題表出です。「管理される心」 による被害者が加害者になり、新たな被害者が生まれています。
 ですからこれらの問題は、個別には解決しません。視点が違っても労働現場が抱えている問題と一体のものなので対処療法ではなく土壌の改善が必要です。解決方法は、個人的対応、組織的対応、社会的対応がセットでないと本質的解決には至りません。 
 組織的対応とは、賃金、労働時間など (数字で見える) 労働条件や労働環境の改善です。そのことを通してお互いの理解、心身の心のゆとりの見直しと獲得に向かう必要があります。ゆとりとは、労働者の人間性の回復、人権獲得、自立などです。これまでは精神面からの労働安全衛生、職場環境改善の取り組みは弱かったのではないでしょうか。
 社会的対応は、社会的風習打破のための社会的運動です。共生の社会建設への挑戦です。


 工業が発展して労働者が登場すると、最初は抵抗、衝突が自然発生的に、頻繁に発生しました。すこしずつ支配・管理がすすんでいきます。
 1700年代後半にイギリスで産業革命がすすむと熟練工は機械を打ちこわしました。「ラダイト運動」 と呼ばれます。繊維工業の機械が発明されるようになると手工業職人は失業しました。打ちこわしは、熟練工のプライド維持、人権無視への闘いです。
 この後、機械化による労働者の貧困問題と人権要求が労働組合運動に発展していきます。
 19世紀後半になると大規模なストライキがおきます。1889年のロンドンのドック労働者のストライキは、不熟練労働者によるもので、これを契機に不熟練労働者の組織化が進んでいきます。

 1861年4月12日に南北戦争が開始され65年4月まで続いた南北戦争はさまざまな面で工業の発展を刺激し、それ以降も続きます。労働力が不足しますがそれを解消しようとしたのがテイラー主義です。(テイラー主義については2016年5月17日の 『活動報告』 参照)
 日本にも1910年代にはアメリカの産業心理学が導入され、テイラーの 『科学的管理法』 も翻訳・出版されました。(2013年10月1日の 「活動報告」 参照)


 1900年に発表された 『職工事情』 の織物工場での調査の部分です。
「……労働時間は大略以上のごとくといえども終歳これを励行するにあらず、彼ら職工は……就業中といえども雑談を試むる等不規律極まるものなり。本調査員は桐生、足利地方織物工場の労働時間長きに失することにつき工場主に語りしことあり。彼らは曰く、単に1日の労働時間は16、17時間なりと。聞けばその長きにわたり過酷なる如くみゆるも、機械工は機械的に働作するものにあらず。その就業時間中全力を委して労働に従事するが如きことなく、倦怠すれば自ら手を休め、あるいは雑談を試みあるいは管巻を取りに行くとか、監督者の目を盗みてなるべく労働せざることを務む。」
 工場主は、勤務時間中 「機械工が機械的に」 働かずに 「監督者の目を盗みてなるべく労働せざる」 からやむを得ず労働時間を延ばしているという主張です。
 しかし調査員は 「労働時間の長きにわたること甚だしきを以て、勢い労働の不規律に流るる傾向あり」 と指摘しています。

 今も同じような議論があります。使用者は仕事ができない労働者が残業をする、昼間サボって夜働いていると言い訳します。しかし労働者にはこなし切れない仕事量が舞い込んでいます。成果と労働時間は正比例いません。一番効率が悪いのが慢性的疲労のもとでの労働です。逆に、適時の休息は効率を高めます。


 橋本毅彦+栗山茂久編著の 『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』 (三元社) からの引用です。
 宇野利右衛門は、明治から大正にかけて職工の労働と生活の問題を詳細に調査、分析して雑誌 『職工問題の研究』 を発刊しました。そのなかで職工たちの欠勤率の高さを指摘して解決策を提示しています。
 紡績工場の調査では、出勤率は1年と1月を通してバラツキがあります。1年を通しては3、4月には多くの職工が出勤し、8月には最低になります。その差は20から30%にも及びます。8月の熱い盛りに欠勤が多くなることを企業の方も見越して、余分の労働者を雇用しておきました。一方、1月を通しては労賃が支払われる5日、帳締めが行われる20日をピークとして、その翌日から3、4日はストンと100%から80%程度に出勤率が落ちました。
 
 8月の出勤は7割に満たなかったことになります。日本の労働者は決して勤勉でなかったということを知るとホッとします。今も昔も休養が保障されて長時間労働が解消されたら、欠勤、遅刻者は激減することは明らかです。
 ちなみに官公庁では1935年まで8月は午前だけの執務・「半ドン」 でした。しかしマスコミなどで批判されると延長されました。

 欠勤にはいつも理由があります。
 宇野は、出勤率を高める均一化のための解決法を記載しています。
 全体として①強励法、②皆勤賞与法、③短期賞与法、④工銀循環毎日払法、⑤矯癖法、⑥休養法の6種類に分けました。
そして 「出勤時刻の励行法」 として時間規律を身につけることの重要性を説いています。そのために欠勤理由の分析をしています。
 鐘紡では、休養を妨げないために遅刻もいけない、早出もいけないと正確な時刻を守ることを促したといいます。
 出勤時間の性格さを奨励することは、必然的に就眠時刻の正確さを奨励することに繋がります。社宅の集まる地域では、当番が拍子木などで就眠時刻に近いことを知らせます。
 定刻通り起床を促す習慣に関しては、イギリスの 「戸叩き」 の例を引用しています。マンチェスターの職工の住む地域では、職工自身が雇った、毎日職工の家を叩いてまわる者がいたといいます。

 ちなみに1926年に行われた遅刻制裁のアンケート調査結果が紹介されています。
 33社が回答していますが、制裁を定めている・いないは半々です。制裁を定めているうちの4分の1が数回の遅刻に対して欠勤扱いにしています。5回で1日の欠勤が2社、4回が1社、3回が2社、2回が3社です。他の4分の1は遅刻の延べ時間によって賞与や昇給に影響が及ぶとしています。


 ストライキに似た効果をあげる、労働者が職場を離れないでとった戦術がサボタージュです。名前は20世紀初めにフランスの労働者がサボ (木靴) で機械を蹴飛ばして壊した戦術に由来します。
 日本では1919年9月半ばからの神戸の川崎造船所の争議で行使されました。このような闘いで8時間労働制が実施されていきます。
 労働者不満・怒りの表現は自己の覚醒、自己確認です。「やってられないよ」 の感情での抵抗や爆発は今も組織化の要素です。労働組合は見逃さないで組織するチャンスです。

 1920年代からオートメーション化が進みます。人間労働の機械への置き換えは意思決定から人間的要素を次第に排除していきます。労働者は自律不能にされます。
 大量生産・フォーディズムは生産性上昇をもたらし、見返りとして賃金が上昇し、消費の自由・拡大が生まれます。また第三次産業が成長していきます。
 高度経済成長は日本ではマイホーム建設がすすみます。


 大量生産・フォーディズムは労働をつまらなくしました。アメリカでは70年代以降、大量生産システム、いわゆるテイラー主義が限界に至ったといわれています。いくつかの理由が挙げられますが、その1つが 「労働の質」 の問題です。労働者の欠勤という形で抵抗します。
「生産現場における伝統的な管理の有効性も低下した。機械化とテイラー主義による管理が有効だったのは相手が不均質な移民労働者だったからだ。それは戦後も、農村から大挙して流れ込んだ、新しい労働者の管理には絶大な威力を発揮した。だが、量産産業の順調な発展によりブルーカラー労働者の中流化が進み、工場には豊かな社会のなかで成長し、両親よりも高い教育を修め、期待や欲求の水準を上昇させた若年労働者が数を増した。彼等は賃金や労働条件のみならず、労働の質を重視した。
 ところが工場では19世紀末の世界がほぼ維持されていた。現場の作業者は毎日単純で部分的な作業を繰り返すに過ぎず、自らの経験と技能を工場内で生かす道は少なかった。会社は高い離職率を理由に職場内での訓練を重視せず、レイオフを繰り返して、現場の作業者を取替え可能な部品として扱い続けた。60年代末から70年代初頭にかけての超完全雇用に伴う深刻な労働不足と、ベトナム反戦運動や公民権運動など社会紛争の激化は、これらの不満を爆発させる格好の触媒となった。彼らは、高賃金および先任権を代償に、徹底した分業と階層的な管理に服する労働秩序への挑戦を開始した。現場での苦情申請件数は増え、離職率や無断欠勤率の上昇、作業密度の低下など労働意欲の低下や労働規律の弛緩が表面化した。ロボット化された工場での公然たる反発も生じた。」 (鈴木直次著 『アメリカ産業社会の盛衰』 岩波新書)

 「労働生活の質 (QWL)」 はアメリカだけの問題ではありません。
 1976年、イギリスの兵器生産企業、ルーカス・エアロスペースで働くショップ・スチュワード (職場委員) たちは、社会の役に立つ製品と新しい形の従業員の能力開発のための詳細なプランを作成し、人員整理や兵器の生産に代わるべき道として提案しました。通称 「ルーカス・プラン」 と呼ばれる 「経営プラン」 です。
「『経営プラン』 が指摘したもう一つの問題は、残っている仕事の技術面での内容やそのおもしろさが低下しているということだった。『経営プラン』 の序文は、この70年間にわたって、仕事を小さな限られた職務に細分化し、その遂行の速度を上げていくということが系統的な形で試みられてきた、と述べている。序文は、さらにつぎのように続けている。『奇妙なことに 「科学的管理」 という名で知られるこの過程は、労働者を自分が扱っている機械または工程に付随している無目的的で思考力のない付属物としての存在にまで落とし込めようとするものである……』。
 連合委員会は、仕事の性格からずっと前に機械のペースと要求に縛られることになった他の労働者たちによる抵抗を自分たちのものとしてとらえた。『経営プラン』 は、これらの労働者たちがどのような形で人間以下の存在として扱われることを拒否しているかを示す実例を挙げている。
 たとえば、スウェーデンのボルボ社では、1969年の労働移動率は52%で、欠勤率はいくつかの工場では30%に達していた。アメリカでは、労働者の反応はもっと劇的なものだった。オハイオ州のローズタウンにあるゼネラル・モーターズ社の工場では、労働者は、コンピューター制御の生産ラインに直接手を下して破壊している。」 (ヒラリー・ウェインライト、デイヴ・エリオット著 『ルーカス・プラン 「もう一つの社会」 への労働者戦略』 緑風出版)

 労働のつまらなさを指摘する労働者の正直な行動にたして、アメリカの経営者は深刻に受け止めて対応することを迫られました。「ルーカス・プラン」 のショップ・スチュワードも認識を共有しようとしました。その捉え方は、原因は労働者に起因するのではなく労働そのものにあるということです。


 日本ではオイルショック後、合理化がすすめられます。「余剰」 な労働者には営業への職種転換や出向がおこなわれました。さらに “社員全員営業部員” とされてノルマ設定が課せられます。この頃から 「お客様は神様です」 が言われ始めます。顧客が要求するすべてに従って離しません。客は頭に乗ります。労働者は、自分の心が侵略されているという意識も失って従っていきました。メンタルヘルスにり患する労働者が増えました。


 「心の支配」 は世界的にすすんでいました。その問題の指摘は20世紀末になって労働現場の外部から行なわれます。
 1998年に発表されたフランスの精神科医マリー=フランス・イリゴイエンヌさんの 『モラルハラスメントが人も会社もダメにする』 (紀伊国屋書店) は 「モラルハラスメント」 の言葉を使用して問題を指摘しました。
 それまでは、労働者は職場でさまざまないじめや嫌がらせのような現象・雰囲気に遭遇しても言葉で表現したり、主張することができませんでした。『本』 を読んで初めて自分たちの周囲で起きている現象・雰囲気について捉えなおし、議論することができるようになります。同時に社会的に広範な議論が起こっていきました。
 モラルハラスメントとは 「雇われている労働者の権利や尊厳が侵されるような労働条件の切り下げを目的にした、またはその効果を狙って繰り返される行為。労働者の身体的、精神的または職業上の将来の名誉を傷つけることを目的にして繰り返される行為。」 です。

 アメリカでは1970年代から 「感情社会学」 という分野が登場し、肉体労働、頭脳労働ともう1つの形態として 「感情労働」 が登場します。
 アメリカの社会学者アーリー・ホックシールドは著書 『管理される心』 のなかで 「感情労働」を 「公的に観察可能な表情と身体的表現を作るために行う感情の管理で、賃金と引き換えに売られ、したがって <交換価値> を有する」 労働、「自分の感情を誘発したり抑圧したりしながら、相手の中に適切な精神状態を作り出すために、自分の外見を維持すること」 と定義し、具体的に航空会社の乗務員の事例から説明しました。


 講演は、後にひょうご労働安全センターの機関誌に掲載されます。


  「活動報告」 2016.5.17
  「活動報告」 2014.10.3
  「活動報告」 2013.10.1
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うるま市の虐殺された女性は日米両政府の犠牲者
2016/05/27(Fri)
 5月27日 (金)

 5月13日から沖縄に行って辺野古と高江を回り、3日目に南部に向かう途中で中部の、復帰後に実弾演習反対闘争が闘われた金武町の喜瀬武原に行ってみようということになり、県道104号線に入りました。(16年5月10日の 「活動報告」参照)
 県道の入り口は、1980年末から米軍が都市型戦闘訓練施設を建設しようとして反対運動が展開された恩納村安富祖区です。当時、団結小屋に吊るされていたむしろに墨で住民の思いが書かれていました。

  「山は心のささえ
   山死なば 村も死す
   山死なば 我が身諸共
   我が身死すとも 山守れ
   我心の富士 恩納岳
   山青き 水清き
   心のふるさと 恩納岳
   見殺すな 恩納岳
   戦世の思い 忘れるな
   山死して 国栄え
   山死して 村滅ぶ
   許すまじ 国の横暴」

 実弾演習は着弾地点の 「山青き 水清き 心のふるさと 恩納岳」 を傷つけ、黄色い山肌をさらけ出しました。
 今回、県道に入り、実弾演習発射地点の丘を探そうとしましたが確認が出来ません。山肌も見えません。民家は減っていて通行人はほとんどいません。そのため人影を見つけては車をおりて場所を確認しながらついでに当時の状況も伺いました。何人かに伺ううちに、当時の県道は通行止めになり、別の道路ができていていることがわかりました。着弾地点にも緑が生えかわっていました。 

 4月24日夜、うるま市に住む20歳の女性がウオーキング中に行方不明になりましたが、5月19日になって元米海兵隊の男に襲われたことが判明し、遺棄された遺体が発見されました。その場所は恩納村内の県道104号線沿いということです。もしかしたら、車を降りて道を聞いたあたりだったかもしれません。

 いろいろな思いが湧いてきます。
 20歳ということは、1995年か96年生まれです。

 95年9月4日、米軍海兵隊の3人が、沖縄本島北部国頭郡の商店街で買い物をしていた12歳の女子小学生を、車に押しんで拉致、粘着テープで顔を覆い手足を縛って集団強姦し、全治2週間の傷を追わせる事件がおきました。
 沖縄戦から50年、「復帰」 から23年後の出来事です。いつまで米軍からの被害は続くのかと人びとは怒りのやりどころが見つからないなかで立ち上がりました。
 10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園には85.000人が参加して 「少女強姦事件に抗議する=沖縄県民総決起大会」 が開催されます。当時、普天間高校3年生で、生徒会長だった中村清子さんが怒りを込めて訴える姿が全国ニュースで報道されました。

「この事件を初めて知った時、これはどういうこと、理解できない。こんなことが起こっていいものかと、やりきれない思いで胸がいっぱいになりました。 
 ……
 私はこの事件について友人たちと話をするうちに、疑問に思ったことがあります。米兵に対する怒りはもちろんですが、被害者の少女の心を犠牲にしてまで抗議するべきだったのだろうか。彼女のプライバシーは、どうなるのか。
 その気持ちは、今でも変わりません。 
 しかし今、少女とその家族の勇気ある決心によってこの事件が公にされ、歴史の大きな渦となっているのは事実なのです。 彼女の苦しみ、彼女の心を無駄にするわけにはいきません。私がここに立って意見を言うことによって少しでも何かが変われば、彼女の心がかるくなるかもしれない。そう思いここに立って います。
 沖縄で米兵による犯罪を過去までさかのぼると、凶悪犯罪の多さに驚きます。
 戦後50年、いまだに米兵により犯罪は起こっているのです。このままの状態でいいのでしょうか。どうしてこれまでの事件が本土に無視されてきたのかが、私には分かりません。まして、加害者の米兵が罪に相当する罰を受けていないことには、本当に腹が立ちます。米軍内に拘束されているはずの容疑者が、米国に逃亡してしまうこともありました。
 そんなことがあるから今、沖縄の人々が日米地位協定に反発するのは当然だと思います。
 それにこの事件の容疑者のような動物にも劣る行為をする人間をつくりだしてしまったのは、沖縄に存在する 「フェンスの中の人々」、軍事基地内の人々 すべての責任だと思います。基地が沖縄に来てから、ずっと加害はくり変えされてきました。基地がある故の苦悩から、私たちを解放してほしい。
 今の沖縄はだれのものでもなく、沖縄の人々のものだから。  
 私が通った普天間中学校は、運動場のすぐそばに米軍の基地があります。普天間小学校は、フェンス越しに米軍基地があります。
 基地の周りには7つの小学校と、4つの中学校、3つの高校、1つの養護学校、2つの大学があります。ニュースで爆撃機 やヘリコプターなどの墜落事故を知ると、いつも胸が騒ぎます。私の家からは、米軍のヘリコプターが滑走路に降りていくのが見えます。
それはまるで、街の中に突っ込んでいくように見えるのです。
 機体に刻まれた文字が見えるほどの低空飛行、それによる騒音、私たちはいつ飛行機が落ちてくるか分からない、そんな所で学んでいるのです。 
 ……
 いつまでも米兵に脅え、事故に脅え、危険にさらされながら生活を続けていくことは、私は嫌です。未来の自分の子供たちにも、そんな生活はさせたくありません。私たち生徒、子供、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。 
 私は戦争が嫌いです。
 だから、人を殺すための道具が自分の周りにあるのも嫌です。
  ……
 私たちに静かな沖縄を返してください。
 軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください 。」


 今回の事件の被害者は、この事件のあとに生まれて今年成人式を迎え、同じような事件に遭遇しました。20年間は、なんのための歳月だったのでしょうか。
 2つの事件ともアメリカ政府と日本政府との間で締結された日米地位協定に矮小化された問題ではありません。沖縄に基地があること、人殺しを職業とする軍隊がいることが原因で起きた事件です。
 軍隊は、敵を探し出し、作って攻撃をします。隊員から人間性を奪い、他者に憎しみをいだかせ、見下し、差別します。隊員はそのことによって自己の存在と意義を確認します。そこでの意識が軍におけるストレス・不安発散の矛先ともなります。自己が破壊している精神状態は他者の破壊も平気なのです。
 この間、米軍がアフガニスタンやイラン、サウジアラビアに派遣した部隊について隊員の視点からのドキュメント本が何冊も発刊されています。その中でいちばん多く登場するフレーズが兵士が吐き捨てる 「あのクソ野郎」 の言葉です。意識・無意識に自分の生や存在を確認し、奮い立たせるときに吐かれています。
 そしてこの意識は戦場でだけでなく平時をも支配します。自分の軍・部隊以外の他者を人間であると認めて思いをはせることはありません。そうさせないと軍隊は存在できません。
 このような軍隊が人びとから嫌われる存在であることを日本政府は充分知っています。だから米軍基地を沖縄に集中させています。沖縄差別です。


 1996年4月、日米政府は普天間基地の返還を発表しました。
 この20年間は、普天間基地の返還が言われ続けた歳月でした。しかし普天間基地はそのままです。
 普天間基地は、沖縄戦で占領した米軍が作った唯一の飛行場です。
 かつては、首里から名護までの道は、現在の国道58号線の東側に真っ直ぐの街道がのびていました。街道の両側には300年前に植えられた琉球松が3000本並んでいました。人びとは炎天下でも日陰を歩き続けることができました。
 現在基地がある辺りは平たん地で田んぼや畑でした。平坦地だから米軍は真っ先に飛行場を作ったのです。
 沖縄の人たちがつくったものではありません。だから撤去は米軍の責任です。代替地の要求などは筋違いです。

 辺野古に移転するという案は、日本政府が建設して米軍に基地を提供するということです。沖縄の人たちはこれまで自らの意思で基地を作ったことはありません。日本軍が勝手に基地を建設して本土防衛の盾としたから沖縄は激戦地となったのです。
 今、沖縄戦を体験した人たちは同じ悲劇を繰り返させないために基地建設に反対しています。それが 「私は戦争が嫌いです。だから、人を殺すための道具が自分の周りにあるのも嫌です。私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください 。」 です。沖縄の人たちの共通した気持ちです。
 普天間基地撤去と辺野古基地建設反対派矛盾しません。
 事件は、日米両政府の犠牲者です。


 沖縄は、米軍から膨大な土地や海を奪われても経済的に力をつけてきました。黙って耐え忍んだ20年間ではありません。基地に依存しないで生きて行こうと努力してきました。そして今は基地からの収入などをあてにしなくても自立できています。(15年1月30日の 「活動報告」)
 そうしたら日本政府と本土の姿勢があらためてはっきりと見えてきます。それが 「オール沖縄」 を生み出した世論です。自主自立の沖縄建設が続けられています。アメとムチの政策は通用しなくなっています。

 日本政府と本土はそのことを理解しないと近いうちに 「コザ暴動」 がまた起きます。


   「活動報告」 2016.5.20
   「活動報告」 2016.5.10
   「活動報告」 2015.1.30
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管理が強化される学校・教師・児童生徒
2016/05/24(Tue)
 5月24日 (火)

 ある研究会で、現在の教育現場で起きている問題-崩壊と課題―について元高校教師の方から話をうかがいました。かいつまんで紹介します。

 「教育現場の崩壊」 についてです。
 まず、教育は法的にどのように位置づけられているでしょうか。
 憲法26条は (教育の権利と義務) 「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利がある」 とあります。そこから導き出されるのは、①生存権としての教育を受ける権利、②教員の役割は子どもの教育を受ける権利の保障、そして教師の役割として③「教師聖職論」 「専門職論」 「労働者論」 等の論争が今日的課題としてあります。
 憲法23条は (学問の自由) 「学問の自由は、これを保障する。」 とあります。学門の自由は教授の自由で、1976年の旭川学テ最高裁大法廷判決では 「教育は子どもとの人格的な接触を通して」 行われるとあります。さらに、教育は子どもと接触する教員が行うもので、従って、子どもと接触しない教育行政は、「教育の条件整備」 を行うのであり、教育を行う立場ではない、とあります。

 教育基本法は憲法に基づいてつくられた準憲法の位置づけがありました。人格の完成を目指す教育をめざし、学校は民主主義の訓練の場です。教育は自治体と共に国の行政から独立が原則でした。
 それが2006年、小泉内閣 (安倍晋三官房長官) の時に改悪されました。教育の目的が変えられ、国に役たつ人間の育成として愛国心の教育などが盛り込まれました。教育振興計画などで国が関与できる教育に変えられました。18歳選挙権で注目されている政治的教養の教育も明記されています。

 その一方で、1989年国連で 「子どもの権利条約」 が採択され、193カ国が締約しました。日本は1994年に批准しました。条約は国内法に優先、つまり憲法の次に位置づけられます。しかし、日本では条約ついての法的な適用は遅れています。人権規約などいくつかの条約もほとんど実体化していません。

 学習指導要領は1947年に 「試案」 として始まり、10年に1回改定されますが「大綱的基準」がその性格です。伝習館高校事件の最高裁判決では法的拘束力を判示されました。「日の丸・君が代」 等の法的拘束力を根拠になっていて、学習指導要領に基づいた教科書検定と採択では国定教科書化への傾向が強化されています。そこでは新しい日本史教科書をつくる会による 「扶桑社」 「育鵬社」 版の教科書そのものの問題の問題や教科書採択の問題があります。実教出版の日本史の教科書は欄外に 「日の丸・君が代問題で裁判が行なわれている」 と書いたら、県教委は採択を認めない圧力をかけ、結局は出版社は自主規制しました。

 教育委員会は行政から独立した機関でした。それが2015年に地方教育行政の組織及び運営に関する法律が改定され、総合教育会議による行政が支配する教育行政になってしまいました。具体的には、地教行法23条は 「教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する」 の第5項 「学校の組織編成、教育課程、学区集指導、生徒指導及び職業指導に関すること」 を根拠に教育への介入を行っています。司法もこれを認めていることに問題があります。「教育課程」 は本来教科に関してだけであったが教化外も含まれるようになりかした。「日の丸・君が代」 の問題は特別活動や学校行事であって教科外です。

 教育公務員特例法の22条は 「教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない」 とうたっています。かつては週1日の研修日がありましたが今はないです。


 教育 「改革」 の流れと教育の破壊についてです。
 1966年の佐藤内閣の時「期待される人間像」が発表されます。「愛国心」 などが答申されました。
84年、臨教審 (臨時教育審議会) 中曽根内閣の首相直属機関として設置されます。
 85年、第1次答申に 「我が国の伝統文化、日本人としての自覚、六年制中等学校、単位制高等学校、共通テスト」 が盛り込まれます。
 86年、第2次答申に 「初任者研修制度の創設、現職研修の体系化、適格性を欠く教員の排除」 が盛り込まれます。
 87年、第3次答申に 「教科書検定制度の強化、大学教員の任期制」 が盛り込まれます。
 87年、第4次答申に 「個性尊重、生涯学習、変化への対応」 が盛り込まれます。
 これらは10年かけて全部実現しています。

 2000年、小淵内閣の時に教育改革国民会議が設置され、森内閣まで続きます。
 2000年、国民会議は 「教育を変える17の提案 (2000年提案)」 報告書を出します。
 17の提案は、①専門職大学院の制度、②教員免許状の更新制など、③人間性豊かな日本人の育成、④ 教育の原点は家庭であることを自覚する、④学校は道徳を教えることをためらわない、⑤奉仕活動を全員が行うようにする、⑥問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない。警察権力をあてにするということです。⑥有害情報等から子どもを守る、⑦一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む人間を育成する、⑧一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する。制度を単線だけでなく複線も取り入れます。金持ちの子どもがいいところに行きます。⑨記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する、⑩リーダー養成のため、大学・大学院の教育・研究機能を強化する、⑪大学にふさわしい学習を促すシステムを導入する、などです。

 国民会議は、職業観、勤労観を育む教育を推進します。
 具体的には、①新しい時代に新しい学校づくりを 、②教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる。業績評価の導入です。③地域の信頼に応える学校づくりを進める。地域と共に学校防災教育をすすめます。地域から学校を規制する 「学校協議会」 が作られます。④学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる、⑤授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする、⑥新しいタイプの学校 (“コミュニティ・スクール” 等)の設置を促進する、⑦教育振興基本計画と教育基本法 、⑧教育施策の総合的推進のための教育振興基本計画を、⑨新しい時代にふさわしい教育基本法を、です。


 教育 「改革」 と今日の教育の現状についてです。
 提言されている内容は現在そのほとんどが実施され、実現しています。長いスパンの中で計画的に実施されてきています。
 その方向は、教員の管理統制、道徳・愛国心の教育、新自由主義的な競争原理の教育です。「改革」 の中で、子どもと教員が疲弊し、教育破壊の様々な状況と矛盾が生れています。
 具体的に学校と教育を大きく変えたのは、職員会議の補助機関化、「日の丸・君が代」 の強制など、教育現場に職務命令体制を常態化しました。業績評価の導入され、校長の権限の強化し、支配と統制の教育現場に変わります。教育の意味が変えられた。自由な教育から言われるままの教育へです。


 東京の教育 「改革」 と教育現場の破壊状況についてです。
 1997年に 「新宿高校事件」 を契機に 「都立学校等あり方検討委員会」 が設置され、「都立学校等あり方検討委員会報告書 ―校長のリーダーシップの確立に向けて―」 の報告書が出されました。
 新宿高校事件とは、1997年9月に、習熟度別授業を実施する目的で教員2名の加配を受けながら、全く実施していないという事実が明らかになったと都教委が発表した計画的なでっち上事件で、粛正の体制が作られました。
 職員会議の補助機関化と企画調整会議 (主任会) が作られます。
 2000年に業績評価が導入され賃金と連動します。
 2003年、「10.23通達」 (「日の丸・君が代」 の強制) が出されます。組合は無抵抗でした。400人が原告となって処分は無効の予防訴訟を起こしました。
 通達の結果、現在まで累計で478人が処分されています。
 主幹・主任教諭、などの中間管理職が設置されます。
 職員会議を中心にしたこれまでの学校組織は 「鍋蓋組織」 であり、責任が不明確な組織であったということで責任の明確な「校長を中心にした組織に変える」といって、それまで、それぞれの学校に存在していた校内規定を廃棄させ、都教委認定の校内規定に変えさせられました。あらゆる学校組織が運営し、「PDCAサイクル (Plan – Do – Check - Act cycle)」 の学校管理が求められます。教育内容も組織的に実施され、「年間指導計画」 「週案」 の提出とチェックが行なわれます。
 教育は子どもとの人格的な接触によって行われるべきです。これを組織としての教育に変えられました。今は専門職の位置づけもだめで言われたとおりに教えろということです。これが 「教育改革」 の本質です。教員の裁量権が少なくなり、いわゆる 「言われるままの教育」 に変えられました。


 教員の労働条件です。ホワイトカラーエグセンンプションの先取りといえます。
 1971年5月制定、72年から 「給特法」 (「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法) が施行されました。内容は、正規の勤務時間を超える場合は、文部大臣が人事委員会と協議して定める場合に限ります。校長が超勤を命じることのできる4項目があります。生徒の実習に関するとき、非常災害時、学校行事、職員会議です。俸給月額の100分の4に相当する額の教職調整手当を支給されますが、時間外きんむ手当並びに休日勤務手当は支給されません。
 組合の力が強い時には4%の支給は好条件でしたが、現在は長時間労働の温床になっています。
 長時間労働についてはOECD加盟国の中で日本は週労働時間53.9時間で最長時間労働になっています。次はカナダ48.8時間、シンガポール47.6時間、ポルトガル44.7時間の順です。
 病気疾患が増大し、死亡退職の増大には驚かされます。

 東京都教育委員会の退職理由統計があります。定年以外です。
 高校です。2011年度は、死亡14人、病気15人、家事・介護5人などで、合計40人です。12年度は、死亡20人、病気5人、看護・体調不良・健康上の問題7人などで、合計39人です。13年度は、死亡6人、病気12人、介護等6人で、合計45人です。
 義務教育学校です。2011年度は、死亡14人、病気34人、家事・育児10人、体調不良6人などで、合計89人です。12年度は、死亡20人、病気29人、指導力不足・健康上の理由等14人などで、合計88人です。
 死亡が結構な数になっています。これをどう見ることができるでしょうか。

 東京都白書の 「2013年度の条件附採用教員の任用について」 です。条件附採用とは、正規採用は2年目からということです。
 条件附採用教員数2740人、そのうち正規採用者数は2661人で、正規採用にならなかった数は79人です。79人の内訳は、年度途中の自主退職者数65人、正式採用 「不可」 の者数13人などです。
 年度途中の自主退職者数は、09年度59人、10年度66人、11年度76人、12年度77人です。この数字をどう見たらいいのでしょうか。

 パワハラが横行しています。
 管理職に従わない教員に対する不当ないじめ、業績評価、不規則又は遠隔地への異動などの嫌がらせが行なわれています。新採用教員や若年層に向けたケースも多くあります。
 パワハラは厳しく規制されるべきです。しかし組合や労働委員会等からの抗議に対し、回答はしても教育委員会の動きは緩慢で、真剣に規制をする様子はありません。教員に向けたパワハラなどのストレスは子どもに向けられるケースも多くあります。

 都高教がおこなったパワハラについてのアンケート結果があります。集約数は2178人です。
 パワハラを行なった人ということでは、校長492人、副校長447人、経営企画室長 (事務長) 59人、主任や主任教諭、教諭などの同僚502人などです。
 相談した相手です。校長94人、副校長85人、組合 (本部委員・分会長) 224人、同僚418人、友人241人、家族148人、相談していない361人です。相談していない361人は決して小さな数字ではありません。どうみたらいいのでしょうか。

 排除される子どもたちがいます。
 2004年に 「発達障碍者支援法」 が成立しました。
 第二条は 「この法律において 『発達障害』 とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう」とあります。
 そして 「この法律において 『発達支援』 とは、発達障害者に対し、その心理機能の適正な発達を支援し、及び円滑な社会生活を促進するため行う発達障害の特性に対応した医療的、福祉的及び教育的援助をいう。」とあります。小学校には認定する教師がいて特別支援の対象は広くなり、特別支援の対象者が拡大し、特別支援学校及び学級生は超満員の状態です。
 不登校児を普通学校に戻すために自由学園の規制が始まっています。
 2013年に 「いじめ防推進法」 が成立しました。内容は、いじめを犯罪と規定して、これを許さないために警察に通報する、学校の中で組織 (チーム) を作り、いじめを許さない体制をつくっていく、力でいじめをなくす方策、がとられています。
 しかし、押さえつければつけるほどいじめは陰湿になり表面化しにくくなります。また、いじめのあった学校や担任教員は業績評価が下がるために、いじめを認めなくなるケースが多くなります。
 いじめには原因と背景があります。子どものストレスのはけ口です。また、弱い子ども、異種の子どもの排除は大人の世界の反映です。子どもの世界のグループ化による排除があります。さらに暴力団 (不良グループ) とのつながりがあります。
 いじめをなくすには教員が子どもと向き合う以外にはありません。


 教育現場は、様々な角度からとらえて深刻な状況です。


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「辺野古基地NO!」 『座り込め ここへ』
2016/05/20(Fri)
 5月20日 (金)

 5月13日から沖縄に行ってきました。いつもなら梅雨に入っている頃ですが今年は遅く、滞在中は晴天に恵まれました。
 14日は、朝から辺野古基地建設に反対してキャンプシュワブゲート前のテントで続けられている座り込みに参加しました。以前は、早朝から座り込み闘争を展開していましたが、埋め立て承認をめぐって県と政府それぞれが起こした裁判において裁判所からの和解提案を受け入れた後は遅れて開始されています。
 時間が経つにつれて参加者は増えていきます。家での仕事を済ませてから参加する住民や、遠路からの支援者が集団で訪れます。本当に全国各地から集まっています。
 集会が開催され、参加者の自己紹介と決意表明や合唱、シュプレヒコールが繰り返されます。

  座り込め ここへ ここへ座り込め
  腕組んで ここへ ここへ座り込め
  揺さぶられ 潰された 隊列を立て直すときは今
  腕組んで ここへ ここへ座り込め

  座り込め ここへ ここへ座り込め
  歌うたい ここへ ここへ座り込め
  揺さぶられ 潰された 団結を立て直すときは今
  歌うたい ここへ ここへ座り込め

  座り込め ここへ ここへ座り込め
  旗掲げ ここへ ここへ座り込め
  引きずられ 倒れても 進むべき道を行くときは今
  旗掲げ ここへ ここへ座り込め

 『座り込め ここへ』 です。ゲートから建設予定地に入ろうとする車両の前にスクラムを組んで座り込んだり、車両の下に潜り込んで阻止闘争を展開する中で歌われ始めました。闘いのなかから歌が生まれたのはいつ以来でしょうか。

 歩道の端から走ってくる車両に向かって 「辺野古基地NO!」 などのプラカードを掲げていると、地元の人たちはもちろん、米軍関係者も手を振ったりVサインを返してきたりします。

 2000年に政府が辺野古基地建設を決定した時から反対運動の拠点となった団結小屋があった浜辺に行きました。
 当時建てられていたカンバンには、ジュゴンの絵の隣に 「2000年 基地と金がやってきた。 数年後 金はなくなった。そして・・・基地がだけが残った」 とありました。政府は今も金をまき散らしています。しかし完成させてしまったら基地と騒音だけが残るのははっきりしています。
 波に洗われた砂浜がきれいなのは海水がきれいだからです。このような海を埋め立てて騒音をまき散らすことになったら魚たちがかわいそうです。海の中まで続く金網のフェンスが住民の浜とキャンプシュワブを分けます。しかしその先には手前は水色、遠くはコバルトブルーの海が遥か彼方までつづきます。


 午後は、北上してやんばる (山原) の東村高江でヘリパッド建設に反対して建設予定地に通じる道路の入口を封鎖して座り込みを続けているヘリパッドいらない住民の会を訪問しました。
 ヘリパッドとはヘリコプターの着陸帯です。高江の隣は米軍北部訓練場でジャングルでの戦闘訓練基地です。すでに22か所のヘリパッドがあり、区民は爆音や墜落危険にさらされています。そこに2007年から新たに6か所の建設が計画されました。新たなヘリパッドは直径75メートルでオスプレイが利用するといわれています。現在は1か所が完成していますがそれ以上の建設は予定地に通じる道路の入り口を封鎖して阻止しています。道路の入り口に反対運動の理念を書いた看板が立ててありました。

  「座り込みガイドライン
  私たちは非暴力です。コトバの暴力も含め 誰もキズつけたくありません。
  自分の意思で座り込みに参加しています。
  誰かに何かを強いられることはありません。
  自分の体調や気持ちを大切に
  トイレや食事などではなれる時は
  周りの人にひと声かけてください。
  トランシーバーやケイタイなど活用して ムリのないように!
  いつでも愛とユーモアを」

  辺野古と同じく非暴力を貫いています。この方針の方が説得力を持つようです。
 やんばるの多くはジャングルで生態系も豊かです。沖縄本島の水がめになっていて74%を供給しています。74%の数字は、日本において沖縄が占める米軍基地の面積の割合と同じです。この自然を破壊するということは沖縄に新たに水問題を発生させます。


 翌日は、沖縄が 「復帰」 して44年目の記念日です。全国から平和センターに結集する労働組合の組合員は3日間に渡って、本島を4つのコースに分かれて平和を訴えて行進をつづけました。最後の日は午後に那覇市内の新都心の公園で、一同に会してお互いの労をねぎらいながら 「復帰44年 5・15平和とくらしを守る県民大会」 が開催されました。平和行進はのべで4500人が参加者したといいます。


 4日目は、戦跡めぐりをしました。
 対馬丸記念館です。
 対馬丸は1944年8月21日に那覇港から鹿児島に向かった疎開船です。疎開児童767名引率訓導・引率世 話人28名を含む一般の疎開者他1661名を乗せていました。
 しかし22日22時15分奄美大島沖合いで米潜水艦の魚雷攻撃を受けます。1484名の命が失われました。救助されたのはたった177名 (学童は59名) でした。(詳細は2014年5月16日の 「活動報告」 参照)
 対馬丸記念館は他と違っています。展示物のなかには遺品がありません。遺品は今も奄美大島沖合いの海底にあるからです。かわって生き残った人たちの証言コーナーや模型がおかれ、絵や写真で説明が行なわれています。
 そして亡くなった人たち1人ひとりの遺影がかざられています。
 証言コーナーに、当時国民学校四年 (9歳) だった平良啓子さんの音声があります。
 以前、南風原文化センターを訪問した時、学芸員の方が 「私の母は対馬丸に乗っていたが助かった」 という話をされました。それをきっかけにお母さんの体験談を聞かせてもらいました。そのお母さんの証言です。

「家族6人で乗船。……ひとつの筏を何十人もの人々が奪い合っている。すがりついても力のある者が力の弱い者を振り落としてくい下がっていく。やっと這い上がったかと思うと、また次の人に引きずり落とされる。体の小さい私は這い上がる自信を失っていたが、しかし、とりすがらなければ死んでしまう。私は筏の裏の方へ回った。ここぞと真ん中めがけてもぐりこみ、体をできるだけ小さく丸めてうつむいて押し黙っていた。何日目かの昼過ぎ、頭の上を日本の飛行機が飛んできて、みんないっせいに 「おーい助けてくれ!」 と手を振ったが飛行機はそれっきり姿を見せなかった。2人の老女が、ひとことも言わず死んで流れて行き、40歳ぐらいのおばさん2人もいなくなった。乳飲み子が母親の乳首にかみついて痛いと言っていたが,その子も母親の腕の中で息をひきとり、いつの間にか波にさらわれてしまった。
 体は陽に焼け皮膚は赤黒くただれ、頭髪はバサバサに縮れ、抜け毛も多くなった。
 鮫が別の筏の老爺にかみついているようであった。そして100メートルほど先から鮫がこちらへ向かって来る 『次は私の番だ』 先頭にいる私は 『海の神様どうか私をお助け下さい』 と両手を合わせて一心に祈った。目をあけると鮫は向きを変えてそれて行った。みんな一言も言わずだまっていた。うっすらと夜明けが近い頃、筏は島に向かって押し流されていた。私達は助かったのです。筏を降り、四つん這いになって陸地へ向かった。この手この足で石や砂を握りしめたのです。私達の喜びは言葉には言い尽くせない。目がくるくるまわり、体が安定せず両足で立てなかった。しばらく岸のくぼみにうつ伏せになって気を静めた。ひとりの女の子は上陸寸前に息を引き取り母親が悲しんでいた。着いたところは無人島であったが、この島の近くのお百姓さんによって救出され、ごはんと黒砂糖を食べさせてくれた。あの島での水とごはんと黒糖の味は今も忘れない。このご恩は一生忘れない。
 生き残ったのは10人中大人3人、子どもは私1人のたった4人であった。」

 攻撃をうけて遭難したのは対馬丸だけではありません。
 記念館の近くに 「海鳴りの像」 が建っています。
 疎開船だけでなく南洋群島や本土で働いていた人が沖縄に戻るために乗っていた船や、徴兵で県外に向かう若者を乗せた船などわかっているだけで対馬丸以外に26隻以上も攻撃され、1927人が犠牲になりました。当時、遭難は、戦況の悪化を示すとして軍事機密とされていたので解明は困難を極めています。
 「像」 は1987年6月23日に遺族たちによって除幕式がおこなわれました。
 

 沖縄のお土産は何にしようか・・・
 道の駅に寄ったら 「月桃の花」 が売っていました。一枝160円です。
 歌にうたわれている「月桃」 は、沖縄戦のテレビドキュメントで激戦地の場面がかわる合間に流されていました。

  1.月桃ゆれて 花咲けば
    夏のたよりは 南風
    緑は萌える うりずんの
    ふるさとの夏

  「うりずん」 は春分から梅雨入りまでの季節。沖縄戦が始まったころです。

  2.月桃白い花のかんざし
    村のはずれの石垣に
    手に取る人も 今はいない
    ふるさとの夏

   「手に取る人も 今はいない」 は米軍からジェノサイド攻撃を受け、一家全滅になった屋敷の
  ことです。今もそのままです。

   3.摩文仁の丘の 祈りの歌に
     夏の真昼は 青い空
     誓いの言葉 今も新たな
     ふるさとの夏

  摩文仁の丘は、平和の礎や平和記念館が建っているあたりで、沖縄戦最後の激戦地でした。

   4.海はまぶしい キャンの岬に
     寄せくる波は 変わらねど
     変わるはてない 浮世の情け
     ふるさとの夏

  喜屋武岬は沖縄本島の南端。住民は南へ南へと避難を続けました。逃げきれないと思ったとき、
 岸壁から身を投げました。

   5.6月23日待たず
     月桃の花 散りました
     長い長い 煙たなびく
     ふるさとの夏

  6月23日の 「慰霊の日」 は、「魂魄の塔」 は線香の煙が絶えません。

   6.香れよ香れ 月桃の花
     永久 (とわ) に咲く身の 花心
     変わらぬ命 変わらぬ心
     ふるさとの夏


  「活動報告」 2015.10.20
  「活動報告」 2014.5.16
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評価制度は人間破壊と労働強化をもたらす
2016/05/17(Tue)
 5月17日 (火)

 今年になってから、いろいろな機会に公務員の評価制度導入が話題に上ります。公務員だけでなく、自治体の関連機関でも同じ動きがあります。しかし労働者側だけでなく評価制度を運用する側も混乱が起きているようです。
 14年5月に 「地方公務員法の一部改正」 が行われ、今年の4月から施行されることになりました。
 国家公務員については2007年7月に法改正が行なわれ、09年4月1日から実施されていますが、地方公務員は徹底していませんでした。「能力評価及び業績評価 (目標管理) を行っている団体は、都道府県では37団体、指定都市では20団体中19団体、市区町村では1722団体中569団体の状況でした。
 それが義務づけられます。

 総務省は背景として、地方分権の一層の進展により地方公共団体の役割が増大し、住民ニーズの高度化・多様化が進んでいるなかにあって、厳しい財源状況や集中改革プランなどにより、職員数は減少している、と説明しています。
 そのため、個々の職員に困難な課題を解決する能力と高い業績を挙げることが従来以上に求められているといいます。
 具体的には、① 職員の主体的な職務遂行や自己啓発を促し、職員の人材育成と組織の活性化を図る、② 適材適所の人事配置や給与等への反映など、能力実績に基づく人事管理を推進する、 ③ これらを通して、主体的・自律的な職員を育成し、行政サービスの向上を図る、といいます。
 そのために、「人事評価は、職員がその職務を遂行するに当たり発揮した能力を把握した上で行なわれる勤務成績の評価である 【能力評価】 と、職員がその評価を遂行するに当たり挙げた業績を把握した上で行なわれる勤務成績の評価である 【業績評価】 の両面から行なうもの」 と規定されています。

 では 「能力評価」 とはどのようなものをいうのでしょうか。
 地方公務員の制度は国家公務員を踏襲するので、15年12月に内閣人事局・人事院が作成した国家公務員のための 「人事評価マニュアル」 から探ってみます。
 定義は 「職員がその職務を遂行するに当たり発揮した能力を把握した上で行われる勤務成績の評価」 で、評価の方法は 「職員が職務遂行の中でとった行動を、評価項目及び行動に照らして、当該職員が発揮した能力の程度を評価」 とあります。
 職務上とられた行動 (能力が現れたもの) を基に評価し、潜在的能力や業務に関係のない能力、人格等を評価するものではありません。具体的には評価項目及び行動は、職制上の段階及び職務の種類に応じて定められた職務上発揮することが求められる能力 (標準職務遂行能力) を 「求められる行動」 という形で記したものです。
 「業績評価」 のは定義は 「職員がその業務を遂行するに当たり挙げた業績を把握した上で行なわれる勤務成績の評価」 で、評価の方法は 「職員が果たすべき役割について、業務に関する目標を定めること等により当該職員にあらかじめ示した上で、当該役割を果たした程度を評価」 とあります。
 職務遂行に当たり実際に挙げた業績を評価するものであり、職位に応じて当該ポストにある者が果たすべき役割を目標等の形で明確にすることによってこの達成度を基に評価します。
 「能力評価」 と 「業績評価」 の関係は、「能力評価は評価機関を通じて当該職位に求められる職務行動がとれていたかを評価し、その評価結果の推移を中期的に見ることにより、能力の伸長度合・獲得状況を評価するものであるのに対し、業務評価は評価期間ごとに変動し得る業績の実施結果を達成度から評価するものです。」
 これらを具体化して 「能力及び実績に基づく人事管理の徹底」 が規定され、「能力本位の任用制度の確立」、「人事評価制度の導入」、「分限理由の明確化」 が求められることになりました。

 人事評価の方法については詳しく説明されていますが、割愛します。内容は評価制度が導入されている民間とほぼ同じです。
 ただし、民間においては評価制度をちゃんと理解して、上司と交渉している労働者や労働組合はあまりないという現状です。評価制度の正否の議論はさておくとして、民間の状況を “見習う” のではなく、評価に際しては 「人事評価マニュアル」 を活用して上司からの一方通行の評価を拒否し、整合性と納得性が求めて自己主張することが大切です。そのような議論が人事制度の改善に結びつきます。

 結果は、昇任、昇格、昇給、免職・降任・降格・降号、勤勉手当、人材育成などに活用されますが、評語 (評価結果) はどのようなものになるのでしょうか。
 また国家公務員のための 「人事評価マニュアル」 からです。課長級以下の例です。
 S 特に優秀、A 通常より優秀、B 通常、C 通常より物足りない、D はるかに及ばない、の5段階です。
 12年4月から9月の業績評価の抽出調査では、S6.0%、A51.9%、B41.5%、C0.5%、D0.1%です。


 制度は抽象的でわかりにくいところがありますが、公平な評価の基本は、わかりにくい制度をそのままで公表することで不満や意見を排除することです。後から問題点を指摘されても受け付けない口実になります。

 背景説明からは、今まで以上の人員削減を進めることが表明されています。そして 「困難な課題を解決する能力と高い業績を挙げることが従来以上に求められている」 は、高い目標設定が期待され、それに基づく評価が行なわれるということです。現状維持では評価が低くなります。昇格・昇給のためにはそれに応えていかなければなりません。その意識改革が 「自己啓発」 です。
 評価は、職制上の段階ごとにおこなうので、昇格したい者はその職位での能力の程度=職務ではっきりわかる成果をあげなければならないということになります。長時間労働が発生します。その一方、長時間労働に至る者は能力がないと評価されます。
 また、燃え尽き症候群の労働者をつくります。それをわかったうえでの使い捨ての思想が存在します。

 公務員は、ポストの定員は無制限でしょうか。ポストの争奪戦が発生してきます。はっきりわかる業績での競争は媚びを売るなどの “みにくい姿” で現れます。
 また免職・降任・降格・降号は、民間の解雇促進法です。

 基本的には、これまで運用されてきた制度からの転換をはかろうということのようです。
 職務ではっきりわかる業績をあげなければならないということは、潜在的能力の開発は含まれません。本来、「業績」 と 「成果」 は違います。業績はアウトプットしたものをいいますが、本当の成果は、インプット・例えば教育や訓練、スループット・例えば研究、調査などすぐに成果が表れないのも含みます。インプット、スループットは自己責任での自助努力ということになります。 
 「果たすべき役割を目標等の形で明確にする」 は、他部門・担当・他者との協力関係を薄めます。それでなくても縦割り行政と言われている組織がますます純化します。そして労働者の総合的職能・応用力を獲得するチャンスをうばい、将来的には力量を弱めます。
 今まで以上の殺伐とした職場環境が作られていきます。


 評価制度は、1880年代のアメリカの 「テイラー主義」 ・科学的管理法から始まりました。
 1861年4月12日、南北戦争開始され65年4月まで続きますが、南北戦争はさまざまな面で工業の発展を刺激し、それ以降も発展を続けます。また鉄道が大切な役割を果たした最初の戦争でもあります。69年最初の大陸横断鉄道が完成し、「西部開拓」 がすすみます。
 さまざまな道具や機械が不足していきますが労働力も不足し、長時間労働が続き低賃金で1日12時間以上働かされます。黒人労働者や移民労働者にとっては文化の違いなどからも耐えられない状況でした。その怒りが1886年5月1日、合衆国カナダ職能労働組合連盟 (後のアメリカ労働総同盟) が8時間労働制を要求して行ったストライキとして爆発します。メーデーの起源です。

 もうひとつ、労働力不足を解消するために、1880年代、労働現場の改善・合理化がすすめられました。それがフレデリック・ウィンスロー・テイラーによるテイラー主義・ 「科学的管理法」 です。
 時間、動作研究を通して能率的な生産方法を発見して生産効率を高めます。無駄な作業が省かれると同時に、細分化されて専門的に分担されます。
 具体的には、職長の機能を8つの職務に細分化して、それぞれに専門化した 「職能別職長」 (経路係、指令表係、速度係、検査係、修理係など) へと置き換えることを提唱されました。
 合理的な作業方法と作業時間から労働者が1日に達成すべき標準的な生産量を計算し、これに達した労働者に対しては1個あたり高い賃率を、反面、それに達しなかった者には低い賃率を適用する 「差別的出来高賃金制度」 が提唱されました。労働意欲の刺激賃金に求める素朴なアイディアで、生産性の高い労働者は高収入を得られ、雇用主もまた一個あたり生産コストを削減できます。
 これに対し、労働組合は、差別的出来高制賃金制度は労働強化を目指すものとして反対し、導入されるところは多くありませんでした。よくアメリカでは成果主義はスタッフには取り入れられているがラインには行なわれていないといわれるのはここに起原があると思われます。
 テイラー主義は、労働者は取り替え可能な生産資源のひとつとなる。労働力の商品化になっていきました。
 労働力の商品化に対して、1918年のILO設立に際して「労働は商品ではない」の宣言が行なわれます。

 日本にも1910年代にはアメリカの産業心理学が導入され、テイラーの 『科学的管理法』 も翻訳・出版されました。(2013年10月3日の 「活動報告」 参照)
 戦時中にもパイロットなどでは能力主義・評価制度が導入されていました。
 戦後に制定された地方公務員法に評価が規定されています。おそらく、戦中からあった民間の制度を意識したものと思われます。
 初に勤務評価が問題になったのは日教組を攻撃した 「勤評闘争」 です。(2015年10月6日の 「活動報告」 参照)
 その後は、公務員の勤務評価の問題は鳴りを潜めていました。それに代わって民間では評価制度がスタッフだけでなくラインにも導入されてすすめられていきます。
 民間が、ほぼ導入が終了したと思われた頃、公務員への再度の導入が行なわれてきました。

 民も官も、評価制度は労働者の尊厳を破壊し、分断支配を貫徹するものであること主張し、人権・人格を獲得する闘いを一緒に作り上げていく時期に来ています。


  「活動報告」 2015.10.6
  「活動報告」 2014.10.3
  「活動報告」 2013.10.2
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