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「記憶し、警告し、行動せよ」
2015/08/28(Fri)
 8月28日 (金)

 7月3日の 「活動報告」 で 「戦争は、敵の兵士も味方の兵士も殺し、心身を長期に破壊する」 と書きました。

 8月13日の毎日新聞は、「陸自:イラク派遣 『戦死』 想定 連絡体制など準備」 の見出し記事を載せました。
「陸上自衛隊が2004~06年にイラク南部サマワで実施した人道復興支援活動で、『戦死』 を想定して準備していた対応の詳細がわかった。……安全保障関連法案の国会審議では自衛隊員のリスクをめぐる議論が深まらないままだが、 派遣される側の自衛隊は10年前から死に備えていた。
 08年5月に自衛隊がまとめた内部報告書の 『イラク復興支援活動行動史』 によると、 死者が出る状況を 『不測事態』 と表現。家族への通知の責任者を部隊長に指定し、留守宅の連絡先を事前に2カ所把握した。連絡時間を3時間以内としたのは、報道機関から初報が伝わることを防ぐためで、部隊と陸上幕僚監部、防衛庁 (当時) 本庁も参加して訓練も実施した。
 『死あるいは惨事と接する活動』 『多数の死体、変死体と接する活動』 で隊員が受けるストレスを 『惨事ストレス』 と規定。発生時には自衛隊中央病院 (東京) から、精神科医の医官1人、心理幹部 (カウンセラー) 1人の 『メンタルヘルス支援チーム』 を派遣するとしていた。行動史は、イラク派遣を知らされた両親がうろたえた例などを挙げ、『軍事組織においては隊員は身の危険を顧みず任務を達成することが求められ、家族にもその覚悟が求められるが、現実にはそうではない面があった』 と指摘。
  『自衛隊がやや曖昧にしてきた 『家族の意識改革』 醸成措置を行うべきである』 と記述し、 家族にも覚悟が求められるとしている。
 そのうえで、遺族に支払う弔慰金 (賞じゅつ金) の増額や、瀕死 (ひんし) の重傷を負った場合の叙勲規定の新設などを求めた。
 また重傷者を現場から運び出す手段がないため、ヘリを自前で確保するよう求めた。
  『戦闘発生現場での患者救出輸送が可能な防護性のある救急車 (装甲救急車)』 の整備も提言している。」

 『イラク復興支援活動行動史』 は国会には黒塗りで提出されました。
 政府や防衛相は、自衛隊の海外派兵で死者が出ることを当然想定しています。しかし否定します。「あり得ない」 のではなく自衛隊員の命を軽視しています。
 死者に対する補償金額がいろいろと囁かれています。1992年のPKO法の時は1億円と言われていました。おおよそ、公務災害2500万円、特別公務災害2500万円、賞じゅつ金2500万円、生命保険2500万円です。今回はこれが増額されるということでしょうか。

 日本で生命保険が浸透したのは日清戦争の時です。兵士を送り出す宇品港 (現・広島港) をひかえる軍都広島には生命保険会社の支店が出店します。1945年8月6日、原爆が投下された時、市内には14の生命保険会社の支店に200人の社員が勤務していて89人が原爆の犠牲となりました。当時、市内で一番高い建物は富国生命のビルでした。
 中島町 (現在の平和公園) にもありました。その経緯から、平和公園には、原爆犠牲者の碑 「全損保の碑」 が建立されています。公園内の唯一の労働組合の碑です。
 碑文です。
  「なぜ  あの日はあった
   なぜ  いまもつづく
   忘れまい
   あのにくしみを  この誓いを」
 碑文が気にくわない人たちもいるようです。何度か持ち去られて捨てられていました。ですから気をつけてみると欠けていたり傷ついています。

 戦争で死亡したり負傷した者に対して保険金が支払われました。しかし資金が不足します。補てんしたのは、戦争によって “被害” を受けた企業に対して政府から支払われた 「国家補償金」 です。GHQが禁止する46年2月まで続きました。(15年4月28日の 「活動報告」)戦争は、戦争中も戦後も資本を肥え太らせました。
 今回も、今頃生命保険会社は加入者が急増しているのでしょうか。


 「戦争は、敵の兵士も味方の兵士も殺し、心身を長期に破壊する」 に話を戻します。
 西日本新聞は6月1日から 【近未来からの警告~積極的平和主義の先に】 を6回連載し、欧米からアフガニスタンやイラクなどに派兵された兵士の状況を報告しています。
 長いですが全文紹介します。

 【近未来からの警告~積極的平和主義の先に】 <1> ドイツから
  「後方は安全」 幻想


 2010年11月、アフガニスタン北部クンドゥズ州の荒野。ドイツ連邦軍の兵士たちが塹壕 (ざんごう) に身をかがめ、反政府勢力に機関銃を連射する。ドドッという銃声と怒号が飛び交う。「もっと左」 「弾を補充しろ」 「伏せろ」。タタタ。敵兵が放つカラシニコフ自動小銃の乾いた音が響く‐。
 「これが僕が経験した治安維持任務です」。ドイツ南部の精神科医院の自室で5月、ドイツ軍のヨハネス・クレア先任兵長 (29) が記者に動画を見せてくれた。空挺 (くうてい) 部隊に所属していた10年6月~11年1月、国連安全保障理事会決議に基づく国際治安支援部隊 (ISAF) の一員として、アフガンに駐留した。
 約150メートル先の林に潜む敵兵との銃撃戦が続くなか、銃弾の補充役だったクレア兵長がスマートフォンで撮影。この前後、数日間で仲間5人が負傷した。「平和貢献のために行ったのに、僕は戦場に立っていた」
    ■    ■
 70年前、日本とともに敗戦国となったドイツは、大戦への反省から専守防衛に徹してきた。しかし、1990年代に憲法に当たる基本法の解釈を変更して、方針を転換。01年の米中枢同時テロ後、米軍などの攻撃でアフガンのタリバン政権が崩壊すると、民主化支援などを理由に米軍主体のISAFに参加した。
 02~14年に最大5千人 (特殊部隊除く) を派兵。武装勢力との戦闘には世論の反対が根強く、当初は比較的平穏なアフガン北部などで治安維持と復興支援に当たった。
 クレア兵長の任務もパトロールや住民交流、地雷撤去など、戦闘に直接関わらない治安維持のはずだった。が、現実は違った。7カ月間で計20回も戦闘に巻き込まれ、第2次大戦後初めて本格的地上戦を経験したドイツ兵の一人となった。
    ■    ■
 日本で新たな安全保障法案が成立すれば、戦闘中の他国軍へのより軍事色の強い後方支援や、治安維持活動が可能になる。自衛隊の活動地域が 「地球規模」 に広がり、武器使用基準は緩和される。一足先を行くドイツのように、自衛隊員が戦闘に巻き込まれるリスクが高まらないのか。
 安倍晋三首相は国会で、自衛隊による治安維持活動は 「日本には、停戦合意などの参加5原則がある。ドイツとは違う」。後方支援については「攻撃を受けない安全な場所で活動する。自衛隊のリスクは高まらない」 と説明したが、クレア兵長は 「治安状況は刻々と変化する。安全地帯と危険地帯を線引きできるという考えは幻想だった」 と振り返った。
 アフガンでのドイツ軍の殉職者は事故死や自殺を含め55人。国外派兵で過去2人だった戦死者は35人に上った。さらに、殺し殺される戦闘ストレスで帰還兵約1600人がトラウマ (心的外傷) を負ったと診断され、社会問題化した。クレア兵長もその一人だ。
 多くの犠牲を払い、ISAFは昨年末で戦闘任務を終えたが、現地の治安は悪化の一途だ。クレア兵長がつぶやいた。「僕らの任務ではアフガンを平和にできなかった。日本は別の方法を考えた方がいい」

 派兵 覚悟はあるか
 「KIA 071010」 (戦死 2010年10月7日)。アフガニスタンでの国際治安支援部隊 (ISAF) 任務から戻ったドイツ連邦軍のヨハネス・クレア先任兵長 (29) の左手首には、「戦友の命日」 の入れ墨がある。
 クレア兵長たちの派遣先は、米軍が反政府武装勢力の掃討作戦を展開するアフガン南部から800キロ以上離れた 「後方地域」。戦死した戦友のフロリアン・パウリさん=当時 (26) =は衛生兵で、アフガンの村人にも医療を提供していた。
 その日、「治療を受けたい」 と農民風の男がやってきた。パウリさんが通訳を呼ぼうとした瞬間、男が自爆し、彼を道連れにした。
 こんな体験もした。友軍が攻撃を受けているという情報が入った。救援に向かう途中、クレア兵長の前を走る装甲車が道路に仕掛けられた爆弾で爆発。鋼鉄製のドアが吹き飛んだ。
 帰国後、恐怖体験がよみがえるフラッシュバックや不眠に悩まされた。睡眠薬を飲んでも悪夢にうなされ、いらいらして外出もままならない
 友人は離れ、6年半交際した恋人にも 「あなたは変わった」 と告げられて別れた。軍を休職し、入院治療中だ。「誰が味方で、誰が敵かも分からない世界だった。心に穴があいたようで先のことは考えられない」。笑顔が寂しげだった。
   ■    ■
 国会審議が始まった安全保障法案では、自衛隊の海外活動は大幅に広がる。任務の必要性や安全確保などについて、派遣には国会の承認が必要となる。ドイツも、派遣地域などの決定には連邦議会の承認が必要とされた。議院内閣制の日本で、国会に政府のチェックが期待できるのか。
 ドイツ連邦軍のアフガン派兵計画策定に携わり、2009~13年に国外派兵司令部のトップを務めたライナー・グラーツ元中将 (64) に、首都ベルリンで会うことができた。グラーツ氏は 「反政府勢力は、われわれが安全な後方地域と思っていたところを、あえて狙ってテロを仕掛けてきた。安全地帯が突然、危険になるのが現代の対テロ戦争だ」 と明言した。
   ■    ■
 アフガンでは06年以降、反政府勢力の攻勢で、ISAF派遣部隊が戦闘に巻き込まれるようになった。学校建設や井戸掘り、治安維持などの当初任務に専念できなくなり、やがて米軍などと一緒に反政府勢力の掃討作戦を展開するまでになったという。クレア兵長が撮影した動画には、敵兵が潜む林を米軍機が空爆し、ドイツ軍の兵士たちが 「米空軍最高!」 と叫ぶ場面まで写っていた。
 犠牲者は兵士だけではない。09年には、誤爆で多数のアフガン市民が死傷する事件が発覚。元軍幹部は 「多くのドイツ国民は、軍がアフガンで人道支援をしていると思っていた。事件を機に派兵反対の声が急増した」 と振り返る。
 岐路に立つ日本に助言がほしい。グラーツ氏に求めると、少し考えて答えた。「ISAFのような任務に参加すれば、兵士が死傷したり、現地人を殺傷したりする可能性は十分ある。それは覚悟した方がいい」
   ◇    ◇
 安保法案の成立の先に、どんな事態が待ち受けるのか。日本の 「近未来」 を体現する欧米から報告する。

 【近未来からの警告~積極的平和主義の先に】 <2> スペインから
  テロの脅威 惨劇はある日突然に

 「3・11」。日本では東日本大震災を意味するが、スペインでは違う。2004年3月11日に首都マドリード市で発生した列車同時爆破テロを指すという。死者191人、負傷者約2千人を出した欧州史上最悪の無差別テロは、都心のアトーチャ駅と郊外などを結ぶ4本の通勤列車で起きた。
 その日の午前7時半すぎ。内務省職員だったエロイ・モランさん (66) がいつものように新聞を読み終え、電車を降りる準備をしようとしたとき、破裂音を聞いた。車内に仕掛けられた爆弾が爆発した瞬間だった。奇跡的に一命は取り留めたが、左目を失明、左耳もほぼ聴力を失った。
 「誰でもそうだろうが、まさか自分がテロに巻き込まれるとは思っていなかった」 とモランさん。事件から11年たつ今も、現場周辺はおろか、同じ路線の列車にも近づけないという。
 安倍晋三首相が 「テロには屈しない」 と明言し、米軍支援を地球規模に広げる安全保障の法整備を進めている感想を聞いてみた。モランさんは 「自国の安全だけを考えていては世界の平和は守れない」 と評価し、こうも語った。「テロは最も起こりにくい場所で、最も心理的ダメージを与えられるところで起きる。例えば、それが日本になるかもしれない」
   ■    ■
 事件の主犯格とされる容疑者たちが自爆死し、今も全容解明には至っていない。ただ、地元では、スペインが米英軍とともにイラク戦争に派兵したことに対するイスラム過激派の報復説が有力視されている。
 当時、国民の9割超が 「大義なき戦争」 と言われたイラク戦争への参戦に反対していたという。ただ、参戦を決めた当時の親米政権は経済の立て直しを成し遂げて国民の支持を集め、与党が上下両院で単独過半数を確保していた。現地で30年以上暮らす翻訳業の渡辺美智子さん (56) は 「安倍一強の今の日本とよく似ていました」 と話す。
 事件を機に 「対テロ戦争が新たなテロを生んだ」 という政権批判がスペイン国内で沸騰。テロの3日後にあった総選挙で政権交代が起き、新政権はイラクからの部隊撤退を決めた。
 アトーチャ駅の中に、市民の追悼メッセージを刻んだガラスの慰霊塔がある。記者が訪れた5月上旬の週末も大勢の姿があった。家族3人で訪れていた警備会社経営ホセ・ガルシアさん (42) は 「政治家の判断の代償を支払わされるのは、いつも平穏な日々を願う庶民だ」 と、塔を見上げた。
   ■    ■
 その駅の向かいに立つ美術館に、ピカソの代表作があると聞いて、見たくなった。1937年、巨匠の祖国スペインで、ナチスドイツが起こした無差別テロへの憤りを、あえてモノクロで描いたとされる大作 「ゲルニカ」 だ。
 壁一面に広がる作品の前で、10分近く立ち尽くしている男性がいた。フランスから来たシステムエンジニアのファブリセ・ビンセントさん (43)。「ここに描かれている惨劇は今も続いている。私の国でもテロがあったばかり」 と語り、言葉を継いだ。「テロを力で封じ込めることはできない。背後にある貧困や教育格差をなくさなければ。日本はその分野の国際貢献が得意ですよね」

  【近未来からの警告~積極的平和主義の先に】 <3> 米国から
   帰還兵、戻らぬ心

 生ぬるい風が顔をなでる。その家の庭の高いポールに掲げられた星条旗が、ゆっくりと揺れていた。5月、米国フロリダ州南部の町デイビー。2年前、愛国心に満ちた24歳の元海兵隊員が逝った夜のことを、旗も見ていたのだろうか。
 2013年1月12日夜、この家は立ち入り禁止のテープに囲まれていた。「お会いしたいでしょうが、今はおやめになった方が…」。緊急連絡を受け、外出先から帰宅したジャニーン・ルッツさん (53) は、警察官にそう告げられた。ベッド脇で倒れたままであろう長男ジャノスさん (愛称ジョニー) の遺体を、抱きしめたい気持ちをこらえなければならなかった。
 精神安定剤などを大量服用しての自殺。パソコンに遺書が残っていた。「ママ、ごめんなさい。(でも) 今は幸せです」 と。
 01年に起きた米中枢同時テロ。13歳だったジョニーさんは 「将来、国のためにテロと戦う」 と誓った。母の反対を押し切り18歳で海兵隊に入隊。イラク、アフガニスタンで戦った。だが09年12月に帰還した時、パーティーでいつも盛り上げ役だった、かつての面影はなかった。心的外傷後ストレス障害 (PTSD) と診断された。
 米国防総省に近いシンクタンク 「ランド研究所」 によると、01年から続く 「テロとの戦い」 でアフガン、イラクに派遣された200万人以上の米帰還兵のうち、約50万人がPTSDや、爆発などによる外傷性脳損傷で精神的な障害を負っているという。民間人の犠牲も多い、殺し、殺される戦場での過酷な経験が原因とみられている。
 01年は153人だった現役兵の自殺も、両国での戦闘が激化した05年ごろから急増。12年に過去最悪の349人に上り、14年も268人だった。しかも退役兵の自殺者総数は不明。帰還兵全体の自殺者総数は、イラク、アフガンでの戦死者約6800人をも上回るとみる識者もいる。
 ジョニーさんは10年にも自殺未遂を起こしていた。「元のジョニーに戻ってほしかった。その私の気持ちが彼のプレッシャーになっていたのかもしれない」。取材中、ジャニーンさんはそう叫び、自分を責めた。

 「戦場の記憶」罪悪感から命を絶ち
 「アフガニスタンでの親友の死と生き残った罪悪感に苦しんでいたと同僚から聞きました」。自殺した元米海兵隊員ジャノス・ルッツさん (愛称ジョニー) =当時 (24) =の母親ジャニーンさん (53) はそう振り返った。
 2009年7月2日、米軍はアフガン南部ヘルマンド州で武装勢力タリバンの掃討作戦を実施。ジョニーさんも海兵隊約4千人の一員として参加した戦いで、親友のチャールズ・シャープさんが首を撃たれ死亡。その夏、他に13人の大隊の仲間が戦死したという。
 冬に帰還したジョニーさんは抜け殻のようだった。無表情、うつ状態…。すぐに怒りを爆発させ、ベッドでは悪夢に悩まされた。心的外傷後ストレス障害 (PTSD) と診断され、グループセラピーや薬物治療を受けた。抗うつ剤や精神安定剤など一時は24種類もの薬を飲み、さまざまな副作用に襲われた。
 11年秋に治療を理由に除隊し、自宅に戻った。「自分には生きる価値などない」 と同僚には苦しみの理由を明かした。一方で、家族に戦場でのことを語ることはなかったという。
 ある朝、一心不乱にシャワーで体を洗い始めた。「夢の中で自分の体が血と内臓にまみれていた」 のだという。大量出血して死んだ親友が夢に現れたのかもしれなかった。壊れていく息子にどう向き合えば良いのか。母の苦悩も深かった。
   ■    ■
 厳しい訓練に、自殺防止効果がある‐。かつて米軍はそう考えていたが、深刻な心のダメージは、精神力では防げなかった。オバマ政権は精神科医やカウンセラーを大幅に増やすなど現役、退役兵の自殺防止対策を近年、本格化させた。退役兵自殺防止法も今年成立。だが状況は改善せず、過剰投薬など課題も多い。
 一方、4月に合意した新たな日米防衛協力指針で、安倍晋三首相は、自衛隊による米軍支援を 「地球規模」 に拡大した。自衛隊は、米国の戦争にどこまで関わることになるのか。
 安全保障関連法案の国会審議。首相は他国領域での集団的自衛権の行使について 「中東・ホルムズ海峡での機雷掃海以外は念頭にない」 としつつ、「安保上の対応は事細かに事前に設定し、柔軟性を失うことは避けた方がいい」 とも。含みを残す説明に、野党は 「歯止めのない派遣拡大につながる」 と警戒する。
   ■    ■
 「子連れのイラク人女性が不審な動きをしたので、自爆テロだと確信した。銃の引き金を引こうとした瞬間、視界に邪魔が入り、動作を止めたら何も起きなかった。罪もない母親を子どもの目の前で殺していたかもしれない自分が、今も恐ろしい」 とアンドリュー・カスバートさん (28)。
 「仕事を代わってくれた同僚が地雷を踏んで片足を失った」 とブライアン・ルポさん (31)。2人は、PTSDと闘う帰還兵と家族の支援財団を立ち上げたジャニーンさんが紹介してくれた元海兵隊員だ。
 帰還兵と、家族を苦しめ続ける 「戦争の後遺症」。「私たちのために戦ってくれた苦しむ兵士たちを、今度は社会全体で支えていかないといけない」。一時は自殺も考えたジャニーンさんだが、息子の死を無駄にしないために心にそう決める。遺灰は今も自宅で大切に安置している。

 【近未来からの警告~積極的平和主義の先に】 <4> 米国から
   「監視社会」 侵害される私的情報

 案の定、秘密裏に警察が動いていた‐。米国の首都ワシントンを拠点に、低賃金で労働者を酷使する 「ブラック企業」 へ抗議活動を行う全米学生組織の幹部を務めていた大学院生ギャレット・シシド・ストレインさん (26) は2年前、不思議な体験をした。
 開催が非公表の抗議活動が、なぜか突然現れた警察官に制止される例が相次いだ。「捜査員が潜入している」 と、ある女性を名指しした情報が入ったのは2013年5月。情報漏れを確信し、不当な潜入捜査をやめるよう求めて提訴。警察側は女性が捜査員だと認め、学生組織を監視していた実態が明らかになった。
 01年の米中枢同時テロ後、米国では 「社会の安全確保」 の大義の前に、人権やプライバシー保護が揺らいでいる。国防総省が反戦デモに参加した活動家らに関する情報を集め 「言論、集会の自由を侵害している」 として、06年には全米市民自由連合 (ACLU) が、裁判を起こした。
 ストレインさんは 「今や当局は反体制的なあらゆる団体への監視を強めているようだ」 と懸念する。
   ■    ■
 米中央情報局 (CIA) 元職員エドワード・スノーデン容疑者が13年に暴露した、国家安全保障局 (NSA) による市民の通話履歴やインターネット情報の大量収集。ニューヨークの連邦高裁は今年5月、通話履歴の収集は根拠とされた愛国者法215条を逸脱し、違法と判断した。同条の規定は1日、失効した。
 テロ対策を目的に01年に制定された愛国者法だが、起草に携わった連邦議会の議員たちでさえ想定外の拡大解釈を米政府は重ね、さまざまな個人情報を吸い上げるシステムをひそかに構築していたのだ。
 「国民の個人情報を可能な限り集めたいと考えるのが政府の性分。ひとたびこの種の法律を手にすれば、いずれ一線を越える」。プライバシー保護運動を主導する米図書館協会ワシントン事務所のエミリー・シェケトフ所長 (65) は言う。
   ■    ■
 バージニア州のアーリントン中央図書館。返却された本のバーコードを端末機にかざしながら、貸出担当のエミリー・アルマンドさん (29) は言った。「この時点で、誰が何の本を借りたかという記録は自動的に消えます。これなら外部から記録の提供を求められたとき、『残っていません』 って断れるでしょ?」
 冷戦時代から続く記録の提供を求める当局と、図書館との攻防。全米の大半の図書館は同種の電子システムを導入済みだという。ある人物がどんな本を借りたのか、共用パソコンで何を調べたのか。捜査当局にとって図書館は情報の宝庫。図書館側は、いかにして記録を残さないかに、知恵を絞っているという。
 一方、日本では、国家機密を漏らした公務員らに厳罰を科す特定秘密保護法を14年に施行した安倍晋三政権は、米国との軍事的一体化を進める安全保障法案の成立を目指す。国民への情報提供を絞り込む一方で、米国の後を追うように、テロ警戒などを理由に市民に過剰に目を光らせる息苦しい社会が待っているのではないのか。
 防ぐ手だてはあるのか。シェケトフさんの答えは明快だ。「政府がおかしなことをしていると感じたら声を上げる。一人一人の日本人が政府をしっかり監視する意識を持つことです

 【近未来からの警告~積極的平和主義の先に】 <5> ドイツから
  支援任務「戦死」隠す国

 70年前、米英など連合国が日本に無条件降伏を求める共同宣言を出した、ドイツ北東部ポツダムの郊外に 「追憶の森」 がある。ドイツ連邦軍の国外殉職兵の追悼施設だ。週末には、遺族などが花を手向ける。
 5月、現地を訪れた。アフガニスタンでの国際治安支援部隊 (ISAF) の活動中などに命を落とした兵士の名を刻んだ7基の慰霊碑が並ぶ。「絶対に忘れない。ママより」。木々に掲げられた追悼文の一つに、そうあった。
 国会で審議中の安全保障法案が成立すれば、戦闘中の米軍への後方支援など、自衛隊の海外活動は大幅に広がる。近い将来、日本にも同様の施設が造られることにならないだろうか。
 アフガンで殉職したドイツ兵は計55人。ターニャ・メンツさん (46) も当時22歳の長男を亡くした。2011年2月、駐屯地に侵入した男の銃弾に倒れた。
 昨年11月にあった追憶の森の落成式典。遺族代表のあいさつでターニャさんは大統領らに訴えた。「慰霊碑が増えないよう願います。それでも派兵が避けられないなら、任務の実態を隠さずに教えてください。正直でなければ、国民の理解と支持は得られません」

 「派兵の代償」報復テロ 高まる危険
 アフガニスタンの民主化支援と自国の安全保障‐。それが、ドイツが2002~14年、中東に最大5千人 (特殊部隊除く) を派兵した理由だ。あくまで治安維持と人道復興支援が任務だった。
 だが、03年6月、現地で活動中の部隊が自爆攻撃を受け、兵士4人が死亡し、29人が負傷。以後も、テロの標的となったり、戦闘に巻き込まれたりして命を落とす兵士が相次いだ。ところが国民にネガティブな情報はほとんど知らされなかった

 政府系のシンクタンク、ドイツ国際政治安全保障研究所 (SWP) のフィリップ・ミュンヒ研究員 (34) によると、国防省のウェブサイトでは、食糧配給や難民支援の実績を強調する一方、部隊の活動実態や被害は詳しく記載されなかった。当初は 「戦死者」 の存在も認めなかったという。
 ミュンヒ氏は 「国家の隠蔽 (いんぺい) 体質に加え、『戦争に巻き込まれたくない』 と考えるドイツ国民を刺激するのを恐れて、政府は適切な情報開示をしなかった」 と分析する。
 アフガンから帰還した兵士たちが 「戦争に行ってきた」 と家族や友人たちに語っても、政府は 「戦争ではない」 と否定した。国防省が第2次大戦後長らくタブーだった 「戦死」 という表現を初めて使ったのは08年。現地が 「戦争に近い状態」 とようやく認めたのは、09年になってからという。
   ■    ■
 派兵の犠牲者は、ドイツ兵だけではなかった。
 09年9月4日の早朝。ドイツ連邦軍の国外派兵司令部の司令官だったライナー・グラーツ元中将 (64) は、自宅で軍からの緊急の電話を受けた。「アフガン北部クンドゥズ州でタンクローリーが奪われた。武装勢力が集まり、現場指揮官の要請で空爆が行われた」
 だが、のちに 「クンドゥズ事件」 と呼ばれ、多数の地元市民を巻き込む誤爆だった。国際治安支援部隊 (ISAF) の任務が武装勢力との戦闘行為に及んでいることも明らかになり、国内世論が一気に 「派兵反対」 へと傾いたという。
 ただ、ドイツ軍はアフガンから撤退しなかった。元軍幹部は 「共同作戦を展開している同盟国との関係もあり、国内世論や現地情勢が変わったからといって、自軍だけ引き揚げるのは困難だ」 と打ち明ける。
   ■    ■
 多くの代償を払って得られたものは何だったのか。
 SWPのミュンヒ氏は今年4~5月に現地情勢の調査のためアフガンを再訪。ISAFの戦闘任務は14年末に終了したが、外交官や欧米から来た民間人がテロの標的になっており、治安が回復したとは言えない状況だったという。
 「今回の派兵の最大の問題は、兵士自身が何のために戦っているのか理解できないまま命を落としたことだ」
 一方、ドイツ国内は報復テロの脅威にさらされている。5月の自転車レース大会で、イスラム過激派組織の関与が疑われるテロ計画が発覚。大会は中止を余儀なくされるなど、テロ警戒で催しが中止になる事態が相次いでいる。
 ミュンヒ氏は言う。「派兵が成功だったのか失敗だったのか、まだ結論は出せない。ただ、報復の連鎖を生み、ドイツがテロの標的となるリスクを高めたことは確かだ」

 【近未来からの警告~積極的平和主義の先に】 <6完> ドイツから 
  負の歴史、街に刻み

 ドイツの首都ベルリン。初夏の日差しに反射して、石畳の一部が鈍い金色の光を放っていた。近づいてみると、10センチ四方の金属板が埋め込まれ、こう文字が刻まれていた。「ここに住んでいたアリス・ローゼンバーグ (1911年生まれ) は42年にアウシュビッツ強制収容所に連行され、殺害された」
 ナチスの迫害によって、アリスという名の女性が31歳で命を奪われたことを、後世に伝えるメモリアル。隣に同じ姓のものがもう1枚あった。家族だろうか。
 今回取材で訪れたドイツ各地の街角で、同じような金属板を見かけた。「つまずきの石」 と呼ばれ、ドイツ国内を中心に約9千個が設置されているという。
 一方、ナチス結党の地である同国ミュンヘン市。ドイツが連合国側に降伏して70年になる今年5月、ナチス本部跡地に公立のナチス歴史文書センターが開館した。選民思想やヒトラーの台頭をなぜ許してしまったのか。歴史文書を検証し、未来への教訓とするのが目的だ。
 政府系シンクタンク、ドイツ国際政治安全保障研究所のアレクサンドラ・サカキ博士 (36) は 「フランスや英国などの周辺国に、再び軍事大国化する不安を抱かせないためにも、ドイツは自らの過去に向き合ってきました」 と説明する。
 彼女の専門は日本外交。九州大に留学経験があり、5月にも日独の安全保障政策の比較研究で訪日したばかりだ。国策を誤り、周辺国を戦禍に巻き込んだ歴史を持つドイツと日本‐。日本の外交・安保政策の評価を聞くと、こう答えた。
 「両国にとって、国外派兵と過去への反省は車の両輪であるべきです。自衛隊の海外活動を拡大する一方で、不都合な歴史を認めたがらない安倍晋三首相の姿勢は、周辺国との間に緊張を生みかねません」

 「普通の国」誇るべき日本の歩み
 70年前、第2次大戦の敗戦国として再出発したドイツの歩みは、日本とよく似ている。
 東西冷戦のさなか、自衛隊発足翌年の1955年に北大西洋条約機構 (NATO) の一員として再軍備に踏み切った。ただ、憲法に当たる基本法はNATO域外への派兵を認めておらず、専守防衛に徹した。
 転機は91年の湾岸戦争だった。日本と同じく多国籍軍に派兵しない代わりに、経済支援をした。70億ドル (日本は130億ドル) もの巨費を出したが、米紙などから 「小切手外交」 と批判された。当時のコール首相は 「国際社会での責務を果たす」 と宣言。基本法の解釈を変え、NATO域外に派兵する方針転換をした。
 94年に憲法裁判所が域外派兵を合憲と判断。住民虐殺が行われたコソボ紛争時には戦後初の戦時派兵となる空爆に参加した。2001年にアフガニスタン派兵を決めた。戦後世代で初の首相となった当時のシュレーダー首相は 「ドイツが 『普通の国』 に近づく歴史的決定だ」 と強調した。
 ドイツ国際政治安全保障研究所のアレクサンドラ・サカキ博士 (36) は言う。「日本とドイツの共通点は 『普通の国』 になろうとしていること。異なるのは、過去との向き合い方です
   ■    ■
 大分県宇佐市出身で、ドイツ西部のデュッセルドルフでスーパーを営む濱永 (はまなが) 三喜男さん (63) は、ドイツで生まれ育った娘の小百合さん (22) の高校時代のカリキュラムを知って驚いた。歴史の科目で、1年間の半分近くがナチスのユダヤ人迫害や侵略の歴史についての授業だった。
 学校によっては、社会科見学で強制収容所を訪れ、虐殺の現場となったガス室に閉じ込められる体験までするという。三喜男さんは 「日本と違って、これでもかというほど戦前戦中の過ちを教える。それがドイツです」 と語る。
 日本で国会審議中の安全保障法案が成立すれば、自衛隊の海外派遣が広がる。反省が必要な過去は 「遠い過去」 だけではない。自衛隊に詳しい中京大の佐道明広教授 (56) は 「実力組織を海外に派遣するからには、国会の事前承認だけでなく、事後検証の仕組みが不可欠。派遣の是非を一定期間後に検証しなければ、間違った判断を繰り返すことになる」 と指摘する。
   ■    ■
 ドイツ中西部の古都マインツ。この街で著名な女性の芸術家フィー・フレックさん (83) は今、無人機による中東での対テロ戦争を描いた全長15メートルの巨大画に挑んでいる。
 ポーランド出身で、アンネ・フランクと同世代。彼女と同じく強制収容所に送られたが、奇跡的に生還し、反戦を訴える作品の制作を続けてきた。「絵を描くことで心の重荷を少しずつ降ろしてきました」
 今、フレックさんが住む建物も、かつて強制収容所で殺されたユダヤ人たちの家だった。玄関の案内板には住民35人が犠牲になった事実とともに、こんな言葉が記されている。「記憶し、警告し、行動せよ」
 フレックさんが制作中の絵を見せてくれた。中東の街が空爆で炎に包まれ、黒こげになった人々が描かれていた。「70年前、あなたの国でも空襲でたくさんの人が犠牲になったのよね」。そうつぶやいて、記者の目を見つめた。「日本が戦後、海外で一人も殺さず、殺されずにきたことを恥じる必要はありません。誇るべきなんです

 欧米の過去、そしてまだ生々しい近い過去の教訓を、日本は過去の歴史を見つめ直し近い将来の教訓に活かすことが必要です。


   こころのケア 軍隊の惨事ストレス対策
   「活動報告」 2015.7.3
   「活動報告」 2015.4.28
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「生産方法在って生活在るのではない。生活在って而して生産方法があるのである」
2015/08/25(Tue)
 8月25日(火)

 歴史学者の中村政則さんが8月4日、亡くなりました。
 中村さんの著作 『労働者と農民 -日本近代をささえた人々-』 (小学館ライブラリー) は、この 「活動報告」 で一番多く引用させてもらっています。
 中村さんは単に労働者や農民問題を取り扱うということではなく、埋もれている本物の歴史を掘り起こし、常に 「下から目線」 で生き様を探っていました。定説についてはその資料を行使して論評していました。ですから人間の生きざまを捉えた著書は、100年前の出来事でもまったく古臭さを感じさせません。歴史を、そこに登場する人びとの普遍性から迫っていました。
 『労働者と農民 -日本近代をささえた人々-』 から、現在に問題提起をしていると思われる製糸業の争議を拾ってみます。


 第一次世界大戦前まで、新潟県魚沼地方は多雪地帯の山間僻地で、これといった副業もないため非常に多くの出稼ぎ婦女子を出していました。第一次世界大戦勃発を契機に近代的大産業が一大飛躍をとげたことにより地方の家内工業は急速に衰退します。そのためさらに出稼ぎ女工が急増します。最盛期の大正末期には北魚沼郡堀之内町から700人近い婦女子が県外に働きに出ていました。
 1916年、その出稼ぎ女工保護のため、堀之内町で北魚沼郡中部女工保護組合がつくられます。奔走したのは役場の書記・森山政吉です。
「戸籍を見るたびに、16歳から22、3歳の村の娘が結核でつぎつぎと死んでいくことがわかる。各工場の寄宿舎もみてまわったが、娘たちはみなせんべい布団にくるまって寝ているんです。これは結核になるのはあたりまえだと思った。それに工場は風紀が悪い。村内には私生児もふえてきた。結核と私生児、このまま放っておいたら村の将来はどうなるか。そう思うと、矢も楯もたまらなくなって、女工保護組合の結成にのりだしたのです。」
 組合長には村長が就任したが、女工およびその父兄、趣旨に賛同するものなど民間の有志が組合員になって自主的に作ったものです。
 目的は、(1) 帰郷中の女工に裁縫その他必要な科目をえらんで講習を行う 「特殊教養」、(2) 「健康診断」、(3) 「慰安会」、(4) 「慰問」、(5) 女工の疾病・死亡にたいし見舞金または弔慰金を贈る 「弔意」、(6) 女工各種の状態を調査する 「各種調査」、(7) 「視察」 などです。
 保護組合は、啓蒙活動に力を入れながら、「ふるさと通信」 を発行して女工たちを慰めたり、会社にかけあって待遇の改善などにつとめました。
 1926年 (大正15年) には、新潟県だけで76もの女工供給組合が出現しました。
「森山政吉は、昭和2年 (1927年) の 『山一林組』 の争議や昭和5年 (1930年) の東洋モスリン争議のときには、わざわざ工場まで出向いて、村の娘たちを連れもどしたりもした。さらに昭和初期の大不況のときには、未払い賃金のとりもどしに奔走し、県下全組合で361件を解決させたこともあったという。
 このように女工保護組合は、よわい立場の女工や女工の父兄にかわって、女工の労働者としいての権利を守るために、さまざまな功績をのこしたのであった。骨ぬき工場法しかだせない日本政府の社会政策の貧困・欠落を、必死になって埋めようとしていたのは、じつにこのような地元の人の郷土愛に発する人道主義的善意だったので」 した。

 さて、現在において、あってなきがごとしの労基法のもとの労働現場に、さらに法の知識を持たない労働者が送り出され、過酷な労働外強いられる状況が続いています。彼らを送り出す高校や大学はどのような知識を習得させて卒業生を社会に送り出しているでしょうか。即戦力のためのスキルの習得、履歴書の書き方や礼儀作法が学校教育になっていたりします。そして送り出してしまったらそれで任務は終了としています。しかしそれではあまりにも無責任です。
 「即戦力は即不要」 です。競争に負けたり、技術開発で遅れをとった時は 「即不要」 を宣告されます。その時の対応方法、予防のための法知識をあらかじめじ習得させておく必要があります。難しいことではありません。そして出身者が不当な扱いを受けた場合には、そのフォローも必要です。
 ある高校の就職クラス3年の担任は、社会人として送り出す生徒に労働基準法の知識を習得させたいと思います。そこで思いついたのがユニオンへの講師派遣です。「個人的な要請ですので講演料は支払えませんが了承していただけないでしょうか」。ユニオンの了解をえたので、校長に承諾を得に行ったら、校長は 「交通費がかかるでしょう。それは私が持ちます」 と言ったといいます。資料は、東京都が毎年作っている 「ポケット労働法」 です。卒業生はこれを持って旅立っていきました。
 ある若い労働者は自宅に帰って父親に会社のことをぼやきました。父親は 「労働組合は何してる」 と聞きます。「何もしていない」 と言うと、少数派組合での活動経験がある父親は 「脱退して他の組合に相談しろ」 とアドバイスしたといいます。先輩労働者の後輩に対する指導です。
 このような、そして女工保護組合のような、労働者を孤立させない社会的に連携する取り組みが今こそ必要に思われます。過酷な労働者の実態は社会問題です。


 長い引用です。
「製糸業は、……昭和五年前後に多条繰糸機が導入されるまでは、良質の糸をどれだけたくさん取れるかは、もっぱら女工の手先の熟練度に依存していたといっても過言ではない。そのため製糸家は女工を低賃金で、しかも長時間にわたって働かせることができるような賃金制度を考案し、能率上昇による利益はすべて自分のふところに入るような、絶妙な等級賃金制なるものを導入した。
 この等級賃金制というのは、繰目・糸目・デニール・光沢などについて工場全体の平均を決定し、その平均より上位の者から順に一等、二等というように順位をつけ、その等級の高低にしたがって賃金の多寡をきめる賃金制度である。工場によっては、これを五〇等級にまで細分しているところもあった。……
 この等級制度の巧妙な点は、製糸女工全体に払う賃金総額をあらかじめ固定し、決定してあることである。つまり、すでにあたえられた賃金総額を、女工を相互に競争させることによって取りあいさせるわけである。1人がいっしょうけんめい働いたとしても、他人もそれにおとらず働けばそれだけ平均点が上昇するから、いっしょうけんめい働いたぶんだけ賃金も上がるというわけにはゆかない。とくになまけたということでなくとも、日々精進しないかぎり、むしろ等級=賃金はさがってしまうことになる。……
 この制度のもとでは、つねに他人以上に働いていないと自己の賃金が低下するという危険に、女工はたえず怯えていなければならない。しかも、資本家は意識的に優秀な女工を優等女工・一等女工としてもてはやした。身体を酷使できる若い娘たちにとって、この賃金制度は残酷なまでに効果的であった。……こうして、娘たちは長時間の労働もいとわず、なんとかして点数をあげようと必死の努力をする。等級賃金制は、別名 『共食い制度』 といわれて、女工たちはおたがいを食いあいながら、身の細るようなはげしい労働を強制されたのである。
 さらに工場主は賞旗をつくり、毎日または毎月末に書く検番の監督下にある女工の成績を評定して、もっともよい成績をあげた検番にこの賞旗をあたえるなど、検番の競争心をあおることによって、女工の競争を奨励したりした。」

 現在の成果主義賃金制度そっくりの実態が存在しています。
 「つねに他人以上に働いていないと自己の賃金が低下するという危険に、女工はたえず怯えていなければならない。」 100年前の教訓が活かされていないのではなく、悲劇が繰り返されています。
 使用者は、労働者に対して働いただけ報われる制度などはつくりません。競争を煽って成果を上げたとしても、その何分の一かのおこぼれに預かるだけで、目標を達成するとさらにハードルは高くなります。
 これが職場環境、人間関係を破壊する構造になっていて、体調不良者や過労死を生み出しています。
 「共食い制度」 に甘んじるのではなく、労働者が 「共に生きる」 ための方策を探し出してそこから脱出していくことに挑戦する必要があります。
「1977年頃、近畿日本ツーリストの労働組合は、良好な個人成績を挙げた社員を表彰する制度の導入に数年に渡り反対し続けました。旅行契約をどれだけ取ってきたかは、外交販売員だけの成果ではない、表彰するなら、その契約に協力した全員、少なくとも支店単位で行えと主張しました。 (『躍進 近畿日本ツーリスト労働組合20年史』)」 (熊沢誠著 『格差社会ニッポンで働くということ』 から孫引) (14年4月25日の 「活動報告」 参照)
 闘い方はたくさんあります。(15年7月10日の 「活動報告」 参照)


 1927年8月30日、長野県諏訪郡平野町の諏訪湖湖畔にある合名会社林組 (山一林組) の3工場の製糸労働者が一斉にストライキに入ります。
 発端は、8月28日、日本労働総同盟全日本製糸労働組合の山一林組の従業員を主体に結成している第15支部が嘆願書を提出します。
「一、労働組合ノ加入ノ自由ヲ認メテ下サイ。……
七、従来ノ賃金ガ一般工場ヨリ非常ニ低廉ナルガ故ニ、私共ノ生活ハ困難ガアリマス。可憐ナ私共ノ為ニ左ニ記シマシタ賃金ヲ与ヘテ下サル様願ヒマス。……」
 29日、会社側代表と争議団代表が交渉に入りますが決裂し、30日午前10時、争議団は総罷業断行を通告して1213人の女工が突入します。
 断行と同時に罷業心得が渡されます。
「一、組合員は機械の回転を絶対に止めぬこと。
 一、意のままにならぬ故に、工場器具の破壊を絶対にせざること。
 一、暴言を吐き、不徳の行動に出づることを禁ず。
 一、組合員、会社側より呼び出された場合は部長に届出、決して一人にて出席せざること。出席の場合は五人以上とし、男子役員を同伴すること。」
 組合員の粗暴を戒め、倫理的退廃を防ぎ、会社側の切り崩しを警戒しながら内部の結束を固めることを考慮しています。
 会社側は就業希望者を募集しますが申し出たのは16人です。そこで会社は女工の出身家庭にストライキを続けるなら辞めてもらうしかないという内容のはがきを送付します。
 そのことを知った組合は、9月3日、謄写版刷りの父母あての手紙を作成し、女工各自の署名を付して送付します。
 4日には大規模なデモンストレーションが敢行されます。デモは大きな自信と勇気を与えました。争議団への支援も活発になっていきます。

 9月6日、会社側は反撃に出ます。警察署に取締りを依頼し、警察官と組合員との間に小競り合いが始まり、組合員から逮捕者も出ます。
 7日、会社側は工場閉鎖を声明、さらに寄宿舎の明け渡しと貯金・賃金の清算を組合側に通告します。
 12日、会社側は追い打ちをかけて本店工場の炊事場閉鎖を決行、さらに組合員が外出していた隙をねらって寄宿舎から排除します。
 この後は、組合幹部の寝返りをうって組合員を帰省させたり、行方不明になる幹部も生まれました。
 17日、最後まで残った47人の女工は散り散りに去らざるを得なくなり、18日間の闘争は終了します。
 争議団は最後の声明を出しました。
「私ども18日間の努力も空しく、遂に一時休戦のやむなきにいたりました。思えば私どもの惨目 (みじめ) な工場の待遇を改善して、人間らしき生活を呼び来たらすためには、私ども自身の力をまつよりほかに何物もないことを痛感いたします。私どもの嘆願は、かほどまでにあらゆる権力で迫害されねばならぬほどのものであるでしようか。
 夜を日についで糸繰る私どものあのわずかな嘆願は、資本家と官憲とが袋叩きにせねばならぬものでしょうか。私どもの正々堂々たる争議のどこに、内乱を取締るがごとき取締りの必要があつたでしようか。私どもは泣きました。
 初めてこの社会の虚偽を深刻に知つたからであります。強きをくじき弱きを助くる日本人の義侠心は、少くとも岡谷では滅びました。しかしながら、私どもは屈しませぬ。いかに権力や金力が偉大でありましても、私どもは労働者の人格権を確立するまでは、ひるまずたゆまずたたかいつづけます。私どもは絶望しませぬ。最後の勝利を信ずるがゆえであります。
 おわりに私どもは、激励し、援助下さつた多くの人々にたいし、厚く感謝します。なお、資本家および官憲諸士にたいしては、人として、国民として人間を解し、真に恥を知られるよう勧告いたします。」

 争議が終った翌18日付の 『信濃毎日新聞』 の社説のタイトルは 「労働争議の教訓」 です。
「初めに人間があり、人間の生活がある。そして終りも亦人間と、生活とで在る。これが人間史の全部である。/ 人間生活のあるところ、そこにありとしある生活資料の生産がある。(中略) 注意せよ。生産方法在つて生活在るのではない。生活在つて而して生産方法があるのである。従つて生産の方法と態様とは人間のものなのであって、決つしてその逆ではないのだ。(中略) 然るに岡谷に於いては、それが全く逆転してゐるのだ。人間史が、人間生活が、理論的にも現実的にも転倒してゐるのだ。それこそ製糸の街岡谷の、製糸家の、人間としての欠陥である。(中略) / 二旬に亘る女工達のあの悪戦苦闘、それはそもそも何のための苦しみ、何のための闘ひであったか。いふまでもなく、それは生産方法における一手段、即ち生産用具たるの地位から、本然の人間に立ち戻らんとする彼等の努力の表現に外ならなかった。(中略) / 女工達は繭よりも、繰糸わくよりも、そして彼等の手から繰りだされる美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを識つたのだ。(中略) 彼等は人間生活への道を、製糸家よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきが故に、山一林組の女工達は製糸家との悪戦苦闘の後、ひとまづ破れた。(中略) とはいへ、人間への途はなほ燦然たる輝きを失ふものではない。/ 歴史がその足を止めない限り、そして人間生活への道が、その燦然たる光を失はない限り、退いた女工達は、永久に眠ることをしないだらう。」

 声明も、新聞社説も 「労働者宣言」 とも呼べるものです。
 「労働者の人格権を確立するまでは、ひるまずたゆまずたたかいつづけます。」 と女工は宣言します。人格権は労働者の尊厳で普遍です。しかしそうであるゆえにまた確立は困難を極めます。
「初めに人間があり、人間の生活がある。そして終りも亦人間と、生活とで在る。これが人間史の全部である。/ 人間生活のあるところ、そこにありとしある生活資料の生産がある。(中略) 注意せよ。生産方法在って生活在るのではない。生活在って而して生産方法があるのである。従つて生産の方法と態様とは人間のものなのであって、決つしてその逆ではないのだ。」
 現在の労働者は、会社・「生産方法」の機械とコンピュータに支配され、さらに働かないでマネーゲームをしている投資家のために心身を擦りへらされています。主客が転倒しています。
 労働者の闘いは、賃金額に左右されるものではなく、人権・人格権そして生活権の獲得に向けたものでなければなりません。100年前のこの 「労働者宣言」 を労働者1人ひとりの心の中に改めて深く刻んで思いおこし、使用者とそれに加勢する為政者に対抗する社会的潮流を大きく登場させなければなりません。

 100年前と比べ、現在の労働者の置かれている状況はどれくらい前進したと言えるのでしょうか。


   「活動報告」 2015.7.10
   「活動報告」 2014.4.25
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労働局のあっせんは、解決率も解決金もかなり低い
2015/08/21(Fri)
 8月21日 (金)

 6月12日、厚労省は全国の労働基準監督署などに寄せられた 「平成26年度個別労働紛争解決制度の施行状況」 を公表しました。寄せられた相談のなかの民事上の個別労働紛争相談は、労働局長による 「助言・指導」、紛争調整委員会による 「あっせん」 があります。
 2014年度 (平成26年度) の状況は、総合労働相談件数は7年連続で100万件を超えました。09年度にピークでそのあと下降を続けています。民事上の個別労働紛争は11年度がピークです。
 14年度の具体的件数は、
  総合労働相談件数          1,033,047件
  民事上の個別労働紛争相談件数  238,806件
  助言・指導申出件数            9,471件
  あっせん申請件数             5,010件
です。
 具体的相談内容は、多い順に 「いじめ・嫌がらせ」 62,191件 (21.4%)、「解雇」 38,966件 (13.4%)、「自己都合退職」 34,626件 (11.9%) です。「いじめ・嫌がらせ」 は長年同じ分類方法によるデータ作成のため、厚労省の 「提言」 の類型によるものではありません。しかし 「提言」 の効果だと思われますが、急増を続けています。「解雇」 は減少を続けています。景気回復によるものではなく 「間接的退職勧奨」 などの狡猾的手法がとられているためだと思われます。「自己都合退職」 が増加を続けています。
 相談者の就労形態は、「正社員」 91,111件 (38.2%)、「パート・アルバイト」 38,583件 (16.2%)、「期間契約社員」 26,128件 (10.9%)、「派遣労働者」 10,399件 (4.4%)、その他は 「その他・不明」 です。現在、全労働者に占める非正規労働者の割合は40%に迫ろうとしていますが、その状況が反映されています。

 助言・指導申出件数は、10年度の7,692件から11年度に9,590件に急増し、12年度10,363件、13年度10,024件、14年度9,471件と推移しています。
 急増の内容は、「労働条件の切り下げ」 ではない 「その他の労働条件」 と 「いじめ・嫌がらせ」 です。
 あっせん申請件数は、08年度の8,457件から下降を続けています。10年度に6000件台激減し、13年度に5000件台になります。
 助言・指導申出件数とあっせん申請件数が逆方向に向かっているということをどう見たらいいでしょうか。
 それに加えて、全国での労働相談が助言・指導申出とあっせん申請件数がこの程度というのは、全体と機能していない、期待されていないと言えないでしょうか。

 助言・指導の処理は、助言・指導の実施、申出人が自発的に申出を取り下げる 「取下げ」、紛争当事者の一方と長期間連絡が取れない等の理由でやむを得ず助言・指導を終了する 「打切り」、指導の過程で制度対象外の事案 (裁判で係争中の事案など) であることが判明した場合等 「その他」 があります。
 助言・指導を実施したものは9,104件 (96.3%)、「取下げ」 241件 (2.5%)、「打ち切り」 81件 (0.9%) です。ただ、助言・指導のその後の実効性の状況掌握は不明です。民事上の紛争においては決定後の実効性上で問題が発生した場合は新たな対応が必要になります。
 処理した9,452件のうち、1か月以内に処理したものは9,193件 (97.3%) です。

 あっせんの処理は、当事者間の合意の成立、申請人が自発的に申請を取り下げた場合に紛争調整委員の判断であっせんを終了する申請の取下げ、紛争当事者の一方の不参加またはあっせんの結果合意が成立しなかったなどの場合に、紛争調整委員の判断であっせんを終了する打切り、その他があります。
 紛争当事者双方が参加してあっせんが開催されたものは2,735件 (54.2%) です。年度内に処理したあっせん5,045件のうち、合意が成立したものは1,895件 (37.6%) です。そのうち、あっせんを開催せずに合意したものは91件 (1.8%) です。申請人の都合により取り下げられたものは277件 (5.5%)、あっせんが打ち切られたものは2,850件 (56.5%) です。そのうち、紛争当事者の一方が不参加であったものは1,934件 (38.3%) です。
 あっせん5,045件のうち合意成立は1,895件 (37.6%)。これをどう評価したらいいのでしょうか。あっせん申請件数減少の1つの理由になっていると思われます。

 この実態について、他の機関で労働相談を担当している人たちと話をしたら、手練手管が不足しているのではないかという意見がだされました。そして、労使の間に立って中立を意識していると思われますが、労使は力関係は同じではないという自覚はなく、「弱い側に立つのが中立」 の意識がないのではないかと思われます。(12年10月10日の 「活動報告」 参照)


 さて、4月に労働政策研究・研修機構は、労働政策研究報告書No.174 「労働局あっせん、労働審判及び裁判上の和解における雇用紛争事案の比較分析」 を発表しました。
 この中から労働局の状況についてみてみます。
 資料は、2012年度に4都道府県労働局で受理したあっせん事案の記録を、当事者の個人情報を抹消処理した上で提供を受け、統計分析及び内容分析を行ったものです。

 性別は、男性457件 (53.6%)、女性396件 (46.4%) と男性が若干多いです。
 雇用形態は、正社員402件 (47.1%)、直用非正規325件 (38.1%)、派遣64件 (7.5%)、試用期間32件 (3.8%)、内定23件 (2.7%)、その他 (全て 「親族」) 7件 (0.8%) です。
 勤続期間は、1 年未満41.9%で、そのうち1か月未満も1割近くあります。長期勤続も一定程度いるため平均値は4.4年で、中央値は1.7年です。
 役職は、95.1%が役職のない従業員であり、役職者は4.9%です。役職者の過半数は係長・監督級です。
 約4割強が賃金月額10万円台、3分の1強が20万円台、約1割が10万円未満で、全体の85%弱が月額30万円未満の相対的低賃金層です。平均値は202,556円、中央値は191,000 円です。ちなみに厚生労働省の 『毎月勤労統計調査』 (平成24 年分確報) によれば、労働者全体の給与の平均値は26.16万円です。
 企業の従業員数は、30人未満4割強、100人未満で6割強、300人未満4分の3を超えます。中央値は40人です。1000人以上の大規模企業がかなり増えていて、若干大きい方にシフトしています。
 労働組合の有無については、組合有り118件 (13.8%)、組合なし599件 (70.2%)、不明136件 (15.9%) です。

 2008年度に比べて2012年度の解決率はかなり上昇しています。被申請人の不参加率は42.7%から38.9%に、取下げ率が8.5%から6.3%に、不合意率が18.4%から16.4%にそれぞれ減少し、その結果合意成立に至った比率が30.2%から38.0%へと飛躍的に上昇しています。
 雇用形態別に見ると、非正規労働者の方が合意成立に至っています。とりわけ直用非正規にその傾向が強く45.5%、派遣も40.6%が合意に達しています。それに対して正社員の合意成立率は31.3%と極めて低いです。
 あっせん申請受理日から合意成立によるあっせん終了日までの期間は、1-2月未満が60.8%と圧倒的に多く、1月未満の19.8%を含めれば、8割以上が2か月以内に終了しています。平均値は1.6 月、中央値は1.4月です。

 請求金額は50万-100万円未満と100万-200万円未満に集中して両者で4 割を超えます。平均値は1,701,712円、中央値は600,000円です。極端に高額の請求の影響を受けて平均値は中央値から大きく乖離しています。
 請求金額が当該労働者の賃金月額の何か月分に相当する額であるか見ると、最も多いのが3-4か月分未満であり、請求金額4か月分未満で半数をかなり超えます。平均値は11.6か月分ですが、これは極端に高額の請求に影響を受けているからで、中央値は3.3か月分です。
 終了区分が 「合意成立」 である324件のうち、合意内容が金銭解決は313件 (96.6%) です。撤回・取消、復職の解決に合意したもの4件 (1.2%) です。

 解決金額は、10万-20万円未満が3割近く、10万円未満が4分の1強を含めて過半数が20万円未満で解決している結果になっています。平均値は279,681円ですが高額の解決金に引っ張られているためで、中央値は156,400円です。
 2008年度は、10万-20万円未満に4分の1以上が集中し、過半数が20万円未満で解決しています。平均値が305,694円、中央値が190,000円でした。全体として4年間で解決金額が低額の方向にシフトしています。
 雇用形態別に見ると、平均値は、正社員387,745円、直用非正規204,198円、派遣214,817円、中央値では正社員220,000円、直用非正規150,000円、派遣100,000円です。

 解決金額を勤続年数別に見ると、1月未満の者は10万円未満が43.8%とかなり低く、10年以上になると50万円以上が34.4%とかなり多いです。勤続年数と解決金の間には統計学的にも有意な相関関係が認められます。
 平均値で見ると、1か月未満で150,577円、1か月-1年未満で241,504 円、1-5年未満で263,694円、勤続5-10年未満で261,049円、勤続10年以上で549,535円です。中央値で見ると、1か月未満で100,000円、1か月-1年未満で150,000円、1-5年未満で160,000円、5-10年未満で163,298円、10年以上では291,000円と、おおむね勤続年数に応じて解決金額が高まっています。ただし、勤続年数の増加率に対して解決金額の増加率は極めて小さく、10倍長く勤続しても2倍にもなりません。

 賃金月額と解決金額は、実際統計学的に正の相関関係は認められますが、その分布はかなり散らばりがあります。大企業になるほど高額で解決しているのではないかという予測は必ずしも正しくありません。

 事案の内容別で解決金額を見ると、雇用終了事案のうち解雇事案は解決金額がやや高めで、いじめ・嫌がらせ事案がやや低めで解決しています。解雇事案の解決金額の平均値は345,866円、中央値は200,000円、であるのに対し、いじめ・嫌がらせ事案の場合は平均値が243,930円、中央値が150,000円と、はっきりとした違いが見られます。

 勤続年数と解決金との関係を見ると、平均値は勤続1か月未満で0.9か月分、勤続1か月-1年未満で1.4か月分、勤続1-5年未満で1.5か月分、勤続5-10年未満で2.2か月分、勤続10年以上で2.6カ月分、中央値だと勤続1か月未満は0.6か月分、勤続1か月-1年未満で0.9か月分、勤続1-5年未満で1.2か月分、勤続5-10年未満で1.5か月分、勤続10年以上で2.1か月分です。勤続年数の増加率に対して解決金額月表示の増加率は極めて小さく、10倍長く勤続しても2倍にもなりません。


 労働局あっせん、労働審判、裁判上の和解は、労働者の雇用形態、賃金額によっても利用対象が違います。解決までの期間も違います。
 それぞれを比較しると、労働局あっせんは、低賃金、非正規労働者の割合が高く、勤続年数が短い労働者が活用しています。
 しかし分析結果からみると低賃金、非正規労働者で勤続年数が短い労働者にとって活用しやすいものになっていません。言い方を変えれば労働者を排除しています。2008年度と2012年を比較して、合意成立に至った比率が上昇しても、同じような条件の中にあっても解決金額が低額の方向にシフnトしているということは、労働者の保護は希薄化、使い捨ての方向に進んでいると捉えられます。労働局の役割はその逆であるはずです。労働局あっせん制度は、経済的にゆとりがない労働者が活用しやすいものになることを期待します。
 また、経営者の代替わりとグローバリゼーションの影響が浸透して社会的変化が起きていることが見て取れます。経営者も必死です。

 労働局に期待できない、しかし生活維持を含めてあきらめられない労働者は、各地の1人でも加入できる労働組合・ユニオンに加入して交渉をしています。
 これまで何度か紹介した、労働政策研究 研修機構の呉学殊主任研究員の著書 『労使関係のフロンティア』 (JILPT刊 2011年) からの抜粋です。(15年4月3日の 「活動報告」 参照)
 個人加盟労働組合・ユニオンと呼ばれる労働組合の2008年の解決状況です。
 全国の73のユニオンで組織されているコミュニティユニオン全国ネットワークは、「使用者と団体交渉で解決した」 74.5%です。連合の地域ユニオンは67.4%。全労連のローカルユニオン48.9%。全労協の全国一般64.4%。これらの平均は67.9%です。件数でも裁判を上回り、決して少ないということではありません。解決率は高く、しかも当事者の満足度は高いです。この数値は今も大きく変化していないと思われます。
「渡邊岳氏 (2008年) によると、和解・斡旋成立率は、裁判所の通常訴訟49.6%、仮処分手続41.5%、労働審判68.8%、労働局の紛争調整委員会38.4%、機会均等調停会議43.5%、労働委員会67.6%、東京都労働相談情報センター73.5%」 (『労使関係のフロンティア』) です。
 コミュニティユニオン全国ネットワークの解決率はそのどれよりも高いです。そして労働局の紛争調整委員会が極端に低いことも明らかです。労働局のあっせんが労働者の雇用安定のために機能するよう大改革が必要です。方法が思いつかないならコミュニティユニオン全国ネットワークに「相談」すればいいです。


   「平成26年度個別労働紛争解決制度の施行状況」
   「「労働局あっせん、労働審判及び裁判上の和解における雇用紛争事案の比較分析」
   「活動報告」 2015.4.3
   「活動報告」 2012.10.10
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「安倍談話」 のご都合主義
2015/08/18(Tue)
 8月18日 (火)

   8月は 6日 9日 15日

 永六輔のラジオ番組で紹介されていた俳句です。
 毎年なら8月は静粛な日々が続きますが、今年は国会周辺を中心に静かではありません。それどころか 「戦争法案」 反対の運動はますます大きくなっていきます。

 そうはいっても暑過ぎる日が続く夏休みです。
 久しぶりに時代小説を読みました。福島龍太郎の 『冬を待つ城』 (新潮社) です。

 奥州は、一門の武将たちが横並びで合議をして平安の統治を続けてきました。「山の民」 ・蝦夷の人たちとも共存していました。
 1590年4月、豊臣秀吉は20万の軍勢で小田原城を攻めます。奥州からは南部信直や津軽為信は参陣しますが葛西晴信や大崎義隆は動きません。伊達政宗は6月になって100人ばかりの家臣を派遣します。
 その後、秀吉は 「奥州仕置き」 を行い、葛西、大崎は所領を没収され、伊達はかろうじて家の存続を認められます。
 秀吉は、家の存続と所領を認めた大名たちにも地検と刀狩を断行し、自分の号令一下、すべての大名が手足となって動く体制、1人の大名のもとにすべての家臣が従属する態勢を築こうとします。
 奥州では一門の有力者に南部家への臣従を迫ります。南部信直は秀吉の命令に従い、一門衆に91年元旦に南部の三戸城に参賀し、臣従の実を示すよう求めました。
 秀吉はすでに朝鮮への出兵を計画していました。そのため奥州からも人足を集めようとします。朝鮮出兵のためには、寒さに強い兵士が必要でした。また奥州のどこかにある良質の硫黄の山を支配下に置いて鉄砲の性能を高めようとします。

 九戸藩の藩主九戸政実は、参賀を拒否します。政実の3人の弟を含めて周囲は秀吉の報復を恐れます。しかし最後は政実の意向に従い、兄弟は力を合わせて秀吉軍を迎え打ちます。「九戸政実の決起」 と呼ばれています。
 政実は、なぜ秀吉のやり方に異を唱えたのでしょうか。
 刀狩で抵抗力を奪われ、地検の末に荷重な年貢を課されて疲弊させられ、さらにそこを狙って朝鮮出兵のために人足をかき集められたら、奥州は疲弊のどん底に突き落とされてしまうという判断です。
「我が奥州は長い間、中央からの侵略にさらされてきた。阿倍比羅夫、坂上田村麻呂、前九年の役、後三年の役、源頼朝。そのたびに我らの先祖と奥州の大地は、屈服を強いられ屈辱に泣いてきたのだ」

 秀吉の軍勢15万が九戸城に攻め入ります。政実は、九戸城の攻防戦が、冬まで持続し、南国から動員された兵士の行動が鈍ったら勝ち目があると踏みます。『冬を待つ城』 です。しかし冬まで持ちません。城下の住民の被害が拡大することを避けるためにも、南部に自分ら四兄弟の首を差し出すことを条件にした和議を申し出ます。奥州勢も秀吉の野望に気づき、奥州の共同体を守る方向に転換して和議を成立させます。双方の被害は最小限でくい止められました。そして秀吉の野望は中座しました。

 政実は上の弟の首を持参して降伏しますが、中の弟には身を隠して逃亡させ、九戸藩の再興を託します。下の弟には 「山の王国」 に入り、蝦夷の人たちと一緒に蝦夷の財産を守る役割を課します。
 政実の思いは、「山の王国」 ・蝦夷を含めて奥州の共同体を守る、農民たちを苦しめない、硫黄の山は渡さない、そのためには自分の首を差し出すことも辞さないというものでした。
 硫黄の山は秀吉に渡ることはありませんでした。現在の松尾鉱山です。

 秀吉の朝鮮出兵、日本でいうところの 「文禄の役」 は、寒さに強い兵士がいなかったこと、良質の硫黄を手に入れられなかったので鉄砲の性能を高めることができず、計画通りにはいきませんでした。
 政実の策略は、秀吉の朝鮮出兵による朝鮮の人びとの被害を小さくしました。


 『冬を待つ城』 を読み終わって数日たった8月14日、読売新聞に 「また遅刻と焦る政宗 『徹夜で行く』 秀吉に釈明?」 の見出し記事が載りました。
「天下統一を前にした豊臣秀吉が関東と東北地方の大名を宇都宮城に集め、処遇を決めた 『関東・奥羽仕置』 に伊達政宗が遅参し、事情を記した自筆の書状が発見された。
 栃木県立博物館が13日、発表した。当時、政宗が居城としていた米沢城 (現在の山形県) を出発してから宇都宮までの行動は明らかになっていなかった。専門家は 『小田原攻めに続いて、2度目の遅参に政宗が焦る様子も伝える内容』 と評価している。
 書状の日付は天正18年 (1590年) 7月27日の 『戌 (いぬ) 刻』 (午後8時)。23日に米沢城をたったが、人馬の疲弊などで宇都宮への到着が遅れていると説明。26日の秀吉の到着に間に合わなかったことを 『覚悟のほかに候』 (予想外でした) とし、『今夜に打ち立ち候いて、明日は四ころに参るべく候』 (今夜には出発し、明日午前10時頃までには参上できると思います) と、徹夜で向かうとしている。」
 政宗は、秀吉に対して抵抗の姿勢をとっていました。本当は、遅参は予定通りで焦ってはいません。「九戸政実の決起」 においても動きが鈍いです。この視点からの政宗の見直しが進んでいます。
 「関東・奥羽仕置」。秀吉は奥州・蝦夷の地図に勝手に線を引き、国替えを進めて疲弊させ、支配体制の強化を進めて行ったのです。


 「関東・奥羽仕置」 の文字が目に留まった時、石川啄木が1910年の 「日韓併合」 の時に詠んだうたが浮かんできました。

   地図の上 朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ 秋風を聞く

 侵略され続けた奥州・蝦夷、「関東・奥羽仕置」 と明治政府による朝鮮侵略が重なりました。啄木は旧南部藩・岩手の出身です。

 日韓併合条約の条文を作成したのは柳田國男、同じ年に 『遠野物語』 が出版されます。侵略・戦争の露払いの役割を担った民俗学を探っていく時、民俗学者柳田の奥州・遠野での “活動” は、本当はなにが目的だったのかと勘ぐってしまいます。(12年1月6日の 「活動報告」 参照)

 11年9月1日の 「活動報告」 に書きましたが、陸前高田市の七夕祭りは 「うごく七夕まつり」 です。陸前高田市気仙町は900年以上続いている 「けんか七夕」 です。4台の山車が練り歩き、ぶつかり合います。
 お祭りにけんか? 900年以上続いている?
 900年以上前とは、「前九年の役」、「後三年の役」 の後の頃でしょうか。
 もしかしたら 「けんか七夕」 は、2つの役で亡くなった人たちを偲ぶ、山車がぶつかり合うのは奥州・蝦夷に住む人たちの 「大和民族」 に屈服しないという意思表示と再起に向けたリハーサルだったのではないかと想像します。
 東日本大震災の被災地は今かさ上げ工事が進んでいます。「うごく七夕まつり」 が練り歩く、「けんか七夕」 がぶつかり合う街道は今年限りで土砂に沈められてしまいます。
 被災地の復興は、4年半が過ぎようとしていますがやっとこの段階です。今回は侵略ではなく見捨てられています。


 14日夜、安倍首相の 「戦後70年談話」 を聞きました。
 聞いている間は全体像がわかりません。しかし
 「そして七十年前。日本は、敗戦しました。
 戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。」
の懐古調を聞いた時、談話は一過性のリップサービスで、すぐに葬り去ろうとしていると捉えました。

 そしてまた、頭の中が奥州・蝦夷に飛んでいきました。
 金田一京介はアイヌ言語の研究者です。柳田が経済的支援を続けたと言われています。金田一はアイヌ民族に伝わる口承の叙事詩 『ユーカラ』 をローマ字で表記し、文語体で和訳しました。
 なぜ文語体なのでしょうか。「滅び行く文化」 と捉えたからだと言われています。「滅び行く文化」 は 「滅び行く民族」 です。実際は、「滅び行く」 ではなく 「滅ぼそう」 としていました。 
 金田一についても評価は分かれます。アイヌの人たちや研究者からの評価は低いです。アイヌ文化、アイヌ民族は 「滅びて」 いません。
 
 15日の 「朝日新聞」 に、金田一の孫にあたる国語学者の金田一秀穂杏林大学教授がコメントを寄せ、「誰に向かって語りかけているのかわからない。話し言葉が生かされていない」 と指摘していました。話し言葉でも分りにくいものでした。

 安倍政権は、こんなものでなかったはずの 「安倍談話」 を出さざるを得なくなってしまったことを悔やんでいます。すぐにでも過去の出来事にしたい、忘れたいと思っているとおもわれます。でも出すのなら、「憲法守れ」 と叫ぶどうせ消えていく 「滅び行く人びと」 への緩衝剤の役割も果たさせようとしました。そのため、たくさんの本音にごまかしをまぜてわざと分りにくくしました。


 あらためて、全文を読みました。
 「百年以上前の世界」 ・日露戦争 (1904-5) の頃からから歴史を捉え返しています。では日露戦争はどういうものだったのでしょうか。
「日露戦争は、民衆が納得しない状況の中で講和を締結し、日比谷暴動などを引き起こしました。しかし政府の指導者の判断は、国力・戦力が底をつかない、英米諸国の支持を失わないうちに素早く止めようということでした。その結果、西洋先進国に追いついたと説明します。そして朝鮮半島に本格的に侵略していきます。」 (15年7月28日の 「活動報告」)
 日露戦争早期終結の判断は、日本が欧米から支配されることを回避させ、アジアの雄に押し上げていきます。談話はそこから現在に至る歴史を語り始めます。
 全体的に欧米対日本・アジアで語られます。その裏にあるのは 「五族協和」 「八紘一宇」 です。満州侵略を推進した石原莞爾らの構想は、欧米に対抗するために日本の指揮のもとにアジアで五族協和の連合体を建設することでした。これが目指すべき 「国際秩序」 でした。
 「談話」 は、しかしうまくいかずに戦争に負けてしまい 「日本国民」 に大きな犠牲を生じさせてしまったという捉え方です。

 この捉え方は 「談話」 で一貫性を持っています。
「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。」
 「東南アジアの国々」 が先にあって、後に 「台湾、韓国、中国」 です。反省とお詫びは、日露戦争から捉え返しをするなら韓国が先です。明治維新以降でとしてもそうです。しかし思考の根底にあるのは、台湾、韓国、中国は 「五族協和」 ・勢力圏内で “面倒もみた” “身内” の捉え方です。

 戦後から現在までその国々から謝罪や賠償の要求が続いています。
「戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
 そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。」
 事ここに至って 「寛容」 を強制して謝罪や賠償に蓋をしようとしています。
 しかし 「村山談話」 や 「小泉談話」 に対しても、謝罪はしたが賠償は終わっていないというのが韓国などの姿勢で、残されている課題です。

 そして 「寛容」は、今度はアメリカに向けられます。
「寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。」
 この利用主義は 「積極的平和主義」 推進に繋がります。
 沖縄の人たちに対して、アメリカ、日本政府はどのような 「寛容」 を持っていたと言うつもりなのでしょうか。
 沖縄に思いを寄せると、またまた 「奥州・蝦夷」 そして 「日韓併合」 が思い出されて重なり怒りが倍化してきます。

「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」
 談話ではここで初めて 「謝罪」 が登場します。どうしてしていない 「謝罪」 を子どもたちに続けさせると言えるのでしょうか。

 談話作成に関与した八木秀次麗澤大学教授の発言が8月15日の毎日新聞に紹介されていました。
「村山談話、小泉談話を相対化し、上書きした。村山談話は歴代内閣の一談話となって安倍談話に回収された」
 ここに安倍談話の戦略があります。「安倍談話」 が否定される時は 「村山談話」 もろともだといういうことです。


 談話は何度も評価をうけます。「村山談話」 はそのたび輝きを増しています。
 逆に 「安倍談話」 は現在にも歴史に耐えられる代物ではありません。人びとから 「歴史のくずかご」 に捨てられる価値しかありません。


 「謝罪」とはどのようなことを指すのでしょうか。
 さだまさしの 「償い」 のようなことです。


   「活動報告」 2015.7.28
   「活動報告」 2012.1.6

   「活動報告」 2011.9.1
   さだまさし 『償い』
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「転向論」 は何を問題提起したのか
2015/08/07(Fri)
 8月7日 (金)

 7月20日、鶴見俊輔さんが亡くなりました。
 「15年戦争」 という言葉を最初に使用しました。『思想の科学』 の発行を続け、ベトナム戦争の時は脱走米兵の支援活動をしていました。一貫して平和運動に携わっていました。
 鶴見さんの著作はこの「活動報告」でも何度か引用させてもらいました。博学で、幅広い活動をしていました。歴史の見方が講座派、労農派とその亜流からは無縁で、歯に衣を着せない肌感覚で論を展開するので素直に理解することが出来ました。

 鶴見さんというと古い話になりますが 「転向論」 が思い出されます。
 転向論というと吉本隆明の名前があがります。しかし吉本の論は、転向論以外でも、発想の転換はできても時間や時代が動かず、現在の問題として事象を考えようとすると理解不能に陥ってしまうことが出てきます。その点、鶴見さんの思考は柔軟で説得力をもちます。常に時代の中で対応しています。


 鶴見さんによると、「転向」 という言葉は日本で1920年に使われ始め、1930年代に入って広く使われるようになりました。日本の戦争中の政治的雰囲気のなかで生まれて育った1つの言葉であり概念です。戦争中の15年間の知的、文化的な傾向を担っています。

 1933年6月7日、日本共産党委員長佐野学と中央委員会委員の鍋山貞親は獄中から共同声明を出して転向を発表しました。
「佐野学は、転向声明において、日本共産党が国際共産党に対して盲従することを批判し、日本において天皇のもとに一国社会主義を目指す新しい党を作ることを呼びかけました。彼がそのとき国際共産党の指令から日本共産党は自らを解き放つべきだと述べた批判は、説得力をもっていました。イタリアとフランスにおいては、ソビエト・ロシアの指針から独立した判断に基づく社会主義の理論が発達し、そのような独立の論理と並行してファシズムと軍国主義に対する批判活動が、その理論に基づいてくりひろげられました」 (鶴見俊輔著 『戦時期日本の精神史』 岩波ライブラリー)

 佐野、鍋山の主張はさておき、日本ではその対極に 「日本共産党が国際共産党に対して盲従すること」 から自立した 「独立の論理と並行してファシズムと軍国主義に対する批判活動」、例えばドイツ、フランスにおけるレジスタンス運動のような組織がつくれなかったという実態があります。山川均はその活動を開始しますがすぐに弾圧されます。
 戦争に抵抗した多くは宗教団体とその信者たちです。

 佐野、鍋山の転向後、取り調べを担当し、転向させるための手引を作成した池田克検事の著 『左翼犯罪の覚書』 によると、それからひと月のうちに、共産党関係者で未決囚の30%、既決囚のうち34%が政治上の立場を変えたといいます。3年ほどのうちに既決囚のうち74%が転向を声明し、非転向の立場を守るものは26%となりました。
 そこには、党に不信を湧いた者、 「思想」 に確信を持ち続けても方針に疑問を抱きながら突破口を見つけることが出来ない者もいます。彼らも 「転向者」 と呼ばれました。獄中で抵抗を続けるよりも獄外で活動を続けるために 「戦術」 を行使しようとした者もいます。しかし 「独立の論理と並行してファシズムと軍国主義に対する批判活動」 が生まれない状況のなかでは柔軟性は許されませんでした。
 ちなみに、『左翼犯罪の覚書』 の手法は今でも使用されています。

 吉本は、『転向論』 で転向について説明しています。
「わたしの欲求からは、転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチチャの間におこった思考転換をさしている。したがって、日本の社会の劣悪な条件にたいする思想的な妥協、屈服、屈折のほかに、優性遺伝の総体である伝統にたいする思想的無関心と屈服は、もちろん転向問題の大切な核心の1つとなってくる。」
 これに対して鶴見の説明です。
「この転向の定義は、敗戦にさいして吉本個人の中に生じた問題を解くという探究過程にぴったりとあった用語規定である。なぜ敗戦をつらぬいて自力再建するコースを日本の知識人はつくれなかったのか、なぜ敗戦が革命によってもたらされるような条件をつくり得なかったのかという問題に対して答えが求められているのである。」 (「転向論の展望」)


 1910年、「日韓併合」 が行われると朝鮮半島では抵抗運動が継続します。
 1919年3月1日には、「独立万歳」 と叫ぶ大規模なデモが行われ、朝鮮半島全体に広がり、二か月あまり続きました。 「三・一独立運動」 などと呼ばれます。朝鮮総督府は武力をもって弾圧します。
 この後、いつまで続くか分らない出口のない暗黒社会のなかで朝鮮の人びとを疲労感、「挫折」がおそいます。文学者や知識人の中からも展望を持ち続けることができずに支配者に協力する者も出てきます。
 彼らは、解放後、日帝への協力者とレッテルを貼られ批判をあびました。しかし、「転向」 させた社会情勢を捉えることなく個人の行動を批判することはできないという評価も出ています。

 「転向者」 が増えた要因に満州侵略がありました。
 吉本の分析を鶴見さんが紹介しています。
「転向に対するもう一つの条件は、日本の人民大衆が満州事変を熱狂をもって迎えたことです。彼らの身をすりへらしての献身の対象であった人民が、彼ら自身の信念にまったく反対の目標を支持していたのです。このときに彼らの感ずる人民からの孤立の感情、隣近所の人々と彼ら自身の家族からの孤立の感情は、彼らの転向を決意させました。」 (『戦時期日本の精神史』)
 満州侵略は、政府や軍部だけでなく日本社会を襲っていた閉塞感から脱出させる役割を果たします。
 1920年の八幡製鉄所のストライキを指導し、のちに 『溶鉱炉の灯は消えたり』 を書いた浅原健三が抱いていた 「世界平和、人類の共存共栄への大きな存在」 の理念は、満州建国を推進する石原莞爾のそれと重なります。浅原が主張します。
「民憲党は私の過去の労働運動、鉱山運動の必然的発展の結品であった。『すべての階級闘争は政治闘争であらねばならぬ』 私は必然の徒々徐々に、着々と歩いてきたことを信ずる。然り、『私は必然の道程を忠実に辿り来た。』 と自信をもって断言する。」(仁科悟郎論文 『満州国の建設者』 より引用 『転向』 下収録)


 戦後の状況はどうだったでしょうか。
「日本の降伏ののちまで非転向の立場を守ってきた共産党員たちは、急に日本の社会全体から注目を浴び、学生や若い左翼活動家たちの上に魔術的な影響力をもつようになりました。その影響力は、彼らの指導のもとにある若い人たちに、非転向共産党員が15年戦争以前の時代以来守り続けてきた考え方をうけつがせ、当時スターリンの指導のもとにあった国際共産党の不謬性への信念を彼らに植えつけました。」 (『戦時期日本の精神史』)

 しかし1953年のスターリンの死後、フルシチョフによって 「スターリン」 批判が行われます。
 そして吉本隆明の 『転向論』 発表、鶴見らの『転向』論研究が進みます。“もちろん” 「不謬性を体現する人たち」 による指導部からは受け入れられません。

「日本の降伏にすぐ続く時期に、共産主義者で転向を拒絶して戦争中を貫いた人たちは、共産党支持者のつくり出した伝説の中心となり、10数人の非転向共産党員は共産党の不謬性を体現する人たちとみなされました。この人たちに批判を加えた最初の1人が吉本隆明で、彼は戦争中に育ったより若い世代に属していました。彼が1958年に発表した 『転向論』 は転向を拒否した共産党指導者についての批判を含んでいました。吉本は、同時代の状況との接触を失うことにおいて、これら獄中共産党員による非転向は、転向を受け入れた人々の思想と転向を受け入れたもと共産主義者の思想と同じく不毛な実りのないものであったと論じました。
 それは、原理を原理としてただ機械的に確認する作業であって、いまこの時代とどのように取り組むかについての指針を与える上で有効性を持たない、と彼は論じました。ただし、ここでは非転向という状態が不動の状態ではないという事実が、見落とされているように思います。生身の人間の行動は、ある行動をしないでそれを抑制するという状態をも含めて、それはいつも揺れ動いている過程にあります。人間はどういう状態においても、揺れ動くということから自由になるものではありません。そしてこの揺れ動くという状態において、人は自分自身を何らかの根本的な価値基準によって支えられる必要があり、その根本的な価値基準は、言葉の本来の意味において宗教と呼ぶことができます。
 10数人の共産党指導者の場合、彼らは獄中から出てきたときに、彼らの政治上の意見を彼らが獄外にあって活動していたころの1920年代の左翼知識人のあいだで用いられていた言語やものの言い方によって発表しました。それは敗戦直後の日本に住む人々の生活感覚から切れていました。
 非転向のまま獄中に残っていた共産党員の1人であるぬやま・ひろしは、降伏と釈放から30年のたったのちに、彼の死の直前にこのようなことを言いました。『戦争が終ったときに私たちは疲れきっていて考える力というものをほとんど完全になくしていました。そのときに占領軍の士官がきて私たちを釈放するということを伝えました。』」 (『戦時期日本の精神史』)


 『転向』 上巻が出された後、共産党中央委員だった春日庄次郎氏は、自分について書かれていることに事実誤認があるとして下巻に 「『日本労農者派』 その他について」 と題する論文を載せました。
「最後に、この機会に一言しておきたいことは『転向』論の1つの視角についてであります。
 私など 『非転向』 をつらぬき通してきたものの立場からして 『転向・非転向』 の問題で、一番重要なことは、水野――佐野・鍋山らのタイプの転向者と、日中戦争以降の息づまるような軍部ファシズムのもとで、生きて行くためにも、抵抗するためにも、民主主義、社会主義運動に関連していた活動家は大なり小なり、この戦時体制に協力するような姿勢をとることなしには世間に存在しえなかった条件のもとでの 「転向者」 とを区別することです。私たち少数のものは地下にもぐって反戦活動を行いました。しかし、多くの人びとはそうでなかった。……しかし、多くの転向的形態をとりながら、抵抗し、或は抵抗の意識をもっていた人たちは、地下的抵抗組織がなかったために、今日、だれも立証することのできないままに、一律に、転向者、屈伏者の一群のなかに埋没されていることです。
 これらの人びとが戦時に体験した苦悩、はずかしめられた生活への痛憤というものは、私たち獄中で生死の境を出入しながら非転向でがんばり続けてものの苦悩といずれおとらぬものであります。……
 しかし、やがて 『輝しい非転向』 は非常な権威をもち、自己をますます隔絶してゆき、高くそびえることによって、自ら孤立していきました。
 戦後、時間がたつにしたがって、この隔絶、孤立は深まり、『一貫して戦争に反対した共産党』 という言葉は漸次、空虚にさえひびくようになってきました。
 このことに関連して、戦前、戦時中の民主主義、社会主義運動における、非転向ということの意義、価値をわたしたちは高く評価するとともに、いわゆる『非転向の座標軸』というものを、もっと深く広く確立することができたし、すべきであったと思います。」 (1961・12・15)
 春日らにとっては、獄外に機能している組織ありませんでした。その分なおさら獄内の “組織” が、戦時中も戦後も期待されたのです。
 しかし “浦島太郎” は期待されても、現実を直視し、指導することが出来ないのは明らかです。そこで発揮されたのは 「権威」 と変貌した 「国際共産党に対」 する 「盲従」 です。組織を維持するための官僚制です。そのため弾圧・拷問をうけて死亡した人たちが英雄視されました。


「金達寿は、1958年に 『朴達の裁判』 という中編小説を書きます。その主人公は……そしてつぎからつぎへとそういうことをやって、そのたびにつかまえる警察官から軽蔑の目をもって見られるというそういう人なんです。なぜかれがこんなことを続けていけるかということは、警察間の軽蔑を招くようなその彼の生き方の流儀にあるんです。この小説は、転向というものについての日本の知識人の見方がもっているサムライ風の姿勢、硬直したスタイルを批判するために、在日朝鮮人の金達寿によって書かれたものです。金達寿の見方からすれば、硬直した日本知識人の転向観は、明治以前の武士階級文化の不幸な遺産であって、明治以後の文化は、それ以前の武士階級の徳目を日本国民の全体に広げることによって、日本の人民から弾力性のある活力を奪ってきたというのです。」 (『戦時期日本の精神史』)

 金達寿の小説 『玄界灘』 にも、市内をごろつくアルコール中毒の男が登場します。何度も事件を起こし、警察に逮捕されて留置所に勾留されます。しかし逮捕は勾留されている活動家に獄外からの指示を伝えるための手段で、実は男は共産党員でした。
 朝鮮半島にはさまざまな創意をこらした抵抗運動団体がありました。
 しかし日本には柔軟性をもった運動は見当たりません。


 非転向を否定するつもりはありません。同じく転向を全面否定するつもりもありません。
 しかし獄中から戻ってきた 「武士階級の徳目」 の英雄の非転向者たちには、「禅僧」 の姿が映ってしまいます。

 転向論は、組織のあり方に対して問題提起をしました。
 しかし提起を拒否して、受け止められない人たちは、 「武士階級の徳目」、変貌した 「国際共産党に対」 する 「盲従」 の組織体制のありかたを再検討することをすることなく、現在に至っているように思われます。 「武士階級の徳目」、「盲従」の組織のあり方は、実際は天皇制とはコインの裏表です。

 そして、このような姿は、講座派、労農派とその亜流から影響をうけた労働組合にも残っているように見えます。指導部は情勢に無関心で、実は変化についていけなくても自分たちの不謬性に固執し、上からの指導・統制で組合員を管理しています。しかし実は孤立していている 「孤高の人」 です。具体的には労働現場にあるさまざまな差別問題には本当に鈍感です。

 転向論は、今のような情勢においてこそ多種多様に対応していくことと横のつながりの必要性を教訓として教えてくれます。
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