2015/08 ≪  2015/09 123456789101112131415161718192021222324252627282930  ≫ 2015/10
早期復職を目指すことは、人生を大切にすること、                      いい人生を送ろうと努力すること
2015/09/28(Mon)
 9月28日 (火)

 ある自治体の労働組合主催の勉強会に行ってきました。
 テーマは 「心の病で体調を崩していませんか」 です。事前に、職場の労働安全衛生への取り組み方と職場復帰への対応など、5項目の質問が出されています。
 前半は、安全衛生の「1次予防」、「2次予防」、「3次予防」 の取り組み方について、次に復職問題につい話をしました。
 その中の職場復帰をめぐる問題についてです。

 現在職場の実態として最大の問題は、体調不良者が多すぎるという問題があります。このことが解決を困難にしています。1人ひとりへの対応は困難になり、規則やマニュアル通りとなってしまいます。対応するための体制も大変です。そのためにも、「これ以上体調不良者を出さない」 が一番の手っ取り早い対策です。それが安全衛生の 「1次予防」 です。
 体調不良のまま、しかも隠して働いている労働者も多くいます。体調不良を報告すると不利な処遇を受けたり、休職すると復職がむずかしいと知っているからです。
 使用者は体調不良者、休職者への対応方法がわからないから、わかろうとしないからです。そのなかでの対応回避の手っ取り早い方法が休職を含めた排除です。体調不良者は放置され、隠されてきました。そして休職期間は長期化します。
 使用者は休職中は 「安全配慮義務違反」 を免れると捉えますが二次的症状が出てきて解決を困難にさせます。
 その結果、赤字の健保組合が9割を占めています。本当なら深刻な問題です。

 2004年10月、厚労省は労働者の職場復帰のための対策として 「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」 (いわゆる 「手引き」) を公表、2009年3月に改訂しました。
 使用者が 「手引き」 に書いてあることをすべてやってもダメだったから復職不能と結論を出し、「復職できなかった」 と安易に退職をせまります。労働者もダメだったと受け入れている状況があります。しかし休職期間が満了しても安易に解雇しないで様子を見る使用者も決して少なくなく存在します。労働者の側に立って裁量権を行使しない人事部は存在する意味がありません。

 使用者が 「手引き」 に記載してある事項をすべてクリアしたからといって対策を尽くしたことにはなりません。「手引き」 には 「フォローアップのための面談においては、‥‥労働者及び職場の状況につき労働者本人及び管理監督者から話を聞き、適宜職場復帰支援プランの評価や見直しを行っていく」 「これらの制度が事業場の側の都合でなく労働者の職場復帰をスムーズに行うことを目的として運用されるよう留意すべきである」 とあります。
 「復職の手引き」 は復職にむけて5段階のステップを提案しています。
 「<第5ステップ> 職場復帰後のフォローアップ」 の 「職場復帰支援プランの評価と見直し」 で 「手引き」 の運用はそこまでおよびます。ここからは成功例の情報収集のための労使の努力、力関係です。 

 精神疾患の障害は “disorder” です。症状は因果関係がある反応です。
 身体の障害は “disability” です。
 しかし日本の精神医療は、“disability” =患者の病的な症状を見つけて症状を消す治療を目的にしています。投薬中心で因果関係は問題にしません。問題にできる臨床経験がある医師が少ないです。ですから主治医等の復職可能の診断基準は、症状が消えたことです。患者が社会のなかに存在する人間、労働現場で使用者の指揮命令の下で働く労働者であることをみません、みえません、理解できません、そして関与できません。
 復職に際して使用者が要求する判断基準は、もとのように働ける状態であることです。これは判例です。産業医もそうアドバイスします。しかしそれは往々にして間接的退職勧奨になっています。なぜなら、回復は段階を経るからです。
 欧米では、患者が社会生活、労働生活を送れる能力を発見させることです。労働者にとっては心身が回復し、自信を取り戻して働けると自覚できることです。

 「復職の手引き」 は復職にむけて5段階のステップを提案しています。
 <第5ステップ> は、「職場復帰後のフォローアップ」 の段階であり、「疾患の再燃・再発、新しい問題の発生等の有無の確認」、「勤務状況及び業務遂行能力の評価」、「職場復帰支援プランの実施状況の確認」、「治療状況の確認」、「職場復帰支援プランの評価と見直し」、「職場環境等の改善等」 及び 「管理監督者、同僚等への配慮等」 で構成されています。
 しかし対策の順序としては 「<第5ステップ> 職場復帰後のフォローアップ」 が第一番目に検討されなければなりません。「職場環境等の改善等」 及び 「管理監督者、同僚等への配慮等」 は安全衛生の 「一次予防」 です。そうしないと復職は成功しません。
 精神的体調不良者が出ても会社も労働者も何も変わらなければ、原因が存在する職場環境のなかに戻され、再発の危険性は大きいです。そのためには、使用者・管理監督者だけでなく職場の全員で問題の洗い出し、職員や労働組合からの要求・提案をうけ入れて改善策を検討する必要があります。


 復職問題は実際には簡単ではありません。
 休職中残された労働者も復職者への気遣いもありますが、仕事の負担が増えるなかで我慢しています。復職者がすぐに休職前のように仕事ができないのは分っていますが、復職後もさらに対応に気を配るかと思うと、迎える側のストレスも高くなります。
 休職には原因があります。
 ① 長時間労働
 ② 過重労働 (責任、裁量権)
 ③ 人間関係
 ④ 適性配置違反 (異業種への配転)
 ⑤ 自治体窓口、顧客、モンスターペアレントによるPTSDり患などです。

 休職者の状況もさまざまです。
 ① 比較的軽度で仕事に影響がなく早期の回復が見込める場合
 ② 短期間の1~2回の休職を経て、その後は安定就労が見込める場合
 ③ 医療的なケアが適切に行われておらず、回復にむけてのプロセスも確立されておらず、休復職を
  繰り返したり、周囲の対応も困難が伴う場合。 
 ④ 比較的重い疾病により休復職を繰り返したり、回復が困難な場合

 そして休職はさまざまな反応を引き起こします。
 ① 体力が低下する。思考能力が低下する。
 ② 業務上のスキルが低下する。
 ③ 社会性が薄らぐ。人間関係が薄らぐ。
 ④ 怠惰癖がつく。
 芸人の世界では 「1日休むと自分がわかる、2日休むと相手 (師匠) がわかる、3日休むとお客がわかる」、だから毎日稽古に精進します。労働者は仕事のプロです。
 これらが複合的に組み合わさって1人ひとり違う状態におかれています。
 そして1人ひとりの自覚、要望、客観的状況、相手方の対応、受け入れ体制がちがいます。だから復職プラン、それぞれ復職プログラムは違ってきます。

 復職して2週間後ぐらいに再発する労働者がたくさんいます。これは復職が成功したとは言えません。復職とは、6か月間継続した就労出来たということです。
 休職・復職を繰り返すと労働者は自信を喪失します。1回目での復職を成功させなければなりません。
 そのためにおさえておかなければならないのは、長期休職者は簡単に 「寛解」 や 「完治」 しないということです。症状はブレを繰り返しながら回復していきます。無理を続けたら再発の可能性が大きくなります。
 しかし理解できない使用者や労働者が多いです。研修会・講習会は、現状は企業のリスク管理に重点がおかれています。復職と同時に即戦力、無理を強制します。マニュアル通りに実行することで 「使用者の安全配慮義務違反」 を免れようとします。人間の心理状態をマニュアルで動かそうとします。メンタルヘルス対策を法律や規則でおこなうということは労働者の人格を無視した関係性を作ろうとすることです。


 休職・復職に際しても様々な問題が発生します。
 「ゆっくり休め」 のアドバイスが多くあります。方針がない時、期待度がない時の対応です。休職者は取り残された、当てにされていないと焦ったり、不安感、自信喪失におそわれます。
 休職によるさまざまな反応が引き起こされていることに気付かない、認めない休職者が多くいます。「ちゃんと働けます」 と自己判断、決意、言い訳をします。対応する側は困難に直面します。
 休職期間いっぱい休んで期限切れ間近になって焦る休職者がいます。経済的状況に身体状況を従属させることは無理を発生させるということで、新たな事故が発生する危険性が大きいです。休職期間が長くなるほど不安感は増します。そこが “disability” と違うところです。
 教員は3月になると 「復職可」 の診断書を提出します。体調と季節が “合致” します。相手から見透かされています。「何とかならないか」 「拒否された」 と相談に来ます。
 公務員の休職期間は長く、補償があります。その結果、体力が低下する、思考能力が低下する、業務上のスキルが低下する、社会性が薄らぐ、人間関係が薄らぐ、怠惰癖がつく、がフルでおきている場合があります。長い休職期間活用するのは権利か乱用かの判断は自己判断、自己責任です。
 体調不良の時、人は冷静な判断が出来ません。「ちゃんと回復してからもう一度検討しよう」 のアドバイスが必要です。

 リハビリ訓練についてです。
 長期休職者、休職を繰り返している労働者の復職のためには、体力回復―→家事復帰―→社会復帰―→職場復帰の取り組みが必要です。社会復帰―→職場復帰は、通勤可能―→出勤可能 ―→定型業務可能―→通常業務可能の段階を1つずつクリアできていくと自信回復になります。
 個人だけの努力で社会復帰は無理です。集団生活での訓練が必要です。コミュニケーション能力をアップさせるためには、例えば、意識的に地域活動、父母会、ボランティア活動への参加も有効です。視野が広がります。
 職業教育訓練や講座、学校・スクールはスキルアップになります。しかも競争がない、助け合いがあるなかでコミュニケーションの力が付きます。
 卓球やテニスは、体力がつくだけでなく相手の出方への対応が必要になるのでコミュニケーションの力が付くといわれます。
 このことを自覚して自助努力をしていると復職は早いです。
 早期復職を目指すことは、人生を大切にすること、いい人生を送ろうと努力することです。

 休職者には定期的連絡と情報提供が必要です。
 職場復帰される方をどう迎えたらいいでしょうか。
 使用者が 「ためし出勤」 を提案することは、使用者は復職を拒否していないことの意思表示と受け止められます。期待の表明です。
 復職が成功した例では、復職最初の日の朝 「お帰りなさい」、「何かあったら遠慮なく言ってね」、帰り際 「どうだった。焦らないでね」 と周囲から声をかけられたことが、自分の “居場所” を確認することができたといいます。
 短時間労働を認めない会社もあります。労働者の家族のためには育児休暇、介護休暇制度があるのに、労働者本人に時間短縮が認められない理由はありません。間接的退職勧奨の手段としてそうする使用者もいます。
 復職者にテンポを強制しないことが必要です。また本人のテンポで休息を与えることが必要です。贅沢、わがままではなく、心身が要求している要望を聞いてかなえてやることが必要です。
 仕事がないのが一番の苦痛です。


 復職を成功させるためには使用者も労働者も変わらなければなりません
 相談活動を例に出します。
「相談活動は、交渉を経て紛争解決に向かいます。
 紛争の本当の解決とはどういうことを言うのでしょうか。
 相談者の『成長』を確認し合うことです。そして自立した生活を取り戻すこと、または再スタートに立つことです。つまりは職業生活を培っていける自信をつけるようにすること、自分らしい納得した生活を送ることです。
 トラブルが雇用継続や合意退職の解決に至っても、相談者が貴重な体験をその後の教訓として活かすことがその後のトラブルを防止し、長期的に見た場合の問題解決となります。これが本物のセーフティーネットです。
 そういう意味で、ユニオンの相談活動は、人生の次の段階に確信を持って攻勢的に挑戦するためのサポーターの役割も果たすものでなければなりません。
 労働組合とのかかわりを通して 『社会の見方が変わった』 『自信がついた』 『みんなに励まされて嬉しかった』 という発言を聞くと相談活動は一役果たしたといえます。
 これが本来の労働組合の役割です。」 (『メンタルヘルスの労働相談』)

「人間には本来みな 『自己治療力』 があり、『自然治癒力』 がある。相談を受ける側の任務は、相談者の精神的混乱を一緒に整理したり、やり残していることを一緒に発見したりして、『自立』 することをサポートすること。そのようにして解決に至ると、相談を受ける側も 『人間ってすばらしい』 と実感できます。」 (『傷を愛する』 宮地尚子著 大月書店)

「トラウマを負った被害者が回復し、自立した生活を取り戻していく際に、『エンパワメント』 が重要であるということはよく知られている。『エンパワメント』 とは、その人が本来持っている力を思い出し、よみがえらせ、発揮することであって、だれかが外から力を与えることはできない。けれども忘れていた力を思い出し、自分をもう一度信じてみるためには、周囲の人びとのつながりが欠かせない。」 (『傷を愛する』 宮地尚子著 大月書店)

 「周囲の人びとのつながりが欠かせない。」 そのつながりが労働組合の役割です。復職に際しては上司、同僚、仲間です。

 復職者が “わがまま” をいうことがあります。自分を発見できていないからです。例えば、休職して自信喪失、不安に駆られている心情を他者のせいにして、無理な要求をどんどん出してきてぶつけます。孤立している心情の裏返しです。
 自己を防衛する手段として相手を排除する方法が批判や暴言、攻撃。脅威、不安、困惑などの二次的な感情で、「涙が変形した表現」 です。
 相手の人格を否定して解決はありません。職場は改善されません。
「あれもダメ、これもダメというのではなく、目をつむって前に進むしかない。行政にすがるのではなく、行政の支援は促進になると捉えよう」 (福島の被災地の住民たちの村おこし)
 「エンパワメント」 が必要です。そしていつかの時点かで 「その気持ちを克服しないと解決しないよ」 と忠告する必要があります。忠告しないことはやさしさではありません。放置することです。「一緒に少しずつ変えていこう」 です。

 復職する労働者も変わらなければ (成長しなければ) なりません。
「仕事に対する捉え返し、何自分の弱点の 『気づき』、克服とは、ストレスの原因や紛争の事実関係を、自分がどのように 『反応』 したかという事実だけでなく相手側の事実はどうだったのか、感情抜きにすると何が問題だったのかと分析し、振り返って認知する中からものの見方を変える、豊富化させることによって以前の状況から抜け出す 『対応』 方法を客観的に見直し、解決能力を身につけることです。
 個人によって脆弱性はちがうのでそれぞれの対処方法が必要となります。集団行動への参加、討論などによるコミュニケーション能力の向上も自己を強くし、自信をつけます。
 セルフケア能力を習得するとは、しっかりとした自己価値観を持つことです。他者に認められなくても存在できる自己を確立することです。例えば、会社に依存しない、『雇われ意識』 からの脱皮、自立です。
 そして自分自身をより深く知ること、自分信頼を獲得することで 『強くなる』 ことができます。自己信頼は3つの要素から成り立ちます。
 1つは、その時々の自分の気持ちや考え、欲求を適切に把握することやさまざまな視点から自分自身を捉え、自分のプラス面もマイナス面も公平に理解する 『自己理解』 です。
 2つめは、自分自身をありのままに受け入れること。自分の弱さや不完全さを率直に認め、受け入れる 『自己容認』 です。そうした自分に対する素直さが適切な自信と謙虚に繋がります。そうすると他者についても理解しやすくなります。
 3つ目は、自分自身を大切に思う気持ち、自分自身を肯定的に評価する気持ちである 『自尊心を持つ』 ことです。
 このようなことが、さらに自信と安心を強化します。」 (『メンタルヘルスの労働相談』)

 「認知行動療法」 は、一次予防が行われていることが前提です。そうでないと問題解決が自己責任にしかならず、人格否定になりかねないこともあります。単にストレスに強い人間にしかなりません。

 やはり、お互いを認め合いながら批判し合える仲間が大切です。
 使用者も労働者も外部に依存しないで自分たちで解決し “自信” を付けると労使の財産、労働者の安心のための安定剤になります。
 人間関係が一番の労働条件です。


  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから 
この記事のURL | 復職問題 | ▲ top
戦争は身体を張っても阻むべし
2015/09/18(Fri)
 9月18日 (金)

 16日は夕方から、国会正門前にいました。
 ある学園の中学生・教師・保護者の有志の集団が、ギターの伴奏で合唱を続けていました。周囲の人たちも加わりました。
  「ヒロシマのある国で」 です。

  八月の青空に 今もこだまするのは
  若き詩人の叫び とおき被爆者の声
  あなたに感じますか 手のひらのぬくもりが
  人の悔し涙が 生き続ける苦しみが
   
  私の国とかの国の 人の命は同じ
  この青い大地の上に 同じ生を得たのに
  ヒロシマのある国で しなければならないことは
  灯るいくさの火種を 消すことだろう
   ……

 歌詞は、憲法前文にも勝る輝きがあります。

 
 16日に横浜で開催された参議院戦争法案特別委員会の地方公聴会の後、野党の女性国会議員は、中央・地方公聴会とも女性の発言者がいなかった、女性の声も聞いてほしいと理事会に申し入れをするため理事会室前に押しかけました。しかし聞きいれられません。
 17日、特別委員会は開催されるのかと思ったらすぐに混乱状態に陥りました。その間に強行採決が行われたといわれています。
 インターネットの国会中継を観ていましたが、採決は無効です。
 なぜなら、例えるならば、委員長は井戸の底で背伸びが出来ない状況で、外の庭の樹木などまったく見えないくせに○○の木何本と数えたようなものです。物理的に無理です。自民党から大量造反が出ていたかも (ありえませんが) しれません。
 委員長は議事進行表を下を向いて読んでいただけです。

 これらの場面を観ながら一首の短歌を思い浮かべていました。

  戦争は身体を張っても阻むべし
   母・妻・おみな 牢に満つるとも


 かなり前の朝日新聞の 「ひととき」 欄への投書に添えられていました。これを契機に戦争に反対する女性たちの運動が展開されていきます。
 “乱闘” の前に戦争を容認する法案があります。それを阻むために “乱闘” がありました。国家が人を殺すことを受け入れるか、反対するかです。それ以上の説明は必要ありません。
 18日は本会議で法案採決と言われています。
 前提が無効です。


 選挙権もない頃、地方選挙の演説会に参加しました。
 当時の社会党副委員長の田中寿美子さんが応援演説をしました。
「戦争中、学校の教師をしていました。出征する生徒1人ひとりに、『死んで帰りなさい』 と声をかけました。その中の1人が答えました。 『僕は生きて帰ります。父が戦死したので家には母親しかいません。僕が母親の面倒をみなければならないのです』 しかし彼は死んで帰りました。その時から戦争は絶対に止めなければいけないと強く思うようになりました。」

 この 「活動報告」 で、これまで書いた戦争に関連するものを抜粋します。

 この母親と似たような話が佐藤純弥監督の映画 『男たちの大和』 にあります。
 最初から無謀とわかっている作戦で、多数の若い兵士が国家・軍の命令で殺されていきました。
 出征した息子からの送金で狭い田んぼを買い増しして生活していた三反百姓の母親が田の草取りをしながら息子の帰りを待っています。そこに息子の戦死を報告するために生き残った同僚が訪れます。夫を亡くし、あてにしていた働き手をも失った母親は同僚に叫びます。「何であんただけ生きて帰ったの」。他に怒りのやり場がありません。同僚は 「すみません」 と謝ります。(2012年6月12日の 「活動報告」)

 潜水艦大和は、沖縄に米軍が上陸した直後の1945年4月7日、米軍海軍に対する特攻攻撃に組み込まれて沖縄に向かって撃沈されます。
 その大和の艦内の状況を、海に放り出されて助かった海軍少佐の吉田満が 『戦艦大和ノ最後』 に記録しています。
「戦艦がこの最後の航海に入って日本の岸を離れると、ただちに士官部屋には完全な言論の自由が立ち現れました。これまで仕官たちを窒息させていた言論上の統制は、いまやとれてしまいました。士官たちは、なぜ自分たちが死ぬのかの目的について知りたいと考えていました。白熱した議論のただ中で、砲術士官の一職業軍人の臼淵大佐はこういいました。臼淵大佐がいうには、われわれのこの出撃は戦略から見て無意味であり敵に対してなんらの打撃をも与えないであろう、われられの目的は、このような行動の無意味であることを実証することであり、このためにわれわれは死ぬのだということでした。」 (鶴見俊輔著 『戦時期日本の精神史』 岩波書店)
 軍は兵士も守りません。これが戦争の実態です。


 戦争の被害者は兵士だけではありません。
 戦争で親・兄弟を失った “戦争未亡人” と呼ばれた人たちの苦労は並大抵ではありませんでした。
 岩手県の、夫を戦争で殺された妻から聞き書きをした 『あの人は帰ってこなかった』 (菊池敬一・大牟羅良編・岩波新書1964年刊) のなかで伊藤俊江さんが語っています。
「死ぬベと、思ったことも何回もあったナス。小さい4人の子供達にまで這うようにして稼がせて、……
 いつだったか、暗くなってから4人のワラシたち並べて、『おまえたち、みんな一緒によ、仲良く死んでしまわねェか。そうすればこんな苦労することも無ェんだし、とうさんのところさ皆して行くにいいんだじェ』 ってだました (なだめすかした) ことあったナス。そうしたら、小さいやつら黙って泣いてばかりいたったけども、一番年とった卯吉 (夫の弟、当時8歳)、『おらあ、なんぼ (いくら) 稼いでもいいから死にたくないモ。田の草取りでも、草刈でももっともっと稼ぐから死にたくないモ。』 って言ったモ。……
 康幸 (長男)、ろくに学校さも行けないでしまったけども、勉強は割合出来よかったもんだから、中学校卒業する時先生に高校さやったらどうだっていわれたったども、どうして高校さやれるべスヤ。……
 可哀想だったンス。夜、寝言にまで友人と高校さはいることの話してるの聞くと、とうさんさえ生きて帰って来ていてくれたら、この子供達――と思ってナス。それでも康幸、オレには一言もその話出さねェでナス。それがまた余計可哀想だったナス。そしてオレには、『大工になる』 とばかりいってくれたったモ。……
 康幸は自分は高校さはいれなかったども、弟にははいったほうがいいんだって、大工して助 (す) けたりして康範バ高校卒業させてくれたノス。昨年卒業して東京さ就職に発つ時、やっとここまで来たな、と思ったら、涙でてナス。」 (2012年6月12日の 「活動報告」)

 “戦争未亡人” たちは、戦後17年が過ぎてやっと一息つくことが出来ました。

 戦争は、貧乏人から先に動員されます。第二次大戦でも上流階級の子弟が集まっていた大学・専門学校生の招集は後からでした。その中に安全地帯に動員された者もいます。さらに、一貫して安全地帯にいる者たちがいました。

 戦後7年すぎて、52年のサンフランシスコ講和条約発効と同時に軍人恩給・遺族年金が支給されます。額は、軍隊における階級によって 「格差」 があります。安全なところで 「殺せ」 と指揮をとっていた上層将校は高く、「殺した、殺された」 側は低いです。
 上層将校や上級官僚の2世・3世が、今、政界や経済界で仕切っています。
 

 戦争直後、親を亡くし、住む家もない子供たちは「浮浪児」 と呼ばれました。
 「鐘の鳴る丘」 には、「♪緑の丘の赤い屋根……」 の 「浮浪児」 を収容する施設が建てられ、捉えられて収容されます。
 毎日夕方、ラジオドラマ 「鐘の鳴る丘」 が放送されました。GHQの指示による日本社会に 「家庭」 を浸透させ、定着させるための宣伝番組でした。ドラマでは、彼らはそこでの生活を通して 「更生」 していきます。
 以前、朝日新聞は、「鐘の鳴る丘」 に収容された人たちと 「浮浪児」 たちのその後を追って連載しました。
 家族で夕飯を囲みながらドラマを聴いていた子供たちは、「お父さん、私の家はみな元気でよかったね」 と語り合っていたといいます。「浮浪児」 にもインタビューをしています。「その時間は仕事していたから聴いたことないよ」 と答えました。(2013年2月22日の 「活動報告」)

 この大きく違う 「与えられた運命」 が戦後の 「格差社会」 の出発点です。戦争は、戦前の格差をさらに拡大して登場させます。


 沖縄で平和運動を続けていた中村文子さんの話を聞きました。中村さんは戦後、小学校・中学校の先生をしていました。作成したパンフレットからの引用です。
「私は、名護中学へ転勤しました。その頃の中学生の名前は、勝男、和彦、女子は、和江、勝子。勝とか和という、それこそ親たちの願いが込められた名前が多くありました。
 私は家庭訪問をしながら子供たちの誕生歴を聞きました。12~13歳になっています。
 勝子の家に行き、お母さんと話をしました。
 ちょうど身重になって生まれそうな時にお父さんは防衛隊に取られ、伊江島に送られます。
 お母さんは、いざという時に自分一人でお産をしてそれを処置しなければならないので、村の取り上げ婆さんにどうしたらいいかを習って、ちゃんと消毒したきれいな糸と安全カミソリ、包帯、産着などを1つの風呂敷に包んで背負っていました。
 艦砲が飛んでききて、部落の人たちと一緒に山を登って、もう1つ山奥に入ろうとした時に近くで砲弾が破裂します。その破片が4歳になる手を引いて歩いていた息子の腹部を貫通します。『かあちゃん』 という声がした途端に手が緩んで息子は即死しました。お母さんは息子を抱えて、前に見える大きな岩陰へ走って行って隠れました。そのショックでその晩産気づきます。
 部落の人たちはどんどん先に進んで行く。だれもそこで待って手伝ってあげられる状況ではありませんでした。お母さんは悪戦苦闘の末、女の子を生みます。取り上げ婆さんが教えてくれたように自分で処理して新しい産着を着せ、一方で今さっき死んだ息子とを両手にかかえて一晩明かします。
 翌日夜が明けると岩陰をあさって 『あんた1人じゃないんだよ。今にお母さんもそうなるかもしれない。生きていたらあんたを迎えに来るからね。その間寂しがらずに待っていなさいよ』 といって石で息子を覆います。
 山でずっと岩陰や木陰に隠れて、5月になって天気のいい日に谷川に降りて行って勝子を1か月ぶりに産湯に着けました。

 お母さんは、『だから勝子は色が黒いんですよ、先生』 と言ってにこにこ笑いました。だけどその後私にお茶を勧めて、自分もすすりながら 『戦争なんて、戦争なんて……』 と言って湯飲み茶わんを握りしめたんです。
 それが 『教え子を戦場に送らない』 という日教組のスローガンに繋がっていきました。平和憲法に繋がっていきました。本当に私たちが灯台のように大事にしたのが憲法9条でした。その憲法9条の灯台に向かって私たちは復帰運動をしたのです。
 そして1972年5月15日、復帰。それこそ親指ほどの大きな雨でした。その大豪雨の中で、私たちの願いとは裏腹の内容に、祝うはずの提灯行列が、与儀公園の泥んこの中での抗議集会に変わって、県庁前へ、あの時は琉球政府前へ行進しました。」 (2013年4月16日の 「活動報告」)

 憲法9条の灯台に向かった 「復帰運動」 の期待は裏切られ、ますます基地は集中化されました。
 4月28日は 「屈辱の日」 です。そして5月15日も裏切られた日・「屈辱の日」 です。
 アメリカも日本政府も沖縄の人たちの叫びを受け止めません。逆に憲法9条を変更しようとしています。普天間基地を返還しないで、辺野古基地を建設しようとしています。
 しかし沖縄の人たちの体験が醸し出す 「命どぅ宝」 の思いで闘いを続けています。だれにも屈服させることはできません。
 沖縄にとって 「戦後70年間平和だった日本」 は、国家って何、軍隊って何と問いつづけた歴史です。

 このようなことは、すべて形式的であれ国会の承認を経て起きた事態です。そこからの教訓は、国会であろうが他の何処でであろうが、

  戦争は身体を張っても阻むべし

です。


 生き残った戦争犠牲者は後遺症に苦しみます。
 1954年3月1日、アメリカがビキニ珊礁でおこなった水爆実験で第五福竜丸が死の灰を浴びました。9月23日、無線長の久保山愛吉さんが 「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」 と言い残して急性放射線障害で亡くなります。
 このことが報じられると 「原水爆実験反対」 の署名運動は全国に、そして世界に広がっていきます。1年間で3千万人を超す署名が集まりました。(2014年2月28日の 「活動報告」 参照)
 翌年8月には第1回原水爆禁止世界大会が広島市と長崎で開かれました。
 長崎の大会で被爆者が抱きかかえられて登場し発言に立ちます。
 治療方法もわからず、多くの被爆者が死んでいく中で、不安と恐怖の毎日でした。朝鮮戦争が起きるとまた同じことが繰り返されるのではないかと恐怖でした。何度も死んでしまいたいと思いました。
 でも世界大会に参加して、戦争勢力を平和勢力が包囲していると受け止めた時、恐怖が払しょくされました。思わずでた言葉が 「生きていてよかった」 です。

 戦争による精神障害・PTSD罹患者にとって平和運動は何よりの特効薬です。
 戦争は、兵士もそれ以外でも多くの精神障害者を作り出しました。そのことを知ったら、罹患しない・させない状況を作り続けることこそが大切です。


 60年安保闘争の時、岸首相は 「声なき声は私を支持している」 と発言しました。
 その直後 「声なき声も安保条約に反対している」 という声が上がり、市民運動団体 「声なき声の会」 が結成されました。その潮流が 「ベトナムに平和を!市民連合」 を準備していきます。

 1992年6月、自衛隊を初めて海外に出すためのPKO法案が出され、反対闘争が大きく盛り上がりました。連日国会周辺に大勢の人が集まり、抗議の声をあげ続けました。
 国会内では会期内の成立を阻止するため、採決に際しては 「牛歩戦術」 が展開されました。投票が終了するまでは議場閉鎖で、一端外に出たら入場できません。女性議員たちは紙おむつを身に着けて議場に臨んでいたといわれています。
 成立後の市民運動の反省会で、諦めないで運動を続けることが確認されました。そこで出た発言です。「牛歩戦術の最中は、徴兵制度導入を1秒1分遅らせていると確信して応援していました」
 PKO法案反対闘争は、その後、政府が今回の戦争法案を提出するまで23年を要したという状況を作ったと確信します。

 今回の反対運動は一夜にして盛り上がったわけではありません。いろいろな思いが、新しい世代とともに爆発したのです。
 一昨年12月6日深夜、「秘密保護法案」 が参議院で採決されました。この時の反対運動が、今回に引き継がれています。(2013年12月10日の 「活動報告」 参照)


 少し前、実際にあった、聞いた話です。
 ある高校の2年生のクラスは、授業が始まっても生徒たちはすぐに騒ぎ出して集中しません。注意してもあまり効き目はありません。いつもです。出席簿の表紙が硬いのは、生徒から物が投げられたとき盾代わりにするためだと実感して常に持っていたといいます。
 3学期末の国語の授業は授業時間を2時間分残して教科書は終わってしまいました。
 教師は、広島県立第二高等女学校の教師と生徒の原爆体験をもとにして作った朗読劇のシナリオを生徒に配りました。いつもと違って静かです。
 しばらくすると、いつも最初に騒ぐ生徒が声をあげました。
 「先生かわいそうじゃん」
 「どこがかわいそうなの」 と教師が聞きました。
 「全部かわいそうじゃん。悲しいじゃん。先生はかわいそうじゃないのかよ」
 「かわいそうだけど本当にあった話です。みんなと同じくらいの年齢で」
 「こんな目に合わせちゃだめだよ。先生は戦争に反対しなかったのかよ」
 この一言を聞いて、この授業をして良かったと思ったと言います。
 「生まれていません。みんなにはこのようなことを繰り返さないようにしてほしいと思っています」
 「俺こんなの嫌だから絶対反対するよ」
 時代背景を説明した後、グループ編成をし、役割を決めて練習して次回に発表してもらうと告げました。

 次回の授業です。
 いつも最初に騒ぐ生徒のグループの番になりました。彼は真剣な顔ですが棒読みです。
 「もう少し感情をこめて」 と教師は注意しました。
 すると感情を込めて読み続けました。1年間で、はじめて教師の注意に素直に従いました。

 授業が終わりました。
 いつも最初に騒ぐ生徒が口を開きました。
 「先生、3年になっても俺たち先生と付き合ってもいいぜ」
 「私は臨時非常勤なので3月一杯で契約満了です」
 最後の瞬間です。教師は元気で頑張って、来年は全員そろって卒業して欲しいほしいと告げました。
 いつも最初に騒ぐ生徒からの “送辞” です。
 「みんな頑張るから。先生、1年間ありがとな。先生も頑張れよ」


 過去は、断絶が生じた時に過去になります。時代・世代を越えて現在の課題として共鳴・共有された時に、断絶は埋められ、引き戻されて活かされます。「過ちを繰りかえさせない」 ことが出来ます。(2014年6月13日の 「活動報告」 参照) 


   「活動報告」 2014.6.13
   「活動報告」 2014.2.28
   「活動報告」 2013.12.10
   「活動報告」 2013.4.16
   「活動報告」 2013.2.22
   「活動報告」 2012.6.12
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから 
この記事のURL | その他 | ▲ top
沖縄戦がおわったとき  食べるものと言えば  海からの恵みだったはずだ
2015/09/15(Tue)
 9月15日(火)

 9月12日、国会を包囲して 「止めよう! 辺野古埋立て 9・12国会包囲行動」 が開催されました。
 早朝からテレビは、沖縄防衛局が新基地建設に向けた海上作業を再開したことを報道していました。8月10日以降中断していましたが、戦争法案の国会審議が最終局面に差しかかっている時期に政府の強気な姿勢の現れなのか、焦りなのか。電車の中では、集会に向かうらしき人たちが怒りを込めて話題にしています。

 集会開始前から 「沖縄を返せ」 の歌が繰り返し歌われていました。

  かたき土を破りて 
  民族のいかりにもゆる島 沖縄よ
  我らと我らの祖先が 血と汗をもって
  守りそだてた沖縄よ
  我らは叫ぶ 沖縄よ 
  我らのものだ 沖縄は
  沖縄を返せ 沖縄に返せ

 「沖縄を返せ」 を初めて聞いたのは 「復帰」 前です。当時は、「沖縄返還」 「沖縄奪還」 「沖縄解放」 などのスローガンが飛び交っていました。そのようななかで特に、本土で

  我らのものだ 沖縄は
  沖縄を返せ 沖縄を返せ

の歌詞に、どこに返すんだ、誰に返すんだという疑問が沸きました。拒絶反応から歌ったことはありませんでした。
 その後、東京・虎の門ホールでのコンサートで、沖縄の歌手大工哲弘が

  我らのものだ 沖縄は
  沖縄を返せ 沖縄へ返せ

と歌いました。「霞が関」 での沖縄の叫びでした。一気に好きになりました。
その後、大工哲弘は

  沖縄を返せ 沖縄へ返せ

の後に

  沖縄 輝け 沖縄よ輝け

と続けています。

 辺野古建設反対闘争では 「沖縄に返せ」 で各地で歌われています。辺野古のゲート前では寝転んで歌われました。県民集会や県庁ロビーではスクラムを組んで歌われています。そして国会前でも歌われました。


 12日の集会は、「普天間基地即時閉鎖! 辺野古新基地反対! 戦争法案廃案! 安倍政権打倒!」 に併せて急きょ 「新基地作業再開強行糾弾!」 のスローガンが加わりました。
 多くの人の発言の後、集まった22000人でヒューマンチェーンを実現しました。横断歩道が青信号の時に繋ぎました。
 沖縄を取り巻く状況にはもう細かい説明はいりません。
 戦争法案の国会審議が最終局面での新基地建設再開。このこと自体が、2つが一体のものであることを物語ります。米軍基地だけでなく自衛隊強化のための基地建設です。
 この後も戦争法案反対、辺野古基地建設反対の闘いは一体のものとしてつづきます。


 4月10日付の毎日新聞夕刊に作家の落合恵子さんの詩が掲載されました。

   ◇沖縄の辞書

  あなたよ
  世界中でもっとも愛 (いと) おしいひとを考えよう
  それはわが子? いつの間にか老いた親? つれあい?
  半年前からあなたの心に住みついたあのひと?
  
  わたしよ
  心の奥に降り積もった 憤り 屈辱 慟哭 (どうこく)
  過ぎた日々に受けた差別の記憶を掻かき集めよ
  それらすべてが 沖縄のひとりびとりに
  いまもなお 存在するのだ
  彼女はあなたかもしれない 彼はわたしかもしれない
  沖縄の辞書を開こう
 
  2015年4月5日 ようやくやってきたひとが
  何度も使った 「粛々と」
  沖縄の辞書に倣って 広辞苑も国語辞典も
  その意味を書きかえなければならない
  「民意を踏みにじって」、「痛みへの想像力を欠如させたまま」、「上から目線で」 と
   
  はじめて沖縄を訪れたのは ヒカンザクラが咲く季節
  土産代わりに持ち帰ったのは
  市場のおばあが教えてくれた あのことば
  「なんくるないさー」
  なんとかなるさーという意味だ と とびきりの笑顔
  そのあと ぽつりとつぶやいた
  そうとでも思わないと生きてこれなかった
  何度目かの沖縄 きれいな貝がらと共に贈られたことば 「ぬちどぅ たから」
  官邸近くの抗議行動
  名護から駆けつけた女たちは
  福島への連帯を同じことばで表した
  「ぬちどぅ たから、いのちこそ宝!」
 
  「想像してごらん、ですよ」
  まつげの長い 島の高校生は
  レノンの歌のように静かに言った
  「国土面積の0・6%しかない沖縄県に
  在日米軍専用施設の74%があるんですよ
  わが家が勝手に占領され 自分たちは使えないなんて
  選挙の結果を踏みにじるのが 民主主義ですか?
  本土にとって沖縄とは?
  本土にとって わたしたちって何なんですか?」
  真っ直すぐな瞳に 突然盛り上がった涙
  息苦しくなって わたしは海に目を逃がす
  しかし 心は逃げられない
 
  2015年4月5日 知事は言った
  「沖縄県が自ら基地を提供したことはない」
  そこで 「どくん!」と本土のわたしがうめく
  ひとつ屋根の下で暮らす家族のひとりに隠れて
  他の家族みんなで うまいもんを食らう
  その卑しさが その醜悪さが わたしをうちのめす
  沖縄の辞書にはあって 
  本土の辞書には載っていないことばが 他にはないか?
 
  だからわたしは 自分と約束する
  あの島の子どもたちに
  若者にも おばあにもおじいにも
  共に歩かせてください 祈りと抵抗の時を
  平和にかかわるひとつひとつが
  「粛々と」 切り崩されていく現在 (いま)
  立ちはだかるのだ わたしよ
  まっとうに抗 (あらが) うことに ためらいはいらない


 海上作業に抵抗する人たちが乗る船に、漁民の思いを書いた大きな白布が張られています。

  あの沖縄戦がおわったとき
  山はやけ 国土もやけ ぶたも
  牛も 馬も
  陸のものは すべて焼かれた
  食べるものと言えば
  海からの恵みだったはずだ
  その海への恩がえしは
  海を壊すことでは ないはずだ
         山城 義勝

 同じ思いを、辺野古基地建設の話が出た後に、住民が座り込みを続けている小屋を訪れた時に聞きました。
 「基地建設が始まったらどうなさいますか」 誰かが住民の方に聞きました。「海に座るさー」 とおばあは答えました。「戦時中も、戦後の何もない時も、子供たちに食べ物をくれた海だもの。守っていくさー。そうすれば食う心配はないよー」 (2012年5月15日の 「活動報告」)

 この布を眺めながら、海上保安庁・保安官が反対派を規制・阻止します。
 保安官のなかに精神的体調不良者が発生し、隊内はストレスが充満したなかでいじめが起きているという話を聞きます。
 ゲート前やそれ以外でも反対派の排除に警察官が動員されます。ほとんどの警察官は地元出身です。
 古い話ですが、85年に、浦添市の公会堂で開催された嘉手納基地強制使用の土地収用委員会を傍聴しました。委員長が審議打ち切りを宣告すると傍聴人たちが壇上に駆け上りました。排除のために警察官が動員されます。そこでは高校教師と教え子が対峙したという話をあとで聞きました。
 今年3月4日、共同通信は 「辺野古テント撤去業務『苦痛』 国交労が申し入れ」 の記事を発信しました。
「沖縄国家公務員労組は4日、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設をめぐり、新基地予定地に隣接する米軍キャンプ・シュワブのゲート付近に反対派市民が設営したテントの撤去に向けた業務は職員に苦痛を与えるとして、関わらせないよう沖縄総合事務局に申し入れた。
 労組が事務局に提出した申し入れ書によると、撤去に向けた反対派への監視活動は 『県民と敵対し精神的にも肉体的にも耐えがたい苦痛だ』 と指摘、テント撤去が目的の業務に職員を動員しないよう求めた。労組によると、対応した事務局幹部は 『国道の不法占用を正常化するための業務だ』 と説明したとしている。」
 国は本当に汚いです。


 2012年5月15日の 「活動報告」 の再録です。
 少し古い話ですが、宜野湾市で普天間基地撤去の運動を続けている女性団体の方から話を聞く機会がありました。「基地移設は右手の荷物を左手に持ち変えるだけ」 という主張です。
 彼女たちは、基地が宜野湾市からなくなればどこに移設されてもいいという考えを持ちません。たらいまわしをしても何の解決にもならない、他の人に同じような苦痛を味わらせたくないという思いです。
 辺野古がある名護市に行って住民と話をします。「沖縄から基地をなくすためには新しい基地を作らせないことが一番の近道。もし新しい基地を作らなければ宜野湾にずっと置いておくというならそれでいい」 と一軒一軒説得して回ったといいます。
 すると小さい子供を持つお母さんから 「宜野湾は普天間基地で危ない思いをしているから、長いこと苦労しているから、今度は私たちが引き受けなきゃいけないんじゃないかという気持ちがあって、簡単に反対なんかできないねという話をしていました」 と言われたといいます。
 話を続けているうちに、「じゃあはっきり反対にマルをつけていいんですね」 と言ってくれたといいます。
 辺野古基地建設は、このような沖縄の人びとの思いを踏みにじって、分断の楔を打ちながら続けられてきました。それも功を奏さないとなると札束を撒き散らしています。

 国は本当に本当に汚いです。


 100年前の日本の話です。
「こうして、政府に見捨てられたまま、20年が経ってしまいました。・・・政府が棄てれば、われわれは同胞に訴えて、この鉱毒の地に独立国を造ります。大日本帝国とは関係のない独立国を造ることを、田中正造は皆様にお願いする次第でございます。」
「・・・国があって村があるのではありませんよ。人が住み、村が生まれて、それから国ができたのです。」 (日向康 『果てしなき旅(下)』

 翁長沖縄知事が発する 「アイデンティティー」 は 「独立」 とも聞こえます。
 沖縄のことは、沖縄の人たちが決めます。

   「活動報告」 2015.6.26
   「活動報告」 2012.5.15
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 沖縄 | ▲ top
「俺達は泣ぐのが嫌さに笑って居んだよ」
2015/09/11(Fri)
 9月11日 (金)

 9月11日で、東日本大震災から4年半を迎えました。
 復興はどこまで進んでいるのでしょうか。
 仮設住宅は、当初は入居から2年間と制限されていました。だから土台も堅固でない 「仮設」 です。しかし大手ハウジングが請け負った仮設は、入居するとすぐカビの発生が問題になりました。夏は蒸し風呂になり、冬は窓や壁が結露し、部屋のなかでも寒さに震える状況でした。住宅が傾きました。緊急に労働力が必要になったため経験のない労働者が集められたという事情もありましたが、設計に手抜きがありました。阪神淡路大震災の教訓がまったく活かされていません。傷みも起きています。
 また、孤独死が続いています。その状況がそのまま続いています。

 岩手、宮城両県での災害公営住宅や高台移転などの宅地造成計画戸数は約4万戸です。しかし今年3月末で完成したのは25%、来年3月でようやく50%に達すると言われています。入居を希望する半分の被災者が5年目のお正月を仮設などで迎えることになりそうです。あきらめる人たちも出てきています。
 8月13日現在で、福島県を含めると19万8513人が避難を続けています。

 災害公営住宅でもカビ発生の問題が発生しています。そして孤独死が起きています。コミュニティの問題など、この段階でも阪神淡路大震災の教訓が活かされていません。例えば1人暮らしの高齢者向けに共同生活も可能なホームのような施設にした方がいいのではという提案に対して、法律で復興・復旧とはもとの状態に戻すことなので、住宅を失った住民には住宅を提供することになっているという回答です。
 行政は、被災者の住居は雨露がしのげればいいじゃないかとでも言いたげですが、「露」 がしのげられてはいないのです。
 長期の安定した生活の拠点、安心、安全な生活ができる空間などという思考はしません。
 生活格差が大きく開き続けています。本当に、人びとの生命・生活を大切に思わない政府です。

 被災地の津波に襲われた地域ではかさ上げ工事が続いています。


 復興を遅らせているのがオリンピックです。東京の街は建設ラッシュです。
 そのなかで、東京オリンピックのために新たに建設される予定だった新国立競技場は途中でデザインや予算などに問題が噴出し、国立競技場の取り壊しが終わった段階で工事は止まっています。跡地はきれいに整地されたままです。その光景は、上空からみると被災地と似ています。
 関係者は完成に遅れが出るのではと焦ったりしているようですが、被災地はすでに遅れが出ていることについては誰も焦りません。

 被災地の人たちの思いは、オリンピックよりも復興です。オリンピックに立候補するなら、その前に被災地復興事業に目途をたててからにすべきでした。決定したら被災地の復興が後回しになるのは明らかでいた。人手も資材も高騰して首都圏に流れて行っています。
 いっそのこと新国立競技場の工事がこのまま止り続ければ、少しは人手と資材が被災地に移り、少しは復興が進みます。オリンピック開催返上は今からでも遅くありません。
 被災地から疎まれながらオリンピックを開催して、誰に何を見せ、誇るというのでしょうか。世界は東日本大震災を忘れていません。世界に恥をかくだけです。


 被災地では住宅問題もそうですが、生活格差が拡大しています。そのなかでもさらに拡大するのが子どもたち間の格差です。
 2013年11月19日の 「活動報告」 を抜粋して再録します。

 阪神淡路大震災の後10年間、兵庫県の関連機関は 『阪神・淡路大震災復興誌』 を刊行しました。同じ項目を続けて読むと状況の変化が発見できます。教育の編では、児童・生徒の被災の状況と、生活の変化、精神面の変化と心のケア対策について触れています。
 10年目の 『阪神・淡路大震災復興誌』 からです。
「しかし、被災から10年たっても児童・生徒が負った心の傷は今も残されている。大震災からの援興が広い分野で進んだ中で、いまだに解決、解消の道が遠い課題でもある。大震災から学んだ教訓だ。
 兵庫県教委は、被災直後の1996年から、震災による教育的配慮を必要とする児童・生徒数の調査を続けている。1998年度の4,106人をピークに、1997年度から3年間は4,000人の大台を超え、2000年度から減少傾向となった。要因別に見ると、被災から5年を境に、事情が変わってくる。前期は 『震災の恐怖によるストレス、住宅環境の変化、通学状況の変化』 などが主な要因。後半は 『家族・友人関係の変化』 や 『経済環境の変化』 などが漸増傾向を見せるようになる。これを県教委は 『二次的要因』 と位置づけている。」

「要配慮児童・生徒の2004年度要因 (複数回答) は 『住宅環境の変化』 が43.5% (前年40.1% 、前々年40.0%)。『経済環境の変化』 が37.1% (34.7%、33.1%)。『家族・友人関係の変化』 が36.9% (39.0%、41.0%)。『震災の恐怖によるストレス』 が29.9% (35.3%、36.8%) で、これら4項目が要因の大半を占める。4項目以外では 『学校環境の変化』 4.9% (6.9%、8.6%)、『通学状況の変化』 4.3% (4.7%、5.5%) など。
 トップの 『住宅環境の変化』 は前年と変わらないが、『経済環境の変化』 が2位 (前年4位、前々年4位) につけた。『家族・友人関係の変化』 は3位 (前年2位、前々年1位)。「震災の恐怖によるストレス」 は4位 (前年3位、前々年3位)。要因別順位は2位以下にかなりの変動が見られた。『震災の恐怖』 が大きくポイントを下げたのに対し、『経済環境』 は毎年ポイントを上げ、最近の二次的要因の特徴を2004年度も見せた。
 9年間の調査結果の流れを見ると、1996年度から1999年度までは 『震災の恐怖』 の割合が最も高かった。『住宅環境』 は1996年度、1997年度は40%を超える高い割合を占め、その後、一時減少したが、2002年度以降、再び、40%を超え、2004年度は最も高い。
 生活基盤を揺るがす災害は、直接の衝撃だけでなく、その後の生活の不安定さなどの二次的ストレスが、心理的に大きな影響をもたらし続けることが指摘されている。この調査でも1995年度から2001年度まで 『家族・友人関係の変化』 が増加し、その後やや減少したとはいえ、2004年度でも36.9%を占めている。
 また、『経済環境の変化』 は1995年度以降、一貫して、その割合が増加し、2004年は37.1%、第2位となった。このような二次的ストレスが、震災の恐怖などのストレス体験を呼び起こすことも指摘されており、今後の取り組みは、調査結果の流れ、傾向を踏まえて進める必要がある。
 『震災の恐怖ストレス』 は倒壊家屋の下敷きになるなどの体験により、再び地震があることへの極度の緊張感を持ったり、地震の夢を見て泣き出すなど。
 『住宅環境の変化』 は避難所での苦しい生活や住民移転の影響など。
 『家族・友人関係の変化』 は震災による家族や身近な人の死、保護者の別居、離婚、友人との別れなど。『経済環境の変化』 は震災の恐怖体験をしたうえ、家庭が経済的に悪化したり、保護者が失業。自宅の再建や転居費用がかさんだりするなど。」

 時間の流れとともに状況が変化していきます。10年たっても問題は深刻でした。同じような事態は、今後東日本大震災の被災地においても生まれることが想定できます。
 東日本大震災は、阪神淡路大震災の教訓をもっともっと活かしていく必要があります。今から対策が必要です。

 「家族・友人関係の変化」 や 「経済環境の変化」 を余儀なくされた児童・生徒は、進学、就職の時などに大きな転機を迎えます。希望を断念や変更せざるを得なくなったりしています。


 戦争法案反対闘争が各地で展開されています。被災地の横断幕には 「戦争法案よりも被災地復興を」 と書かれていました。2つのテーマは重ならないように思われますが、オリンピックの問題と同じように、被災地からは政府の姿勢が透けて見えます。“やる気” です。政府の政策にはっきりと優先順位があり、予算執行もそうです。うしろの方の順序の課題はほったらかしです。

 戦争法案が成立したらかき集められる自衛隊員に、「家族・友人関係の変化」 や「経済環境の変化」 を余儀なくされた児童・生徒が、衣食住の心配はいらないという条件を選んで応募することも想定されます。震災の時に助けてもらったという思いを持っていたらなおさらです。また東北が兵士の供給基地となる危険性があります。
 生活格差の放置は自衛隊員を集めるには好条件です。


 しかし、被災地の人たちは、政府から見捨てられたからといって黙っているわけではありません。支援を期待できないなかで自立も始まっています。
 そのエネルギーは東北の伝統でもあります。

 2011年7月15日の 「活動報告」 の再録です。
 宮古市田老地区は、今回の震災時には約4.400人が暮らしていました。日本で一番強固といわれる防潮堤が築かれていました。防潮堤は海寄りと内寄りと二重に張り巡らされ、海面から10.45メートルの高さ、上辺の幅約3メートル、延長2.433メートルで集落を囲み、「田老万里の長城」 と呼ばれていました。
 1933年の昭和三陸津波による町の壊滅的な被害を受けて建設が開始されたものです。
 1896年の明治三陸津波では死者1.859人、流失家屋285戸、漁船流失540隻の被害を出しました。1933年3月3日の昭和三陸津波では、559戸中500戸が流失、被害地人口2.773人中、死者911人、一家全滅が66戸、漁船流失990隻の被害を出しました。
 しかし60年のチリ地震津波では、三陸海岸の他の地域で犠牲者が出ましたが、田老地区ではを出しませんでした。
 今回の巨大津波は防潮堤を軽々越えてしまいました。現時点で死者420人、行方不明者170人です。しかしなかったらもっとひどい被害があったと思われます。

 昭和三陸津波の頃は、29年のウォール街の株の暴落をきっかけに始まった世界大恐慌の影響による30年以来の大不況に加えて、31 年の東北・北海道の凶作、32年の不作と続いていました。
 田老村にも満洲への開拓移民の話が持ち上がったといいます。しかし生き残った村民は今度こそ末永く安住できる田老村にするための津波対策を考え、住居の高台への異動と防潮堤の建造を開始します。
 満洲開拓移民推進の国策に協力しなかったのです。

 今、被災地では防潮堤建設が進められています。
 3月24日の 「活動報告」 に書きましたが、宮城県女川町では膨大な防潮堤建設に反対し中止させました。
 震災直後、商工会議所の人たちは 「小さいけど ピカピカ光る女川をつくろう」 と町づくりを始めました。津波の大きさは予測できません。自然には逆らえません。そのことを承知で海と共存してきたのです。今は 「津波に弱い街づくり」 をしています。危険と思ったらすぐ避難する防災対策を進めます。だから防潮堤は作らせません。改めて海の資源を大切にし、逃げないで共存しようとしています。
 セメント会社、鉄鋼会社、土木建設会社を儲けさせません。


 井上ひさしの小説 『吉里吉里人』 は日本国から独立します。
「国が先に在ったのか、それとも人間が先に在ったのか、これを問うのは野暮の骨頂だろう、人間が先に在ったにきまっているからである。」 (井上ひさし 『吉里吉里人の前宣伝』) 『社会科学の方法』 8巻9号、1975年 樋口陽一著 『比較の中の日本国憲法』 (岩波新書) から孫引き)
「吉里吉里人たちは、せっかく日本国憲法というものを持ちながらそれを宝のもち腐れにしているしている日本国に愛想をつかして、日本国憲法をそのままこの地方の方言つまり吉里吉里語に翻訳した吉里吉里国憲法ののもとで、新しい国づくりをはじめる。」 (『比較の中の日本国憲法』)

 『吉里吉里人』 の第8章は 「俺達は泣ぐのが嫌さに笑って居んだよ」 です。被災地の人たちの心情を表しているフレーズでもあります。“津波のやつら” に襲われた後は 「泣きたかったよ」 ともらします。しかしその後、負けないで全国の支援を受けながら自力で立ち上がりました。

 吉里吉里国の憲法づくりの議論です。(吉里吉里語読みのルビがふってありますが省略します)
 1人が提案します。
「たすかに吉里吉里国防衛同好会の陸上班ど空中班ば、それぞれ、吉里吉里国陸軍ど空軍さ格上げ為んのも1づの方法ではあっこったよ」
「趣味の集りば正規軍さ格上げ為る。別のこどばで言うど、吉里吉里国が憲法ば改正すて軍備ば整える。そすてがらに、吉里吉里ば四方八方がら包囲すて居る日本国の自衛隊さ逆襲ば仕掛げる」
 他の1人が同調します。
「俺の願いはたンだ一づよ。この吉里吉里国が一日も早ぐ、否、一分一秒でも早ぐ、一人前の独立国さ成る事よ。それにはよ、沼袋の爺様、出来るだけ早ぐ、んで、出来るだけ多ぐの国家がら 『吉里吉里国を一個の国家として認める』 言う御墨付ば貰う事だ。その為に軍備ば持った方が良なら、軍備ば持づ事にすんべ」

 沼袋老人が説得します。
「此処で短気ば起すで無。ガンダ、そすてがらに御参集の愚人会議の皆の衆、頼むがら初心さ戻って呉ろ。世界の国々の独立承認の御墨付欲すさに、こごさ至って軍備ば持ったらば吉里吉里国憲法第九条はどうなる?」
「……吉里吉里国民は、はァ、正義ど秩序ば基調ど為る国際平和ば誠実に希求す、国権の発動たる戦争ど、武力さ依っかがった威嚇又ァ武力の行使は、はァ、国際紛争ば解決する手段とすては、永久にこれば放棄すっと。この目的ば達すっため、陸海空軍、その他の戦力は、はァ、保持しない。国の交戦権は、はァ認めねえ。……美しいのう。子守唄の様に優しいのう。まるでお天道様だ、公明正大で、よう。そすてがらに、まんつまんつ雄々しいのう。力強い言葉だのう。皆の衆も知っての通り、俺達、吉里吉里人は、この条文ば日本国憲法がら盗んだんだっちゃ。この条文さ、惚れで惚れで、惚れ抜いで、そんでそっくり掻っ払って来たんだっちゃ。吉里吉里国の独立の理由、これははァとてもの事に一口では言われねえ。独立の理由は千できかねえ、万でもきかねえ、億ほども、夜の空の星コの数ほどもあっこった。だども、皆の衆、この星コの数ほども有る理由の内で、キラキラて、一番星より明るぐ輝ぐなァ、この第九条す。んだったべ、皆の衆? 俺達が日本国民だった頃、つまり昨日まで、日本政府のお偉方ァ、何か言うど、この第九条ば継子扱いすて居だったもんだ。やれ、現状に適わん、やれ、アメリカから占領軍から押し付けられた憲法だ、やれ、ソ連が侵略侵攻してきたらどうすんだ。……第九条はやいのやいのて苛められで居だったっけ」

 吉里吉里国は、憲法九条を苛める日本国から、憲法と惚れぬいた九条をかっぱらってきて守るために独立するのです。みな同意に至ります。

 政府が戦争法案を強行するなら、人びとは吉里吉里国と同じように、憲法を守る意識を固め、真正面から対峙せざるを得ません。今までの関係性ではありません。「国が先に在ったのか、それとも人間が先に在ったのか、人間が先に在ったにきまっているからである。」 の確認による意識の 「独立」 です。

 被災地からは、日本政府の政治の姿勢とその危険性がはっきりと見えます。


   「活動報告」 2015.3.24
   「活動報告」 2013.11.19
   「活動報告」 2011.7.15
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 東日本大震災 | ▲ top
ドイツ 「戦争の実態は、人道支援というベールの陰に隠されていた」
2015/09/08(Tue)
 9月8日(火)

 「戦争法案」 の国会審議が進む中で、アフガニスタンに派遣したドイツの状況が取りだたされています。実際にどうだったのか探ってみます。

 最初に、ル・モンド・ディプロマティーク日本語 11年2月号などからです。 

 西ドイツは東西冷戦のさなか、1955年に北大西洋条約機構 (NATO) の一員として再軍備に踏み切ります。ただ、憲法に当たる基本法はNATO域外への派兵を認めず、専守防衛に徹しました。
 91年の湾岸戦争の時は、多国籍軍に派兵しない代わりに、70億ドル (日本は130億ドル) の経済支援をします。しかしアメリカの新聞などからは 「小切手外交」 と批判されます。当時のコール首相は 「国際社会での責務を果たす」 と宣言。基本法の解釈を変え、NATO域外にも派兵する方針転換をします。
 94年に憲法裁判所が域外派兵を合憲と判断します。96年からの、住民虐殺が行われたコソボ紛争においては戦後初の戦時派兵となる空爆に参加しました。
 
 2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが発生した直後から、米英仏など50カ国が、国連決議の下に国際治安支援部隊 (ISAF) としてアフガニスタンに派遣を開始します。以降、延べ8万5000人の将兵を派遣しました。
 03年6月、現地で活動中の部隊が自爆攻撃を受け、兵士4人が死亡し、29人が負傷しました。以後も、テロの標的となったり、戦闘に巻き込まれたりして命を落とす兵士が相次ぎます。しかし状況についての細かい報告は行われず、「戦死者」 の存在は認められませんでした。
 ドイツ国防軍もアメリカを支援する目的でタリバン政権を攻撃する 「アフガニスタンにおける不朽の自由作戦 (OEF) に参加しました。当初、首都カブールに1200人の兵士を駐留させていただけでしたが、2006年にはアフガニスタン北部の治安維持を任されます。

 2009年9月4日、ISAFに加わっているドイツ部隊の隊長の1人が、反政府勢力に奪われた2台のタンクローリーを爆撃するよう、NATO空軍に要請しました。陸路で奪還を試みればドイツ兵に危険が及ぶと主張したのです。その結果、142人の犠牲者が出ました。大半が一般市民です。この事件は間もなく クンドゥズの不祥事」 呼ばれるようになり、ドイツが掲げていたイメージは砕け散りました。  

 2010年は安定化の年になるという触れ込みでしたが、ISAFが発足した2003年以来、最も殺人と暴力に満ちた年となります。
 2月には、アメリカの強い要請により500人の増派に応じ、アメリカ (13万人)、イギリス (1万人) につぎ、第3の座を固めます。(要員数は国会によって上限5350人に設定されていましたが、おおむね4600人前後で推移します。フランスの3850人を上回ります)
 ドイツ社会も議員も騙されたという気持ちを抱きます。それをなだめるために国会による調査が開始され、連立政権の交代によりうやむやになるまでの間に、国防相と国防次官、参謀総長の辞任という結果を生みます。
 4月2日、アフガニスタンのクンドゥズ近郊で、パトロールをしていた空挺部隊の将兵がタリバンの待ち伏せ攻撃にあって、3人が戦死し8人が重軽傷を負いました。4月15日には、バグランという町の近くで軍医らの乗った装甲車がタリバンのロケット砲によって狙い撃ちされ、4人が死亡し5人が重軽傷を負いました。ドイツ連邦軍にとって創立以来最も犠牲者が多い月となりました。
 2002年にアフガニスタン駐留を始めて以来、戦死したドイツ兵の数はこれで43人になりました。

 4月、メルケル首相は就任後初めて、アフガニスタンで殉死したドイツ兵7人の遺体を空港で出迎えることになりました。「ドイツ全体が皆さんに感謝し、敬意を表します」 と述べ彼らの棺の前で頭を下げます。
 そして、グッテンベルク国防大臣がクンドゥズで3人が戦死した後に発表した談話の中でグッテンベルク国防大臣がクンドゥズで3人が戦死した後に発表した談話の中で、ドイツ軍は第二次世界大戦後初めて、本格的な戦争に加わっていることを認めました。それまでタブーだった「戦争」という言葉を渋々とながら口にしたのです。
 「戦争の実態は、人道支援というベールの陰に隠されていた」 と言われはじめます。

 2011年は、創設55年の歴史を持つドイツ連邦軍にとって、かつてない激動の年となります。
 ドイツ経済研究所 (DIW) によれば、国防予算として計上された10億ユーロではなく、30億ユーロにも上ります。これは他の省庁が負担する費用、傷害者の治療費と恩給、家族手当などを含めた金額です。2001年から、撤退開始の2013年までの累計では360億ユーロとなります。

 これまでアフガニスタンでは、米軍を中心に3000人以上の兵士が戦死し、ドイツ国防軍の兵士も54人が命を落としています。兵士は帰国後、恐怖体験がよみがえるフラッシュバックや不眠に悩まされました

 約11年にわたってアフガニスタンに駐留していたドイツ連邦軍は、2013年10月末までに完全に撤退します。


  『世界』 の10月号にジャーナリストふくもとまさお氏の 「派遣地域に 『安全』 はない ドイツ・アフガン派兵の実態」 の報告が載りました。ル・モンド・ディプロマティーク日本語と重なる個所がありますが、流れを理解しやすくするためです。

 1990年に入って冷戦が終結すると、平和維持目的のNATO域外へのドイツ兵派遣が急速に増えはじめました。武装して国外派兵する場合、ドイツでは憲法上議会決議が必要となっています。しかし、国連決議やNATO決議だけでドイツ兵が派されました。
たとえば、第二次湾岸戦争中・戦後の地中海、ペルシャ湾への海軍の派遣 (1990年、1991年)、ユーゴスラビアに対する経済制裁を監視するためのアドリア海への海軍の派遣 (1993年)、ソマリアへの陸軍の派遣 (1993年開始) などです。

 そのことが、違憲か合憲かの議論へと発展します。派兵反対派が憲法裁判所に提訴しました。その判決が1994年に出ます。NATO域外への派兵は、憲法に相当する基本法の定める集団的自衛権に当たるとして合憲とされました。しかし武装派兵する場合、事前に議会決議が必要なことが再確認されました。
 それによって2005年、ドイツ兵の国外派遣の議会決議の内容を明確に定める議会関与法が制定されました。国外派遣は国連決議やNATO決議など同盟国決議を前提とし、政府が同盟国と調整した上で、派遣の目的、派遣地域、最大派兵数、派遣兵士の種類、派遣期間、予想経費とその資金調達方法を国会に提示して、原則として国会の事前承認を得なければならなくなります。

 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生します。その後すぐに、ドイツ国防軍はアメリカを支援する目的でタリバン政権を攻撃する 「アフガニスタンにおける不朽の自由作戦 (OEF) に参加しました。輸送部隊や偵察機を派遣するなどの後方支援的な活動でした。それはドイツが最初に申し出た支援方法でした。
 12月にアフガニスタンの治安維持を目的とした 「国際治安支援部隊 (ISAF)」 が成立すると、ドイツ国防軍はNATO軍の一員としてISAFに参加します。
 OEF、ISAFともNATO軍によるアフガン派兵は国連軍としてではなく、国連の事前決議を必要としないNATOの集団的自衛権を発動したものです。
 ドイツ国防軍の使命は一般的に、NATO軍の一員として 「ネットワークされた安全保障」 (国防白書) を堅持することだとされています。そのために、平和維持 (軍事手段) と復興 (民政支援) を組み合わせて国際協力に貢献します。

 ドイツ政府は当初、派遣はアフガンの復興を目的とするもので、それほど危険なものだとは想定していませんでした。しかし首都カブール周辺に制限されていたISAFの活動が、2003年にはアフガン全土に拡大されます。2005年後半になると、タリバン武装勢力が各地で蜂起し、自爆テロも多発してきます。アフガン情勢は一変します。
 カブール周辺の治安維持を担当していたドイツ国防軍は2006年、クンドゥーズを中心としたアフガン北部の指揮を委任されます。それとともに、ドイツ兵の派遣数も当初の700人から最大500人近くにまで拡大しなければならなくなりました。
 さらに2009年には、敵が撃ってこない限り撃ってはならないというそれまでの原則を、敵と確認できれば撃ってもいいと変更しました。それだけ情勢が危険になったということです。さらに、派遣期間が期限付きだったので、何度となく派遣を延長するための議会決議も行われました。

 ドイツ国防軍は2014年末までで戦闘部隊の派遣を終え、現在は現地の警察や軍を教育するために兵士を派遣しています。
 これまで、アフガン派遣によって自殺なども含めて55人のドイツ兵が死亡しました。そのうち、35人が敵の攻撃によるものです。ドイツ兵の死亡が状態化し、ドイツ兵が民間人を殺害しまうことが大きな政治問題となっています。
 実際2009年には、ドイツ空軍大佐の命令行われたアフガン北部でのタンクローリーへの空爆によって、アフガンの民間人数十人が死亡しています。

 ベルリン国防軍病院では、2014人の1年間で、431人のPTSD患者を治療しました。そのうち、204人が新規患者でした。今年前半の6か月だけでも、新規患者はすでに134人に上ります。ドイツ国防軍全体では、年間平均で約700人のPTSD患者が治療を受けているといいます。そのうちの多くは、アフガンからの帰還兵です。うつ病などその他の精神障害も含めると、兵士の約20%が治療中です。
 問題は、兵士が帰還後すぐには自分が心的障害を受けていると認識できません。軍医中尉によると、帰還後1年以内に治療を開始した患者の割合は平均で10%にすぎません



 ドイツでは2007年、派遣後再配置法が制定されました。国外派遣後に障害の残った兵士の障害度に応じて、再度国外派遣の有無や事務職などへの配置転換、就業不可の認定とその場合の支援と補償についてきていしています。同法は当初、身体障害だけを対象に規制されました。だが、数年後には改正して精神障害にまで拡大しなければならなくなります。
 PTSDなど体調不良で帰国したら、治療を受けるために再び国防軍兵士として採用されます。それによって生活が保障され、治療費も国防軍が負担します。

 家族にも二次的なトラウマが生じています。そのため、「氷の花」というトラウマを持つ兵士の家族のための自助グループが立ち上がっています。

 
 ドイツでの戦争による精神障害への治療や補償は、第二次大戦後教訓から進んでいます。     
「1950年代後半から60年代前半にかけての限られた一時期に、精神病理学は強制収容所から開放された被迫害者が呈する様々の精神症状についての、一連の客観的研究を行なってはいる。……このような研究のきっかけとなったのは、1953年に当時の西ドイツ連邦会議において制定された、ナチ時代の被迫害者に対する補償措置 『連邦補償法』 (BEC) であった。この法律によって、強制収容所体験者で健康上の被害を被った者にも、はじめて一定額の一時金または年金が支給されることになった。」(小俣和一郎著 『ドイツ精神病理学の戦後史』)

「……たしかにアウシュビッツにおける日常が、重労働、飢餓、拷問、人体実験、選別などの恐怖に満ちていたことは今ここで再度強調するまでもない。しかしながら、強制収容所における体験を、ただ単に肉体的消滅の恐怖だけに限定してしまうのは、あまりにも皮相的である。そこでの外傷体験の中核にあったものは、被収容者個人の存在価値を根本的に否定する、持続的で精神的な虐待であった。だからこそ、肉体的な拘束が解放された戦後に至ってもなお、精神の負った破壊的傷痕は深部の記憶として生き続け、一連の深刻な後遺症を残すことになったのである。」

「新生ドイツ国家は、当然、戦死者の遺族や自国の戦争犠牲者に対する社会的補償 (遺族年金など) の問題に直面する。しかし、そうした自国民に対する補償を行なうに当っては、同時にナチズムの犠牲となったユダヤ人たちへの補償を認めることなしには、外交政策上も取りかかれなかったのである。……
1953年9月19日に、西ドイツ議会で制定された 『連邦補償法』 (BEG) は、そうした様々の個人的被害に対応する目的をもっていた。……
 連邦補償法で認められる請求の内容は、迫害に起因する生命の喪失、肉体と健康の損   傷、自由の喪失、財産の喪失、資本の喪失、職業上の昇進または経済的成功の損害、生命保険および年金支払いの損失などである……」


 現在の対応も治療方法もほかの国と比べたらすすんでいます。しかし、戦争や戦闘、派兵がなかったらそもそも必要すらないことです。
 戦争は、相手国の兵士だけでなく、民間人も殺し、さらに自国兵も、家族も長期の被害者にします

 これらが、きちんと議会や裁判所が機能したドイツの実態です。
 このようなことを踏まえたら、機能していない日本ではどのような事態にいたるか想像もつきません。戦争法案の審議における政府の答弁は、理想論にもならない空論です。
 戦争法案は、手続きを踏んでいないなどの理由ではなく廃案以外にありません。


   「軍隊の惨事ストレス対策」
   「活動報告」 2015.8.28
   「活動報告」 2015.7.3
   「活動報告」 2014.7.4
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 災害ストレス | ▲ top
| メイン | 次ページ