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江戸時代の共生・共存による救助から見えてくる現在
2016/04/27(Wed)
 4月27日 (水)

 4月23日の毎日新聞の 「余録」 です。災害時における 「民」 の支援活動を紹介しています。
「江戸の奇談集 『耳 (みみ) 袋 (ぶくろ)』 の筆者、根岸鎮衛 (ねぎししずもり) は天明の浅間山噴火で壊滅した村の復旧にあたった幕臣だった。かつての小欄でもふれたが、この時に私財を投じて被災者の仮小屋を作り、食料も与えた近郷の篤志家 (とくしか) たちを 『耳袋』 で称賛している▲ 『我らの村はこのたびの愁 (うれ) いをまぬがれぬ。しかし右難儀 (なんぎ) の内へ加わり候 (そうろう) と思わば、我が身上を捨てて難儀の者を救い然 (しか) るべし』 とその一人はいう。どんな金持ちかと思って呼び出すと、まことに実直そうな老人であった▲時代はやや下り安政の江戸地震での被災小屋には一般の町民からも食料や日用品が寄せられたが、なかには遊女からの鍋の寄付や被災者への髪結いの施しもあった。身分や因習が人と人を隔てていた昔も、災害で苦しむ人がいれば自分にできることを考える人がいた▲熊本地震の被災地では熊本県益城 (ましき) 町、南阿蘇村などに続いて熊本市でボランティアセンターが開設され、全国から来る人々のボランティア活動が始まった。物資配給での人手不足が伝えられたこの震災だが、ようやく一般のボランティア受け入れ態勢が整いつつある▲九州新幹線の博多−熊本間が再開するきょうからは、参加者の急増も予想される。ただなお受け入れられぬ自治体もあり、現地のニーズはホームページなどでしっかり見極めていただきたい。食事や宿泊で被災地に負担をかけては善意もありがた迷惑になってしまう▲ちなみに天明の浅間山噴火の復旧には幕府の命で熊本・細川藩が9万両以上を拠出した。どうあれ助け合ってしか生きられない災害列島である。せっかくの善意は周到な心配りとともに生かしたい。」

 安政の江戸地震は、1855年 (安政2年) 10月2日に発生、特に隅田川の東側あたりの被害が大きかったと言われています。
 その少し前ころから明治維新頃までの世相を、佐藤誠朗著 『幕末維新の民衆世界』 (岩波新書) は庶民が書き残したたくさんの日記を紹介、引用しながら描いています。
 「庶民は庶民なりに、情報を交換し、暮らしや生業への影響を察知し、時代認識を深めていったのである。庶民は決して幕末維新期の受動的な脇役などではなかった。そのことを示すのは、庶民自身が書き残した膨大な文書・記録・絵図のたぐいである。何よりも日記が重要だ。庶民日記をたんねんに読み込むなかで、庶民たちの歴史を見る確かな視点と、領主世界とは異なる自立した庶民世界の広がりがみえてくる。」
「庶民は、戦いに血道をあげる武士たちの喧騒に対して同調しなかった。たとえば、『近い中に公方様と天朝様との戦争があるんだってなァ』 などと、朝湯で手拭いを頭にのせて、まるで人ごとのように話し合う江戸っ子がいた。戊申戦争の戦場となった越後では、平賀村 (新潟市) の誓慶寺の僧侶、円雅は 『百姓町人は野業仕事之役にて、死ぬる役に非ず』 と記した。戦というものは、侍が一命を捨てる 『御戦争』 だというのである。人足に駆り出された東新潟村 (見附市) 組頭富次郎や、光間村 (東頸城郡松之山町) 伝蔵らは、合戦の成り行きを冷静見据え、記録にとどめている。民衆は領主たちの動向を的確につかみ、ときには人足の徴発を拒否し、各地で庄屋らを打ち壊したのである」 (『新潟県の百年』 山川出版社から孫引き)

 領主世界とは異なる庶民世界は自立しています。1833年 (天保4年) から39年 (天保10年) の天保の大飢饉ころから情報を取得するために寺子屋通いをするものが多くなったといいます。訴状や願書も自分たちで書きます。市などではさまざまな出版物も出回るようになりました。
 立札などに書かれた幕府や奉行の御触書や告示などから、どんなことが起きているのかを連想することもできていました。
 ペリーの黒船は、幕府はてんやわんやですが、庶民は江戸辺りからの珍しいもの見たさにわざわざ出かけます。
 近江の商人は 「商用会話」 を手本に英語を習い始めます。横浜商館との取引には欠かせないと思ったと言います。

 世相は、アメリカからペリーが浦賀に来て開国を迫ったことを契機として大きく変わります。他の国とも貿易が始まりますが、生糸や穀物などを取り扱う商人は売り惜しみを行って商機を伺います。その結果、物価は乱高下し、庶民の生活が脅かされます。
 生活に困窮する庶民は、最初は集団で米問屋などに価格を下げることや貯蔵している穀物を提供するよう要望しますが、聞き入れられないと徐々にエスカレートしていき打ちこわしにおよびます。また商人の横暴を放置する奉行所に対して、打ちこわしの前には 「捨訴」 などで警告も行い、脅しによる効果を期待しました。
 打ちこわしなどで手に入れた穀物は平等に分配されます。
 江戸時代には 「義民」 も各地に登場します。困窮した庶民を救済した義民は今でもその地方の英雄として祀られています。

 百姓一揆にはちゃんとしたルールがありました。
「盗みや掠奪の禁止、放火の禁止 (火の用心)、殺傷の禁止、この3つが近代における百姓一揆の規律・作法であると言われる。打ちこわしをともなう一揆においては、家財道具や諸帳面を持ち出して庭先や道路で焼き捨てる例は数多く見られるが、居宅・土蔵などをまるごと焼き討ち (放火) する行動をとるようになったのは、1866 (慶応2) 年以後のことのようである。……
 翌1871 (明治4) 年2月の 『福島県騒動』 にあっては、竹槍・鉄砲などで対抗して、牢獄に火を放ち県官に手向い、『菊御紋』 を焼き捨てた。」
 明治維新は、幕府と朝廷の政権争いだけがではありません。民衆の 「世直し」 運動が時代の地殻変動を起こしていました。


 さて、江戸庶民の共生・共存の思想はどのようなものだったでしょうか。
 1862年 (文久3年) 11月、江戸・駿河町の越後屋本店の台所から火が出て広まり、かなりの地域を焼き尽くします。
 直後、本両替町の富裕の両替商は町内の小間物問屋から類焼ならびに近火見舞いとして、品川町、品川裏川岸、駿河町、北鞘町、本両替町の5か町に施したいと相談されます。他の両替商も承知するなら差し出すと答えますが出金することでまとまります。
 越後屋本店では、類焼した表店は10両ずつ、裏店は5両ずつ、駿河町の類焼しなかった家主には500疋 (1疋は10文) ずつ見舞いを出します。
 地域の富裕者は生活困難者が出たときには支援するのが一つの義務になっていました。

 1864年 (元治元年) 7月19日、御所辺で長州兵と幕軍が交戦し火の手が上がり燃え広がります。20日、21日も火の手が上がり大火となります。
 山城国の頭百姓の日記です。
「市中の人びとは九条・竹田に次々と避難した。東塩小路村も、青物畑のなかに所嫌わず日陰を設けて休み、焼跡に立ち戻ることもできずに野宿する者であふれた。大火のため米・醤油・塩ほか日用品が手に入らず、米は100文に2合5勺でも売り手はなく、弱り切っていたが、ようやく御救米や粥を下さることになった。また長州家が嵯峨天竜寺に蓄えておいた兵糧米500俵を、薩州家で分捕ったそうだが、その米は市中類焼の者へ下さるというので、東洞院錦小路の薩州様御屋敷へもらいに行ったという」
 為政者も生活が困難に陥った民衆に対して救援の手を差し伸べています。


 1866年 (慶応2年)、全国的に品不足が続き、世相は騒がしくなり各地で米問屋が襲われます。
 江戸市中です。
「町会所の窮民救銭は、6月4日より27日までで、37万1381人に銭42万2貫500文にのぼったが、米価が高く焼け石に水だった。7月2日、本両替町の名主大坪・伊達・下村が寄り合い、“御進発中にこのうえ打ちこわしがあっては恐れ入るので、出来秋までの7月と8月に限り、銭100文につきおよそ2合の小売米相場に1合加えて、3合売りとし、それに要する6万両を七分積金 (窮民救済のための積立金) より出金してほしい” と、町会所に願うことにした。」
 打ちこわしを止めるための対応協議が行われています。江戸では町会所で 「七分積金」 という窮民救済のための積立金が行われていました。火災・洪水・飢饉などの罹災者のための組織的備えです。
「9月8日より、市価の半値の銭100文に白米2合5勺で、町会所の囲米を安売りするとの触れが回った。町名主らの調べで、『その日稼ぎのうち極貧で食いつなげない者』 に限り、廉売を受けられるという。……その数は、江戸中で8万4127人に上ったが、日本橋辺は1人もなく、神田明神町・下谷辺・小石川辺、深川辺で5割を占めた。」

 有志や個人の活動もあります。
「16日、隣の銀座では近ごろ吹き方が減り、手当銭がもらえないので、かなりの人数が渡場辺に集まった。午後8時ごろ、にわかに騒がしくなった。貧窮人たちは、加賀屋の薪、豆腐屋の大釜を持ち出し、法源寺で粥を炊いた。触れを回すと、町中の女子供がはだしで駆けつけ食べた。翌17日、麦店は残らず商いを休んだ。おいおい人数が増え、米・味噌・醤油・沢庵・茶漬・薩摩芋などを所々に無心した。……町内より100両、上の銀座より50両など400両を拵 (こしら) え、これから8日間、銭100文に2合5勺売りするよう、米屋と掛け合った。御救小屋もできるとのことで、ようやく鎮まり法源寺を引き取った。」
 東叡山黒門前の下谷町1・2丁目、上野役人屋敷など8町の困窮人も炊き出しを行っています。
 「御救小屋 (おすくいごや)」 は火災・洪水・飢饉などの罹災者救助のために建てられる小屋です。この時は、「“御救小屋を建て朝夕の賄は町会所より下される。小屋入りを望む者は、職業に応じて小屋地へ手伝いに出よ” と触れ出された」 とあります。
 2008年年末の日比谷派遣村のような思想が定着していました。

 江戸時代には、罹災者のために 「官」 では町会所で 「七分積金」 が行われていました。「民」 としても炊き出しや 「御救小屋」 設置が当たり前のように取り組まれます。それらが状況に応じで運用されます。商人たちは物資、金品の提供の “要請” に応じます。庶民の生活の根底に共生・共存の思想がありました。
 それが、近代化のなかで壊されていきます。(2016年4月8日の 「活動報告」 参照)


 熊本・大分大震災について、4月20日にNHK放送センターで開かれた震災対策本部会議で、籾井会長は原発報道にあり方に続いて 「食料などは地元自治体に配分の力が伴わないなどの問題があったが、自衛隊が入ってきて届くようになってきているので、そうした状況も含めて物資の供給などをきめ細かく報じてもらいたい」 と指示したと報道されました。
 確かに自衛隊は食料等を提供しました。しかしそれ以上に民間の行動の素早さには目を見張るものがありました。さらに、これまで被災を体験した各地の民・官からの “恩返し” の行動が被災者の心身を支援しています。
 江戸時代の共生・共存の思想がよみがえりつつあるようにも思えてきます。
 
 江戸時代と比べても、現在の政府が進めている対策はまだまだ遅れています。災害が発生してからの対応になっています。根本的捉え返しが必要です。
 熊本・大分大震災については、被災者に寄り添った長期の支援が必要です。

   「活動報告」 2016.4.8
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 被害者、加害者を救済する 「修復的司法」
2016/04/22(Fri)
 4月22日 (金)

 学校でのいじめなどのトラブルや親子関係の対立、犯罪をめぐる被害者と加害者の問題などに第三者として両者の間に入り、関係を修復することをめざしている 「対話の会」 が主催するシンポジウムが開催されました。
 手法は 「修復的司法 (Restorakurive Jastis)」 と呼ばれています。職場のいじめ問題では 「修復的正義」 と呼ばれています。(2013年7月30日の 「活動報告」 参照)

 「対話の会」 は、いじめを集団の病理であるととらえています。集団が1人ひとりの個性を尊重せず、自由闊達な雰囲気を持たないときに生まれます。いじめられている側に責任や原因はありません。むしろいじめている側の心にある閉塞感やストレスこそ、いじめの原因といえます。いじめられている子は、そのはけ口、標的にされているだけです。
 だから、いじめを克服するためには、まず集団そのものの雰囲気を自由闊達なものに変える、つぎにいじめている子の心にある閉塞感やストレスの原因を把握し、これを和らげることが大切です。
 いじめには四層構造論というのがあります。被害者、加害者、観衆 (いじめをはやしたておもしろがって見ている)、傍観者 (見て見ぬふりをする) です。いじめの被害の大きさは 「加害者」 の数とは関係なく、傍観者が多くなるほど被害が大きくなります。
 このことを踏まえ、「修復的司法」 の基本的考え方は、犯罪は地域社会のなかで起きた悪害ととらえ、この悪害に対して被疑者・加害者・地域の人たちが自分たちの力で埋め合わせするという対応をします。例えるなら、通学道路に陥没ができていたら安心して通学できません。利用している人たちで早く穴を埋めようという作業です。
 被害者と加害者の決定的違いは、いじめは人間関係のもつれから起きるもので、一方はいじめられたと感じていても、他方はそうは思っていないことが多くあります。いじめたつもりはないと思っている側にいじめたと決めつけて接しても反発を招くだけで克服にはつながりません。むしろ、相手にいじめられたと感じさせるような行為をした理由やその背景にあるその子の心のストレスや不満を充分聞いてあげて、そのストレスや不満の解決に手を貸してあげることが大切です。


 既存の刑事司法では、国家の定めた法をおかすことを犯罪と捉え、犯罪をおかした人を国家が処罰するのが刑事事件で、犯罪を国家対被告人という関係で対応します。損害賠償は 「民」 と 「民」 との法律に基づく対応です。司法制度による解決策は、刑事罰と損害賠償しかありません。
 裁判では、刑事罰や損害賠償を低くするために加害者に対して弁護士は一方的に謝罪することをすすめます。逆に相手の非をあげつらいます。そして刑事罰では予想よりも低くなる、損害賠償で期待に近くなると 「いい結果」 ということになります。
 しかし、本音を覆い隠しての謝罪は本質的解決にはならず、加害者に新たな心の傷を生じさせます。強制された更生です。自分の中にある心の歯車が絡み合わなくまなったとき、再度同じことが繰り返されます。相手の非をあげつらうことは双方の憎悪を深めます。そこにあるのは 「法律家の経済学」 です。

 
 「修復的司法」 は、どのような事件が対象になるのでしょうか。
 これまでは少年事件が多かったが、実践経験から成人の犯罪事件、いじめ問題、親子や近隣の紛争などさまざまな対立問題を対象にしていきたいといいます。
 実施の時期はどの段階でも構いません。
 少年事件は、狭い地域社会で起きることが多いです。少年院で矯正教育を受けて社会復帰大きな意欲を持っても地域に帰っても、そこに住む被害者や地域の人たちにその思いを知ってもらう機会がなければ、白い目で見られ、やがてそれに絶望して再非行に陥ってしまいます。対話のプログラムを少年の社会復帰のために生かしていきたいといいます。
 第三者との話し合いをへて加害者、被害者が相手方と対面することになります。ただ単に会わせるということではありません。事件の重さや事件発生からの時間的経過、被害者の心情、加害者の反省の度合いなどによっては、対面が二次被害を生むこともあり得ます。一方が対話を強く望んでも、断念することもあります。
 重要なことは、お互いが正直な心情を吐露することにより相手の立場を理解しあうことです。その対話のプロセスと、対話がお互いの心にもたらすものこそが重要です。
 
 手順の第一段階です。
 被害者は、被害にあった時どれだけ怖かったか、事件後もその影響にどれだけ苦しんでいるかなどを話します。加害者は、自分がなぜその行為をおかしてしまったか、今その非行についてどう思っているかなどを話します。
 自分の体験を話すというルールに従って話をすることは、対話が相手の人格を尊重したものになり、かつ相手の立場を理解するものになるため重要な意味をもちます。
 被害者が 「自分の知見を話す」 というルールに則って話すということは 「私はこのようにして被害に遭い、その後もこんなにつらい思いをしている」 という体験談の形で話すことになります。主語は 「私」 です。同じ内容であっても、被害者が加害者への非難という形ではなく、自分の体験という形で語ることによって、加害者は素直にこれを聞き、心で感じながら受け止めることができるようになります。
 加害者も体験を語ります。単なる弁解としてではない事実として、犯罪に至った経緯やその後どのように反省を深めてきたかなどを被害者に知ってもらうことができます。被害者にとっては非行原因や反省の度合いを知ることができます。それが恐怖心の払拭や傷ついた心の恢復につながります。

 第二段階は、一緒になって話し合いをする中で被害者は、加害者に疑問や不満を直接訪ねることができます。
 第三段階は、参加者の創造的な発案によって当事者にもっとも相応しい方法が自由に考え出します。加害者は、上から押し付けられた償いではなく、自ら積極的に提案し選び取った償いをすることに責任感と達成感を感じることができ、立ち直りへの大きな自信につながります。
 第四段階は、話し合って合意に達した場合、進行役はその内容を文書にまとめ、参加者に確認します。参加者が必要としなければ合意自体がなくてもかまいません。
 対話に参加する当事者のニーズと発案で、どのような償いや合意を自由にとりきめることができます。


 具体的にグループに分かれて1時間半ロールプレーを行いました。
 仲のいい高校生4人のなかで次第に1人をいじめていくというテーマです。リーダー、リーダーに追随する者、リーダーの言うことにしぶしぶ従っている者、いじめられた者の役になり切ります。準備されたストーリーはなく、それぞれの主張は演じる者の思いで本音トークをします。お互いの社会的、家庭的条件などは知らないという設定です。

 いじめられた者は登校拒否になり家に閉じこもりっきりの状況で 「対話の会」 に相談します。ほかの3人は1人ずつの 「対話の会」 との話し合いで一緒の話し合いを了承します。
 いじめられた者はいじめはいやだった、でもいつかは止めてくれて元のような仲のいい関係になると思って我慢していた、でも
そうならなかったので少しづつ避けるようになったと心情を話しました。
 リーダーは、いじめていたという自覚はなかった、実際自分は手を出していないと主張します。いやなことをされたと思ったら友だちなんだからそのときちゃんと言ってくれれば止めたと反論します。
 リーダーに追随する者は、リーダーからいじめられた者が避けるように逃げたので捕まえて連れてくるように言われたのでそうしたと主張します。
 リーダーの言うことにしぶしぶ従っている者はいやだったけどリーダーに追随する者と一緒に行動をしたと言います。

 リーダーは、いじめられた者の話をきいても自分はいじめたという自覚はない、だから謝るのはいやだという主張を最後まで貫きました。
 リーダーに追随する者は、いじめたことを認めて謝りますが、リーダーに言われてやったと自己弁明します。この段階でもリーダーに従います。
 リーダーの言うことにしぶしぶ従っている者は、3人でいじめられた者の家にいって両親にも謝ろうなどと提案します。しかし他の2人からは拒否されます。
 いじめられた者は、やはり怖い気持ちが払しょくできないので当分は安心して学校に行けるという気分にはなれないと心情を語ります。
 リーダーがいいました。「元のように仲良くなりたいと思っている。今後、言いたいことがあったら俺ではなくてリーダーに追随する者に何でも言ってくれ。俺はそれをちゃんと受けいれて同じことが起きないように対応するから。」
 
 「加害者も遺族も相手と話したいのである。ただ、その方向性がずれたままである。」 (野田正彰著 『大事故遺族の悲哀の研究 喪の途上にて』 岩波書店) です。
 期待される 「ハッピーエンド」 には至りませんでしたが、そのほうがリアルなんだと実感することができました。役になり切るといってもシンポジウムに参加するにあたってのそれぞれの体験が違っていてこだわりをもっています。それぞれが捉える友だち意識、人間関係の作り方の期待の方向性に大きな違いが生じてしまっていたのでした。 話し合いをすることで、それぞれの言い分を聞いてお互いの溝は浅くなりました。しかしいったん発生してしまったトラブルのわだかまりは簡単には解消するものではありません。本物の本音トークでした。


 リーダーやリいじめられた者のような振る舞いは、いじめにのなかには常に存在します。
「『心が傷つく』 とは、どういうことだろうか。柔らかい人の心は、耐えがたい体験によって三つの問題を抱える、ひとつは言葉どおり、心をある実態としてイメージして、ショックや繰り返される不快な体験によって 『精神的外傷』 を被るのである。だが、心は精神的外傷がふさがれた後、身体のようにちょっとした瘢痕を残して、元どおり機能していくわけにはいかない。必ず精神的外傷をきっかけに、以前とは違った態勢に入っていく。
 まず人は精神的外傷の後、その傷を過剰に包み隠そうとする。あるいは、崩れた精神的バランスを取り戻そうとして、過剰に身構えてしまう。心に加えられた外からの力 (精神的暴力) と丁度同等の力で反発し、不幸な体験を静かに押し戻すことは非常に難しい。右手に重い鞄を持って歩く人の右肩は、左肩より上ることはあっても下ることはない。同じく心は、精神的外傷からあまりにも多くのことを学びすぎ、緊張し、身構えてしまう。自分の心の傷を周囲の人に気付かれないように、他人に同情ないし後ろ指を指されないように、隙を見せないように努め、さらには不幸を越えて、より強靭に生きていこうとする。それは挫折か、再生かを賭けた戦いであるが故に、多くの人は再び立ち直りつつ、精神的外傷を過剰に代償してしまう。克服した困難な体験、悲しい体験は、その人に自信を与えると共に、その人なりの精神的防衛の仕方を固定し、絶対化させることになる。心の強さは常にかたくなさの影が伴い、それは弱さでもある。
 生きていくとは、打ちひしがれるほど強烈ではなくても無数の精神的外傷を受け取り、それを克服する過程でこわばり、時にはそれではいけないと思って、無垢の柔らかさを幻想的に追想しながら、やはり若い心の傷つきやすさを失っていく道程であるともいえる。心の傷に着せかけた心の鎧、これが第二の問題である。
 そして歳月をへて、精神的外傷と精神的防衛がひとつのセットになって心の底に気付くことのない澱になったとき、それはコンプレックス (心的複合体) として、その人の生き方を突き動かしていくことになる。精神的外傷が心の裏側に焼き付けた踊る影、それが第三の問題として残されるのである。」 (『喪の途上にて』)


 いじめられて 『心が傷つく』 ことに対して、被害者、加害者、観衆、傍観者が 「気付く」、「見ぬふり」 をしないことが問題を大きくしない対応策で修復も早期にできます。


  「活動報告」 2016.4.14
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「救援者のみなさん 交代で休もう!」
2016/04/19(Tue)
 4月19日 (火)

 4月14日夜9時時26分、熊本を地震が襲いました。その後に大分も襲いました。
 被災者は余震が連続していて睡眠がとれません。恐怖と不安が連続し、ストレスを増大させて体調を崩します。
 被災者の方がたの早期生活回復をお祈りしますとはいいながら、それ以上の言葉が見つかりません。
 同時に、災害支援のために奮闘している救援者の方がたに陣中見舞いを申し上げます。
 阪神淡路大震災の教訓から、ラジオ局のAM神戸は防災マニュアルに 「家族と近隣の安全を確認してから出社する」 を盛り込みました。被災者でもある救援者は、家族への不安を抱えたままでは業務に集中できません。管理者はその配慮をしてほしいと同時に、救援者は遠慮しないで申し出てほしいと思います。
 阪神淡路大震災を体験した西宮市の小学校教師は、東日本大震災の被災地での講演で 「先生たち 交代で休もう!」 と呼びかけました。交代で休むことを実行してほしいと思います。  

  「がんばれ!」 の声が全国から寄せられています。もちろん善意からです。
 しかし被災者にとってはそれぞれ受け止め方は違います。


 阪神淡路大震災から3か月後くらいたった頃の状況を、長田区の病院の看護師の方が語っています。
「患者もそうだが、病院スタッフのストレスも高まってきた。2、3週後くらいからだろうか。夫や妻が失業した人、家が全半壊した人も少なくない。そんな問題を抱えながらの交代勤務は厳しい。
 新聞や町中の広告に 『がんばれ、神戸っ子』 などというキャンペーンが目立つようになった。呼びかけている人は善意だろうが、1日1日をやっとの思いで生きている身にはやりきれない。
 そんなある日、あちこちの市町村や温泉地が、1、2泊から数週間、被災者を無料招待してくれる、という新聞記事を見つけた。看護師詰所でも 『行きたいわねえ』 『ショックが大きかったようだから、Aさんに行かせてあげたいわ』 などの会話がはずんでいた。
 カナダ、ニュージーランドの地方政府やボランティア団体が、被災者受け入れの低料金ツアーを募集していると聞いたのは、いつごろだったか。……
 それは現実からの逃避かもしれないが、“日常的ではない ” 過酷な状況が日常化したとき、一時的にせよ、そこから抜け出すことで癒されるものは大きいのではないだろうか。」 (酒井道雄編 『神戸発阪神大震災以後』 岩波新書)

   被災者が被災者診おり 看護師長
     泣きたいけれど 今泣けません
       (2011.5.2 『朝日歌壇』)

「病院スタッフ自身の被災も大きな問題だろう。
 直後の不眠不休から、睡眠時間の状況をへて、病棟は二交代制にこぎつけ、3月末ようやく三交代へ復帰した。
 山根総婦長は、『看護師も医師も、被災者という点では一般の人とまったく同じ悩みを抱え、苦しんでいます。職業意識で明るく振るまっていても、いつまで耐え切れるかどうか』 と不安を隠さない。
 3月までに、精神的ショック、通勤困難などで総員の10%に当たる2桁の看護師が退職に追い込まれた。ただでさえ要因の確保がむずかしいなかでの退職が病院全体の運営に与える影響は、はかりしれない。」 ( 『神戸発阪神大震災以後』)


 阪神淡路大震災の時、被災者は、「頑張ってください」 と言葉をかけられると 「ありがとう」 と返しましたが、発言者がいなくなると 「何をどう頑張れっていうんだ」 と愚痴を漏らすのをよく聞かされました。当初、困難の中にいて励まされた時は正直うれしかったといいます。しかししばらくして今後の生活展望を描けない状況に直面するとイラつきと無力感とのギャップからかえって沈んだといいます。
 その一方、ボランティアは、一生懸命働かなくても、来てくれた、側にいてくれると思うだけで安心感を持つことができるという話もたくさん聞きました。


 木村友祐の小説 『イサの氾濫』 (未来社) が刊行されました。
 東日本大震災から1年が過ぎた青森・八戸が舞台です。主人公将司の田舎です。
 東京で、会社に行こうとすると呼吸困難になってしまって出版社を退職した将司は、震災直後も駆けつけなかったのですが、久しぶりに帰省します。

「八戸もそうだけど、東北は、これからどうなるんだべな。農家も漁師も減って。米も野菜も魚もとる人間がいなぐなって、とれだどしても、放射能が心配だから買わないって人も、ででくるべ」
「結局、東北がどうなろうと」
 揚げ出し豆腐を頬張ばりながら、将司が言った。
「そったら困る人、いねんじゃねぇが。ないものは輸入すりゃいい。海外の貧困国さ安ぐつぐらせればいいって思っているやづもいるんだべ。市場開放のいい口実になるってな。『がんばれ』 とが 『応援します』 って、口じゃいいながら」
 将司は、東京にいて不思議だった。震災後は、だれもが急に善良な人になっていた。テレビCMを筆頭にいきなりみんな 『日本人』 意識にめざめて連帯を口にし、これまで東北のことなど見向きもしなかったくせに、貧しさのイメージが余計に同情をそそるのか熱いエールを送りはじめた。ホントかよと言いたかった。でも、それを口にできない空気が満ちていた。善意も連帯もそれ自体は避難すべきことではない。が、だからこそ余計に、うのみにできない妙な違和感を感じるのだった。
「『がんばれ』 って言葉・・・。ありゃあ、くせ者だな」
 角次郎 (郷土史研究家) がつぶやいた。
「一体、だれさ向がって喋ってんだが。なぁんも届いでこねぇのよ。喋りっぱなしでいいもな (もんな)。遠ぐがら 『がんばれ』 って言ゃあ、本人は気が済むがもしんねぇけど、がんばるのは結局おらだぢだべ」
「そう言われれば、たしかに、どっかで苦労を押しつげられでるおんた (ようだ)」
 晴美 (いとこのつれあい) が笑って言うのに角次郎はうなずき、
「『がんばれ』 づのぁ、相手のごども知らねぇのさ (に)、気安ぐ使えばわがねぇ (ダメな) 言葉なんだよ」
 将司は何度もうなずいた。胸がすく思いだった。


「せば、いが、なぁして地震の片づげの手伝いさ来ながったのよ」
 ……
「大変だって言うけどよ」
 ずっと抱えていたうしろめたさを容赦なくついてくる優作 (いとこ) に向かって、将司は思わず言ってしまった。
「ひとりだべ」
「あ?」
「八戸は、結局ひとりしか死んでねがべ。岩手だの宮城だの、どんだけ死んだと思ってっきゃ。それなのさ (に)、そったふうに被害者ヅラすんなよ」
 信じられないものを前にしたように、優作は目を見開いて将司を見ていた。
 ……
「そのひとりってな」 と、角次郎が口を開いた。
「ハァ70過ぎた漁師の、カガ (妻) だったづな。聞いだが?」
 ……
「カガは60代後半が。記事の印象だば、ふたりは長年連れ添った、仲のいい夫婦おんだった (のようだった)。だすけ、おらは思うのよ。カガ、いつも旦那どふたりでいるのがあだりまえだったがら、旦那の帰りば待づつもりで、港さもどってまった (しまった) んだべってな。津波さまれだ。……それが、その 『ひとり』 せ」
 晴美がうなづきながら、目尻を押さえ、鼻をすすた。角次郎は淡々とつづけた。
「数でとらえれば、見えなぐなるもんだ。旦那は、新聞さ、『悔しい』 って喋ってらった。おそらぐ、カガの気持ちが手にとるようにわがってだべ。それでも、『自分だげでなぐ、つらい思いをした人はたくさんいる』 っていうわげよ。その孤独は一体、どったらもんなんだが……。そったら人さ向がって、なんもわがんねぇおらどが、『がんばれ』 なんて果だして言えるもんだべが」
 言葉もなく、震える思いで将司は顔をふせた。非難する調子は一切なかっただけに、余計に、自分が故郷のことをひと事のように感じていたことを突き付けられた気がした。


 震災の大きさは死者の数ではありません。1人ひとりに人生がありました。
 今回の震災で亡くなられた方がた1人ひとりの無念さを想い抱きながら冥福を祈ります。そしてご家族の方の悲しみをお察しいたします。
 「はらからの絶え間なく 
  労働に築きあく 富と幸
  今はすべてついえ去らん」 (「原爆を許すまじ」)
 被災者の方たちの今後の長い苦闘を思ってしまいます。
 ただ、 「がんばらなくてもいい」 から、思いっきり悲しんで、泣いて、叫んで、心のなかを曝け出して語って少しずつでも元気を取り戻してほしいと思います。思いを受け止めてくれる人たちは近くにたくさんいます。残念ながら同じような体験をした人たちが全国に大勢います。


 「がんばる」 とはどういうことなのでしょうか。「がんばる」 の語源は 「我を張る」 のようです。自分が持っている力量に最大限挑戦しようと鼓舞するときに使います。自分たちを対象にする時は 「がんばろう」 です。本来 「がんばれ」 と他者には言いません。
 それがいつの頃からか、学校、軍隊、企業などで上位下達の指示、命令のなかで使用されるようになりました。「がんばれ」 は人ごとで責任転嫁の言い訳ができる言葉であるだけに便利に使用されます。
 本土だけで通用する概念で沖縄にはありません。沖縄には、気を張ってやれという 「ちばりーやー」 がありますがやはり違います。英語には直約できる言葉はありません。

 「がんばろう」 というと1960年の三池闘争のなかでつくられた労働歌 「ガンバロー」 があります。
 組合員がホッパー前に集まっていると、三池製作所の組合員であった作曲者の荒木栄は作りだての歌を大勢のなかで歌って評価をあおぎます。最初の歌詞は 「くろがねの男のこぶしがある 燃え上がる男のこぶしがある」 でした。聞いていた組合員は 「女もがんばっている」 というと次の時には 「燃え上がる女のこぶしがある」 となっていたといます。
 仲間が歌うのを聞いておぼえた組合員は 「なんだろう 月が出た空に・・・ 」 と歌っていたといいます。正確な歌詞は分からなくても一緒に歌いながら団結を固めました。「ガンバロー」 は自分たちの歌で、 「がんばれ」 ではありません。

 労使協調で生産性向上が叫ばれると、使と労双方の幹部から 「がんばれ」 が叫ばれます。労働者はゆとりを失われた職場環境のなかで 無理の限界までの挑戦を強制されました。会社や組合幹部は激励だと言い訳します。しかし労働者にとっては言葉によるムチでしかありません。
 「がんばれ」 の言葉は時には殺人の凶器になりました。


 被災者でもある救援者は極力自分の感情を抑えて任務を遂行しています。
 救援者の方がたは 「がんばりすぎない」 でほしいと思います。がんばりすぎると、100日を過ぎた頃に蓄積した疲労が噴出したり再起不能に陥ります。疲労を少しでも緩和するためにお互いに労わりあって譲り合い、心身にちょっとでもゆとりを作ることを心がけてほしいと思います。
 「交代で休もう!」 は長期戦に責任を持つということです。遠慮はいりません。


   頑張れの 声が重荷に なるときは
     休んでいいよ だれも責めない
      (2011.5.9 『朝日歌壇』)


  「心のケア」  
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たくさんの 「もうひとつのヒロシマ」
2016/04/15(Fri)
 4月15日 (金)

 今年の1月から、トークセッション 「ヒロシマ・2016 連続講座」 が開催されています。これまでに4回開催されていますが、主催する方の努力で貴重な話を伺うことができています。

 1回目は 『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』 (文藝春秋) の著者堀川惠子さんです。
 土饅頭の形の原爆供養塔には、広島平和公園にある原爆で亡くなられたが引き取り手がいない遺骨約7万が納められています。
 原爆投下の翌年、市は散乱する遺骨を市役所と現在の平和公園の原爆投下前にお寺があったところに集めて弔いました。まもなく周辺に平和記念公園兼摂が浮上したので市は公園の中心部に移す計画を立てました。しかし法律で公園内にお墓はだめだと断られます。
 1955年、市民の寄付金で塚が再建されます。
 その塚を原爆当時27歳で、原爆で母親など親族20人以上を奪われた佐伯敏子さんは58年から半世紀近く喪服姿で通い、草取りや清掃を日課として続けました。市から地下室のカギを預かっていた方が佐伯さんに合鍵を渡します。地下室に入ると約2.200人の人名録があるのを発見します。それを書き写し、遺骨の遺族探しが始めました。その姿勢に動かされて市も活動をはじめます。佐伯さんは語り部の活動も続けてきました。
 
 堀川さんは元広島テレビのディレクターで現在はフリーのジャーナリストです。93年に佐伯さんに出会います。その後、再度佐伯さんに会ったときは老人保健施設にいました。
「知った者は歩き続けなければならないのよ。今は伝わらなくても、その人が知りたくなるのを待たないといけんよね。いつか通じあうときがくる」
 堀川さんは12年夏から佐伯さんの意思を受け継いで816人分の名簿から住所が判明している遺骨の遺族を探して全国を回ります。しかし住所が存在しなかったりします。
 19年から、江田島の北部に陸軍秘密基地がおかれ、本土決戦の特高要員として全国の農漁村から集められた特管隊と呼ばれた少年兵が2000人いました。彼らが遺体を焼いたり名簿を作成に動員されたことが分かります。被災者から聞き書きだったりしているときに間違ったりしたものと思われます。少年兵の過半は原爆症の症状で亡くなっていました。
 また遺族を尋ねあてても関係を持ちたくないという遺族もいました。
 名簿には10数人の韓国・朝鮮出身者と思われる 「日本名」 の遺骨があるといます。

 市は、毎年8月6日が近づくと名簿を公表しています。しかし 「それ以上」 は行いません。余計なことをするなというようなことを言われたりもしました。
 佐伯さんが堀川さんに言います。「生きとるもんは、勝手に年を刻んで、死者を過去のものにしてしまう。供養塔の地下に眠る死者はあの日のままなんよ」
 遺骨は 「安らかに眠れて」 いるのでしょうか。


 第2回目は気象学博士の増田義信さんです。1923年生まれですので現在93歳です。
 中央気象台付属気象技術養成所 (現気象大学) を卒業して49年から気象研究所勤務になります。まもなく 「行政整理」 という名の首切りが行われ、さらにレッドパージ攻撃で全気象労働組合は解散せざるを得ませんでした。しかし気象研究所は単独で労働組合を存続させます。組合役員は順番制でした。
 「ストックホルム・アピール」 が出され、原子兵器の無条件使用禁止などを要求する署名活動が開始されます。気象研究所労組も取り組みましたが、執行部は総務課長から呼び出されて署名は燃やされ、署名活動を中止しました。増田さんはこのような不条理を止めさせようと組合活動に本格的に取り組みます。

 1985年の原水禁世界大会に参加し、分科会で、原爆は熱戦、爆風、放射線で多くの人を殺傷するだけでなく、「黒い雨」 を降らせて環境を破壊すると報告しました。
 すると数人後に発言した方が 「先ほど 『黒い雨』 の話をした人がいたが、私たちは 『黒い雨』 の調査結果に迷惑している」という発言をしました。
 「どういう意味ですか」 と尋ねると 「あのような激しい雨が、あんなきれいな卵型で降ると思いますか」 と質問されました。増田さんは自分の不明を詫び、「私の責任で再調査してみましょう」 と約束しました。
 巨大な積乱雲から降る激しい雨は非常に不規則で、きれいな卵型のエリアだけに降ることはありません。黒い雨は原爆の爆発によって生じた火災によって巨大な積乱雲が作られ、その積乱雲から降る強い雨で、火災に伴うススのために色は黒く多量の放射性物資を含んでいました。
 増田さんの再調査は、広島県・市などの報告書や記録集、被爆者の手記集を読んでその中から黒い雨の記事を読みとる方法をとりました。

 卵型のエリアの黒い雨は、宇田道隆博士と当時の広島管区気象台の職員が調査したものです。増田さんはそのオリジナルデータを発見し、手記などのデータと宇田博士のデータを使った新たな暫定的な雨域を日本気象学会で発表しました。マスコミで 「広島の 『黒い雨』 従来より広範囲」 などと取り上げると各地から 「ここでも降った」 という情報が寄せられ、さらに詳しく調べる必要が生まれました。
 聞き取りとアンケート踏査などは島根県境まで及び、最終的に2125個の資料が得られました。それらの資料を各市町村の地区や部落ごとに分類・整理し、それぞれの地区や部落の雨の降り方を、宇田博士の手法を参考に、小雨、中雨、大雨の三段階に分類し、新しい黒い雨の図を完成しました。
 宇田雨域は、少しでも雨の降った小雨域は長径29キロ、短径15キロの卵型の領域で、1時間以上雨が降った大雨域は長径19キロ、短径11キロの同じく卵型の領域でした。
 一方、増田雨域はもっと複雑な形をしています。小雨域は爆心から北北西45キロ、島根県と広島県の検査会付近まで及び、東西方向の最大幅は36キロで、その面積は宇田雨域の約4倍に及びます。
 大きな特徴は、宇田雨域のようなきれいな卵型ではなく、極めて複雑な形をしていて、新しい大雨域は宇田雨域の小雨域に匹敵する広いです。特に特徴があるのは、旧広島市内の雨域で、爆心地付近はほとんど雨が降らず、その周囲を取り囲んで馬蹄形に大雨が降っていることです。

 65年 「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」 (原爆医療法) が制定されます。被爆地域の拡大の問題がでてきますが、76年にやっと宇田雨域が 「みなし被爆地」 になります。
 88年、広島県・市は 「黒い雨に関する専門家会議」 を設立し、91年5月に報告書を発表します。そこでは被爆地域拡大の要求を拒否しました。
 2004年11月、「みなし被爆地」 外にいた人たちが原爆症の認定を求めた裁判で、広島地裁は増田さんの証言を採用し、41人が勝訴しました。
 しかし増田雨域では採用されませんでした。今も広島原爆資料館の黒い雨の展示は宇田雨域だけです。内部被ばくを認めたくないからです。
 15年11月にも、被爆者援護法に基づく国の援護対象地域外にいた64人が、広島地裁に被爆者健康手帳の交付などを求めて訴訟を起こしました。黒い雨をめぐる救済範囲の妥当性を問う初めての訴訟です。

 内部被ばくの問題は福島原発事故でも問題になっています。増田さんは、黒い雨の雨域拡大を認めさせることは内部被ばくの危険性を認めさせることになると福島へも思いを寄せています。
 そして核兵器と原発は双子の悪魔、廃棄以外にないと話をしめくくりました。


 第三回は、『広島第二県女二年西組 原爆で死んだ学友たち』 の著書もある関千枝子さんです。昨年、広島での建物疎開をテーマにして 『ヒロシマの少年少女たち 原爆、靖国、朝鮮半島出身者』 (彩流社) を出版しました。
 広島市では、1944年11月に出された告示により建物疎開が始まります。街を4つに分けようとしました。
 45年8月6日は第6次建物疎開作業の真っ最中で、対象は県庁付近、土橋付近、鶴見橋付近など6か所です。そのうちのこれらの3か所は、現在の平和大通り (100メートル道路) の中にあります。大規模な防火帯を作る計画でしたが軍事用滑走路建設だったともいわれています。地区特設警備隊、地域・職域国民義勇隊、学校報国隊が大規模に動員されていました。

 広島平和祈念資料館は、8月6日に動員されていた地域、学校ごとの死者数などを表にした資料を作成しました。国民学校高等科、中学校、女学校は50校、引率者175人、生徒8222人が動員されていました。そのうち引率者113人、生徒5846人が亡くなっていることが明らかになっています。関さんは 「平和大通りは、子供たちの墓場だった」 と語ります。県庁付近は助かった者はいませんでした。鶴見橋付近はやけどが多かったといいます。

 しかし表を細かく調べると人数が合わなくなります。関さんは朝鮮半島出身の学徒の死ではないかという思いに至ります。
 戦時中の学籍簿が発見されたりしていますが、例えば第三国民学校高等科の名簿には6人の朝鮮出身とわかる名前があります。崇徳中学校は、表では58人が動員されて55人が亡くなっています。学籍簿が残っていますが、その中に朝鮮出身とわかる名前が1人います。
「動員学徒を 『準軍属』 にし、『遺族年金を支給する』 と決まった時、政府は、これを日本人に限ると決めた。これは他の 『恩給』 も同じだが、外国人は支給しないと定め切り捨てられたのである」
 準軍属は靖国に合祀されました。学校は名簿を提出するときに外国人を除外したのです。
「あの炎天下で同じように働き、汗水を垂らし、傷つき無残な死をとげた朝鮮の少年少女たちが消され忘れられたとすると……恐ろしいことではないだろうか」
 具体的には、在日2世の元プロ野球選手の張本勲氏のお姉さんは被爆死しています。しかし在籍していた第一国民学校 (現段原中学校) が1990年に建てた慰霊碑には名前はありません。
 
 関さんは、14年9月29日に、273人が安倍首相による靖国参拝は政教分離を定めた憲法に違反すると主張して起こした裁判の筆頭原告になっています。
 「広島第二県女二年西組 原爆で死んだ学友たち」 も63年に靖国神社に合祀されました。たまたまあの日は学校を休んでいましたが建物疎開作業に動員されていたら犠牲になって合祀されていたかもしれません。いやです。
 関さんは、昨今の状況に対して、裁判を通して警鐘を鳴らしたいと考えています。
「現在の動きは戦前の軍国主義や 『強い日本』 の再現を目指しており、憲法の平和的生存権に違反している。その凝縮が靖国神社だ。私たちは、あの戦争の惨禍から、絶対平和、基本的人権、国民主権の憲法をもった。首相の違憲行為を絶対に許せない」という思いです。

 トークセッション 「ヒロシマ・2016 連続講座」 は、この後もいろいろな企画が組まれています。


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復興 道半ば
2016/04/12(Tue)
 4月12日 (火)

 4月11日で、東日本大震災から5年と1か月を迎えます。復興は道半ばと言えるのかどうかというところです。
 5年 「も」 過ぎたということは、1つの転換点も迎えました。

 3月22日の河北新報は 「<きずな新聞> 仮設の情報源 惜しまれ終刊」 の見出し記事が載りました。
 石巻市で月2回、仮設住宅に無料配布されていた 「仮設きずな新聞」 が終刊となりました。震災から5年が過ぎ、資金や担い手が不足し、継続が難しくなったといいます。
 被災者支援に取り組む団体 「ピースボート災害ボランティアセンター」 が2011年10月に創刊しました。A4判4ページで、住民の活動や地域の催し、健康に関する話題など暮らしに役立つ情報を掲載してきました。約5.500部をボランティアや地域住民が市内133カ所の仮設団地で一軒一軒訪ねて直接手渡してきました。「見守り活動」 が好評でした。
 編集長だった方は、「助成金などの支援が年々減り、資金難と担い手不足が主な要因」 と説明しています。自身も東京の夫とは別居状態が続いていました。「歳月を経て支援者側の生活環境も変わった。仮設住宅の解消まで頑張るかどうか悩んだが、どこかで区切りが必要」 と話しています。

 石巻市は、被災前は人口が約16万人でした。市内の仮設住宅には現在も約4.000世帯、8.000人以上が生活しています。
 県内の災害公営住宅 (復興住宅) 建設は遅れに遅れています。そのため、当初2年間だった仮設住宅の供与期間は、7年に及ぶことは必須です。
 その一方、復興住宅の完成が遅れていることに耐えきれなかった被災者は、すでに自力で住居を確保しています。そのため、完成した復興住宅では空室も出ています。


 各地で盛り土が行われています。かつて馴染んだ光景が震災で瓦礫に覆われましたが、その後、街並みも消されて整地されました。そこに今、土がかぶされていきます。昔の面影は完全に失われました。
 今盛り土工事が行われているということは、新たな街づくりはまだまだ先だということです。その原因には、まず2002年のオリンピック関連工事に人材も資材も奪われ、さらに人件費と資材が高騰しているということがあります。
 そして各地方自治体の職員不足、とくに土木関連の不足がずっと問題になっています。

 3月30日の河北新報は 「職員不足 宮城被災15市町175人」 の見出し記事が載りました。
 29日に開催された 「市町村震災関係職員確保連絡会議」 で、被災した宮城県沿岸15市町で16年4月1日時点で職員175人が不足することが明らかにされました。
 必要人数は昨年比74人減の1.509人で前年より83人減っていますが、技術職中心に職員不足は慢性化しています。国や県、全国の自治体などからの派遣や任期付き職員採用による充足数は22人増の1.281人です。4月2日以降の採用などでさらに53人確保できそうだが、残りはめどが立っていないといいます。
 市町別で不足が最も多いのは気仙沼市の56人で、石巻市53人、名取市15人と続きます。職種別では土木や建築など技術が108人、一般事務67人です。仙台市は被災市町で初めて必要人数がゼロになります。
 対策として、県は市町と合同で任期付き職員採用試験を開催したり、全国の自治体に職員派遣を要請したりするとともに派遣の継続につなげるため、本年度に続き全国の自治体トップを被災地視察に招きます。


 総務省の調査です。
 15年10月1日時点での全国の自治体から被災地の青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県の自治体に派遣された職員数は2.202人です。都道府県が1.187人、政令都市が234人、市町村が781人です。派遣先では、岩手県内へ655人、宮城県内へ1.145人、福島県内へ398人などです。職種別では、一般事務 (用地関係事務を含む) 952人、土木関係が803人、建築関係が613人などです。
 復興のために採用されて在職している任期付職員数は、15年4月1日時点で1.549人でした。うち、県庁で採用され、県内市町村に派遣された任期付職員数は307人です。
 宮城県の合同の任期付き職員採用試験は、昨年秋にも仙台、名古屋、東京、大阪で行われました。しかし任期が3年間で、2年間延長する場合があるという条件は二の足を踏ませます。


 3月9日、共同通信は 「震災後に採用、5人に1人 被災42市町村の正規職員」 の見出し記事を載せました。
 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で被災した岩手、宮城、福島3県にある42市町村の正規職員のうち、震災後に採用された職員は2015年4月時点で22%に上ることが各自治体への取材で分かったといいます。若手中心の補充で、経験豊富な職員が相対的に少なくなり日常業務に支障が出るほか、震災や原発事故対応の貴重なノウハウが十分に引き継がれない恐れが指摘されているといいます。
 震災はこれまで担ったことがない業務を長期に作り出し、それだけでも増員は急務でした。しかし津波の犠牲となった職員もいるのと、体調不良に陥って休職・退職した職員もいます。それを全国からの応援派遣と新規採用による補強で維持してきました。そのようななかでの5年間です。

 人員不足は職員の過労につながります。
 3月4日の神戸新聞は、「被災自治体 精神疾患の休職 1.6倍」 の見出し記事を載せました。
 共同通信の取材では、2月時点で、東日本大震災と福島原発事故で被災した岩手、宮城、福島3県の39市町村で、休職者数は256人、そのうちうつ病などの精神疾患を理由にした職員は151人にのぼっています。震災が起きた10年度の192人と92人と比べると1.6倍です。精神疾患を理由にした休職者は11年度113人、12年度から14年度は130人台ですので増えました
 ただし、共同通信は42の市町村を取材しましたが、数字の発表は津波で資料を流出した岩手県大槌町、宮城県南三陸町と女川町は比較不能なので外したといいます。被害が大きかったところが含まれていません。
 背景としては、本格化する復興事業の負担増や原発事故対応のストレスがあるとみられ、慢性的な人手不足も追い打ちをかけているといいます。

 震災後、自治体職員から派遣職員も含めて4人の自殺者が出ています。

 今年3月9日、大船渡市は、県から派遣されていた30代の男性土木技師が宿舎の仮設住宅で死亡していたが、現場の状況から自殺とみていると発表しました。市と県によると、男性は2013年4月に県が採用し同市に派遣。市内の仮設住宅に1人暮らしで、任期は3月末まででした。7日朝、出勤せず連絡も取れないため訪ねた同僚が発見しました。(3月9日の 「活動報告」 参照) 

 派遣する側の自治体も大変です。
 昨年12月16日の毎日新聞は 「兵庫から被災自治体派遣の職員ら意見交換会 仙台 /宮城」 の見出し記事を載せました。
 兵庫県は、阪神淡路大震災で全国から支援をうけたということで、県内の自治体から東日本大震災の被災地に派遣している職員は12月段階で142人にのぼっています。
 兵庫県は、2013年1月に宝塚市から岩手県大槌町へ派遣されていた男性職員が自殺に至ってしまい、メンタルケア対策が大切だという教訓から、13年度から県や県内の市町から派遣されている応援職員の意見交換会を開催し、派遣職員同士の交流を図り、今後の職務に生かしています。
 12月15日には、仙台市内に約50人が集まりました。職員は班に分かれ、日々の業務で感じる問題点を議論。「専門的な技能を持っていても、違う仕事を任されている」 「地元職員が少なく採用も少ない。派遣職員が全て引き上げた後に地元職員だけで事業を支えていけるのか心配」 など現場で直面する課題を共有したといいます。
 参加者の1人は 「派遣職員が被災自治体の中でどう働くべきか、考えている人が多いと改めて感じた。自分も経験のない業務を担当しているが、勉強しながら復興をしっかりとサポートしたい」 と話していたといいます。


 震災は未曽有の出来事でしたが、それにしても、行政改革が緊急時の対応を遅らせ、復興の遅延に追い打ちをかけて二次被害を出していると言えます。


   「活動報告」 2016.3.9
  「自治体職員の惨事ストレス対策」  
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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