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たくさんの 「もうひとつのヒロシマ」
2016/04/15(Fri)
 4月15日 (金)

 今年の1月から、トークセッション 「ヒロシマ・2016 連続講座」 が開催されています。これまでに4回開催されていますが、主催する方の努力で貴重な話を伺うことができています。

 1回目は 『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』 (文藝春秋) の著者堀川惠子さんです。
 土饅頭の形の原爆供養塔には、広島平和公園にある原爆で亡くなられたが引き取り手がいない遺骨約7万が納められています。
 原爆投下の翌年、市は散乱する遺骨を市役所と現在の平和公園の原爆投下前にお寺があったところに集めて弔いました。まもなく周辺に平和記念公園兼摂が浮上したので市は公園の中心部に移す計画を立てました。しかし法律で公園内にお墓はだめだと断られます。
 1955年、市民の寄付金で塚が再建されます。
 その塚を原爆当時27歳で、原爆で母親など親族20人以上を奪われた佐伯敏子さんは58年から半世紀近く喪服姿で通い、草取りや清掃を日課として続けました。市から地下室のカギを預かっていた方が佐伯さんに合鍵を渡します。地下室に入ると約2.200人の人名録があるのを発見します。それを書き写し、遺骨の遺族探しが始めました。その姿勢に動かされて市も活動をはじめます。佐伯さんは語り部の活動も続けてきました。
 
 堀川さんは元広島テレビのディレクターで現在はフリーのジャーナリストです。93年に佐伯さんに出会います。その後、再度佐伯さんに会ったときは老人保健施設にいました。
「知った者は歩き続けなければならないのよ。今は伝わらなくても、その人が知りたくなるのを待たないといけんよね。いつか通じあうときがくる」
 堀川さんは12年夏から佐伯さんの意思を受け継いで816人分の名簿から住所が判明している遺骨の遺族を探して全国を回ります。しかし住所が存在しなかったりします。
 19年から、江田島の北部に陸軍秘密基地がおかれ、本土決戦の特高要員として全国の農漁村から集められた特管隊と呼ばれた少年兵が2000人いました。彼らが遺体を焼いたり名簿を作成に動員されたことが分かります。被災者から聞き書きだったりしているときに間違ったりしたものと思われます。少年兵の過半は原爆症の症状で亡くなっていました。
 また遺族を尋ねあてても関係を持ちたくないという遺族もいました。
 名簿には10数人の韓国・朝鮮出身者と思われる 「日本名」 の遺骨があるといます。

 市は、毎年8月6日が近づくと名簿を公表しています。しかし 「それ以上」 は行いません。余計なことをするなというようなことを言われたりもしました。
 佐伯さんが堀川さんに言います。「生きとるもんは、勝手に年を刻んで、死者を過去のものにしてしまう。供養塔の地下に眠る死者はあの日のままなんよ」
 遺骨は 「安らかに眠れて」 いるのでしょうか。


 第2回目は気象学博士の増田義信さんです。1923年生まれですので現在93歳です。
 中央気象台付属気象技術養成所 (現気象大学) を卒業して49年から気象研究所勤務になります。まもなく 「行政整理」 という名の首切りが行われ、さらにレッドパージ攻撃で全気象労働組合は解散せざるを得ませんでした。しかし気象研究所は単独で労働組合を存続させます。組合役員は順番制でした。
 「ストックホルム・アピール」 が出され、原子兵器の無条件使用禁止などを要求する署名活動が開始されます。気象研究所労組も取り組みましたが、執行部は総務課長から呼び出されて署名は燃やされ、署名活動を中止しました。増田さんはこのような不条理を止めさせようと組合活動に本格的に取り組みます。

 1985年の原水禁世界大会に参加し、分科会で、原爆は熱戦、爆風、放射線で多くの人を殺傷するだけでなく、「黒い雨」 を降らせて環境を破壊すると報告しました。
 すると数人後に発言した方が 「先ほど 『黒い雨』 の話をした人がいたが、私たちは 『黒い雨』 の調査結果に迷惑している」という発言をしました。
 「どういう意味ですか」 と尋ねると 「あのような激しい雨が、あんなきれいな卵型で降ると思いますか」 と質問されました。増田さんは自分の不明を詫び、「私の責任で再調査してみましょう」 と約束しました。
 巨大な積乱雲から降る激しい雨は非常に不規則で、きれいな卵型のエリアだけに降ることはありません。黒い雨は原爆の爆発によって生じた火災によって巨大な積乱雲が作られ、その積乱雲から降る強い雨で、火災に伴うススのために色は黒く多量の放射性物資を含んでいました。
 増田さんの再調査は、広島県・市などの報告書や記録集、被爆者の手記集を読んでその中から黒い雨の記事を読みとる方法をとりました。

 卵型のエリアの黒い雨は、宇田道隆博士と当時の広島管区気象台の職員が調査したものです。増田さんはそのオリジナルデータを発見し、手記などのデータと宇田博士のデータを使った新たな暫定的な雨域を日本気象学会で発表しました。マスコミで 「広島の 『黒い雨』 従来より広範囲」 などと取り上げると各地から 「ここでも降った」 という情報が寄せられ、さらに詳しく調べる必要が生まれました。
 聞き取りとアンケート踏査などは島根県境まで及び、最終的に2125個の資料が得られました。それらの資料を各市町村の地区や部落ごとに分類・整理し、それぞれの地区や部落の雨の降り方を、宇田博士の手法を参考に、小雨、中雨、大雨の三段階に分類し、新しい黒い雨の図を完成しました。
 宇田雨域は、少しでも雨の降った小雨域は長径29キロ、短径15キロの卵型の領域で、1時間以上雨が降った大雨域は長径19キロ、短径11キロの同じく卵型の領域でした。
 一方、増田雨域はもっと複雑な形をしています。小雨域は爆心から北北西45キロ、島根県と広島県の検査会付近まで及び、東西方向の最大幅は36キロで、その面積は宇田雨域の約4倍に及びます。
 大きな特徴は、宇田雨域のようなきれいな卵型ではなく、極めて複雑な形をしていて、新しい大雨域は宇田雨域の小雨域に匹敵する広いです。特に特徴があるのは、旧広島市内の雨域で、爆心地付近はほとんど雨が降らず、その周囲を取り囲んで馬蹄形に大雨が降っていることです。

 65年 「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」 (原爆医療法) が制定されます。被爆地域の拡大の問題がでてきますが、76年にやっと宇田雨域が 「みなし被爆地」 になります。
 88年、広島県・市は 「黒い雨に関する専門家会議」 を設立し、91年5月に報告書を発表します。そこでは被爆地域拡大の要求を拒否しました。
 2004年11月、「みなし被爆地」 外にいた人たちが原爆症の認定を求めた裁判で、広島地裁は増田さんの証言を採用し、41人が勝訴しました。
 しかし増田雨域では採用されませんでした。今も広島原爆資料館の黒い雨の展示は宇田雨域だけです。内部被ばくを認めたくないからです。
 15年11月にも、被爆者援護法に基づく国の援護対象地域外にいた64人が、広島地裁に被爆者健康手帳の交付などを求めて訴訟を起こしました。黒い雨をめぐる救済範囲の妥当性を問う初めての訴訟です。

 内部被ばくの問題は福島原発事故でも問題になっています。増田さんは、黒い雨の雨域拡大を認めさせることは内部被ばくの危険性を認めさせることになると福島へも思いを寄せています。
 そして核兵器と原発は双子の悪魔、廃棄以外にないと話をしめくくりました。


 第三回は、『広島第二県女二年西組 原爆で死んだ学友たち』 の著書もある関千枝子さんです。昨年、広島での建物疎開をテーマにして 『ヒロシマの少年少女たち 原爆、靖国、朝鮮半島出身者』 (彩流社) を出版しました。
 広島市では、1944年11月に出された告示により建物疎開が始まります。街を4つに分けようとしました。
 45年8月6日は第6次建物疎開作業の真っ最中で、対象は県庁付近、土橋付近、鶴見橋付近など6か所です。そのうちのこれらの3か所は、現在の平和大通り (100メートル道路) の中にあります。大規模な防火帯を作る計画でしたが軍事用滑走路建設だったともいわれています。地区特設警備隊、地域・職域国民義勇隊、学校報国隊が大規模に動員されていました。

 広島平和祈念資料館は、8月6日に動員されていた地域、学校ごとの死者数などを表にした資料を作成しました。国民学校高等科、中学校、女学校は50校、引率者175人、生徒8222人が動員されていました。そのうち引率者113人、生徒5846人が亡くなっていることが明らかになっています。関さんは 「平和大通りは、子供たちの墓場だった」 と語ります。県庁付近は助かった者はいませんでした。鶴見橋付近はやけどが多かったといいます。

 しかし表を細かく調べると人数が合わなくなります。関さんは朝鮮半島出身の学徒の死ではないかという思いに至ります。
 戦時中の学籍簿が発見されたりしていますが、例えば第三国民学校高等科の名簿には6人の朝鮮出身とわかる名前があります。崇徳中学校は、表では58人が動員されて55人が亡くなっています。学籍簿が残っていますが、その中に朝鮮出身とわかる名前が1人います。
「動員学徒を 『準軍属』 にし、『遺族年金を支給する』 と決まった時、政府は、これを日本人に限ると決めた。これは他の 『恩給』 も同じだが、外国人は支給しないと定め切り捨てられたのである」
 準軍属は靖国に合祀されました。学校は名簿を提出するときに外国人を除外したのです。
「あの炎天下で同じように働き、汗水を垂らし、傷つき無残な死をとげた朝鮮の少年少女たちが消され忘れられたとすると……恐ろしいことではないだろうか」
 具体的には、在日2世の元プロ野球選手の張本勲氏のお姉さんは被爆死しています。しかし在籍していた第一国民学校 (現段原中学校) が1990年に建てた慰霊碑には名前はありません。
 
 関さんは、14年9月29日に、273人が安倍首相による靖国参拝は政教分離を定めた憲法に違反すると主張して起こした裁判の筆頭原告になっています。
 「広島第二県女二年西組 原爆で死んだ学友たち」 も63年に靖国神社に合祀されました。たまたまあの日は学校を休んでいましたが建物疎開作業に動員されていたら犠牲になって合祀されていたかもしれません。いやです。
 関さんは、昨今の状況に対して、裁判を通して警鐘を鳴らしたいと考えています。
「現在の動きは戦前の軍国主義や 『強い日本』 の再現を目指しており、憲法の平和的生存権に違反している。その凝縮が靖国神社だ。私たちは、あの戦争の惨禍から、絶対平和、基本的人権、国民主権の憲法をもった。首相の違憲行為を絶対に許せない」という思いです。

 トークセッション 「ヒロシマ・2016 連続講座」 は、この後もいろいろな企画が組まれています。


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