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江戸時代の共生・共存による救助から見えてくる現在
2016/04/27(Wed)
 4月27日 (水)

 4月23日の毎日新聞の 「余録」 です。災害時における 「民」 の支援活動を紹介しています。
「江戸の奇談集 『耳 (みみ) 袋 (ぶくろ)』 の筆者、根岸鎮衛 (ねぎししずもり) は天明の浅間山噴火で壊滅した村の復旧にあたった幕臣だった。かつての小欄でもふれたが、この時に私財を投じて被災者の仮小屋を作り、食料も与えた近郷の篤志家 (とくしか) たちを 『耳袋』 で称賛している▲ 『我らの村はこのたびの愁 (うれ) いをまぬがれぬ。しかし右難儀 (なんぎ) の内へ加わり候 (そうろう) と思わば、我が身上を捨てて難儀の者を救い然 (しか) るべし』 とその一人はいう。どんな金持ちかと思って呼び出すと、まことに実直そうな老人であった▲時代はやや下り安政の江戸地震での被災小屋には一般の町民からも食料や日用品が寄せられたが、なかには遊女からの鍋の寄付や被災者への髪結いの施しもあった。身分や因習が人と人を隔てていた昔も、災害で苦しむ人がいれば自分にできることを考える人がいた▲熊本地震の被災地では熊本県益城 (ましき) 町、南阿蘇村などに続いて熊本市でボランティアセンターが開設され、全国から来る人々のボランティア活動が始まった。物資配給での人手不足が伝えられたこの震災だが、ようやく一般のボランティア受け入れ態勢が整いつつある▲九州新幹線の博多−熊本間が再開するきょうからは、参加者の急増も予想される。ただなお受け入れられぬ自治体もあり、現地のニーズはホームページなどでしっかり見極めていただきたい。食事や宿泊で被災地に負担をかけては善意もありがた迷惑になってしまう▲ちなみに天明の浅間山噴火の復旧には幕府の命で熊本・細川藩が9万両以上を拠出した。どうあれ助け合ってしか生きられない災害列島である。せっかくの善意は周到な心配りとともに生かしたい。」

 安政の江戸地震は、1855年 (安政2年) 10月2日に発生、特に隅田川の東側あたりの被害が大きかったと言われています。
 その少し前ころから明治維新頃までの世相を、佐藤誠朗著 『幕末維新の民衆世界』 (岩波新書) は庶民が書き残したたくさんの日記を紹介、引用しながら描いています。
 「庶民は庶民なりに、情報を交換し、暮らしや生業への影響を察知し、時代認識を深めていったのである。庶民は決して幕末維新期の受動的な脇役などではなかった。そのことを示すのは、庶民自身が書き残した膨大な文書・記録・絵図のたぐいである。何よりも日記が重要だ。庶民日記をたんねんに読み込むなかで、庶民たちの歴史を見る確かな視点と、領主世界とは異なる自立した庶民世界の広がりがみえてくる。」
「庶民は、戦いに血道をあげる武士たちの喧騒に対して同調しなかった。たとえば、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなァ』 などと、朝湯で手拭いを頭にのせて、まるで人ごとのように話し合う江戸っ子がいた。戊申戦争の戦場となった越後では、平賀村 (新潟市) の誓慶寺の僧侶、円雅は 『百姓町人は野業仕事之役にて、死ぬる役に非ず』 と記した。戦というものは、侍が一命を捨てる 『御戦争』 だというのである。人足に駆り出された東新潟村 (見附市) 組頭富次郎や、光間村 (東頸城郡松之山町) 伝蔵らは、合戦の成り行きを冷静見据え、記録にとどめている。民衆は領主たちの動向を的確につかみ、ときには人足の徴発を拒否し、各地で庄屋らを打ち壊したのである」 (『新潟県の百年』 山川出版社から孫引き)

 領主世界とは異なる庶民世界は自立しています。1833年 (天保4年) から39年 (天保10年) の天保の大飢饉ころから情報を取得するために寺子屋通いをするものが多くなったといいます。訴状や願書も自分たちで書きます。市などではさまざまな出版物も出回るようになりました。
 立札などに書かれた幕府や奉行の御触書や告示などから、どんなことが起きているのかを連想することもできていました。
 ペリーの黒船は、幕府はてんやわんやですが、庶民は江戸辺りからの珍しいもの見たさにわざわざ出かけます。
 近江の商人は 「商用会話」 を手本に英語を習い始めます。横浜商館との取引には欠かせないと思ったと言います。

 世相は、アメリカからペリーが浦賀に来て開国を迫ったことを契機として大きく変わります。他の国とも貿易が始まりますが、生糸や穀物などを取り扱う商人は売り惜しみを行って商機を伺います。その結果、物価は乱高下し、庶民の生活が脅かされます。
 生活に困窮する庶民は、最初は集団で米問屋などに価格を下げることや貯蔵している穀物を提供するよう要望しますが、聞き入れられないと徐々にエスカレートしていき打ちこわしにおよびます。また商人の横暴を放置する奉行所に対して、打ちこわしの前には 「捨訴」 などで警告も行い、脅しによる効果を期待しました。
 打ちこわしなどで手に入れた穀物は平等に分配されます。
 江戸時代には 「義民」 も各地に登場します。困窮した庶民を救済した義民は今でもその地方の英雄として祀られています。

 百姓一揆にはちゃんとしたルールがありました。
「盗みや掠奪の禁止、放火の禁止 (火の用心)、殺傷の禁止、この3つが近代における百姓一揆の規律・作法であると言われる。打ちこわしをともなう一揆においては、家財道具や諸帳面を持ち出して庭先や道路で焼き捨てる例は数多く見られるが、居宅・土蔵などをまるごと焼き討ち (放火) する行動をとるようになったのは、1866 (慶応2) 年以後のことのようである。……
 翌1871 (明治4) 年2月の 『福島県騒動』 にあっては、竹槍・鉄砲などで対抗して、牢獄に火を放ち県官に手向い、『菊御紋』 を焼き捨てた。」
 明治維新は、幕府と朝廷の政権争いだけがではありません。民衆の 「世直し」 運動が時代の地殻変動を起こしていました。


 さて、江戸庶民の共生・共存の思想はどのようなものだったでしょうか。
 1862年 (文久3年) 11月、江戸・駿河町の越後屋本店の台所から火が出て広まり、かなりの地域を焼き尽くします。
 直後、本両替町の富裕の両替商は町内の小間物問屋から類焼ならびに近火見舞いとして、品川町、品川裏川岸、駿河町、北鞘町、本両替町の5か町に施したいと相談されます。他の両替商も承知するなら差し出すと答えますが出金することでまとまります。
 越後屋本店では、類焼した表店は10両ずつ、裏店は5両ずつ、駿河町の類焼しなかった家主には500疋 (1疋は10文) ずつ見舞いを出します。
 地域の富裕者は生活困難者が出たときには支援するのが一つの義務になっていました。

 1864年 (元治元年) 7月19日、御所辺で長州兵と幕軍が交戦し火の手が上がり燃え広がります。20日、21日も火の手が上がり大火となります。
 山城国の頭百姓の日記です。
「市中の人びとは九条・竹田に次々と避難した。東塩小路村も、青物畑のなかに所嫌わず日陰を設けて休み、焼跡に立ち戻ることもできずに野宿する者であふれた。大火のため米・醤油・塩ほか日用品が手に入らず、米は100文に2合5勺でも売り手はなく、弱り切っていたが、ようやく御救米や粥を下さることになった。また長州家が嵯峨天竜寺に蓄えておいた兵糧米500俵を、薩州家で分捕ったそうだが、その米は市中類焼の者へ下さるというので、東洞院錦小路の薩州様御屋敷へもらいに行ったという」
 為政者も生活が困難に陥った民衆に対して救援の手を差し伸べています。


 1866年 (慶応2年)、全国的に品不足が続き、世相は騒がしくなり各地で米問屋が襲われます。
 江戸市中です。
「町会所の窮民救銭は、6月4日より27日までで、37万1381人に銭42万2貫500文にのぼったが、米価が高く焼け石に水だった。7月2日、本両替町の名主大坪・伊達・下村が寄り合い、“御進発中にこのうえ打ちこわしがあっては恐れ入るので、出来秋までの7月と8月に限り、銭100文につきおよそ2合の小売米相場に1合加えて、3合売りとし、それに要する6万両を七分積金 (窮民救済のための積立金) より出金してほしい” と、町会所に願うことにした。」
 打ちこわしを止めるための対応協議が行われています。江戸では町会所で 「七分積金」 という窮民救済のための積立金が行われていました。火災・洪水・飢饉などの罹災者のための組織的備えです。
「9月8日より、市価の半値の銭100文に白米2合5勺で、町会所の囲米を安売りするとの触れが回った。町名主らの調べで、『その日稼ぎのうち極貧で食いつなげない者』 に限り、廉売を受けられるという。……その数は、江戸中で8万4127人に上ったが、日本橋辺は1人もなく、神田明神町・下谷辺・小石川辺、深川辺で5割を占めた。」

 有志や個人の活動もあります。
「16日、隣の銀座では近ごろ吹き方が減り、手当銭がもらえないので、かなりの人数が渡場辺に集まった。午後8時ごろ、にわかに騒がしくなった。貧窮人たちは、加賀屋の薪、豆腐屋の大釜を持ち出し、法源寺で粥を炊いた。触れを回すと、町中の女子供がはだしで駆けつけ食べた。翌17日、麦店は残らず商いを休んだ。おいおい人数が増え、米・味噌・醤油・沢庵・茶漬・薩摩芋などを所々に無心した。……町内より100両、上の銀座より50両など400両を拵 (こしら) え、これから8日間、銭100文に2合5勺売りするよう、米屋と掛け合った。御救小屋もできるとのことで、ようやく鎮まり法源寺を引き取った。」
 東叡山黒門前の下谷町1・2丁目、上野役人屋敷など8町の困窮人も炊き出しを行っています。
 「御救小屋 (おすくいごや)」 は火災・洪水・飢饉などの罹災者救助のために建てられる小屋です。この時は、「“御救小屋を建て朝夕の賄は町会所より下される。小屋入りを望む者は、職業に応じて小屋地へ手伝いに出よ” と触れ出された」 とあります。
 2008年年末の日比谷派遣村のような思想が定着していました。

 江戸時代には、罹災者のために 「官」 では町会所で 「七分積金」 が行われていました。「民」 としても炊き出しや 「御救小屋」 設置が当たり前のように取り組まれます。それらが状況に応じで運用されます。商人たちは物資、金品の提供の “要請” に応じます。庶民の生活の根底に共生・共存の思想がありました。
 それが、近代化のなかで壊されていきます。(2016年4月8日の 「活動報告」 参照)


 熊本・大分大震災について、4月20日にNHK放送センターで開かれた震災対策本部会議で、籾井会長は原発報道にあり方に続いて 「食料などは地元自治体に配分の力が伴わないなどの問題があったが、自衛隊が入ってきて届くようになってきているので、そうした状況も含めて物資の供給などをきめ細かく報じてもらいたい」 と指示したと報道されました。
 確かに自衛隊は食料等を提供しました。しかしそれ以上に民間の行動の素早さには目を見張るものがありました。さらに、これまで被災を体験した各地の民・官からの “恩返し” の行動が被災者の心身を支援しています。
 江戸時代の共生・共存の思想がよみがえりつつあるようにも思えてきます。
 
 江戸時代と比べても、現在の政府が進めている対策はまだまだ遅れています。災害が発生してからの対応になっています。根本的捉え返しが必要です。
 熊本・大分大震災については、被災者に寄り添った長期の支援が必要です。

   「活動報告」 2016.4.8
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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