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 被害者、加害者を救済する 「修復的司法」
2016/04/22(Fri)
 4月22日 (金)

 学校でのいじめなどのトラブルや親子関係の対立、犯罪をめぐる被害者と加害者の問題などに第三者として両者の間に入り、関係を修復することをめざしている 「対話の会」 が主催するシンポジウムが開催されました。
 手法は 「修復的司法 (Restorakurive Jastis)」 と呼ばれています。職場のいじめ問題では 「修復的正義」 と呼ばれています。(2013年7月30日の 「活動報告」 参照)

 「対話の会」 は、いじめを集団の病理であるととらえています。集団が1人ひとりの個性を尊重せず、自由闊達な雰囲気を持たないときに生まれます。いじめられている側に責任や原因はありません。むしろいじめている側の心にある閉塞感やストレスこそ、いじめの原因といえます。いじめられている子は、そのはけ口、標的にされているだけです。
 だから、いじめを克服するためには、まず集団そのものの雰囲気を自由闊達なものに変える、つぎにいじめている子の心にある閉塞感やストレスの原因を把握し、これを和らげることが大切です。
 いじめには四層構造論というのがあります。被害者、加害者、観衆 (いじめをはやしたておもしろがって見ている)、傍観者 (見て見ぬふりをする) です。いじめの被害の大きさは 「加害者」 の数とは関係なく、傍観者が多くなるほど被害が大きくなります。
 このことを踏まえ、「修復的司法」 の基本的考え方は、犯罪は地域社会のなかで起きた悪害ととらえ、この悪害に対して被疑者・加害者・地域の人たちが自分たちの力で埋め合わせするという対応をします。例えるなら、通学道路に陥没ができていたら安心して通学できません。利用している人たちで早く穴を埋めようという作業です。
 被害者と加害者の決定的違いは、いじめは人間関係のもつれから起きるもので、一方はいじめられたと感じていても、他方はそうは思っていないことが多くあります。いじめたつもりはないと思っている側にいじめたと決めつけて接しても反発を招くだけで克服にはつながりません。むしろ、相手にいじめられたと感じさせるような行為をした理由やその背景にあるその子の心のストレスや不満を充分聞いてあげて、そのストレスや不満の解決に手を貸してあげることが大切です。


 既存の刑事司法では、国家の定めた法をおかすことを犯罪と捉え、犯罪をおかした人を国家が処罰するのが刑事事件で、犯罪を国家対被告人という関係で対応します。損害賠償は 「民」 と 「民」 との法律に基づく対応です。司法制度による解決策は、刑事罰と損害賠償しかありません。
 裁判では、刑事罰や損害賠償を低くするために加害者に対して弁護士は一方的に謝罪することをすすめます。逆に相手の非をあげつらいます。そして刑事罰では予想よりも低くなる、損害賠償で期待に近くなると 「いい結果」 ということになります。
 しかし、本音を覆い隠しての謝罪は本質的解決にはならず、加害者に新たな心の傷を生じさせます。強制された更生です。自分の中にある心の歯車が絡み合わなくまなったとき、再度同じことが繰り返されます。相手の非をあげつらうことは双方の憎悪を深めます。そこにあるのは 「法律家の経済学」 です。

 
 「修復的司法」 は、どのような事件が対象になるのでしょうか。
 これまでは少年事件が多かったが、実践経験から成人の犯罪事件、いじめ問題、親子や近隣の紛争などさまざまな対立問題を対象にしていきたいといいます。
 実施の時期はどの段階でも構いません。
 少年事件は、狭い地域社会で起きることが多いです。少年院で矯正教育を受けて社会復帰大きな意欲を持っても地域に帰っても、そこに住む被害者や地域の人たちにその思いを知ってもらう機会がなければ、白い目で見られ、やがてそれに絶望して再非行に陥ってしまいます。対話のプログラムを少年の社会復帰のために生かしていきたいといいます。
 第三者との話し合いをへて加害者、被害者が相手方と対面することになります。ただ単に会わせるということではありません。事件の重さや事件発生からの時間的経過、被害者の心情、加害者の反省の度合いなどによっては、対面が二次被害を生むこともあり得ます。一方が対話を強く望んでも、断念することもあります。
 重要なことは、お互いが正直な心情を吐露することにより相手の立場を理解しあうことです。その対話のプロセスと、対話がお互いの心にもたらすものこそが重要です。
 
 手順の第一段階です。
 被害者は、被害にあった時どれだけ怖かったか、事件後もその影響にどれだけ苦しんでいるかなどを話します。加害者は、自分がなぜその行為をおかしてしまったか、今その非行についてどう思っているかなどを話します。
 自分の体験を話すというルールに従って話をすることは、対話が相手の人格を尊重したものになり、かつ相手の立場を理解するものになるため重要な意味をもちます。
 被害者が 「自分の知見を話す」 というルールに則って話すということは 「私はこのようにして被害に遭い、その後もこんなにつらい思いをしている」 という体験談の形で話すことになります。主語は 「私」 です。同じ内容であっても、被害者が加害者への非難という形ではなく、自分の体験という形で語ることによって、加害者は素直にこれを聞き、心で感じながら受け止めることができるようになります。
 加害者も体験を語ります。単なる弁解としてではない事実として、犯罪に至った経緯やその後どのように反省を深めてきたかなどを被害者に知ってもらうことができます。被害者にとっては非行原因や反省の度合いを知ることができます。それが恐怖心の払拭や傷ついた心の恢復につながります。

 第二段階は、一緒になって話し合いをする中で被害者は、加害者に疑問や不満を直接訪ねることができます。
 第三段階は、参加者の創造的な発案によって当事者にもっとも相応しい方法が自由に考え出します。加害者は、上から押し付けられた償いではなく、自ら積極的に提案し選び取った償いをすることに責任感と達成感を感じることができ、立ち直りへの大きな自信につながります。
 第四段階は、話し合って合意に達した場合、進行役はその内容を文書にまとめ、参加者に確認します。参加者が必要としなければ合意自体がなくてもかまいません。
 対話に参加する当事者のニーズと発案で、どのような償いや合意を自由にとりきめることができます。


 具体的にグループに分かれて1時間半ロールプレーを行いました。
 仲のいい高校生4人のなかで次第に1人をいじめていくというテーマです。リーダー、リーダーに追随する者、リーダーの言うことにしぶしぶ従っている者、いじめられた者の役になり切ります。準備されたストーリーはなく、それぞれの主張は演じる者の思いで本音トークをします。お互いの社会的、家庭的条件などは知らないという設定です。

 いじめられた者は登校拒否になり家に閉じこもりっきりの状況で 「対話の会」 に相談します。ほかの3人は1人ずつの 「対話の会」 との話し合いで一緒の話し合いを了承します。
 いじめられた者はいじめはいやだった、でもいつかは止めてくれて元のような仲のいい関係になると思って我慢していた、でも
そうならなかったので少しづつ避けるようになったと心情を話しました。
 リーダーは、いじめていたという自覚はなかった、実際自分は手を出していないと主張します。いやなことをされたと思ったら友だちなんだからそのときちゃんと言ってくれれば止めたと反論します。
 リーダーに追随する者は、リーダーからいじめられた者が避けるように逃げたので捕まえて連れてくるように言われたのでそうしたと主張します。
 リーダーの言うことにしぶしぶ従っている者はいやだったけどリーダーに追随する者と一緒に行動をしたと言います。

 リーダーは、いじめられた者の話をきいても自分はいじめたという自覚はない、だから謝るのはいやだという主張を最後まで貫きました。
 リーダーに追随する者は、いじめたことを認めて謝りますが、リーダーに言われてやったと自己弁明します。この段階でもリーダーに従います。
 リーダーの言うことにしぶしぶ従っている者は、3人でいじめられた者の家にいって両親にも謝ろうなどと提案します。しかし他の2人からは拒否されます。
 いじめられた者は、やはり怖い気持ちが払しょくできないので当分は安心して学校に行けるという気分にはなれないと心情を語ります。
 リーダーがいいました。「元のように仲良くなりたいと思っている。今後、言いたいことがあったら俺ではなくてリーダーに追随する者に何でも言ってくれ。俺はそれをちゃんと受けいれて同じことが起きないように対応するから。」
 
 「加害者も遺族も相手と話したいのである。ただ、その方向性がずれたままである。」 (野田正彰著 『大事故遺族の悲哀の研究 喪の途上にて』 岩波書店) です。
 期待される 「ハッピーエンド」 には至りませんでしたが、そのほうがリアルなんだと実感することができました。役になり切るといってもシンポジウムに参加するにあたってのそれぞれの体験が違っていてこだわりをもっています。それぞれが捉える友だち意識、人間関係の作り方の期待の方向性に大きな違いが生じてしまっていたのでした。 話し合いをすることで、それぞれの言い分を聞いてお互いの溝は浅くなりました。しかしいったん発生してしまったトラブルのわだかまりは簡単には解消するものではありません。本物の本音トークでした。


 リーダーやリいじめられた者のような振る舞いは、いじめにのなかには常に存在します。
「『心が傷つく』 とは、どういうことだろうか。柔らかい人の心は、耐えがたい体験によって三つの問題を抱える、ひとつは言葉どおり、心をある実態としてイメージして、ショックや繰り返される不快な体験によって 『精神的外傷』 を被るのである。だが、心は精神的外傷がふさがれた後、身体のようにちょっとした瘢痕を残して、元どおり機能していくわけにはいかない。必ず精神的外傷をきっかけに、以前とは違った態勢に入っていく。
 まず人は精神的外傷の後、その傷を過剰に包み隠そうとする。あるいは、崩れた精神的バランスを取り戻そうとして、過剰に身構えてしまう。心に加えられた外からの力 (精神的暴力) と丁度同等の力で反発し、不幸な体験を静かに押し戻すことは非常に難しい。右手に重い鞄を持って歩く人の右肩は、左肩より上ることはあっても下ることはない。同じく心は、精神的外傷からあまりにも多くのことを学びすぎ、緊張し、身構えてしまう。自分の心の傷を周囲の人に気付かれないように、他人に同情ないし後ろ指を指されないように、隙を見せないように努め、さらには不幸を越えて、より強靭に生きていこうとする。それは挫折か、再生かを賭けた戦いであるが故に、多くの人は再び立ち直りつつ、精神的外傷を過剰に代償してしまう。克服した困難な体験、悲しい体験は、その人に自信を与えると共に、その人なりの精神的防衛の仕方を固定し、絶対化させることになる。心の強さは常にかたくなさの影が伴い、それは弱さでもある。
 生きていくとは、打ちひしがれるほど強烈ではなくても無数の精神的外傷を受け取り、それを克服する過程でこわばり、時にはそれではいけないと思って、無垢の柔らかさを幻想的に追想しながら、やはり若い心の傷つきやすさを失っていく道程であるともいえる。心の傷に着せかけた心の鎧、これが第二の問題である。
 そして歳月をへて、精神的外傷と精神的防衛がひとつのセットになって心の底に気付くことのない澱になったとき、それはコンプレックス (心的複合体) として、その人の生き方を突き動かしていくことになる。精神的外傷が心の裏側に焼き付けた踊る影、それが第三の問題として残されるのである。」 (『喪の途上にて』)


 いじめられて 『心が傷つく』 ことに対して、被害者、加害者、観衆、傍観者が 「気付く」、「見ぬふり」 をしないことが問題を大きくしない対応策で修復も早期にできます。


  「活動報告」 2016.4.14
 当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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