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「秩父事件」の魅力
2014/06/06(Fri)
 6月6日 (金)

 知人が、1884年 (明治17年) に埼玉県秩父の農民たちが蜂起した 「秩父事件」 の本を刊行しました。分厚い3部作の完結編です。
 毎年10月下旬から11月上旬頃にグループで埼玉県秩父や長野県佐久の事件参加者の墓参り、遺族訪問、関連遺跡調査などをしています。(2013年9月3日、2012年11月9日の 「活動報告」 参照)
 そのグループで出版パーティーと放談会を催しました。

 参加者は、当然それぞれ秩父事件や背景にある歴史などの捉え方が違います。しかし共通しているのは、秩父事件を自由民権運動の一環にあった事件という捉え方を “高く評価しない” 視点です。では農民一揆なのか。そのような型にはまった観念で歴史を捉えること事態が秩父事件をつまらなくします。歴史は単調ではありません。歴史的カテゴリーのどこかに無理やり含ませることはできません。
 自由党との関係で1点だけ指摘するなら、なぜ武装蜂起の決定が自由党 (をとおして警察) に漏れなかったのか。あらたに組織された困民党と自由党にはその時点で 「断絶」 があったと判断できます。

 日本の歴史学は、まず学説ありきで、それに都合のいいように事件を引き寄せ、歴史を政治的に利用するために事実を歪曲して重ねていきます。独善的な講座派、労農派の学説を読んでいると、どうして世相と民衆を一色でくるめてしまうのだろう、民衆の政治意識は不均等複合発展すると捉えられないんだろうと疑問を通り越して嫌悪感を覚えてしまいます。
 自由民権〇〇周年という時に、秩父事件を起点に数えます。秩父事件の前に民権運動はなかったという見解なのでしょうか。一端利用してしまうと明らかに矛盾することでも取り消せなくなっていきます。


「われわれにとって、革命の歴史は、なによりもまず大衆が彼ら自身の運命の支配者たる地位に強力的にいりこむ歴史である。
 革命に襲われた社会にあっては、……感腎なことは、社会は職人が自分の道具をとりかえるように、必要におうじてその制度をとりかえるものではない、ということである。反対に社会はそれにまといついている諸制度を、たった一度かぎりあたえられ、二度とはあたえられないものとしてうけとるのである。数十年の間、反対派の批判は大衆的不満の安全弁であり、社会構造の安全のための一条件であるにすぎない。たとえば、社会民主主義の批判が成就した意義も、原則的にはこのようなものであったのである。不満から保守性の枷を断ちきり、大衆を反乱にみちびくためには、個人または党の意思から独立した、全然異例的な条件が必要である。……
 政党や指導者――われわれは、彼らを無視しようとするものではけっしてないが―― の役割は、大衆自体のあいだにおける政治的過程の研究を基礎としてのみ、はじめてこれを理解することができるのである。指導的団体がなかったら、大衆のエネルギーは、ピストン筒につめられない蒸気のように消散してしまう。だが、それにもかかわらず、ものを動かす原動力となるのは、ピストンでもピストン筒でもなくて、蒸気なのである」 (トロツキー著 『ロシア革命史』 の序文)


 では自由民権運動、秩父事件とはどのようなものだったのでしょうか。
 1877年の西南戦争は、西郷隆盛ら反政府軍の敗北で終ると、維新政府に対する武力反抗は絶望的という雰囲気が生まれます。それに代わって民権運動への関心が高まり、国会開設が統一した目標になります。
 自由民権運動は征韓論に敗れて政府を去った前参議らが政治結社を設立した日本で最初の政党 「愛国公党」 が、政府に民選議院の設立を求める建白書を提出したことがきっかけとなりました。その後に各地で設立された政党も担い手の多くは士族層でした。
 
「それでは、この自由民権運動は、全般的に見てどのような思想によって支えられていたのだろうか。まずその一般的な特徴を指摘するならば、それは、自由民権運動とよばれてはいるけれども、自由民権という言葉からしばしば連想されるような、市民的な自由や権利の概念を中心としたリベラル・デモクラシーとしての性格を中心とするものでは必ずしもなかった。むしろリベラル・デモクラシーよりはナショナル・デモクラシーというほうがふさわしいほどに、ナショナリスティックな色合いを濃厚に示していた。つまり前述の明治精神に広く一般的に見られた特色の1つである国家主義への傾斜を、自由民権運動もまた自己の思想のなかに取り込んでいたわけである。それは、民権運動の全国的な組織に 『愛国社』 という名称が与えられた点にも象徴的に示されているが、思想史の観点からするならば、つぎの3点に民権思想のナショナリズム的な性格が表現されているとみることができる。
 第一は、国家の大義的独立についての強い願望である。……
 第二は、国家権力との一体性の意識ということである。……ナショナリズムにおいては、一般に、『国家からの自由』 よりは、むしろ 『国家への自由』 が強調される。そこではしばしば国家と自己のとの同一化、両者の強い結びつきが語られる。……
 第三には、国民的連帯の思考を上げなければならない。……」 (松本三之介著 『明治精神の構造』 同時代ライブラリー)
 これは当時、徳富蘇峰が自由民権運動に抱いた違和感でもあります。

 では困民党は何なのでしょうか。
「日本近代成立期の民衆運動の中で、『民衆にとって <近代> とは何か』 という問題の特質がもっとも典型的に表れているのは、負債農民騒擾であろう。負債農民騒擾は、1880年前半に起こったもので、借金の返済ができなくなった負債民たちが、借金の据え置きと延納などを求めたものである。その負債民たちの集団は、困民党・負債党・借金等などと言われるが、ほとんどは警察や役人や新聞などが集合名詞的に就けた名称である。また党といっても 『徒党を組む』 などと言った場合のであり政党ではないので、政党と同じ次元で見ると、実態を正しく捉えることは困難となる。」 (稲田雅洋の論文 『民衆運動と <近代>』 困民党研究会編 『民衆運動の <近代>』 に収録 現代企画室刊)
 
 なぜ蜂起に至ったのでしょうか。
「負債方民騒擾は、全国で60件以上起こったことが、現在のところ確認されている。……騒擾のおおよその傾向として、84年が全体のほぼ7割を占めていることや、地域的にはいわゆる東山養蚕地帯が圧倒的に多いということを知ることはできる。
 負債農民騒擾が起こった直接的な理由は松方デフレである。……そのため農家の収入が激減し、地租滞納者が急増したのみならず、負債に苦しむ農民たちが多数輩出したのである。しかし、借金の延納を求める動きは、この時期に限ったものではなく、近代においてもしばしば見られた者であり、……しかし180年代の前半においては、債主対負債主の関係がシーリアスになり、その延納を求める運動が各地で展開され、負債がそれ自体として大きな社会問題となったのである。そこにこそ、負債農民騒擾の歴史的に特異な位置にあるのだが、実はそれを探ることが民衆にとっての <近代> の意味を捉えることでもある。
 結論的に言えば、負債農民騒擾はデフレという不況を原因として起こったように見えるが、その背景には明治政府が出した近代的法令による貸借の決済方法と、民衆の長らくなじんできたそれとの間ののっぴきならない対立があるのであり、それがこの時期に一挙に噴出したのである。」 (稲田雅洋 『民衆運動と<近代>』)
 

 秩父事件は 「負債農民騒擾」 です。要求として
 一、高利貸のため身代を傾け生計に苦しむもの多し、よって債主に迫り十カ年据置き四十カ年賦に延期を乞うこと
 一、学校費を省くため三ヶ年休校を県庁へ迫ること
 一、雑収税の減少を内務省に迫ること
 一、村費の減少を村吏にせまること
を掲げています。
「このような明治10年代前半頃までの推移のなかで、政府が保護する近代的土地所有の下で商業金貸資本が農業資本へ進出する道は完全に閉ざされ、寄生地主化の一本道だけが将来に開けた。
 以上のように、明治政府による近代的土地所有権の実現過程を包括的に把えるとき、それが果たした歴史的役割が明らかになる。すなわち、それは、農民・山の民・漁民による、土地利用・土地所有の関係を破壊し、真の意味での生産の近代的発展を阻止したのである。いわば、近代的土地所有権が生産の近代的発展を阻害するという逆説的な歴史現象が、明治維新という近代日本の出発を特色づけている。」 (丹羽邦男著 『土地問題の起源』)
 困民党が掲げた「年賦の40年間の据え置き」は、本来土地を所持してきた農民の土地利用権継続の要求であり、本来的利用をしない高利貸しに拒否する権利はないという農民の自然観にもとづいた主張です。「土地と永代の労働契約を結んでいる」 農民が土地利用を継続したほうが生産性、有効利用度が高いという社会正義の主張です。40年は、法律的所有関係はどうあろうと土地の本来的所有関係にもどすのに必要と判断した現実的時間だとおもわれます。

 秩父困民党は、後に 「自由自治元年」 などと言われるように、大宮郷 (現在の秩父市) の郡役所を占拠し、束の間ではあっても困民党のコンミューン・自治を確立します。
 掲げられた 「軍律」 は、
  第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
  第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
  第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
  第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
  第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬
です。
 このような困民党の共同体・互助の精神からくる規律、そのことを基礎にした民衆の本来持っているエネルギーが発揮されます。2週間の戦闘、転戦のなかで、指導部が倒れてると新たな指導部が登場します。驚くべき組織力です。このようなことが今も事件に引き寄せられる魅力です。


 日本近代成立期の民衆運動ということで、同時期の労働運動を見てみます。
 明治19年6月14日、山梨県甲府の雨宮製糸工場でストライキが起こります。
 2月に山梨県が製糸業組合準則をつくり、区域の業者はこれに基づいて同業組合を作って規約をさだめ、実施します。
 それにより、人員が114人とも198人ともいわれる雨宮製糸ではこれまで実労14時間労働だったのが14時間半に延長されました。賃金も下げられます。
「……女工連中は腹をたて、雇主が同盟規約という酷な規則をもうけ、わたしらを苦しめるなら、わたしらも同盟しなければ不利益なり。優勝劣敗の今日においてかかることに躊躇すべからず、先んずれば人を制し、おくるれば人に制せらる。おもうにどこの女工にも苦情あらんが、苦情の先鞭はこの紡績場よりはじめん、と言いし者あるやいなや……」 (『山梨日日新聞』) 一斉に職場を退場して、付近の寺に立て籠って大会を開きます。
 会社はこの事態にあわて、首謀者と協議の上、①出場時間を1時間ゆるめること、②その他何らかの方法で優遇策を考えると譲歩し、女工たちの大勝利のうちに解決します。
 この他にも製糸工場でストライキが起きます。
 また、炭坑においても、蒸気による巻き上げ機の発達で竪型に坑道が掘られるようになり、石炭が地中で大量に掘り出されるようになると爆発事故が頻発します。そのような過酷な労働に坑夫たちは暴動を起こします。
 徳富蘇峰は労働者のおかれている状況に関心を示し、論文を発表して啓発します。

 そして近代成立期の民衆運動ということでアジアに視点を転じると、秩父困民党の蜂起は、自分たちのコンミューンを成立したということでは1850年の中国・清朝時代の太平天国の政権 (日本での呼び方は太平天国の乱) 、1894年の朝鮮の甲午農民戦争 (東学農民運動または東学農民革命。日本での呼び方は東学党の乱) と共通するものがあるように思われます。この8月には、韓国・光州で甲午農民戦争から120年を記念した集会が開催されます。


 では秩父事件を現在に引き付けるとどのようなことが言えるでしょうか。
 自由民権運動と困民党の闘争は価値観が違います。「国家主義への傾斜を、自由民権運動もまた自己の思想のなかに取り込んでいた」 という自由民権運動は、今の連合の労働運動と重なっていきます。
 力は見せかけの数ではありません。困民党のようにそれに拠らない、さまざまに分断されているが生活権を獲得するためのそれぞれの自立した、自主的な運動の連携こそが本当の力となり、社会を動かす可能性を秘めているということが言えます。
 今は力が小さくても 「弱くても勝てます」。
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