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第一次大戦から100年
2014/12/02(Tue)
 12月2日 (火)

 12月に入りました。
 今年は、1914年に第一次大戦が始まってから100年が経ちます。いつかそのテーマに触れようと思っていたのですがチャンスがありませんでした。100年前と現在を比較して検討してみます。


 産業革命以降の生産技術の進歩は、人間の労働形態を分業という形に変化させ、適材適所の考え方を生み、生産における人的要員の活用という問題が重要視されていきます。
 労働が人間に及ぼす影響の研究は、医学、生理学の分野につづき、1910年代に産業心理学として発展していきます。そこでは労働現場での基本的能力、個人差、適性、学習、訓練と単調、注意、疲労などの問題が追及されました。

 1914年、第一次世界大戦がはじまります。欧米列強は長期化すると予想をしていなかったため、軍隊の戦闘性だけでなく、軍の近代化と社会的基盤の拡大・強化、それへの国民的動員にせまられます。軍事力、生産力の増強のため産業心理学の実践がおこなわれました。
「アメリカでは兵員選抜のための軍隊知能検査、兵員の適性配置や訓練法、将校や兵員の評定法、戦争神経症対策としての情緒不安定性テストの開発と実践的応用の研究が推進された。
 イギリスでは、軍需労働者保険委員会が中心になって工場労働の能率、事故、疾病などにたいする対策をめぐり、労働時間、作業環境、婦人や年少者の雇用などの労働科学的研究が広範囲に展開された。
ドイツにおいても、将校の選抜診断法、特科兵員の適性検査や訓練法などをめぐって、研究と実践の活動が行われた。」 (岡村一成編著 『産業・組織心理学入門』)
 産業心理学は、戦時の 「臨床実験」 で発展し、平時に応用されます。
 また第一次世界大戦のオーストリアで、血液型での兵士の性格、適性の判定が取り入れられたが、当てにならないので止めたといいます。しかし100年後の日本では全盛です。人間を4つのパターンに分類し、当てはめて納得しています。


 イギリスでも「女性は家の中」の風習がありました。しかし第一次世界大戦で労働力不足が発生すると様々な分野で活躍して行きます。男性と同じ労働を経験したことを踏まえ、戦後は男性に職場を奪われることになっても、その後、男女同一労働同一賃金を要求する契機になっていきました。
 “伝統” に押し返された日本とは大きな違いです。


 第一次世界大戦の塹壕戦で、イギリス軍兵士に 「シェル (砲弾) ・ショック (shell shock)」 と呼ばれる症状が表れました。一杯に開いた目、強烈な震え、恐怖に満ちた顔つき、全身の皮膚は青ざめて冷たい、耳が聞こえなくなったり、口が利けず、目が見えなくなったり、四肢が麻痺してしまうなどの症状です。
 当初は塹壕の爆発による衝撃や毒物が脳に影響を与えたと考えられていましたが、軍医による研究の結果、ストレス反応の一種であるとわかります。その後も、戦闘経験による身体の麻痺、震え、悪夢の頻発、性欲減退といった症状が見出され、「戦争神経症 (war neurosis)」 と名付けられました。
 イギリスの軍医は、兵士の体調不良についての取り組みのなかから戦争神経症に関する治療方法における4つの原則の主張をはじめます。 (2011年4月4日の 「活動報告」)

 では日本の軍隊の状況はどうだったでしょうか。
 日露戦争における傷病者に関する資料からも精神疾患に罹患した兵士がいたことは見受けられますが、戦争神経症に罹患した兵士が続出したのは第二次世界大戦からです。国府台陸軍病院 (現在の国立精神・神経センター国府病院 千葉県) が大幅に拡充されて戦争神経症を含む精神神経疾患の患者の収容が開始されます。
「国病と精神科との関連ができたのは昭和12年末のことである。時の陸軍省小泉親彦医務局長 (東条内閣の厚生大臣で終戦時自決) はドイツで観察した第一次大戦の経験から、必ず日本でも大量の精神症者が発生するであろうと予測し、精神神経科の専門病院にするために国病に白羽の矢が立ったのであった。陸軍唯一の精神科専門医で、ドイツ留学の経験のある諏訪中佐が北支から呼びかえされて病院長として赴任し」 た。(斎藤茂太著 『精神科医三代』 みすず書房)

「ところが帝国陸軍には 『皇軍に精神病者はいない』 とか 『精神病はたるんでいるから起きる』 だとか、はなはだしきは 『精神病者はヒキョウ者だ』 とかいう単純きわまる思想が横行していて、衛生部ですらその関心は高いとはいえなかった……
 そのうちに戦争神経症の患者が後送されてくる。勝ちいくさの初期であるから症状は軽い外傷性神経症が多い。『白衣の勇士』 が大いにモテた時代である。……
 ところで、戦争神経症とは戦争によって限界状態に追いつめられた人間が示す異常反応を言うが、これが戦争の長期化によってしだいにふえてきた。病院長諏訪大佐の統計によると、外地から還送された戦傷病兵中の精神疾患の比率は、昭和13年の1-2パーセントから年々高くなり、昭和19年には7-8パーセントにも達したのである。内地部隊の患者もほぼ同じ傾向を示したのである。これに対してアメリカ軍はどうだったかというと、精神神経障害で入院した兵士は約百万で、全入院兵士の6パーセントに達したという。百万のうち60パーセントはアメリカ国内、40パーセントは外地の発病で、うち神経症 (ノイローゼ) は63パーセントで最高率を示し、分裂病などの内因性の精神病はわずか6パーセントに過ぎなかった。
 戦争神経症を大きく分けると、直接戦場で発生する原始的ないわゆる1次反応と、一応生命の危険の消失したあとで症状の固定するいわゆる2次反応に分類できる。1次反応でも最も直截単純な反応は驚愕反応と呼ばれるものだ。……
 惨烈なガダルカナル島の戦いでは戦場を脱落後退した米軍兵士の実に40パーセントは精神疾患であったのである。」 (『精神科医三代』)
 日本においてもこの頃すでに戦争神経症については認識されていました。
 しかし 『精神病はたるんでいるから起きる』 の意識はいまだはびこっていて問題解決を困難にしています。
 軍隊経験者が同期会を定期的に開催、しかも長期に続いているのは元兵士だった者同士が自分たちの戦闘体験を話しあうことで症状を軽くしているのです。


 第一次世界大戦はILOを創設させます。
 1918年、世界的にはベルサイユ講和会議で国際連盟の創設がうたわれ、翌年1月25日には 「国際的立場から労働条件を調査し、及び国際連盟と協力しかつその指示の下に右の調査及び考慮を係属すべき常設機構の形式を勧告する」 と国際労働機関 (ILO) 創設にむけた国際労働法制委員会設置を決議し、6月28日、講和会議において労働者の代表を交えた労働問題に対応するILOが創設されました。このような機関を設置しなければならないほど世界的に労働問題は切迫していたということです。
 委員会は35回開かれ、ILOの創設と「国際労働規約」に盛り込む社会正義のための 「一般原則」 を決定します。その第一は 「締結国は現に労働が単なる商品と見なさるべきものに非ずと認めるが故に労働条件を規律する方法及原則にして……」 と謳った 「労働非商品」 です。
 さらに団結権の保障、最低賃金制、1日8時間・週48時間、毎週1回の休日、年少労働禁止、男女同一労働同一賃金、移民の自由、労働保護監督制度の9原則を謳っています。
 この委員会に日本代表として途中から友愛会の鈴木文治が参加しました。

 日本はILOにスタート時点から加盟し、常任理事国になります。
 第1回総会で、日本政府は、労働者代表の選任方法が労働者団体を直接に代表する方法ではなく、政府の指名だったことに対して非難を受けます。
 総会は1号条約 「工業的企業に於ける労働時間を1日8時間且週48時間に制限する条約」 が議題となりました。
 当初日本政府は1号条約に、まだ生産性が低いという理由で特殊国扱いを主張しました。これに対して労働者代表として参加していた、東京帝国大学卒業後欧米に留学して帰国し鳥羽造船所技師になった桝本卯平は政府に反対する発言を行います。桝本にとって、工場は「労働者が職員の前に土下座した光景があった」といいます。ベルギーやフランスの労働者代表は、自分の国の産業は戦争の痛手を深くうけているが日本は戦争で潤ったと反論しました。
 最終的には政・労・使とも賛成、圧倒的多数で採択されました。
 ILO総会に労働組合の代表が出席したのは第6回総会への鈴木文治が初めてでした。

 日本政府は工場法の改正を迫られます。
 工場法は1911年に制定され、16年9月1日から施行されます。15人以上雇用する工場での12時間労働制などが盛り込まれます。しかし製糸・紡績工場で働く女性労働者などは適用除外となりました。好景気で労働者も増大していました。
 19年、友愛会は 「大日本労働組合総同盟友愛会」 と改称し、その政綱にILOの一般原則を盛り込みます。
 大戦後のワシントン軍縮会議をへて造船、鉄鋼の不況、倒産、失業者が続出するなかで労働運動は急進化し、8時間労働制や労働組合の承認、普通選挙などの要求が掲げられて行きます。(2014年9月30日の 「活動報告」)
 しかし政府と工場主はILO条約の批准とは逆に懐柔策と徹底的弾圧をかけました。


 26年に開催されたILO第8回総会でインドの使用者代表の発言です。
「われられは日本が1919年のワシントン条約にたいして尊敬のたりないことを指摘しなければならない。立法の関するかぎりにおいては、日本の労働条件は1919年にも、それ以前にもまた今日においても、すこしもちがわない。私は日本から、1923年の改正工場法は1919年のワシントン条約をばかにしているものだときかされたことがある。この法律――改正工場法――は成年男子の労働時間についてなんらの制限ももうけず、かつ婦人の夜業禁止を実施するためにはこの改正法の実施後なお三年を経過しなければならない。婦人および16歳未満の年少者にはさすがに休日をあたえているが、それはわずか月2日にすぎない」 (堀江正規著 『日本の労働者階級』 岩波新書から孫引)
 1日当りの労働時間は制定されても標準労働日は制定されませんでした。
 そして日本は33年に国際連盟、38年にはILOからの脱退を決めます。

 ILOは、第二次世界大戦を防ぐことができませんでした。ことを深刻に受け止め、44年4月、アメリカのフィラデルフィアで開かれた第26回総会で 「労働は、商品ではない」 と再確認した宣言を採択します。さらに貧困と飢餓、差別が戦争を生むと結論づけ、宣言の第2章で 「永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立できるという国際労働機関憲章の宣言の真実性が経験上充分に証明されていると信じて、総会は」 「すべての人間は、人種、信条又は性に関わりなく、自由及び尊厳並びに経済的保障及び機会均等の条件において、物質的福祉及び精神的発展を追及する権利を持つ」 などの確認をおこないました。労働者の地位は平和の追求と関連しています。

 労働時間短縮は戦後におよんでも日本だけの問題ではありませんでした。60年代にはいりILO総会で論議が進められますが、日本政府は反対の論陣を張ります。理由は、労働者の生活条件を改善するには労働時間と賃金の2つが問題になるが、どちらを優先するかはその国の社会的・経済的条件によって異なる、時短は団体交渉の課題で国際労働基準によって規律されるものではない、そして被占領期間中のアメリカの援助の返済、旧占領国への賠償、破壊された都市の建設など戦後処理が終っていないからハードワークはまだ必要ということでした。そこに労働者の人間性や生活は出てきません。
 結果的には62年、第116号の時間短縮の勧告は圧倒的多数で採択されました。

 この日本政府の主張は正当性があるでしょうか。例えば、戦後処理について、ドイツと比較してどうでしょうか。2度の敗戦を経験したドイツは第二次世界大戦後、ヒットラーを許した 「過去を克服」 するためにすでに1200億マルク以上の賠償金を支払っています。それでも時短問題にはしっかりと取り組んできました。

 日本政府は、このように昔から屁理屈をつけて労働時間の短縮には取り組んできていません。現在もそうです。 (2013年12月3日の 「活動報告」)



 もう一度第一次世界大戦に戻ります。
 第一次世界大戦は、日本とアメリカにとっては被害はありませんでした。日本は経済的には年々輸入超過の状況で債務が増加していたが、交戦国の物資不足から輸出が増大、好景気を迎えました。なおかつ輸出品目は産業の発展にともない、原材料と製品の比率が逆転しました。
 また1917年、英仏と密約を結び、地中海に軍隊を派遣する見返りとして、アジアの旧ドイツ権益、具体的には青島など中国の山東半島と赤道以北の南洋諸島の領有を認めさせ、攻撃をとおしてアジアにおいてヨーロッパ諸国の影響がうすれた地域に進出し、中国侵略の突破口を切り開きました。
 山東半島は中国が返還を強く主張したため1919年5・4運動が起きた。

 広島は昔からサッカーがさかんです。
 第一次世界大戦のときの中国・青島要塞でのドイツ人捕虜545人が、広島湾に浮かぶ似の島の収容所に送られました。彼らと広島高等師範・師範学校のサッカーの試合が開催されたりしています。また島の子供たちはコーチをしてもらいました。その伝統があり島の中学はいまもサッカーの強豪校です。
 彼らは市内で音楽会も開いています。
 日本で最初にベートーベンの「第9」を演奏したのは、同じ第一次世界大戦の捕虜による1918年6月1日の徳島・坂東浮虜収容所だといわれているが、時分を争うと広島だったかもしれません。習志野の収容所だという人もいます。また収容所の外では久留米の高等女学校講堂が最初だという調査結果も出されています。みんな自分たちのところが先だと主張します。
 そのころ 「敵」 と異文化交流をして受け入れていたということはちゃんと見ておくことが大切です。
 バームクーヘンを日本で最初に食べたのも似の島の人たちだと言われています。


 この100年、日本社会はどの程度変化・進歩したと言えるでしょうか。


    関連:「活動報告」 2014.10.7
    関連:「活動報告」 2013.12.3
    関連:「活動報告」 2011.4.4
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