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全泰壹のオモニ李小仙の闘いが本 (『この身が灰になるまで』) になりました
2014/05/13(Tue)
 5月13日(火)

 1970年11月13日。ソウル市東大門市場の平和市場 (ピョンファンシシャン) 平和市場。
 集まっていた労働者は 「われわれは機械ではない!」 と書いた横断幕を掲げてデモ行進を始めようとしていた。
 彼らの集団から離れて、縫製工場の裁断師全泰壹 (ションテイル) は、全身に石油をかぶって火をつけた。そして叫んだ。
 「勤労基準法を遵守しろ」
 「「われわれは機械ではない! 日曜日は休ませろ!」
 「労働者を酷使するな!」
 1人の仲間が全泰壹の炎の中に勤労基準法の本を放り投げた。勤労基準法の火刑式。

 今、平和市場の橋の上に全泰壹の銅像が建っている。 (2011年9月13日の 「活動報告」 参照)


 呉道燁著 『この身が灰になるまで』 (緑風出版) が刊行されました。サブタイトルは 「韓国労働者の母・李小仙 (イソソン) の生涯」。李小仙。全泰壹のオモニです。韓国労働者の母という呼び方は、李小仙オモニが逮捕され、裁判に付された時の検察官の陳述で使用されました。
 ゴールデンウィークに読みました。あわせて3冊を読み返しました。


 全泰壹は裁断師になることを決意します。
 「裁断師になれば、工場の責任者になるから、僕がシタたちの力になれると思うんだ」 。シタとは、日本語の 「下」 から来た言葉だといわれ、縫製工場などで技術職の補助的な仕事をする最下級の職責の労働者です。
 しかし経営者は彼を解雇します。
 父親の全相洙が全泰壹に自分の体験を語って聞かせます。
 「労働運動っていうのは、難しくて結局はどうにもならないもんだぞ。くだらないことに興味を持たんで、金でも貯めるんだ。労働者のために作ったという勤労基準法っていうものがあるけど、そんなもんただの飾りだ。金がなきゃ法律だってありゃしねえ。人間扱いもされねえんだ」
 「勤労基準法ですって?」
 全泰壹は勤労基準法への関心が強くなり、オモニからお金を借りて古本屋で法典を買います。
 「僕にも大学生の友だちがいればいいのに」 とこぼします。「本の中身が漢字ばっかりで、何が書いてあるのかさっぱりだよ。漢字を1つずつ調べながら読んでいたら、いつになったら読み終わるか……」 と。
 そして 「お母さんも勤労基準法を勉強しなよ」 と勧めます。2人で一緒に勉強を続けます。
 仲間たちとも勉強会を始め、経営者に労働条件の改善を要請します。しかし思うように進みません。

 思いつめた全泰壹は 「決断」 しました。

 焼身自殺を敢行して病院に運ばれた全泰壹の枕元にオモニが駆けつけます。
 「お母さん、僕の言ったことを絶対に聞いてくれるって、大きな声で一度返事してよ……」
 「わかったよ。心配しなくても、この身が灰になっても、お前が望んでることを最後までやり抜くから」
 この会話を繰り返した後、全泰壹は気を失ってしまいます。ようやく目を開いて最後に言った言葉は 「お母さん、腹がへった……」
 22歳の青年労働者が、人生が終わろうとする時に吐いた言葉は 「腹がへった……」 でした。人生そのものが 「腹がへった……」 でした。

 5日後、公園墓地でシタ、ミシン師など大勢の人々が集まって盛大な葬儀が行われます。
 棺を埋めてもオモニは慟哭を続けます。どれほど経ったか……。
 慟哭をやめるとゆっくりと立ち上がり、息子の遺影を胸に抱きしめます。そして人々の間をすり抜けていきます。皆がその後を追います。シタたちは涙を拭おうともしないで従って歩きます。
 歴史が、1人の青年労働者の死と、息子の遺影を抱いた母と、その後をついていく無数の人々の歩みによって新たに始められます


 全泰壹の焼身自殺から2週間後、平和市場を含む清渓被服労働組合が誕生します。
 組合結成を知らせる横断幕には 〈身を燃やして勝ち取った砦で、団結して主権を取り戻そう〉 〈労働条件改善のため、労働組合に加入しよう〉 と書かれました。
 しかし、闘いは何度も弾圧を受け、試練の連続でした。

 1972年、清渓被服労働組合は平和市場に労働教室が開設します。しかし組合幹部を不純勢力と決め付けられて運営権が奪われます。
 75年2月、組合員は 「我々自身の手で労働教室を取り戻しましょう! 闘わずに得られるものは何もありません。この手に教室を取り戻すまで、一歩たりとも外に出ないという覚悟を持とう!」 と決意を固めて篭城を始めます。そして取りもどします。
 組合に集まった労働者はさまざまなサークルを作ります。教育は実践に移されます。
 篭城やストライキの戦術で闘い抜かれます。篭城の時には 「We shall over come」 などを歌って勝利していきます。


 全泰壹の焼身自殺の話を聞いてソウル大学生張基杓が駆けつけます。オモニから 「僕にも大学生の友だちがいればいいのに」 と言っていた話を聞きます。彼はその後ずっとオモニと労働者に寄り添います。
 そして張基杓の友人である趙英来は、民青学連事件で指名手配されている3年間に 『ある青年労働者の生と死――全泰壹評伝』 を書き上げます。1983年に著者があいまいにされたままで出版されます。『炎よ! わたしをつつめ』 (たいまつ社) のタイトルで、邦訳もされました。そして2003年、著者を明らかにして 『全泰壹評伝』 (柘植書房新社) が邦訳されました。 
 李小仙オモニの闘いと合わせて 『全泰壹評伝』 は韓国の労働者を勇気付けてきました。「全泰壹労働賞」 も設けられます。


 1979年10月26日、朴正熙が殺され、全斗煥が政権に就くと圧制はさらに激しくなります。
 民主勢力だけでなくあらゆる勢力が戒厳令撤廃を求めて運動を繰り広げます。労働者や学生は死を持って抗議します。また理由もないまま警察に連行され、行方不明の者もいます。しかし真相は究明されません。
 労働界は80年5月14日に 「労働基本権確保全国決起大会」 を開催します。しかしその3日後、光州市民を戒厳軍が襲います。
 
 1986年3月、九老区禿山洞の新興精密の労働者は、昼休みに食堂で賃上げ要求の集会を開催するとそのまま篭城に入ります。管理者や警察官が食堂を包囲して鎮圧にかかります。
 遅れて篭城現場に駆け付けた朴永鎮は灯油をかぶり、 「10数えるうちに出て行かないと、焼身自殺するぞ」 と言ってライターを握り締めます。1人の刑事が近づいてきて言います。「さっさとつけろよ。早く死んでみろ」
 燃えた朴永鎮は病院に運ばれます。李小仙オモニが病院に駆けつけました。
 朴永鎮が訴えます。「オモニ、生きていけないから賃金を上げてくれって言ったのに……死ねって言われたんだよ」
 「言いたいことがあったら、みんな言ってしまうんだよ。あんたができなかったことまで、あたしが、この身がぼろぼろになってもやりぬくから」


 1985年、九老団地工場の大宇アパレルの労組委員長が拘束されると地区の民主労総が連帯闘争を準備し、九老ゼネストに突入します。
 このゼネストに参加して解雇されたり、拘束された労働者を主軸にソウル労働運動連合 (ソ労連) が結成されます。ソ労連は労働者たちの政治的覚醒と闘争が必要だという考えです。各労働組合でソ労連に参加すべきかどうかの議論が起きます。
 清渓被服労働組合での議論で李小仙オモニが発言します。
 「労働組合が何なのか、もう一度考えてみなくちゃ。今、どうやって独裁と闘わなくちゃならない時かもね。……労働者の中に組合がなくちゃ。何人かの運動家だけで労働運動をするんじゃないだろう。……労働者がついていけない労働運動がどこにある?」
 
 とは言いながら弾圧された労働者の支援は続けます。
 そして1986年、民主化運動遺家族協議会が発足し、李小仙は会長に押されて就任します。当面の目標は、真相究明と子供たちの意思を受け継いで政権と闘うことでした。

 2006年11月の全国労働者大会での 「全泰壹労働賞」 の受賞式の時です。李小仙オモニは壇上から降りようとしたが引き返してマイクを握ります。
 「言葉だけで労働者は1つと言ってみたところで何になる? 一番陽のあたらないところで疎外され、苦しんでいる非正規労働者に目をつぶって、どうして民主労総だと言えるのか。今自分たちが正社員だからといって、千年万年そのままでいられると思うか? 正社員が非正規労働者と手を結んで闘わなければ、そのうち皆が非正規になって鎖につながれた奴隷のようになる……」


 闘い続け、闘う人たちの支柱となっていた李小仙オモニは11年9月3日に81歳の生涯を閉じます。
 『本』 の著者呉道燁が李小仙オモニの人柄を語っています。
 「彼女は不義を見ると、ほとんど本能的に立ち向かっていく。特に相手が金や権力を持っていて、持たざる者を無視し、差別する姿を見た時は、決してそのままにしておくことができないのだった。泰壹が残した 『腹がへったよ』 という言葉は、差別だらけの世の中で疎外されている人々の、最後の絶叫だと考えていた。彼女が抑圧社会、不平等な社会に立ち向かい続ける訳は、差別のない社会を作りたいと思うからだ。教育ある人たちが理論や主張を並べて革命を語っているとき、李小仙は労働者とともに 〈差別なき世の中〉 という理想郷を思い描いていた。彼女は独裁に拮抗して清渓労組を守りながら、自分が強靭な人間に変わっていったという。」


 2006年に韓国の8件の女性労働者の闘いを紹介した 『鉄条網に咲いたツルバラ 韓国女性8人のライフストーリー』 (同時代社刊) が刊行されました。
 鉄条網とは何を言うのでしょうか。本には説明がありません。
 『全泰壹評伝』 に説明がありました。
 「私たちの多くは、幼い頃それぞれある種の鉄条網を越えた記憶を持っている。そして多くの人々は、生涯を通して絶え間なく鉄条網を行き来する。他人の果樹園の桃をもぎ取って食べるために、からたちの木の垣根を越えようとして手足を棘に刺されたことがある人、豚の餌の味を忘れられずに米軍部隊の鉄条網の犬用の出入り口から忍び込み、銃弾を浴びて死んでいった子供の悲しい噂を聞いた覚えのある人は、鉄条網を越えるということが何を意味するのか分かるだろう。
 何かに導かれ、または押されてそこまで来た私たちを遮り、立ちはだかるように立っているあの頑強な鉄条網の前で、ある人はしょげかえって来た道を戻って行き、ある人はそれを越える。いや、越えていかざるをえないのだ。
 鉄条網、それは法である。秩序である。規範であり、道徳であり、訓戒である。
 そして、ある意味では抑圧である。幾重にも重なる鉄条網を張りめぐらし、その中で何かを守ろうとする人たちは鉄条網を越えようとする人を踏みつけ、その倒れた人の顔につばを吐きかける。倒れ、踏みつけられた人間の歪んだ顔につらい罪の意識の罠が仕掛けられている。そうして鉄条網を越えるその過程は、不良に転落する過程なのだ。
 法と秩序の範囲外へと孤独に追放される過程、人としての倫理と良心を剥奪され、人非人として押し出される過程である。
 しかし、それは同時に人間に戻る過程でもある。それはひとえにいかなる法律や秩序や道徳や訓戒も遮ることができない生きる権利を自らの力で主張する過程でもあるのだ。それは鉄条網の前に縛りつけられて、意識が麻痺させられることを拒否する人間の生命力、人間の生命力、人間の意志の表現なのである。」

 鉄条網に咲いたそれぞれ8個のツルバラに全泰壹が登場しています。その中の何人かを紹介します。
 仁川にある東一紡績にイ・チョンガクさんは66年に就職しました。1日10時間、12時間以上の労働でした。妹が亡くなった時、カトリック教会が葬儀ミサをしてくれたことがきっかけで韓国カトリック労働青年会に関係します。
 「そこで当時指委員だったチョン・ヤンスクさんから初めて全泰壹の話や、労働組合の話を聞いた。その話はすべて感動することばかりだったわ。これまで身に染み付いた貧しさはすべて両親のせいで運命だとあきらめていたのに、そうではなかったのよ。労働者も働いた分だけ受け取る権利があり、人間らしく生きる権利があるなんて!」
 75年から東一紡績労働組合の専従の事務局長になります。
 76年、会社と上部団体の全国繊維労組中央委員会は組合代議員大会に介入し、支部長と事務局長を逮捕します。組合員は釈放を要求して組合事務所に集まってストライキに突入します。
 77年、イ・チョンガクさんが支部長になると会社と男性組合員は組合員に脱退勧誘を行い、大量の脱退者が出ました。しかし再度全員の再加入によって組合が勝利します。
 78年2月、3年に1度の支部長選挙にイ・チョンガクさんと会社が支援する候補とが立候補します。
 2月20日、会社側は事務所を襲い、投票箱を叩きつぶしました。21日早朝、夜勤明けの組合員が投票しようと列を作っていると、対立候補と男性組合員は糞尿をバケツに入れて持ってきて組合員と役員に向かって撒き散らし、口の中に押し込みました。「東一紡績労組糞尿事件」 です。
 さらに全国繊維労組は東一紡績労組を問題組織と決め付けて支部長と主要役員を除名します。4月には124人が解雇されます。出勤闘争をすると逮捕されます。
 解雇撤回闘争は裁判闘争になり2年間続きました。

 CAW (アジア女性労働委員会) の事務局長を6年間務めたイ・チョルスンさんは、闘いの出発点には全泰壹がいたといいます。
 19歳のとき、偶然に全泰壹の焼身を目撃したという友だちの話を聞き、強い衝撃を受けました。どうして自分と同じ歳の若い人がそのような辛い重荷を負っていこうとしたのか? これまでの自分の人生は何だったのかと深い苦悩を捉えていて自分自身を振り返ります。
 何気なく入ったキリスト教の聖堂で 「人のために自分の体を犠牲にするほどの愛ははたして何処からくるのだろう?」 「全泰壹も自分を犠牲にするほど人々を愛していたということではないだろうか?」 と捉えます。
 1974年、13歳くらいの少女の労働者たちを集めて極秘の夜学を始めます。何より労働者としての自負心を持つようにすることを重要な学習の目標にしました。教師として漢陽大、建国大、首都女子師範大の学生たちが講師を担いました。
 労働教室はソウル以外でも開設されていきます。


 1980年5月光州市民を戒厳軍が襲います。
 戒厳軍の弾圧に対して市民は立ち上がります。そして “自由光州” を取り戻します。
 しかし25日、“自由光州” の砦・道庁を戒厳軍が襲撃するとの情報が入ります。そのなかで、学生たちにまじって工順 (コンスン・女子工員) たちが炊き出し、連絡係、看護隊、放送担当と忙しく活躍します。
 「市民学生闘争委員会」 のスポークスマンだった尹祥源 (ユン・サンウォン) (映画 『光州5・18』 の主人公のモデル) は立て籠もった道庁での銃撃戦で亡くなります。

 尹祥源は、以前ソウルで働いていた時、労働問題に関心が向かい、光州に戻って工員になります。光州にはソウルの大学に進学し、その時に九老工業団地で夜学を開いた経験者たちも戻っていました。その彼らと労働者の学校 「野火夜学」 を開きます。光州市にある全南大学の学生たちも支援します。
 工順はそこに参加していた労働者たちです。ここにも鉄条網にツルバラが咲いていたのです。「野火夜学」 は、『光州 五月の記憶 尹祥源・評伝』 (社会評論社刊) に紹介されています。

 野火夜学 の中心を担っていたのが全南大学出身の朴棋順 (パク・キスン) です。彼女は 「労働者の永遠の姉」 と慕われていました。しかし78年冬、練炭ガス中毒で亡くなってしまいます。

 1982年2月20日、尹祥源と朴棋順の 「霊魂結婚」 式 (死んだ後に行われる結婚式) が生き残った仲間たちによって執り行われました。仲間たちは 『イムのための行進曲』 の歌を2人に捧げます。作詞は作家の黄ソギョン、作曲は金ジョンニュル。

 光州の 「5、18記念公園」 の墓地にはたくさんの市民が眠っています。その中に尹祥源と朴棋順の2人の名前が並んで刻まれた墓石があります。今もたくさんの人びとが訪れます。そしてみなその前で、拳を振り上げながら 『イムのための行進曲』 を歌います。
 労働争議や集会の中でも必ずのように歌われています。

 
  愛も名誉も 名も残さずに
  命かけようと 誓いは燃える
  同士は倒れて 旗のみなびく
  やがて来る日まで ひるむことなく

  時はゆくとも 山河に響け
  我らの叫び 尽きない喚声
  立ち上がれ友よ かばねを越えて
  いざ前に進まん かばねを越えて


 2010年、光州蜂起30周年の集会に参加しました。
 前夜祭では、横に50メートルくらい幅広い道庁の屋上がライトアップされると、そこに一杯に並んだ市民たちが登場し、 『イムのための行進曲』 を轟きわたらせました。 
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