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震災当日、メーデーのプラカードを燃やして暖をとった
2014/12/05(Fri)
 12月5日 (金)

 11月25日、7月11日の 「活動報告」 で紹介した本 『紙つなげ! 彼らが紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』 の著者佐々涼子さんの講演会がありました。主催は出版元の早川書房です。6月に出版されましたが9月までで75.000部売れたといいます。
 
 第一部は4人によるパネルディスカッション 「紙つなげ! われらは 『紙』 の本を愛している」 で、ノンフィクション作家や書店関係者が出席しました。
 その中の1人は石巻市の北上川の近くにある金港堂書店石巻支店長です。地震の直後に津波警報が出されました。支店長は社員に 「閉店して避難しろ」 「ここは危ないから逃げろ」 と指示を出します。
 後日戻ってみると浸水は書棚からは落下した本を膨らませていました。片付けをして4月末に短時間でも仮オープンにこぎつけることができました。知らせを聞いていた客が開店前から店頭に並んでいました。人びとは紙に飢えていました。自分たちの仕事を再確認させられたといいます。
 紀伊国屋新宿支店の店長の報告です。石巻工場の操業が止まると各出版社は新刊を減らさざるを得ませんでした。『紙つなげ!』 が出版された時は本が出せるようになった、自分たちの本が出たという思いだったと実感したといいます。しかしいざ 『紙つなげ!』 を店頭に並べる時は、震災の被害を売り物にして儲けようとしているのではという思いに駆られ宣伝を控えたといいます。

 本のタイトルは著者が出版元の社員と案を練っている中で出されたフレーズだそうです。「紙つなげ!」 は、原料が加工されて200メートルもある大型機械を通ってロールに巻かれます。それを 「紙繋ぎ」 というのだそうです。ベストセラーになり、大量に必要になった場合も同じ質の紙でなければなりません。工場はその保障までします。
 カバーの上段は、再生した工場の大型機械の前に労働者が仕事姿で並んでいます。帯には 「この工場が死んだら日本の出版は終わる……」 とあります。このフレーズは少しずれがあるようです。工場の労働者が 「本の出版が続く限り俺たちは紙を造りつづける」 と言ったことがそう受け止められたのだといいます。
 通常は本の紙のことまで気に止めません。その多くが東北の被災地で作られていたということは、その業界の人たち以外は知りませんでした。

 石巻工場のドキュメントをドラマ化したのがテレビ 「ガイヤの夜明け」 で流されました。1月11日に再放送があります。


 日本製紙石巻工場の西側の近くにヤマニシ造船所があります。事業規模は、この地域では日本製紙につぐ企業です。やはり大きな被害がでました。

 11月22日、全造船関東地協2014年定期総会が開催されました。
 総会後の記念講演は、ヤマニシ分会の秋山委員長による震災後の分会の取り組みと現状についてでした。講演内容をかいつまんで紹介します。

 震災当日は、ヤマニシでは協力会社を含めて従業員は400人から500人が働いていました。従業員は地震が起きた後、2通りの避難をしました。1つは、地震直後に車で避難しました。あとは、大津波は来ないだろうという判断で会社に残っていました。
 私の業務は施設担当で電気やガスの保全をしていました。地震が起きた時は、すぐに受電室に行って電源を切りました。その前に停電になっていました。ガスはガス漏れが起きるだろうと判断して止めさせました。

 津波が押し寄せたのは地震発生から1時間後です。防波堤を超えてからは1分以内に4メートルの高さで押し寄せました。
 残っていた社員は、2階建の船員の休憩室に逃げました。そこには布団や毛布などもありましたが膝まで水がきたので全部濡れてしまいました。そこで1晩中すごし寒い思いをしました。
 私は近くの倉庫の4メートルの高さの2階にいましたが正解でした。倉庫の1階は空ですので物が流れてきても通過するだけでした。津波が来た時は全員でさらに1メートル高い天井クレーンのレールの上に避難しました。私は梁に安全帯をかけて流されないようにしました。
 津波は1時間後に引きましたが、その後も何回か引いては押し寄せることを繰り返しました。

 夕方、寒くなってきます。火を焚こうということで船の工具箱の中身を出しましたが燃やすものがありません。ふと思い出したのがメーデーのプラカードです。クレーンなどに逃げた者はグリスを燃やして鼻が真っ黒になりながら震えていたと聞きました。
 真っ暗になった状況で、夜中に倉庫の2階に古いトランジスタラジオがありましたので修理して聴きました。
 津波が押し寄せるのが音でわかります。見張りをつけ、大変な時には起こすことを打ち合わせて眠りました。業者の1人が、水が引いたからと真夜中に帰っていきました。次の日に会社のフェンスに張り付いた遺体で見つかりました。

 翌朝5時に全員集合して構内にいた社員の安否確認をしてからみんなで帰宅しました。
 夜中に帰らなくて正解だったと思ったのは、道路の陥没がありましたが予期できませんでした。 橋も陥没していました。道路に家屋や車などが押し寄せられてきています。それらを乗り越えて帰りました。遺体も見ました。
 家が1件残っていました。そこから 「助けて」 という声が聞こえたのですがみんなで無視しました。自分の身は自分で守るということです。助けに行くまでの道がどうなっているのかわからないからです。
 家に帰ると最初に冷蔵庫を開けました。悪くなる順序で調理しましたので最初の日は焼き肉です。灯りは懐中電灯です。

 会社の被害は、本社工場、営業、総務、設計などがいる本社事務所、現場事務所、生産設備に関しては全滅です。さいわいにも各クレーンが脱輪程度で済んでいました。
 当時、新造船の1隻が引き渡し3日前でした。しかし流出しました。進水1週間前の船が滑走しました。ブロックを作っている最中の船が鉄板ごとめちゃくちゃになりました。一隻だけが沖に出ていて助かりました。ドックにも船がいましたが沈没してしまいました。

 組合員はどうだったかについてです。
 組合員の被災状況は、自宅の全壊・津波による流出が48名、大規模半壊が29名、一部破損が12名、合計89名でした。当時組合員は152名いましたので半数以上が被災していました。
 避難所があちこちに作られました。私は、分会員を探すにも人が多すぎますがとりあえず回りました。組合員の住居は3町4市にまたがっていましたので全員の把握はできませんでした。
 電気が止まったままです。私のところは2週間後につきました。
 避難所にいた人は、水を持っていったのですがそれを飲めなかったといいます。みんな飲んでいなかったからです。避難所によってはダンボールで仕切りますがプライバシーの問題などは自宅と違います。
 
 携帯電話が通じるようになった頃に、分会三役で今後の方針を協議し、まず第一に組合員と家族の安否確認を優先しました。会社が倒産するのではないかという最悪の事態を想定して直ちに分会機能を回復させました。資金の問題もありますので労働金庫に分会資産の問い合わせをしましたが労金も被災していました。全労済に被災している組合員の補償がどうなっているかを確認しました。
 
 後日、会社から再建を目指すという連絡がきました。しかしその連絡を組合員にできたのは4月になってからです。
 未払いになっていた3月分の賃金が、当面の生活費として一律10万円支給されました。なぜ全額でないのかと質問したら、データーは会社のサーバーに入っているが復帰していないので支給できないということでした。
 その当時、会社は内陸部に仮事務所を借りていました。その一角を組合に貸してくれと要請し、分会事務所にしました。ただ組合員はそこに来ません。組合事務所があるということもわかりませんでした。管理職を通じて全員に知らせてもしました。
 3月分の賃金の支払いの時、組合員名簿も流出していたので、会社に協力してもらって名簿を作成しました。集約できたのは4月中旬くらいでした。
 東部地本の佐藤委員長から何でもいいから物資を送るという連絡がありました。

 1か月後の4月11日に本部書記長が現地を訪れてヤマニシ、鈴木両分会の被害状況を把握し、両分会と合同で対策会議を開催しました。鈴木造船は会社の被害状況としては全員休業でしたので休業中の補償、労災、諸手当の協議をしました。当時は雇用調整金を知らなかったのですが、本当は倒産してもおかしくないくらい状況が悪かったということで支払われました。
 全造船本部を通じて義援金をいただきましたので分会規約の慶弔規定にあわせて支給しました。鈴木造船分会には規定がなかったのでヤマニシ分会にあわせました。物資販売も協力してもらいました。
 4月15日に新入社員の入社式をしました。会社は再建アピールをしました。新入社員は組合員と面識がないので素通りましたが呼びかけて支援物資を渡しました。
 
 当時、7隻の新造船の受注があったのですがそのうちの5隻はキャンセルされました。残りの2隻をどうするかとなった時に、静岡市のカナサシ重工で2隻を建造することで業務提携をしました。鋼材はヤマニシから被災した鉄板を持っていって、塩抜きをしました。同時に組合員が出向しました。
 ヤマニシでも修繕船の仕事をしていくらかでも利益を上げようということで細々と一部再開しました。


 8月中旬に、会社に団体交渉を申し入れました。会社の回答は金融機関と調整しているからもうちょっと待ってくれの繰り返しです。分会としてもしようがないと判断し、開催したのは12月です。当時執行部が心配していたのが合理化の問題です。会社は利益がないなかで操業しているので資金的に苦しい状況にあります。国からの助成金も若干はありましたが支出が大きいので焼け石に水です。
 
 会社は合理化はしないと言ったのですが、12年2月9日に本部から、NHKのニュースでヤマニシが企業再生支援機構の支援をうけることを決定した報道があったと連絡を受けました。誰も知りませんでした。
 その1週間後に会社から話がありました。生産体制と再建計画の提示がありました。
 支援政策の概要は、それまでは4.5隻の船を造っていましたが、震災前に比べて抜本的な船舶建造能力の縮小をはかる、当面、年間2隻の受注・建造を選定し収益の確保に向けて安定した生産体制を作る、2012年9月までに全工場を復旧させるが新造船部門だけという内容です。
 機構は新造船か、修繕かのどちらかの選択を迫りました。新造船の方が雇用はあります。そこで会社は新造船を選びました。2013年3月に復興船の出航を目指しました。
 建造能力の縮小に伴う人員削減をはかるという提案がありました。当時202名の従業員がいました。組合員は151名でした。それを4分の1減らすということでした。当時の執行部は闘争の経験がありません。どうしたらいいかわかりません。全造船中央の指示を仰いで闘争しました。
 金融支援策は、震災以後の不良債権82億円中79億円をチャラにするということです。リースは2億円ありましたがそれも全面放棄です。そういう条件で地元の銀行から支援を受けました。

 この時の闘争が一番きつかったです。
 実際はそれだけでなく基本給の引き下げ、労働時間の延長、時間外の割増賃金の引き下げなどの労働条件の切り下げと希望退職で54名の人員削減の提案がありました。
 会社としては、機構が提案した条件を受け入れなければ倒産、支援を受けるに際しては労働条件の切り下げが条件だと説明しました。そのどちらを選びますかと聞かれた時、組合としては労働条件の切り下げを選びました。

 2月21日から3月にかけて石巻にいる組合員と組合員でない新入社員を参加させたブロック集会を開催し発言させました。なぜかというと非組の社員は会社からの通告だけになってしまうからです。
 カナセキ重工に10数名の出向者がいるので、私と書記長が行ってブロック集会を開催しました。その途中の新幹線で委員長が 「酒飲もうか」 と言い出しました。出向者から何を言われるか怖いといいます。カナセキでがむしゃらに稼がされていることへの反発や苦情が会社ではなくて組合にくることが予想されます。「酒飲まないとやってられない」 ということでした。
 しかし出向者は紳士的で正直な話をしてくれました。その時、カナサキ重工労組は産別は違ってJYMAに加盟していますが委員長といろいろな話をし、よろしくとお願いしますと言って交流をはかりました。

 会社は再建支援機構に支援を受けるかどうかの回答をしなければなりません。
 会社は、3月26日の回答期限の前日に全従業員を集めて説明会を開催しました。会社は約1か月間、管理職に対しても何の説明もしていませんでした。
 組合はその後に全体集会を開催しました。今までの経過報告をしてから臨時大会に切り替えて合理化案に合意して欲しいと提案しました。合意しなかったら会社が倒産すると説明しました。何名かの反対がありました。本部の書記長も同席していて、もし否決されたら本部書記長が再提案して可決をお願いすると発言しました。
 非組の従業員が組合は何をしたいのか確認したいと発言しました。組合の言うことは責任あると思いました。
 組合提案は可決され、執行部一任を取り付けました。

 組合は団体交渉で希望退職の圧縮、退職金の増額、再就職のあっせんを要求しましたが、会社は機構と条件は決定しているのでできないと回答しました。一次募集を行ってあと何名という時に、定年退職者も出てくるので中止したらどうかとも提案したのですが、目先の人数をクリアしなければ支援がないということです。6回、7回と面談させられた組合員もいました。組合員の中には、こんな辞めさせられ方は嫌だ、困るという人もいました。
 希望退職を選択したのは20代前半と50代です。あと60歳の再雇用者です。
 退職する時に組合に組合バッチを返しにきた人がいました。古くからの組合員は組合を辞める時には返却するということを覚えていました。設計担当の社員が退職希望に応じました。普通は退職を決めたら有給休暇を消化したりして再就職先を探すのですが、その人は退職日まで仕事をきちんとこなしていました。そのような場面を見て悲しくなってきました。
 退職のあいさつに来た組合員に私と書記長は、ご協力ありがとうございましたと言って深々と頭を下げました。感謝の気持ちでいっぱいでした。

 その後、会社は新造船に向けて復旧工事を行いました。

 11月、機構が東日本大震災事業者支援再生機構に変更になったという話を会社から聞きました。前の機構を引き継ぐということです。ヤマニシはもともと1億円の資本金だったのですが41億円に増えました。それと同時に役員が他から取締役、銀行から監査役の役員もきました。さらに外から役員が入りがんじがらめになりました。

 震災前の社員は202名から148名、組合員は151名が88名になりました。支援を決定してから組合員は30名以上辞めています。一時金が大きかったのですがそれもカットされて生活ができないという理由です。被災地は土木の仕事もあるので退職していきます。ただ今年の6月から賃金カットの5%が回復しました。
 震災後これまで新造船で3隻引き渡しを行ないました。

 これまでのご支援に感謝するとともに、今後も支援をよろしくお願いします。

    関連:「活動報告」 2014.7.11
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