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秩父困民党蜂起から今を捉え返す
2015/11/05(Thu)
 11月5日 (木)

 10月末から、グループで埼玉・秩父を巡ってきました。目的は秩父困民党事件 (秩父困民党蜂起) に参加した人、行き場手になった人、捕えられて獄死した人たちの墓参りです。毎年訪れて23年目になります。
 映画 「草の乱」 が上映された頃は掘り起こしと捉え返しが進みましたが、最近は、秩父困民党と言ってもわからないという答えが返ってきます。
 秩父困民党事件は、明治17年 (1884年) 11月1日、秩父地方の農民4000人 (1万人とも言われている) は困民軍を組織し、「高利貸しのため身代を傾け、生計に苦しむもの多し。依って債主に迫り10カ年据え置き40カ年賦に延長を乞うこと」 など4項目の要求を掲げて決起します。高利貸を焼き討ちをしたり、郡役所を占拠し、さらに信州や児玉・金屋に進軍し、軍隊と対峙しますが敗北します。

 蜂起の背景です。
 秩父地域は江戸時代から大部分の家で養蚕と製糸を営んでいました。元来、土地は耕作に適していませんでしたが、桑は田畑の畔や屋敷回り、墓地、荒地などで栽培されて自家用に生糸が製造されていました。農家の副業として発展したのが秩父絹織物業です。
 安政6年 (1859年)、生糸の輸出が開始されます。そうすると自給用の主穀を生産していた田畑にも桑を植えるようになり、生糸の小商品生産に移ります。米麦は不足分を購入して補うようになります。
 文久3年 (1862年)、大宮郷 (現在の秩父市) に糸繭買仲間が結成され、糸市が立つようになり、その後に周囲の町にも立ちます。
 しかし、開国後の生糸の大量流出により、価格は暴落します。

 明治政府は外国からの干渉・介入を排除するため国力・軍事力を強化する政策をとります。お茶や生糸、銅などを輸出して獲得した外貨で軍艦を購入しました。
 全国各地で養蚕が奨励されましたが1882年、世界的不況の中で生糸の価格が暴落し農民たちは困窮に陥り負債を抱えます。
秩父の一帯もまさにそうでした。しかし高利貸しの取り立ては厳しく、農民たちは陳情などを繰り返しますが、裁判所や役所も高利貸しに加勢します。その中で農民たちは協議を重ね、農民に加勢のオルグをしながら蜂起の日を決定して1884年11月1日、吉田町の椋神社に結集します。
 中心となっていたのは、鍛冶屋などを副業にしていて地域を回って知り尽くしていた者、学校の教師などの知識人、高利貸しなどを営み農民たちの窮乏の状況を身近で知っていた者たちです。
 山間地帯では全戸参加のところもあります。その一方、富農や平地で田畑を所有していた農民は参加していません。地域に差があります。


 秩父困民党事件というと 「ああ、自由民権運動の……」 と返されることがあります。
 しかし困民党と自由民権運動は違います。
 困民党蜂起は、借金の返済ができなくなった負債民たちが、借金の据え置きと延納などを求めたもので負債農民騒擾です。困民党・負債党・借金党などと呼ばれていますが、警察や役人や新聞などがつけた名称です。全国で60件以上も登場しました。
 秩父困民党では、蜂起した家の隣の家の高利貸しが焼き討ちにあっています。以前は農民同士だったが、片方は高利貸にのし上がり、一方は困窮しました。開国とともに地域的に一部経済的に成功した者とそうでない者が発生しました。いうならば資本主義初期の階級闘争です。

 では、秩父の農民たちと自由民権運動との関係はどうだったのでしょうか。
 自由党に加入した者も何名かいます。しかし自由党は明治17年 (1884年) 11月頃は崩壊寸前でした。あてになりません。むしろ、自由党との関係が断たれていたから、蜂起に向けた密議も漏れなかったと思われます。
 しかし後年、盛んに自由民権運動の一環と言われました。そこでは民権と議会主義の議論に取り込みます。しかし困民党は、蜂起で国会開設を実現しようなどという主張はしていません。利用主義です。

 自由党解体後の1885年、大阪事件が起こます。大井憲太郎ら自由党左派と呼ばれる者たちが、朝鮮で金玉均ら日本依存的政党である独立党政権を樹立しようとした事件です。独立党は国内改革で清からの独立をはかろうとしました。
 大井らは、外患によって愛国心をめざめさせようとし、朝鮮の独立運動支援の大義をかかげて、もっぱら自国の政治改革を画策しました。自由党左派と呼ばれ民権派は排外主義です。「自由新聞」 は国権拡張論を主張しました。それが日清戦争、日露戦争につながっていきます。

 日清戦争では24万661人の陸軍将校・兵士と15万3974人の軍夫義勇軍運動が勅令で禁止されたあと軍夫志願運動が展開されました起。軍夫は非戦闘員の民間輸送員に従事しますが、実際には戦闘員にも参加しました。
 その意識は国民一般のナショナリズムです。その他、岩手では明治維新の敗者の挽回のためで、そのため高年齢者も多く含まれていました。秩父でも生き残った蜂起参加者が参加しています。

 蜂起の中心・吉田町の中心に貴布祢神社があります。
 蜂起翌年の5月11日に芝居が催されました。蜂起での逃亡者の無事祈願だったと言われています。8月24日は旧暦お盆の15日です。亡くなった者たちの新盆です。この時も死者への供養のための鎮魂の芝居が催されました。
 日露戦争後、貴布祢神社の鳥居の隣には 「日露戦争凱旋碑」 が建てられました。
 時間は流れていました。


 困民軍は寄居町を経由して進撃しようとし、11月4日夜11時過ぎ金屋で鎮台兵と激突します。
 火縄銃と村田銃との対峙で困民軍に勝ち目はありません。
 困民党の戦死者は6人。14人が怪我して捕捉されますがその後5人が仮病院で息を引き取ります。そのうちの1人は「たとい死すともその術を受けず」と手当を拒否し、自ら刀でのどを突いて命を絶ちました。一命を取り留めた重傷者は9人です。

 死者は、身元が分かった者は引きとられましたが、不明者は仮病院となった円通寺の境内に埋められ塚が作られました。おいおい判明して身内に引き取られましたが2人は残ったままです。
 1972年4月9日に墓地製造計画のため塚は掘り起こされ、墓地内に移されました。そしてそこに81年9月23日の彼岸に 「秩父事件死者之墓」 が建立されました。
 以前訪れた時の住職のお話では、檀家に相談したら反対されるという判断で独断です。その後説得して了承を得ます。住職は 「困民軍ははっきり言って暴徒です」 といいます。しかし当時としては止むに止まれぬ行動だったと捉え供養しました。
 今、この 「秩父事件死者之墓」 を定期的に訪れて清掃を続けている方がいます。その方と夜、交流しました。

 円通寺の隣に、困民軍が逃げ込んだ家があります。そこの井戸に隠れた者もいます。 その家は事件後、警察等の休憩所として使用されたりします。しかし戸主は井戸に隠れている者を通報しませんでした。
 その戸主から4代目に当たる現在の戸主の方とも毎回交流しています。


 秩父は、国家に歯向かった者たちの地方ということで明治政府からだけでなく取り残されました。
 1929年から始まる世界恐慌によりアメリカを主要としとする生糸の価格は暴落しまし。日本の養蚕農家はすべからく大打撃を受けました。
 農林省が農村を救済するためにとった対策の1つが 「経済厚生運動」 でした。
 1931年8月、第63回臨時帝国議会で 「農村経済厚生に関する経費」 が予算に追加計上され、疲弊した農村や漁村の救済運動が具体化されて、中川村 (旧、荒川村 現、秩父市荒川) も33年経済更生村に指定され、37年、中川村は特別助成村に指定されます。
 しかし指定の条件は満州移民です。分村計画を立て、村民を満州に移民として送り出すことになりますが、
 当時中川村は総戸数573戸、人口3078人。うち農家は407戸。およそ100戸が過剰農家とされていました。移住した農家の耕地を残った農家が買い取る、そうすると自力で更生できるという考え方です。移民する人のためのものではなく、移民しないで残る人のためのものです。
 中川村は573戸中100戸が過剰農家で、プラス次男、三男と商工業者が対象です。

 1945年8月15日段階での入植は139戸、在籍者597人、うち125人が招集されていて実在者は472人でした。
 帰帰国できた者は274人。303人が中国で死亡しました。団山子 (トアンシャンス) で19人の犠牲者を出しました。自決した女性1人を帰帰国できた者は274人。303人が中国で死亡しました。団山子 (トアンシャンス) で19人の犠牲者を出しました。自決した女性1人をのぞいてすべて母親に殺された5歳以下の子供除いてすべて母親に殺された5歳以下の子供でした。


 荒川村・旧中川村の人通りが少ない浅間神社の山裾に、1953年、荒川村は 「滿州開拓殉難碑」 「中川村開拓団 拓魂碑」 を建立しました。
 もう1つ、清雲寺に 「拓霊芳魂塔」 が建立されています。
 2つとも碑文の内容は、終戦直後に建てられたということもあって 「ソ連の侵攻による犠牲者」 です。しかし本当は日本政府と軍からの犠牲者です。
 お参りをしてお線香をあげました。


 戦争はいつも人びとを圧政下において推進されます。
 その延長線に1930年代からの 「満州国」 建国があります。移住した人たちの戦中・戦後の辛酸は想像を超えます。しかし日本政府は戦後補償を充分に行っていません。その姿勢が今回の「戦争法案」ともなっています。
 秩父の山々をめぐりながら、秋の夜長は困民党に参加した人々と満州に移民させられた人びとに思いをはせながら、「過ちを繰り返させない」 ために 「戦争法案」 について考えても語り合いました。


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