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「死に損ない」 をどう聞くか
2014/06/13(Fri)
 6月13日(金)

 6月に入ってしばらく経って、横浜から修学旅行で長崎を訪れていた中学3年生が、爆心地近くを案内していた 「長崎の証言の会」 の77歳の事務局長に 「死に損ない」 などと暴言を浴びせたという報道がありました。

 証言の会は、5月27日に横浜市立の中学3年生119人に爆心地近くを案内して欲しいと依頼されたので、事前に平和公園で説明会を開きました。その時に事務局長は、騒いで話を聞かない1人の男子生徒を何度も注意し、「聞く気がないなら出て行け」 と叱り、生徒を退席させました。
 約10人ずつの班に分かれ原爆遺跡の見学に移り、事務局長は1班を案内していました。その時、班外の男子生徒数人が 「死に損ないのくそじじい」 と暴言を浴びせ、別の生徒たちにも 「手をたたけ」 とはやし立て、説明を邪魔したと言います。引率の教師が注意したが止めませんでした。
 後に事務局長は、「私は死に損ないではない。一生懸命生きてきた。大変悲しい」 と中学校に手紙で抗議しました。

 現在の政治状況を改めて深く考えさせられてしまいます。
 戦後69年を迎え、戦争体験者も少なくなっていますが、戦争体験をどう伝え、後の世代はどう受けとめていくのか難しい時代になりつつあります。
 「死に損ない」 と罵声を浴びせたということは、原爆が投下されてたくさんの人たちが亡くなった、事務局長を含めて生き残ることができた人たちもその後苦労が続いたという体験談は聞いていたのです。聞いたうえでの思いが 「死に損ない」 なのです。
 暴言を吐いた生徒の意識には、生きていい者と死んでもいい者がいるのです。人の “生” “命” が否定されています。
現在の世相がそのような意識を生み出しています。
 現在の生きていい者と死んでもいい者の違いは、富むものと貧しい者の差です。自己責任で生きられるものと生きられない者の違いです。

 戦時には、国家を隠れ蓑にして生き延びる者と国家の命令で殺される者がいました。国家総動員は、「国民」 に死を覚悟させました。
 戦後、国家が起こした戦争に参加したり、協力したと認められた者は恩給の対象にされました。靖国神社には兵士以外にも軍事工場などに動員された学徒、さらに対馬丸の遭難者 (5月16日の 「活動報告」 参照)、“集団自決” の時の乳飲み子なども祀られています。


 1970年代はじめから、国家に支援を要請する被爆者団体を中心に、「被爆者援護法」 制定の運動が開始されました。世論喚起や政府への要請行動が展開されました。
 その当時の厚生省は今の厚生労働省の場所に、玄関を現在の弁護士会館の側に構えていました。要請行動だけでは生温いとい、東京の被爆者団体を中心に玄関前にテントを張り長期座り込みを決定しました。テントの設置に取りかかると守衛ともめます。その時、その間に東京被団協の会員はスクラムを組んで 「原爆を許すまじ」 を合唱しながら割って入り、テントを完成させました。被爆者援護法制定の要求は 「あゝ許すまじ原爆を 三たび許すまじ原爆を」 でした。
 各地で原爆の被害を訴える 「国民法廷」 が開催され、たくさんの被爆者が証言しました。証言は 「あゝ許すまじ原爆を 三たび許すまじ原爆を」 の内容で締めくくられました。
 被爆者が記憶を絵にして証言する運動も始まりました。

 1980年12月11日、原爆被爆者対策基本問題懇談会は 「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」 を発表しました。その中には 「およそ戦争という国の存亡をかけた非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による 『一般の犠牲』 として、すべての国民が等しく受忍しなければならない」 とあります。
 この姿勢は、今も国家が開始した戦争の犠牲者に国家は援助しろという要求を掲げた東京大空襲訴訟などの判決などで踏襲されています。

 原爆や空襲の被災者は国家から相手にされず、援助の対象になりません。むしろ今後自分たちと同じような犠牲者を出さないためにという思いをこめて平和運動を続ける戦争体験者は、政府が進める政策に逆行を迫り、政府にとっては疎ましい存在です。
 そのような犠牲者も高齢になっています。政府はうるさい証人がいなくなったら過去を清算できます。そのような雰囲気が作られています。軍隊慰安婦は存在そのものが否定されようとしています。その中から 「死に損ない」 の発言が平然と出てくるのです。
 しかし彼らは、自分らが国家の命令で殺される側に存在していることについては無自覚です。騙されています。


 「被爆者の苦しみは 『被爆者であること』 それ自体です」。これは日本被団協の主張です。
「原爆被害とは、『あの日』 の惨状だけではない。被爆後も続く健康上の苦しみや貧困と病気の悪循環、原爆症や遺伝にたいする不安などとともに、生き残った人たちが胸のうちに抱えてきた痛みをとらえなければならない。そのためには、被爆者が語る言葉、そしてその傍らにある沈黙が何を証言しているのかを聴きとる必要がある。」 (直野章子論文 『原爆被害者と 「こころの傷」』 三谷孝編 『戦争と民衆 戦争体験を問い直す』 収録 旬報社)
 被爆者の中には過去・現在・未来が同居しています。決して過去の出来事にはなりません。
「かつて石田忠 (元日本原水爆被害者団体協議会専門委員) は、被爆者に向かってこう語りかけたことがある。『<原爆> を忘れていても、<原爆> の方はあなたをおぼえているということではないでしょうか』 と。<心の傷> だけではない。原爆被爆による <体の傷> が、そして原爆症の <不安> が、核の報道を聞いてよみがえる <死の恐怖> や、周囲の無理解・差別が、人生の節目節目で、頭をもたげてくる。<原爆> は、それを 『忘れる』 ように努力すれば、そのくびきから人々を抜け出させてくれることはなかったのである。」 (濱谷正晴の論文 『<戦争体験>――その全体像をめぐる <人間> の営み』  『戦争と民衆 戦争体験を問い直す』 収録)

 被爆者の運動は、このような体験を次世代にさせないためのものでもあります。
 高齢者になった被爆者たちは、同じ過ちを繰り返させないためには生きている限り体験を語りついでいかなければという思いを抱いています。そして今、直接体験した被爆者に代って被爆体験を話せる次の世代の 「語り部」 の育成活動も始めています。

 しかし体験を伝えにくくなっています。伝えにくくされています。

 1990年代の、トマホークを積載した米軍の潜水艦の日本寄港が問題になった頃、広島・長崎を訪れる修学旅行生たちは語り部に、体験した証言の内容についてではなく、「トマホークをどう思いますか」 「核兵器をどう思いますか」 というような質問して回答を求めることを繰り返したといいます。語り部たちは、それは自分たちの任務ではないと辟易し、語り部を辞める人が続いたということがありました。
 当時、語り部は事実を語るだけで評価を加えてはいけないと言われていました。しかし生徒たちは2つの問題を直接的に結び付けて真面目 “過ぎた” のです。

 2003年8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、ろうあ者の山崎栄子さんは手話で体験を語りました。しかしその場面のテレビ放映は、山崎さんの手話に先んじて通訳者はあらかじめ用意された原稿を読んでいきます。そして途中から場面は山崎さんではなく別の場面に切り替えられ、手話が見えなくなりました。山崎さんが身体全体を使って体験を伝えようとしたとした姿は映りません。
 NHKにはかなりの苦情が寄せられたようです。後日改めて山崎さんの手話が放映されました。
 被爆体験を聞くことが、儀式の中での形式になりつつあることを痛感しました。

 そして今回の出来事です。
 3、11からまだ3年半しか経過していなくて、連日のように福島の原発事故のニュースが流されていている中にあっても核や原子力の問題が身近に捉えられていません。横浜市は、安倍首相がオリンピックを開催しても安全だと豪語した東京よりも離れているのでより安全という認識を持っているのでしょうか。
 生徒が騒いだ時、先生たちがどのような対応をしたのでしょうか。
 長崎に修学旅行に行くことが平和学習をしているという口実のようにも思われます。
 
 広島・長崎での被爆者の体験を、人の “生” “命” の重さ、人権問題として受け止めることすらもはやできなくなっているのでしょうか。
 平和のためには、人の話を聞いて受け止め、自分の意見・意志を持って行動することが基本です。


 実際にあった、聞いた話です。
 ある高校の2年生のクラスは、授業が始まっても生徒たちはすぐに騒ぎ出して集中しません。注意してもあまり効き目はありません。いつもです。出席簿の表紙が硬いのは、生徒から物が投げられたとき盾代わりにするためだと実感して常に持っていたと言います。

 3学期末の国語の授業は授業時間を2時間残して教科書は終わってしまいました。
 教師は、広島県立第二高等女学校の教師と生徒の原爆体験をもとにして作った朗読劇のシナリオを生徒に配りました。いつもと違って静かです。
 しばらくすると、いつも最初に騒ぐ生徒が声をあげました。
 「先生かわいそうじゃん」
 「どこがかわいそうなの」 と教師が聞きました。
 「全部かわいそうじゃん。悲しいじゃん。先生はかわいそうじゃないのかよ」
 「かわいそうだけど本当にあった話です。みんなと同じくらいの年齢で」
 「こんな目に合わせちゃだめだよ。先生は戦争に反対しなかったのかよ」
 この一言を聞いて、この授業をして良かったと思ったと言います。
 「生まれていません。
  みんなにはこのようなことを繰り返さないようにしてほしいと思っています」
 「俺こんなの嫌だから絶対反対するよ」

 時代背景を説明した後、グループ編成をし、役割を決めて練習して次回に発表してもらうと告げました。

 次回の授業です。
 いつも最初に騒ぐ生徒のグループの番になりました。
 彼は真剣な顔ですが棒読みです。
 「もう少し感情をこめて」 と教師は注意しました。
 すると感情を込めて読み続けました。
 1年間で、はじめて教師の注意に素直に従いました。

 授業が終わりました。
 いつも最初に騒ぐ生徒が口を開きました。
 「先生、3年になっても俺たち先生と付き合ってもいいぜ」
 「私は臨時非常勤なので3月一杯で契約満了です」
 「俺、校長に掛け合ってやろうか」
 「4月以降についてはもう決まっています」

 最後の瞬間です。教師は元気で頑張って来年は全員そろって卒業して欲しいほしいと告げました。
 いつも最初に騒ぐ生徒からの “送辞” です。
 「みんな頑張るから。先生、1年間ありがとな。先生も頑張れよ」


 過去は、断絶が生じた時に過去になります。時代・世代を越えた現在の課題として共鳴・共有された時に、断絶が埋められ、引き戻されて活かされます。 
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