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労働条件、職場環境に格差が生まれている
2014/11/28(Fri)
 11月28日(金)

 11月25日、労働政策研究・研修機構は 「第2回日本人の就業実態に関する総合調査 『結果』」 を発表しました。第1回は2010年です。
 調査項目は、就業率、就業形態等の就業構造や労働時間、賃金、能力開発、職場、労使関係、転職状況、副業、満足度、生きがい等の就業意識など、幅広く就業実態にかかわる項目を網羅しています。加えて今年度調査では、「パワーハラスメント」 と 「メンタルヘルス」 を特別テーマとして取り上げています。
 調査期間は14年1月11日~2月3日で、調査員による訪問留置調査です。ですから信憑性は高いです。対象は20歳以上65歳以下の男女から抽出した8.000人で、有効回答数4.573人 (有効回収率57.2%) です。

 その結果です。全回答者に対する就業者の割合 (就業率) は77.8%で、男性の就業率は87.8%、女性では69.5%です。就業者を雇用者と非雇用者 (事業主など雇用者以外の者) に分けると、雇用者87.2%、非雇用者12.8%です。就業者を就業形態・雇用形態に分けてみると、「正規従業員」 52.1%、「パート」 18.4%、「自営業主、自由業」 6.8%、「アルバイト」 5.7%、「契約社員」 4.7%、「会社の経営者・役員」 2.8%、「嘱託」 2.5%、「派遣社員」 2.3%、「家族従業者」 2.3%などの順です。この調査でもいわゆる非正規労働者は3分の1を超えています。

 いくつかの調査結果をピックアップしてみます。
 定期昇給、業績評価制度についてです。雇用者の成果や業績を評価する制度については、34.2%が 「適用されている」 です。正規従業員・非正規従業員別にみると、正規従業員では46.2%、非正規従業員では16.5%です。

 職場の状況として、雇用者に 「職場におけるこの2~3年の変化」 を質問しています。回答は 「そう思う」 「どちらかといえばそう思う」 「どちらともいえない」 「どちらかといえばそう思わない」 「そう思わない」 です。
 その結果として、「そう思う」 + 「どちらかといえばそう思う」 と 「どちらかといえばそう思わない」 + 「そう思わない」 の差です。
 「そう思う」 + 「どちらかといえばそう思う」 の割合の方が高かったのは、「仕事の出来る人と、そうでない人との差が目立つようになった」 19.9、「お互いに助け合おうという雰囲気が強まった」 7.8%、「トップダウンで決まることが多くなった」 3.2%、「短期的な成果を求められる仕事が増えた」 1.0%、「精神的ストレスを訴える社員が増加した」 0.7%です。
 逆に 「そう思わない」 の割合が高かったのは、「会社とは運命共同体だという意識が強まった」 が37.8%、次いで 「社内における意思決定のスピードがあがった」 15.5、「職場の人間関係がぎすぎすしてきた」 14.9%、「仕事以外のことを相談する雰囲気がなくなってきた」 13.8%、「成果のあがりにくい仕事に、誰も取り組みたがらなくなった」 13.4%、「部下や後輩を育てようという雰囲気がなくなってきた」 13.1%です。
 「精神的ストレスを訴える社員が増加した」 についての差は32.0% - 31.3%です。「そう思う」 + 「どちらかといえばそう思う」 の割合としては 「仕事の出来る人と、そうでない人との差が目立つようになった」、「お互いに助け合おうという雰囲気が強まった」 に次いで高いです。職場環境にも格差が生じています。

 雇用者の労働組合に関する状況です。
 勤務先での労働組合の有無について、「ある」 36.1%、「ない」 が43.6%、「わからない」 19.7%です。組合がある場合の加入資格の有無については、「ある」 70.1%、「ない」 22.1%です。非正規従業員だけでは、加入資格が「ある」 50.7%、「ない」 34.0%、「わからない」 13.9%です。
 加入状況については、「自分の会社の労働組合に入っている」 21.9%、「自分の会社以外の労働組合に入っている」 0.4%、「入っていない」74.1%です。労働組合に入っていない人に、労働組合に入りたいと思うか聞いたところ、「思う」 17.9%、「思わない」 79.6%です。
 「自分の会社の労働組合に入っている」 21.9%はユニオンショップも含みます。労働組合の有無で 「わからない」 19.7%、労働組合に 「入っていない」 74.1%、労働組合に入りたいと思うかに 「思わない」 79.6%は、労働者から労働組合が当てにされていないということです。
 「自分の会社以外の労働組合に入っている」 0.4%は個人加盟の労働組合・ユニオンを指すと思われますがそれなりの数値です。

 就業者の 「働いている理由」 (複数回答) としては、「生計を維持するため」 72.0%で最も多く、次が 「生計費の足しにするため」 29.1%、「社会人としての義務、社会貢献のため」 25.9%です。
 「生きがいを感じること」 については、「仕事」 が32.6%です。回答者の属性は、性別では男性が33.0%、女性が32.2%。性・年代別では、男性50代が40.5%と最も高く、次いで男性60代 (37.9%)、女性60代 (37.8%)、女性30代 (33.4%)、女性40代 (32.9%)、女性50代 (31.9%)などの順です。女性で仕事を生きがいと考える割合が高くなっています。

 「会社とは運命共同体だという意識が強まった」 に対して 「そう思わない」 37.8%、「生きがいを感じること」 についてで「仕事」 が32.6%、これが現在の労働者の意識といえるのでしょうか。


 過去5年間で、勤めている (いた) 会社から、自分の意に沿わない行為を受けたことがあるかどうかについて項目をあげて聞いています (現在の無業者含み、過去5年間無業者除く)。
 「希望退職に応じるよう、退職勧奨を受けた」 ことがある人は3.9%、「意に沿わない配転・出向命令を受けた」 6.4%、「業務遂行に必要な仕事の道具を取り上げられた」 0.8%、「仕事を全く与えられなくなった」 1.0%、「単純労働のみを命じられるようになった」 1.3%、「社内公募に応募して、他部署で仕事を探すように命じられた」 0.3%。「退職に向けて職探しをするよう命じられた」 1.5%、「教育研修などを名目として特定の部署に異動させられた」 0.6%、「人事評価を下げられたり、降格・減給された」 5.0%です。
 これらの項目のいずれかの行為を受けたことがある人は13.1%。雇用者のみをみると15.8%で、うち正規従業員では17.1%、非正規従業員は13.7%です。

 いじめ・嫌がらせやパワーハラスメントについて、いじめ等に類する項目をあげて過去1年間の職場での経験を聞いています (過去1年間無業者除く)。
 もっとも経験している割合が高かったのは、「怒鳴られたり、暴言をはかれた」 14.7%、次いで 「仕事をする上で必要な情報を与えてもらえなかった」 13.0%、「自分についての陰口や噂を広められた」 12.5%、「意見や提案を聞いてもらえなかった」 11.8%、「無理な指示や締め切りを与えられた」 11.1%、「能力不足や仕事のミスについて、しつこく指摘された」 11.0%、「容姿や私生活で気に障ることを言われた」 10.7%、「必要以上に仕事を管理されたり、口出しされた」 10.1%、「身に覚えのないことで言いがかりをつけられた」 8.8%、「仕事や成果について不当な評価をされた」 8.1%、「仕事上の経費を自分で支払わなければならなかった」 7.3%、「飲み会や接待に出席するよう強制された」 5.7%、「能力や経験よりも低い仕事を与えられた」 5.3%、「仕事を辞めるべきだと言われた、もしくは態度で示された」 5.0%、「無視されたり、仲間外れにされた」 4.8%、「イスを蹴る、机をたたくなどの威圧的な行為を受けた」 3.3%、「仕事を取り上げられた」 2.4%、「物を投げつけられたり、暴力を受けた」 1.3%です。いじめ等に類する何らかの行為を受けた割合は、34.0%と3人に1人です。現在働いている人を抜き出して、勤務先の企業規模別にみると、規模による違いはあまりみられません。正規従業員は非正規従業員に比べてやや高くなっています。

 受けた行為の影響については (複数回答)、「転職を考えるようになった」 31.5%ともっとも高く、次いで 「慢性的な疲れを感じるようになった」 25.0%、「仕事に集中できなくなった」 19.7%、「職場でコミュニケーションをうまく取れなくなった」 18.1%、「胃腸の調子が悪くなった」 16.8%、「お酒やたばこの量が増えた」 15.5%などとなっています。

 受けた行為に関して、誰かに相談するなど何らかの対処をしたかどうかについては、「先輩・同僚に相談した」 39.6%ともっとも高く、「上司に相談した」 18.5%、「行為を理由に退職した」 4.3%、「人事などの担当部署・担当者に相談した」 4.0%、「勤め先の労働組合に相談した」 2.9%、「会社が設置している相談窓口を利用」 2.9%、「行政の相談機関を利用した」 2.6%、「企業外の労働組合に相談した」 2.2%です。
 何らかの対処をした人の割合は53.2%と半数を超えたが、「とくに何もしなかった」 38.9%です。
 「企業外の労働組合に相談した」 2.2%は大きな数字です。

 相談した相手が対応してくれたかどうかについては、「上司に相談した」 場合の対応割合が65.3%ともっとも高く、次いで 「先輩・同僚に相談した」 61.7%、「人事などの担当部署・担当者に相談した」 25.0%、「勤め先の労働組合に相談した」 26.3%は、「行政の相談機関を利用した」 14.7%、「企業外の労働組合に相談した」 10.3%です
 誰かに相談することで解決策は広がっていきます。
 しかし 「自分の会社の労働組合に入っている」 21.9%ですが、「勤め先の労働組合に相談した」 2.9%、さらに 「勤め先の労働組合に相談した」 場合の対応割合26.3%です。これが現在の社内組合への評価です。

 相談などにより事態が改善したかどうかについては 「変わらなかった」 63.8%、「改善した」 20.4%です。
 相談相手別での 「改善した」 は、「上司に相談した」 33.5%、「先輩・同僚に相談した」 26.4%、「人事などの担当部署・担当者に相談した」 25.0%、「勤め先の労働組合に相談した」 21.1%だった、「行政の相談機関を利用した」 14.7%、「企業外の労働組合に相談した」 13.8%です。

 職場でのいじめやパワハラ予防の取り組みについては (就業者)、「取り組みなし」 が34.0%、「取り組んでいる」 28.8%を上回っています。「わからない」 32.7%です。

 「メンタルヘルス」 の状況について、過去3年間で、落ち込んだり、やる気が起きないなどの精神的な不調 (メンタルヘルス上の不調) を感じたことがあるかどうかについてです。
 不調を感じたことが 「ある」 25.7%、「ない」 71.6%です。性・年代別にみると、女性20代が 「ある」 39.8%、女性30代が30.7%、女性40代が30.7%、女性50代が27.9%、男性30代が27.3%、男性20代が26.4%の順です。女性の若い層でメンタルヘルスに不調を感じる人の割合が高くなっています。
 現在、仕事をしている 「就業者」 を抜き出すと、メンタルヘルスに不調を感じたことが 「ある」 は25.8%、「ない」 は71.2%です。産業別では、「ある」 は 「鉱業、採石業、砂利採取業」 40.0%、「医療、福祉」 36.0%、「金融業、保険業」 33.1%、「情報通信業」 29.2%などで全体平均より高くなっています。

 メンタルヘルス不調と労働時間の関係です。
 1週間の総労働時間が 「90時間以上」 で不調を感じた割合は37.5%、「70~79時間」 30.4%など、長時間労働をしている人で、不調を感じたことが 「ある」 25.7%の割合を大幅に上回っています。
 一方、「10時間未満」 で20.6%、「10時間~19時間」 で16.2%と短時間でも不調者がでています。ただし、このデータには時間帯ごとの属性人数の記載がありませんので長時間労働全体の状況を見ることはできませんでした。(うがった見方をしますが、長時間労働のデータではいつも人数が隠されます)

 メンタルヘルスに不調を感じた人 (無業者含む全数) のうち、「通院治療なしでも、日常生活を送れる状態」 76.5%、「通院治療しながらなら、日常生活を送れる状態」 16.2%、「通院治療しながらでも、日常生活を送るのが困難な状態」 3.3%となっています。不調を感じた人の2割程度が通院治療を必要としています。

 不調の期間については、「半年未満」 46.4%、「3年以上」 19.5%、「半年以上1年未満」 18.3%、「1年以上2年未満」 8.7%、「2年以上3年未満」 6.0%の順です。6割強が1年未満と比較的短期である一方、「3年以上」 が約2割です。悪化すると長期化してしまう傾向にあります。
 不調の程度別に不調期間をみると、「半年未満」 では 「通院治療なしでも、日常生活を送れる」 54.2%。「通院治療しながらなら、日常生活を送れる」 16.8%、「通院治療しながらでも、日常生活を送るのが困難」 12.8%です。逆に、「3年以上」 では「通院治療しながらなら、日常生活を送れる」 41.6%、「通院治療しながらでも、日常生活を送るのが困難」 59.0%と程度が悪化するほど長期化しています。

 雇用者として働いているときにメンタルヘルス不調になった人が、その後、職場でどのような状態になっているかです。「休職も通院治療もせずに働いている」 72.0%、「休職せず退職した」 8.6%、「休職せずに、通院治療しながら働いている」 8.3%、「休職を経て退職した」 3.2%、「休職を経て復職している」 2.9%、「休職を経て復職後、退職した」 1.5%、「休職、復職を繰り返している」 1.1%です。結局退職した人 (「休職せず退職した」 「休職を経て退職した」 「休職を経て復職後、退職した」 の合計) は13.3%と1割を超えています。
 これを就業形態別にみると、結局退職してしまった割合は、正規従業員が12.6%、パートタイマー10.9%、派遣労働者27.3%、契約社員21.6%、アルバイト19.9%です。
 パートタイマーでは、「休職せずに、通院治療しながら働いている」 割合が他の就業形態と比べて若干高く出ており10.1%、治療と職業生活を両立させる必要から、通院治療しながら働き続けられるパートタイマーを選択した人がいるようです。
 体調不良に陥った労働者がどのような状況におかれているかがわかります。復職は本当に大変です。

 メンタルヘルス不調を発症した後でも、働き続けられるようにするためには、職場でどんな支援策が求められるかを、雇用者として働いているときにメンタルヘルス不調になった人に、希望する支援策を聞いています。
 「業務内容や業務量への配慮」 42.3%ともっとも高く、「職場の同僚や上司との人間関係を考慮した配置」 34.9%、「上司や同僚による日常的な声がけ」 29.6%、「人事労務担当者や上司による定期的な面談.助言」 19.6%、「業務遂行時における上司や同僚によるサポート」 19.6%、「短時間勤務や残業・交代勤務の制限など就業上の配慮」 17.4%、「病気休職制度」 11.5%、「産業医や専門担当者による定期的な面談、助言」 11.2%、「専門の外部相談機関 (EPA) を活用したケア」 7.3%、「休業期間中の不安を軽減するための情報提供」 6.9%の順となっています。
 職場にゆとりがないことがわかりますが労働者個人では解決が難しいです。そして体調不良者をサポートする制度の確立に期待しています。

 
 全体の数値からは労働条件、労働環境に格差が出ているように思われます。
 厚労省や会社、そして労働組合が取り組まなければならない課題は明らかになっています。これ以上放置はできません。


    「第2回日本人の就業実態に関する総合調査 『結果』」
    当センター 「いじめ メンタルヘルス労働者支援センター」 ホームページ ・ ご相談はこちらから
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共同体は無限の潜在的力をもっている
2014/11/26(Wed)
 11月26日 (水)

 11月22日夜10時過ぎ、テレビは地震警戒情報を発信しました。立ち上がったことは覚えていますがその後どうしたかは記憶がありません。
 しかし東京では揺れをまったく感じませんでした。
 震源地は長野県北部で最大震度6弱を観測し、白馬村などで被害がでています。その後の情報でも、重症者も出ていますが死者は出ていません。そして日頃から地域での助け合いの体制が確立していたことが被害を小さくしたとマスコミ等で報道されました。

 毎日新聞の11月26日付の社説は 「長野北部地震 助け合いの精神生きた」 と報じました。
「最大震度6弱の地震が22日夜、長野県北部を襲った。白馬村などで多数の住宅がつぶれ、40人を超える重軽傷者が出たが幸いにも死者や行方不明者はいなかった。同村内の一部地域は、突き上げられるような激しい揺れがあった。
人的犠牲を免れたのは、住民が団結しての救出が繰り広げられたからだ。深夜だったが、重機やチェーンソーなどを使い周辺住民が声を掛け合って建物の下敷きになった人たちの救出に当たり、高齢者や幼児が助け出された。救出が遅れれば、命に直結した可能性もあるだろう。
 災害時、警察や消防などの公助は重要だが、すぐ到着するとは限らない。地域による共助は減災の大きなかぎだ。住民は今回、その大切さをまさに行動で示したといえる。共助が機能したのは、日ごろの備えがあったからだ。中越地震をきっかけに、長野県は独自事業として災害時住民支え合いマップ (地図) の作製を市町村に働きかけてきた。災害時の避難に手助けが必要な高齢者ら要援護者の住まいなどの情報を地図上に書き込み、それを地域住民で共有し、誰が支援するかを含めて事前に準備する試みだ。……
 近隣住民によるきめ細かい支援計画や日常的な訓練により、いざという時に、今回の長野のように迅速な救出が行われることを目指したい。」


 長野県白馬村に似た助け合いの話を、1995年の阪神淡路大震災の時にも聞きました。
 阪神淡路大震災で、部落解放同盟の同盟員は180人以上が犠牲になりました。しかし宝塚市の被差別部落では地震発生の1時間後に班編成が行われて救出活動が開始され、その結果犠牲者はでませんでした。日常的な組織力が被害をより小さく防いだといいます。(部落解放同盟の機関紙 『解放新聞』 より 切り抜き記事は捨ててしまったので記憶です)


 地域の共同体は、為政者か異端者を出さないためにお互いを監視し合う組織として上から作った歴史があります。日本にはそれを許す土壌があります。今、あちこちに取り付けられている監視カメラもその変形でしょうか。
 しかしそうであったとしても、そこに存在する人たちは、それを自分たちで互助組織に作り変えて機能させている場合もあります。
 昔から結、講などが作られていました。

 鉱山や炭坑には古くから職親について一定期間就業し、一定の技能をもつと認定された手掘り坑夫の職能集団組織として 「友子同盟」 がありました。坑夫たちが、労災である「けい肺」、いわゆる「よろけ」になった親方やその家族、仲間の面倒を見、葬式、墓石の建立などもおこなう共済制度でもありました。
 足尾には、旧古河鉱業の精錬所と渡良瀬川をはさんだ山のふもとの龍蔵寺に友子が建てたお墓が残っています。その近くに説明板が立てられています。何度か書き変えられていますが、お寺が立てた古いのを紹介します。
「……毎日馴れぬ坑内で恐ろしくて泣きながら働いた。新しく坑夫になるためには、親分を決め、自分は子分として、親分、子分の盃を取りかわす。これを取り立て式といい、こうして友子組合に加入したのである。親分の下で、自分は新大工として3年3月10日の間坑内作業や友子つき合い (交際) など修業見習期間ののち1人前の坑夫と認められる。友子制度 (友子組合) には全国的なひろがりをもつ坑夫の相互共済の機能があり、現代の共済組合的要素を持っている家族的結び付きであり、戦前 (昭和20年以前)、友子組合の果した役割は大きい。坑夫がいったん病気、負傷などになると、米あるいは金銭による適当な救済が講ぜられ、さらに死亡した場合は墓石の建立、供養・遺族の世話をするなど行きとどいた救いの手が差し伸べられた。また一生治ゆの見込みのない 「けい肺病 (俗にヨロケといわれた。)」 などになった者は奉願帳を持って、全国の鉱山を渡り歩き、一宿一飯の仁義と金銭の救済を受けることが出来た。……」

 近代になり、労働争議が発生すると企業は懐柔のための福利政策として購買組合や共済制度を発足させたりします。
 共同体は歴史的にもさまざま存在し、評価もさまざまです。


 このような使い勝手のある組織を為政者が見過ごすはずがありません。その一端を見てみます。
 第二次世界大戦において、日本は当初から資源や食糧が不足していました。その確保を中国と東南アジアに求めていくなかで泥沼に陥っていきます。
「中国との戦争の初期の段階で、中央政府の官吏は、やがて資源が不足して配給制度が必要となるであろうという見通しをもちました。だがそのお配給制度は、これまで日本では試みられたことがないので、突然に設立するというわけにはいきません。そのためには何らかの教育機関が必要で、それらを通して市民が、配給に馴染んでいくということが望ましいと考えられました。」
 1938年東京市役所の区政課長をしていた谷川昇は、徳川時代の近所付き合いの5人組を復活させて、隣組という新しい名前を与えることを思いつきます。東京市長はこの案を受け入れて、5月19日の東京市の布告に乗せました。
「このとき谷川課長は、徳川時代の5人組という制度だけからではなく、幕末の二宮尊徳の構想した近所の互助組織からも示唆を得ています。ただし、この自発的な相互互助という側面は、谷川課長の意図にはあったとしても、1938年から1947年にかけての隣組制度の歴史においては、実現されませんでした。1947年までというのは、この制度が、占領時代の政府の指令によって廃止されたからです。隣組は、政府によって定められた政策を民衆生活のところまで下げていくというための道具として用いられました。……この組織は、すぐに中央政府高等官僚と陸軍軍人に乗っ取られて、これらの役人と軍人が市民の日常生活を細部に至るまで監督しそれに干渉する機関となりました。」 (鶴見俊輔著 『戦時期に本の精神史 1931-1945年』 岩波書店)
 隣組は工場の中にも組織され浸透していきます。
 そしてそのような職場の中から戦後の労働組合は結成されていきます。多くの労働組合が労使協調路線をとったのは必然です。


 戦時中の隣組の経験を労働者の団結強化に活用したのが 「ぐるみ闘争」 です。
 朝鮮戦争を通じて、大企業を中心に設備の更新、技術の更新化が進められ、人員整理、賃金ストップが強行されます。52年末頃から不況の影響をうけて設備の近代化が比較的進んだ鉄鋼、石炭などの産業を中心に中小企業の倒産や大企業への系列化が進行し、大量人員整理を行う工場が続出します。
 これに対して総評をはじめとする労働組合は、企業別組合の弱点を補うために 「家族ぐるみ・街ぐるみ」 の地域闘争を展開します。
 52年9月11日・12日、各地の炭鉱労働者の主婦77.000人が結集して 「炭婦協」 (日本炭鉱主婦協議会) の結成大会を開催します。大会は 「炭労の要求賃金獲得のためには、炭労と緊密な連携のもとに最後までがんばる」 を決議します。

 53年8月7日、三鉱連 (全国三井炭鉱労働組合連合会) は三井鉱山の合理化要綱発表に対して 「請負給制度の撤廃」 「保安法の完全実施」 「人員の充足」 の3目標を掲げ、山元での自主的な闘い、炭婦協と連携して職場、地域から大衆闘争を盛り上げ、その力をバックにして中央闘争を強化する戦術を立てました。
 そのための組織作りとして、職場には、組合員10人ないし15人ごとに班が設けられ、班の代表者で職場闘争委員会が構成され、班と職場闘争委員会とは、情報の連絡、闘争に関する討論をおこなうと同時に、組合の統制を乱さない範囲で自主的に闘うものとされました。また、社宅地区には、約100世帯余りの町内ごとに地域闘争委員会、10世帯から15世帯ごとに班が設けられました。
 最終的には113日の闘いを経て、三鉱連は 「退職希望者」 「退職勧奨に応じた者」 以外の退職拒否者1841人の解雇者の復職を勝ち取りました。いわゆる 「英雄なき113日の闘い」 「幹部闘争から大衆闘争」 と呼ばれる闘いです。

 54年前半の尼鋼争議では、地元の労働組合や商店をはじめとする各階層の地域共闘が発展しました。しかし系列化が進むと圧力に抗しきれずに、会社の倒産、全員解雇の攻撃がかけられていきます。
 54年後半の日鋼室蘭争議では、900人の解雇攻撃に対して193日間にわたって労働者と主婦会、青年行動隊、地域共闘組織が一体となって 「家族ぐるみ・街ぐるみ」 闘われました。しかし第二組合が発生するなどのなかで、中労委の斡旋を呑み150人の撤回で収束せざるを得ませんでした。


 1960年の三池闘争の敗北で 「生産疎外者」 とよばれた多くの組合指導部が職場から追放された中で、職場の闘いは困難を極めました。
 10月28日中労委は斡旋案により調印した協定の中の 「山元提案事項に関する協定書」 は、いわゆる 「現場協議制」 の団交を実質的に廃止させました。「英雄なき113日」 の闘い以来の職場闘争の諸権利は解体されていきます。
 三池闘争が終了すると年末から翌年3月にかけて全国の炭坑で合理化提案がおこなわれます。
 会社の攻撃に対して三池労組は、61年はじめから組合脱退を防止するための仲間つくりとして、各支部ごとに 「5人組制度」 をつくって抵抗をはじめます。組合員だけでなく家族をまじえた人間関係で対応するという制度です。「5人組制度」 はそのあとさらに 「小さな団結と抵抗の基礎」 と位置付けられ、反合理化の職場抵抗の基本にすえられました。

 三池労組は論議のなかで、「組合の姿勢を変えて、会社の攻撃がゆるむのを期待し、その間、組織を温存することに当面の重点をおくべきだとする 『平和路線』」 (三池労組編 『みいけ炭坑労働組合』) を克服し、「資本の本質を明確にした会社の階級的攻撃は、三池労組の体質改善を図って第二組合と同じ体質をもつまでは次から次へと攻撃をかけてくると考えるべきであって、攻撃を一時的に柔げると考えるのは甘い。現場での実際の攻撃がそのことをはっきりと示しており、全面的に反撃できなくとも一歩でも二歩でも山元のねばりづよい抵抗で闘う以外には、組織の防衛だってできはしない。」 (三池労組編 『みいけ炭坑労働組合』) という認識にいたります。
 1962年の三池労組定期大会で長期抵抗闘争の方針は確立されます。その行動方針は、「要約すると、差別は資本主義が存在する限り存続するし、三池の今日の差別は、資本主義的合理化の一形態にほかならないということである。とすれば、差別に対しては、姿勢を低くして抵抗を放棄するのではなく、合理化攻撃そのものに抵抗する以外に道はないことは明らかであり、差別されて困るという組合員の意識がある限り差別攻撃はなくならないという点を組合員に意識させることの必要性が強調された。そして、資本の体制的合理化に対決する反合理化の闘いは長期展望をもった抵抗、長期抵抗路線しかないことが確認されたのであった。」 (三池労組編 『みいけ炭坑労働組合』)
 そしてこの反合理化長期抵抗路線のなかから 「主体性の強化」 をかちとることが目標とされます。「主体性の強化とは、反独占の立場にたった思想を確立していくことによって、団結をうち固めていくことをさす」 のだといいます。
 しかしこの時の 「5人組制度」 は切り崩しにあわないための監視の組織となっていました。「主体性の強化」 のためには学習会が頻繁に開催されます。反撃に転ずる条件としての大衆の信頼が指導部に集中しているかどうかは上位下達の組織作りで、組合員の独自の行動は団結を乱すものとして許されません。内部固めに集中する組合の姿勢は強がりのポーズを鼓舞しているようにしか映りません。
 このような中で三池労組から第二組合への切り崩しが進み、保安がおろそかになる中で63年11月9日、三池炭鉱三川鉱で炭塵爆発事故が起き、458人の死亡者と839人のCO (一酸化炭素) 中毒患者を出してしまいます。

 この後に労働現場で共同体が強制されたのはQC運動における班編成です。
 最初は共同作業で楽しいものでしたが、後にはノルマの強制と監視組織に変わって行きました。


 横の繋がり、共助・互助はそれぞれが主体的に必要性を実感・確認しなければ監視機関になってしまいます。労働組合においてもそうでした。
 現在では、核家族化が進んでいるなかで、地域の人たちが行政に代って自主的に監視、互助組織を作って信頼関係に基づく福祉政策を進めている場合もあります。そこでは監視組織は飢餓防止を含めてマイナスに働くのではなく、プラスに働きます。個が独立して存在するヨーロッパでの教会の地位・役割を東洋では地域共同体が果たしてきました。
 東洋における福祉政策は国との契約だけではなく、地域共同体にもありました。日本で最初に政策の中に福祉の必要性を提起したのは内務官僚だった柳田國男です。

 共同体・横の繋がりは無限の潜在的力を秘めています。
 共同体・コミュニティは、安心した生活を続けるためには不可欠のものです。自分たちの創意工夫で活用・運用して強化を図っていくと無限の可能性が登場します。


    関連:「活動報告」 2014.10.7
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「鉄道員(ぽっぽや)」の使命感
2014/11/18(Tue)
 11月18日 (火)

 11月18日、俳優の高倉健が亡くなったことがテレビ、新聞で報道されています。古い人間には高倉健というと背中を見せて振り返りながらの 「とめてくれるなおっかさん……」 のポスターを思い出させます。
 久しぶりに刑務所で歌われている歌を集めたCDで 『網走番外地』 を聞きました。

 そして1999年度・主演男優賞を受賞した 『鉄道員 (ぽっぽや)』 の映評をある出版物に書いたものを読み返しました。2000年に書いたその映評です。

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 北海道の秋の山間いを、煙りを吐いてD51が走る。冬の原野を、雪を車体にくっつけてディーゼル旅客車が走る。町と街をつなぐもの、都会へ若者を送り出すもの、都会からの里帰り客を運ぶもの、それが鉄路だった。その鉄路保全と列車運行、駅務の労働者を 「鉄道員 (ぽっぽや)」 と呼ぶ。
 北海道の国労闘争団との交流会で、保線だったSさんが語った。「駅務と保線と乗務を全部こなせるなんていうのは、実はなんにもできないということ。人はそんなに器用ではない。無理な広域配転、職務替えが事故を増やしている。保線は毎日続けているから異常に気づく」。話しはつづく。
  「だから周辺の季節の変化にも敏感なんだ。あそこには何々の花が咲く、あそこにはまもなくワラビがはえる。旬のワラビを料理してたべるの、これがうまいんだ」。
 「Sさんはそれだけが楽しくて仕事してたんだべ、保線はそっちのけで」。もう一人の団員Uさんのこの一言で、皆が爆笑した。しかし笑いがおさまるとUさんは続けた。
 「本当は保線は大変なんだ、雪が積もったときなんか特に。除雪車が導入されたときなんか、楽になったなあと実感したもの。だけどその感覚が、機械化に伴う合理化に真っ正面から取り組むのを忘れさせたんだよね」。その苦闘は、私たちには到底想像できないものであろう。旬のワラビは、雪解けの後に姿をみせる。少しだけ仕事が楽になる季節の到来だった。

 鉄道の安全は、機械での制御だけではなく労働者の 「勘」 が支える。その勘を鉄道で働く労働者は、安全運行の 「使命感」 で磨き、伝達し、共有していった。職場で同じ釜のメシを食いながら先輩は後輩に仕事を教え、後輩は一人前になっていった。これが仲間意識を強くした。
 「国鉄マン」 の呼称もある。しかし 「ぽっぽや」 と呼ぶと、そこには使命感をもった仕事好きの鉄道員の姿が浮かぶ。映像には登場しないこんなぽっぽやがおり、主人公・乙松らがいてこの物語はあった。
 

 見習い機関士の青年労組員として順法闘争を担った主人公の乙松は、その後駅員が乙松一人しかいないローカル線の終着駅、炭鉱町の駅長となる。仕事が器用だったかはさておくとして、乙松の人生は決して器用とはいえない。やきもきする仲間に乙松は言う。「おれはぽっぽやだから」。その仕事は、まさに人生の最後までその 「使命感」 を背負ったものだった。
 いま 「使命」 と言えば、会社や上司の命令を忠実に実行する意味になってしまったが、その分事故も増え、回復に時間もかかる。国鉄の分割は、安全の分割だった。コンピュータ制御にすべてをゆだねる中で運休も増える。サービス重視をいうJRにとって、乗客を待たせ運ばないことが一番のサービス軽視であることは、わかっていても改善しない。鉄道の主人公は鉄道員でも乗客でもなく、会社と利益だけになってしまった。もし主人公を元にもどしたら、分割・民営化で国労を弱体化した意味がなくなるのだ。
 阪神大震災のときも、鉄道の復旧に闘争団を動員すればいいのにとずっと思っていた。非常時には、わだかまりは必要ない。「労使紛争」の停戦でも臨時採用でもいい。闘争団は鉄道のプロであり、使命感をもっている。闘争団も喜んで応じたのではなかっただろうか。そうしたら復旧はもっと早まったはずだ。しかしJRは、生活力をなくした住民のための復旧を急ぐ気はなかった。

 順法闘争のシーンがある。集団就職の列車だけは運行しようという意見が青年部労組員からだされ、押し切る。「金の卵」 の期待と同時に不安を抱えての旅立ち、それは家族、友人との別れでもあった。その不安、悲しみをなんとか断ち切ったのに列車のストップ。労働者としての旅立ちを混乱に巻き込んではならないという心遣いには、労働者の優しさがにじみでている。70年代初めまで、東北地方の主要駅では、3月下旬のすべての上り列車の発車時に 「蛍の光」 が流れた。それはやけに悲しいメロディーだった。「金の卵」 たちの旅立ちの遅れは、その分だけどこからの保証もない賃金カットになる。

 原作にはないストーリーだが、駅前の食堂で筑豊からやってきた炭坑の臨時坑夫と本工が閉山のうわさをめぐり喧嘩をはじめる。閉山での整理解雇でも臨時坑夫と本工では処遇が大きくちがう。臨時坑夫はほとんど権利を持っていなかったし、本工は自分たちのことだけしかとらえない。止めに入った乙松らに本工が矛先をかえて罵声をあびせる。「親方日の丸におれの気持ちがわかるか」。臨時坑夫と本工の喧嘩。労働者派遣法が改悪され、不安定雇用労働者が増える今後、このような対立を克服するような闘い、新たな団結が問われている。
 親方日の丸とは国鉄時代に誹謗するときよく使われたことばである。しかし多くの国鉄労働者と下請け労働者が、その親方日の丸に首をきられた。関連会社に移らざるをえなかった労働者は、残れた労働者より劣悪な労働条件下にいる。そしていま、親方日の丸と非難した民間の労働者が、企業の大小を問わず首を切られている。国労の闘いを傍観した結果が現在である。

 その後、乙松らと臨時坑夫は付き合いはじめるが、その臨時坑夫は事故で命を失う。幼い息子1人が残された。寂しい葬儀だった。遺骨には花輪も遺影も添えられなかった。遺影の代わりは、息子が描いた似顔絵だった。ふと 「人とし生きるために」 の歌詞が浮かんできた。

  血にまみれた 血にまみれた  写真が落ちていた
  学生帽のランドセルの 顔が笑ってた
  この子にすべての 望み託して働いていた
  友の笑顔が浮かぶ

 1960年頃、釧路の太平洋炭鉱での下請け労働者の事故をうたったものだ。
 乙松の娘、妻の葬儀では、ぽっぽやの仲間がスクラムを組んで鉄道員の歌をうたう。それに比べると炭坑の臨時坑夫の葬儀は・・・・。せめてもと気負ったわけではないが、映画館を出た時、おもわず 「人とし生きるために」 を口ずさんでいた。

 そして、この炭坑の臨時工夫の喧嘩、事故に遭遇しての死の場面を、乙松ではなく高倉健はどういう思いで演じていたのだろうかと想像した。
 彼は筑豊で生まれた。父親は大正中炭鉱で“鬼の労務”と呼ばれた、たたき上げの有名な労務係だった (上野英信著 『出ニッポン記』)。彼は、父親と炭鉱で働く労働者の姿を知っているはずだ。映画での乙松の臨時工夫への優しさは、高倉健にとって父親に代わっての炭鉱労働者への贖罪を演じていたのではなかっただろうか。

 乙松が結婚して17年目に子供ができる。しかし2か月で娘は病死する。娘は母親にだかれて、松が待つ終着駅につく。その後妻も先立つ。また妻の遺体を終着駅で待つ乙松。仕事のため二人を看取ることはできなかった。墓前でぽっぽやの仲間たちがスクラムをくんで歌をうたう。家族ぐるみが太い絆で結ばれている。現在の闘争団の原動力の一つである家族会の団結もこのようにして培われてきたのだろうか。

 炭鉱が閉山になると、終着駅は人を送り出すところになる。町全体がさびれていく。そこに廃線の知らせが届く。「このあとどうなるんでしょうね」 「もとの原野にもどるだけさ」 という会話がかわされる。
 現在の北海道と重なる。乙松の娘や妻は、鉄路を使って病院にいった。でも鉄路がなかったら、病院にすら行けなかった。廃線は生活・生命を奪う。鉄路はまさに生活の動脈だ。しかしこの物語の後に、国鉄の民営化が強行され廃線は増えた。その土地でやっと生活の根をおろした住民を、将棋の駒のようにもてあそび最後に捨てる。国鉄の民営化は人々の生活の民営化、過疎化と廃線のイタチごっこ、このサイクルはどこかで断ち切らなければならない。赤字だからこそ国営や国有化が必要ではないのか。

 廃線となったらもとの原野にもどるのか。子供ができたことを知らせた妻と乙松が、線路の上で抱き合って喜んでいるのをみていた鹿たちのものになるのか。そうではない。
 閉山は、石油による「エネルギー革命」の政策だった。その石油が原子力に取ってかわられつつある。そして原発が過疎化した北海道に持ち込まれる。そこではあらゆる生き物が生存できなくなる危険性さえある。
 この7月、東京で、演劇 「常紋トンネル」 が上演された。1910年代のタコ部屋労働による北海道網走支庁石北線の常紋トンネル工事を取り上げたものだが、そのなかに次のような台詞があった。
 「倒れたタコも、逃げて殺された人も、みんなうやむやのうちに、この線路のしたにうづめられている」 「僕は・・・・いやです。殺されて死んでもまだ線路をかつがせるなんて・・・・」。この事実に、そしてその後の強制連行での労働に、国と国鉄、それにJRは謝罪や慰霊をしただろうか。分割・民営化はその歴史を葬り去ること、関係を絶つことだった。そして廃線。しかし私たちはこの歴史と、今も謝罪をしていない現実をけっして忘れてはならない。

 ぽっぽやの乙松は、家族を顧みなかったのではない。器用ではなかったのだ。しかしそのことへのこだわりを持っていた。
 乙松が生活をしている駅舎に少女が訪れる。入れ替わりにその姉、またその姉と3人の姉妹が訪れる。姉妹は、母の田舎にきたというが、駅員が一人しかいない駅にいつ降りたのだろう。長姉は学校で鉄道のサークルに入っているといって、乙松が大事にしまっていた鉄道の備品に目を輝かす。そして手料理をつくり食事を一緒にする。その姉妹に、乙松の亡くなった娘、妻がかさなる。幻想だった。妻と娘は乙松の生き方を認めていた。
 乙松でない高倉健は、江利チエミと結婚した。江利は身籠もるが、子供はこの世で息をすることはなかった。その子供の供養を高倉はずっと続けているという。二人は離婚し、江利は先立つが、命日に高倉は供物を届け続けているという。子供が生きていたら・・・・。映画の三姉妹のような成長をとげていただろう、そのおもいが高倉の脳裏に浮かんだはずである。
 バックミュージックに江利のヒット曲 「テネシーワルツ」 が流れ、乙松も口ずさむ。
  
  去りにし夢/このテネシーワルツ/
  なつかしき/愛のうた/
   ・・・・
  面影しのんで/今宵もうたう/
  うるわしのテネシーワルツ

 監督と脚本家は、よくもまあ使ったものだと思った。しかしこれは、高倉自身の要請だったと後できく。「不器用なものですから」 という乙松の人生に、高倉は器用に自分のそれをかさねた。それが実感のこもった演技となっている。
 定年を間近かにひかえた乙松は仕事中にホームで倒れ、誰にも看取られることなく最期をむかえる。納得できた最期だったであろう。家族がいなくなった野辺送りは、遺体が同僚の運転する列車で終着駅から運ばれる。追悼の汽笛が原野に鳴らされる。
 「ぽーっぽーっ」。そしてまもなく、この鉄路への追悼の汽笛が鳴らされることを予測させる。
 
 かといってこの映画は、主人公の乙松だけを描いているわけではない。フランス文学が専攻の監督と脚本家は、フランスリアリズムの思考で登場人物一人ひとりの個性をひきたてている。一人ひとりが光っている。映画 「ぽっぽや」 は、「ぽっぽやたちとその家族、仲間たち」 だった。そして制作に携わった熟練の 「映画屋」 たちが、丁寧に舞台を作り上げた。そのふたつが見事にとけあっていた。
 
 「・・・・おやじの言葉を信じて実行してきたんだ。D51やC62が、戦争にまけた日本を引っ張るんだって」。主人公・乙松は、このような使命感をうけ継いでいた。
 その乙松のおやじの言葉から半世紀が過ぎた。乙松の後輩は、政府・国鉄の攻撃で1047人が首を切られ、100人以上が自ら命を絶つことにすらなった。日本の労働運動を 「引っ張ってきた」 総評と国労を解体するのが分割・民営化の目的だっと中曽根は公言した。「日本を引っ張った」 路線は、廃線になったところもある。乙松が生きていたら、この後輩の姿と廃線の跡をみてどう思うだろうか。そしてどこまでも 「ぽっぽや」 の闘争団は、この映画をどんな思いで観るだろうか。 
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紛争解決で必要なことは、それぞれどう成長するか
2014/11/14(Fri)
 11月14日 (金)

 本 『パワハラにあったときどうすればいいかわかる本』 を合同出版から発刊しました。A5版で144ページです。定価は1500円+税金です。いじめ メンタルヘルス労働者支援センターと精神科医の磯村大さんとの共著で、40の章ごとにたかおかおりさんの4コマ漫画が挿入されています。

 内容は
 PART1――パワハラってなに?
 PART2――なぜパワハラが起きるのか?
 PART3――パワハラが起きたら
 PART4――パワハラが引き起こす心と体の不調
 PART5――パワハラはこうして防ぐ
です。各章ごとにいくつかのQ&A形式で構成されています。

 全体のトーンは、いじめ・パワハラは労働者個人対個人で起きるのではなく、背景に職場の事情や雰囲気が影響している、時には会社が“仕掛けて利用する”と捉えています。ですから職場のいじめはどうしたら予防できるか、最小限で防止できるか、解決するにはトップからの取り組みが必要だという結論になっています。
 そのような意味では、職場の管理職の方々により活用してもらえることを期待しています。


 具体的内容を紹介します。
 「パワハラが働く人や職場全体に与える影響」 の章です。
「パワハラは、労働者の尊厳や人格を傷つける行為です。パワハラを行った側に悪意やそのような意図がなくても、受けた人に大きな苦痛を与えます。なによりも、パワハラを受けた人は職場の人間関係を断たれ、孤立させられます。人は、他者との関わり合いのなかで生きていく存在だから、人との関係性が断たれることの苦しみは計り知れないものがあります。またそのような状況で働き続けることで自らを追い詰め、自信喪失になり、生きる希望を失うという事態にすら陥ってしまいます。
 たとえば、『おまえはダメなやつだ』 といわれると、人は、しだいに 『自分はダメな人間なのかな』 というふうに思うようになり、さらにそういう状態にさらされ続けると、『自分はダメなんだ』 と認識するようになってしまいます。そこから立ち直るのは、かなり大変なことです。」
「パワハラは、被害者だけでなく周りの人たちにも悪影響を及ぼします。学校のいじめでもよく言われることですが、パワハラが起きると、加害者と被害者のほかに見て見ぬふりをする人たち、傍観者という存在が生じます。この3つの立場が生まれることで、職場の人間関係はバラバラにされ、被害者はいっそう孤立していきます。
 一方、見て見ぬふりをした人も、傍観しているのは自分だけでないと納得させ、自分を “許す” のです。そのうち、最初は 『ちょっとまずいんじゃないか』 と思っていた人も、『周囲の人も見過ごしているから私も……』 と皆と一緒に傍観することで自分を納得させ、さらに 『これを放置しているのは私だけの責任じゃない』 と、自らに言い聞かせるようになります。つまり、見て見ぬふりをする人も、慣らされるなかで自分の 『正義感』 『倫理観』 を傷つけ、罪悪感を抱え込むことにもなるのです。
 このような状態が続くと、当然のことながら、職場の雰囲気は悪化していきます。被害者ばかりか、周囲の人たちも、パワハラによって緊張を強いられストレスを増大させていくからです。」

 「なぜパワハラが起きるのか」の章です。
「成果主義賃金制度の導入の目的は人件費の縮小です。年功制賃金制度のように社員全員が 『昇給』 することはありえず、賃金コストのパイは固定、あるいは縮小するため、誰かの賃金が下がらないと自分の賃金は上がらないという関係になります。
 その結果、職場から 『仲間』 という意識は消え、労働者どうしがライバル関係になります。同僚の評価が上がることを妨げれば、自分の評価が上がり取り分も増えるだろうという意識が生まれ、そこにパワハラと 『見て見ぬふり』 が発生するのです。先輩も後輩に仕事を教えないようになります。教えたら、追い越されてしまうからです。」
「『評価』 が下がるかもしれないという不安のなか、短期的に成果を出すことが求められ、仕事のスピードはどんどん上がっていきます。皆、自分が生き残ることで精一杯の状況で仕事をしていて、弱音を吐けない、ため息をつけない、グチを言えない、仕事上で知らないことや不明なことがあっても質問や相談ができない、殺伐とした雰囲気が職場をおおうようになります。
 成果が重視される職場では、先輩や年上、経験歴などは関係なく、成果を出し評価を上げる人が出世していき、他方、評価が上がらない人はだんだん職場にいづらくなってきます。また、成果が上がらない人やミスをした人に対して、『部署のノルマ達成ができないのは、君のせいだ』 と責めるなど、パワハラが表面化していきます。」

 「なぜパワハラが起きるのか」の章です。
「トラブルの解決として目指すのは、まず、パワハラをやめさせ、被害者の権利や名誉を回復することです。これは解決の基本であり、どの方法をとったとしても目指す内容です。
 上司と部下のコミュニケーションギャップが原因の場合は、話し合いを通じて上司が注意や指導のしかたについて反省し、被害者に詫び、今後は言動に注意することを約束する。一方、部下も上司の注意の意図を理解し、努力することを約束する、という具合です。感情的な対立やわだかまりがある場合も、第三者が入ることで、双方が冷静になって歩み寄りができれば解決に向かいます。こうした解決は、社内で取り組むことで可能になる方法だと言えるでしょう。
 2つ目のポイントは、パワハラの原因になった職場の問題を解決するということです。相談先が、公的労働相談窓口や弁護士など外部の機関では、その企業のことや仕事のことがわからないため、職場の改善にまではいたらないという欠点があります。」
「3つ目の解決ポイントは、人間関係の修復です。カナダのノバスコシア州の公務員の労働組合では、訓練されたファシリテーター (参加者の心の動きなどを見ながら話し合いを調整し、問題解決や合意形成に導く人) がいじめ問題の解決の調整役を担っています。ファシリテーターはお互いの関係を修復し、改善することを目標に、どうすれは、お互いが次のステップに行けるかを考えながら話し合いを進めるといいます。当事者だけでなく、周りの人たちとの人間関係の修復もとても大切です。話し合いなどの過程を通して、職場で協力し合って仕事をする体制づくりを目指します。
 4つ目は、これがいちばん重要なことなのですが、相談者、行為者、間に入った人、そしてまわりの人が、それぞれ問題解決の過程を通してどう成長するかです。会社は会社で、どのような教訓を得て、今後に生かしていくかということが肝要です。相談者は、このプロセスを通して自信を回復し、自立した生活を取り戻すことで最終的な解決となります。
 このような解決ができればたとえ合意退職という解決だったとしても、自信をもって新たなスタートを切ることができるでしょう。また、相談者にとって、解決の体験やその過程で得た教訓は、長い目で見ると最大のセーフティネットとなるでしょう。
 こうした解決は、会社の『問題解決能力』を高めます。」

 「パワハラが引き起こす心と体の不調」の章は、精神科医の磯村大さんの担当です。

 「パワハラはこうして防ぐ」の章です。
「誰もが言いたいことをきちんと言えるような職場、オープンに話し合える職場が風通しのよい職場です。
 たとえば、上司が部下に注意をする場面で、上司の言い方が頭ごなしに叱るような言い方をして、まわりにいた人がマズイなと感じたとき、『それは、ちょっと言いすぎじゃないですか』 『聞いていると、私の働く意欲が奪われます』 などと言えば、収まるようなことが結構あります。しかし、ものが言えない職場では、何か言うと、今度はその上司の怒りの矛先が 『私に向かってくるかもしれない』 と恐れ、見て見ぬふりをしてしまいます。このように、風通しのよい職場ならその場で解決できる問題も、風通しの悪い職場では、深刻なパワハラへと発展してしまいます。
 また、風通しのよい職場では、お互いの信頼関係が生まれ、支え合う関係がつくられますが、そうでない職場では、一人一人が孤立している状態です。各自孤立している職場では、『気遣い』 は 『干渉』 となり、『注意』 は 『批判』 と受け取られます。すれ違いが生じ、お互いに傷つけやすい状態になっていきます。孤立は、パワハラを生む土壌です。」
「労働組合の取り組みも重要です。労働組合は、日常的に経営の点検や業務改善などの提案、会社がつくる縦型の人間関係に替わる横型の仲間づくりなど、職場環境改善を独自に進める役割を担っています。
  残念なことに、企業別労働組合の多くは、パワハラ問題や評価の問題を 『個人の問題』 であるとして取り上げていません。しかし、これまで述べてきたように、パワハラ問題は決して個人的な問題ではなく、職場環境をめぐる労働問題であり、とりわけ労働安全衛生の問題です。
 団体交渉や労使協議の場で、ぜひ、パワハラ予防や対応について会社と話し合ってほしいと思います。」
「誰もが、互いに気持ちよく働き、協力し合う関係を築くことを望んでいます。雇用不安のない、お互いの存在を認め合い、理解し合える職場・仲間を求めています。労働者にとっては、『人間関係がいちばんの労働条件』 です。」


 職場のいじめ問題への取り組みは、人権回復の問題です。
 1990年代から各国で職場のいじめ問題の取り組みが進められてきました。労働安全衛生問題をリスク管理の視点から捉えて開始されましたが、現在は労使双方にメリットをもたらすということを確信しています。
 日本ではやっと始まったという段階です。しかもいうならば官製です。、使用者はリスク管理の取り組みもしないからメリットの確認もできません。
 だとしたら労働組合と労働者がEU等の取り組みの教訓を積極に取り込んで、使用者に働きかけて 「人間関係がいちばんの労働条件」を作り上げていくことが問われています。


   当センターのホームページ、相談・連絡はこちらへ
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『先生たち、交代で休もう』
2014/11/11(Tue)
 11月11日 (火)

 9月、宮城県教職員組合は 『こどもの “いのち” を守り抜くために 東日本大震災を心に刻む ~学校で何があったのか 語りたい、残したい、伝えたいこと~』 第3集を発行しました。A4で216ページあります。

 第一部は、被災地の教職員の報告です。いくつかを抜粋して紹介します。
 被害が大きかった地域の小学校の養護教諭です。
「児童にとって、家庭環境の安定は不可欠です。避難所から仮設住宅、そして新築住宅へと、より落ち着いた生活へと移っていける方々ばかりではありません。失業や失職、住宅の再建の目途の立たない被災者が少なくないのです。
 児童の心のケアには長い時間がかかると言われていますが、それを強く感じた事例がありました。3年が経とうとする2月に6年女児が授業中に突然泣き出してしまったのです。この子は3・11の日に安全だと思われていた地域の避難所に避難していた祖父母と弟を津波で亡くしてしまい、賑やかな6人家族から3人家族になってしまった女子です。この女子については、保護者も含めて注意深く見守っていかなくてはならないと教職員全員が認識していた児童でした。いつも明るく過ごしていましたが、1年後、2年後の3・11には体調不良を理由に欠席していました。
 授業の内容は 『家族の思い』 についてだったようです。泣きながら別室に連れてこられた児童の口から、初めて亡くなった弟のことを聞かされました。その日の朝、弟とけんかをしたこと。『お姉ちゃんなんか嫌いだ』 と言われたので自分も 『嫌いだ』 と言い返したこと。そのまま学校に登校してしまったこと。泣きながら途切れ途切れに話してくれました。『たった1人の弟から嫌われたままなんだ』 と。その子にとって、つらくて、悲しい思い出です。私はただ聞くことしかできませんでした。
 3年経って、やっと話せるようになったことですが、これからもこの子は何回もこのことを思いだすのだろうが、その時はまた誰かが傍にいて聞いてくれていること、そして時間が解決してくれることを祈るだけです。
 一緒に働いている職員に対するケアも忘れてはならないと感じています。あの時、自分の家族の安否がわからない状況の中でも、次々と避難してくる住民への対応や避難所設営に当っていました。『子どもたちを守るべき立場にある学校職員』 という使命感を背負っているのですね。でも仲間内では愚痴をこぼしあってもいいでしょう。自分の心の安定が一番です。」

 大人であれ子どもであれ、誰かが亡くなったことを自分の責任だと感じて責めたり、問題を解消できなくなってしまったことを悔やみ続けたりします。そこから脱出するためには誰かに話をして聞いてもらうことが必要です。平常の自分を取り戻すには3年過ぎてももっと時間が必要な場合もあります。
 教師は 「使命感」 だけで行動することは危険です。自分自身の健康、心の安定を取り戻す、維持することが必要です。

 3.11当時は気仙沼市立岩松小学校勤務の教諭の報告です。
「3月14日 (月) に岩松小学校にやって来たある母親は、私に泣きながら抱きついて 『先生方の判断が正しかったから、こんな海沿いの地域なのに子どもたちが全員無事だった!津波の時に子供たちを校庭から動かさないでくれてありがとうございました。安易に親に渡して帰していたら、絶対犠牲者が出ていました。先生たちが体を張って子どもたちを守ってくれたんです。私の子どもが岩松小学校でよかった!奇跡が起きたんです。岩松の奇跡です!』 と、歓喜の声をあげました。(この母親は、この日の午前中津波で孤立していた建物から自衛隊のヘリコプターで救出され、わが子の安否を知りたくてすぐ学校にやってきたということでした)
 なぜ、気仙沼市内で一番子どもの数が多い岩松小学校で、未曾有の大震災にもかかわらず子どもたち全員が無事だったのか。
 それは、まず、学校として子どもの命を守ることが最優先だという考えが、教職員に徹底していたということです。この考えは、岩松小学校教職員の苦い経験からの教訓なのです。実は、岩松小学校では、2005年に交通事故で当時3年生の女の子が亡くなるという痛ましい出来事がありました。この出来事以来、岩松小学校ではいかにして子どもたちの命を守るかということで、安全教育に力を注いできました。『学校って本来何をしなければならないところなのか』 という根本的な問いに対して、いろいろな答えがあると思いますが、私は 『まず、子どもたちの命を守るところ』 ということを強く述べたいと思います。」

 石巻市立門脇小学校の体験を思い出します。災害などに遭遇した時、学校と保護者との確認は、最終的には学校の判断に従うこととなっています。そのためには学校は避難訓練を積み上げて安全な方法を確保しています。3,11ではそれが活かされました。(2011年12月9日と2012年7月6日の 「活動方向」 参照)

 震災後の対応において、宮城と岩手、福島とでは様々な違いがあります。その中に県職員、教職員の人事異動があります。3月ということでは4月からの予定は出来ていました。震災直後に岩手と福島は凍結になりました。しかし宮城では実行されました。
 当時、石巻市立鹿妻小学校勤務だった教師の報告です。
「2つ目は、悲しみと悔しさとやり切れなかった離任式である。今思い出しても怒りがこみ上げる。何が一番に優先されるべきなのか分ってたのであろうか。最大の被災地宮城、その中でも石巻において 『人事異動』 をどうしてもおこなわなければならなかったのだろうか? 校庭の片隅の式台の上から、拡声器で児童に話をする転任しなければいけない先生。それを見守る……いや本当は認めたくない児童と保護者。この光景を見よ。どんな思いでこの現実を受け止めたか……。当時の人事異動がどれだけの人々の心と将来を傷つけたことか。1年人事を凍結したことで何の影響があったのか。同じことが二度と起こらないことを願う。
 3つ目は、支援の数々である。震災2日目に鹿妻周辺には長岡市と小千谷市の消防車や救急車が走っていた。長岡や小千谷といえば記憶に新しい中越地震の被災地である。瓦礫や泥で道路ともいえない道を新潟の消防が走っていたのである。私は 『助け合い』 という言葉がふと冷え切った心を暖かくしてくれたことを思いだす。」

 子どもたちを不安とストレスが襲っている段階で、子どもたちと教師を引き裂きました。避難所になった学校では避難者への対応もしていました。 “逃げた” と自責の念に駆られた教師もいました。毎週末、元の勤務地に通い続けた教師もいました。
 防衛大学出身の村井宮城県知事は、被災地や被災者のことよりも、強固な国土と軍隊、上からの管理しか関心がないようです。そこには人間が存在しません。

 宮教組執行委員長が 「復興の要は “教職員の笑顔と健康”」 のタイトルで3年間の取り組みを報告しています。
「この3年を振り返ると、1年目は、誰もが無我夢中に走り続けた時期でした。宮城県教職員組合が、2011年9月に実施した教職員健康調査によると、教職員の3割が 『抑うつ状態』 という結果が明らかになりました。『眠れない』 『食欲がない』 『瓦礫を見るのがつらい』 といった声が相次いだのです。
 2年目になると。身体的な症状が具体的に現れ始めました。『夕方になると声が出なくなる』 『耳が聞こえにくくなった』 という症状です。『被災した校舎を見ると涙が止まらなくなる』 といったメンタル面の事例も数多く報告されるようになりました。
 3年目はどうか。『実は遺体安置所になった体育館で遺族との面会に立ち会う業務をしていました』 『たくさんの遺体を見たんです』 など、これまで心に封印してきた “あの日” の凄惨な光景を吐露する教職員が増えました。
 先日 『○○先生、今春、早期退職するんだって』 という話を相次いで聞きました。定年を数年後に控えた被災校の教職員です。震災後の蓄積したストレスから心身ともに疲弊し、結果、早期退職を決断せざるを得なかったのでしょう。残念でなりません。……
 『先生たち、交代で休もう』 これは阪神淡路大震災を経験した西宮市の小川嘉憲先生の言葉です。小川先生の講座を震災から3カ月後に沿岸部の3カ所で開催しました。子どもの荒れ・不登校や教職員の 『うつ』 が震災後3年目にピークを迎えたこと、行政への加配要求などが大切であることなどを学びました」

 4年目にどういうことが起きるか予測できません。それに対する心構えが必要です。そのなかで一番に必要なのは休養です。そしてお互いへの労わりです。
 せっかく生き残り、3年間被災者と共に、被災者として復興にむけて頑張ってきたのに、ここで力尽きてしまっては苦労が報われません。


 第3部は、2014年3月9日に開催されたシンポジウムの報告です。
 そこでは北上川の上流にあって多くの児童と教員の犠牲者を出した石巻市立大川小学校の問題にも触れられています。その部分だけ紹介します。
 会場からの意見です。
「大川小学校であれだけの子どもたちや先生たちが亡くなったことを単なる特殊な震災・津波から起こる予期できなかったこと……で捉えるわけにはいかないのです。やはり学校というものが子どもに対してどういう責任を持っているかということが一番基本的な問題なのですね。子どもたちの命を守り育むのが学校の仕事で、何か文化や知識を教えていくということだけではなくて、そのもとにはやはり命を育むということがあって、育むもとには命を守るということがあるわけです。基本的人権の最たるものはやはり命だと思いますね。……
 学力向上と特化していく中で、本当に1人ひとりの子どもの命の尊さとか、その可能性とか、学びたいという気持ちをまったく無視して進んでいる。そういう人権破壊の状況が背後にあって、その1つとして大川小が出てきたんじゃないかと思われてならないんです。」

「大川小学校の検証委員会にも関わっておりましたが、……私は少なくても典型として捉えています。典型としてどこの学校でも起こりうる可能性を抱えていた問題として捉えていました。また今ほど言われたように学校の責任というのは大きい問題として捉えていました。……
 私も例えば学校の経営とか教育計画とか、そういうものを全部当りました。しかし、やっぱり命の教育という形がありましたけれども、命を守るとか、命の教育ってどう捉えるのかという。やっぱり命の問題と学校の教育が……学力主義的な状況の中でどうしてもつながらない、切れてしまうという部分がある。だから、大川小学校だって防災の問題、学校の安全の問題は、13番目の学校教育計画の一番最後の最後の付けたしのところに載っているわけです。これは、どこの学校でもそうかもしれません。付け足しなんですよね。学校教育の中の教育課程みたいなものがあって、どういう教科でどういうことをやるかみたいなものと、最後の命の問題とは切れているんじゃないか。切らされてしまっている。学力の問題が第一になってしまって、命が大事ということは建前としては言うけれども切れてしまっているということが、どこの学校でもあるんじゃないかという状況を私も感じました。」


 2012年7月6日の 「活動報告」 で紹介しましたが、2012年7月29日と30日、参議院が主催する 「子ども国会」 が開会されました。各都道府県代表の中、にお父さんが大川小学校教師だった6年生の佐々木綾香さんが宮城県の代表として参加しました。
 震災の時、佐々木さんは大川小学校の北上川をはさんだ向かいの小学校に通っていました。学校の屋上に避難しましたが犠牲になった同級生もいます。自宅は津波で流され、家にいたおじいさんも亡くなりました。
 助かった大川小学校の児童が震災直後の様子を証言するテレビ番組などを見聞きし、お父さんの最期の状況を何となく感じ取れたと言います。「先生が私たちを津波から守ってくれた。同じように、お父さんも最後まで子どもたちを守ろうとしていた」 と確信したと言います。そのことを話しました。

    「家族、友達との絆」

  私の父は、東日本大震災当時、石巻市の小学校の先生でした。父はあの日、他の先生方と同じよう
 に子供たちを必死に守ろうとして亡くなりました。
  祖父は、私と弟を迎える準備をしていて亡くなりました。私の学校は屋上ぎりぎりまで津波が来て使
 えなくなり、友達はみんな転校して離れ離れになりました。
  あの津波でさまざまなことが変化し、たくさんの悲しみがあふれました。
  私に今できることは、まず家族の一員として、母、祖母、弟としっかり支え合って生きていくことです。
 亡くなった父と祖父のことを誇りに、大切に思いながら、2人が安心できるように立派に生きていきた
 いです。
  次に、友達には誰に対しても優しい気持ちで接し、楽しく過ごしていくことです。亡くなった友達の分ま
 で、いつも前を向いてしっかりと進んでいきたいと思います。
  それが、大震災で傷ついた家族や友達との絆を大切にすることになると思っています。

 
 「お父さんも最後まで子どもたちを守ろうとしていた」。子どもたちを犠牲にしようとする教師はいません。大川小学校の事故の検証・裁判もそのことを踏まえて進められなければなりません。犯人探しのようなことが行われるとしたら亡くなった人たちが浮かばれません。
 震災後は防災教育が言われています。命を大切にする教育、そのための防災教育の重要性が見直されなければなりません。学校は、気仙沼市立岩松小学校のように命を守るところです。

 震災から3年と8か月を迎えました。

    関連:「活動報告」 2012.7.6
    関連:「活動報告」 2011.12.9
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