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「寄り添う」 とは喜怒哀楽を共有すること
2015/03/20(Fri)
 3月20日 (金)

 前回の続きです。

 3月8日、神戸市で 『惨事ストレス “救援者の心のケア”』 (緑風出版) の出版記念を兼ねた講演会が開催されました。講演を依頼されました。

 『本』 からいくつか抜粋します。
「救援活動と言っても、それぞれ任務は違います。
 消防士や警察官、自衛隊員は発生直後から現場で活動します。集団行動で、短時間・短期間です。自治体職員、教職員、医療関係者、ボランティアは現場の周辺や事態がおさまった後に活動します。個人で判断しなければならない事態も多く、期間は長期に及ぶこともあります。報道関係者は現場も周辺も目撃し、記録しながら行動します。惨事ストレスの危険性について被災者同士、支援者同士、支援者のリーダーたち、家族は認識し、長期に監視し合あって予防・防止に取り組んでいかなければなりません。」
 体調不良は、災害という 「異常な事態への正常な反応」 です。

 惨事ストレスへの取り組みは神戸市消防局が進んでいます。阪神淡路大震災の体験はホームページで公開され、本も出版されています。
「山元町は14日、神戸市消防局が最初に支援に駆けつけたところです。到着すると責任者は 『皆さんに休んでもらうために駆けつけました。何でも申し付けて下さい』 と挨拶したといいます。被災地の消防士たちの心情を理解している対応です。
 また、被災地の人たちにとっては神戸、兵庫という車輌やプレート、制服を見ただけで自分たちの気持ちがわかってくれる人が来たと受け止めて安心できたということです。」


「『階上中学校といえば 「防災教育」 といわれ 内外から高く評価され 十分な訓練もしていた私たちでした。』 しかし東日本大震災で3人の卒業予定者を亡くしてしまいました。
 階上中学校は3年間の間に 『自助』 『共助』 『公助』 のサイクルで防災訓練を行ってきたといいます。
 震災を経て防災教育の見直しをしました。何よりも自分の命を確実に守ること、それが多くの人の命を守ることになるという確認をしました。その結果、『自助』 『自助・共助』 『自助・公助』 のサイクルで、『自助』 を基盤にした防災学習に変わりました。
 多くの犠牲を払い過ぎた教訓を活かしています。」 (14年9月17日の 「活動報告」 参照)

 「自助・共助」 についての阪神淡路大震災の教訓が2003年7月30日の 「朝日新聞」 に載っていました。
「現在、AM神戸の災害マニュアルには 『家族と近隣の安全を確認してから出社する』 という一項がある。三枝さん (現取締役) は 『それが当たり前。人命を1人でも救ってから被災地報道』 という。
 同局は今も月に1回、災害報道の勉強会を開く。『誰のために報道するのか』 という原点を忘れないためにだ」

 阪神淡路大震災が発生したのは明け方でした。家族の安否確認はすぐにできました。東日本大震災は午後2時46分です。家を離れて働いていた人たちや児童・生徒たちは家族の安否確認はとりにくい状態でした。しかしそのまま救援・支援活動に従事した人たちも大勢います。

 仙台市消防局が発行した 『東日本大震災にける消防活動記録』 からです。(12年12月7日の 「活動報告」 参照)
「連絡が取れない家族等の安否確認や家財などの損壊程度が計り知れない不安感などで、これまで経験したことのない閉塞感を職員のだれもが感じ、行き詰るストレスのやり場がない状態で、職員間の意見の摩擦など表れ出したところもあった。そうした頃、地震発生からから6日目のことである。『一時帰宅』 という措置がとられた。我々職員は自分の耳を疑った。
 それは、本来、職場で取るべき休憩や仮眠を、環境を移して自宅で取る‥。という解釈の措置であり、不眠不休の業務継続の末、職員の心と身体の健康管理を考慮した結果の策であった。
 『家に帰れない‥』、『家族に会えない‥』 という日常生活において当たり前のことができない日々が続く中で、消防の活動を期待して止まない市民に対しては、消防職員がその業務を離れ自宅に戻ることなど許されないと思っていた。まして、夫や妻、父や母、そして息子や娘の側面を持った消防職員の家庭では、その職員の帰りをいち早く待ち望んでいる家族など誰もいなかった。
 それは誰もが理解し、『当然のこと』 と自らを納得させていたからこそ、それぞれの心の中にじっと閉じ込めていた 『耐える‥』 という封印感情の中で職員も葛藤していた。
 しかし、その耐える力にも限界があって、個人差もあった。消防職員とて人間である。睡眠も必要であれば、心配ごとで仕事が手につかないこともある。そんな思いを組織は理解してくれ、思い切った措置を取ってくれたのである。
 我々職員は涙がでる思いであった。素晴らしい組織である。職員を大切にしてくれていることを実感した。
 ……職責を離れ、私人として自宅に戻り家族と再会することへの後ろめたさ、罪悪感のような感覚をもった職員は、1人、2人だけではないはずである。
 こうしてとられた一時帰宅の措置によって、消防職員として使命を達成させることの誇りと、家族への感謝の気持ちをあらためて心に刻み込み、心にビタミン剤を補給して職場に戻ってきた職員たちの顔は、みな穏やかで、我々職員は働く活力を取り戻した。」
 組織として長期戦を覚悟すればこそ、職員1人ひとりと家族の心身の安心・安定をはかる必要があります。


 報道関係者はどうだったでしょうか。
「私は、奇しくも東日本大震災の約1か月前の2011年2月7日に東京の新聞労連で初めて開かれたジャーナリストの惨事ストレスを考える勉強会に参加しました。専門家の方から、ジャーナリスト、あるいは消防士や警察官、自衛隊員らは直接被災者ではなくても被害の現場を見たり、体験したりすることで強く感じるストレスのことを 『惨事ストレス』 ということを学びました。その時に指名されて阪神・淡路大震災の経験を話したのですが、私としても、いい勉強会に参加させてもらったなと思っていたら、約1カ月後に東日本大震災が起きました。
 2月は、実践に向けてこれからこの勉強会を深めていきましょうということでした。それからわずか1か月後に真価が試されることになったと改めて感じました。」
「神戸新聞の記者も東日本大震災の1週間余り後には被災地に取材に入っています。その時に私は労働組合委員長の立場で、彼らに1枚のコピーを渡しました。それは2月の勉強会でもらった 『災害取材にあたる時の心得 気を付けること』 と書かれたビラです。内容的にはシンプルで 「少しでも休養を取ってください。仲間と声を掛け合ってください。少し落ち着いたら、仲間や上司と話しあってください。」 といくつか箇条書きになったものです。その後、神戸新聞は臨時支局を仙台に置くことになり、アパートを借りて立ち上げますが、そこにコピーを送って貼っておいてください、何かあった時は見るようにしてくださいとアドバイスしました。そのようなことは些細なことかもしれませんが、阪神・淡路大震災の当時は無防備だったのですが、少しでも役に立てればという思いで、私なりに取り組みました。」
 新聞労連は、東日本大震災発生前に惨事ストレスに取り組んでいた唯一の労働組合ではないでしょうか。

 当時の東日本大震災での新聞労働者の闘いはどうだったでしょうか。
 「石巻日日新聞」 です。
「3月11日の地震のあった14時46分頃、私はこの山の上の裁判所で取材しようとしていて、車から降りた直後に長い横揺れが続き、その後、津波警報が出たので会社に戻りました。自分は警察と消防担当なので上司の指示で情報を集めに向かったんです。……
 それから石巻日日新聞社に再び集まるまでの4日間は、1人きりで取材しました。『とにかく記録しなければ』 という気持ちだけでした。ああいうことは、いつか風化すると思うんです。『それだけはしてはいけない』 という思い1つでした。……
 結局、会社は浸水して建物は生き残ったんですが、電気がないからテレビもパソコンも使えないですし、電気も携帯も通じない、浸水のせいで輪転機も回せない……結局、伝達手段は紙とペンか口頭しかなかったんです。移動手段は自分の足か自転車しかなかったですし。
 実際4日目で初めて出社した時に 『手書きの壁新聞を作って自分たちで貼りに行く』 っていうのを聞いて、ちょっと驚いて 『恥ずかしいなぁ…』 と思ったんです。河北新報や全国紙が新聞を印刷しているなかで、(輪転機が浸水したため印刷できない) うちだけは手書きの壁新聞しか出せないというのが悔しくて悔しくて、恥ずかしくて……今でこそ、世界のニュースや全国的にそれが美談とされてますが、当時は本当に恥ずかしくて、貼りに行くのが嫌だったんです。貼りに行ってもすぐに逃げるように帰ってきました (笑)。とは言っても、我々は地域の人に生かされてきた会社ですからね。地元の新聞と謳っている以上、いざという時にこそ、何かしらのかたちで還元出来ないと 『何のための新聞社だ?』 ってことになると思うんです。よかったのは、壁新聞は文字が大きかったから、夕方になると暗くなる避難所の人は読みやすかったことですかね (笑)……
 本当の意味での復旧…建物、ハードの復旧は出来たとしても、心の復旧にはどれだけの時間がかかるだろう?と思います。僕らは地域の新聞社ですから、地域と一緒にもがいていかなければと思います。」 (小雑誌 『石巻VOICE』 VOL.1)

 石巻日日新聞の編集長から直接話を聞く機会がありました。
 津波がきて電気も止まって新聞発行が出来なくなった時、経営者は 「リスク管理が足りなかった」 と反省し、次の手段を考えたということです。
 戦争中に政府情報局によって統制下に置かれ、新聞統合が行われて 「一県一紙制」 が導入され、発行が中止させられた時も、当時の社長は独自にわら半紙にニュースを印刷して街に貼ったという反骨精神の持ち主でした。人びとが必要とした情報を伝達するのが新聞の役目だと捉えていました。
 その経験がよみがえりました。
 同じ記事を6枚の模造紙にマジックで書き、避難所やコンビニ前6カ所に貼りました。1週間続けました。
 その新聞は後に遠くの避難所からも発見されました。旧い日付のを誰かが持って行って貼ったらしいということです。それくらいみんなが知りたい情報が書いてありました。
 編集長は自宅に帰れません。家族の安否はわかりません。暗い社屋でたばこが唯一のストレス解消の手段だったと言います。
 3月12日の新聞には左上に 「正確な情報で行動を」 と書いてあります。関東大震災の時に人々がデマに惑わされたことが頭に浮かんだからといいます。
 残されている当時の新聞を見ていると、マグニチュードの数字に線が引かれて訂正されています。手作りだから可能なことで 「正確な情報」 です。
 ついでですが、石巻日日新聞は原水爆禁止運動の時も地域の人たちと奮闘します。(14年2月28日の 「活動報告」 参照)
 壁新聞は、終戦直後の広島で中国新聞社も行っています。

 新聞販売店では配達員も犠牲になっています。
 気仙沼市の藤田新聞店は、被災を免れた本店で地域情報紙 『ふれあい交差点』 (B4判2ページ) の 『災害特集号』 を作成し、新聞に折り込んで配達しました。住民の安否や行政・生活・普及支援の情報、伝言板などさまざまな記事を載せ,
号数は500日経って200号を超えていました。
 地元の小さな報道機関も “体力以上” に頑張って使命を果たしていました。

 14年3月10日付の 「毎日新聞」 は 『大震災地元記者 PTSD疑い2割 [発生1年後 120人調査] の見出し記事を載せました。
「質問は21項目 (複数回答)。
 記者自身が体験した状況は、『余震の危険がある場所で取材・報道活動を行った』 が86.7%。東京電力福島第1原発事故に関連し、『放射線による被害が懸念される場所で取材・報道活動を行った』 も35%。30%が 『遺体を見た、あるいは遺体に触れた』、21.7%が 『津波による被害を受ける様子をじかに目撃した』 とし、『普段より過度に体力を消耗した』 との回答が75%だった。
 取材に伴う問題や困難については、75.8%が 『取材対象者に対する接し方に関して悩んだ、あるいは苦労した』。30.8%は 『取材対象者に心理的な負担をかけたり結果的に傷つけたりした』 と感じていた。『被害者に強く感情移入し、取材を続けるのが困難になった』 と回答した人も16.7%いた。『問題や困難はなかった』 は6.7%で、9割以上が葛藤を抱えながら取材していた。
 取材や報道の内容については、40.8%が 『現場にいた人から非難を受けた』 とし、20.8%が 『プライバシー保護のため報道を控えた』 と答えた。一方、56.7%が 『取材対象から感謝された』、41.7%が 『自分の報道が誰かの役にたったことを実感した』 と回答し、やりがいを感じている様子もうかがえる。」
 調査結果はパンフレットになっています。

 11年4月4日付の 「毎日新聞」 に 『直面した 「死」 本質どう伝えるか』 の見出し記事が載りました。
「この現場の本当の姿を伝えるにはどうしたらいいのだろう。一部の週刊誌は遺体そのものを掲載し、新聞にも載せるべきだという議論がある。だが、今の私には分からない。私は最近、津波に襲われる夢を何度も見る。必死に逃げようとするが足が動かず、津波にのみ込まれそうになる場面で目が覚める。新聞の写真を見て読者が悪夢に襲われたらと思ってしまう。……
 人間ってなんだろう。命ってなんだろう。今まで何度も考えてきたはずのことを自問している。多くの理不尽な死に直面し、それでも生活を始めた被災者の姿。私はやはり、見なくてはならないと思う。見て、撮り続けなければと。」
 記者の苦闘が書かれています。多くの記者が同じような思いを抱いたと思います。

 ある新聞社の記者と話をしました。
「阪神淡路大震災の時、避難所に取材に来た記者の方は、被災者を取材することが出来なくてボランティアにだけ取材したんですよ」
「私も同じでした。最初は被災者の方が話しているのを近くに行って聞くだけでした。直接話を聞くことは大変な目に合われていると思うとできませんでした。何度か行くうちに被災者の方の方から話かけてくれました」
「実は、一緒に行った若いボランチィアもそうでした。一生懸命働きますが被災者とは話ができません。年寄りの出番でした。話を聞くだけで喜んでもらいました」


 東日本大震災における福島民友新聞の闘いが本 『記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞』 (門田隆将著 KADOKAWA) になっています。福島浜通りの支局の記者たちの姿を抜粋して紹介します。
 震災の数日前、支局の記者たちは 「俺たちは津波そのものを撮るんじゃない。津波対策をする人たちの姿をカメラに納めればいいのだ。」 と確認します。
 震災当日、取材中に津波から避難する住民を誘導して熊田記者が死亡します。誘導された住民は助かりました。4月2日に遺体は発見されます。
 13年、福島民友新聞社は最期まで仕事と向き合った熊田という人間を忘れないために、「熊田賞」 を設けました。
 
 同僚の記者は、車の中で津波に遭遇した時、必死に走ってくる老人に気がつきました。腕には孫らしい小さな子どもを抱き、その後ろをおばあさんが走っていました。反射的にカメラに手を伸ばしました。この時、濁流のなかから車が飛び出してきておばあさんを助けます。記者は車を切り返した時、バックミラーに老人が波に呑まれる瞬間が映りました。
 記者の苦闘が始まります。なぜカメラに手を伸ばさないで助けようとしなかったのか。記者である前に人間ではないのか。
「なぜあの時、あの人を助けられなかったのだろう。自分が死ぬのがそんなに怖かったのか。自分の命を惜しんだおまえは、えらそうに新聞記者をつづけられるのか。
 そんな自問自答を繰り返してきた。
 あの日、目の前に子供を抱いたおじいちゃんが逃げてきた時、たとえ自分が 『死んだ』 としても、助けるべきではなかったのか。
 あの時、津波の写真を撮ろうと海に向かっていた自分は、目の前の光景に一瞬、カメラに手を伸ばしてしまった。そのために、助けるタイミングを逸したのではなかったか。おまえが 『新聞記者だったこと』 が、あの人たちを助けられなかったんだ。いや助けられなかったにしても、なぜ、自分の命を 『もしかしたら、助けられるかもしれない』 という方に賭けなかったんだ。」
 3年過ぎてもテレビで津波の映像が流れると涙が止まらなくなるといいます。新聞記者を辞めようと思うことの繰り返しです。自分自身が許せないからです。
 この心情 (「生存者抑うつ」) からどうしたら脱出できるのでしょうか。

 もう1人の記者は毎日新聞社の記者が同じ場所にいて毎日新聞の記者の動きを見ていました。海の近くまで行って危なくなって逃げてきた毎日新聞の記者はシャッターを切りながら足の震えが止まりませんでした。
「(顔が) 真っ青というか、普通じゃない感じでした。……非常に不安定な落ち着きのない顔だった」
 のちに毎日新聞社の記者は、自分自身震災後は虚脱感、あるいは一種の情緒不安定に陥っていたのではないかとで思うと語っています。
 毎日新聞の記者は熊田記者とも交流がありました。
 熊田記者の遺体が発見され、告別式が終わって震災から1か月経った時、母親からメールが届きます。「生きていてくれてありがとう」
 メールを読んだ後、(熊田ごめん) と慟哭します。熊田記者のお母さんに思いをはせます。自分が生きていることが無性に申し訳なかったといいます。自分が生きていることに違和感を覚えることもあるといいます。

 相馬支局に原発事故で避難命令が出されます。しかし記者は 「いま俺が相馬から撤退したら、相馬の読者は民友を見放すぞ。俺はにげない」 と拒否します。
 支社長が 「会社の命令」 と通告して本社に引き上げさせることにします。
 浪江町の新聞販売店の話です。販売店に新聞が届くのはだいたい午前3時頃。しかし配達員は避難所からいつもより早く姿を見せたといいます。そして避難所にも配りました。配り終わると原発事故で避難指示がだされました。
 地域の人たちはしばらく経って一時帰宅が許された時に自宅で3月12日の朝刊を目にしました。

 報道とは何でしょうか。
 11年4月末から5月にかけて、朝日新聞社は震災報道写真展を開催、12年3月にも開催しました。そこに11年の写真展での感想文が掲示されていました。(12年7月3日の 『活動報告』 参照)
「震災直後に気仙沼に入りました東京の消防官です。
 帰りましてから震災の写真を見ることが出来ませんでした。
 本日は後世・将来へ申しつぐべき写真の数々を拝見させていただき、現地の残土の中から出された方々ひとりひとりが思い出され、涙が止まりませんでした。ただ『やすらかに』との思いでいっぱいです。
報道の真価を理解している者 (つもり) としてあの状況で人々を救出したくても将来の為の取材をつづけた報道の方々に敬意を表させていただきます。
                   東京・板橋 男 (44歳)」

 ドキュメンタリー映画 『生き抜く 南三陸町 人々の1年』 (JNN系列作成) にはナレーションがありません。スタッフたちは 「記録とは冷徹な傍観者の営みではなく、記録とは寄り添い続けること」 と体感していったとパンフレットに書いています。(12年10月26日の 「活動報告」 参照)
 では寄り添うとはどういうことを言うのでしょうか。
 JNN系列製作の別のドキュメンタリーのシーンです。
 集落でお祝い事をすることになったので主催者は記者にも声をかけます。記者は出席しますが酒は飲もうとしません。主催者が記者を建物の外に呼び出します。「めでたいことをお前にも祝ってほしいから声をかけたんだ。被災していたって、めでたい時に酒を飲むくらいの金はあるぞ。おれたちの酒を受けられないのなら二度と来るな。仲間ではない」
 寄り添うとは、そこの人たちと喜怒哀楽を共有することです。

 もう一度 『本』 からです。
「『津波てんでんこ』 とは、津波が来たら他人のことは考えないで別々に逃げろという “教え” です。もう一つ 『津波残り』 の言葉があります。津波に襲われて自分だけ残ったという忸怩たる思いを言います。
 『津波てんでんこ』 はまず自分が助かるということですが、その方が助かる者が多くなるということの体験からきているものです。しかしもっと深い意味が含まれているのではないでしょうか。死者等に対して “助けられなかった” という 『津波残り』 の思いを抱かせることから解放させるためのものではないでしょうか。そして助かった命を大切にしていかなければならないということです。」
 そうだとしたら、すばらしい惨事ストレス対策です。


 熊田記者の同僚記者の 「心のケア」 はどうしたらいいでしょうか。
 カメラに手をかけたのは 「記者魂」 のあらわれです。使命感を持っていたからです。褒められることです。
 生き残ったから悔やむのです。死んだら悔やむことも他者を弔うこともできません。逃げたことは、自分を大切にしたということです。
 生き残ったから、今後、体験を活かして被災者に寄り添った、被災者から 「ありがとう」 と言われるような記事を熊田記者に代って書くことはできます。そのような記事で、できたら被災地の復興記事で 「熊田賞」 を受賞できるよう仕事を続けるこができます。そして受賞したら、熊田記者からの 「俺の分も頑張ってくれてありがとう」 「ご苦労さま」 と言われたことになります。
 しかし浪江町、大熊町には入ることができません。
 生き残ったことの使命を確認し、「生きていてよかった」 と実感できようになること、それが熊田記者を 「忘れないこと」 ことです。


 自然災害は防ぐことはできないけど日常的対策で小さくすることはできます。
「災害から被害をより小さくするためには平常時の体制のゆとりが必要です。
 しかし東日本大震災は行政改革攻撃による “小さな政府” が進んだ後に発生しました。支援の職員を派遣する全国の自治体にもゆとりがありません。そのなかで地元の職員も派遣職員も奮闘を続けています。
 1年半が過ぎた頃から今日まで、支援活動に従事していた自治体労働者の中から3人の職員が自ら命を断ってしまいました。いずれも自殺に至ったのは土・日曜日またはお正月です。派遣されていた2人は赴任からしばらく経って、期間が予定の半分に至る前です。多忙ななかでもふと一息入れて自己を取り戻した時、先が見えない業務量と自責の念で展望を失ってしまったのでしょうか。
 これ以上の犠牲者を出させないための対策が急がれます。」
 多忙の中で一息入れたとき自殺に向いました。「二息」、「三息」 つけるゆとりある体制が必要です。周囲に疲れたといえる人間関係を作っておく必要があります。

 「頑張ることは、苦しみじゃない。ヒトだけに与えられた 祝福なんだ。」 (2008年6月の岩手・宮城内陸地震をテーマにした熊谷達也の小説 『光降る丘』 角川書店 2012 の帯のコピー) (13年11月6日の 「活動報告」 参照) と言えるような社会をみんなでつくっていきましょう。
 「しあわせ運べるように」

   関連:「活動報告」 2014.9.17
   関連:「活動報告」 2014.2.28 
   関連:「活動報告」 2013.11.6
   関連:「活動報告」 2012.12.7
   関連:「活動報告」 2012.10.26
   関連:「活動報告」 2012.7.3
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