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「生産方法在って生活在るのではない。生活在って而して生産方法があるのである」
2015/08/25(Tue)
 8月25日(火)

 歴史学者の中村政則さんが8月4日、亡くなりました。
 中村さんの著作 『労働者と農民 -日本近代をささえた人々-』 (小学館ライブラリー) は、この 「活動報告」 で一番多く引用させてもらっています。
 中村さんは単に労働者や農民問題を取り扱うということではなく、埋もれている本物の歴史を掘り起こし、常に 「下から目線」 で生き様を探っていました。定説についてはその資料を行使して論評していました。ですから人間の生きざまを捉えた著書は、100年前の出来事でもまったく古臭さを感じさせません。歴史を、そこに登場する人びとの普遍性から迫っていました。
 『労働者と農民 -日本近代をささえた人々-』 から、現在に問題提起をしていると思われる製糸業の争議を拾ってみます。


 第一次世界大戦前まで、新潟県魚沼地方は多雪地帯の山間僻地で、これといった副業もないため非常に多くの出稼ぎ婦女子を出していました。第一次世界大戦勃発を契機に近代的大産業が一大飛躍をとげたことにより地方の家内工業は急速に衰退します。そのためさらに出稼ぎ女工が急増します。最盛期の大正末期には北魚沼郡堀之内町から700人近い婦女子が県外に働きに出ていました。
 1916年、その出稼ぎ女工保護のため、堀之内町で北魚沼郡中部女工保護組合がつくられます。奔走したのは役場の書記・森山政吉です。
「戸籍を見るたびに、16歳から22、3歳の村の娘が結核でつぎつぎと死んでいくことがわかる。各工場の寄宿舎もみてまわったが、娘たちはみなせんべい布団にくるまって寝ているんです。これは結核になるのはあたりまえだと思った。それに工場は風紀が悪い。村内には私生児もふえてきた。結核と私生児、このまま放っておいたら村の将来はどうなるか。そう思うと、矢も楯もたまらなくなって、女工保護組合の結成にのりだしたのです。」
 組合長には村長が就任したが、女工およびその父兄、趣旨に賛同するものなど民間の有志が組合員になって自主的に作ったものです。
 目的は、(1) 帰郷中の女工に裁縫その他必要な科目をえらんで講習を行う 「特殊教養」、(2) 「健康診断」、(3) 「慰安会」、(4) 「慰問」、(5) 女工の疾病・死亡にたいし見舞金または弔慰金を贈る 「弔意」、(6) 女工各種の状態を調査する 「各種調査」、(7) 「視察」 などです。
 保護組合は、啓蒙活動に力を入れながら、「ふるさと通信」 を発行して女工たちを慰めたり、会社にかけあって待遇の改善などにつとめました。
 1926年 (大正15年) には、新潟県だけで76もの女工供給組合が出現しました。
「森山政吉は、昭和2年 (1927年) の 『山一林組』 の争議や昭和5年 (1930年) の東洋モスリン争議のときには、わざわざ工場まで出向いて、村の娘たちを連れもどしたりもした。さらに昭和初期の大不況のときには、未払い賃金のとりもどしに奔走し、県下全組合で361件を解決させたこともあったという。
 このように女工保護組合は、よわい立場の女工や女工の父兄にかわって、女工の労働者としいての権利を守るために、さまざまな功績をのこしたのであった。骨ぬき工場法しかだせない日本政府の社会政策の貧困・欠落を、必死になって埋めようとしていたのは、じつにこのような地元の人の郷土愛に発する人道主義的善意だったので」 した。

 さて、現在において、あってなきがごとしの労基法のもとの労働現場に、さらに法の知識を持たない労働者が送り出され、過酷な労働外強いられる状況が続いています。彼らを送り出す高校や大学はどのような知識を習得させて卒業生を社会に送り出しているでしょうか。即戦力のためのスキルの習得、履歴書の書き方や礼儀作法が学校教育になっていたりします。そして送り出してしまったらそれで任務は終了としています。しかしそれではあまりにも無責任です。
 「即戦力は即不要」 です。競争に負けたり、技術開発で遅れをとった時は 「即不要」 を宣告されます。その時の対応方法、予防のための法知識をあらかじめじ習得させておく必要があります。難しいことではありません。そして出身者が不当な扱いを受けた場合には、そのフォローも必要です。
 ある高校の就職クラス3年の担任は、社会人として送り出す生徒に労働基準法の知識を習得させたいと思います。そこで思いついたのがユニオンへの講師派遣です。「個人的な要請ですので講演料は支払えませんが了承していただけないでしょうか」。ユニオンの了解をえたので、校長に承諾を得に行ったら、校長は 「交通費がかかるでしょう。それは私が持ちます」 と言ったといいます。資料は、東京都が毎年作っている 「ポケット労働法」 です。卒業生はこれを持って旅立っていきました。
 ある若い労働者は自宅に帰って父親に会社のことをぼやきました。父親は 「労働組合は何してる」 と聞きます。「何もしていない」 と言うと、少数派組合での活動経験がある父親は 「脱退して他の組合に相談しろ」 とアドバイスしたといいます。先輩労働者の後輩に対する指導です。
 このような、そして女工保護組合のような、労働者を孤立させない社会的に連携する取り組みが今こそ必要に思われます。過酷な労働者の実態は社会問題です。


 長い引用です。
「製糸業は、……昭和五年前後に多条繰糸機が導入されるまでは、良質の糸をどれだけたくさん取れるかは、もっぱら女工の手先の熟練度に依存していたといっても過言ではない。そのため製糸家は女工を低賃金で、しかも長時間にわたって働かせることができるような賃金制度を考案し、能率上昇による利益はすべて自分のふところに入るような、絶妙な等級賃金制なるものを導入した。
 この等級賃金制というのは、繰目・糸目・デニール・光沢などについて工場全体の平均を決定し、その平均より上位の者から順に一等、二等というように順位をつけ、その等級の高低にしたがって賃金の多寡をきめる賃金制度である。工場によっては、これを五〇等級にまで細分しているところもあった。……
 この等級制度の巧妙な点は、製糸女工全体に払う賃金総額をあらかじめ固定し、決定してあることである。つまり、すでにあたえられた賃金総額を、女工を相互に競争させることによって取りあいさせるわけである。1人がいっしょうけんめい働いたとしても、他人もそれにおとらず働けばそれだけ平均点が上昇するから、いっしょうけんめい働いたぶんだけ賃金も上がるというわけにはゆかない。とくになまけたということでなくとも、日々精進しないかぎり、むしろ等級=賃金はさがってしまうことになる。……
 この制度のもとでは、つねに他人以上に働いていないと自己の賃金が低下するという危険に、女工はたえず怯えていなければならない。しかも、資本家は意識的に優秀な女工を優等女工・一等女工としてもてはやした。身体を酷使できる若い娘たちにとって、この賃金制度は残酷なまでに効果的であった。……こうして、娘たちは長時間の労働もいとわず、なんとかして点数をあげようと必死の努力をする。等級賃金制は、別名 『共食い制度』 といわれて、女工たちはおたがいを食いあいながら、身の細るようなはげしい労働を強制されたのである。
 さらに工場主は賞旗をつくり、毎日または毎月末に書く検番の監督下にある女工の成績を評定して、もっともよい成績をあげた検番にこの賞旗をあたえるなど、検番の競争心をあおることによって、女工の競争を奨励したりした。」

 現在の成果主義賃金制度そっくりの実態が存在しています。
 「つねに他人以上に働いていないと自己の賃金が低下するという危険に、女工はたえず怯えていなければならない。」 100年前の教訓が活かされていないのではなく、悲劇が繰り返されています。
 使用者は、労働者に対して働いただけ報われる制度などはつくりません。競争を煽って成果を上げたとしても、その何分の一かのおこぼれに預かるだけで、目標を達成するとさらにハードルは高くなります。
 これが職場環境、人間関係を破壊する構造になっていて、体調不良者や過労死を生み出しています。
 「共食い制度」 に甘んじるのではなく、労働者が 「共に生きる」 ための方策を探し出してそこから脱出していくことに挑戦する必要があります。
「1977年頃、近畿日本ツーリストの労働組合は、良好な個人成績を挙げた社員を表彰する制度の導入に数年に渡り反対し続けました。旅行契約をどれだけ取ってきたかは、外交販売員だけの成果ではない、表彰するなら、その契約に協力した全員、少なくとも支店単位で行えと主張しました。 (『躍進 近畿日本ツーリスト労働組合20年史』)」 (熊沢誠著 『格差社会ニッポンで働くということ』 から孫引) (14年4月25日の 「活動報告」 参照)
 闘い方はたくさんあります。(15年7月10日の 「活動報告」 参照)


 1927年8月30日、長野県諏訪郡平野町の諏訪湖湖畔にある合名会社林組 (山一林組) の3工場の製糸労働者が一斉にストライキに入ります。
 発端は、8月28日、日本労働総同盟全日本製糸労働組合の山一林組の従業員を主体に結成している第15支部が嘆願書を提出します。
「一、労働組合ノ加入ノ自由ヲ認メテ下サイ。……
七、従来ノ賃金ガ一般工場ヨリ非常ニ低廉ナルガ故ニ、私共ノ生活ハ困難ガアリマス。可憐ナ私共ノ為ニ左ニ記シマシタ賃金ヲ与ヘテ下サル様願ヒマス。……」
 29日、会社側代表と争議団代表が交渉に入りますが決裂し、30日午前10時、争議団は総罷業断行を通告して1213人の女工が突入します。
 断行と同時に罷業心得が渡されます。
「一、組合員は機械の回転を絶対に止めぬこと。
 一、意のままにならぬ故に、工場器具の破壊を絶対にせざること。
 一、暴言を吐き、不徳の行動に出づることを禁ず。
 一、組合員、会社側より呼び出された場合は部長に届出、決して一人にて出席せざること。出席の場合は五人以上とし、男子役員を同伴すること。」
 組合員の粗暴を戒め、倫理的退廃を防ぎ、会社側の切り崩しを警戒しながら内部の結束を固めることを考慮しています。
 会社側は就業希望者を募集しますが申し出たのは16人です。そこで会社は女工の出身家庭にストライキを続けるなら辞めてもらうしかないという内容のはがきを送付します。
 そのことを知った組合は、9月3日、謄写版刷りの父母あての手紙を作成し、女工各自の署名を付して送付します。
 4日には大規模なデモンストレーションが敢行されます。デモは大きな自信と勇気を与えました。争議団への支援も活発になっていきます。

 9月6日、会社側は反撃に出ます。警察署に取締りを依頼し、警察官と組合員との間に小競り合いが始まり、組合員から逮捕者も出ます。
 7日、会社側は工場閉鎖を声明、さらに寄宿舎の明け渡しと貯金・賃金の清算を組合側に通告します。
 12日、会社側は追い打ちをかけて本店工場の炊事場閉鎖を決行、さらに組合員が外出していた隙をねらって寄宿舎から排除します。
 この後は、組合幹部の寝返りをうって組合員を帰省させたり、行方不明になる幹部も生まれました。
 17日、最後まで残った47人の女工は散り散りに去らざるを得なくなり、18日間の闘争は終了します。
 争議団は最後の声明を出しました。
「私ども18日間の努力も空しく、遂に一時休戦のやむなきにいたりました。思えば私どもの惨目 (みじめ) な工場の待遇を改善して、人間らしき生活を呼び来たらすためには、私ども自身の力をまつよりほかに何物もないことを痛感いたします。私どもの嘆願は、かほどまでにあらゆる権力で迫害されねばならぬほどのものであるでしようか。
 夜を日についで糸繰る私どものあのわずかな嘆願は、資本家と官憲とが袋叩きにせねばならぬものでしょうか。私どもの正々堂々たる争議のどこに、内乱を取締るがごとき取締りの必要があつたでしようか。私どもは泣きました。
 初めてこの社会の虚偽を深刻に知つたからであります。強きをくじき弱きを助くる日本人の義侠心は、少くとも岡谷では滅びました。しかしながら、私どもは屈しませぬ。いかに権力や金力が偉大でありましても、私どもは労働者の人格権を確立するまでは、ひるまずたゆまずたたかいつづけます。私どもは絶望しませぬ。最後の勝利を信ずるがゆえであります。
 おわりに私どもは、激励し、援助下さつた多くの人々にたいし、厚く感謝します。なお、資本家および官憲諸士にたいしては、人として、国民として人間を解し、真に恥を知られるよう勧告いたします。」

 争議が終った翌18日付の 『信濃毎日新聞』 の社説のタイトルは 「労働争議の教訓」 です。
「初めに人間があり、人間の生活がある。そして終りも亦人間と、生活とで在る。これが人間史の全部である。/ 人間生活のあるところ、そこにありとしある生活資料の生産がある。(中略) 注意せよ。生産方法在つて生活在るのではない。生活在つて而して生産方法があるのである。従つて生産の方法と態様とは人間のものなのであって、決つしてその逆ではないのだ。(中略) 然るに岡谷に於いては、それが全く逆転してゐるのだ。人間史が、人間生活が、理論的にも現実的にも転倒してゐるのだ。それこそ製糸の街岡谷の、製糸家の、人間としての欠陥である。(中略) / 二旬に亘る女工達のあの悪戦苦闘、それはそもそも何のための苦しみ、何のための闘ひであったか。いふまでもなく、それは生産方法における一手段、即ち生産用具たるの地位から、本然の人間に立ち戻らんとする彼等の努力の表現に外ならなかった。(中略) / 女工達は繭よりも、繰糸わくよりも、そして彼等の手から繰りだされる美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを識つたのだ。(中略) 彼等は人間生活への道を、製糸家よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきが故に、山一林組の女工達は製糸家との悪戦苦闘の後、ひとまづ破れた。(中略) とはいへ、人間への途はなほ燦然たる輝きを失ふものではない。/ 歴史がその足を止めない限り、そして人間生活への道が、その燦然たる光を失はない限り、退いた女工達は、永久に眠ることをしないだらう。」

 声明も、新聞社説も 「労働者宣言」 とも呼べるものです。
 「労働者の人格権を確立するまでは、ひるまずたゆまずたたかいつづけます。」 と女工は宣言します。人格権は労働者の尊厳で普遍です。しかしそうであるゆえにまた確立は困難を極めます。
「初めに人間があり、人間の生活がある。そして終りも亦人間と、生活とで在る。これが人間史の全部である。/ 人間生活のあるところ、そこにありとしある生活資料の生産がある。(中略) 注意せよ。生産方法在って生活在るのではない。生活在って而して生産方法があるのである。従つて生産の方法と態様とは人間のものなのであって、決つしてその逆ではないのだ。」
 現在の労働者は、会社・「生産方法」の機械とコンピュータに支配され、さらに働かないでマネーゲームをしている投資家のために心身を擦りへらされています。主客が転倒しています。
 労働者の闘いは、賃金額に左右されるものではなく、人権・人格権そして生活権の獲得に向けたものでなければなりません。100年前のこの 「労働者宣言」 を労働者1人ひとりの心の中に改めて深く刻んで思いおこし、使用者とそれに加勢する為政者に対抗する社会的潮流を大きく登場させなければなりません。

 100年前と比べ、現在の労働者の置かれている状況はどれくらい前進したと言えるのでしょうか。


   「活動報告」 2015.7.10
   「活動報告」 2014.4.25
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