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新たな民衆の対抗文化の構築に向けて
2016/04/08(Fri)
 4月8日 (金)

 歴史学者の安丸良夫氏が4月4日に亡くなりました。安丸氏は、民衆の自立した生きざま、息吹を掘り起こし、権力から支配されるのではなく独自の社会を作って存在していたことを証明しました。
 日本の歴史学は為政者の権力争い政治力学を評価、研究するものでした。民衆は為政者に従属するというとらえ方で独自に視点をあてる研究テーマにもなりませんでした。
 1970年代になって民権運動の掘り起こしが進みましたが、民権は国権を狙う壮士たちの運動で民衆の運動ではありませんでした。民衆は、壮士たちの演説を遠巻きに眺めている存在でした。
 民衆が生活維持のため支配者に対して行動を起こした一揆は自由民権運動とは別個のものでした。困民党事件を民権運動に取り込もうとする傾向もありましたが、例えば秩父困民党の蜂起は、自由党とは関係が切れていたから成功したのです。その基盤は基本的に異なり、要求内容も違っています。
 逆に困民党を前近代的と評価する傾向もありました。要求項目に 「議会」 を掲げていないと近代的と捉えない傾向は今もあります。
 しかし独自のコミュニティを破壊して新たな支配構造に組み込むことを近代化というのなら、民衆にとって近代化とは自己を喪失するということでしかありません。
 民衆は、歴史学者が固執する歴史学の公式に都合いいように当てはめられて利用されてきました。支配者の思考と同じです。


 安丸氏の歴史学は、そこからは異質で、民衆の独自の世界を探り当てました。
 例えば、江戸末期の農民一揆や明治になってからの困民党蜂起の底流に流れている思想を、支配者への抗議・抵抗という視点だけでなく分析しています。
「負債者がおかれている状況や立場に配慮して、貸借の内容に斟酌を加えることは、伝統的なモラル・エコノミーの立場だと規定してみることができよう。モラル・エコノミーには、このほか、穀物価格が騰貴したばあいの安売り、施米・施金や年貢・租税の建替え・肩代りなどもふくまれるが、要は、民衆生活を脅かすような緊急事態のもとで、民衆の生活 (subsistence) がなりたつように特別に配慮しそのための手段をとることである。
 私はこの概念をE・Pトムスンのよく知られた論文 『18世紀におけるイギリス民衆のモラル・エコノミー』 から借用しているのだが、同論文のなかでトムスンは、18世紀のイギリスにおいてパンの価格が騰貴すると、大衆的実力行使によるパンとその原料小麦の値下げ強制がなされたことについて、多くの史料をあげて論じている。
 トムスンによれば、モラル・エコノミーは18世紀イギリスの民衆運動を支える正統的理念であり、保護関係の範型と結びついたものである。『保護関係の範型は、理念上の存在であるが、しかしまた断片的には現実に存在してもいる。収穫が十分で穀物価格が適切なばあいには、権力はそれを忘れてしまっている。しかし穀物が騰貴し貧民が騒然とした動きをみせるようになると、それは復活する、少くとも象徴的な影響を与えるようになる』 とトムスンはいう。
 保護関係の範型は、通常はあいまいで社会生活の水面にはっきりとした姿を現わさないが、民衆の伝統としては維持されており、緊急のさいに大衆的実力行使を背景として社会生活の水面上に姿を現わし、少なくともある期間は地域社会を支配する正統性原理となって現実の諸関係を規制するのである。そして、この実力行使において、民衆は規律ある行動をとり、殺傷や掠奪に走ることはほとんどなかったし、地域の権力はこうした実力行使を押えるよりもそれを容認し、大衆行動を背景としてパンと穀物価格の値下げを命じたり、決定価格を定めたりしたという。この論文を読んでいると、18世紀イギリスの主要な民衆運動であった食糧暴動と、わが国の都市暴動や世直し一揆との類似性に驚かされる。」 (『困民党の意識過程』)
 
 さらに言います。
「ところで、地域にモデル・エコノミーを回収するような大衆的実力行使に立ちあがったとき、民衆は活力にみちて意気揚々としており、こうした集団的な高揚のなかでは陽気で積極的な気分が全体をひっぱってゆくばあいが多い。」 (『困民党の意識過程』)
 これこそ民衆のアイデンティティーの主張です。

 昨今において、格差の拡大が進み、貧困が深刻な状況になっていながら 「大衆的実力行使」 がなかなか起きません。民衆が対抗勢力として存在しえていません。民衆は支配者に従属する存在と位置づけた歴史学者の思考と同じ状況で、そこからなかなか抜け出せないでいます。
 確かに日本の近代は従属を強いられてきた 「歴史」 です。しかし民衆の堰は一旦決壊したら激流になるということももう1つの歴史です。


 明治政府は、上から民衆を支配・統合しようとしました。廃仏毀釈は国家神道で統合しようとしたと説明されます。しかし、民衆の 「心」 ・信仰、生活スタイルを強制的に変更させようとしたという視点は欠落しています。
 そのようななかでの丸山氏の捉え方です。
「(新潟県社祠方の) 小池は、こうした祭神を1つ1つ調べ、仏像を取りのぞき、道祖神は八衢彦 (やちまたひこ) ・八衢姫神に改めるとか、地主神は大名持・小彦名神に改めるとか、それぞれの神の由来や地名の類推などから神名を定め、神体を指定した。
 こうした神社改めは、明治23年ごろから各地でおこなわれるようになったらしい。氏神と村との結びつきは、村の成立そのものに由来する長い伝統を持っていたが、それまで、氏神は一村に一社とはかぎらなかったし、氏神の神体が仏像である場合や、氏神というより氏寺といった方がふさわしいものも少なくなかった。さらに村の氏神 (産土社) のほかに、各家や同族団に氏の神があるばあいもあり、それ以外にも多くの小祠が祀られていた。
 こうした多様な神仏関係のなかから、国家によって神社祭祀が体系化されたとき、村の氏神 (産土社) だけが選びだされ、しかも、氏寺や仏像を拝して、一村一社の神道式の氏神の成立が目的とされたのである。もちろん、明治3-5年ごろの段階で一村一社の氏神制が確立したのではなく、一村二社以上の氏神やさまざまの小祠などが残されるばあいも多く、神社整理が明治末年に地方の大問題になったことも、よく知られている。しかし、神社数がいっきょに減少し、一村一社の氏神へと転換・整理された最大の画期は、この時期であった。
 ……
 この事例では、村氏仏として薬師如来が祀られていたのであり、それを時勢に便乗した修験などが廃毀して、村人に 『一村焼亡』 というようなふかい不安と恐怖をあたえたのである。こうした不安や恐怖も、年月の経過のあとでは、村の話柄の1つとして伝えられたにすぎないとしても、当時の村人の経験のなかでは、自分たちの存在秩序の基底を破られるような思いのものだろう。それは、権力や権威や時勢というものについてのあたらしい経験であり、こうした経験をへることで、近代社会のなかに生きる人々の態度がつちかわれたのである。」 (『神々の明治維新 -神仏分離と廃仏毀釈-』 岩波新書)

「ところで、祖霊崇拝と氏神祭祀に民衆の宗教意識を集約させ、それを国家的な神々の祭祀に連結しようとする宗教政策からすれば、氏神の合併と小祠の廃併合だけが重要なのではなかった。こうした国家の祭祀体系に対立するのは、民俗侵攻と民俗信仰的な行事・習慣の全体であるから、それらの全体が迷信・猥雑・浪費などと見なされ、廃絶の対象とされていった。そして、この政策原理は、露骨な廃仏政策が撤回されたあとでもいっかんしており、むしろ強化された」 (『神々の明治維新 -神仏分離と廃仏毀釈-』)

 当り前のことですが、明治政府の民衆の支配・統合は簡単に進みませんでした。強引に進める手段として信仰に対する物理的弾圧と、「教育勅語」 「軍人勅語」 などによる 「国体」 の強制が行われました。教育が支配・統合のためのイデオロギー感化・強制の手段になり、民衆のコミュニティは破壊されて行きました。


 安丸氏の歴史学では民衆の中に定着していた 「通俗道徳」 が有名です。
 通俗道徳とは、近代化過程で荒廃した農村を立て直すために民衆の内部から湧きあがった自己規律・自己変革の思想です。生活維持・向上の基盤となる社会的規範として勤勉・倹約・貯蓄・禁欲などを徳目が唱われ、民衆の生活の底流に浸透していきました。
 しかし通俗道徳をいくら実践しても生活の困窮から脱出できないと悟った時、民衆は 「一揆、暴動」 といった集団的な実力行使に移らざるをえませんでした。

 明治17年の秩父事件以降、民衆の解放幻想や仁政要求が否定されると、通俗道徳は正統的な規範として社会に浸透していきます。そして支配者のイデオロギーに統合されていきます。
「このことは、男性労働者全般に広く当てはまるだろう。彼らの疎外感と上昇欲は、敵の見えぬまま、団結の核を持たぬままに個々人の身のうちに沈殿し、日常的には男性労働者同士で競い合うことによって瞬間的かつ散髪的に発散されていたのである。」 (『都市と民衆の暴動史』)


 そして通俗道徳は、労働運動において友愛会結成における 「修養主義」 にも登場します。
 1912年 (大正元年) 8月に友愛会が結成されます。この時に決定された 「友愛会綱領」 です。
一、われわれは互いに親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す
一、われわれは公共の理想にしたがい、見識の開発、特性の涵養、技術の進歩をはからんことを期す
一、われわれは共同の力により、着実なる方法をもって、われわれの地位の改善をはからんことを期す

「友愛会の修養主義とは、一般社会から自己を隔離した対抗文化に閉じこもり 『社会より侮蔑された木葉の如く想はれ』 ていたこれまでの状況から離脱し、一般社会の規範――安丸良夫のいう通俗道徳――に則って生きることで、工場労働者の地位を改善する試みであったといえる。」 (『都市と民衆の暴動史』)
 「修養主義」 とは、一般社会から自己を隔離した対抗文化に閉じこもり 「社会より侮蔑された木葉の如く想はれ」 ていたこれまでの状況から離脱し、一般社会の規範に則って生きることで、工場労働者の地位を改善する試みでした。
 そして自らの位置づけです。
「工場労働者の 『階級的な自立』 なるものが、自らの生活実践・価値体系を下層社会のそれと差異化・卓越化しようとする志向によって成り立っていたことである。『階級』 なるものが上層との関係性だけで意識化されたのではなく、下層との差異化との差異化ともなっていたことは、これ以後の労働運動のあり方にも共通の要素であるといえる。」
 労働運動が下層社会、現在の非正規労働者切り捨ての思想はこの頃から登場します。

 しかしこのような運動は多数の労働者の意識に沿うものではありませんでした。労働運動の高揚の中で友愛会は19年に大日本労働総同盟友愛会と改称します。そして21年、日本労働総同盟と発展していきます。
 その中で労使ともに労働運動の変革が模索されます。
「しかしながら、そうした暴力的・急進的な争議で1920年代の労働運動のすべてが埋め尽くされていたわけではなかった。同じ時期、特に大経営を中心に、暴力的なあ労働争議を未然に防ぐ新たな労働者統合のシステムが現れるからである。安田浩は1920年代後半に現れたこの労働統合について、①修養団型、②福利厚生を行う共済団体、③工場委員会体制、④協調主義的労働組合と懇談型、⑤争議抑制型組合の5点に整理している。すなわち、工場委員会、共済団体、さらには協調主義的な労働組合など、労働者が何らかの団体をつくること自体を一定程度認めたうえで、それを経営者寄りの団体 (=労資一体型) とすることで、労資の決定的な対立を防ごうとするシステムが企業内に整えられていったのである。1920年代において労働組合数・組織人員は飛躍的に増加したが、その多くが労資一体の協調主義に基づくものであった。」 (『都市と民衆の暴動史』)

 ここに、労使協調、企業内組合の労働運動の源泉があります。そして戦時中の産業報国会を経て、戦後にはその産業報国会を母体にして、または組織形態を維持したままで新しい労働組合が結成されてきたという経緯があります。
 そして、労働者の中に定着させられた通俗道徳は、非正規労働者の切り捨て、長時間労働を抵抗なく受け入れる価値観として維持されています。


 安丸氏は通俗道徳を民衆の支配者に対抗する文化として評価しました。しかし現在は、残念ながら対抗する文化ではなく、明治以降の支配者のイデオロギーの中枢になっています。
 経済成長を口実にした人間社会の否定、生きにくい社会です。生きやすさを求めてそこから脱出し、民衆の側にもう一度通俗道徳を取り戻して対抗文化を構築していく必要があります。

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