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ドイツ 「戦争の実態は、人道支援というベールの陰に隠されていた」
2015/09/08(Tue)
 9月8日(火)

 「戦争法案」 の国会審議が進む中で、アフガニスタンに派遣したドイツの状況が取りだたされています。実際にどうだったのか探ってみます。

 最初に、ル・モンド・ディプロマティーク日本語 11年2月号などからです。 

 西ドイツは東西冷戦のさなか、1955年に北大西洋条約機構 (NATO) の一員として再軍備に踏み切ります。ただ、憲法に当たる基本法はNATO域外への派兵を認めず、専守防衛に徹しました。
 91年の湾岸戦争の時は、多国籍軍に派兵しない代わりに、70億ドル (日本は130億ドル) の経済支援をします。しかしアメリカの新聞などからは 「小切手外交」 と批判されます。当時のコール首相は 「国際社会での責務を果たす」 と宣言。基本法の解釈を変え、NATO域外にも派兵する方針転換をします。
 94年に憲法裁判所が域外派兵を合憲と判断します。96年からの、住民虐殺が行われたコソボ紛争においては戦後初の戦時派兵となる空爆に参加しました。
 
 2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが発生した直後から、米英仏など50カ国が、国連決議の下に国際治安支援部隊 (ISAF) としてアフガニスタンに派遣を開始します。以降、延べ8万5000人の将兵を派遣しました。
 03年6月、現地で活動中の部隊が自爆攻撃を受け、兵士4人が死亡し、29人が負傷しました。以後も、テロの標的となったり、戦闘に巻き込まれたりして命を落とす兵士が相次ぎます。しかし状況についての細かい報告は行われず、「戦死者」 の存在は認められませんでした。
 ドイツ国防軍もアメリカを支援する目的でタリバン政権を攻撃する 「アフガニスタンにおける不朽の自由作戦 (OEF) に参加しました。当初、首都カブールに1200人の兵士を駐留させていただけでしたが、2006年にはアフガニスタン北部の治安維持を任されます。

 2009年9月4日、ISAFに加わっているドイツ部隊の隊長の1人が、反政府勢力に奪われた2台のタンクローリーを爆撃するよう、NATO空軍に要請しました。陸路で奪還を試みればドイツ兵に危険が及ぶと主張したのです。その結果、142人の犠牲者が出ました。大半が一般市民です。この事件は間もなく クンドゥズの不祥事」 呼ばれるようになり、ドイツが掲げていたイメージは砕け散りました。  

 2010年は安定化の年になるという触れ込みでしたが、ISAFが発足した2003年以来、最も殺人と暴力に満ちた年となります。
 2月には、アメリカの強い要請により500人の増派に応じ、アメリカ (13万人)、イギリス (1万人) につぎ、第3の座を固めます。(要員数は国会によって上限5350人に設定されていましたが、おおむね4600人前後で推移します。フランスの3850人を上回ります)
 ドイツ社会も議員も騙されたという気持ちを抱きます。それをなだめるために国会による調査が開始され、連立政権の交代によりうやむやになるまでの間に、国防相と国防次官、参謀総長の辞任という結果を生みます。
 4月2日、アフガニスタンのクンドゥズ近郊で、パトロールをしていた空挺部隊の将兵がタリバンの待ち伏せ攻撃にあって、3人が戦死し8人が重軽傷を負いました。4月15日には、バグランという町の近くで軍医らの乗った装甲車がタリバンのロケット砲によって狙い撃ちされ、4人が死亡し5人が重軽傷を負いました。ドイツ連邦軍にとって創立以来最も犠牲者が多い月となりました。
 2002年にアフガニスタン駐留を始めて以来、戦死したドイツ兵の数はこれで43人になりました。

 4月、メルケル首相は就任後初めて、アフガニスタンで殉死したドイツ兵7人の遺体を空港で出迎えることになりました。「ドイツ全体が皆さんに感謝し、敬意を表します」 と述べ彼らの棺の前で頭を下げます。
 そして、グッテンベルク国防大臣がクンドゥズで3人が戦死した後に発表した談話の中でグッテンベルク国防大臣がクンドゥズで3人が戦死した後に発表した談話の中で、ドイツ軍は第二次世界大戦後初めて、本格的な戦争に加わっていることを認めました。それまでタブーだった「戦争」という言葉を渋々とながら口にしたのです。
 「戦争の実態は、人道支援というベールの陰に隠されていた」 と言われはじめます。

 2011年は、創設55年の歴史を持つドイツ連邦軍にとって、かつてない激動の年となります。
 ドイツ経済研究所 (DIW) によれば、国防予算として計上された10億ユーロではなく、30億ユーロにも上ります。これは他の省庁が負担する費用、傷害者の治療費と恩給、家族手当などを含めた金額です。2001年から、撤退開始の2013年までの累計では360億ユーロとなります。

 これまでアフガニスタンでは、米軍を中心に3000人以上の兵士が戦死し、ドイツ国防軍の兵士も54人が命を落としています。兵士は帰国後、恐怖体験がよみがえるフラッシュバックや不眠に悩まされました

 約11年にわたってアフガニスタンに駐留していたドイツ連邦軍は、2013年10月末までに完全に撤退します。


  『世界』 の10月号にジャーナリストふくもとまさお氏の 「派遣地域に 『安全』 はない ドイツ・アフガン派兵の実態」 の報告が載りました。ル・モンド・ディプロマティーク日本語と重なる個所がありますが、流れを理解しやすくするためです。

 1990年に入って冷戦が終結すると、平和維持目的のNATO域外へのドイツ兵派遣が急速に増えはじめました。武装して国外派兵する場合、ドイツでは憲法上議会決議が必要となっています。しかし、国連決議やNATO決議だけでドイツ兵が派されました。
たとえば、第二次湾岸戦争中・戦後の地中海、ペルシャ湾への海軍の派遣 (1990年、1991年)、ユーゴスラビアに対する経済制裁を監視するためのアドリア海への海軍の派遣 (1993年)、ソマリアへの陸軍の派遣 (1993年開始) などです。

 そのことが、違憲か合憲かの議論へと発展します。派兵反対派が憲法裁判所に提訴しました。その判決が1994年に出ます。NATO域外への派兵は、憲法に相当する基本法の定める集団的自衛権に当たるとして合憲とされました。しかし武装派兵する場合、事前に議会決議が必要なことが再確認されました。
 それによって2005年、ドイツ兵の国外派遣の議会決議の内容を明確に定める議会関与法が制定されました。国外派遣は国連決議やNATO決議など同盟国決議を前提とし、政府が同盟国と調整した上で、派遣の目的、派遣地域、最大派兵数、派遣兵士の種類、派遣期間、予想経費とその資金調達方法を国会に提示して、原則として国会の事前承認を得なければならなくなります。

 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生します。その後すぐに、ドイツ国防軍はアメリカを支援する目的でタリバン政権を攻撃する 「アフガニスタンにおける不朽の自由作戦 (OEF) に参加しました。輸送部隊や偵察機を派遣するなどの後方支援的な活動でした。それはドイツが最初に申し出た支援方法でした。
 12月にアフガニスタンの治安維持を目的とした 「国際治安支援部隊 (ISAF)」 が成立すると、ドイツ国防軍はNATO軍の一員としてISAFに参加します。
 OEF、ISAFともNATO軍によるアフガン派兵は国連軍としてではなく、国連の事前決議を必要としないNATOの集団的自衛権を発動したものです。
 ドイツ国防軍の使命は一般的に、NATO軍の一員として 「ネットワークされた安全保障」 (国防白書) を堅持することだとされています。そのために、平和維持 (軍事手段) と復興 (民政支援) を組み合わせて国際協力に貢献します。

 ドイツ政府は当初、派遣はアフガンの復興を目的とするもので、それほど危険なものだとは想定していませんでした。しかし首都カブール周辺に制限されていたISAFの活動が、2003年にはアフガン全土に拡大されます。2005年後半になると、タリバン武装勢力が各地で蜂起し、自爆テロも多発してきます。アフガン情勢は一変します。
 カブール周辺の治安維持を担当していたドイツ国防軍は2006年、クンドゥーズを中心としたアフガン北部の指揮を委任されます。それとともに、ドイツ兵の派遣数も当初の700人から最大500人近くにまで拡大しなければならなくなりました。
 さらに2009年には、敵が撃ってこない限り撃ってはならないというそれまでの原則を、敵と確認できれば撃ってもいいと変更しました。それだけ情勢が危険になったということです。さらに、派遣期間が期限付きだったので、何度となく派遣を延長するための議会決議も行われました。

 ドイツ国防軍は2014年末までで戦闘部隊の派遣を終え、現在は現地の警察や軍を教育するために兵士を派遣しています。
 これまで、アフガン派遣によって自殺なども含めて55人のドイツ兵が死亡しました。そのうち、35人が敵の攻撃によるものです。ドイツ兵の死亡が状態化し、ドイツ兵が民間人を殺害しまうことが大きな政治問題となっています。
 実際2009年には、ドイツ空軍大佐の命令行われたアフガン北部でのタンクローリーへの空爆によって、アフガンの民間人数十人が死亡しています。

 ベルリン国防軍病院では、2014人の1年間で、431人のPTSD患者を治療しました。そのうち、204人が新規患者でした。今年前半の6か月だけでも、新規患者はすでに134人に上ります。ドイツ国防軍全体では、年間平均で約700人のPTSD患者が治療を受けているといいます。そのうちの多くは、アフガンからの帰還兵です。うつ病などその他の精神障害も含めると、兵士の約20%が治療中です。
 問題は、兵士が帰還後すぐには自分が心的障害を受けていると認識できません。軍医中尉によると、帰還後1年以内に治療を開始した患者の割合は平均で10%にすぎません



 ドイツでは2007年、派遣後再配置法が制定されました。国外派遣後に障害の残った兵士の障害度に応じて、再度国外派遣の有無や事務職などへの配置転換、就業不可の認定とその場合の支援と補償についてきていしています。同法は当初、身体障害だけを対象に規制されました。だが、数年後には改正して精神障害にまで拡大しなければならなくなります。
 PTSDなど体調不良で帰国したら、治療を受けるために再び国防軍兵士として採用されます。それによって生活が保障され、治療費も国防軍が負担します。

 家族にも二次的なトラウマが生じています。そのため、「氷の花」というトラウマを持つ兵士の家族のための自助グループが立ち上がっています。

 
 ドイツでの戦争による精神障害への治療や補償は、第二次大戦後教訓から進んでいます。     
「1950年代後半から60年代前半にかけての限られた一時期に、精神病理学は強制収容所から開放された被迫害者が呈する様々の精神症状についての、一連の客観的研究を行なってはいる。……このような研究のきっかけとなったのは、1953年に当時の西ドイツ連邦会議において制定された、ナチ時代の被迫害者に対する補償措置 『連邦補償法』 (BEC) であった。この法律によって、強制収容所体験者で健康上の被害を被った者にも、はじめて一定額の一時金または年金が支給されることになった。」(小俣和一郎著 『ドイツ精神病理学の戦後史』)

「……たしかにアウシュビッツにおける日常が、重労働、飢餓、拷問、人体実験、選別などの恐怖に満ちていたことは今ここで再度強調するまでもない。しかしながら、強制収容所における体験を、ただ単に肉体的消滅の恐怖だけに限定してしまうのは、あまりにも皮相的である。そこでの外傷体験の中核にあったものは、被収容者個人の存在価値を根本的に否定する、持続的で精神的な虐待であった。だからこそ、肉体的な拘束が解放された戦後に至ってもなお、精神の負った破壊的傷痕は深部の記憶として生き続け、一連の深刻な後遺症を残すことになったのである。」

「新生ドイツ国家は、当然、戦死者の遺族や自国の戦争犠牲者に対する社会的補償 (遺族年金など) の問題に直面する。しかし、そうした自国民に対する補償を行なうに当っては、同時にナチズムの犠牲となったユダヤ人たちへの補償を認めることなしには、外交政策上も取りかかれなかったのである。……
1953年9月19日に、西ドイツ議会で制定された 『連邦補償法』 (BEG) は、そうした様々の個人的被害に対応する目的をもっていた。……
 連邦補償法で認められる請求の内容は、迫害に起因する生命の喪失、肉体と健康の損   傷、自由の喪失、財産の喪失、資本の喪失、職業上の昇進または経済的成功の損害、生命保険および年金支払いの損失などである……」


 現在の対応も治療方法もほかの国と比べたらすすんでいます。しかし、戦争や戦闘、派兵がなかったらそもそも必要すらないことです。
 戦争は、相手国の兵士だけでなく、民間人も殺し、さらに自国兵も、家族も長期の被害者にします

 これらが、きちんと議会や裁判所が機能したドイツの実態です。
 このようなことを踏まえたら、機能していない日本ではどのような事態にいたるか想像もつきません。戦争法案の審議における政府の答弁は、理想論にもならない空論です。
 戦争法案は、手続きを踏んでいないなどの理由ではなく廃案以外にありません。


   「軍隊の惨事ストレス対策」
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