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1952年4月28日
2015/04/28(Tue)
 4月28日 (火)

 4月28日はどのような日なのでしょうか。
 1951年9月8日、サンフランシスコ会議において日本と旧連合国48カ国はサンフランシスコ講和条約に調印しました。そして条約第3号で、北緯29度以南の奄美や沖縄の南西諸島を日本の行政権から切り離し統治することが国際的に決定されました。
 52年4月1日に、全琉球を統一する住民側の政府である琉球政府が発足しますが、活動は米国統治下で制限さます。
 条約は52年4月28日に発効し、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は廃止されます。同時に奄美群島と沖縄は日本から切り離されて米軍の施政権下に置かれることになります。沖縄にはアメリカ政府の出先機関である琉球列島米国民政府 (USCAR) がおかれ、布令・布告を公布していきます。
 そして同日、日本とアメリカ合衆国との間で安全保障条約が締結され、米軍の日本駐留が認められました。
 沖縄では、4月28日を 「屈辱の日」 と呼んでその後 「復帰」 運動を続けます。
 53年12月25日、奄美諸島は日本に 「復帰」 します。


 今年4月5日の翁長沖縄県知事と、菅官房長官の会談で、知事は 「沖縄県が自ら基地を提供したことはない。県民がいるところは銃剣とブルドーザーで基地に変わった」 と発言しました。
 沖縄の基地建設の歴史について14年9月25日の 「活動報告」 をコピーします。

 1945年4月1日、米軍が沖縄本島中部の読谷・北谷海岸に上陸し、南北に分断して進撃します。南に進撃する米軍に対峙する日本軍は後退を続けます。
 沖縄戦までは、首里から普天間まで真っ直ぐな街道が走っていて、両側に3000本の琉球松が生い茂っていました。日本軍はその並木の老松を切り倒して戦車を装って組み立てたりして、米軍の進撃に時間稼ぎをしたといいます。
 その後、普天間の南に位置する嘉数高地では10数日間にわたって一進一退の戦闘が繰り広げられます。米軍の上陸は想定されていて朝鮮半島から軍夫を強制連行してきてトーチカなどの強固な陣地を構築していました。構築にたずさわる者たちのために宿舎の近くには慰安所も設置されました。
 4月19日に日本軍が嘉数高地から敗退し、街道が廃墟になると米軍はそこに普天間飛行場を建設します。朝鮮戦争において重要性が認識され、強化されていきます。
 普天間基地は住民の土地を日本軍と米軍が荒らした後で米軍が奪ったものです。それが強化・拡大されて現在に至ります。

 普天間基地周辺は、沖縄では珍しく平地が広がっています。そこの真ん中に基地が居座っています。
 宜野湾市は 「アンパン」 だといわれました。市街地の真ん中のおいしいアンの部分を基地が占め、周囲の皮の部分に住民がへばりついています。基地は市を東西に分断し、学校は日常的に戦闘機の騒音に苦しめられています。それだけではなく振動被害もあります。そして事故があります。
 今、普天間基地の移転先という口実で辺野古基地建設が進められようとしています。
 辺野古基地は、米軍基地を建設するふりをして、将来は自衛隊を駐留させるのが隠されている目的だとも言われています。
 過去が改ざんされ、そのうえ未来にウソがつかれています。
 沖縄の人たちは沖縄からアンを押し出そうと闘い続けています。

 では他の基地の成り立ちはどうだったでしょうか。ここでは歴史が隠されています。
 1943年半ばまで、沖縄は基地のない島で、日本軍にとって重要な拠点ではありませんでした。
 3月からは伊江島と本島・読谷に日本軍が上陸して南方作戦の中継基地として飛行場建設を開始します。
 9月30日に大本営は 「絶対国防圏」 を設定します。第一線陣地のマリアナ諸島を背後から防衛・支援するため沖縄は第二線陣地 (航空基地) の役割を担うことが決定されます。
 しかし44年2月17日に最前線基地であるトラック島が壊滅、第二戦陣地は完成する前に最前線になります。大本営は大急ぎで沖縄の兵力を増強。9月末までに、伊江島2本と読谷 (北) を含めて喜界島、奄美大島、徳之島、沖縄本島4本 (北と中、南、小禄)、宮古島3本、石垣島2本、南大東島の飛行場に15本の滑走路を完成させます。
 これらは今、米軍基地になっています。

 具体的に見てみます。
 1943年8月、伊江島に沖縄の各市町村からの徴用人夫で東西2本の滑走路建設を始めます。しかし45年3月、米軍の攻撃が予想されると日本軍の命令で爆破されます。沖縄戦が開始されて間もなく伊江島は米軍の猛攻撃をうけ 「集団自決」 も起きます。そして米軍が占領します。日本軍が爆破した基地は修復されて米軍の基地になります。
 8月9日にテニアンをたって長崎に原爆を投下したB29はその後伊江島場飛行場に着陸し、給油をしてもどります。
 8月29日、マッカーサーはマニラから伊江島に来てそのあと厚木基地に向かいました。

 日本軍にとって沖縄は東南アジアへの出撃基地で、その後は本土防衛のための時間稼ぎの 「捨て石」 でした。沖縄が一日戦争を延ばせば、本土決戦が一日延びるという作戦が実行されました。「軍は民衆を守らない」 これは沖縄戦だけでのことではありません。
 そして50年代からは米軍基地の建設が本格化していきます。
 琉球列島米国民政府 (USCAR) は布令・布告を公布して新規に土地を接収し、基地を拡充していきます。

 72年5月15日は沖縄が 「復帰」 した日です。
 2013年4月16日の 「活動報告」 のコピーです。

 かなり前、沖縄で平和運動を続けていた中村文子さんの話を聞きました。中村さんは戦後、小学校・中学校の先生をしていました。話を聞いたのをまとめて作成したパンフレットからの引用です。
 ……それが 「教え子を戦場に送らない」 という日教組のスローガンに繋がっていきました。平和憲法に繋がっていきました。本当に私たちが灯台のように大事にしたのが憲法9条でした。その憲法9条の灯台に向かって私たちは復帰運動をしたのです。
 そして1972年5月15日、復帰。それこそ親指ほどの大きな雨でした。その大豪雨の中で、私たちの願いとは裏腹の内容に、祝うはずの提灯行列が、与儀公園の泥んこの中での抗議集会に変わって、県庁前へ、あの時は琉球政府前へ行進しました。


 憲法9条の灯台に向かった 「復帰運動」 の期待は裏切られ、ますます基地は集中化・強化され、今も居座っています。
4月28日は 「屈辱の日」 です。そして5月15日も裏切られた日・「屈辱の日」 です。
 アメリカも日本政府も沖縄の人たちの叫びを受け止めません。逆に憲法9条の改訂が声高に叫ばれています。
 しかし沖縄の人たちは体験が醸し出す 「命どぅ宝」 の思いで闘いを続けます。だれにも屈服させることはできません。


 もう1つの4月28日です。
 52年4月28日は、外国人登録令が廃止された日です。

 今年4月17日の 「活動報告」 に書きましたが、GHQ作成の日本国憲法草案には当初、「一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ 政治的、経済的又ハ社会的関係ニ於テ人種、信条、性別、社会的身分、階級又ハ国籍起源ノ如何ニ依リ如何ナル差別的待遇モ許容又ハ黙認セラルルコト無カルヘシ」 と書かれていました。しかし日本政府の “押しつけ” によって、最終的に 「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を受けない」と 「国民」 に限定したものになります。
 そのため日本国憲法施行前日の47年5月2日に外国人登録令が公布されます (勅令第207号)。大日本帝国憲法下で公布された最後の勅令で、「台湾人のうち内務大臣の定める者及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」 とあります。GHQ施政下の日本国内における在留外国人政策の根拠法令として運用されました。
 この頃、在日朝鮮人の人たちは約50万人いました。外国人登録令が公布されるまでは日本国籍でした。公布後は排除と抑圧、その一方で同化政策が強くなります。
 この勅令は52年4月28日に廃止されました。

 代って登場したのが外国人登録法で、52年4月28日に制定されます。
 「本邦に在留する外国人の登録を実施することによって外国人の居住関係及び身分関係を明確ならしめ、もつて在留外国人の公正な管理に資することを目的とする。」 とあります。
 指紋押捺制度が実施されようとしますが反対運動が盛り上がったことにより3年間延期され、55年から実施されます。具体的には、日本に1年以上在留する16歳以上の外国人は、居住地の市区町村長に外国人登録証明書の公布申請をする場合、また、5年ごとの切替え申請をする場合、登録原票などに左人差し指の指紋を押さなければならないことが強制されました。対象となる外国人のうち8割が在日韓国・朝鮮人でした。
 外国人登録証はいつも身に着けていなければならないので 「犬の鑑札」 などと呼ばれました
 また70年代になると指紋押捺拒否・ 「人さし指の自由」 を求めた運動が全国的に展開されていきました。
 国籍条項はざまざまなところから在日韓国・朝鮮人を含めた外国籍の人たちを排除してきています。

 2009年に 「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する等の法律」 が成立します。この法律の施行により、2012年7月9日、外国人登録法は廃止されました。
 日本は終戦直後から侵略や強制連行等についてまったく反省していないことを物語ります。

 さらにもう1つの4月28日です。
「戦前からの制度である 『軍人恩給』 や戦争下で企業に約束した 『戦争補償』 など、戦争がもたらした被害損害に対して国家が補償する制度についてもメスが入れられたのである。すなわち、1945年11月24日、GHQによって2つの 『覚書』 が発せられた。
 1つは、『恩給及び恵与』 である。それは、1946年2月1日までに、……要するに、軍国主義に加担したものに対する “恩典” をことごとく除去することにより、『非軍国主義化』 をはかろうとしたのでる。……
 この 『覚書』 ごにおいても、日本政府はその内容の緩和をGHQに求めたが入れられず、1946年2月、『恩給法の特例に関する件』 (勅令68) によって、重度戦傷者に対するものを除き、いわゆる軍人恩給は廃止された。……
 もう1つの 『覚書』 は、『戦争利得の除去および国家財政の再編成』 である。
 それは、『日本人のすべてに対して戦争は儲からないという事実を明示するために、戦争利得を排除する計画に関する法律を、昭和21年 (1946年) 中に開催されるべき議会に提出することを日本政府に命じた』 のである。
 政府は、戦争中に各企業に対しておこなった各種の約束、すなわち国家総動員法や軍需会社法にもとづく補助金や損失補償金、さらに防空法にもとづく工場疎開等の費用、軍需品等の対価、戦争保険金、徴用船舶の損失補償などが主なもので、総額は約960億円と見込まれたという。
 戦後、これらの政府補償を現実に実施すると、国家財政は破綻していたかもしれない。日本政府は、『約束は約束』 と “抵抗” を試みるが、結局、1946年8月、これらの戦時補償の打ち切りを決定し、それを盛り込んだ 『戦時補償特別措置法』 が同年10月に制定された。……
 『国家補償金』 については、戦時中に強制連行した朝鮮人や中国人を使役したことによよって生じた “損失” について、各企業は政府補償金を獲得していた事実がある。土建業界については、朝鮮人・中国人に関して、総額約4600円を獲得したとの記録がある。
 また、中国人については、土建業、鉱山業、造船業、似駅行の35社が、『総額約5673万円』 を得たと報告されている。
 これらは、いずれも、先の戦時補償以降の時点で、“食い逃げ” 的に獲得したことはいうまでもない」 (田中伸尚他共著 『遺族と戦後』 岩波新書)
 なんと強制連行した労働者を使役した企業に補償金が支払われていたのです。

「総司令部の専門家たちによって作製された精密な表を研究するうちに、その表のなかで発見した財閥の富の財産目録は、まったく嫌になるくらい果しがなかった。その表の示すところによれば、昨年 (1945年) の1月1日現在、三井は直接に185の会社、三菱は285の会社を支配し、このいずれかの財閥に円をもたらさない経済活動の分野は1つもなかった。
 ……以上のようなことは開戦当時からわかっていた。戦争の全期間を通じて、この背徳的な経済組織を打ちこわさなければならないというわれわれの決意は、いよいよかたくなるばかりだった。……
 財閥はいっこう閉口していない、と私に保証してくれた人がいた。1つには彼らは日本の敗北を予想し、これに備えていたというのだ。いよいよ敗戦となるや、その厖大な原材料や製品や機械類は隠匿され、占領の終了する日に取り出されるのをまっていたという。もう1つの緩衝柵策は、いわゆる 『補償』 である、――あらゆる種類の戦災による損失に対する政府保険である。政府は財閥に5百億円という幻想的な金額の負債を負っている。
 そのうち2百億円は、降伏宣言の直前と直後にあわせて支払われた。」 (マーク・ゲイン著 『ニッポン日記』)
 財閥解体で、財閥は本質的な打撃を受けませんでした。

 話を軍人恩給にもどします。
 サンフランシスコ講和条約に調印後の51年0月、「戦傷病者及び戦没者遺族等の処置に関する打合会の設置に関する件」 が閣議決定され、戦後初めて戦争犠牲者援護が公式に取り上げられます。
「この 『打合会』 は、しかし、その基本方策について、『階級別による旧軍人恩給の復活で行なうべきだとする [現、総務庁] 恩給局の意見と、階級制を廃止して社会保障の見地から遺家族の実情に即して解決を図るべきだ、とする厚生省の意見が出され、両者の歩みよりができなかった』という。
 結局、1952年度の予算編成を前に、軍人恩給の復活は見送られ、戦傷病者および戦没者遺族に対し、社会保障として年金などを支給することでいちおうの決着がつけられた。そして1952年3月、『戦傷病者戦没者遺族等援護法』 が国会に提出され、成立した。
 同法が公布されたのは、主権回復2日後の4月30日 (適用は4月1日にさかのぼる) で、この法律では、『軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護することを目的とする』 と定めている」 (『遺族と戦後』)

 しかしGHQがいなくなると戦傷病者戦没者遺族等への社会保障としての援護に軍人・軍属は黙っていません。
「遺族等援護法制定の次におこなわれた重要な政策決定は、『軍人恩給の復活』 である。
 前にみた軍人恩給の廃止を決めた法令はポツダム勅令のため、占領が解かれると効力を失う。
 そこで、政府はまず 『恩給法の特例に関する件の措置に関する法律』 により、1953年末 (後に7月末まで延長) まではそれが法律としての効力を有するものとし、あわせて恩給法特別審議会を設置して、その建議を求める措置をとった。そして、その建議をもとに、1953年8月1日、恩給法改正を公布し、ついに軍人恩給の復活がはかられた。
 軍人恩給は、軍人の階級にもとづくもので、勤続による年金制をとっており、前に述べた援護法とは、基本的な性格を異にするものである。
 つまり、遺族等援護法は、戦傷病者および戦没者遺族のおかれた窮状に対し、一定の金銭給付をおこなうもので、社会保障的色彩が強いものである。軍人恩給の復活は、軍国主義下での “約束” を果たすことであり、明らかに逆コースをたどるものといえよう。
 軍人恩給の復活によって、それまでは遺族等援護法の対象になっていた軍人・軍属の大部分が、恩給法の対象に移行し、以降遺族等援護法のほうは従来補償の対象とされなかった人びとに、その適用範囲を拡大していくことになる。」 (『遺族と戦後』)

「軍人恩給の復活と同時に制定されたものに、『未帰還者留守家族等援護法』 がある。……
 なお、この法律にいう 『未帰還者』 の中には、戦争犯罪人 (A級、BC級) として 『拘束されている者』 がふくまれ、その留守家族も援護の対象とされた。
 1952年に第一号として制定された遺族等援護法では、戦争犯罪人は当初除かれていたが、53年8月改正において、戦犯として拘禁中に死亡した者の遺族にも年金などが支給されるようになった。同時期の軍人恩給復活に際しても、戦犯に問われ有罪を受けた者およびその遺族には恩給の受給を認めることとし、ただ拘禁されている者については、その拘禁中は支給を差し止める、とされたのである。
 そして、1954年6月の恩給法改正において、死刑者 (法務死という) の遺族にも公務扶助料が支給されることとなった。さらに、55年8月改正により、その拘禁期間を在職期間に加えるとともに、拘禁中の傷病には公務傷病恩給が支給されることとなった。これで戦犯に問われ有罪判決を受けた者は、完全に “復権” したことになる。」 (『遺族と戦後』)
 東条英機らA級戦犯は、裁判中は 「未帰還者」 という扱いになり、「階級制」 に基づく高額の恩給を受け取ることになりました。そしてA級戦犯の靖国神社合祀となっていきます。

 サンフランシスコ条約が発効した52年4月28日時点で、巣鴨刑務所には927人の戦犯が収容されていました。その中には日本兵として闘った朝鮮人29人、台湾人1人が含まれています。
 しかし外国人登録法で国籍を喪失した朝鮮籍等の「戦犯」は、恩給法等の対象には今もなっていません。


 13年4月12日、政府は4月28日を 「主権回復の日」 とすると発表しました。
 沖縄の人びとが切り捨てられた日が 「主権回復の日」 です。沖縄戦と戦後の苦闘を体験した人たちの思いが逆なでされています。
 そして、侵略され、強制連行された韓国・朝鮮の人たちにとっては 「排除の日」 です。しかし歴史が歪曲され、忘れさせられようとしています。
 さらに何の反省もなく軍隊が台頭しつつあります。
 もう一度、修正されない歴史をきちんと捉えかえすことが必要です。


 ついでのもう1つ。
 サンフランシスコ条約発効直後、労働三法についての大改正が政令諮問委員会によって取り上げられました。当時の日経連、商工会議所などから様々な意見が出されましたが総評を中心として労働基準法改悪反対闘争委員会が結成されて反対運動が展開されました。さらにILOへの参加による義務の拘束などによって最終的には大改革には至りませんでした。
 この時、労働基準法36条の時間外労働を、労働協約の他、労働者の過半数の者の代表者との協定で可能となる事項などが盛り込まれました。

 国家が大きく舵を切ろうとする時は同時に労働者の権利が切り崩されます。
 安全保障法制の改悪阻止と1つのものとして労基法改悪阻止の闘いを進めていく必要があります。


   関連:「活動報告」 2015.4.17
   関連:「活動報告」 2014.9.25
   関連:「活動報告」 2013.4.16
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「労」の総力で労働基準法改正を阻止しよう
2015/04/24(Fri)
 4月24日 (金)

 政府は、2月13日に労働政策審議会からの提出された建議 「今後の労働時間法制等の在り方について (報告)」 をうけ、いわゆる 「高度プロフェッショナル制度」 を導入する労働基準法改正案を国会に提出しました。
 労政審の審議で労働者側委員は長時間労働の防止策として 「インターバル制度」 の導入を提案していました。
 しかし建議は、最終的に 「なお、時間外労働に係る上限規制の導入や、すべての労働者を対象とした休息時間 (勤務間インターバル) 規制の導入については、結論を得るに至らなかった。」 と報告しています。政府と公益側委員、使用者側委員は、経済界の言いなりで、労働時間の規制、短縮や長時間労働がおよぼす影響などについては最初からまったく検討する意思はなかったということです。
 果たしてここまで労働者のことを考慮しない政府はこれまであったでしょうか。
 一方で過労死防止対策の検討会が開催され、また精神疾患で休職・退職者続出し、社会保障の分野にも過大な影響をおよぼしているのにです。経済界はまったく社会的責任を取ろうとしていません。


 日本で労働者保護の法律が検討されるのは1882年からです。
 中村雅則著 『労働者と農民 ―日本近代をささえた人々―』 (小学館刊) から抜粋します。

「工場法の制定意図は、実際の施行が非常におくれたのとは逆に、むしろ早期から官僚の側に存在していた。まず明治15年 (1882年)、農商務省工務局内に調査課がもうけられ、労役法および工場条例にかんする資料があつめられた。これがその端緒である。翌年に政府は労役法・子弟契約法工場規則の立案に着手し、この年に設立された東京商工会にあつまる実業家の意見を徴するなどして、明治20年6月、職工条例・職工徒弟条例をいちおう脱稿するまでにいたった。
この職工条例は、『年令14才未満ノ者ハ1日6時間、17才未満ノ者ハ1日10時間以上使役スルコトヲ得ザルコト』、あるいは 『婦女14才未満ノ職工ヲ夜間使用スルコトヲ得ザルコト』 など、かなり想いきった職工保護規定をふくんでおり、後年の成立工場法をうわまわる内容をもっていた。そのため渋沢栄一・大倉喜八郎・益田孝などの資本家は、これでは古来の醇風美俗にもとづく雇用関係、すなわち封建的労使関係がくずれてしまう、として反対にまわった。そういうこともてつだって、けっきょく各局の意見一致をみることなく廃案となってしまったのである。
 そののち、明治24年、26年、27年と、政府はひきつづき各地の商工会議所に諮問したり、工場内労働者の実情調査などをおこなって、職工条例制定の意欲を捨てない。ところが、翻訳法案にすぎない、という渋沢ら実業家の反対にあって、日清戦争前には、いずれも日の目をみずに終わってしまう。」

 ではこの頃の労働時間はどれくらいだったのでしょうか。
 絹業文化遺産群の富岡製糸場について、2012年7月24日の 「活動報告」 を抜粋して再録します。

 世界遺産ということで建物の説明はホームページなどでも詳しく行われています。
 工場は明かりを多く採り入れる構造になっています。まだ電気がなかった時代に、手作業と品質管理には外からの明かりが頼りでした。ランプの煤は生糸を汚すという理由などで使用されませんでした。
 そのため創立当時の就労時間は 「女工は払暁に食し、蒸気鳴管を待て場に登り、朝7時業につき、9時半時間休む、12時に食し、1時間休み、4時半帰宿す。大約日出より日没半時間前を度とす」 です。実労7時間半です。夏は長く、冬は短くなります。1週間に6日働き、1日休みでした。
 原合名会社になった明治の末ごろからガス灯が使用されて就労時間が延びていきます。
 地方都市では明治20年代終わりころから電灯が普及し、深夜業が進みました。富岡地方に電灯がつくのは大正になってからです。

 もう1つ、2012年4月27日の 「活動報告」 を抜粋して再録します。
 橋本毅彦+栗山茂久著 『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』 (三元社刊) は明治維新後の労働時間を、工場などの資料から取り出して紹介しています。

 1875年8月の東京・築地にあった海軍兵器局の工房規定です。
 各種工作業時間は、春分より秋分迄は午前7時30分より午後5時迄、秋分より春分迄は7時30分より午後4時迄と定められていました。ただし定時に作業開始ができるように6時30分まで工場に到着することを要求され、これを過ぎると減給、7時過ぎに出勤すると就労できませんでした。
 1883年7月の東京・赤羽の海軍兵器局の工房規定は変化しています。
 執業時間は1日9時間。12月、1月、2月の3か月間は8時間30分。ただし昼休みは30分間です。
 起業は3月より11月までは午前7時、12月、1月、2月は7時30分、終業は1年を通して午後4時です。朝の待ち時間はなくなりました。
 1886年12月の兵器製造職工規程です。
 執業時間は1日10時間。1月、2月、3月、11月、12月は9時間30分です。止業時間が4時から5時に繰り下がります。
 門扉は起業前15分に開き、出門警鐘と同時に閉まります。つまり早出残業も通常の残業もありません。
 管理者は起業時間に一斉に作業を開始するため遅刻の取り締まりが課題でした。一方、労働者も労働時間の認識を持ち始めます。

 時代が遡りますが1865年の横須賀造船所の就業時間は、夏季6時半起業5時半退場の11時間、冬期は7時起業5時退場の10時間でした。これはフランス人の技術指導のもとにあったので 「就業時間は1日西洋辰儀10時間たるべし」 によるといいます。さらに 「御定め賃銀1日銀7匁8分づつのところ、右は朝5つ時頃より夕7時までの賃銀にて、大早出、大居残り仕り候へば、右賃銀の倍増相渡し候儀にこれあり」 というように、時間外労働についてはちゃんと賃金が、支払われていました。
 労働時間についての考え方は、「都市におけるギルド的慣行」 があったといいます。
 1878年1月実施の横須賀造船所の規程は、職工の残業について現在確認できる最初のものなのだそうです。1時間分の賃金を基準として残業1時間につきその1.5倍、午後10時から午前4時は2倍支給するとあります。1884年3月からは海軍の工場すべてで停業から7時までは1倍、7時から10時と午前4時から起業時までが1.5倍、午後10時から午前4時は2倍に変更されました。この頃は残業が常態化したことを物語ります。

 交代制などによる夜間や深夜労働の手当は現在より高くなっています。やはり夜間労働や残業の存在は普通ではなかったのです。

 1884年頃は、明治政府は朝鮮半島への侵略を画策し、海軍の強化をはかります。そして1894年の日清韓戦争 (日清戦争) が始まると残業は増大します。清国からの賠償金2億3千万両 (テール)(3億6千万円) の大部分が八幡製鉄所の建設、軍直轄の砲兵工場、海軍工廠、造船所などの軍備拡張にあてられました。
 その一方、例えば鉄工は 「若し世人と等しき労働時間にては、彼等は到底1家族数人の糊口だも能はざるなり、其の工場労働者一般夜業を喜び、常に労働時間の長きを取るもの多き、亦た故ありといふべし」 (横山源之助 『日本の下層社会』) という労働者の実態がありました。低賃金が残業手当を期待させました。今と似ています。

 日清戦争後の軍備拡充と外貨獲得のための殖産産業政策などのいわゆる「戦後経済」が長時間労働を強いていきます。労働時間は現在の実態と似てきています。


 もう一度 『労働者と農民 ―日本近代をささえた人々―』 からの抜粋です。

「明治29年 (1896年) 10月、農商務省の諮問機関である農商工高等会議がひらかれた。この会議は日清戦争後の農商工業にかんする最高基本方針を決定し、隈板内閣の農商大臣大石正巳のことばを借りれば、『実務家ノ参謀本部』 ともいわれたものであった。……この農商工高等会議の第1回と第3回会議で 『職工の保護及取締に関する件』 がとりあげられたことにより、工場法はふたたび審議の日程にのぼってきたのである。
 速記録にそって、審議の内容をみてみよう。政府側委員添田寿一 (大蔵官僚) は、5つの見地から工場法の必要を力説して、大略つぎのように述べた。
(1) 国家的見地からみて、国家はその自営上、健全なる国民の発育をはからなければならない。
(2) 経済的見地からみて、労働時間の制限は損失のようにみえるが、労働力を磨滅させてしまって
 は元も子もなくなるので、労働時間の制限はかえって有利となるはずである。
(3) 衛生的見地からみて、工場が注意をおこたれば疾病その他の弊害が生じ、国民の発達を妨害
 するだけでなく、工場にとってもマイナスとなる。
(4) 道徳的見地からみて、『例ヘバ男工・女工ノ区別ヲ密ニシナケレバナラヌトカ、其他、多少ノ注意
 ガ必要デアル』。
(5) 社会主義化防止の見地からみて、雇い主と雇人とのあいだに、多少とも国家が干与して雇人
 の利益を保全しなければ、社会上の 『擾乱・紛争ヲ喚起スルコトガ屡々 (しばしば) ア』 る。……
 これにたいして渋沢栄一・大倉喜八郎ら実業家は、一見、同意の姿勢をしめしつつ、工場法制定にはあくまでもつよく反対した。たとえば渋沢は、労働時間についてつぎのような意見を述べている。
  (職工の) 働ク時間ガ長イト云フコトハゴザリマセウ。左リナガラ大抵、其職工ガ堪ヘラルヽ時間
  ト申シテ宜シイ。又、夜業ハユカヌト云フコトハ、(中略) 学問上カラ云フトサウデゴザリマセウガ、
  併 (しか) シ、一方カラ云フト、成ルベク間断ナク機域ヲ使ツテ行ク方ガ得デアル。之ヲ間断ナク
  使フト云フコトハ、夜業ト云フコトガ経済的ニ適ツテ居ル。(中略) 夜間ノ仕事ヲスル方ガ、算盤ノ
  上デ利益デアルカヲヤツテ居ル。為メニ衛生ノ上カラ云フト、害ガアツテ職工ガ段々衰弱シタト云
  フ事実ハ、能ク調査ハ致シマセヌガ、マダ私共見出サヌノデゴザリマス。」

 渋沢と大倉は職工保護法は時期尚早と結論付けます。
 結局、「職工の保護法及取締に関する件」 は継続審議となってしまいます。

 渋沢栄一は 「成ルベク間断ナク機域ヲ使ツテ行ク方ガ得デアル」 と労働者の健康より生産性を優先することを主張しています。「日本資本主義の父」 と呼ばれていますが正確には 「資本家の父」 です。現在の経団連会長以上の立場にいましたが、その姿勢は現在の経団連とそっくりです。
 一方、政府の姿勢は現在とは違います。社会主義化、労働運動激化への対策ということがありましたが、国家としての責任が見られます。

 工場法はその後も紆余曲折をたどります。
 一方、1919年9月、米騒動をきっかけに神戸・川崎造船所で争議がおき、労働者はサボタージュ戦術をとり、労働時間8時間制を獲得します。日本で最初の8時間労働の実現です。(2015年1月23日の 「活動報告」 参照)
 この背景の1つとして、そもそも労働者は長時間労働に慣れていない、嫌がっていたということがあったと思われます。自分たちの社会生活がありました。
 日本は伝統的に長時間労働だったということではありません。強制されて慣らされていきました。


 現在、厚生労働省とその取り巻き医者たちは、労働時間と疾病、精神疾患を関連づける資料はない、労働時間が長いほど精神疾患の罹患率が高くなるというエビデンスはない主張します。しかしエビデンスがないのは労働者はモルモットでないからです。世界的には日本のような長時間労働は存在しないのでデータ自体がありません。
 しかしかつては様々なデータがありました。
 古いデータを紹介します。
 長時間労働によって労働時間が睡眠時間に食い込んだ場合です。
「欠勤率がふえてくる。採炭やプール・オーバー (薄板圧延工) のような重筋労働従事者が10時間をこえる労働に従事した場合には、日々の疲労のために週間中休みが必要になるのであって、戦前炭坑夫は出勤20方 (日) ならいといわれたものである。また、戦前Y製鉄の薄板圧延工が12時間二交替から三交替に切りかえたとき、それ以後中休みがなくなったというのもそれである。
 一般に人間は疲労が講じると疾病にかかり易くなるが、これは動物実験によっても知られている。戦時中の時間延長によって罹患率が著しく高まったこと、1929年の婦人深夜業禁止・就業時間の3時間の短縮でその疾病率・欠勤率は激減したこと、産業別にみた結核罹病率は労働時間がむやみに長い印刷・出版に高いこと、などいくらでも例を示すことができる。」 (藤本武著 『労働時間』 岩波新書 1963年刊)
 そして戦前の航空機工場における、1937年8月に12時間2交代制から9時間2交代制に変更した前後の月ごとの罹患率をグラフに表した資料を紹介しています。変更直前は、5.94、6.20、6.08でしたが、変更して8か月後からは3.84、4.02、3.87と著しく減っています。

「こういうコアこの研究をもととして、いぜんには最適労働時間について論じられた。わが国でも戦時中の長時間労働のなかで、労働8時間をもって適性労働時間とみなす見解が労働科学の立場から主張されたこともある。これについて、イギリスのフローレンス教授は、つぎのようにのべている。『わたくしは、第一次大戦中の諸経験の結果を要約して、おそらく通常の経営能率にとっての適正な時間の長さとして、週48時間を主張した。機械力が作業の速度を設定している産業活動の大きな部門の場合には、もっと長い時間がより生産的であるかも知れないが、わずかながら少い生産性の不利益よりも重要な短時間労働における経済的利益がある。これらの利益の中には、(1) 日中の生産量の安定性、(2) 生産量に比べてより少い損失時間 (災害と無駄な作業)、(3) 所定時間に比例していて生産量には比例しない光熱並びに機械運転の動力などの総経費の節約である』。
 『これら使用者の利潤ならびに損失勘定に影響する経済的考慮とならんで、若干の国民的な長期にわたる判定基準も考えに入れねばならない。労働者は1日当りわずかに少なく生産するにしても、彼の幼年時代ならびに老衰と、退職――このときかれは資産というより国民的負担であるが――の期間に比較して個人の労働年数を延長させることは、国民的な利益である』 (フローレンス 『労働』)。」 ( 『労働時間』)
 
 当時と労働の内容は大きく変化していますが、労働・労働者と国家・社会の捉え方については検討し尊重されなければならない共通の課題があります。


 現在安倍政権が進めている 「高度プロフェッショナル制度」 ・労働基準法改正は、経営者だけの利益しか考えていません。「政」 と 「使」 の関係は、「政」 は 「使」 の私物でしかありません。
 「労」 ・労働者・労働組合が問題にされていません。
 今こそ 「労」 の総力で労働基準法改正を阻止しなければなりません。

   関連:「活動報告」 2015.1.23
   関連:「活動報告」 2012.7.24
   関連:「活動報告」 2012.4.27
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特殊公務災害認定から見えてくる行政の姿勢
2015/04/21(Tue)
 4月21日 (火)

 4月17日、共同通信は 「震災犠牲全員を特殊公務災害認定 岩手の自治体職員ら97人」 の見出し記事を発信しました。
「東日本大震災で公務中に犠牲になった岩手県内の地方公務員97人に、危険性の高い職務に適用される 『特殊公務災害』 が認められたと、認定を担う地方公務員災害補償基金岩手県支部が17日、発表した。昨年5月に運用が緩和され、申請があった全員分を認定した。
 同支部によると、陸前高田市62人、大槌町28人、釜石市2人の自治体職員のほか、県立病院や公立学校などに勤務していた5人が認定された。公務災害に認められながら、特殊公務災害の申請をしていない人が県内で11人おり、今後請求があれば審査するという。
 特殊公務災害は、通常の公務災害に比べ最大1・5倍の補償金が支払われる。」

 岩手県内で震災で犠牲となった自治体職員は (非正規職員含む) は、陸前高田市111人、大船渡市1人、釜石市6人、大槌町40人、山田町2人の162名に上りました。(消防職員除く)

 特殊公務災害は、1972年の 「あさま山荘事件」 で警察官2人が死亡したのをきっかけに設けられた制度です。
 地方公務員災害補償法 (地公災法) 46条に基づいて地方公務員が危険性が高い業務に就いている時に死傷したと認定されると、公務災害の最大1.5倍の補償金が 「地方公務員災害補償基金」 から給付されます。
 その詳細な対象や補償については各地方自治体の 「地方公務員災害補償基金規則」 に定められていますが、ほぼ全国同じような内容です。
 特殊公務災害の趣旨は 「任務の遂行にあたって高度の危険が予測されるにもかかわらず、職責上、あえてその職務を遂行しなければならない職員が、その生命又は身体に対する高度の危険が予測される状況の下で所定の職務に従事し、そのため公務上の災害を受けた場合に、傷病補償年金、障害補償又は遺族補償について特別の加算措置を講じる」 です。
 対象は、地方公務員災害補償法施行令第2条の3第1項に該当する職員規定されています。「職務内容の特殊な職員で政令で定めるものとされており、具体的には、警察官、警察官以外の警察職員、消防吏員、麻薬取締員及び災害応急対策従事職員」 です。
 そして第2項には職員の区分と職務が記載されています。
 災害応急対策従事職員の職務は、「天災等の発生時における人命の救助その他の被害の防禦」 です。
 しかし東日本大震災では実際に業務を遂行したかが問題となり、さらに目撃証言など含めて 「厳格な証明」 が要求されてなかなか認定されませんでした。
 実際には庁舎へ避難してきた被災者への呼びかけや誘導の最中に大勢の被災者と一緒に犠牲になった場合のように目撃証人がいない場合もたくさんあります。

 このようななかで、遺族や報道関係者の運動によって昨年5月Ⅰ日に地方公務員災害補償基金補償課長から 「事務連絡」 が出されました。
 そこではあらためて 「特殊公務災害」 認定の要件を上げています。
 ・特殊公務に従事する職員 (警察・消防など)
 ・生命又は身体に対する高度の危険が予測される状況の下において職務に従事したかどうか
 ・天災等の発生時における人命の救助その他の被害の防禦等の政令で定める職務に従事し、
  そのために災害を受けたかどうか
です。そのうえで 「東日本大震災に係る特殊公務災害の認定に当たっては、今後このような観点も踏まえた審査を行うこととし、既に特殊公務災害に該当しないと判断された事案についても、再度、特殊公務災害の認定請求が行われた場合には改めて審査を行うこととしましたので、お知らせします。」 と記載されています。
 そして認定の具体的事例があげられています。


 昨年3月11日の岩手日報に 「『釜石の奇跡』 なぜ妻だけ… 学校に残り不明のまま」 の見出し記事が載りました。
 市内の学校事務職員だった女性は勤務中に被災し学校に残り津波に巻き込まれたとみられ、行方不明のままです。しかし釜石の学校で子どもたちの犠牲者が出なかった避難行動は 「釜石の奇跡」 と言われて讃えられました。
 学校事務職員は、山田町出身で 「津波は怖い」 と話し、市の避難訓練に必ず参加していました。
 夫は真相を知るため、学校関係者や市教委などと話し合いを重ねました。そこで分かったのは、学校に保護者が迎えに来るため対応せざるを得ない状況だった、ということでした。
 しかし児童生徒の避難行動だけをを讃える 「釜石の奇跡」 が広がっていきます。夫は 「犠牲になった人がいる。本来教訓となるべき事実はどうなるのか」。一面的な事実が発信されることに憤りと悔しさを感じたといいます。「『真実』 を後世に伝えなければならない。災害時に判断し、行動できる人材育成にも力を注いでほしい」 と求めています。

 県職員を組織している自治労岩手では学校に派遣されていた組合員1人が犠牲になったと言います。(2014年3月28日の 「活動報告」 参照) 4月17日に発表された特殊公務災害認定者の中の、公立学校などに勤務していた5人の1人の方かもしれません。


 同じところで被災しながら一方の命は無視されています。そこから教訓は生かされません。それは正規職員、非正規職員間でも起きています。(犠牲者いないと言われながら実際にはいたという話は他でも聞きます)

 4月18日の毎日新聞は、「特殊公務災害 被災で死亡47人の非正規職員 補償対象外」 の見出し記事を載せました。
 東日本大震災で、公務職場の非正規職員は正規職員と同じような業務をこなしながら、正規職員は特殊公務災害に認定されたけど非正規職員は認定されていません。岩手、宮城、福島各県の地方公務員災害補償基金支部によると、今年3月までに計184人が特殊公務災害に認定されましたが、いずれも正規職員で、死亡した47人の非正規職員は通常の公務災害にとどまっています。

 災害などに遭遇したら、特に公務従事者は多くの住民の安全を確保、保障するために奔走します。東日本大震災でもそうでした。しかし特殊公務災害は正規職員は認定されましたが、同じ行動をとった非正規職員は申請の対象にならなくて認定されていません。
 非常勤職員ら非正規職員の公務災害は、地公災法で各自治体の条例で定めることになっています。旧自治省が1967年に示した 「準則」 に基づいた全国一律の条例になっていて、「特殊公務災害」 の規定がありません。
 総務省安全厚生推進室は「非正規職員は役所内の事務など、生命の危険がない仕事しか任せないとの考えが前提にある。震災のような事態は想定していなかった」 としているといいます。非正規職員を 「危険業務」 に従事させないことになっているので災害応急対策従事職員に該当しないのです。
 
 実際に111人が犠牲になった岩手県陸前高田市は、正規職員62人は特殊公務災害に認定されましたが、非常勤などの非正規職員44人は通常の公務災害にとどまっています。同じ職場で同じ行動をとっても格差が生じています。

 今、地方自治体の非正規労働者は60万人に上っていて全体の約3分の1を占めています。
 2013年11月29日の 「活動報告」 で、本 『非正規公務員』 の著者である地方自治総合研究所の上林陽治さんの講演を紹介しました。部分再録します。

 正規公務員が減少しています。
 正規公務員から非正規公務員への置き換えは、どのような形、どのような職種で進んでいるのでしょうか。
 代替型、補充型、専門職型があります。
 代替型とは、正規公務員を採用しないで非正規公務員に置き換えていく、保育士、図書館司書、教員など資格職タイプです。
 補充型とは、行政需要の高まりに際し、正規公務員ではなく、非正規公務員で補充するタイプ、生活保護ケースワーカーなどです。
 専門職型とは、はじめから非正規公務員で採用し、増加する行政需要を押し付けつつ人数もふやす女性 (婦人) 相談員、消費生活相談員、学校心理士などです。
 この他、技術職員、休職調理人と技能労務職員等の職種は民間委託が進んでいます。

 公務職場は、大きくは住民支配・管理の部門と住民への奉仕の部門に分かれています。支配・管理の部門担当者はほとんど住民の前に出ません。奉仕の部門の担当者は決定権や裁量権がないなかで住民に寄り添い、時には住民からの苦情の窓口にもなります。
 この職務の違い、つまりは支配・管理の部門の職員は指揮命令権があるから災害応急対策従事職員となるが、住民への奉仕の部門の職員には付与していない、させないしなれないということです。
 震災後の避難所の運営や復興事業の上位下達の進め方をみると共通する姿勢が見えてきます。

 公務労災の申請が開始された頃、犠牲となった民生委員は公務労災になりましたが、行政区長はなりませんでした。
 双方とも地域を熟知していて寝たきりの老人宅に避難を呼びかけに行ったりしました。民生委員は日常的に地域の住民の監視と世話をするのが業務だから公務になります。しかし行政区長は役所から指示されたことを行政の末端でこなす任務を負っているだけで寝たきりの老人宅の見回りなどの業務は含まれていていないので公務ではなく自主的行動という判断です。
 行政は、余計なことはするな、自分の役割を見極めろとでも言いたげでした。
 行政は、被災者や救援・支援者1人ひとりの命を大切とは思っていません。
 それが特殊公務災害の認定状況と今も続く震災復興の状況でもあります。

   関連:「公務災害・公務労働」
   関連:「活動報告」 2014.3.28
   関連:「活動報告」 2013.11.29
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ヘイトスピーチ問題は 「世界」 をどう再生するかの課題として
2015/04/17(Fri)
 4月17日(金)

 ドキュメンタリー映画 「レイシスト・カウンター」 が公開上映されました。
 在日特権を許さない市民の会 (在特会) の外国人、特に在日韓国・朝鮮人たちへのヘイトスピーチ (憎悪発言) や排外主義的行動に対して抗議や反対の意思表をする人たち、「仲良くしよう」 と呼びかける人たちなど、様ざまな人たちの活動を紹介しています。
 在特会の運動がクローズアップされた頃、周囲からとにかく反対の意思表示をしにいこうと呼びかけられました。それを了承したのは、ヘイトスピーチを聞き流してしまうことが嫌だったからです。「他者を傷つける、それを見過ごすと自分も傷つく、しかも重症になる」 という思いからでした。「自分で自分の人権を守る」 ためです。
 周囲の人たちは、新大久保に住んでいる人たち、商売している人たちの安全を心配していました。ヘイトスピーチは攻撃を受ける側の人たちにとっては恐怖です。しかし声を上げることはできません。

 映画ではこれまで、いわゆる活動というものに関わったことがない人たちが声を上げています。それぞれ自分ができる手法で活動を広げていきます。
 映画の中で経営コンサルタントの辛淑玉さんは日本人から抗議の運動が始まったことは心強かったと語っていました。嫌なものにいや、駄目なものに駄目と意思表示したことが心強いと評価されるほど、差別というものに対する感性がみな鋭くなかったということだったのでしょうか。
 映画のチラシは、「私は韓国人だ それがどうした 差別をやめろ」 と手書きした紙をテニスラケットにかぶせたプラカードを掲げている青年の写真です。このチラシを見た時に不条理という言葉が浮かんできました。声を上げざるとえない人たち、上げる人たちも上げられない人たちも孤立させてはならないとい思いに駆られました。


 フリーター全般労働組合の機関紙 『地球公論』 はいつも読みごたえがあります。5月15日号は座談会 「『ヘイトスピーチ』 は規制すればいいの? ―差別と暴力の廃棄に向けた社会的ヴィジョンのために―」 です。この中で指摘されている問題点を抜粋して紹介します。
 3月28日に開催された 「ヘイトスピーチに反対する会」 の議論が報告されます。
「ヘイトスピーチ規制論が今どうなっているかというと、デモとか集会とかを規制するという動きが主に自民党のほうから出てきているわけです。大まかにいえば多くのひとがヘイトスピーチ規制論というのはいいんじゃないかと思っているんだけれども、ただ今のような差別が蔓延する日本の現状のなかでこれを早急に進めていくということには大きな問題があるとも思っている。国がそういうことをやるのはそもそもどうかっていう人もいる。ただ差別とかヘイトスピーチとかと闘っていくときに、それと闘う根拠になるべき法律があってもいいんじゃないかという提案が、基本的な論調でしたね。」
「既に法的には行政は差別してはいけないことになっている。問題は、にもかかわらず法務省、警察庁など治安機関を中心に差別主義が温存されていることにある。民間でも、例えば 『京都朝鮮学校襲撃事件』 への大阪高裁判決が示すように、現行法の範囲内で差別・ヘイトスピーチに対して巨額な賠償を課すことはできる。その上、いったいどんな規制が必要なのか……つまり、最初からそういう話を 『聞きたくない』 ということか? あるいは 『死ね』 とかいったら即逮捕、みたいなことがめざされている?」

 京都朝鮮学校襲撃事件の一審判決では、人種差別撤廃条約を適用して在特会への損害賠償支払いを認めました。高裁判決文は、地裁判決の人種差別撤廃条約の直接適用の論拠を否定しましたが、間接適用説から 「民族教育を軸に据えた学校教育を実施する場として社会的評価が形成されている。……被控訴人 (在特会) は、上記行為によって民族教育事業の運営に重大な支障を来した…人種差別という不条理な行為によって被った精神的被害の程度は多大であったと認められ」 と民族教育の重要性、そして、人種差別という本件行為の本質を見据えた判断で、一審判決の賠償金額はそのまま追認しました。
 当たり前のこと、人権を社会的に認めさせるには大きな困難が横たわっています。

「もう一つそれに関連して重要なのは、既にいろんな自治体レベルでヘイトスピーチ規制条例が出ている。一方で従軍慰安婦問題に関して、あれは国がやったことではないという自治体決議もがんがんでている。その二つが同時に進んでいるという現状なわけです。」
「つまりヘイトスピーチ規制の動きは歴史修正主義と連動しているってこと?」
「流れはそう。一方で東京オリンピックの話も絡んで、慰安婦問題に関する国連勧告が出ていたりもして、それも睨みながら自民党は、とりあえず外国からみてマズイヘイトスピーチが出ないように規制しとこう、そんなところでは。」
「しかしそれはもちろん 『反転』 しても使われる。『反日』 の言動は 『日本人一般』 に対するヘイトスピーチとして処罰の対象になる・・・」

 差別は、法律の前に社会が容認している現実があります。為政者は都合よく利用します。
 東京オリンピックの開催が決定するまでは、政府は一方の極に対しては 「表現の自由」 を 「無制限」 に容認していました。しかし決定すると国際的な問題が発生しないようにしようとしています。その手法は、一方では規制で取り締まり、もう一方では従軍慰安婦問題は民間人の仕業と主張して軍の関与を否定し、国としては責任がないと主張し続ける姿勢です。民に都合悪いころの責任を押し付けます。この姿勢は今いろいろなところに出てきます。

「ここでヘイトスピーチをなくすために求めるべきは法的規制なのかという疑問が出てくるわけですよね。他には何か、ないの?」
「教育、はもちろんあるでしょう。例えば、この間『新しい歴史教科書を作る会』とかは典型的だけど、従軍慰安婦に関する記述、あるいは日本の植民地主義に関する記述がどんどん削られてきている。それは大問題。……」
「差別とかヘイトの解消に関する問題を整理すると1つは 『教育』 の話、もう1つは 『組織での意思決定』 の話、そして端的な 『差別行為の規制』 の話がある。ここで焦点が当たっているのは最後の 『差別行為の規制』 のところなんだけど、実際には 『教育』 とか 『組織での意思決定』 への参画の問題が重要になる。まず教育だけど、今こういう状況になっているのは 『教えられるべきことがおそえられていない』 というより、『教えられてこうなった』 という部分がある。決して教科書が書きかえられてきたからこうなった、ということではなくて。そもそもやっている人達の年齢層はけっこう高いですよ。『組織での意思決定』 の話としては、差別と排除を徹底して改めなければならない。外国籍の住民が当然の権利があるはずの地方自治にすら参画できていない状況をどう変えるか。立法・行政・司法などにとどまらず企業組織や諸団体の意志決定に関する参画も同様……現場での行為をどのように抑止するのかという観点にとどまらない、差別の制度的な排除をしなければならない」
「『国益』 ってそもそも意味がわからない概念。日本政府が統合している領域の住民は様々、その利害も様々であり一様ではない、相互に対立もする。なのに、それが実態として存在しているように言い立てられ、それを 『我がこと』 のように思いなして合唱する人達がいる、これって何なのか……」
「教育の話でいえば、教わっていなかったから 『ウヨク』 になった、のではなく、教えられてきた結果としてなったんだよね。・・・ネトウヨの人達にとって、左翼は学校で教えられてきたこと、たとえば 『日本は過ちを犯した』、『民主主義や人権を守れ』 などを鵜呑みする 『知性がない奴ら』 ということになる。いろいろネットで調べていけば、学校で教わったのとは違う話がでてくる、自分達は丹念にそういった 『事実』 を拾いあげて 『噓』 を暴いているのだという自負。彼らにしてみれば、自分達こそ 『知』 の側にいる。そしてしかも 『本音主義』」

 かつては 「日教組の偏向教育が日本を駄目にした」 という主張がありました。その反論ではありませんが 「学校では日本の近代史を教えないから」 という主張があります。しかし2つとも説明としては不充分です。
 どうしたらいいかの問題意識を欠いた主張が 「規制」 になります。

「要は、人が人を否定する、傷つける、暴力をふるうということがあっちゃ困るわけです。否定は究極的には殺人に至り、言葉の上ならばヘイトスピーチとなります。殺人とはともかく、後者をなくしていくには法的規制をかけようとすれば、しかし、私たちの自由を縛る諸刃の刃にもなる。さてそこで、どういうビジョン、どういう社会、世界を求めるのかということを考えなければならない・・・」
「ヘイトスピーチ反対の議論のなかには 『多文化主義』 ていう、よくわからないものがあるじゃないですか。とりあえず一緒にいるからまあ何とかやっていきましょうよ。それはそれで重要なのだけれど問題から逃げている。最終的にどういう状態に持っていきたいのかということはやはり考えられなければならなくて、そこを欠落させたまま、規制論だけしてもだめだとおもうんです」

 今回の議論は 「再生する可能性へ戻れるとしたら、それが 『希望』 ということです。『可能性』 とはこれから 『どういう世界を作りたいのかというイメージ』 をふくらませていく 『場所』 なんですよ。この場所があるから、『世界』 は再生するのです。」 ということで終わって次号に続きます。
 示唆に富む面白いものでした。


 規制を1人歩きさせると思考を狭めて排除に向かうこともあります。戦後の在日韓国・朝鮮人など外国籍の人たちの状況もそうです。
 黒川みどり 藤野豊共著 『差別の日本近現代史』 (岩波現代全書) のなかの日本国憲法第13条の制定経過についてです。
「GHQにおける日本国憲法の草案作成の経過を概観すれば、1946年2月4日、GHQの民生局 (GS) 内に作業班が編成され、憲法草案の起草が始まっている。その際、作業班の人権小委員会のメンバーのベアテ・シロタが部落問題を念頭に置いて、報の下の平等の条文のなかに、差別してはならない対象として “Caste” の語を記したという。1987年、シロタは 『第14条の最初の文節で、私たちは 「カースト」 について明確にしなければならないということでした。そうしなければ差別は続くだろうと懸念したからです』 と明言している。
 確かに、1946年2月12日に完成した 「GHQ草案」 には、差別してはならない対象として “race” “creed” “sex” “social status” “national origin” とともに “caste” の語が記されていた。そして、法の下の平等を保障されるのは “all natural person” と記載された。この 『草案』 を提示された幣原喜重郎内閣は、『草案』 の法の下の平等について 『一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ 政治的、経済的又ハ社会的関係ニ於テ人種、信条、性別、社会的身分、階級又ハ国籍起源ノ如何ニ依リ如何ナル差別的待遇モ許容又ハ黙認セラルルコト無カルヘシ』 と翻訳した。しかし、その後、幣原内閣は、大幅な書き換えを行い、3月2日にGSに提出した 『日本国憲法』 案には 『凡テノ国民ハ法律ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分又ハ門閥ニ依リ、政治上、経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ』 と記されていた。法の下の平等が保障されるのは 『国民』 に限定されたのである。これに対し、GSは修正を求め、3月5日に内閣が作成した案には 『凡テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ワス法律ノ下ニ平等ニシテ、人種、信条、性別、社会上ノ身分若ハ門閥又ハ国籍ニ依リ、政治上、経済上又ハ社会上ノ関係ニ於テ差別セラルルコトナシ』 と改められていた。すなわち、GSと幣原内閣の間には、法の下の平等を保障する対象を 『国民』 に限定するか否かという対立が生じていたのである。そして、3月6日以降、幣原内閣とGSとの間で、この問題をめぐり論争が続き、結局、『国民』 に限定するという幣原内閣の主張が通ってしまう。なぜ、GSは妥協したのか。その理由について、GSの次長であったチャールズ・ケーディスは、当時、アメリカにおいても 『外国人がアメリカ市民と100%平等ではありませんでした』 と説明している。こうして、6月25日、第一次吉田茂内閣により 『帝国憲法改正案』 が衆議院に提出される。そこには、第13条として 『すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を受けない』 という条文が示されていた。法の下の平等が 『国民』 に限定されたことは、次節で述べる在日韓国・朝鮮人の人権に大きく関係していく」

 これでも日本国憲法はGHQの押し付けでしょうか。日本政府の歴史的無責任と強引さが現在にまで尾を引いています。規制は為政者の都合に合わせて行われ、思考を止めることを正当化させ社会を豊かにしません。
 そして押し付けというのなら、自衛隊はGHQの押し付けで作られたものです。早期の解散を主張しなければなりません。沖縄基地も同じです。押し付けを峻別することは許されません。

 ヘイトスピーチ問題の解決は、偏らない歴史の検証を 「どういう世界を作りたいのかというイメージ」 をふくらませる議論から可能性が見つけ出すことができます。

   関連:「活動報告」 2013.2.18
   関連:「活動報告」 2012.9.21
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漱石は 「積極的平和主義」 を嫌悪していた
2015/04/14(Tue)
 4月14日 (火)

 朝日新聞は4月から夏目漱石の 『それから』 の連載を始めました。漱石3部作の 『三四郎』 の連載を引き継いだものです。そうすると次は 『門』 でしょうか。
 『それから』 は、高校時代の夏休みの読書感想文の課題図書で読みました。その時にどのようなことを書いたかは覚えていません。主人公は仕事をしていない暇な人、何をしている人なんだろうという記憶がありました。かなり経って漱石について議論になった時、1人が “恋の行方” がどうなるかハラハラドキドキしながら読んだと語りました。そんな読み方もあるのかと思って聞きました。
 その後に読み返したのは、漱石の小説は描かれている時代背景の社会状況・世相をさぐるだけでも面白いと思ったからです。
 今、『それから』 の主人公と時代背景にある 「高等遊民」 が話題になっています。「高等遊民」 とは、仕事に就いていない・就けない高学歴者たちです。明治末期には2万人いたと言われています。

 江戸時代も藩校や学問所、寺子屋等などに通う人びとは多く、知識欲は旺盛だったといわれます。藩校や学問所の中には明治になってもそのまま受け継がれて現在に至るのもあります。東大や慶応や旧制中学の伝統をもつ高校などです。
 明治14年・15年頃は専門学校の設立が相次ぎます。現在の明治大、早稲田大、専修大、中央大、法政大などです。そうすると、明治20年頃からはそこの卒業生が官僚になるだけでなく1000人単位で社会に出ます。1900年の大学や専門学校など高等教育卒業者は8,400人でした。かなりの高学歴社会が作られていったことになります。近代史を語る時、無視してはいけない要素の1つです。
 しかし就職難にも遭遇します。特に文学関係はそうでした。
 「日露戦争後の東京帝大文科大学卒業生の未就職率はすでに10~40%、就職が決まるまでの待合室として文科大学卒業生の大学院進学率が16~36%にもなっていた。」のだそうです。

 日清戦争の戦勝賠償金で、明治政府はいわゆる 「戦後経営」 を展開します。戦後経営とは、来るべきロシアとの戦争にそなえて日本社会の帝国主義的編成替え総体をいいます。具体的には軍備拡大、殖産興業、教育復興、植民地領有の4本を基本的な柱にします。これによって日本資本主義は確立していきます。

 軍備拡大と戦争は、政府と政商との結託による不正事件が続出します。
「あるわい、あるわい。今度の戦争 (日露戦争) で、儲けた者は随分あるわい。頭株を挙げてみると、日本一の持丸長者といわれている岩崎一家や、貿易と鉱山を両脇に抱えている三井一家や、30年前の西南戦争に浮名を流した藤田伝三郎など別看板として、陸軍省の御用を受けて缶詰類を入れた大倉喜八郎と、海軍省の御用を受けた高田慎蔵は、東西の両大関じゃろう。続いて九州の炭坑屋仲間が土俵に出てくる。麻生太吉、貝島太助を筆頭として、安川、古賀、橋本、高橋などいう炭坑屋連中は、ずらりと顔をならべている。
 ……そうじゃ。戦争当時公債を扱った安田、住友、第一、第百、村井、山口などいう銀行屋仲間も、何しろ幾百千万という金額を扱ったのじゃから、余禄を受けたのは固よりじゃ。じゃから、隠蓑を着て、大倉組や高田組の片隅に控えて見ておると、毎日毎日身代が太ってくるので、今度の戦争はなんでも、商人の身代を殖やす為めにやっていたように見えたそうじゃわい。弱い寡婦が日に幾百人と出来たが、炭坑屋や御用商人の目から見ると、戦争は福の神じゃ」 (横山源之助著 『明治富豪史』)

 そして産業の発展にあわせた教育改革が行なわれていきます。小学校、旧制中学、師範学校、旧制高等学校、商業学校が開設されていきます。
 日清戦争の賠償金で97年、京都帝国大学が設立されました。1904年、東北・九州に帝国大学の設立が予算化されましたが、07年には戦後景気は続かず削減されます。
「ところが12月早々、古河財閥から教育事業費に約100万円の寄付の申し出があり、それによって両帝大創立は息をふきかえした。
 ……まず、この古河家の寄付のお膳立てをしたのは、内相の原敬だった。その原敬は内相就任まで古河鉱業副社長であり、辞任後も事業全般にわたって同社の顧問として相談にあずかっていた。他方、古河鉱業の足尾銅山の鉱毒事件、こんにち公害の原点とよばれるあの事件 (足尾鉱毒事件) が、ちょうどこのころ大詰めを迎えようとしていた。政府による谷中村の強制取りつぶしは、翌1907年 (明治40年) 6月のことである。世論は烈しく古河鉱業を非難していた。牧野文相から予算削減のことをきいた原は、これこそ寄付によって世論を緩和する好機と判断したらしい。かれは早速、古河家に 『富豪の献金』 を説き、この働きかけによって古河家は12月3日、総経費98.6万円の寄付を申し出たのである」 (廣重徹著 『科学の社会史』 岩波選書)


「第一次大戦後の不況、とりわけ大正12年の関東大震災後、金融機関の整備統制がすすみ、また三井・三菱・住友・安田の4大財閥を中心とする企業の集中と系列化が進行していた。そして大企業にかんするかぎり、不況切り抜け策として新しい生産設備と労務管理方式が 『合理化』 の名のもとに開始されたが、これは日本だけの現象ではなく、戦勝国のアメリカでも敗戦国のドイツでも、『合理化』 は不況切抜けのための合言葉であり、『流れ作業』 が時の話題であった。製品の規格統一、大量生産、コスト引下げ、競争能力の強化がそのねらいであった。もはや従来の職人的な熟練やクラフト的な能力は必ずしも必要でなくなった。……そこでこの頃から、新しい労働者の給源として、新規学校卒業者が直接雇い入れられはじめた。」 (大河内一男著 『暗い谷間の労働運動』) 

 「合理化」 は熟練労働者を排除します。学校卒業者が末端・中間管理職になっていきます。熟練労働者が集団で抵抗する攻防戦が展開されます。しかし合理化は労働を軽減するものでもありました。徐々に受け入れられていきます。
 日本にも1910年代にはアメリカの産業心理学が導入されます。フレデリック・ウィンスロー・テイラーの 『科学的管理法』 も翻訳・出版されました。(2013年10月3日の 「活動報告」 参照)
 経営に労務管理が加わります。

「社会的悪弊を指す意味で 『階級差別』 という言葉が多く使われるようになったのは大正10年代らしい。同時に明治初期の純粋な 『封建的な』 階層性が、『近代的な』 学歴による階層性に譲るようになっていきました。
 身分平等化と階層の近代化・学歴化。その2つの傾向が合流したのは、たとえば、明治末期の日本鉄道東北線で起こった鉄道スト (1898年2月) でした。機関士たちの 『待遇期成大同盟会』 の訴えの1つは 『青二才の中学卒の “書記” が、長い経験を持って責任の重い仕事をする熟練の機関士を平気で呼び捨てにするのはけしからぬ』 ということでした。それに応えて 『職工』 という軽蔑の含みを持つ言葉は回避されるようになりました。芝浦製作所 (現東芝) では大正時代に 『職工』 が 『労役者』 となり、昭和に入って 『工人』 となります。日本鋼管では大正10年 (1921年) の年次報告に 『従業員』 がはじめて登場します。」 (ロナルド・ドーア著 『働くということ』)
 「流れ作業」 「単純労働」 は、熟練労働者を排除するだけでなく、新規学校卒業者に単純作業を繰り返させることによるストレスを発生させ、メンタルヘルスケアが問題になりました。

 教育改革や個人的資産家の経営者から、会社の経営方法の変化に合わせた管理監督者が巣立っていきます。
 19年から20年に東大と京大に経済学部が設立されます。
 そして学卒者は終身雇用の身分が保証されます。

 城山三郎の小説 『鼠 鈴木商店焼打ち事件』 (文芸春秋) から神戸の鈴木商店の経営陣について拾ってみます。
 1874年に辰巳屋の番頭をしていた鈴木岩次郎はのれん分けで鈴木商店 (個人商店) を開業します。
 1902年に出資金50万円をもって合名会社鈴木商店に組織変更します。
 そして1902年に設立された官立の神戸高等商業学校 (現在の神戸大学) の卒業生にとっては三井と並んで格好の就職先でした。その後も続きます。
 1918年、米騒動で焼打ちに遭います。米騒動の年は、帝大卒を一挙に10人、東京高商卒業生を29人採用しました。
高等商業学校出身者は外国語を活かしたり、経済学や経営学を身に着けて店内の近代化を推進しようとします。貿易部門や外地の支店長のポストに就きます。
 しかし会社の要所を抑えていたのはたたき上げの土佐出身者たちです。
 土佐派と高商派の対立は続きます。
 米騒動の後の1919年から20年に全盛期を迎えます。貿易の取引高は三井、三菱物産を圧倒し日本一となりました。
社員は約3000人です。
 1923年、鈴木合名会社に改めて財閥本社となり、新たに株式会社鈴木商店を設立して全事業を分社化します。
 しかし1926年に金融恐慌が起こり、27年4月5日、資金調達が不能となって事業停止・清算に追い込まれます。「鈴木子会社整理方針大綱」 の作成に際しては、関係会社として49社が上げられていました。
 28年、商社部門は子会社だった日本商業会社を 「日商株式会社」 (後の日商岩井) と改めて再出発をはかりました。
 高商派の人びとは、潰れた後も、戦後においてもその人脈を活かして経済界で活躍していきます。

  鈴木商店だけではなく新たな経営陣のブレーンたちは、海外の情勢に明るく、市場拡大に挑戦して行きます。そして海外への軍事進出を煽っていきます。その一方でいち早く危険を察知しています。
 そしてこの頃の若手管理職は、戦後の財閥解体、財界パージの時に中堅幹部から経営陣として台頭します。

 高等遊民問題は昭和になると、知識階級就職難や知識階級没落論と呼ばれます。
 1930年頃から 『大学は出たけれど』 という言葉が流行します。1925年の学専門学校卒業者就職率は66.6%、29年は50.2%だった。30年42.2%、31年36.0%、32年は38.4%で以後回復していき、34年44.9%である (中央職業紹介事務局 『知識階級就職に関する資料』 1935 インターネットで孫引き)。
 しかもこのころは、上級学校に進学すればするほど就職率が悪い状況でした。

 大正デモクラシーを経て藩閥は後退し、政党が権力の中心を占めていきます。官僚は官立大学出身者が担っていきます。
 30年・31年の恐慌でカルテルが急増し、その指導権は財閥資本が握っていきます。機械化、合理化が進むと大学、専門学校新卒の管理職が工場を統括し、それまで管理職であり技能の伝播者であった熟練工は位置を失っていきました。労働争議が増発しますが、熟練工の 「リストラ」 をめぐるのも多くありました。中小企業でもカルテル法として工業組合法が公布されます。
 また30年代は軍事体制が確立するなか財閥資本を中心に重化学工業への転換がおこなわれ、後半からは大企業による中小・零細企業の下請制度が本格化します。

 軍隊においても1930年頃から藩閥が解消し陸軍・海軍学校出身者が出世を果たして行きます。
 
官と軍の対立が激化していきますが、戦時中は、学卒者はどちらの勢力においても上流階層として自分らと後継者を安全なところにおくという共通認識が存在していました。危険性を察知したら、家族を個人的に安全なところに疎開させています。
 このような共通認識が学生の徴兵延期になっていました。他よりも徴兵が遅かったということは、相対的には死者は少なかったということです。(2013年10月21日の 「活動報告」 参照)
 戦争そのものが貧富の格差を拡大しました。さらにこの差別は戦後に歴然としていきます。この大きく違う 「与えられた運命」 が戦後の 「格差社会」 の出発点です。


 近頃の世相は、政府と学校と産業と軍隊・自衛隊が接近しています。
 原発等のインフラや武器輸出と軌を一にして憲法を拡大解釈して集団的自衛権などの 「積極的平和」 が主張されています。
 このなかでまた上流階層とその他が分けられそうです。上流階級以外からは死者を出すことになります。
 このような動きに対して 「積極的」 に反対の声を上げていかなければなりません。


 漱石という作家個人は、戦争というものに嫌悪感を抱き、戦争が起きるたびに体調を崩しています。漱石を読むとき、このことを頭に入れておくとまた違う漱石が発見できます。

   関連:「活動報告」 2013.10.21
   関連:「活動報告」 2013.10.1
   関連:「活動報告」 2010.11.1
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