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ストレスチェック法の悪用が始まっている
2015/03/31(Tue)
 3月31日 (火)

 昨年6月19日に 「ストレスチェック法案」 と呼ばれた労働安全衛生法改正法が成立し、現在、厚労省は 「心理的な負担の程度を把握するための検査及び面接指導の実施並びに面接指導結果に基づき事業者が講ずべき措置に関する指針」 の作成を行なっています。
 省令・指針等の制定と並行して医師等への研修を行い、今年12月までに施行予定です。

 改正法成立に際して6月18日の衆議院厚労委員会で付帯決議が付きました。
「二 ストレスチェック制度は、精神疾患の発見ではなく、メンタルヘルス不調の未然防止を主たる目的とする位置付けであることを明確にし、事業者及び労働者に誤解を招くことのないようにするとともに、ストレスチェック制度の実施に当たっては、労働者の意向が十分に尊重されるよう、事業者が行う検査を受けないことを選んだ労働者が、それを理由に不利益な取り扱いを受けることのないようにすること。また、検査項目については、その信頼性・妥当性を十分に検討し、検査の実施が職場の不利益を招くことがないようにすること。
 三 ストレスチェック制度については、労働者個人が特定されずに職場ごとのストレスの状況を事業者が把握し、職場環境の改善を図る仕組みを検討すること。また、小規模事業場のメンタルヘルス対象について、産業保健活動総合支援事業による体制整備など必要な支援を行なうこと。」

 イギリスの職場のストレス対策です。
 2004年11月、イギリス安全衛生庁 (HSE) は、職場ストレスに関する新しいマネージメント基準を発表しました。基準は法で規制されるものではないですが、企業が職場のストレスレベルを測定し、その原因を特定し、この問題に取り組むスタッフに役立てることを目的としています。
 最初のマネージメント基準は2003年6月に公表されました。この基準では6つの重要な職場のストレッサーである 「作業要求」、「管理」、「支援」、「関係」、「役割」、「変化」 を低減する目標を設定しています。この目標達成のためには、一定の割合のスタッフが、ストレッサーの管理方法に満足しているということを示すことが事業者にとって必要となります。

 日本とは、そもそも職場ストレスの捉え方が違います。
 日本の職場のストレス対策は、法が制定されて国会での付帯結語がついても、施行に際しては個人の管理に重点が置かれます。国際的には他にこのような捉え方はありません。

 ストレスチェック法の大きな問題・危険性は、人事上の適正検査や職場環境改善のためのストレス調査が、労務管理のための情報取得、労働者個人を管理する性格テスト、スクリーニングの手法にされる危険性を含んでいるということです。労使双方に、労働者に対する心理面への介入が容認されたという風潮を生み出してしまうことです。法の目をくぐって 「違法ではない」 「合法」 な行為が進んでいます。

 このような中で、東京に本社がある人材派遣・人材ビジネスなどの情報発信、サービス事業を行なっている会社は、派遣元会社が労働者を採用・派遣するに際してスクリーニングを実施する講習会を開催しています。講習会のタイトルは「『ストレスチェック義務化を直前に、効果的なスタッフ登録を勉強する会』 のご案内」 です。
 ホームページに載っている 「勉強する会」 での説明内容です。
 ・従来の適性検査の機能を極限まで削ぎ落とし、ミスマッチを防ぐ事のみを目的としている。採用リスク
  の軽減のみを目的として開発された。
 ・設問はリスク分析に特化した48問に絞られ、約4分という驚異的な検査時間を実現している。
 ・約4分で実現可能なリスク分析
 ・常に大量の人を採用する企業及び、短時間で大量の人数をマッチングさせなければならない人材ビ
  ジネスのために生まれた、全く新しいコンセプトの適性検査。
 ・表示項目を、
 •モチベーションによる、就業辞退のリスク
 •コミュニケーション面のリスク
 •メンタル面のリスク
 •不注意によるミスのリスク
 •係争のリスク
 •反抗のリスク
 のリスクに絞る事で、被験者にもより負担の少ない検査を実現。

 内容の問題点を指摘します。
1.派遣元会社に対して、登録した労働者に 「採用リスクの軽減を目的」 に 「メンタル面のリスク」 など
 の適性検査を行うことを提案している。しかし実際は適性検査ではなく労働者を選り分けるためのもの
 である。検査で問題があるとみなされた労働者は派遣先に派遣されないことになる。
  このことは厚労省が指導している 「公正な採用選考について」 のなかの 「公正な採用選考につい
 て」 に抵触するおそれがある。
2.このような検査が導入されると、各事業場は改正安衛法が目的とするメンタルヘルス不調の未然防
 止や職場環境改善に取り組むことを、入り口で防止したということで回避させてしまう。その結果とし
 てその後の労働者の健康管理はすべて自己責任にされてしまう。
  さらに法案成立後に開催された検討会の 「労働安全衛生法に基づくストレスチェック制度に関する
 検討会報告書」 のなかの派遣労働者の保護の視点から逸脱した行為である。
3.派遣元が派遣労働者にこのような検査を行なうことは、法案成立の過程でしばしば危惧された労
 働者の 「スクリーニング」 にほかならない。
4.検査は、実際には労働者が拒否できない状況で行われ、個人情報が派遣元によって管理され続け
 るということは「労働安全衛生法に基づくストレスチェック制度に関する検討会報告書」からも逸脱し
 派遣労働者に著しい不利益がもたらされる危険性がある。
5.検査は、まさしく現在の派遣労働者が置かれている状態を物語る。派遣労働者の人権・人格が無
 視されて 「モノ」 としか扱われず、使い捨てがまかり通っている。
  派遣労働者の人権・人格が保障され安心して働き続けられる労働者派遣法の改正こそが必要で
 ある。

 指摘した問題点については、全国労働安全衛生センターメンタルヘルス・ハラスメント対策局といじめ メンタルヘルス労働者支援センターは厚労省に 「当該事業所に対して直ちに中止の指導を行うとともに、今後作成する省令・指針、政令およびパンフレットにおいては同じようなことが繰り返されないことを徹底する内容にするよう要請します」 との 「要請書」 を送付しました。


 労働者に対する心理面への介入が容認されたという風潮を生み出している具体例です。
 昨年11月16日付の毎日新聞からです。
 2013年に行われた教員採用試験の適性検査を巡り、山梨県や山形県など少なくとも4自治体の教育委員会が、性的指向や宗教についての質問を含む心理テストMMPIを使用していました。
 MMPIは、精神疾患の有無を判定するための指標として、米国で約70年前に開発されたとされるテ心理テスト 「MMPI(MinnesotaMultiphasicPersonalityInventory) (ミネソタ多面的人格目録検査)」 です。
 精神疾患のある患者を判定することが当初の目的で、主に医療現場で使われるとされます。回答者は550項目に上る質問文を読み、当てはまるか否か、「どちらともいえない」 の三択で答えます。
 昨年7月。ある県の教員採用試験の適性検査を受けた複数の大学4年生によると、こうした内容の質問を含んだMMPIとみられるテストが筆記試験と同じ日に行われました。
 検査は約30分間。音声で質問が流れ、約120問に対して三択で回答を求められました。

 MMPIの主な質問文です。
 ・だれでも自分の見た夢の意味を知り、夢の教えに従うべきだ
 ・犯罪に関する新聞記事を読むのが好きだ
 ・父が好きだ (だった)
 ・時どき、悪霊にとりつかれる
 ・人と一緒にいる時、とても変なことが聞こえてきて困る
 ・法律は全部なくなったほうがよい
 ・同性に強く心をひかれる
 ・宗教の教典の中に書かれていることは、正しいと思う
 ・性生活に別に問題はない
 ・キリストの再臨 (もう一度この世に現れること)を信じる
 ・女性も、男性と同じように性的に自由であるべきだ
 ・自衛隊員 (兵隊) になってみたい
 ・あなたが男の場合…女だったら良かったのにと思うことが時どきある
 ・あなたが女の場合…自分が女であることを残念だと思ったことはない
    ※最も流通している出版社のMMPIより抜粋

 驚くべき項目です。
 使用自治体はいずれも、合否の参考や人事配置の参考にしていると回答しましたが、このテストに関しては、公務員の採用試験での実施例が人権侵害にあたるとして12年6月の衆院法法務委員会で質疑があり、滝実法相 (当時) が 「認識が薄かった」 と釈明するなどした経緯があります。
 不適切な質問の削除など改善の動きもみられるが、教員採用の現場で、差別につながりかねない検査が行われていた実態が浮かんでいます。

 問題が指摘されても続けられています。 「異端」 を排除して秩序を守ろうとしています。
 採用試験を担当者の人権感覚が疑われます。


 2011年8月17日付の朝日新聞に、今年度から東京都教育委員会は公立学校の全教職員を対象に問診票によるストレス度合いを調べる検査を始めたという記事が載りました。
 年1回、健康診断に合わせて実施し、精神疾患になる危険性がある場合は病院での受診や臨床心理士への相談を勧めるといいます。目的は早期発見と予防です。
 2007年度に精神疾患で休職した416人を調査したら、初めて受診したのが休職する1か月前という者が全体の7割を占めました。このことを踏まえ、都教委は 「休職が避けられない状態になるまで病気に気付かない人が多い。早期発見で休職者を減らしたい」 といいます。検査で回答に要する時間は1分程度で、短時間で答えることで 「本音」 を引き出す狙いがあるといいます。
 しかしこの記事を、現在労働者が置かれている状態から捉え返すと全く逆のことが言えます。
 労働者は、就労不能の状態になるまで我慢して働かざるを得ないというのが現実で、なかなか体調不良を訴えません。いったん休職すると不利益をこうむる、復職するのがむずかしい、支援がない中で復職しても再度休職に至る者が多くいるということを知っているからです。

 新聞社からコメントを求められて教育学専門の大学教授は 「休職者を減らすには職場環境に余裕を持たせる対策が不可欠だ」 と指摘しています。
 「回答時間は1分程度で、短時間で答えることで『本音』を引き出す狙いがある」 といいます。労働者が正直に答えないのは事実です。
 労働者は、問診票が自分にどのような影響をもたらすかと捉え返して「加減」をします。健康を保持するためにではなく、正直に回答すると処遇に影響するという判断などの「自己防衛」手段です。だから、競争が激しい部署、職階、年齢層の労働者こそ症状を軽く答えます。「健康を守る」 ための手段と 「自己の生活を維持する」 手段が対抗している現実があります。
 実施者が 「短時間で答えることで 『本音』」 の発言は、このことを承知しているからです。だとしたらまず実行されなければならない対策は、長時間労働や過重労働をなくし、余裕をもって業務を遂行できる体制の保障です。


 ストレスチェック法は施行されますが、その実施に際しては法の趣旨を逸脱していないか、人権やプライバシーがきちんと守られているかなど監視を続けていかなければなりません。

   関連:「要請・提案」
   関連:「活動報告」 2014.12.16
   関連:「活動報告」 2014.8.19
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大熊町は≪当時の中央政府の政策を支えていたわけです≫
2015/03/27(Fri)
 3月27日 (金)

 3月13日の 「活動報告」 で紹介した三山喬著 『さまよえる町 フクシマ曝心地の 「心の声」 を追って』 (東海教育研究所刊) に短歌が載っていました。、『本」 は、福島第一原発がある福島県大熊町の状況と避難した町民のその後4年間を追い続けたルポルタージュです。

   復興の遅きを責むる町民に
    向き合ふ息子の 白髪目立つ

 会津若松に避難している方の作品です。


 3月22日の毎日新聞に 「福島県:全町避難自治体の一つ『職員2割うつ』判断」 の見出し記事が載りました。昨年5月19日の記事の続報です。
「東京電力福島第1原発事故により全町避難を強いられた福島県のある自治体に対し、県立医科大などが実施したメンタルヘルス調査で、職員の21%が『うつ病』と判断されていたことが分かった。……別の町の調査でも以前、15%との結果が出ており、東日本大震災から4年が経過しても事故の収束が見えない中、職員が過度なストレス下にあることを裏付ける結果となった。
 調査は昨年10月、沿岸部にある町の全職員76人を対象に実施。精神科医らによる個別面接の結果、16人 (21.1%) がうつ病と判断された。震災時から勤務を続ける44人に限ると、25%にあたる11人が該当した。「自殺の危険がある」 とされた深刻なケースも7人 (9.2%) いた。
 ……原発事故の被災自治体で高率になった背景として、調査に当たった県立医科大の前田正治教授 (災害精神医学) は、震災後の慢性的な業務増▽家族の離散▽町民らの不安や不満を受け止めざるを得ないこと−-などを挙げる。
 同大などが別の被災町で昨年1月に同様の調査をしたところ、職員92人のうち15.2%がうつ病と判断された。
 二つの町は、放射線量や住民帰還を巡る状況が異なり、前田教授は 「復旧、復興の度合いに関わらず、避難を経験した自治体の職員は心身ともに参っている。2町だけの問題ではない」 と指摘。……

 福島県立医科大の調査で、職員が最もつらいと感じるのは 『苦情の対応』 だった。
 不安を抱えた住民からの電話が鳴り始めたのは原発事故での避難直後からだった。『いつ帰れるんだ』 『何でこんな事故になったんだ』。一職員では答えられない問題を突きつけられ、連日午前1時ごろまで対応した。『自分だって職員でなければ、同じように尋ねていたと思う』
 事故から4年。町外からと思われる電話が増えた。進まない復興状況が報道されると 『賠償をもらってるんだから、いいじゃないか』 などと匿名の心ない批判もある。
 町民の離散に伴い、町の拠点も複数設けられた。男性職員は 『住民サービスは、町にいたときと比べたら相当低くなった』 と認める。残業は、震災直後からは減ってきているものの、昨年度も震災前の1.5倍だ。
 一方、職員の約15%がうつ病と判断された町の防災関係の課にいる男性職員 (42) は 『24時間拘束されているようだ』 とこぼす。交代で緊急連絡用の携帯電話を持ち、昼夜なく東京電力や県から入る報告メール全てに確認の返信をする。膨大な業務に 『頭がおかしくなりそうだ』 と同僚は退職した。『電話が鳴ると手が震える』 と話した別の同僚は病欠中だ。男性職員は 『周りが発病すると、自分がさぼっているように感じる。病欠や辞めた人に仕事を押しつけてしまったのかな』 と罪悪感を抱いている。」

 ある自治体と言ってもほぼ推測できます。
 住民の状況についてはそれなりに取り上げられますが、同じく被災者でありながら自治体職員等についてはあまり取り上げられません。被災者が怒りをぶつける対象、ストレス発散の相手、被災地・被災者外からの妬みの窓口になっています。
 自治体は、政府の末端の窓口です。政府に代っての対応が要請されます。ある時は官僚機関の末端であり、ある時は地方自治の組織運営が要請されます。情報がタイムリーに伝達されないこともあります。都合いいように使い分けされ、住民を遠ざけます。裁量権はほとんどありません。住民と対峙することもしばしばありますが、最後は住民に屈服を強制します。
 しかし非常時に遭遇したり、住民の抵抗に遭遇した時などは立ち往生をしてしまいます。東日本大震災後の状況がまさにそうです。
 自治体が方向性を決められない、対応が遅い、強制的に決定を押し付けられる中で、被災者は翻弄されています。自治体職員が被災地の被災者である場合には、さまざまな意見の板挟みにあいながらも逃げられません。自分でも方向性が見えない中で対応しています。裁量の幅はありません。
 精神科の医師による診断や投薬では限界があります。

 このような中での、町職員の姿を 『本』 のなかから取り出してみます。
 大熊町の仮設役場は会津若松市の移転後の高校の空校舎にあります。震災直後は4000人を超える被災者が避難していました。
 11年春、避難先で展望が開けないなかで若手から疑問が噴出します。
「町にはいま、“未来” を考える者がいない。町民に少しでも希望を持ってもらうには、復興を考える専門チームが必要ではないか」
 要望は即座に受け入れられ、6月に復興構想検討会が発足します。12人の委員はすべて役職のない若手に割り振られて、復興プランの策定を担っていました。
 当初から、比較的線量が低く、帰還可能な区域から少しずつ町を立て直していくか、それとも数十年の長期戦を想定して、町の外に拠点となる“仮の町”を築くのか、当時は罵りあいの一歩手前までなったといいます。
 町長が「全員帰還」を目指したので前者の方向で進みます。
 民間委員8人も加わって具体的「復興計画」を作る段階になると議論の方向が急速に変わります。
 震災から1年半後を経て正式決定した復興計画は、町民を 「居住地を自ら選んで期間を待つ」 「町の指定した居住地で帰還を待つ」 「大熊町に帰還しない」 という3つのグループに分け、三者へのサポートを列挙する形式となりました。

 震災の年はただ、苛立ちだけが目立ちました。しかし年が明けると姿を消します。代って浸透していったのは、無力感、諦めの雰囲気でした。
 震災2周年の春はその傾向が一段と進んでいました。
 全被災者を対象にした意識調査で、13年1月と10月の調査時を比較すると、「戻りたい」 が11.3%から8.6%に減り、「戻らない」 は42.3%から67.1%に跳ね上がりました。放射能汚染土の中間貯蔵施設を大熊に集中して建設するプランがこの年に現実味を浴びたこともあります。
 町民は会津若松からいわき市に移る人たちが増えます。

 震災から2年半経った13年10月には、復興構想検討会の12人の委員のうち3人はすでに退職していました。
「個々の事情はわかりません。でも私は、それは仕方がないと思っています。変な話だけど、辞めていく人は、すっきりとふっきれた顔をしていますよ。誰がどう言おうと、結局は1人ひとり、それぞれの人生ですからね」


 退職した3人のうちの1人は30代で生涯学習課と民族伝承館の職員を兼務していました。
 復興構想の議論では、ただ1人、数十年の長期戦を想定して、町の外に拠点となる “仮の町” を築くことを主張しました。
「検討委員会に選ばれた感想? 正直言えば、使命感というより、腹が立ちました」
「将来を担う若手の意見を、なんて言われてもね。私には、責任を押し付けられたようにしか思えませんでした。会津若松に避難して間もないころでしたから、うだうだ議論なんかしているより、除染でも調査でも、とにかく 『実行部隊』 として現地に飛び出していきたかったんです」
 ふるさとを捨ててしまおうという話ではありません。真意は、長期にわたる闘いを覚悟すべきだと訴えたのでした。
「たとえ百年、二百年、孫子の代になろうとも、必ず大熊を取り戻す」
 歴史にこだわり続けてきたバックグラウンドからのものです。

 2013年、会津若松にある県立博物館の一角に 「ふるさとの考古史料 【大熊町】 遺跡探訪」 というコーナーが設けられました。この職員が救出に尽力した品々です。
「大熊町が何もなかった場所だったとは、絶対に言われたくない」
 会場に掲げられた1枚のパネルには、その奈良時代、大熊を含めた浜通り地方で、製鉄が盛んに行われていたことが説明されていました。
≪当時、東北北部では蝦夷と呼ばれていた現地の人々と中央政府軍との間で戦闘状態が続いていたことから、浜通り地方で生産された鉄は武器などの製作に使用されていたと考えられます。大熊の地で生産された鉄が、当時の中央政府の政策を支えていたわけです≫
 読み飛ばすことができないフレーズです。中央に加担し、大熊の鉄でそれ以北の蝦夷は弾圧されたのです。
 そして鉄を電力にかえたのが1200年後の状況です。
 さらにその間のさまざまな歴史がよみがえります。

 別の個所で郷土史研究家が言います。
「東北は、それこそ昔から蝦夷 (えみし) として侵略されてきました。三春町に残っている三春駒という工芸品は、田村麻呂がこっちの豪族を征伐する際に、どこからか現れた木馬に助けられた、なんて伝説からできたものですよ。中央とのそういう関係は、そのころからずっと続いているわけですよ」


 著者は、復興構想検討会委員の1人から敬遠されていました。
 震災から2年半経った13年10月に、3、40代の男女4人の復興構想検討会の委員と懇談しました。そこでも言い合いになります。原発問題に中立と言いながら 「原発」 という言葉を使用するからということでした。
「大熊では 『原発で働く』 という人は反原発派。肯定派は 『東電で働く』 と言います。ことば遣いで、その人の立場がわかるんです。」


 上記の短歌を詠んだ方から指導を受けた方の作品です。

   原発の歌を残せと言わるるも
    歌より先に涙の出でく

 別の大熊町の被災者が語ります。
「生きている間にふるさとには帰れないけど、せめて原発のない大熊町を見てから死にたい。」

   関連:「自治体職員の惨事ストレス対策」
   関連:「活動報告」 2015.3.13
   関連:「活動報告」 2014.7.29
   関連:「活動報告」 2014.2.18
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踏まれつづける 「みちのく」
2015/03/24(Tue)
 3月24日 (火)

 3月11日の石巻市は1日中強い風が吹いていました。曇り空です。前日の夜は雪も降りました。4年前も夕方からみぞれが降りだして寒かったといいます。
 午後2時46分、市内の日和山公園にいました。海と被災した街を見降ろせます。
 その時刻が近づくと、少しずつ人が集まってきます。近所の人たちが家族と一緒にきています。仕事中の営業マンのような人がいます。会社の社員が集団でいます。
 昨年よりは少ないですが、サイレンを合図にみんなで海に向かって黙とうをしました。まだ行方不明者は400人を越えていますが、おそらく海がさらっていったと思われます。

 2年目の一昨年のここからの光景は、北上川の河口近くに20メートルの高さの瓦礫の山がそびえ、海岸沿いには “瓦礫の堤防” が長く続いていました。20メートルの高さはビルなら6階から7階建です。人口15万の地方都市ではこれより高い建物はありません。日常的に人影が消えた街にそびえるこれらの姿を見せられながら 「がんばって」 「負けないで」 と声をかけられました。
 3年目の昨年の3月までには撤去されました。
 昨年の3月11日は、瓦礫が消えた街です。そして何もない街でした。震災の残骸は消えましたが、復興の様子はまったく見えません。
 4年目の今年は、昨年の3月11日のままでした。何も変わっていません。

 山を降りた海側に、かつては7000人が生活していました。
 昨年8月にやっと新たな市街地をつくる区画整理事業が本格化しました。計画では、高いて防潮堤が築かれ、海からかなり離れたところまで緑地公園になります。その先は3.5メートル盛土した道路が走り、それを境に復興住宅や市街地が造られます。
 このような構想は多くの被災地で取り入れられています。海と共存してきた街が、海から逃げて新しい街を作ろうとしています。
 しかし現段階は、部分的に盛土がおこなわれているだけで、葦や萱が高く生えて枯れている状況です。
 山のふもとに建つ、震災の時に津波火災にあった門脇小学校は全体がテントで覆い隠されています。遺跡として残すか、取り壊すかの結論は出ていません。100年以上の歴史をもつ、かつてはマンモス校でした。
 小学校は、中学校に間借りしています。今年の4月からは他の小学校に併合されます。
 小学校の校庭にビニールハウスが建てられ、NPO法人の人たちが緑地公園に植樹する苗木を育てていました。世話をしていた地元の方は、おばあちゃんが門脇小学校、自分も、子どももそうだったといいます。

 隣りはお寺と墓地です。
 少しずつ倒れた墓石が修理されていきます。墓碑には 「平成23年3月11日」 と追加で刻まれています。しかしまだ倒れたままのもたくさんあります。
 お寺から卒塔婆をもらってお参りする人波が絶えません。花を捧げて線香を焚きます。しかし強風のためなかなか火が付きません。やっとの思いで線香から煙をたなびかせます。
 震災の年のお盆は、余震も続いていたので東北地方では線香を焚くことを墓地でも家でも禁止されていました。家族を成仏させることができませんでした。
 4年後は、それぞれにゆとりや諦めも生まれ、成仏させることができるようになりました。


 旧市街地を歩いても復興と呼べるような状況が見つかりません。やっと空地が復興住宅建設のために更地にならされ始めているところが何か所かありました。
 商店街や自営業の人たちは、震災から間もなくすると行政の支援など待ってられずに自力で営業を開始しました。最初は赤字でもそのうち人びとは戻るだろうと期待しました。しかしそうはなりませんでした。再開しても持続が困難となり、新たな負債をかかえて閉めた店舗もたくさんあります。
 元の住居に戻れない半分、4年の年月で生活が変わって戻らない半分です。

 かつての商店街の中心に、昨年3月 「震災伝承スペース つなぐ会」 がオープンしました。
 石巻市の歴史が展示されているとともに、立体地図で震災の被害状況と復興プランが展示されています。3.11から今日までの状況は写真パネルが展示されています。
 市としては、復興事業がスタートしたばかりで、記録を残して将来に残す事業に力を注ぐまでに至っていません。少しずつ充実していくと思われます。
 すぐ近くに 「絆の駅 石巻ニューゼ」 があります。ニューゼとは、“ニュース” とフランス語で博物館を表す “ミューゼ” を合わせた造語で 「新聞博物館」 の意味です。
 中には震災翌日から手書きで発行した石巻日日新聞の実物が展示されています。1週間発行されましたが、新しいのに貼り替えて持ち帰ったものだそうです。あわせて記者たちが当時の状況を撮った写真が展示されています。(石巻日日新聞については、2015年3月20日の 「活動報告」 参照)


 市の人口は4年前と比べて大きくは減少していません。市内で移動しています。
 仮設住宅はまだ残っています。自分で住居を建てる人たちは、市内の海から離れたところを選びました。格差が拡大しています。
 郊外に復興住宅や団地が造成され始めています。その周辺には量販店が並んでいます。

 旧市街地から4~5キロ離れた、山を切り崩して造成した団地は、震災前は不評で空き地だらけでした。しかし震災後は希望者が殺到し、2年後に地価は前年の1.6倍、全国1の上昇率になりました。しかし急な人口増加にインフラは追いつけません。
 今は、買い物が不便、病院がない、高齢者には交通の便が悪い等々と敬遠されるようになってしまっています。


 前日に新幹線で仙台に向かいました。そこから仙台と石巻を結ぶ仙石線に乗り換えます。仙石線は全線が開通していないので途中で代行バスに乗り換えなければなりません。
 被害が大きかった地域は線路を山側に移動させてやっと全線が繋がりました。バスから見える鉄道は、銀色に光って盛り上がる敷石の上の鉄路が錆びています。この後試運転をして開通予定は5月末です。
 しかし駅の付近の人たちの多くは、4年間鉄道を利用できなかったこともあって住居を移しています。開通してもかつての利用客が戻るということではないようです。
 石巻から仙台に通勤・通学する人たちの通過駅でしかありません。
 その一方、石巻寄りの復興住宅建設予定の地域には新駅ができています。


 復興住宅建設も、鉄道も工事が遅いです。理由は、資材不足と人材不足です。資材不足は価格を、人手不足は人件費をかなり高騰させています。当初の予算では不可能で工事が延期になっているところもあります。新たな工事で事業者を公募しても入札がないこともあります。
 オリンピック工事に奪われていいます。セメントと鉄鋼業界が潤っています。
 被災地の人たちは 「オリンピック開催に反対はしないけど、その次の回の開催にして欲しかった」 と語ります。
 現在の政府は、やりたいことは強引に進めます。しかし、やらなければならないことには積極的ではありません。


 もう1本の鉄道の石巻線の全線開通は、3月20日に予定されていました。
 終点の女川町は、人口が当時の半分になってしまいました。鉄道の復旧の遅れはその地域から人びとの流出を加速させました。
 それでも地元に残った人たちは踏ん張っています。
 震災直後、商工会議所の人たちは 「小さいけど ピカピカ光る女川をつくろう」 と町づくりを始めました。
 今は 「津波に弱い街づくり」 をしています。津波の大きさは予測できません。その方針を掲げて防潮堤は作らせません。海から逃げないで共存しようとしています。危険と思ったらすぐ避難する防災対策を進めます。
  町づくりは緒についたばかりです。

 自然の力は恐ろしいです。人の言うことを聞きません。
 東日本大震災は、各地に地盤沈下をもたらしました。その分津波もより奥に侵入していきました。
 女川た石巻では1メートル近くです。港の岸壁工事でその分かさ上げされました。
 しかし少しづつ地盤は隆起していたようです。いつの間にか港での荷下ろしに不都合が出てきました。満潮の時の荷上げ・荷下ろしは大変になってしまいました。


 12年12月7日の 「活動報告」 の再録です。

 阪神淡路大震災のなかから 『しあわせ運べるように』 の歌が生まれ、今も歌い継がれています。
 東日本大震災では 『あすという日が』 が歌われ続けています。
 2番の歌詞です。

   あの道を 見つめて ごらん
   あの草を 見つめて ごらん
   ふまれても なおのびる 道の草
   ふまれた あとから 芽ぶいてる
   いま 生きて いること
   いっしょうけんめい 生きること
   なんて なんて すばらしい
   あすと いう日が くるかぎり
   自分を 信じて
   あすと いう日が くるかぎり
   自分を 信じて

 「ふまれても なおのびる 道の草」 の 「道の草」 を 「みちのく (道の奥=東北地方) さ」 と聞こえたという方がいました。「踏まれても なお伸びる みちのくさ」 です。
 全国からの支援に感謝しながら 「伸びる みちのく」 です。


 この頃はまだ希望を持つことができました。
 しかし今また 「みちのく」 はまた踏まれ続けています。
 東北学の赤坂憲夫学習院大学教授は 「東北はまだ植民地」 と語ります。本当にそう実感させられます。
 その中で被災地に残っている人々は、ふまれた あとから <自力で、頑張り抜いて> 芽をふかせようとしています。


 繰り返しますが、政府は本当にやりたいことは強引に進めます。しかし、やらなければならないことには積極的ではありません。
 この視点に立つと、沖縄が近くに思えます。

   関連:「活動報告」 2014.3.14
   関連:「活動報告」 2013.3.19
   関連:「活動報告」 2012.3.16
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「寄り添う」 とは喜怒哀楽を共有すること
2015/03/20(Fri)
 3月20日 (金)

 前回の続きです。

 3月8日、神戸市で 『惨事ストレス “救援者の心のケア”』 (緑風出版) の出版記念を兼ねた講演会が開催されました。講演を依頼されました。

 『本』 からいくつか抜粋します。
「救援活動と言っても、それぞれ任務は違います。
 消防士や警察官、自衛隊員は発生直後から現場で活動します。集団行動で、短時間・短期間です。自治体職員、教職員、医療関係者、ボランティアは現場の周辺や事態がおさまった後に活動します。個人で判断しなければならない事態も多く、期間は長期に及ぶこともあります。報道関係者は現場も周辺も目撃し、記録しながら行動します。惨事ストレスの危険性について被災者同士、支援者同士、支援者のリーダーたち、家族は認識し、長期に監視し合あって予防・防止に取り組んでいかなければなりません。」
 体調不良は、災害という 「異常な事態への正常な反応」 です。

 惨事ストレスへの取り組みは神戸市消防局が進んでいます。阪神淡路大震災の体験はホームページで公開され、本も出版されています。
「山元町は14日、神戸市消防局が最初に支援に駆けつけたところです。到着すると責任者は 『皆さんに休んでもらうために駆けつけました。何でも申し付けて下さい』 と挨拶したといいます。被災地の消防士たちの心情を理解している対応です。
 また、被災地の人たちにとっては神戸、兵庫という車輌やプレート、制服を見ただけで自分たちの気持ちがわかってくれる人が来たと受け止めて安心できたということです。」


「『階上中学校といえば 「防災教育」 といわれ 内外から高く評価され 十分な訓練もしていた私たちでした。』 しかし東日本大震災で3人の卒業予定者を亡くしてしまいました。
 階上中学校は3年間の間に 『自助』 『共助』 『公助』 のサイクルで防災訓練を行ってきたといいます。
 震災を経て防災教育の見直しをしました。何よりも自分の命を確実に守ること、それが多くの人の命を守ることになるという確認をしました。その結果、『自助』 『自助・共助』 『自助・公助』 のサイクルで、『自助』 を基盤にした防災学習に変わりました。
 多くの犠牲を払い過ぎた教訓を活かしています。」 (14年9月17日の 「活動報告」 参照)

 「自助・共助」 についての阪神淡路大震災の教訓が2003年7月30日の 「朝日新聞」 に載っていました。
「現在、AM神戸の災害マニュアルには 『家族と近隣の安全を確認してから出社する』 という一項がある。三枝さん (現取締役) は 『それが当たり前。人命を1人でも救ってから被災地報道』 という。
 同局は今も月に1回、災害報道の勉強会を開く。『誰のために報道するのか』 という原点を忘れないためにだ」

 阪神淡路大震災が発生したのは明け方でした。家族の安否確認はすぐにできました。東日本大震災は午後2時46分です。家を離れて働いていた人たちや児童・生徒たちは家族の安否確認はとりにくい状態でした。しかしそのまま救援・支援活動に従事した人たちも大勢います。

 仙台市消防局が発行した 『東日本大震災にける消防活動記録』 からです。(12年12月7日の 「活動報告」 参照)
「連絡が取れない家族等の安否確認や家財などの損壊程度が計り知れない不安感などで、これまで経験したことのない閉塞感を職員のだれもが感じ、行き詰るストレスのやり場がない状態で、職員間の意見の摩擦など表れ出したところもあった。そうした頃、地震発生からから6日目のことである。『一時帰宅』 という措置がとられた。我々職員は自分の耳を疑った。
 それは、本来、職場で取るべき休憩や仮眠を、環境を移して自宅で取る‥。という解釈の措置であり、不眠不休の業務継続の末、職員の心と身体の健康管理を考慮した結果の策であった。
 『家に帰れない‥』、『家族に会えない‥』 という日常生活において当たり前のことができない日々が続く中で、消防の活動を期待して止まない市民に対しては、消防職員がその業務を離れ自宅に戻ることなど許されないと思っていた。まして、夫や妻、父や母、そして息子や娘の側面を持った消防職員の家庭では、その職員の帰りをいち早く待ち望んでいる家族など誰もいなかった。
 それは誰もが理解し、『当然のこと』 と自らを納得させていたからこそ、それぞれの心の中にじっと閉じ込めていた 『耐える‥』 という封印感情の中で職員も葛藤していた。
 しかし、その耐える力にも限界があって、個人差もあった。消防職員とて人間である。睡眠も必要であれば、心配ごとで仕事が手につかないこともある。そんな思いを組織は理解してくれ、思い切った措置を取ってくれたのである。
 我々職員は涙がでる思いであった。素晴らしい組織である。職員を大切にしてくれていることを実感した。
 ……職責を離れ、私人として自宅に戻り家族と再会することへの後ろめたさ、罪悪感のような感覚をもった職員は、1人、2人だけではないはずである。
 こうしてとられた一時帰宅の措置によって、消防職員として使命を達成させることの誇りと、家族への感謝の気持ちをあらためて心に刻み込み、心にビタミン剤を補給して職場に戻ってきた職員たちの顔は、みな穏やかで、我々職員は働く活力を取り戻した。」
 組織として長期戦を覚悟すればこそ、職員1人ひとりと家族の心身の安心・安定をはかる必要があります。


 報道関係者はどうだったでしょうか。
「私は、奇しくも東日本大震災の約1か月前の2011年2月7日に東京の新聞労連で初めて開かれたジャーナリストの惨事ストレスを考える勉強会に参加しました。専門家の方から、ジャーナリスト、あるいは消防士や警察官、自衛隊員らは直接被災者ではなくても被害の現場を見たり、体験したりすることで強く感じるストレスのことを 『惨事ストレス』 ということを学びました。その時に指名されて阪神・淡路大震災の経験を話したのですが、私としても、いい勉強会に参加させてもらったなと思っていたら、約1カ月後に東日本大震災が起きました。
 2月は、実践に向けてこれからこの勉強会を深めていきましょうということでした。それからわずか1か月後に真価が試されることになったと改めて感じました。」
「神戸新聞の記者も東日本大震災の1週間余り後には被災地に取材に入っています。その時に私は労働組合委員長の立場で、彼らに1枚のコピーを渡しました。それは2月の勉強会でもらった 『災害取材にあたる時の心得 気を付けること』 と書かれたビラです。内容的にはシンプルで 「少しでも休養を取ってください。仲間と声を掛け合ってください。少し落ち着いたら、仲間や上司と話しあってください。」 といくつか箇条書きになったものです。その後、神戸新聞は臨時支局を仙台に置くことになり、アパートを借りて立ち上げますが、そこにコピーを送って貼っておいてください、何かあった時は見るようにしてくださいとアドバイスしました。そのようなことは些細なことかもしれませんが、阪神・淡路大震災の当時は無防備だったのですが、少しでも役に立てればという思いで、私なりに取り組みました。」
 新聞労連は、東日本大震災発生前に惨事ストレスに取り組んでいた唯一の労働組合ではないでしょうか。

 当時の東日本大震災での新聞労働者の闘いはどうだったでしょうか。
 「石巻日日新聞」 です。
「3月11日の地震のあった14時46分頃、私はこの山の上の裁判所で取材しようとしていて、車から降りた直後に長い横揺れが続き、その後、津波警報が出たので会社に戻りました。自分は警察と消防担当なので上司の指示で情報を集めに向かったんです。……
 それから石巻日日新聞社に再び集まるまでの4日間は、1人きりで取材しました。『とにかく記録しなければ』 という気持ちだけでした。ああいうことは、いつか風化すると思うんです。『それだけはしてはいけない』 という思い1つでした。……
 結局、会社は浸水して建物は生き残ったんですが、電気がないからテレビもパソコンも使えないですし、電気も携帯も通じない、浸水のせいで輪転機も回せない……結局、伝達手段は紙とペンか口頭しかなかったんです。移動手段は自分の足か自転車しかなかったですし。
 実際4日目で初めて出社した時に 『手書きの壁新聞を作って自分たちで貼りに行く』 っていうのを聞いて、ちょっと驚いて 『恥ずかしいなぁ…』 と思ったんです。河北新報や全国紙が新聞を印刷しているなかで、(輪転機が浸水したため印刷できない) うちだけは手書きの壁新聞しか出せないというのが悔しくて悔しくて、恥ずかしくて……今でこそ、世界のニュースや全国的にそれが美談とされてますが、当時は本当に恥ずかしくて、貼りに行くのが嫌だったんです。貼りに行ってもすぐに逃げるように帰ってきました (笑)。とは言っても、我々は地域の人に生かされてきた会社ですからね。地元の新聞と謳っている以上、いざという時にこそ、何かしらのかたちで還元出来ないと 『何のための新聞社だ?』 ってことになると思うんです。よかったのは、壁新聞は文字が大きかったから、夕方になると暗くなる避難所の人は読みやすかったことですかね (笑)……
 本当の意味での復旧…建物、ハードの復旧は出来たとしても、心の復旧にはどれだけの時間がかかるだろう?と思います。僕らは地域の新聞社ですから、地域と一緒にもがいていかなければと思います。」 (小雑誌 『石巻VOICE』 VOL.1)

 石巻日日新聞の編集長から直接話を聞く機会がありました。
 津波がきて電気も止まって新聞発行が出来なくなった時、経営者は 「リスク管理が足りなかった」 と反省し、次の手段を考えたということです。
 戦争中に政府情報局によって統制下に置かれ、新聞統合が行われて 「一県一紙制」 が導入され、発行が中止させられた時も、当時の社長は独自にわら半紙にニュースを印刷して街に貼ったという反骨精神の持ち主でした。人びとが必要とした情報を伝達するのが新聞の役目だと捉えていました。
 その経験がよみがえりました。
 同じ記事を6枚の模造紙にマジックで書き、避難所やコンビニ前6カ所に貼りました。1週間続けました。
 その新聞は後に遠くの避難所からも発見されました。旧い日付のを誰かが持って行って貼ったらしいということです。それくらいみんなが知りたい情報が書いてありました。
 編集長は自宅に帰れません。家族の安否はわかりません。暗い社屋でたばこが唯一のストレス解消の手段だったと言います。
 3月12日の新聞には左上に 「正確な情報で行動を」 と書いてあります。関東大震災の時に人々がデマに惑わされたことが頭に浮かんだからといいます。
 残されている当時の新聞を見ていると、マグニチュードの数字に線が引かれて訂正されています。手作りだから可能なことで 「正確な情報」 です。
 ついでですが、石巻日日新聞は原水爆禁止運動の時も地域の人たちと奮闘します。(14年2月28日の 「活動報告」 参照)
 壁新聞は、終戦直後の広島で中国新聞社も行っています。

 新聞販売店では配達員も犠牲になっています。
 気仙沼市の藤田新聞店は、被災を免れた本店で地域情報紙 『ふれあい交差点』 (B4判2ページ) の 『災害特集号』 を作成し、新聞に折り込んで配達しました。住民の安否や行政・生活・普及支援の情報、伝言板などさまざまな記事を載せ,
号数は500日経って200号を超えていました。
 地元の小さな報道機関も “体力以上” に頑張って使命を果たしていました。

 14年3月10日付の 「毎日新聞」 は 『大震災地元記者 PTSD疑い2割 [発生1年後 120人調査] の見出し記事を載せました。
「質問は21項目 (複数回答)。
 記者自身が体験した状況は、『余震の危険がある場所で取材・報道活動を行った』 が86.7%。東京電力福島第1原発事故に関連し、『放射線による被害が懸念される場所で取材・報道活動を行った』 も35%。30%が 『遺体を見た、あるいは遺体に触れた』、21.7%が 『津波による被害を受ける様子をじかに目撃した』 とし、『普段より過度に体力を消耗した』 との回答が75%だった。
 取材に伴う問題や困難については、75.8%が 『取材対象者に対する接し方に関して悩んだ、あるいは苦労した』。30.8%は 『取材対象者に心理的な負担をかけたり結果的に傷つけたりした』 と感じていた。『被害者に強く感情移入し、取材を続けるのが困難になった』 と回答した人も16.7%いた。『問題や困難はなかった』 は6.7%で、9割以上が葛藤を抱えながら取材していた。
 取材や報道の内容については、40.8%が 『現場にいた人から非難を受けた』 とし、20.8%が 『プライバシー保護のため報道を控えた』 と答えた。一方、56.7%が 『取材対象から感謝された』、41.7%が 『自分の報道が誰かの役にたったことを実感した』 と回答し、やりがいを感じている様子もうかがえる。」
 調査結果はパンフレットになっています。

 11年4月4日付の 「毎日新聞」 に 『直面した 「死」 本質どう伝えるか』 の見出し記事が載りました。
「この現場の本当の姿を伝えるにはどうしたらいいのだろう。一部の週刊誌は遺体そのものを掲載し、新聞にも載せるべきだという議論がある。だが、今の私には分からない。私は最近、津波に襲われる夢を何度も見る。必死に逃げようとするが足が動かず、津波にのみ込まれそうになる場面で目が覚める。新聞の写真を見て読者が悪夢に襲われたらと思ってしまう。……
 人間ってなんだろう。命ってなんだろう。今まで何度も考えてきたはずのことを自問している。多くの理不尽な死に直面し、それでも生活を始めた被災者の姿。私はやはり、見なくてはならないと思う。見て、撮り続けなければと。」
 記者の苦闘が書かれています。多くの記者が同じような思いを抱いたと思います。

 ある新聞社の記者と話をしました。
「阪神淡路大震災の時、避難所に取材に来た記者の方は、被災者を取材することが出来なくてボランティアにだけ取材したんですよ」
「私も同じでした。最初は被災者の方が話しているのを近くに行って聞くだけでした。直接話を聞くことは大変な目に合われていると思うとできませんでした。何度か行くうちに被災者の方の方から話かけてくれました」
「実は、一緒に行った若いボランチィアもそうでした。一生懸命働きますが被災者とは話ができません。年寄りの出番でした。話を聞くだけで喜んでもらいました」


 東日本大震災における福島民友新聞の闘いが本 『記者たちは海に向かった 津波と放射能と福島民友新聞』 (門田隆将著 KADOKAWA) になっています。福島浜通りの支局の記者たちの姿を抜粋して紹介します。
 震災の数日前、支局の記者たちは 「俺たちは津波そのものを撮るんじゃない。津波対策をする人たちの姿をカメラに納めればいいのだ。」 と確認します。
 震災当日、取材中に津波から避難する住民を誘導して熊田記者が死亡します。誘導された住民は助かりました。4月2日に遺体は発見されます。
 13年、福島民友新聞社は最期まで仕事と向き合った熊田という人間を忘れないために、「熊田賞」 を設けました。
 
 同僚の記者は、車の中で津波に遭遇した時、必死に走ってくる老人に気がつきました。腕には孫らしい小さな子どもを抱き、その後ろをおばあさんが走っていました。反射的にカメラに手を伸ばしました。この時、濁流のなかから車が飛び出してきておばあさんを助けます。記者は車を切り返した時、バックミラーに老人が波に呑まれる瞬間が映りました。
 記者の苦闘が始まります。なぜカメラに手を伸ばさないで助けようとしなかったのか。記者である前に人間ではないのか。
「なぜあの時、あの人を助けられなかったのだろう。自分が死ぬのがそんなに怖かったのか。自分の命を惜しんだおまえは、えらそうに新聞記者をつづけられるのか。
 そんな自問自答を繰り返してきた。
 あの日、目の前に子供を抱いたおじいちゃんが逃げてきた時、たとえ自分が 『死んだ』 としても、助けるべきではなかったのか。
 あの時、津波の写真を撮ろうと海に向かっていた自分は、目の前の光景に一瞬、カメラに手を伸ばしてしまった。そのために、助けるタイミングを逸したのではなかったか。おまえが 『新聞記者だったこと』 が、あの人たちを助けられなかったんだ。いや助けられなかったにしても、なぜ、自分の命を 『もしかしたら、助けられるかもしれない』 という方に賭けなかったんだ。」
 3年過ぎてもテレビで津波の映像が流れると涙が止まらなくなるといいます。新聞記者を辞めようと思うことの繰り返しです。自分自身が許せないからです。
 この心情 (「生存者抑うつ」) からどうしたら脱出できるのでしょうか。

 もう1人の記者は毎日新聞社の記者が同じ場所にいて毎日新聞の記者の動きを見ていました。海の近くまで行って危なくなって逃げてきた毎日新聞の記者はシャッターを切りながら足の震えが止まりませんでした。
「(顔が) 真っ青というか、普通じゃない感じでした。……非常に不安定な落ち着きのない顔だった」
 のちに毎日新聞社の記者は、自分自身震災後は虚脱感、あるいは一種の情緒不安定に陥っていたのではないかとで思うと語っています。
 毎日新聞の記者は熊田記者とも交流がありました。
 熊田記者の遺体が発見され、告別式が終わって震災から1か月経った時、母親からメールが届きます。「生きていてくれてありがとう」
 メールを読んだ後、(熊田ごめん) と慟哭します。熊田記者のお母さんに思いをはせます。自分が生きていることが無性に申し訳なかったといいます。自分が生きていることに違和感を覚えることもあるといいます。

 相馬支局に原発事故で避難命令が出されます。しかし記者は 「いま俺が相馬から撤退したら、相馬の読者は民友を見放すぞ。俺はにげない」 と拒否します。
 支社長が 「会社の命令」 と通告して本社に引き上げさせることにします。
 浪江町の新聞販売店の話です。販売店に新聞が届くのはだいたい午前3時頃。しかし配達員は避難所からいつもより早く姿を見せたといいます。そして避難所にも配りました。配り終わると原発事故で避難指示がだされました。
 地域の人たちはしばらく経って一時帰宅が許された時に自宅で3月12日の朝刊を目にしました。

 報道とは何でしょうか。
 11年4月末から5月にかけて、朝日新聞社は震災報道写真展を開催、12年3月にも開催しました。そこに11年の写真展での感想文が掲示されていました。(12年7月3日の 『活動報告』 参照)
「震災直後に気仙沼に入りました東京の消防官です。
 帰りましてから震災の写真を見ることが出来ませんでした。
 本日は後世・将来へ申しつぐべき写真の数々を拝見させていただき、現地の残土の中から出された方々ひとりひとりが思い出され、涙が止まりませんでした。ただ『やすらかに』との思いでいっぱいです。
報道の真価を理解している者 (つもり) としてあの状況で人々を救出したくても将来の為の取材をつづけた報道の方々に敬意を表させていただきます。
                   東京・板橋 男 (44歳)」

 ドキュメンタリー映画 『生き抜く 南三陸町 人々の1年』 (JNN系列作成) にはナレーションがありません。スタッフたちは 「記録とは冷徹な傍観者の営みではなく、記録とは寄り添い続けること」 と体感していったとパンフレットに書いています。(12年10月26日の 「活動報告」 参照)
 では寄り添うとはどういうことを言うのでしょうか。
 JNN系列製作の別のドキュメンタリーのシーンです。
 集落でお祝い事をすることになったので主催者は記者にも声をかけます。記者は出席しますが酒は飲もうとしません。主催者が記者を建物の外に呼び出します。「めでたいことをお前にも祝ってほしいから声をかけたんだ。被災していたって、めでたい時に酒を飲むくらいの金はあるぞ。おれたちの酒を受けられないのなら二度と来るな。仲間ではない」
 寄り添うとは、そこの人たちと喜怒哀楽を共有することです。

 もう一度 『本』 からです。
「『津波てんでんこ』 とは、津波が来たら他人のことは考えないで別々に逃げろという “教え” です。もう一つ 『津波残り』 の言葉があります。津波に襲われて自分だけ残ったという忸怩たる思いを言います。
 『津波てんでんこ』 はまず自分が助かるということですが、その方が助かる者が多くなるということの体験からきているものです。しかしもっと深い意味が含まれているのではないでしょうか。死者等に対して “助けられなかった” という 『津波残り』 の思いを抱かせることから解放させるためのものではないでしょうか。そして助かった命を大切にしていかなければならないということです。」
 そうだとしたら、すばらしい惨事ストレス対策です。


 熊田記者の同僚記者の 「心のケア」 はどうしたらいいでしょうか。
 カメラに手をかけたのは 「記者魂」 のあらわれです。使命感を持っていたからです。褒められることです。
 生き残ったから悔やむのです。死んだら悔やむことも他者を弔うこともできません。逃げたことは、自分を大切にしたということです。
 生き残ったから、今後、体験を活かして被災者に寄り添った、被災者から 「ありがとう」 と言われるような記事を熊田記者に代って書くことはできます。そのような記事で、できたら被災地の復興記事で 「熊田賞」 を受賞できるよう仕事を続けるこができます。そして受賞したら、熊田記者からの 「俺の分も頑張ってくれてありがとう」 「ご苦労さま」 と言われたことになります。
 しかし浪江町、大熊町には入ることができません。
 生き残ったことの使命を確認し、「生きていてよかった」 と実感できようになること、それが熊田記者を 「忘れないこと」 ことです。


 自然災害は防ぐことはできないけど日常的対策で小さくすることはできます。
「災害から被害をより小さくするためには平常時の体制のゆとりが必要です。
 しかし東日本大震災は行政改革攻撃による “小さな政府” が進んだ後に発生しました。支援の職員を派遣する全国の自治体にもゆとりがありません。そのなかで地元の職員も派遣職員も奮闘を続けています。
 1年半が過ぎた頃から今日まで、支援活動に従事していた自治体労働者の中から3人の職員が自ら命を断ってしまいました。いずれも自殺に至ったのは土・日曜日またはお正月です。派遣されていた2人は赴任からしばらく経って、期間が予定の半分に至る前です。多忙ななかでもふと一息入れて自己を取り戻した時、先が見えない業務量と自責の念で展望を失ってしまったのでしょうか。
 これ以上の犠牲者を出させないための対策が急がれます。」
 多忙の中で一息入れたとき自殺に向いました。「二息」、「三息」 つけるゆとりある体制が必要です。周囲に疲れたといえる人間関係を作っておく必要があります。

 「頑張ることは、苦しみじゃない。ヒトだけに与えられた 祝福なんだ。」 (2008年6月の岩手・宮城内陸地震をテーマにした熊谷達也の小説 『光降る丘』 角川書店 2012 の帯のコピー) (13年11月6日の 「活動報告」 参照) と言えるような社会をみんなでつくっていきましょう。
 「しあわせ運べるように」

   関連:「活動報告」 2014.9.17
   関連:「活動報告」 2014.2.28 
   関連:「活動報告」 2013.11.6
   関連:「活動報告」 2012.12.7
   関連:「活動報告」 2012.10.26
   関連:「活動報告」 2012.7.3
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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「哀と 愛と 逢と・・・」
2015/03/17(Tue)
 3月17日 (火)

 3月8日、神戸市で 『惨事ストレス “救援者の心のケア”』 (緑風出版) の出版記念を兼ねた講演会が開催され話をしました。
 内容を大幅にはしょりながら報告します。


 東日本大震災で惨事ストレスについて改めて問題になりましたが、救援者、支援者、ボランティアは活動中や任務終了後しばらく経ってからも、誰でも罹患する危険性があります。
 メンタルヘルスの問題というと医者等の専門家にしか対応ができないといわれることがありますがそうではありません。まず、日常的に近くにいる者にとっては、当事者の変化に早期に気づいて対応していくことが必要です。そのためには平時においても “心がまえ” が必要です。ストレスに強い人間作りではなく、ストレスを和らげる、同僚・仲間と協力して小さくする関係・環境作りをすすめということです。それは職場の労働安全衛生の取り組みや、いじめなどで精神的に追い込まれた仲間への対応にも役立ちます。


 はじめに、阪神淡路大震災での被災者と支援者の闘いと成果を、沢山あるなかからいくつかを確認します。
 1つは住宅問題です。
 阪神淡路大震災発生直後によく言われたのは、住居は私有財産、国や行政は保証しなということです。「衣食住は自己責任」 を強制、生活基盤の保障や支援をしようとしませんでした。家屋が半壊の被災者を避難所から追い出そうとしました。自力で何とかできる富者と自力では絶対不可能な貧者を “平等に” 切り捨てました。確かに住居は私有財産です。しかし非常事態に遭遇した人々から生存権を奪うような対応をするのなら、一体、国って何なのだろうかと思ってしまいます。
 被災者は何度も支援を訴えながら東海道を行進し、国会や政府に支援請願を繰り返しました。作家の小田実さんたちが 「被災者生活再建支援法案」 を作成、成立に向けて奮闘しました。思いは 「被災者が苦しむのは阪神淡路大震災を最後にしよう」 でした。
 そして98年5月に成立させました。その後、各地の災害、東日本大震災でも生活再建支援を受けられるようになりました。東日本大震災においても忘れてはいけないことです。
 生存権、“当たり前のこと” を獲得するのは日本では本当に困難が伴います。

 2つ目は、雇用保険です。
 震災で経営が難しくなった会社は労働者を一方的に解雇してきました。
 社会保険に加入していなかった会社の労働者は何の補償もないままで放り出されました。
 「被災者ユニオン」 は加入していなかったのは会社の責任と主張し、ハローワークに加入していなくても6か月遡って加入していたことにして雇用保険を給付するよう要請し、実現させました。この取り扱いはその後も続いています。
 『大震災 神戸新聞報道記録1995-99 問われずにいられない』 (神戸新聞社編) の 「第2部 働く場所は今」 はこの問題を含めて労働者の問題を取り上げています。
 東日本大震災においては、その部分を抜粋してパンフレットが作成され被災地のユニオンに配布されました。(本当は著作権の問題があるのでしょうが)
 雇用保険を未加入の場合に遡って適用するのは阪神淡路大震災の時の闘いの成果であることを忘れてはいけません。

 3つ目は、あしなが育英会・あしながおじさんの活動です。
 交通事故で親を亡くした子どもたちの支援を続けてきましたが、阪神淡路大震災の時から震災で親を亡くした子供たちの支援に取り組んでいます。(14年1月21日の 「活動報告」 参照)
 神戸にレインボーハウス (虹の家) を建設しました。気軽に利用できるように設計されましたが、その中に、1人きりで大声を出せる部屋を作りました。自分たちの体験からくるものです。
 その後、過労死で親を亡くした子供たちの支援に取り組んできました。東日本大震災では0歳から大学院生まで特別一時金を支給。子どもたちの心のケアだけでなく保護者への心の支援もおこなっています。レインボーハウスは東日本大震災では2か所に完成しました。
 あしなが育英会の活動は今後も長期に必要です。カンパは誰でも、どこにいてもできる支援です。

 4つ目は、心のケアです。
 1985年8月の日航機墜落事故の時はまったく問題になりませんでした。
 救援活動に従事した自衛隊員の中には、その時のことを思い出して肉料理が食べられなくなった者もたくさんいたと聞きます。
 1991年6月に発生した長崎県雲仙・普賢岳の噴火災害では5.600人が仮設住宅に移りました。住民に精神的体調不良者が現れ、3人が自殺に至りました。この時の状況を、対策にあたった保健士たちが報告書を作成しています。
 阪神淡路大震災までは、「心のケア」 は集団に対する慰問、娯楽などをさしました。
 1994年1月、ロスアンゼルス大地震の時、ボランティアグループ全米被害者救援機構が活躍しました。非専門家です。
阪神淡路大震災の後の1月28日から大阪YMCA 「こころのケアネットワーク」 のボランティアが被災地に入りました。ピンクのスカーフに「こころのケアネットワーク」 のワッペンをつけていました。「こころのボランティア」 と呼ばれました。(11年1月14日の 「活動報告」 参照)
 阪神淡路大震災から 「心のケア」 は被災者個人に対するものになりました。
 しかし救援者・支援者への心のケアの問題はなかなか取り上げられません。それでも3月にボランティアが帰る時、区役所で 「帰ってから気を付けること」 のチラシが渡されました。「惨事ストレス」 の注意です。

 5つ目は、「ボランチィア元年」 と呼ばれたような共生の精神が生まれたことです。
 お互いの助け合いの精神が育まれました。
 福井県にある丸岡文化財団が毎年募集する 「日本一短い手紙」 の1995年のテーマは 「愛」 でした。阪神からは応募が5首あり、神戸新聞の旧社屋に垂れ幕で紹介されました。
 その中の1首です。
  『地震さん 愛を忘れかけていたおろかな私たちを もう叱らないで』
 その後ボランティアはあちこちで活躍しています。経験も共有されています。

 6つ目は、心のケアの対応は時間の流れとともに変わるということを体験から情報提供しています。
 兵庫県は震災後10年間、『阪神・淡路大震災復興誌』 を刊行しました。その中の学校の状態、児童・生徒の心理状況はどうだったのか、教職員はどう対応したかの報告から見てみます。(13年11月19日の 「活動報告」 参照)
 10年目の状況です。
「しかし、被災から10年たっても児童・生徒が負った心の傷は今も残されている。大震災からの振興が広い分野で進んだ中で、いまだに解決、解消の道が遠い課題でもある。大震災から学んだ教訓だ。
 兵庫県教委は、被災直後の1996年から、震災による教育的配慮を必要とする児童・生徒数の調査を続けている。1998年度の4,106人をピークに、1997年度から3年間は4,000人の大台を超え、2000年度から減少傾向となった。要因別に見ると、被災から5年を境に、事情が変わってくる。前期は 『震災の恐怖によるストレス、住宅環境の変化、通学状況の変化』 などが主な要因。後半は 『家族・友人関係の変化』 や 『経済環境の変化』 などが漸増傾向を見せるようになる。これを県教委は 『二次的要因』 と位置づけている。
 要因はどうあれ、要配慮児童・生徒は、10年後の2004年度1,337人、2005年度808人にのぼる。県教委をはじめとして教育現場では、初体験の 『心のケア』 に取り組んできた。その成果が要配慮児童・生徒数の減少である。その中心的役割を果たしたとして評価されるのが 『教育復興担当教員』。略称 『復興担』 は被災後、国の教員加配措置で配置され、『心のケア』 と 『防災教育の推進』 に努めた。」
「要配慮児童・生徒の2004年度要因 (複数回答) は 『住宅環境の変化』 が43.5% (前年40.1% 、前々年40.0%)。『経済環境の変化』 が37.1% (34.7%、33.1%)。『家族・友人関係の変化』 が36.9% (39.0%、41.0%)。『震災の恐怖によるストレス』 が29.9% (35.3%、36.8%) で、これら4項目が要因の大半を占める。4項目以外では 『学校環境の変化』 4.9% (6.9%、8.6%)、『通学状況の変化』 4.3% (4.7%、5.5%) など。
 トップの 『住宅環境の変化』 は前年と変わらないが、『経済環境の変化』 が2位 (前年4位、前々年4位) につけた。『家族・友人関係の変化』 は3位 (前年2位、前々年1位)。「震災の恐怖によるストレス」 は4位 (前年3位、前々年3位)。要因別順位は2位以下にかなりの変動が見られた。『震災の恐怖』 が大きくポイントを下げたのに対し、『経済環境』 は毎年ポイントを上げ、最近の二次的要因の特徴を2004年度も見せた。」

 別の資料です。
 阪神淡路大震災から2年2ヶ月に、時兵庫県精神保健協会 こころのケアセンターは教職員のメンタルヘルス調査をおこないました。その結果は、震災後2年余を経過した時点においてなお、個人的な被災状況が過酷だった、震災後過酷な業務に従事した者ほど精神健康が低下していて、女性は男性に比べて強いストレスをこうむっていました。被災地に勤務する者の10~20%でPTSDが強く疑われました。
 地震の被害をこうむった者はその後も過酷な生活状況の中で、いわばドミノ倒し式に次々と新しいストレス状況に見舞われていく傾向がありました。被災地に勤務する教職員は、勤務先が避難所となったかどうかにかかわらず強い心理的影響を受けていた。
 教訓として 「教職員たちが本来の学校教育以外の責任や業務を担うことは最小限にとどめるべきであろう。教職員にしかできない被災者のためにではなく、教職員自身と子どもの精神健康の維持のために援助というものがある。」
 そうしないと災害後の教職員の “燃え尽き症候” の危険性が出てきます。

 東日本大震災3か月後に宮城県教職員組合は阪神淡路大震災を西宮市で体験した教員を招いて、沿岸部の3カ所で講座を開きました。貴重な体験談が語られました。
「甚大な被災地と比べてうちはたいしたことないからもっとがんばらないとという気持ちを持ってしまった」、子どもの荒れ・不登校や教職員の 『うつ』 が震災後3年目にピークを迎えたなどの体験談が話されました。そして行政への加配要求などが大切、「先生たち 交代で休もう」 と提案されました。

 神戸新聞は昨年末から阪神淡路大震災の特集を組みました。
 12月1日付の新聞に、阪神淡路大震災の時、神戸市灘区に住んでいて大阪の小学校に勤務していた元教員の話が載っていました。家族は無事でしたが自宅は全焼。日常と思い出を奪われた喪失感は大きかったが、「大勢の犠牲者が出た中、家が燃えただけで大した被害じゃない」 と自分に言い聞かせ、がむしゃらに働いてきました。
 震災10年目、心は悲鳴を上げ、不眠症に。病院で 「燃え尽き症候群」 と診断され、約3カ月間休職。その後も再発し、退職することになってしまいました。
 頑張りすぎることが結果として長期に活躍できなくなってしまいました。

 徳島県教育委員会作成パンフレット 『こどもが 安心できる 毎日のために』 に惨事ストレスについても載っています。
「休憩をとることは決して 『自分勝手』 なことではありません。災害後の子どもへの支援は長期にわたります。短期集中でエネルギーを放出し、枯渇してしまわないようにしてください。
 また、教職員が休むことは、『先生も自分と同じ』 と子どもが安心するきっかけとなることもあります。大規模災害で全く休める状態ではないと思える場合は、学外者や支援の対象者がいない、教職員のための休憩スペースなどを準備するといいでしょう。また外部からの支援者が校内にいる場合は、遠慮なく連携し、一人で抱え込まないようにしましょう。」

 それぞれ置かれた状況が違います。時間の経過とともに事態が変化が生じてきます。このことは東日本大震災の今後の課題としおさえておく必要があります。


 救援活動・支援活動に従事していたものたちへの “心のケア” は専門家だけができるわけではありません。
 その具体例を紹介します。
 阪神淡路大震災から1年過ぎて、阪神大震災を記録しつづける会編 『阪神大震災 もう1年 まだ1年』 (神戸新聞総合出版センター) が刊行されました。その中の 「自信と誇りを」 からの抜粋です。救援者を間近かで見ていての教訓が語られています。(15年2月12日の 「活動報告」 参照)
「心のケアというものは、私達にはできないものなのか。夜間パトロールで街を歩いている時、『ありがとう』 『頑張ってね』 のそんな一言が、どれだけ多くの警察官を救ったことだろうか。
 避難所のボランティアの方が言っていた。『感謝してほしいと思ったことは一度もないが、感謝してくださると元気が出ます』 と。街に出て、3歳の息子が県外からの応援のゴミ収集車に足を止めて手を振った。笑って手を振りかえしてくれたあの人に、私達の気持ちが伝わっただろうか。」
 阪神淡路大震災の時、三ノ宮から大阪に電車で向かう途中の森公園に 「愛をありがとう」 の横断幕が掲げられていました。これだけで心のケアです。

 東日本大震災の後の宮城県石巻市・門脇小学校の隣の空地にベニヤ板1枚に 「全国の みなさんに 感謝」 と大書きされた看板が立っていました。
 落書きされていました。「全国の」 左側に 「❤心から」、右側に 「&世界中の」、「感謝」 の上に 「(足跡マーク) 一歩 一歩 又一歩 (足跡マーク) 前へ!!」、「感謝」 の下に 「ありがとう!!」 と。
 救援者・支援者がこれを目にいた時心のケアになったと思います。
 看板が撤去されましたがその跡に、「祈りの杜」 の公園が作られました。公園名を刻んだ石にの下に
    「哀と
      愛と
       逢と・・・」
とあります。

 昨年12月24日付の 『神戸新聞』 の 「惨事ストレス ねぎらいこそ最大のケア」 の見出し記事が載りました。消防士の惨事ストレスについて、兵庫県ころのケアセンター長の加藤寛精神科医は救助側へ接し方として 「忘れていけないのは、組織の内外からのねぎい。それが大きなケアにる」 と呼びかけています。
                                      (つづく)

   関連:「活動報告」 2015.2.12
   関連:「活動報告」 2014.1.21
   関連:「活動報告」 2013.11.19 
   関連:「活動報告」 2011.1.14
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