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「サボって」 8時間労働を実現                             その結果、生産性が向上
2014/09/30(Tue)
 9月30日 (火)

 9月25日の各紙は13年度の国語世論調査の結果を取りあげています。
 1つは、名詞に 「る」 「する」 をつけた言い方10例をあげて 「使うことがある」、「聞いたことはある」、「聞いたことがない」 で質問しています。
 「使うことがある」 は多い順に、「チンする」 (レンジで加熱する) 90.4%、「サボる」 (なまける) 86.4%、「お茶する」 (喫茶店に入る) 66.4%などです。逆に 「聞いたことがない」 が多い順は、「ディスる」 (けなすdisrespect) 73.7%、「タクる」 (タクシーを利用する) 71.9%、「きょどる」 (挙動不審) 48.7%などです。
 「聞いたことがない」 が多い3例は 「聞いたことがない」 です。

 6つの慣用句について本来の意味を選択肢で回答させています。
 「世間ずれ」 について、本来の意味の 「世間を渡ってずる賢くなっている」 が35.6%、「世の中の考えから外れている」 55.2%です。「やぶさかではない」 は、本来の意味の 「喜んでする」 が33.8%で、「しかたなくする」 43.7%、「煮詰まる」 は、本来の意味の 「結論が出る状態になる」 51.8%、「結果がでない状態になる」 40.0%です。
 そうすると職場の会議で議長が 「話が煮詰まってきましたね」 と発言したら、半々ぐらいで違う受け止め方をすることになり、議論に2つの方向が登場します。「やぶさかではない」 も含めて職場でトラブルが発生しないはずがありません。
 誤った使用が行われてそのまま維持されるのは、口頭によるコミュニケーションが少なくなっていることにもよります。
コミュニケーションは65%がお互いのしぐさ、表情、声の調子、雰囲気など “言外の言葉” による他者との結びつき、相互確認だといわれます。言葉の使用が間違っていることを相手の動向などから気付いて修正することもできます。しかしパソコンやメールでは字面だけです。
 そして現在の関係性は、相手の間違いを指摘すると人間関係を壊してしまうという薄氷を踏むものになっています。

 敬語についての質問です。
 敬語が必要かという質問に、各年代で90%以上が必要と回答しました。20代以下では100%です。
 必要とする理由は、20代以下では 「相手と自分の立場をはっきりとさせてけじめをつけることができる」 が最も多くありました。30代以上は 「相手を尊敬する気持ちを表せる」 です。20代以下は立場の違いを確認するためで、30代以上は相手への畏敬です。ゼネレーションギャップでしょうか。20代以下には意識として支配構造やマニュアルのしかかっているのでしょうか。
 もう1つ、人とのコミュニケーションについても調査しています。
 人と接する時の態度について、10代から40代は 「相手や場面で態度を変えようとする」、60代以降は 「いつも同じような態度でいようとする」 が多数を占めます
 若い世代は 「場の空気を読んで」 対応しているようです。


 さて、「サボる」 についての調査が今頃行われています。
 サボタージュは、20世紀初めにフランスの労働者がサボ (木靴) で機械を蹴飛ばして壊した戦術に由来します。
 日本では1919年9月半ばから始まった神戸の川崎造船所の争議で行使された戦術です。 「サボる」 という言葉が流行しました。提唱したのは大阪毎日新聞の記者・村嶋帰之です。村嶋は記者としてだけでなく労働運動活動家として労働者とむかいあっていました。労働者代表による嘆願書の作成にも関与しています。
 村嶋は、1905年にアメリカで設立された急進的労働組合・IWW (世界産業労働組合) から送られてきたパンフレットでサボタージュの戦術を知ります。日本で以前から実施されてきた 「やなぎ」 や 「阿弥陀」 のようなものです。ストライキではないので職場を離れません。

 では川崎造船所争議とはどのようなものだったのでしょうか。木村和世著 『路地裏の社会史 大阪毎日新聞記者 村嶋帰之の奇跡』 (昭和堂) を中心に追ってみます。
 
 第一次世界大戦が終結し、1919年6月年にパリ和平会談が調印されます。4月にはILO創設とともにその一般原則として 「1日8時間、1週48時間労働」 を採択し、10月に開催した総会は第1号議案として取り上げました。
 友愛会は 「大日本労働組合総同盟友愛会」 と改称し、その政綱にILOの一般原則を盛り込みました。
 大戦を通して日本経済は飛躍的に発展し、同時に労働運動にも影響をあたえます。労働者は 「労働組合を公認せよ」 の合言葉で立ち上がっていきます。

 9月14日、川崎造船所の造船、電気、取り付け各部労働者代表は合議の結果、日給の値上げ、賞与支給など4項目の労働条件の改善を求めた嘆願書を作成し、翌日松方社長に提出します。
 当時の友愛会は個人加盟であり、友愛会が争議を指導すれば治安警察法第17条を盾に弾圧される恐れがあったので実行委員会を選出して闘われました。
 しかし、社長は、賞与などについては了承したが、賃金については 「8時間労働制の原則を採用することに関連して考慮中だからしばらく待って欲しい」 と回答します。代表者委員が職場に戻って報告すると職工たちは納得しないで事務所に押しかけようとしたので代表者委員たちは職場に押し戻しました。
 職工たちは18日から一斉にサボタージュ闘争をおこないます。村嶋の提唱です。19日には兵庫分工場に飛び火、22日には久保田鉄工所の労働者にも動揺が広がります。
 2回目の会見で社長は 「みな俺を信じて、まじめに働け」 と怒鳴ります。
 26日、代表者委員たちは今後の対応を代表委員の投票で決定することにします。投票結果は 「社長一任に反対」 が上回りました。そして罷業の戦術に切り替えます。
 27日、4回目の会見で、会社は10月1日からこれまで10時間労働だったのを8時間労働制とするが賃金は10時間と同額にする、そして歩増増加および本給繰り入れを認めたので解決に至りました。
 10月より兵庫分工場、葺合分工場、ついで本社工場において8時間労働制が実施されました。
 その結果、出勤率が上がり、労働意欲が高まって生産性も向上したといいます。

 川崎争議は全国的に大きな反響を呼び、10月以降は他の工場労働者が8時間労働制を要求していきました。関西では、播磨造船、大阪汽船会社、川北電気、田中電気、神戸製鋼などが8時間労働を採用しました。
 村嶋は、サボタージュが工場民主、普通選挙、運動の蓄積などを労働者にたちにもたらした、とくにサボタージュ続行か同盟罷業かという重要な選択を労働者自身の手で行ったということが、普通選挙につながると評価しました。

 1993年に兵庫労働基準連合会は、日本で最初に8時間労働制を実施したことを記念して、“はねっこ” という はね橋歩道の近くに 「八時間労働発祥の地」 の碑を建てました。川崎造船所 (現・川崎重工) はここに隣接していました。


 第1次世界大戦が終結すると造船不況が押し寄せます。1920年3月の恐慌はそれまでの労使関係を一変させます。
 1921年にワシントンで海軍軍縮会議が開かれ、22年2月、「海軍軍事制限条約」 を調印すると造船、鉄鋼業などの受注が減り深刻な打撃をうけました。
 造船各社の馘首 (首切り=解雇) や賃下げに対して苛烈な闘争が繰り広げられていきます。

 21年春先から関西では争議が相次ぎます。
 5月から始まった大阪の藤永田造船所争議に続いて、6月25日には神戸の三菱造船、川崎造船の2大造船所で大きな争議が起きます。
 三菱内燃機工場の労働者は 「賃上げ」 「横断組合への加入の自由」 「8時間労働制」 など9項目の嘆願書を会社に提出。発動機工場、機械工場、艤装工場の労働者たちもこれに呼応してサボに入り、友愛会に加盟します。これに対して会社側は首謀者の解雇をもって対抗します。

 7月5日、神戸友愛会などが集まる実行委員会は、川崎造船所、三菱造船所、神戸製鋼所に覚書を提出します。「横断組合への加入の自由」 と工場委員制度をなどの要求です。しかし会社の回答は、労働者が労働組合を作るのは自由だが認めないというものでした。
 会社側のトップ間では 「交渉委員トシテ現ハルヽ職工ヲ容赦ナク馘首」 と決めていました。6日、各工場の部長が該当する労働者に解雇を通告します。労働者は構内から構外に出て示威行動を展開します。
 午後6時、新開地の湊川勧業会館で不当解雇者慰問団主催の三菱造船所不当解雇糾弾演説会が2000人以上を結集して開催されました。
 7日、川崎造船所では解雇された幹部の処遇をめぐって、怠業が決行されます。
 兵庫分工場の労働者1000人が労働歌を歌って会社に押しかけると、阻止しようと棍棒や匕首をもった右翼との間で乱闘になります。
 8日、労働者たちは3万7千人から4万人が大倉山公園に集まって示威行動を行います。8日、2つの争議団は合併し、三菱・川崎争議団が結成されます。
 こうして10日には、神戸労働組合連合団主催のもとに、三菱・川崎の両造船所工員約3万人を中心とし、神戸印刷工組合、東神鉄工組合、その他友愛会所属組合員あわせて3万7千人が神戸の町全体をおおう大示威行動を展開。神戸製鋼所は半怠業状態となりました。

 13日、川崎本工場罷業状態は続いていました。友愛会は、川崎造船所本工場、分工場において13日に要求書をいっせいに提出することを決定し、もし要求書が受理されない場合は14日に特別委員を設けて 「川崎産業委員会は大正19年7月14日より川崎造船所所属各工場の作業を管理することにいたします」 と宣言しました。自主管理です。この 「工場管理宣言」 を警察側は強奪ととらえて硬化します。

 14日、労働者は工場に集まってきますが、会社側はロックアウトを行います。内務省は、14日から全市にわたる示威行動を禁止します。知事の出動を要請により早朝から姫路歩兵隊が三菱工場内の部署につきました。しかし労働者の弾圧に軍隊を使うことには在郷軍人からも批判が出、電柱に批判のビラが貼られました。
 争議は長期化の様相を見せ始めます。会社は実行委員を次々に解雇していきます。

 罷業団はたちまち生活費に窮することになります。行商団を組んで各地に石けんやタオルなどの日用品やビール、酒、サイダー、かぼちゃなどを売って回りました。市民は争議団に同情を示していました。
 しかし川崎造船所の両社とも大量馘首を発表するとし、争議団の資金は枯渇していき、脱落組合員が出はじめ、当の三菱・川崎の組合員の間にも疲れがみえはじめました。
  「神戸三菱・川崎造船所争議」 を支援するために絵葉書が作られて売られます。

 実は、この絵葉書を5種類持っています。以前、父親が兵庫出身の人から 「これなんだろう」 と見せられました。遺品を整理していたら出てきたのだそうです。そして 「いらなからあげる」 ということで貰いました。「CARTE POSTALE」、右から左に 「郵便はがき」 と印刷された裏側は、「前代未聞ノ關西ニ於ケル大團結労働争議驚天動地ノ大示威運動ノ実況」 写真で、「示威運動行列市街通過」 などの説明があります。


 7月28日、市内デモを禁じられた組合員1万数千人は長田神社、湊川神社に集まりました。
 29日夕刻「警察は三菱・川崎の両争議団本部、友愛会神戸連合会を急襲、賀川豊彦、久留弘三、野倉万治その他200人余の指導者を検束してしまいます。検束された者は700人以上にものぼり、解雇者は増え、切崩しははげしくなっていきました。
 8月2日、川崎造船所の労働者が負傷し死亡します。幹部を失った罷業団は勢いを失っていきます。
 5日は半月分の賃金支給日でしたが罷業団には支給されません。
 8日罷業団幹部は9日からの一斉就業を決定します。
 12日、両罷業団は一切の仲裁を断り、涙をのんで 「他日の再起を期する態度をえらぶことを決定し」 て無条件降伏を行い、「惨敗宣言」 を発しました。
 争議をとおして川崎造船所で505人、三菱造船所で571人、神戸製鋼所で30人におよぶ解雇者がでた。しかし解雇者はその後、各地の職場に散り、組合運動の組織者になっていきました。


 「このような 『惨敗』 は、労働者を合法主義的闘争から実力行動へ追いやったことはたしかだった。サンジカリズム的な暴力と 『直接行動』 の方が労働者に何かをあたえてくれるだろうとかれらは期待するようになった。力のミュトス、それが普選絶望と三菱・川崎両造船スト惨敗が労働者にのこした教訓だった。」 (大河内一男著 『暗い谷間の労働運動』)
 

 日本で労働者が闘いによって8時間労働を実現させてからまもなく100年になります。
 しかし現在の労働者が置かれている状況は、労働者が闘うことなく100年前から歴史が逆に流れていっているように見えます。
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過去が改ざんされ、未来にウソをつかれている
2014/09/25(Thu)
 9月25日 (木)

 9月14日の朝日新聞の 「政治断簡」 は、沖縄・宜野湾市の普天間飛行場の成り立ちにふれていました。
 沖縄国際大学でパネル展が開かれました。目的は、普天間基地が 「原野に飛行場が造られた」 という説が流布されていることへの誤解を解くためだといいます。
 原野に造られた説は、後からカネ目当ての者が出てきて所有を主張している、基地撤去の要求はカネ目当てという世論形成のためのようです。歴史が改ざんされて利用されようとしています。沖縄の人たちの思いを踏みにじる行為です。
 沖縄戦からまもなく70年を迎える中ではさまざまな誤解が生まれ、それを真に受けるということもあるとおもいますが、住民あげて撤去を要求している基地の成り立ちについてはきちんとおさえておくことが必要です。
 もしかしたら誰が建設したのかについても誤解が起きているのでしょうか。
 
 このパネル展に掲げられた写真を直接見たことがあります。
 20数年前の6月に宜野湾市を訪問した時、ロビーで 「宜野湾市と戦争」 のテーマで写真展が開催されていました。その中には、今の普天間基地の中心部を撮った沖縄戦前の風景もありました。那覇と名護をつなぐ琉球松のトンネル並木が続く街道でした。集落の風景もありました。のどかでした。
 戦時中の写真もありました。宴会会場で中年男性の集団がかなり盛大な宴のあとに酌婦たちと肩を組んだりしながら写っています。柱には 「壁に耳あり 話すな軍機」 の標語が張られています。標語は守られたでしょうか。
 他にも米軍が上陸した後の、捕虜の列と収容所の光景などもありました。
 普天間一帯は平地が広がり、西は海に面して暮らしやすいところでした。

 1945年4月1日、米軍が沖縄本島中部の読谷・北谷海岸に上陸し、南北に分かれて進撃します。南に進撃する米軍に対峙する日本軍は後退を続けますが、普天間では並木の老松を切り倒して戦車を装って組み立て、米軍の進撃に時間稼ぎをしたといいます。
 その後、普天間の南に位置する嘉数高地では10数日間にわたって一進一退の戦闘が繰り広げられます。米軍の上陸は想定されていて朝鮮半島から軍夫を強制連行してきてトーチカなどの強固な陣地構築をしていました。構築にたずさわる者たちのために近くには慰安所も設置されました。
 4月19日に日本軍が嘉数高地から敗退した跡に米軍は普天間に飛行場を建設します。
 普天間基地は住民の土地を日本軍と米軍が荒らした後で米軍が奪ったものです。それが強化・拡大されて現在に至ります。

 普天間基地周辺は、沖縄では珍しく平地が広がっています。そこの真ん中に基地が居座っています。
 宜野湾市は 「アンパン」 だといわれました。市街地の真ん中のおいしいアンの部分を基地が占め、周囲の皮の部分に住民がへばりついています。基地は市を東西に分断し、学校は日常的に戦闘機の騒音に苦しめられています。それだけではなく振動被害もあります。そして事故があります。

 今、普天間基地の移転先という口実で辺野古基地建設が進められようとしています。
 辺野古基地は、米軍基地を建設する振りをして、将来は自衛隊を駐留させるのが隠されている目的だとも言われています。
 過去が改ざんされ、そのうえ未来にウソがつかれています。
 沖縄の人たちは沖縄からアンを押し出そうと闘い続けています。


 では他の基地の成り立ちはどうだったでしょうか。ここでは歴史が隠されています。
 1943年半ばまで、沖縄は日本軍にとっては重要な拠点ではありませんでした。
 3月からは伊江島と本島・読谷で飛行場建設が開始されていました。
 9月30日に大本営は 「絶対国防圏」 を設定します。第一線陣地のマリアナ諸島を背後から防衛・支援するため沖縄は第二線陣地 (航空基地) の役割を担うことが決定されます。
 しかし44年2月17日に最前線基地であるトラック島が壊滅、第二戦陣地は完成する前に最前線になります。大本営は大急ぎで沖縄の兵力を増強。9月末までに、伊江島2本と読谷 (北) を含めて喜界島、奄美大島、徳之島、沖縄本島4本 (北と中、南、小禄)、宮古島3本、石垣島2本、南大東島の飛行場に15本の滑走路を完成させます。

 具体的に見てみます。
 1943年8月、伊江島に沖縄の各市町村からの徴用人夫で東西2本の滑走路建設を始めます。しかし45年3月、米軍の攻撃が予想されると日本軍の命令で爆破されます。沖縄戦が開始されて間もなく伊江島は米軍の猛攻撃をうけ 「集団自決」 も起きます。そして米軍が占領します。日本軍が爆破した基地は修復されて米軍の基地になります。
 8月9日にテニアンをたって長崎に原爆を投下したB29はその後伊江島場飛行場に着陸し、給油をしてもどります。
 8月29日、マッカーサーはマニラから伊江島に来てそのあと厚木基地に向かいました。

 伊江島における要塞建設の作業工程が軍の記録である 「陣中日記」 に記載されています。1944年5月24日付の 「陣中日記」 です。
 「一、作為セシ命令左ノ如シ
  要建六中作令第二十九号
  要塞建築勤務第六中隊命令
  一、中隊ハ明二十五日建築中ノ兵寮ヲ物品販売所ニ改築シ新ニ慰安所建築作業ニ仕セントス」 (九州
   弁護士会連合 会発行 『第45回九弁連大会シンポジウム報告書』 1992年に収録)
 基地建設に際しては同時に慰安所設置が開始されています。

 読谷村に建設された北飛行場は、現在の読谷補助飛行場です。完成しても日本軍によって使用されることはありませんでした。米軍が45年4月1日に読谷村の海岸から上陸すると日本軍は使用不能にして逃走します。米軍は3日から使用を始めます。

 北飛行場のことが記載されている1944年12月25日付の 「陣中日記」 です。
 「(ロ) 荒武上等兵ハ兵20名ヲ指揮シ軍人倶楽部改築及、鉄工場設置並ニ木工雑作業ニ従事セリ
  進度 軍人倶楽部内部改造 五分通リ迄」
 北飛行場にはこれ以外に2ヵ所「軍人倶楽部」が改築されて設置されました。その1つの既設と改築の設計略図が添付されています。4畳半6部屋と板の間が11部屋に仕切られています。

 中飛行場は現在の嘉手納基地です。戦前は本島中部の教育、文化、経済の中心を占めていました。
 しかし米軍が上陸すると一帯が焦土と化します。米軍は飛行場を占領し整備拡大して、6月には使用開始されます。基地内には女子挺身隊20人の集団自決跡が残っています。

 中飛行場のことが記載されている1945年1月13日付の 「陣中日記」 です。
 「二 部隊ノ混住ニ伴フ風紀対策ニ就テ
  三 慰安所ノ問題ニ就テ」
とあります。また
 「8 慰安所ノ使用時間ヲ厳守サレタシ」
とあります。混成部隊では部隊同士でいさかいが起きていて、規則が守られていない様子が伺えます。

 このようにして日本軍が建設した飛行場を、戦後占領した米軍は拡大して使用して今も居座っています。


「本年 (1992年) 9月5日、那覇で開催された 『第5回全国女性史研究交流のつどい』 で 『沖縄の女性史を考える会』 によって公表された沖縄県内慰安所、慰安婦の実態報告は、祖国復帰まもない1972年 (昭和47年) 8月に行われた 『第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団』 (団長、尾崎陞弁護士) の調査報告に次ぐ沖縄県内における総合的な報告であった。
 この 『沖縄の女性史を考える会』 の報告によると慰安所は全県下 (奄美、徳之島は含まず) のべ121ヵ所、朝鮮人慰安婦は推定554人以上 (本年8月調査段階) というものとなっている。この調査結果は、これまでの文献資料と 『考える会』 独自の現地調査および聞き取りによるものである。」 (『第45回九弁連大会シンポジウム報告書』)
 慰安所は同時期に121ヵ所存在したわけではありません。工事が終了すると閉鎖されて 「慰安婦」 は移動させられます。戦況が変わると部隊とともに移動させられます。
 「慰安婦」 については朝鮮出身者だけでなく現地からも強制されています。

 慰安所運営については民間が経営し、「慰安婦」 は強制連行ではなく募集に応じた人たちだったという主張があります。
しかし、軍が設置し、利用規則を作成して利用券を発行しながら関与していないというのは言いすぎです。戦闘が始まる前には民間人が経営に関与することもあったことは確かでしょうが、戦況が厳しくなる中で部隊と民間人経営者が一緒の行動をとっていたとは思われません。しかし 「慰安婦」 は行動をともにさせられました。まさに 「従軍慰安婦」 でした。

 「従軍慰安婦」 が存在したか、しなかったのかは形式論ではなく実態での検証が必要です。
 1872年 (明治5年)、「娼妓解放令」 が出されます。楼主と娼妓は単なる金銭上の契約関係になります。娼妓になるためには 「娼妓取締規則」 にしたがって同一戸籍内にある最近尊親者の承諾が必要で、所轄警察署の娼妓名簿に登録申請する必要があります。廃業するには登録を抹消してもらえばいいだけです。簡単にいうと奴隷のように従属させてはいけないのです。
 しかしこの論理が遊郭で通用していたでしょうか。実際は騙されて募集に応じたり、親から売り渡されて減らない借金を返済し続けなければならない状況におとし込められて身体は拘束され続きました。
 「女工哀史」 の女工も契約関係がありました。しかし実際はどうだったでしょうか。
 戦後に労働基準法に盛り込まれた退職の自由意思、「賠償予定の禁止」 「前借金相殺の禁止」 などはこの教訓を踏まえたものです。

 「娼妓解放令」 は軍隊でも治外法権ではありませんでした。「同一戸籍内にある最近尊親者の承諾が必要」 で本人の意思に基づく契約関係がなければならないのです。軍を含めて行政機関はそのことを知っていたので 「従軍慰安婦」 について文書等の記録には残しませんでした。
 軍隊内に 「従軍慰安婦」 を存在させることはできません。そこで 「慰安婦」 は存在させても、形式的には民間業者が介在したことにします。

 「従軍慰安婦」 はどこからどのようにして集められたのでしょうか。
 実際には朝鮮半島で民間業者が介在した場合は騙したり、軍の命令を盾にしたりしました。警察が強制的連行などを行なって軍に引き渡したりもしました。民間業者を表に出して隠れ蓑にし、軍が強制連行が行われたことを認めないのです。違法なことがあったとしたら民間業者がしたのです。
 このような構造は、現在の偽装派遣などの例と重ねるなら簡単に理解できることです。実際の指揮命令は軍隊です。現在の非正規労働者の実態を理解しようとしない者たちが 「従軍慰安婦」 の存在を否定しようとしています。

 記録として残っていないから強制連行はなかったのでしょうか。
 すでに名乗り出ただけでもたくさんの証人がいます。証人が何ものにもまさる証拠です。
 まだまだ名乗り出ていない証人はたくさんいます。名乗り出れない現実があります。


 「従軍慰安婦」 についての議論が巻き起こっていますが、証人の人たちが亡くなっていっているのを見計らって存在を否定しはじめているように受け止めてしまいます。
 軍隊は人権を踏みにじり、日本政府はさらにその上で人権を無視しようとしています。

 歴史は為政者によって書き換えられ、偽造されます。「従軍慰安婦」 問題はまさにこの典型です。許すことはできません。
 早期の 「従軍慰安婦」 の人たちの人権を回復させなければなりません。

    関連:「活動報告」 2013.4.16

    関連:「活動報告」 2012.5.15
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東日本大震災から3年半……
2014/09/17(Wed)
 9月17日(水)

 東日本大震災から3年半が過ぎました。
 しかし復興はなかなか進んでいません。
 一番遅れているのが住宅です。福島原発事故による避難者を含みますが、岩手、宮城、福島三県で避難生活を送っている人たちはまだ24万6千人もいます。8万9千人がプレハブ仮設住宅で生活しています。
 プレハブ住宅は2年間の使用予定で建設されました。そのため傷みも出てきています。建設してすぐに夏は暑すぎる、冬は水滴が発生すると指摘されました。しかし実際は建設前から指摘されていたことです。阪神淡路大震災の教訓が活かされていません。
 三陸海岸は山を背負っています。材木は豊富にあります。少し内陸に入ったあたりの高校にはかつて林業科が設置されていました。港の船主は立派な御殿を建てます。大工は “気仙大工” と呼ばれる腕のいい人たちです。岩手県の一部では仮設住宅を地元の木材を活用して建設しました。解体後の材木は再利用を予定しています。ここは暑くも寒くもありません。宮城県は最初から木材の利用を検討することも排除しました。大手建設会社の方を向いて復興に取り組みました。

 現在、岩手、宮城では2万1千戸の災害公営住宅建設を計画していますが、7月末段階で計画の10%しか進んでいません。年度末までには32%完成する予定だといいます。福島県は全体計画を作れない状況にあります。

 このような状況をもたらしたのは2020年開催予定の東京オリンピックです。被災地に人手不足と資材不足をもたらしました。建設に着工してもその先がなかなか進まないのです。そして漁民と生活のための海を遮断する膨大な防潮堤建設です。住民の要望を聞き入れないで進めています。鉄骨とセメント業者だけを潤わす事業です。


 震災から3年半が経つと風化が進みます。一方、忘れてはいけないという思いからのイベントも催されました。
 9月12日から15日までの夜、赤坂のミッドタウンの芝生で多摩大学の学生による 「日本大好きプロジェクト」 が 「和紙 キャンドルガーデン」 を製作しました。ガラスのコップに蝋燭の灯をともして和紙を巻きます。そのキャンドルを集めて 「2014」 「伝書鳩」 「TOHOKU」 を描き、周りを42個の七宝模様の輪が囲みます。和紙には、被災地と避難先の42市町村で生活する人たちから支援への感謝の気持ちと復興・発展にかける思いを書いてもらいました。伝書鳩にのせて全国に届けるというイメージです。全国との “つながり” を表しているといいます。
 
 ガーデンを回っていると、前を歩いている2人連れの会話が耳に入ってきました。
 「中学校の卒業式の答辞で……自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で……天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていく……感動ものだった……」
 宮城県気仙沼市立階上 (はしかみ) 中学校の卒業式の答辞です。
 答辞は本当に誰にとっても感動的なものでした。


 2011年3月23日のテレビニュースで、前日にとりおこなわれた宮城県気仙沼市立階上中学校の、10日遅れの卒業式の模様が流されました。
 被災者が避難している体育館の半分を使って行われました。

 卒業生代表の答辞です。

 本日は未曾有の大震災の傷も癒えない最中、私たちのために卒業式を挙行していただきありがとうございます。
 ちょうど10日前の3月12日。春を思わせる暖かな日でした。私たちはそのキラキラ光る日差しの中を希望に胸を膨らませ、通いなれたこの学舎を57名揃って巣立つはずでした。
 前日の11日、一足早く渡された思い出のたくさん詰まったアルバムを開き、10数時間後の卒業式に思いを馳せた友もいたことでしょう。「東日本大震災」 と名づけられる天変地異が起こるとも知らずに。
 階上中学校といえば 「防災教育」 といわれ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私たちでした。しかし自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私たちから大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というにはむごすぎるものでした。つらくて、悔しくてたまりません。
 時計の針は14時46分を指したままです。でも時は確実に流れています。
 生かされた者として顔を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。
 命の重さを知るには 大きすぎる代償でした
 しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことがこれからの私たちの使命です。
 私たちは今それぞれの新しい人生の一歩を踏み出します。どこにいても、何をしていようとも、この地で仲間と共有した時を忘れず、宝物として生きていきます。
 後輩の皆さん。階上中学校で過ごす 「あたりまえ」 に思える日々や友だちがいかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごしてください。
 先生方、親身のご指導ありがとうございました。
 先生方がいかに私たちを思ってくださっていたか、今になってよく分かります。
 地域の皆さん、これまで様々なご支援をいただきありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
 お父さん、お母さん、家族の皆さん、これから私たちが歩んでいく姿を見守っていてください。必ずよき社会人になります。
 私は、この階上中学校の生徒でいられたことを誇りに思います。
 最後に、本当に、本当に、ありがとうございました。

                    平成23年3月22日

 「階上中学校といえば 『防災教育』 といわれ 内外から高く評価され 十分な訓練もしていた私たちでした。」 しかし東日本大震災で3人の卒業予定者を亡くしていました。
 保護者の席には野球のユニフォーム姿でランニングをしている選手の遺影をもったお父さんがいます。おそらく野球部所属の地域では有名な選手だった彼ではないでしょうか。
 今春の第86回選抜高等学校野球大会に気仙沼市にある東稜高校が選ばれました。一回戦で敗けてしまいましたが、ベンチでは遺影がグランドを見つめていました。生きていたら3月に高校卒業でした。

 震災の年に中学卒業を迎えた生徒たちは、3年半という月日の中ですでに高校を卒業して社会人か大学生になっています。
 三陸海岸沿いの中学生のなかには、自宅から通学できる高校がない生徒も大勢います。中学卒業は自宅から離れる時です。3年半は、そのような子どもたちが卒業して戻って来たり、社会人になったり、進学でさらに遠くに行ってしまっている時です。


 石巻市門脇小学校は地震の後津波に襲われ、さらに津波火災にあいました。(2011年12月9日と2012年7月6日の 「活動報告」 参照)
 門脇小学校は門脇中学校の校庭に仮校舎を建てました。震災の年に小学校を卒業した児童たちはその中学校を卒業し、いまは高校生になっています。

 1か月遅れでとりおこなわれた門脇小学校の卒業式の鈴木校長のあいさつです。

 いま、巣立ちゆく皆さんひとりひとりに、卒業証書を手渡しました。この卒業証書は、6年間の小学校の学業を修めたという証です。卒業証書を受け取るときの皆さん、真っ直ぐな視線、堂々とした態度に、大震災を乗り越えようとする強さとたくましさが感じられます。悲しいことに、まだ行方不明の○○君、また震災後、石巻の地を離れ、新しい土地で、新学期を迎える子どもたちに、この卒業証書を直接渡すことができなかったことが、残念でなりません。

 あの尋常ならざる強い揺れの中、あなたたちは、校庭へ一時避難。無事、全員の点呼確認が終わるやいなや、大津波警報の知らせに、そのまま日和山へ。鈍色の雲が低く垂れ込め、けたたましく緊急事態を告げるサイレンの音、雪がこともなげに吹きつける悪条件が加わるという不穏な雰囲気の中、あなたたちは、地域のお年寄りや、小さな子どもたちの手を引きながら、落ち着いた足取りで避難したのでした。
 日和山へたどりついても、寒さに震える下級生を守ろうと、教頭先生から渡されたブルーシートの端を持ち、待ち続けたのでした。非常時において、あのような思いやりの行動がとれるということは、大変素晴らしいことだと感心させられました。きっと下級生や、地域の方の心にも残ることでしょう。
 日和山から望む私たちの街は、本当に美しい街でした。学区の東側を流れる北上川は、日和大橋からゆったりと太平洋に注ぎ、揚々と望みを抱かせる海に面した山は、石巻の顔であり、私たちの自慢の風景でした。
 それが、あの日、大海原は川を変え、牙をむき出し、一瞬のうちに私たちの街をのみ込んでしまったのです。そして、瓦礫の山と化してしまったのです。
 すさまじい光景。惨状。自然の脅威に、語るべき言葉を失ってしまいました。私たちの校舎も、大破、炎上しました。燃え尽くされ、黒焦げになってしまった校長室。その中で、堅牢な耐火金庫のみ、なぎ倒され、残っていました。皆さんが、いま手にした卒業証書は、その中にあったんです。まさに、奇跡といえるのではないでしょうか。
 この卒業証書は、皆さんのこれまでの努力と、頑張ってきた姿を、しっかりと認め、励ますために、生きていたのだと思います。希望の確かな証である、この卒業証書を手にした皆さん、これから歩みゆく道は、険しく、厳しいものであろうとも、それを切り抜くエネルギーを持ち、強く生きてください。多くの人たちが、支えてくださっているのですから。
 保護者のみなさん、子どもたちは、感謝の気持ちを込めて、思い出の残る最高の式にしたいという願いを持って、前進を重ねてまいりました。そのすべてをお見せすることができない形で、このような卒業式になったことをお許しください。しかしながら、私はこの卒業生の姿に、いまなお、黒く焼け焦げた校舎の屋上で、燦然と輝いている『すこやかに育て心と体』。門小が目指してきた子ども像です。子どもたちのこの成長ぶりこそ、これまで 『子育ては子守』 を合言葉に、学校、家庭、地域がともに手を携え、愛しみ、育ててきた、何よりの財産なのではないでしょうか。
 1000年に1度という大津波に遭遇し、愛する街、愛する人、思いでいっぱいの学びの校舎は、失われてしまいましたが、子どもたちを愛しみ、育ててきた営みは、137年の歴史と伝統を持つ門小の1ページ、確かな歩みとして、刻まれることと確信しています。
 未曾有の災害の中で、重ねた命です。厳しくとも前途多難な子育てになると思いますが、子どもたちがそれぞれの道で、春を迎えることができるよう、親として、大人としての務めを果たそうではありませんか。
 『桃花笑春風(とうかしゅんぷうにえむ)』。この言葉は、奇しくも3月11日の朝会で、子どもたちに贈った言葉です。困難を乗り越え、強く生き抜くことを祈念してやみません。
  巣立ちゆく 被災の子らに 桜かな
 卒業、おめでとう。ひと月遅れの卯月の卒業式」

 感動する送る言葉です。

 震災の時に高校を卒業して社会人になった生徒は新人とはいえない存在になっています。進学なら4年生で就活中です。こう捉えると3年半はかなりの時間です。

 しかし被災地を見ると震災がつい先日だったような状況です。天を恨むことはしなくても政治を恨んでしまします。

 震災から3年目を迎えた時に福島の被災者が短歌を詠みました。

  あの日から ガマンガマンの石の上
   たかが3年 されど3年

    関連画像

    関連:「活動報告」 2012.7.6
    関連:「活動報告」 2011.12.9
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社会全体が、救援者を労うことを忘れてはならない
2014/09/12(Fri)
 9月12日 (金)

 8月20日の明け方、広島県安佐北区、安佐南区での局地的な豪雨によって土石流が発生し、住宅地を呑み込みました。
 ただちに消防、警察、自衛隊が災害救助にあたりましたが彼らも危険と隣り合わせです。
 死者は74人に及びましたが、その中に子供の救出に向かった消防士1人が含まれます。住民が見ている中で土石流の中に消えていきました。

 マスコミ等は災害が発生すると被災者や子どもたちの「こころのケア」の必要を説きます。しかし救助に携わった者たちについてはあまり触れません。阪神淡路大震災、東日本大震災の教訓はまだ充分に活かされているといえないようです。
 このような中で、9月9日付の 「毎日新聞」 は 「広島土砂災害:消防職員5%にストレス反応 PTSD懸念」 の見出し記事を載せました。「作業中、疲れた表情を見せる消防隊員」 の説明文の写真も載っています。さすが労災にこだわり続ける毎日新聞です。長いですが今回の震災における救援者を取りあげた唯一の記事ですので全文を紹介します。
「広島市消防局が、今回の土砂災害で捜索活動に携わった隊員を含む全職員約1300人を対象に健康状態を調べたところ、5%程度に当たる60〜70人が、配慮が必要なストレス反応を示していたことが分かった。今後、PTSD (心的外傷後ストレス障害) に発展する可能性もあるとして、産業医の面談などを通じて対応する。
 『年に数度しかない過酷な現場が、毎日続いている状況だ』。広島市消防局職員課の石原正記課長補佐は、険しい表情を見せた。安佐北消防署の消防司令補、政岡則義さん (53) が3歳の男児の救助活動中、崩れた土砂に巻き込まれて死亡。発生から間もなく3週間になるが、依然行方不明者2人の捜索が続いている。
 一般的に災害などの救助活動中に同僚が殉職したり、損傷の激しい遺体に接した場合などにストレスが生じやすいとされる。通常は1カ月ほどで治まるが、1カ月以上続くとPTSDと診断される。
 市消防局は災害発生の2日後から全職員に『惨事ストレスによるPTSD予防チェックリスト』を配布して健康状態を調べた。強い動悸 (どうき) がする▽活動が実を結ばない結果に終わり、絶望や落胆を味わった▽活動中に受けた衝撃が、数時間しても目の前から消えなかった−−など19項目について尋ねた。このうち、配慮が必要とされる4項目以上に該当する職員は60〜70人に上った。何らかの対応が必要とされる8項目以上について該当すると答えた職員も数人いたという。
 災害時のPTSDを巡っては、東日本大震災から約1年後に警察庁が岩手、宮城、福島の3県警を対象に実施した惨事ストレス調査で、職員の4%にPTSDを発症するリスクがあると発表したケースがある。
 市消防局は大きな被害が出た安佐南区を担当する安佐南消防署の全職員や、死亡した政岡さんと共に活動していた隊員らにPTSD発症のリスクを判断する指標を用いて面談を始めた。畠 (はた) 秀治医務監によると、隊員は生き埋めになった家族を必ずしも全員は救出できなかったり、救出後しばらくして被災者が死亡したりしたケースでつらい思いをしているという。畠医務監は 『見守りを続けることで、PTSDを発症する職員が1人も出ないようにしたい』 と語った。」

 広島市市消防局は内部から犠牲者が出たということがありますが対応が早いです。
 消防庁は阪神淡路大震災の経験をふまえ、「惨事ストレス」 への対策は他の組織と比べると格段に進んでいます。そして取り組み内容を公表しています。
 消防士も人間です。体調不良者を1人も出さないということは難しいですがより少なくすることはできます。ケアは1年、2年と長い期間必要です。


 阪神淡路大震災の経験を踏まえ、東日本大震災の救援者のケアにも対応した兵庫県こころのケアセンター加藤寛副センター長は「東日本大震災と殉職」のタイトルでコラムを書いています。
「……東日本大震災が阪神・淡路大震災と大きく異なる点の一つは、殉職者の多さである。発生時刻が平日の昼間の時間帯であり、地震から津波襲来までの時間に、防災マニュアルどおりに防潮堤や水門を閉めたり、住民の避難誘導や情報収集などにあたったりした多くの人たちが亡くなった。消防隊員・消防団員262名、警察官25名、自衛官2名のほかにも、役場の職員、教職員、医療機関や介護施設の職員などを含めると、数百人の尊い命が奪われた。

 災害救援者が業務を通して経験する心的外傷 (トラウマ) 体験を、惨事ストレスという。生命の危険を感じる現場活動、悲惨な遺体を扱うこと、過酷な環境での作業などが、その典型的な状況であるが、同僚の殉職はとりわけ大きな影響を、現場に居合わせた同僚のみならず、職場全体に大きな影響を及ぼすことが知られている。

 消防白書によれば、消防隊員の場合おおむね5・6人が年間に殉職している。2011年を除けば、この10年間でもっとも多いのは2003年で、これは兵庫県内で5人が亡くなっているからである。この年の6月、神戸市西区の民家火災で住民の検索のため鎮火した家屋に侵入した救助隊員らが4人、12月には西宮市で商業施設の火災現場で救助隊隊長が、相次いでなくなった。私は両方の事故後に、それぞれの消防本部の依頼を受け、仲間を失った消防隊員たちの面接を行った。そこで感じたのは、組織が職員を労い、そして殉職者をきちんと弔うことの重要性であった。たとえば、神戸市の事故では、過失の有無を警察が捜査している状況であったが、幹部の1人が事故から数日後の記者会見で、「現場の判断ミスではないか」 との辛辣な質問に対して、即座に 「自分は、過失があったとは思っていない」 ときっぱりと言い切ったことが、現場隊員の大きな支えになったと多くの隊員が述べていた。このことを通して、職場が職員を守るという姿勢の重要性を痛感させられた。こうした態度は、1人1人の隊員の適応力を上げるだけでなく、職場全体で危機を克服しようとする力を発揮させる。

 総務省消防庁は大災害や殉職事故などのように、活動した隊員たちが心理的に大きな影響を受ける可能性がある場合に、精神科医や臨床心理士を派遣する制度 (緊急時メンタルサポートチーム) を以前から運用している。私はそのチームの一員として、今回の震災で殉職者が出た宮城県内の2つの消防本部に派遣された。これとは別に、岩手県からの要請で3カ所の被災した消防署を訪れた。ほとんどの署では、大切な車両、機器、そして消防署そのものまでも失っており、全国各地の消防署が置いていった他の地域名が入った車両が、ずらりと並んでいるところもあった。殉職だけでも職場を危機に陥れる一大事なのに、何もかも失っている状況に、私は何を話していいのだろうと途方に暮れてしまった。それでも阪神・淡路大震災や兵庫県内で起こった殉職事故の状況を例に挙げながら、惨事ストレス対策は職場全体で取り組んでほしいことを話した。たとえば、殉職者を弔うことはとても重要で、できれば職場としての葬儀か、せめて遺影を飾ることはできないだろうかと提案した。それに対して、弔いをしたいのは山々だが、消防隊員だけでなく役場の人も、消防団員もたくさん亡くなっていて、消防士だけを特別扱いするわけにはいかないとか、今は体制を整えることが至上命令であってそんな余裕はないという意見が多く返ってきた。しかし、亡くなった人や遺族のためだけでなく、生き残った人のためにも、そうした配慮は大切なのですよというと、少しは理解してもらえたようだった。その後、いくつかの消防署では独自に慰霊式をしたという話しが伝わってきた。……
 社会全体が、救援者を労うことを、忘れてはならない。」


 アメリカの 「9.11ニューヨーク同時多発テロ事件」 で消防士が343人、警察官が23人亡くなりました。ニューヨーク消防本部はその発表の時、亡くなった1人ひとりの名前を読み上げました。日本のような名簿一覧のコピーを報道関係者に配るだけというようなことはしません。そして数日後に星条旗に包まれた棺が、バクパイプの演奏の中をしめやかに送られました。事件後、市民はさまざまなイベントのなかで彼らを称えました。ニューヨークヤンキーズの試合では消防士が始球式でマウンドに立ちました。市民は救援者を称え、最大の感謝の気持ちを社会全体で伝えます。
 グラウンドゼロには一角に殉職者の写真が飾られています。

 翻って日本はどうでしょうか。
 「公僕」 の言われる人たちを称えることに 「やり過ぎ」 の声があがります。覚悟の上での業務だろう、業務だから仕方ないだろうの声が飛びます。ひどいのになると 「遺族は一生喰いっぱぐれがない」 です。その声を殉職者の遺族も仲間も静かに受け入れてきました。救援者の方も、危険に遭遇することは覚悟の業務であり、恐怖感は自分で克服するものと思い込まされてきました。しかしそれでは残った遺族や仲間たちの本当の思いを組むことにはなりません。救援者の行為が報われません。


 今年5月に特殊公務災害の認定条件が緩和され、東日本大震災でこれまで認定されなかった人たちが逆転して認定されるようになりました。
 特殊公務災害とは、公務員が危険性が高い状況で公務をした場合に認められ、給付金が公務災害の最大1.5倍になります。1972年の浅間山荘事件で2人の警察官が犠牲になったのをきっかけに制定されました。

 東日本大震災では、南三陸町で防災対策庁舎に残って防災無線などで住民に避難を呼びかけ続けた32人は最初の申請は不認定でした。遺族が不服申立をして今年の5月に逆転認定になりました。
 仙台市で、上司からの指示をうけて区の車で高さ10メートル以上を予想する大津波警報が出ていた沿岸部で住民に避難を呼びかける広報中に津波に呑み込まれた区職員は 「目撃者がいない」 ということで不認定でした。不服申立をして、「目撃者がいなくても、高度の危険が予測される状況だった」 ということで認定になりました。目撃者は亡くなった住民です。どのような立証が可能だったというのでしょうか。

 13年6月30日付の 「朝日新聞」 によると、その段階で140人が申請し、7割が不認定だったということです。審査の関係者からは、地方公務員災害補償基金が震災後、大量認定・補償による財政的な行き詰まりをふせぐため、認定を抑圧しているとの指摘もでていたといいます。
 ですから公務災害は認定になっても、基金は特殊公務災害制度の説明をしなかったといいます。
 14年6月29日付の 「朝日新聞」 によると 「東日本大震災で危険な公務にあたっている最中に亡くなり、『特殊公務災害』 に認定された自治体職員が、宮城県の75人に対し、岩手県では18人にとどまることがわかった。宮城県では警察官や消防職員に一般職員を加えた122人の遺族が申請しているが、岩手県では一般職員の申請は1人もいない。自治体の周知が遅れ、制度を知らない遺族も多い。」とあります。
 岩手県では8月になって、東日本大震災で公務中に犠牲なった陸前高田市や県立病院の 職員4人の遺族がやっと申請しました。
 地方公務員災害補償基金は、公務員の命を軽んじています。それだけでなく、同僚の命を軽んじています。

 もう1つの事実です。
 東日本大震災の時、地域の寝たきりのお年寄りの救助に駆けつけて犠牲になった民生委員は公務災害が認定されています。
 しかし同じような行動をとっても岩手県では行政区長は認定されません。
 理由は、民生委員は何かあたら駆けつけるのが業務だから、区長は委託の非常勤でそこまでは業務として位置づけられていないということです。双方その地域の事情に精通している者として使命感で同じ行動をとってもこのように区別されるのです。
 今年7月、岩手県ではやっと9人の区長が公務災害に認定されました。


 「東日本大震災と殉職」 のコラムによれば 「『殉』 という漢字は、古代の中国で主君が亡くなった時に家臣が殺され、主君の遺体の周りに埋葬されることを意味しており、兵馬俑はその故事を象徴しているとされる。」 のだそうです。

 だれも国家のために、主君のために、市民のために犠牲者になることを強いられる必要はありません。
 しかし救援者がその使命感から犠牲になってしまったら、社会は最大の敬意を称える必要があります。みな尊い命です。
 それは社会の安全と安心を再確認するためのものでもあります。

   「公務災害」

   「こころのケア」
    関連:「活動報告」 2014.3.7
    関連:「活動報告」 2013.3.5 
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ファーガソンでの黒人の抗議行動の背景にあるもの
2014/09/09(Tue)
 9月9日(火)

 アメリカ米中西部ミズーリ州セントルイス近郊ファーガソンで、8月9日に黒人青年が白人警官に射殺されたこと事件への抗議行動が拡大、連日警官隊と激突を繰り返しました。警官隊に対してもデモに過剰対応したと批判されています。
ニクソン州知事は16日にファーガソンに非常事態を宣言し、午前0から5時までの夜間外出禁止令も発令、18日未明には、治安回復と住民保護のため、州兵を投入する行政命令に署名したと発表しました。
 知事は21日、デモの沈静化を受けて州兵の撤収開始を指示、事態は収束に向かう見通しとなりました。
 2週間で警察に抗議する黒人200人以上が逮捕されました。根底にあるのは、人種問題です。人種差別を禁じた公民権法の成立から50年を経ても、日常的に受ける 「偏見」 や 「嫌がらせ」 への不満は鬱積しています。そしてそれに重なる経済格差です。
 ファーガソンは、かつては白人が多数でしたが郊外に移り住み始め、1970年代から黒人が増え始め、2010年には黒人が7割を占めるようになりました。人種間で居住地域が分断されています。一方、市議6人のうち5人は白人、ファーガソン警察の53人の警官のうち黒人は3人だけで、「白人支配」 の構造は続いています。交通違反の疑いで警察に呼び止められるケースの86%は黒人で、その93%はそのまま逮捕されるとの統計もあります。
 アメリカの大都市近郊では近年、貧困率が上昇し、しかもそれが特定の地域に周長する傾向があります。都市中心部に富裕層が戻り、押し出された低所得層が郊外に固まるためで「貧困の郊外化」と呼ばれています。
 そうすると、このファーガソンのような状況はどこでも起きる可能性があります。

 もう1つ原因があります。
 国防総省は1990年代に軍の武器を警察に提供する制度が議会で法制化され全国に広がりました。米軍で使用されなくなった軍備品を警察などに提供し、警察が 「軍隊化」したといわれています。アフガニスタン戦争 (01年〜)、イラク戦争 (03〜11年) を受け、その規模も拡大していきました。今回もデモ隊の挑発に、警官隊は、装甲車や催涙弾を使って 「過剰反応」 し、さらに反発を招きました。
 米メディアは、警官隊の過剰対応の背景には、2001年9月の米同時多発テロ以降、連邦政府の支援で警察が軍隊並みに武装化されてきたことが背景にあると指摘します。今回の事態は 「9・11後遺症」 と言えるのだそうです。
 こうした装備の購入には政府機関からの助成金が使われています。国土安全保障省だけでも03から12年にテロ対策の装備費や訓練費として、セントルイス地域の警察など法執行機関に8000万ドル (約82億円) 以上を支給しました。
 地方の警察に対しては 「めったに起きないテロの脅威をはるかにしのぐ規模で、装備や資金が投入されてきた」 (ニューヨーク・タイムズ紙) のが実態だといいます。
 アメリカは経済の空洞化を金融と軍需産業で埋めようとしました。軍需産業を発展させるためには “使用先” が必要です。それが反感を買い、「9・11」 が起きました。それにも懲りずに軍需産業に警察を巻き込んだ結果が市民からの反感に至っています。
 そして政府は、国内に 「敵」 がいることを承知しているのです。

 州兵は、米軍の一員として国外の戦場に派遣されるほか、国内の大規模災害や暴動の際の治安維持に当たります。最近では1992年のロサンゼルス暴動や、2005年のハリケーン 「カトリーナ」 の際に出動しました。今回はデモ対応に当たっている州警察を支援しました。


 1954年から始まった公民権運動は64年7月、ジョンソン政権下で、人種差別撤廃をうたった公民権法を成立させますが、1992年にはロサンゼルス暴動が発生、50年後に今回の抗議行動が展開されました。
 そして、歴史学者らは来年が南北戦争終結から150年ということで、その捉え返しも開始しています。


 1861年から65年に展開されたいわゆる南北戦争とはどのようなものだったのでしょうか。評価を含めて議論が続いています。
 まず、呼び名をめぐっても州の間の戦争、南部7州の連邦からの離脱戦争、北部の南部への侵略戦争などがあります。
 独立戦争以来、奴隷制度の是非をめぐる議論はずっとありましたが独立国に差別があってはいけないという主張が一角を占めます。19世紀半ばになると奴隷制度廃止運動が活発化します。
 1960年11月、新たな州に奴隷制度を広げることに反対したリンカーンが大統領に当選します。すると12月にサウスカロライナ議会は連邦脱退を採択します。そして翌年1月に他の南部6州が同様の決定をします。さらに4州が加わります。そして2月に南部連邦国の暫定政府を樹立し、連合国憲法を作成します。そこでは奴隷制度は正式に認められます。
 南部連邦国と北部の戦闘が開始されます。戦争が短期間のものであるというのが、北部と南部の共通の認識でした。しかし長期化します。

 リンカーンは奴隷を解放しなければ戦争には勝てないと決断し、そのために1962年9月に南部連邦国の奴隷はすべて解放すると宣言すると南部連邦国は苦戦し孤立していき、北部軍が勝利を確実になります。
 63年末、リンカーンは同年に戦闘が激しく繰り広げられたゲッティスバーグを国立墓地にする式典で短い演説をします。「人民の、人民による、人民の政治」。国民という表現ではありません。
 1965年4月、南部連邦国は降伏します。
 
 南部連邦国だけで26万人が戦死し、15万人が負傷します。
 メンタルヘルス・惨事ストレスの問題が取り上げられるのは南北戦争からです。
「コンバット・ストレスについてのこれまでの研究は、古いものでは南北戦争期 (1861-1865 年) にまで遡る。戦闘状況に
おける強いプレッシャーから‘crazy’ [Howe1946] と呼ばれる精神医学上の問題を生じさせた兵士を前線から下げることにしたという。前線へ送りこむことのできない人員を少しでも減らす目的から、コンバット・ストレスについての研究が行われるようになった。また当時、アメリカ陸軍軍医として従軍していたダ・コスタは戦闘状況下での兵士の脈拍上昇、呼吸困難、心臓発作に似た症状を指してSoldier’s Heartやダ・コスタ症候群などと名付けた [Da Costa1871]。」(福浦厚子論文 『コンバット・ストレスと軍隊 ─トランスナショナルな視点とローカルな視点からみた自衛隊─』 『滋賀大学経済学部研究年報』 Vol.19収録)

 南北戦争はどのような背景で起きたのでしょうか。
「南部は「奴隷制度は是が非でも守らなければならなかった。独立直後の1790年と1820年を比べると、綿花の生産量が10倍にもなっている。これは、イーライ・ホイットニーが1793年に綿繰り機を発明したことによる。繊維と種を分ける作業が容易になると、綿花はどこでも栽培でき丈夫なこともあって、南部じゅうで栽培されるようになった。また、イギリスに持っていけば飛ぶように売れることも綿花栽培に拍車をかけた。開墾されていった南西部においても奴隷を利用した綿花栽培が定着していく。『綿花は王様』 と呼ばれたゆえんである。南部経済の基盤となり、確実に利益を生んでいた奴隷制度を、そう簡単に捨てるわけにはいかない。奴隷制度廃止を掲げる共和党の大統領が誕生した以上、連邦離脱は当然の選択に思われ、連邦軍が攻めてきたとしても撃退する自信があったのだ」 (奥田暁代著 『アメリカ大統領と南部 合衆国史の光と影』 慶應義塾大学出版会)

「実際にはバージニア州は、ほかのどの州よりも奴隷を抱えていた。奴隷制度は弱まるどころか、国分との境においても多くの奴隷が存在していたのだ。奴隷制度は放っておけばなくなる、という性格のものではなかった。綿花栽培だけが奴隷を利用していたと思うのは間違いで、この時代にはすでに、炭鉱や蒸留酒造所などで奴隷が使われるようになっていた。……
 南部白人の4分の3は奴隷所有者ではなかった。しかし、彼らが南部連合のために戦ったのは、彼らが人種差別主義者で白人紙上主義のためだったとも言われる。しかし、奴隷所有者でなかった人たちも、富を蓄え手土地 (そして奴隷も) 所有したいと思っていた。それこそがアメリカン・ドリームであり、将来のことを考えれば、戦争に参加することが妥当な選択だったと言える。」 (『アメリカ大統領と南部 合衆国史の光と影』)

「一方、奴隷制度廃止は「北部全体を代表しているわけではなかった。北東部や中西部にしても、南部とは商売上の取引があり、やはり経済は奴隷労働と硬く結びついていた。奴隷制度が廃止されれば金融業は大きな打撃を被ることが予想された。宗教界も奴隷制度を避難することを躊躇していた。……
 独立革命直後には、アメリカの自由、平等といった理念に反するのでは、と奴隷制度廃止の動きがあったものの、すぐに下火になってしまったのは、上に挙げた経済的な利害以外にも、開放された奴隷がもたらす無秩序が恐れられたからだった。北部に大量の黒人が流れ込むことになるかもしれない、と懸念された。
 奴隷制度廃止運動が起こったことから、北部人は奴隷に対して同情的というイメージがあろうが、実際には北部においての方が人種差別は厳しかった。自由黒人は誰よりも安い賃金で働くため、白人労働者たち (移民) に嫌われる。どこの町でも黒人の数を制限しようとしていた。……
 アレクシ・ド・トクヴィルによれば、『人種的偏見は、奴隷制度がまだ存続している諸州よりも、奴隷制度を廃止してしまった諸州において一層強いように思われる。しかも、奴隷制度のかつてなかった諸州ほど不寛容なところは、何処にもない。』 ということだった。」 (奥田暁代著 『アメリカ大統領と南部 合衆国史の光と影』 慶應義塾大学出版会)


 リンカーンの奴隷解放宣言により自由になれるとわかった黒人奴隷たちは、南北戦争が南部連邦国の敗北で終了すると、南部の大農園を接収した土地を分割して与えられると期待しました。公民権、投票権、議会で働ける権利、公職につける権利は書類上では実現しました。はじめて法的に平等な権利を得られる手段を持ちました。
「南北戦争のいわゆる南部諸州の再建期 (1865年―77年) に、合衆国議会は新たに解放された奴隷に関して、3つの合衆国憲法修正条項を追加した。まず、修正条項第13条で合衆国内の奴隷制度を廃止した。次に第14条では、合衆国で生まれた、あるいは帰化したすべての者に市民権を与え、『法による平等な保護』を保障した。そして最後に、第15条が (女性は除外されたもの) アフリカ系アメリカ人にも投票権を保障したのである。」 (ジェームス・M・バーダマン著 『黒人差別とアメリカ公民権運動』 集英社新書)

「しかし勝利を収めた北部諸州は南部を占領したものの、南部の法的、社会的制度を 『再建』 しようとすることに最終的に疲れてしまう。その再建が1877年に終わると、アフリカ系アメリカ人が平等な権利を持つことを嫌う南部の白人の抵抗が前面に出てくるようになった。そして社会生活のなかで、慣習的に黒人が取るべき行動の規範が明確にされ、黒人たちは日常生活のなかで、ますます白人に服従していることを眼に見える形で示すように求められた。この習慣的な制度では、黒人が劣った立場にあることが明確になっている限り、白人とのかなり親密な接触も許されたが、違った人種が平等な立場に立っていることが少しでもほのめかされる場合は、日常的な接触すら禁止されていた。
 しかし黒人に対する締め付けは次第にそのような程度ではすまなくなってくる。1890年代までに白人はアフリカ系アメリカ人から、彼らが得たばかりの法的権利を事実上奪うことができる法や規則を新たに作り出し、しばしば暴力に訴えてまで、人種差別と白人の優位性を堅固にしていく社会的習慣を強制するようになった。これが 『ジム・クロウ法』 と呼ばれるものであったが、その実体は、法律として成文化されたものと、そうでない残酷な社会的慣習が複雑にからみ合うものであった。公民権運動の背景には、19世紀の終わりから1950年―60年まで続いていたジム・クロウ法のこのような二重構造があったのだ」 (『黒人差別とアメリカ公民権運動』)
 複雑な背景は、やはりもう一度検証と評価が必要です。


 公民権運動は1954年から始まったといわれます。
 1951年、カンザス州に住むリンダ・ブラウンの父親は娘をサムナー小学校に編入学させようとしたが、カンザス州トピーカの教育委員会の答えは 「ノー」 だった。白人のこどもだけしか受け入れない小学校でした。
 父親らは肌の色を根拠に入学を拒否することは合衆国憲法、特に市民権を定義した修正条項代14条に違反すると主張して訴訟を起こしました。
 訴訟は最高裁で審理されることになり、「ブラウン対教育委員会」 裁判と呼ばれます。
「原告弁護団によよって提出された証拠のなかには、先駆的な黒人の心理学者、ケネス・クラークとメイミー負債による調査もあり、質の悪い黒人専用の小学校のこどもは自分に対して否定的なイメージを持ち、そのため一般的に学業成績が振るわないという結果を示していた。また原告側は、スウェエーデンの経済学者であり、社会学者でもあるグンナー・ミュルダールの研究、アフリカ系アメリカ人が受けた抑圧はどのような範囲にまで及ぶかを詳細な議論を整理して提示した。彼らは社会科学的な調査結果をうまく使い、人種分離政策に対して激しい批判を加え、分離は初等教育のかなり早い段階で長く消えることのない真理的外傷を必然的に引き起こし、教育分野におけるこのような分離政策の実際の目的は、人種差別による黒人の従属性を永久化することに他ならないと述べた。」
 54年5月最高裁判決は全員一致の判決を読み上げます。
「公立学校における、人種のみを基盤とした自動の人種分離政策は、具体的な施設や 『目に見える明白な』諸要素が平等であると考えられるにしても、少数派グループの子どもたちから平等な教育の機会を奪うことにはならないだろうか。われわれはその機会を奪うことになると考える……人種のみを理由に、少数派の子どもたちを同じ年齢の同じ資格を持つ他の子どもたちから分離することは、社会における子どもたちの立場に関する劣等感を生み出し、それは子どもたちの感情と知性に修復不可能なほどの深い傷を残す可能性がある……われわれは公共の教育機関において 『分離はすれども平等』 という原則には根拠がないと結論を下す。人権分離政策に基づく教育施設は根本的に不平等である。」
 判決は 「救済策」 を伴うものではありませんでしたが、アフリカ系アメリカ人が権利を求める際の法的な基盤になりました。

 そして1964年7月に公民権法を成立させます。
 しかし今回の抗議行動の展開です。憤懣は蓄積されていて小さなきっかけで爆発します。今のアメリカに憤懣ときっかけは積もっています。
 ウォールズ街占拠闘争の経験と教訓も生かされます。
 軍事、軍事産業に頼らない、そして1割の富裕層をさらに富ませるような政策からの転換が必要です。
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