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「命どぅ宝」 こそが本物の 「積極的平和主義」
2014/06/24(Tue)
 6月24日 (火)

 「朝日新聞」 は5月12日から3回、「わたしと沖縄戦 戦後69年」 を連載し、沖縄出身の芸能人3人にインタビューをしています。
 1回目はモデルの知花くららです。1982年に那覇市で生まれて高校まで過ごしました。祖父は慶良間諸島の慶留間島出身です。1945年3月26日に米軍が上陸すると15歳の祖父と姉は 「自決」 を決め、祖父は姉の首を絞めました。自分の首はヤシの葉を紐代わりにして絞め、木に括りつけて首をつろうとしました。しかし2人とも死に切れませんでした。「自決」 は軍の指示、誘導によるものです。
 2回目は女優の二階堂ふみです。1994年に那覇市生まれです。祖母に沖縄戦の体験を聞きました。防空壕に入ろうとした時、日本兵からここの壕はいっぱいだから来るなと言われて出ました。その3秒後に壕は爆発しました。
 3回目は腹話術師のいっこく堂です。1963年にコザ市 (現在の沖縄市) で生まれました。70年12月20日のコザ騒動の時は小学校1年生でした。夜兄に起こされて街頭に出て、基地のゲートに立つ米兵に住民と一緒に石や空き瓶を投げつけました。両親は嘉手納基地相手にサンドイッチ店を営んでいました。しかし騒動後、米兵は基地の外に出なくなったため客が激減し、負債をかかえて閉店に追い込まれたといいます。


 コザ騒動について、福木栓著 『沖縄のあしおと 1968年-72年』 (岩波書店) から実態を探ってみます。
 当時は、「本土復帰」 は確定していましたが沖縄の人々にとっては身体と命の安全を守ることさえおぼつかない状態に陥れられていました。
 具体的には米兵による強姦、れき殺、強盗、傷害などの凶悪犯罪が続発していました。なかでも9月18日夜に糸満市で、ビールを飲んで車を運転していた軍曹が歩いていた住民を跳ねて死亡させたにもかかわらず軍事裁判では無罪を言い渡されるということがありました。
 また基地からの毒ガス移送計画が発表されました。しかし沿道の住民に対して避難指示や安全対策は採られませんでした。
 状況としては 「うっ積した米軍と本土政府に対する不満、怒りが次第に広がり、かつての沖縄の諸闘争がそうであったように、突発的な爆発現象を見せることも十分考えられる情勢となりつつある」 (『世界』 1970年9月号) でした。

 このような中で、1970年12月20日午前1時半頃、コザ市で日本人の軍雇用員が道路を渡ろうとしたときに米軍兵士が運転する乗用車に跳ねられました。しかし兵士はMP (米軍憲兵) とコザ警察署員の取調べを受けましたが帰されました。それを目撃していた住民は 「また事故調査も処分もでたらめにするのだろう」 とMPを取り囲みます。群衆は次第に増えていきます。
 MPは仲間を集めて横丁に逃げこみましたが、群衆を追い散らそうとピストルを上に向けて数十発乱射しました。この頃には群衆は1000人に達していました。
 群衆はMPカーに火をつけます。そして2手に分かれ、一方は嘉手納基地第二ゲートにいたる 「ゲート通り」 で米軍車12台を焼き払い、ゲート脇の建物の一部を焼きながら投石でMPとガードを追い払ってサクのないゲートから基地内に300メートル進入します。さらに軍用車10台を焼き払い、米人米学校を3棟に放火して全焼させました。やっと体制を立て直したMP隊は、3時前に完全武装兵らが銃で威嚇しながら群衆をゲート外に追い出しました。このとき群衆19人が逮捕されます。
 もう一方は、群衆は2000人から3000人に膨れ上がり、米軍車を道路中央に引き出してまとめて倒して燃やしました。そして軍司令部の方向に進出し、出動した完全武装の米兵と対峙しました。群衆は歩道の石をはがして割って投げたり、ビンを投げました。

 群衆は、組織者や指揮者もいないなかで共通の意図で秩序ある実力行動を展開しました。「民家に被害を与えるな」、目標は 「米軍車だけ」 です。また黒人兵には手加減が加えられたといいます。
 7時頃に夜が明け始めると群衆は散り、見物人だけが残りました。しかし群衆と見物人、実行者と野次馬の心の距離はなかったといいます。反対派や阻止派もいませんでした。沿道の商店街からの略奪はゼロでした。
 地元紙は暴動ではなく 「騒動」 と表現しました。
 コザ騒動は沖縄の人たちの意識行動に地殻変動を起こしました。自信めいたものを与えたといいます。積極的に受け止めて抗議行動の意義をさらに発展させようと行動を開始しました。


 6月23日は、69年前に沖縄戦の組織的戦闘が終わった 「沖縄慰霊の日」 です。
 以前、6・23を挟んで沖縄を訪れた時、沖縄市職労の人たちと交流しました。会場はまさにゲート近くのいわく付きの飲食店でした。騒擾前の常連客のほとんどは米軍関係者です。
 その時に聞いた話です。群集は商店街から略奪をしませんでした。その逆で、その飲食店は群集にビール瓶やコーラ瓶を “積極的に提供” したのだそうです。


 沖縄戦は本土防衛のための捨石作戦でした。
 沖縄戦における住民の犠牲は、本土でも沖縄現地でも 「自発的」 な 「協力」 による 「殉国」 の結果とする語り伝えが長らく続いていました。犠牲を強いた国や軍は免責されていました。その典型が映画 「ひめゆりの塔」 です。

 なぜこのような認識になったのでしょうか。
「膨大な住民犠牲を 『自発的』 な 『協力』 の結果ととらえる見方を沖縄現地において制度化したのが国・軍との雇用関係に基づいて補償を行う戦後の援護行政だった。1952年に制定された 『戦傷病者戦没者遺族等援護法』 (以下、援護法。沖縄には53年から適用) は、国との雇用関係がある軍人・軍属のみを補償の対象としていた。これは軍隊と住民が混在した沖縄戦の被害の実情にそぐわないものであったため、同年9月、琉球政府社会局援護課は厚生省にたいし、男女学徒隊の軍人軍属取り扱い、遺族年金を受けられる遺族の範囲拡大、沖縄を 『戦地』 とする期間の拡大の3点を要望した。」 (小野百合子論文 『本土における沖縄戦認識の変遷』 三谷孝編 『戦争と民衆 戦争体験を問い直す』 に収録 旬報社)

 援護法は1952年4月28日、つまり日米講和条約発効、日本が 「主権を取り戻した」 日です。「主権を取り戻した」 最初の法律が戦争被害から一般被害者を排除した、いわゆる 「軍人恩給」 でした。

「その結果、55年にひめゆり部隊の女子師範戦没学徒88人に死亡公報が出され、軍人・軍属以外の戦没者のなかでいち早く援護法が適用されることとなった。
 1957年、厚生省引揚援護局職員が来沖し、一般住民への援護法適用の条件となる 『戦闘参加』 の内容を20ケースに設定した。これを受け、各市町村は該当者の『戦闘参加申立書』を厚生省に推達する事務を開始し、59年4月以降、『戦闘参加者』 と認定された一般住民は準軍属扱いとして、援護法の適用を受けるようになった。」 (小野百合子論文 『本土における沖縄戦認識の変遷』) 

 援護法適用の一般住民への拡大の背景には53年からのアメリカの軍用地拡大政策に反対する 「島ぐるみ闘争」 がありました。住民の生活安定という口実で反対運動の抑制を狙ったものです。

「沖縄現地でも援護法による補償を必要とする経済的な状況があった。沖縄戦による壊滅的な被害を受けた戦後の沖縄社会において、補償金は 『対象者のみならず沖縄経済に対しても大きく寄与し』 ていたのである。援護法の適用を受けるには、沖縄住民が 『戦闘参加』 を証明する申立書を提供し、旧厚生省審査課によって受理される必要があった。……
 旧厚生省に受理されるような 『積極的な協力』 を証明する 『戦闘参加申立書』 の必要性から、たとえば軍に壕を追い出されて被弾死した者が、軍への壕提供という 『戦闘協力』 を申し立てるなど、軍に強いられた死が軍に 『協力』 した死へと書き換えられていった。」 (小野百合子論文 『本土における沖縄戦認識の変遷』) 
 住民の沖縄戦体験記録は援護法適用のための記述ならざるを得ない状況がありました。嶋津与志はこれを 『援護法のワク』 と呼んでいます。(12年6月12日の 「活動報告」 参照)
 そのようななかで沖縄と日本政府とアメリカの関係性が作られていきます。


 60年後半以降、『援護法のワク』 にはめられていた沖縄戦認識を再考する動きが始まります。その背景には沖縄の米軍基地が直結しているベトナム戦争の拡大がありました。アメリカのアジア諸国への加害行為に加担しているという認識が基地撤去運動へとつながります。基地が存在することでの墜落爆発事故なども発生していました。
 コザ騒動はまさにこのような中で発生します。
 「復帰運動」 の中で基地撤去の要求が急速に拡がります。さらに 「復帰」 を目前に控え、自衛隊配備計画が明らかになるなかで沖縄戦における日本軍による住民虐殺の記憶が焦点化してきます。

 自衛隊の配備により 「反戦復帰」 が無実化されていく過程は、「日本」 との関係を改めて考えさせました。
「『復帰』 という 『歴史的転換期に直面して沖縄県民は日本という国を醒めた眼で主体的に見直す姿勢をとった』 のであり、そこで総括すべき問題が 『沖縄戦における軍隊と住民の関係、つまり、国家と沖縄県民との関係であった』。自衛隊配備への反対という文脈で、『援護法のワク』 のもとで抑圧されていた日本軍による住民虐殺の記憶が蘇り、沖縄戦の体験は軍隊は住民を守らないことを示すものとして明確に参照され始めた。」 
「地元紙には住民虐殺についての新たな証言が多数寄せられ始めるが、こうした 『沖縄戦の記憶が新たに語りなおされる』 動きのなかで登場したのが 『命どぅ宝 (ヌチドゥタカラ)』 という言葉である。戦線離脱し家族のもとへ帰るといった防衛隊員に特徴的な行動様式を表すものとして、70年代の体験記録運動のなかで研究者によって使われはじめた 『命どぅ宝』 は、以後、日本軍の『玉砕の思想』 の対極にある思想を指すものとしてさまざまな場面で使用され、沖縄戦を語る際の1つの言説を形成していった」 (小野百合子論文 『本土における沖縄戦認識の変遷』) 


 アメリカ軍は53年から 「銃剣とブルドーザー」 で土地収用して基地を拡大していきます。55年から伊江島でも土地収奪が始まりました。住民は反対運動を展開しますがその先頭に立ったのが阿波根昌鴻さんです。
 伊江島に行き、生前の阿波根さんから何度もお話を伺いました。そして資料館 『ヌチドゥタカラの家』 を見学しました。入口すぐのところに原爆の写真が掲げてあり、「原爆を落とした国より、落とさせた国の罪は重い。」 と説明があります。
 訪問者がその意味を質問しました。
「阿波根昌鴻 (故人) が伊江島につくった 『ヌチドゥタカラの家』 を訪れたとき、『原爆を落とした国より、落とされた国の罪は重い』 と書かれたボードがあった。このメッセージは、原爆を開発し最初に使用したアメリカ合衆国政府の責任より、結果として原爆投下を招来するような戦争を開始し遂行した日本政府の責任を重くみるものである。みずから戦争を招き寄せることのないような国造りを追求することは、“戦なき” 世を実現するうえで、今日、より一層重要性を増しつつある。<人間の視点> に立ってもはやその存続を容認できないほど戦争の残虐化が進んでしまった世界をみわたすならば、戦争による犠牲は受忍しないという国民の意思を、思想として社会制度として確立することが求められている。」 (濱谷正晴論文 『<戦争体験>――その全体像をめぐる <人間> の営み』 三谷孝編 『戦争と民衆 戦争体験を問い直す』 に収録)


 沖縄の人びとの闘いは、「日本という国を醒めた眼で主体的に見直す姿勢」 の中で続けられています。基地撤去・建設反対と平和を希求する闘いは、軍は住民を守らないで虐殺したという体験からたぐり寄せた確信です。
 本土における様ざまな闘いも、沖縄の闘いを称賛するだけではなく、「国」 の捉え返しからの主体的取り組みが不可欠となっています。

 集団的自衛権か個別的自衛権か、閣議決定か憲法改正かの議論はいずれも50歩100歩の論争です。相手に取り込まれてしまいます。そうではなく、「みずから戦争を招き寄せることのないような国造りを追求する」 取り組みこそが本物の 「積極的平和主義」 です。
 自衛隊員が 「命どぅ宝」 と主張し、戦線離脱して家族のもとへ帰ることが平和を呼び寄せます。

   関連 :2014年月1日の 『活動報告』
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