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大量合理化の後にきたのは派遣労働者
2016/04/01(Fri)
 4月1日 (金)

 ある研究会で、自動車産業で49年11カ月間働き、この2月に退職した方の体験報告を聞きました。
 60歳の定年退職を祝う会は11年3月12日に予定されてましたが前日に発生した東日本大震災で中止になってしまいました。今回は2回目の退職です。
 49年間勤務ということは、自動車産業の動向や労働運動の生き字引です。
 結局は細かく聞くことができたのは80年代までです。その後についてはあらためてもう一度うかがうことになりましたので紹介します。


 「自動車産業における労働者の闘い」 のテーマをもらっています。
 67年3月にいすず自動車に入社しました。
 1975年に組合大会の職場の代議員選挙に立候補して初めて公然化します。
 自動車産業のなかで一旦ものを言って公然化したらその後は潜ることはできません。それ以降は闘いの歴史です。当時、自動車産業では結構闘いがありました。日産ディーゼル、三菱、トヨタ、日野自動車などです。

 まず60年代の自動車産業の動向です。
 62年3月、日産自動車追浜工場が操業開始されます。トヨタは労働組合と労使共同宣言を調印します。65年1月には全国自動車産業労働組合連合発足。10月には日本自動車連盟 (JAE) が発足します。

 自動車は直接機械組み立て加工をする直接生産職場とそれをサポーツする間接職場があります。そのほか事務、技術部があります。
 私は技術部工具課に配属されていました。どういう職場かということです。昔は機械を組み立てる労働者が自分で刃物を研いでいました。それが、私が入社する2年ぐらい前ですが、機械課から工具関係の管理や再研摩をなくし、刃物を研く作業を分離して別の職場にした 「技術部工具課」 が新設されて工具を一括管理します。分業の走りで大合理化と言われました。このようにして 「生産性を向上させよう」 という時代が幕あけします。モータリゼーション時代の突入です。

 入社の頃は、油さしで工場を追っかけっこをしたりとのどかな時代でした。誰かが投げたチョークが班長に当たった時は大変でした。当時の班長・区長の中には戦時中に憲兵だった人もいました。今から思えば牧歌的でした。

 69年に佐藤首相が訪米します。その阻止闘争でいすゞの労働者が逮捕され、解雇されました。解雇撤回のビラを駅前でなにげなく受け取り、組合活動をしている信頼できる人に 「こんなのが配られていました」 と渡しました。その方が組合の活動家で組合との関わりの初めです。

 71年、いすゞ自動車はアメリカのGMと業務提携します。乗用車は止めていたのですが、トラック企業があらためて乗用車を生産し 「総合自動車メーカー」 と浮足立ち、1999年の川崎工場閉鎖まで続けます。しかし赤字続きでした。

 72年9月、各自動車会社の労働組合が下請けも含めた連合体を発足させます。「いすゞ労連」 「トヨタ労連」 などです。その後に10月には全自動車産業労働組合連合会 (自動車総連) が発足します。各企業が組合の連合体を作らせて、組合が企業の下で労務課機能を発揮する御用組合が生まれます。自動車総連が仕切っていきます。組合幹部はアメリカに行って勉強させられて帰ってきます。その結果は、下部の労働者は組合に興味を示さなくなりました。幹部は浮き上がっています。自動車産業、自動車総連に抵抗する組合は潰されます。

 自動車生産の増強が図られます。トランスファーマシン (一連の加工工程を一つのラインに組み、運搬・工作ともに 自動的に行う工作機械など機械加工の自動化) が進みます。その工程に1人か2人いればいいだけです。そうしながら大量生産・大量消費・大量破棄が進みます。これをもって高度経済成長と浮かれた時代が到来します。
 
 73年、74年は公害・自動車などの排ガスによる大気汚染問題が発生します。定時制高校に通っていましたが、その頃 『公害原論』 の読み合わせもしました。授業が終わったら水俣病の泊まり込みをしているテントに行き、テントの番をして、朝起きて会社に何事もなかったように出勤します。
 多少の賃金上昇もあり、中流意識やマイホーム・マイカーを財産と考える社会に労働者もずっぽりはまり、長時間労働に応じました。

 この頃、いすゞの労働者で 「生産性向上を考える会」 を作り、月1回ぐらいのテンポで工場新聞 「汚車歌 (おしゃか)」 を発行しました。職場の安全問題や職制の横暴、組合執行部批判、安全問題などを記事にして、非公然活動時代ですので、86年に解雇されるまで地域の仲間に配布してもらいました。
 同じ頃、日本鋼管では 「ドタグツ」、石川島播磨では 「労魂」 という工場新聞がまかれていました。

 75年に私が組合大会に向けた60人に1人の割合の代議員選挙に対立候補として立候補しました。会社は妨害します。上司の嫌がらせに抗議してビラをまき公然化します。ビラまきが会社の許可を得ていないと始末書提出の 「けん責処分」 をうけます。
 いすゞ労組川崎支部に、組合選挙活動での会社処分は不当だと相談をしますが 「自己の責任で対処せよ」 と回答されました。
内田雅敏弁護士に依頼して不当労働行為救済申立を東京都労働委員会に行いました。2年で勝利命令がでました。勝利命令の中に休暇取得制限の事実がありました。命令書をもって川崎南労基署に申告し、是正勧告をさせます。この闘いのなかで3人が公然化します。

 その後、会社はいちいち文句を言ってきます。しかし私は仕事では絶対に文句を言わせませんでした。そういう時期でした。
 労働組合の反対派で活動している時は精神衛生上よくないです。相手も言いたい放題やってきます。組合を独立してからはすっきりしました。大喧嘩できます。


 入社当時は7時間15分勤務でした。8時半始業で4時半終了です。夏は終わったから海水浴にも行けました。会社はあまり残業をさせない時期がありました。ベトナム戦争のころです。横須賀に行くと米兵の死体を洗うというアルバイトもありました。結構みんな行っていました。
 週休2日制が確立します。職場の余裕時間を排除して労働時間は1日8時間で土・日を休日とします。「ニセ時短」 と言われました。正直生産性は上がります。
 余裕時間を排除するということについてです。それまでは職場の外にタイムカードがあります。そこに4時半前から並んで時間になると押して帰りました。それを職場内に移し、最後にはなくしました。「職場面着制」 です。8時15分に朝礼を開始します。その時には仕事ができる体制で職場にいなければなりません。タイムカードは機械だが 「人間的労務管理」 だと言います。
 この頃、他の会社では着替えや風呂も全部時間外に持っていかれました。昔からの慣行だと主張する入浴闘争が会社との攻防になります。その後に国労でも起きます。
 いわゆる無駄な時間は全部排除しようとします。「緻密な労働と緻密な労務管理」 の時代に突入します。

 このような時期に賃金体系も年功序列賃金体系から職務職能給体系に変更されます。成績査定制度の導入と労働者同士の競争の強要です。仲間同士で喧嘩が始まったことがありましたが、原因は査定の差です。イエスマンで従順で上司に 「覚えめでたき人」 でなければ給料は上がりません。給料に反映するシステムだからみんな従います。
 QCサークルが作られサービス残業で 「経費節減効率アップの事実を報告しろ」 もここに集約されます。「改善提案出せ! やらなきゃあんたの給料はあがりません」 文句が言えない状況でした。それに参加していった左翼の人たちもいます。その人たちは実際仕事が出来ます。彼らは 「我々は仕事ができる」 と評価させる闘い方です。それで人気を得て気分良くなった人もいます。しかしはめられただけだと思います。後から間違いだったと言っています。
 賃金が競争による支配の道具にされました。
 労働者の横の繋がりはなくなり、上司への告げ口で出世する者もあらわれました。給料表を見せ合うことがなくなりました。

 機械の自動化・単純作業化が進めば進むほど労働者の発言力は落ち、抵抗できる要素がありません。機械化はそういう要素を含んでいます。資本は文句言わせないで数を稼ぎたいから機械化します。労働者にとってはいいものではありません。その中で自動車の生産は増えていきます。
 間接部門では、その人でないといいものができません。まだまだ個人の技能が左右します。労働者の発言力は格段に違います。
 ちなみに退職前の藤沢工場での私の職場は、間接部門であり汎用機 (一台で複数の作業に対応できる機械) が多くあります。若い時から腕を磨いてきた職人が、刃物も自分で準備し、物を作り工場の生産トラブルに対処しています。「あの人がいないと加工が進まない」 ということもあります。 「緊急の部品加工」 は上司が部下のご機嫌を伺いながらお願いします。労働者の発言力は強いです。
 2000年からは高度なNC (数値制御) 加工機が導入されて大量加工の部分もあります。しかし品物は高度な品質を求められる部品です。ハードで鍛えられてきた腕利きが、ソフトを使いこなせば本当にいいものが仕上がります。出来栄えが競われます。ライラッド運動が偲ばれます。


 いすゞとトヨタの違いです。
 あちこちを歩いてきた期間工が 「いすゞの提案なんて生ぬるいぞ、トヨタの提案なんて何秒短縮したぞ!」 と面白おかしくいすゞをちゃかしたことがありました。本人は、ここは楽でいいよと言っていました。
 トヨタでは組み立てラインに足型が書いてあります。そこをちゃんと踏まないと仕事が始められないようになっています。道具に手を触れなかったらランプで表示されます。トヨタは人間を信頼していません。緻密に働かせてミスを起こさせません。


 73年1月には、ベトナム和平協定は調印され、第4次中東戦争の影響でオイルショックが起きます。10月には第一次石油危機が発生します。74年にはディーゼル車も排ガス規制の対象となります。いすゞはGMとの共同開発乗用車 「ジェミニ」 の発売をします。

 75年8月、アメリカ財務省が輸入車のダンピング調査を開始します。
 76年2月、日本の自動車会社はアジアへの工場進出を始めます。
 79年1月、第二次石油ショック発生。進む円高に輸出企業は悩み続けます。
 80年12月、日本の自動車生産台数が1100万台で世界第一位となり、84年まで台数を伸ばします。1400万台が最高です。半数以上が輸出です。
 80年代、自動車会社がヨーロッパ・アメリカに工場進出します。
 「ジャパンアズナンバーワン」 も海外からの集中豪雨的な輸出を批判されます。
 80年6月にはUAW (全米自動車労組) がITC (アメリカ国際貿易委員会) に、「輸出されることで我々の職場が奪われる」 と輸出車規制を求めて提訴するに至ります。相手国の労働者の仕事を奪っているという認識が日本の労働組合にはありません。
 81年4月にはアメリカへの乗用車輸出年間168万台とする自主規制を開始します (1984年3月まで)。カナダへの同様の自主規制も開始されます。日本はアメリカのコメの市場を少し解放します。
 日本の自動車会社も企業合併や解消を繰り返しながら生きる道を探ります。
 当時労働現場では有給休暇を取らせないなどの実態がありました。

 当時、ヨーロッパの各自動車会社のシェアは大体10数%でした。差はないです。そこに日本社がなぐりこみをかけたと同じです。労働者は職場を失います。とどのつまりがサッチャーが生まれました。ヨーロッパの労働者は、5時以降は家に帰るということで輸出を目的にしていませんでした。そこに日本が儲けのためにはバンバン売っちゃえと輸出していきました。ヨーロッパに競争を持ち込むような問題を起こしたのは日本企業です。


 87年頃は 「200万人失業時代」 と言われました。
 その頃私たちはどうするんだということで議論し、10月に公然化している2人を含めて全造船のいすゞ分会を作ろうということになって結成し、同日にいすゞ自動車に団交を申し入れました。しかし11月12日に 「ユニオンショップ解雇」 になります。
 いすゞ分会は5年間の闘いで、1992年4月に高裁判決勝利で9月1日に復帰します。

 86年川崎工場粗型材 (鋳造・鍜造) 職場で働く下請労働者の解雇問題が発生します。「全造船関東地協・ヤサカ期間工分会」 を結成します。そのなかで安全衛生の問題を取り上げます。
 労働者は昼休みに粉じんが舞う中で弁当を食べています。それを見て安全問題で闘いを開始したら会社は工場の外に休憩所を作りました。構内下請け労働者の闘いで会社の社員もきれいな休憩所を建てさせることになりました。
 いすゞ自動車は1995年に粗型材部門を岩手県に移転しますが高度な技術なので 「ヤサカ研工」 はいらないということで大闘争が展開されます。いすゞ分会の解雇問題も含めた闘いで、いすゞの機械課の工場の一角で仕事を請け負わせることで仕事を確保しました。


 98年いすゞが5千人の希望退職を募集します。9時に開始しましたが10時にはオーバーで打ち切りです。
 この時期、大手の会社で大量の希望退職募集が行われました。募集開始から数時間も立たないうちに人員達成という事態がどこでもありました。
 多くの不満分子が工場から排除されました。残ったのは、厳しいことをいわれても頑張りますという者たちです。労働運動はおきません。

 99年、石原都知事がディーゼルの排ガスを問題にしました。WHOは発がん性があると言っていました。
 その頃、分会も排ガスをするべきだと団体交渉で要求し、議論をしていました。個の企業でできないなら、自動車会社が押しなべて共同してでもやるべきだと主張していました。
 問題になると会社は、分会にいすゞはディーゼル対策車をすぐ出そうと思いますと言ってきました。準備していたんです。それでV字型回復ができます。
 しかし労働者を辞めさせた後にいきなり仕事が増えました。
 その頃派遣法が改正されます。増えた仕事に対応させられたのが派遣社員です。
 リーマンショックまでそれできます。

 2001年、川崎工場閉鎖が発表されます。大闘争が展開されます。労働委員会、本社抗議闘争も展開します。川崎工場前では72時間抗議座り込みを貫徹します。1日中土砂降りの雨ですがデモも行いました。全石油ゼネラル石油労組のデモ以来と言われました。韓国の労働組合代表が訪日していて、座り込み現場にも交流に来てくれました。当時は、全造船関東地協は 「1人でも誰でも入れるユニオン」 のスロ-ガンで外国人労働者からの相談も多くありました。

 いすゞは賃金が低いと言って来たのですが、実際に派遣労働者から聞いてみるといわば最低賃金です。労働相談を受けても最低賃金を切っているのではないかというようなことがたくさんありました。世の中ががらっと変わっていました。
 そう言うと女性労働者から怒られました。女性の労働者はまさにそうだったのだ、そこに男が入ってきたんだと言われました。しかし派遣会社はどんどん人を投入していきます。
 08年12月の非正規労働者の1400人全員契約解除といういすゞ自動車の不当なやり方に、関東地協・いすゞ分会・湘南ユニオン連名で組合加入を呼びかけました。団体交渉も要求し、いすゞ本社を攻めました。新聞やテレビも闘いを報道し33人が加入しました。
 いすずと交渉をして2か月もしないうちに、「まだどうにかならないのか。お金がない!」 との声が後ろから上がりました。それまで最低賃金ということに関心が薄かった自分に気付かされたのは非正規労働者の大量解雇の時でした。
 「日比谷派遣村」 開設された時です。

 後半は急ぎましたが、残りは次回にします。


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