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「過労死等防止対策推進法」 に実効性を持たせるために
2014/05/30(Fri)
 5月30日 (金)

 5月23日、「過労死等防止対策推進法案」 が衆議院厚生労働委員会で全会一致で可決され、27日には本会議を通過して参議院に回されました。

 ここに至るまでかなりの時間がかかりました。全国過労死を考える家族の会や過労死弁護団全国連絡会議などの呼びかけで集会が開催され、さらに 「過労死防止基本法」 の成立を目指し、政党や国会議員、労働組合などに呼びかけて 「過労死防止基本法制定実行委員会」 を結成して運動を展開してきました。過労死防止基本法は、1. 過労死はあってはならないことを国が宣言すること 2. 過労死をなくすための、国・自治体・事業主の責務を明確にすること 3. 国は、過労死に関する調査・研究を行うとともに、総合的な対策を行うこと の総合対策を盛り込んでいました。
 可決された 「過労死等防止対策推進法」 は、目的を 「過労死等の防止に関し、基本理念を定め、及び国、地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、過労死等を防止するための施策の基本となる事項を定めること等により、過労死等を防止するための施策を総合的かつ計画的に推進し、もって仕事と生活を調和させ、健康で充実して働き続けることのできる社会の実現に寄与することを目的とする。」 と謳っています。その上で、(1) 過労死等の防止のための対策に関する大綱の策定義務、(2) 過労死等の概要および政府が講じた施策の状況に関する報告書の国会提出義務、(3) 厚生労働省内における過労死等防止対策推進協議会の設置、(4) 過労死等防止啓発月間 (11月) の設定などを規定しています。
「過労死等」 とは、「業務における過重な身体的若しくは精神的な負荷による疾患を原因とする死亡 (自殺による死亡を含む。) 又は当該負荷による重篤な疾患をいう」 と定義しています。


 では、過労死等防止のために具体的にはどのような対策が進められなければならないのでしょうか。
 1つには、2014年4月18日の 「活動報告」 に書きましたが 「勤務間インターバル規制」 の導入です。
 勤務間インターバル規制とは、一言でいうなら、時間外労働などを含む1日の最終的な勤務終了時間から次の勤務開始までに一定時間以上の休息を義務づけ、短期間内に心身の疲れをリセットできるようにする制度です。
 欧州連合 (EU) では、労働者の健康と安全の保護 (EC条約第137号) の観点から、1993年に 「労働時間指令」 を制定します。(2000年改正) そこでは24時間につき最低連続11時間の休息を付与する、7日ごとに最低連続24時間の休息日を付与するなどが規定されています。これに基づいて加盟国が法制化しています。

 日本では情報労連や基幹労連の加盟組合が、労働安全衛生面から労働時間規制も講じる必要があると判断し先駆的に取り組んできています。
 今春闘においても情報労連傘下の9単組が導入を経営側と妥結しました。10時間のインターバル制度が2単組、8時間が7単組です。
 これまで導入の効果として、職場からは 「深夜時間帯の回線切り替え等作業が、連続勤務からローテーション勤務に変更された」 「企業側が交代要員の確保や複数業務をこなせる多能工化を進めるようになった」 「始業時間に間に合わなくても勤務したものとみなされるので、休息時間が確保しやすくなった」 「インターバル規制が浸透し、休息時間が翌日の勤務に食い込んでも気兼ねなく出勤できるようになった」 などの評価が出ています。
 今年2月5日付の 「日経新聞」 は、「終業から始業、11時間休息を、電機連合、要求へ」 の見出し記事を載せました。
 勤務間インターバル制度は、長時間労働の制限がない状況に上限規制を設けることになります。

 2つ目は、過労死の温床・無制限残業を容認する 「特定条項付き時間外労働に関する労使協定」 (2003年10月22日付、労基法36条の運用に関する 「通達」 (基発第1022003号) の廃止です。
 この 「特別条項付き協定」 の内容です。
「労使当事者は、……『限度時間』 以内の時間を一定期間についての延長時間の原則として定めた上で、『限度時間』 (例えば1か月では45時間) を超えて労働時間を延長しなければならない 『特別の事情』 が生じたときに限り、一定期間として協定されている期間ごとに、労使当事者間において定める手続を経て、『限度時間』を超える一定の時間まで労働時間を延長することができる旨を協定すれば、当該一定期間についての延長時間は 『限度時間』 を超える時間とすることができることとされているところである。」
 具体的には 「特別の事情」 がある場合は 「1日を超え3箇月以内の一定期間について、原則となる延長時間を超え、特別延長時間まで労働時間を延長することができる回数を協定するものと取り扱うこととし、当該回数については、特定の労働者についての特別条項付き協定の適用が1年のうち半分を超えないものとすること」 です。

 労使協定を結ばなければ実行されない “はず” です。しかし実際に労働組合や従業員代表は機能していません。“名ばかり労働組合” になっています。いや “名ばかり労働組合” だからいいように利用されています。協定を結んでいるということで過労死の共犯者という自覚もありません。
 しかしこれが実態です。
 要するに、「特別条項付き協定」 を結べば、限度時間を超えた長時間労働が合法になります。延長時間が1か月100時間などという企業がたくさんあります。しかも運用実態は1年のうち半分などではなく常態化しています。これは違法です。しかし取り締まる労働基準監督署が機能していません。
 労働時間についての規制は使用者の都合だけが配慮され、労働者の健康問題は後付けになりました。労働基準法36条はザル法です。
 労働者の健康管理対策として、「特別条項付き協定」 は緊急の課題です。

 3つ目は、過労死・過労自殺が発生して労災認定された企業の公表です。
 過労死・過労自殺が発生した場合の遺族や関係者の対応は、職場の労働組合が機能しているなら労働組合で交渉、労働組合がない場合は個人加盟の労働組合・ユニオンで交渉することができます。さらに労働災害として労災申請、または損害賠償訴訟を提訴することができます。
 しかし労災申請、訴訟ともそこに至るまでが困難で、さらに時間的、経済的に大きな負担を強いられます。

 京都の大庄での過労死事件で、遺族は会社法第429条に違反するとして取締役らを訴えました。会社法第429条は、(役員等の第三者に対する損害賠償責任) として 「役員等がその職務を行うについて悪意又は重大な過失があったときは、当該役員等は、これによって第三者に生じた損害を賠償する責任を負う。」 です。
 高裁判決で善管注意義務違反が認められました。
「当裁判所は、控訴人会社の安全配慮義務 違反の内容として給与体系や三六協定の状  況のみを取り上げているものではなく、控 訴人会社の労働者の至高の法益である生命・健康の重大さに鑑みて、これにより高い価値を置くべきであると考慮するものであって、控訴人会社において現実に全社的かつ恒常的に存在していた社員の長時間労働について、これを抑制する措置がとられていなかったことをもって安全配慮義務違反と判断しており、控訴人取締役らの責任についても、現実に従業員の多数が長時間労働に従事していることを認識していたかあるいは極めて容易に認識し得たにもかかわらず、控訴人会社にこれを放置させ是正させるための措置をとらせなかったことをもって善管注意義務違反があると判断するものであるから、控訴人取締役らの責任を否定する上記の控訴人らの主張は失当である。なお、不法行為責任についても同断である。」 (大阪高裁 2011年5月25日判決 (労働判例1033号))
 遺族がここまでしなければ企業の責任を追及できません。

 労災申請は、企業と事実関係の争いになりますが、認定されても労災保険給付は国が支払う制度で、企業ではありません。企業は労災保険料が増えるだけです。つまり労災を発生させた企業の不法行為に対する制裁は発生しないのです。“みんなで渡れば怖くない”ということで企業内での責任はうやむやにされてしまいます。結局、企業は反省をしないし、労災の予防・防止の対策をとりません。

 予防・防止の対策をとらせるためにはどうしたらいいか。
 労働基準監督署が、企業名を公表することです。
 しかし現在は行われていません。理由は、特定の個人を識別できる恐れがある、法人の信用低下を招く恐れがある、また企業が調査に非協力的になるということです。
 実際は権限を放置しているから企業からなめられているのです。
 その結果泣きを見るのが労働者です。
 労災を発生させた企業には社会的制裁を科して責任をとらせることが抑制策となって、労災の予防・防止の対策を進めることになります。


 政府の産業競争力会議では新しい労働時間制度の創設を提案しています。(2014年5月20日の 「活動報告」)。企業が競争力を高めるために 「柔軟な働き方」 の理由は、「特別条項付き協定」 が通達された時のものでもありました。その結果、過労死を増やしています。
 またホワイトカラーエグゼンプションが言われ始めました。以前、法制化されようとした時 「残業代ゼロ法案」 と呼んで反対運動が展開されました。しか労働時間の短縮・「残業ゼロ」 の視点からの要求にはなかなかなりませんでした。ホワイトカラーエグゼンプションは 「過労死促進」 です。

 「過労死等防止対策推進法」 を労働者の命と健康を守るためのものとして実効性がある具体的対策を持ち寄って内容の濃いものにしていく必要があります。
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「放射能の害が証明されるのは人類が滅びるとき」
2014/05/27(Tue)
 5月27日 (火)

 5月20日の 「朝日新聞」 に、福島原発事故に関する 「政府事故調の 『吉田調書』 入手」 「所長命令に違反 原発撤退」 の見出し記事が載りました。それによると、事故後の3月15日に福島第一原発にいた所員720人のうち約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退したといいます。
  「吉田調書」 は非公開ということもありますが、当時の原発事故の状況は明らかになっていません。現在まで公開されているさまざまな報告書でもわかりません。だから事故が何とかなるものだったのか、もはや制御不能だったのか判断がつきません。そのなかで記事は待機命令に違反して撤退したことを問題として取り上げています。
 読者は、予想された最悪の事態までは至らず、結果的に所員はみな無事だったということを確認した3年後に、緊迫感が薄れてきているなかでその事実を知りました。当時と感性は違ってきています。そのことを踏まえても、所員は待機命令に違反したといえるのでしょうか。
 この問題について議論したら意見が分かれました。
 違反ではないという立場での意見です。

 現場には原子力発電に関するプロの技術者が大勢いました。(事故をまったく想定していないプロも含めて。しかし原発事故がどのような事態をもたらすかはプロとして想定できます) そこで事故が発生しました。
 被害を最小限に防ぐことができるのは自分たちしかいない、何とかしなければならないという使命感を抱く者もいました。しかし身体が危険に曝されるかもしれません、生命を失うかもしれません。
 それぞれの判断が違ってきます。違う行動をとります。そのような中で、待機命令を無視して避難したということを責めるのは酷です。誰でも助かりたいと考えます。みんなで助かりたいと思います。
 電力会社の社員だから事故に責任がある、犠牲になっても仕方ないという意見を実際に聞きました。反論します。「自分だけは何としても助かりたい」 ために他者に犠牲を強いています。

 震災直後の4月に、放射能汚染に恐怖を感じた陸上自衛隊が現地を無断で離れた、海上自衛隊員が出動したくないために破廉恥行為を行ったことが問題になりましたが、うやむやに葬られてしまいました。彼らは命令違反で処分されなければならないのでしょうか。誰も恐怖感を規律で払拭することはできません。
 この時も議論になりました。敵前逃亡と同じだと主張する者の理由は、自分たちが払った税金から金をもらっているから、死ぬのを承知で入隊したんだろう、公務員としての職務などでした。
 一方、事故後の福島原発に放水活動を行った東京消防庁のレスキュー部隊隊員たちに対して皆感謝しました。しかし誰もそのような活動を当然だったとは受け止めません。当然の行為ではないから感謝しました。
 自衛隊員も消防隊員もみな怖いのです。被災者を助けたいけど自分も助かりたいです。

 だとしたら待機命令に従わなかった結果として事故が拡大してもよかったのかという反論が出ました。いいです。それよりも所員の命は比べものにならないくらい大切です。誰にも彼らを殺す権利はありません。誰もが、誰に対しても生命が危険に曝らされることを強制することはできません。
 自分以外の誰かに犠牲を強いてもかまわないという価値観が、有事法制を推し進めたり、労働者の深刻な職場環境・労働条件を放置することに結びついています。社会全体で命が軽んじられていきます。


 2012年2月10日の 「活動報告」 の再録です。

 1955年秋以降、韓国李承晩政府は、日本海の公海上に境界線を引き、その線を越えた日本船は沈没・拿捕すると声明を出します。いわゆる 「李承晩ライン」 です。実際に拿捕されたりしていました。
 56年2月下旬、電電公社所有の長崎港を母港とする海底ケーブル布設船 「千代田丸」 に、朝鮮海峡の海底ケーブル故障個所の修理命令が出されます。全電通労組本社支部千代田丸分会は、安全保障や外国旅費等の労働条件について交渉を続けたが前進しません。
 そもそも朝鮮海峡の海底ケーブルは公社の所有ではありません。さらに修理場所は 「李承晩ライン」 の内側であり、攻撃を受ける危険性は大きくありました。本部支部は、公社の労働者と公社の間には朝鮮海峡の海底ケーブル作業の労働契約はない、契約を結ばないかぎり就労の義務はないと主張して交渉を続けました。
 しかし3月5日、公社は団体交渉の途中、警告文を読み上げて席を立ちます。予定では出向は同日の午後5時。本社支部は千代田丸分会に 「出航に応じるな」 と指令。船は停りました。しかし全電通中央本部は6日、本社支部に指令を撤回するよう命令。本社支部は命令に従う判断をして分会に連絡。午後6時、千代田丸は出港しました。
 5月4日、公社は本社支部役員3人に解雇を発令します。当初、全電通本部はこの闘争を支持していましたが途中からやめました。
 解雇撤回闘争は裁判闘争に持ち込まれます。69年4月11日、「雇用関係が存在する」 との判決がだされ3人は復職します。しかし公社は控訴。63年6月、3人は敗訴します。3人は上告しました。

 原告は最高裁への弁論要旨で主張します。
「労働者が働かなくてはならないのは、使用者と労働契約を結んでいるからで、その契約にないことは新しい契約をしない限り働かなくてもよい。この点が労働者と奴隷の違いです。契約にないことを無理に働かせ、まして、米軍の権威や日米安保条約を持ち出して危険な海域にひきずり出すのは、労働者に奴隷的拘束を課し、その意に反する苦役を強制することになるのではないか。その意味で、この事件では労働者の憲法上の基本的人権が争われているのです。」
 68年12月24日、最高裁は原告勝利の判決が言い渡されました。
かような危険は、労使の双方がいかに万全の配慮をしたとしても、なお避け難い軍事上のものであって、海底線布設船たる千代田丸乗組員のほんらいの予想すべき海上作戦に伴う危険の類いではなく、また、その危険の度合いが必ずしも大でないとしても、なお、労働契約の当事者たる千代田丸乗組員において、その意に反して義務の強制を余儀なくされるものとは断じ難いところである」 (『千代田丸事件』 今埼暁巳著)
 このような闘いを経て “使用者の安全配慮義務” は認識が固められていきます。


 労働者は、法律や判例で守られているから危険を回避することができる、命令に従わなくてもいいということではありません。
 全電通中央本部は労働者を危険から守ろうとしませんでした。
 このような中で労働者が自らの生命を守ろうとする時、拒否しかありませんでした。それを裁判所であっても否定できなかったということです。
 安全か危険の判断は現場のそれぞれの労働者おこなうものです。


 原発と放射能を巡る問題で、連載漫画 「美味しんぼ」 が中止に追いやられました。
 この経過を見ていて、放射能問題とは別の恐怖に襲われました。
 漫画を批判する側は、描かれている内容には根拠がない、放射能は数値がいくら以下は安全だと主張します。
 安全とか健康は数値で測れるものなのでしょうか。そもそも判断基準の数値などありません。エビデンスがありません。ないのは、人間はモルモットではないからです。
 そのような数値を示されて安全を強制されるのは怖いです。不信感が消えません。それはこれまでの政府の姿勢への評価でもあります。
 恐怖によるストレスは様々な体調不良を発症させます。予想できないことがおきます。
 福島の人たちは、風評被害がやっと払拭されようとしているのにまた呼び戻されたと怒ります。しかしその怒りは、生活基盤が保障されない、将来への不安を抱えている状況で原発事故に対する怒りを抑えたうえでのものです。漁民の苦闘はまさにそこにあります。苦闘が自己責任にさせられています。
 しかしもっと怖いのは、風評被害を抑え込むために福島原発事故、関連して今も続く様々な問題、改修工事の困難さが隠され、忘れさせられようとしていることです。


 2012年7月20日の 「活動報告」 の再録です。

 チッソの責任追及をしていく中で、医師の原田正純さんは患者や支援者、医師たちと学習会を続けます。そのなかで核爆発実験の放射能をめぐる武谷三男著 『安全性の考え方』 と出会います。
 原田さんは、著書 『水俣病』 の中で孫引きをして紹介しています。
「死の灰が地球上にふりまかれているときに、一部の学者は、科学的に降灰放射能の害を証明することはできないから、核爆発実験は許されると主張した。アメリカ原子力委員のノーベル賞学者リビー博士は、許容量をたてにとり、原水爆の降灰放射能は天然の放射能に比べると少ないから、その影響は無視できると主張した。微量の放射能の害はすぐには病気にならない、すなわち急性症状を示さないところに、非常に困難な問題があったのだ。
 武谷三男氏らは、『許容量というのは、無害な量ではなく、どんなに少ない量でもそれなりに有害なのだが、どこまで有害さを我慢するかの量、すなわち有害か無害か、危険か安全かの境界として、科学的に決定される量ではなく、社会的な概念であること。害が証明されないというが、現実にそういうことをやってみて、そうなるかどうかはじめて証明されるというのでは、科学の無能を意味し、降灰放射能の害が証明されるのは人類が滅びるときであり、人体実験の思想に他ならないこと。放射能が無害であることが証明できない限り、核実験は行うべきではないというのが正しい考えである』 ことを明らかにした。」

 放射線量に過敏にならなければならないということではありません。
 社会的な概念とは、ここまでは大丈夫というような数値ではなく、そのもっともっと手前の誰もが納得して安心できるものです。そしてそれを保障する状況・環境です。
 原子力は、人類が滅びないために使用してはいけません。これは命題です。


 「美味しんぼ」 には政府が介入して中止に追い込みました。科学的判断の問題に政治が圧力を加えました。科学に政治が勝りました。目的は、東京オリンピック開催に向けて国際的 「風評被害」 を封じるためです。

 かつて科学の進歩は人類の共有財産でした。第一次世界大戦頃からは国家が所有するものになりました。今、原子力は国家と企業が所有しています。軍事力と産業としてです。その所有を維持するために自分らは安全なところにいて人びとに犠牲を強います。
 まさに、戦時中の大本営と特攻隊を連想させます。

 繰り返します。誰もが、誰に対しても生命が危険に曝らされることを強制することはできません。これは人びとが平和に生活するための基本です。

     関連 : ≪活動報告≫14.3.19
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震災の時、障碍者・障碍者施設はどう行動したか
2014/05/23(Fri)
 5月23日(金)

 東日本大震災から3年が過ぎると、さまざまな組織や団体から報告・記録集が公表されるようになりました。震災発生直後はいくら頑張ろうとしても “出来ることしか出来ない” 状況でした。時間が経って振り返ると、よく頑張ったという思いと、もう少し何とかならなかったかという思いが交差します。
 その思いは、災害がまたいつ押し寄せるか予測つかない中で、今後の教訓としても共有しておく必要があります。

 震災からしばらくした頃、東京で自閉症の家族をかかえる人たちと支援団体が集会を持ちました。
 家族が体験を語りました。避難所で生活していても、子どもはなぜいつもと違う空間に連れてこられたのか理解できません。突然声をあげたり動き回ります。すると周囲の人たちは迷惑そうな態度を見せました。結局、家族は避難所を出て車の中で寝起きしたといいます。
 その経験から、震災などが起きた時、行政の福祉会館のような施設が障碍者の避難場所に指定されていていたらお互いに理解し合い、助け合えるのではないかという思いを話されました。
 今、福祉会館は平時の施設でしかありません。今回の震災では障碍者の避難施設、支援者ともかなりの部分が民間に依存しました。
 福祉会館が緊急時にも(にこそ)機能し、支援を求める側も支援のために駆けつける側も、情報収集・提供を合わせて官と民が協力し合えるようセンターの体制を平時から整えておく必要があります。

 震災の時、福祉施設で働く労働者は本当に大変でした。
 2012年5月14日付の 『河北新報』 に 「宮城県内の社会福祉施設 震災後、職員の3割精神状態悪化」 の見出し記事が載りました。
 調査は、12年2月に全国福祉保育労働組合(東京)などが高齢者や障害者、児童が利用する115施設の職員345人を対象に実施し、132人 (回収率38.3%) から回答を得ました。
 非常事態の中、施設利用者の生命に危険が及ばないよう神経をすり減らしたことや、被災して行き場を失った高齢者らを新たに受け入れたことによる過重労働が心身への強い負担につながったとみられるといいます。
 心の状態は、『あまり良くない』 が11.9%、『一時、調子を崩したが回復』 が17.8%で、震災後に精神的な状態を悪化させた職員は計29.7%に上りました。体調は、『あまり良くない』 が9.1%、『一時、調子を崩したが回復』 が14.9%です。
 震災後の勤務状況は、『泊まれる職員は泊まり込んだ』 が72.9%。一部施設が避難所になったことなどから、『通常とは別の業務が増えて職員の体制に困った』 の回答が26.4%ありました。
 施設利用者の変化については、『健康状態が悪化』 『心理的に落ち込むことが増えた』 『新しい利用者が増えた』 がいずれも2割前後ありました。

 福祉施設の労働者は使命感と責任感で業務を続けていますが、日常的に人員不足です。状態は 「民」 だけで解決できる問題ではありません。

 体験を活かした取り組みも開始されています。
 2014年5月6日付の 『河北新報』 に 「ハンカチでSOS 聴覚障害者ら災害時使用 塩釜市社協が作製」 の見出し記事が載りました。
 塩釜市社会福祉協議会は聴覚障害者らから、「避難時に意思を伝える物が欲しい」 という意見が寄せられました。それをうけて災害時や緊急時に使用する 「たすけてハンカチ」 を300枚作製し、市内の対象者約150人に配りました。ハンカチは20センチ四方のタオル地で、大きく 「Help たすけてください」 と書かれています。首都圏の自治体では同様のバンダナを作った例はあるが、県内では初の試みといいます。
 社協の事務局長は 「災害で助けが必要なときに周囲に伝えやすい。日常でも車いすで道路の段差を越えられなかったり、重い荷物を運べなかったりしたときにはハンカチを見せてほしい」 と話しています。

 対策は、平時にとられていなければ緊急時には活かされません。
 茨城県東海村で放射能漏れ事故が発生した時、周囲の住民には防災無線で避難勧告が出されましたが、聴覚障害者は知らずにずっと残っていたということもありました。
 教訓は1つひとつ活かされ、日常的に意識されて 「減災」 に活かされていかなければなりません。


 特定非営利活動法人 みやぎセルプ協働受注センターは、ホームページ 「つなぐ、つなげる、復興支援の輪。あの日、私たちは戦っていました。3.11震災の記憶」 をこの3月に立ち上げました。紹介しようと思いながらずっと遅れてしまいました。
 
 挨拶です。
「平成23年3月11日、私たちは東日本大震災を経験しました。それから今日まで、県内外の方々から様々なご支援をいただきながら、復興への道を歩み始めています。日一日と状況が改善されていく中で、震災の記憶もまた少しずつ薄れていくのを感じていました。そんな中、県外の方々から震災時の対応について質問を受ける機会が多くあり、『あの日、何を感じ、どう行動したのかを記録に残すべきでは』 という気持ちが強くなっていきました。
 ここに掲載しましたのは、実際に事業所が被災し、避難誘導やご家族との連絡、さらには復興への第一歩までを経験した、障害者就労支援事業所職員の 『生の声』 です。この苦しくも貴重な経験を共有することで、今後起こりうる災害への備えに、少しでもお役立ていただければ幸いです。」

 15の施設が報告しています。そのいくつかを紹介します。
 気仙沼市の就労継続支援事業所の状況をスタッフが報告しています。
「……その後、利用者・職員の 『安心・安全』 を考え、気仙沼市の指定避難所である気仙沼市総合体育館に、施設内にあった毛布数枚と菓子パンを持って公用車にて避難しました。避難先は、停電により明かりがない状況でした。畳敷きの部屋で一般の方も避難してきたので徐々に人が増え、利用者の把握が難しくなる事、情緒が不安定になり皆さんに迷惑をかける事を考え、特別に部屋を用意してもらいました。この時まで、利用者のご家族とは連絡が取れず、安否確認も取れないままでしたが……翌日9時までを避難所の気仙沼市総合体育館で過ごし、その後は施設に戻りました。」
 あの時、一番必要だと思ったものは・・・の質問に
 「福祉避難所と障害者を理解している人の支援及び、日常生活用品、食料、ガソリンなど」
 あの時を振り返って、一番考える事は・・・の質問に
 「障害者を受け入れる避難所と障害者を支援できるスタッフ」 と答えています。

 南三陸町の地域活動支援センターの支援員の方の報告です。建物全壊、施設備品全損でした。
「揺れが大きかったので机の下にもぐるように指示をしたと思います。揺れが治まりそうになったので立ち上がろうとしたらまた揺れました。泣き出す利用者さんもいて、そばに行って肩を抱き、揺れが治まるのをじっと待ちました。
 防災無線では3mの津波がくると聞こえました。当時の所長、役場の方の指示で避難の準備を始めました。……利用者のみなさんも少し落ち着きを取り戻し、全員徒歩で避難しましたが、途中、倒れて動けなくなった利用者さんがいて雪の中、数人で移動させるのに苦労しました。……高台の中学校の体育館に移動しました。そこが避難所になっていたのでそこに身を寄せました。……
 しかし、利用者さんの中には薬が切れて発作を起こしたり、情緒不安定になり、夜中に怒鳴りながら歩き廻ったり、気になる人の名前を呼びながら似ている人に近づいて、声を掛けたりして捜す人がいたため、周りの人の迷惑にならないように気を配りながら過ごしました。」
 今、一番伝えたいこと・・・の質問に
 「一人ひとりが防災意識を高め、災害を最小限におさえるように努めてほしいと強く思います。」と答えています。

 仙台市内の多機能型事業所の園長の方の報告です。
「夜、真っ暗な中、利用者は名取川の増水、氾濫(津波)を警戒しながら、同じ敷地内のすみれホーム (福祉ホーム) で職員の見守りの中、待機中でした。全員不安な面持ちながら比較的落ち着いていて一安心しました。一方、近隣の住民も施設に集まってきており、施設内に誘導し一夜を明かしました。……
 一夜明けてすぐ近くまで津波が来ていたことを知りゾッとしました
 津波情報や名取川の水位上昇におびえながら周りに高い場所がない為、やむを得ずその場にとどまっていましたが、一夜明けてすぐ近くまで (約2キロ手前) 津波が来ていたことを知りゾッとしました。……  ※仙台東部道路が津波をせき止めてくれました
 通所利用者で帰宅困難者は入所施設内で職員と共に過ごしましたが、十分な寝具等の準備はありませんでした。また、利用者のご家族との連絡は殆ど取れない状態でした。
 ……
 震災後10日程度経った頃から津波で事業所が全壊した 『まどか荒浜』 に当園ホールを貸し、事業所再開を支援しました。知的障害者と約1年3か月同じ建物で過ごしました。元々当園は身体障害者の施設である為、初めは職員も利用者も戸惑いを感じている様子でしたが、徐々に慣れるにしたがって仲間意識が芽生え、温かく見守っていたようでした。
 その後、仙台市からの依頼があり 「福祉避難所」 になる事を受諾しました。その関係で地域の避難所運営委員会のメンバーに加えていただき地域との関わりが一層深まったように感じます。」
 あの時、一番必要だと思ったものは・・・の質問に
 「何十人という施設の利用者の命を守る為のマンパワー、食料、燃料、飲料水、発電機、無線機 (通信手段)、反射式ストーブ (灯油) などを地域の人達の分も含めて備蓄しておくこと。」と答えています。
 あの時を振り返って、一番考える事は・・・の質問に
 「入所施設では利用者の生命を預かっています。どのような状況下でも利用者の安全が最優先となりますが、その為には職員の確保が必要です。しかし、利用者を守る為に命を落とした他施設職員のニュースを聞いて、どうしたらよいのかを考えると、重い課題でもあります。遺族から訴えられている例もあり、日頃のリスクマネージメントの重要性を痛感しています。」
 今、一番伝えたいこと・・・の質問に
 「利用者の命、安全を自分たちが守り抜くという職員の献身的行為には施設長としては感謝しかありません。職員は自分の家、家族がありながら、施設と利用者を最優先に考えてくれ、使命感を持って行動してくれました。
通常の仕事では感じられなかった職員の姿は忘れられません。
 全国セルプ協の会員施設から、数多くの方が被災地支援に駆けつけてくれました。若い人だけでなく、施設長自らという施設も多いように感じました。志願してきていただいたお気持ちは大変尊く、有難く、心強く感じましたが、送り出した施設はその分スタッフが足りない状況で頑張っていただいたことを推察すると、本当に多くの人、組織にご支援いただいたことに只々感謝致します。」


 報告では、多くの職員が自分も被災者でありながら家族の状況を省みないで (いいことだとは思われませんが)、なかには親族が亡くなったことも知らないで頑張ったことも語られています。
 各施設は平時における非情時への備えが有効になりました。日常的に避難場所の確認だけでなく薬や食料なども備えておく大切さが語られています。このことは障碍者等の施設だけの問題ではありません。
 保護者への連絡、帰宅させるかどうかについては対応が違っています。保護者に引き渡すことを優先するのではなく、しばらく集団での行動を続けた施設もあります。平時に確認しておく必要がありますが、その方がお互いのためかもしれません。
 全国からはたくさんの支援が寄せられました。それで何とか施設を維持することができてきました。
 これらの経験の中にはたくさんの教訓が盛り込まれています。

 「減災」 対策はマンパワーです。防潮堤の高さではありません。


   みやぎセルプ協働受注センター
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産業競争力会議の提案は過労死促進法案
2014/05/20(Tue)
 5月20日(火)

 政府の産業競争力会議で、長谷川閑史経済同友会代表幹事は新しい労働時間制度の創設を提案しました。賃金を労働時間に対してではなく仕事の 「成果」 に対して支払うという内容です。その方が労働者は働く時間を自己裁量でき、「効率的な働き方」 ができるといいます。創設理由は、企業が競争力を高めるために 「柔軟な働き方」 の選択肢をもうけるためだといいます。いずれも抽象的なうえに主体があいまいで分かりにくい表現になっています。本音が隠されていて、労働者が取り込まれてしまう危険性がおおきいです。

 まず、日本において 「成果」 の定義はあいまいです。(2014年4月25日の 「活動報告」) 最近は 「実績」 を指していることが多いようですが、都合いいように使い分けもされます。
 日本にパフォーマンス・ペイと呼ばれる 「成果主義賃金制度」 が最初に導入されたのは1995年に富士通においてです。目的は、会社がはっきり言っていますが、人件費の削減です。若い労働者から要求があったということも理由に挙げられ、労働者のモチベーションが向上すると言われました。しかし失敗しました。
 成果主義賃金制度は、初めて 「降給」 を登場させます。
 成果主義賃金は、賃金が労働の対価として労働者という 「人」 に支払われるのではなく、 「成果」 への対価として支払われます。人材が消費財になりました。賃金が 「属人」 ではなく 「属物」 になりました。賃金から人格が奪われました。生活維持の手段という性格が削ぎ落とされました。企業は労働者の生活保障を意識することがなくなり、乱暴なリストラが平気でおこなわれるようになりました。
 03年頃から、成果主義という言葉を使用しながら業績主義の性格を強くして、「みんなで渡れば怖くない」 方式で多くの企業が導入していきます。

 「柔軟な働き方」 は 「柔軟な働かされ方」 でもあります。
 「柔軟性」 は2つの意味を持ちます。1つは、労働者が自分が持っている技能を可能な限りどんな業務にでも発揮する用意、そして使用者が訓練で磨かれたその技能的資源を適切に配置する能力を持っていることです。もう1つは、経済全体での労働の配分を最適化するために経営者の採用・解雇の自由を拡大し、必要に応じてリストラを行ない、そして必要な技能を外部労働市場で容易に見つけることを可能にすることです。そのために契約社員や派遣労働者が重宝がられます。産業競争力会議の提案は後者です。

 成果主義賃金制度は、短期間での業績をエンドレスに繰り返させます。個人間の競走を煽り、「自主的」 長時間労働を強制します。評価制度がゆがんでいるという不満が絶えず、労働者は疑心暗鬼で働いています。そのなかで業績が上げられなくなっての降給は実質的退職勧奨です。また制度が退職勧奨に利用されているなどの声もたくさん聞きます。
 まさしく 「成果」 は経営者に解雇の自由を拡大し、必要に応じてリストラを行なう 「柔軟性」 を補足するものです。
 さらに労働者にゆがんだ忠誠心 (ごますり) を植え付ける一方、会社への求心力を失わせました。双方とも企業にとっての本物の成果が上がるはずがありません。

 「成果」 は賃金から人格を奪う、つまりは労働から人権と生活権を奪うものであることとはっきりと捉えて反対をして行く必要があります。


 労働者は 「効率的な働き方」 をしたら自由時間が増える、そのような裁量を与えられるのでしょうか。
 そもそも企業の競争力を高める政策と労働者の自由時間を増やすことは矛盾していると簡単に反論できます。それでも騙そうとします。

 労働者の自由時間を増やすという振れこみは以前にもありました。
 1988年に導入された 「裁量労働制」 は、労働者に働き方の裁量を与えるもの、業務が早めに終了したら時間を自由に使っていい制度ということでした。実際そうできた労働者はどれくらいいたでしょうか。
 昨年10月、厚生労働省労働基準局は 『平成25年度労働時間等総合実態調査結果』 を発表しました。調査は裁量労働制についても行われました。(昨年12月3日の 「活動報告」 参照)
 その結果です。
 専門業務型裁量労働制で、労働時間の状況として把握した時間の1日の平均は、最長の者12時間38分、平均的な者9時間20分です。「法定休日労働あり」 の割合は、最多の者39%、平均的な者21.9%で、4人に1人以上が法定休日に仕事をしています。年間に最多の者で8.5日、平均的な者で4.0日労働しています。
 企画業務型裁量労働制では11時間42分と9時間16分です。「法定休日労働あり」 の割合は、最多の者29.2%、平均的な者17.2%で、年間に最多の者で5.8日、平均的な者で3.1日労働しています。
 導入に際しての振れこみからはかけ離れた、労働者側が指摘した長時間労働が実態になっています。

 裁量労働制は業務とその他の時間の境界線をぼかします。業務が過重の時は (事態は常時過重ですが) 業務に関する意識がその他の時間帯を支配してしまい、余暇を後退させて 「仕事人間」「会社人間」を作りあげます。いずれも個人や家庭の生活と相反する生き方です。
 「会社人間という会社員像は、会社像をも変えることになった。会社は、所得を与えてくれるところから時間を奪うところへと変わった。所得は奪われた時間の対価にほかならない。残業は追加的な給与の獲得機械ではなく、またサービス残業も将来の出世のための投資ではなく、個人ないし家族のプライベートな時間の侵食を意味するものになった。仕事の持ち帰りや休日出勤だけでなく、社員旅行その他の会社の催しも、私生活への会社の侵入と見られるようになった。
 会社は仕事をとおして個々人に個性と能力の発揮をうながすところではなく、逆に個性を奪うところであるとさえ見なされることになった。会社人間は会社の利益と価値観に進んで同化しまた同化させられる、会社のカラーに染め上げられて個性を失っていくとして、嫌悪と憐憫の対象になりつつある。」 (杉村芳美著 『「良い仕事」 の思想』 中央公論新社刊)
 労働者の意識が企業に取り込まれていきます。使用者は、労働者が1つの業務の成果を達成したら次にはさらに高いノルマを采配して過重な労働を強制します。だからノルマを達成して成果を上げるためには長時間労働となります。しかし賃金は変動しません。生活からゆとりが消えていきます。これが会社のいう 「効率的な働かせ方」 です。 
 産業競争力会議がいう 「効率」 とは、国際間での競争に勝ち抜くための力を強化するため人件費を抑えるという意味です。
 産業競争力会議が具体例に挙げる成果を上げることができた労働者はごくごく少数です。


 安部政権が進めようとする雇用政策を、ロナルド・ドーア著 『働くということ グローバル化と労働の新しい意味』 (2005年 中央公論新社刊) をヒントに検討してみます。構造改革を唱えた小泉政権の頃の刊行です。

 かつて日本の企業の株は銀行を含んだグループで相互に所有し合い、株価の変動はさほど気にされませんでした。その構造がグループの安定と企業内労働組合による労使関係を作り出し、労働者の雇用も保証しました。企業は社会的責任も果たすことができました。
 1970年代には、ヨーロッパへの日本企業の進出とともに 「日本的経営」 が評価されました。しかし長くは続きませんでした。
 そして日本でも 「日本的経営」 が壊されていきました。


 バブル崩壊は銀行の再編・金融資本の後退をもたらし、代わって投資ファンドが株主として登場し、その中で企業再編とM&A (企業の合併と買収) が進みます。
 またバブル崩壊からの立ち直りの中では企業間だけでなく国境を越えての競争が激化しました。多国籍企業が増大していきます。競争に打ち勝つためには 「効率」 が問題にされます。経営上と雇用慣行の双方に 「弾力的な市場」 が必要でした。
 経済のグローバル化が、個人主義、市場主導の経済を基本とするアングロサクソン諸国で先行して進められました。アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドなど、そして少し遅れて日本です。各国政府は構造改革というかけ声でさまざまな規制を解除し、企業は国際的競争に挑戦します。

 景気の判断は経常利益と株価によって行われるようになります。
 株主は経営を経営者に委任します。企業全体への愛着はなく、利益高にしか感心がありません。経営者は株主に対して利益率を最大化する使命を持っています。高い利益率は株価に反映します。さらに評判が株価を高くし、株主への配当を大きくします。逆に株価の低下は株主を離反させて経営を悪化に導きます。会社経営に対する株主の発言力は大きくなりました。
 株価を上げるために労働分配率が低く抑えられ、労働者の働き方についても 「効率」 が問題にされていきます。そのためにアングロサクソン型と呼ばれるこれらの国の労働法制においても “規制緩和” が行われました。
 M&Aに伴って大量のリストラが行われました。同時に労働者の労働時間が長期化します。M&Aによって生じた “余剰人員” に留まらず “人的資源のより効果的活用” という謳い文句で “余分に人員” を削減したからです。それでも労働者の賃金アップには至りませんでした。福利政策も縮小され、企業の社会的責任は放棄されました。「高成果経営」 と呼ばれる労働強化政策です。そのなかで具体的には雇用形態の多様化、雇用契約の個別化、そして長時間労働が進みました。各国で解雇規制を巡って攻防戦が繰り広げられました。
 “雇用の流動化”は非正規労働者を増大させ、低所得者として滞留する状況が作り出されました。2000年代に入ると失業率が4%を越えました。

 小泉内閣の構造改革は、企業の自由競争と株主保護を促進し、あらゆるものを商品化していきました。その中の1つが労働力です。

 小泉政権を継いだ前回の安倍政権でホワイトカラーエグゼンプションが導入されようとした時、同時に新たに労働契約法を制定したのは、労働法制の “規制緩和” を狙ったものです。労働契約法は、労働基準法のように国家による労使に最低限の基準と遵守を義務付けるものではなく、国家が関与しない民と民との契約・使用者と労働者の契約の規則です。当初はホワイトカラーエグゼンプション導入に際して活用しようと目論まれましたが反対運動が大きく、当初の法案内容とはかなり違えて成立しました。しかし使用者にとっては民民契約を推進するための橋頭堡が築かれました。

 再登場の安倍内閣は、政府と企業による競走の阻害物である労働法規の “規制緩和” をさらに推し進めようとしています。


 業績給が最初に導入されたのは1980年代、サッチャー時代のイギリスです。サッチャーは公共部門を民営化しインセンティブを重んじて競争に晒しました。同時に、官庁の中核的な部門に業績給を導入しました。
 数年後に導入の効果が調査されました。結果は、労働者を他者よりも一所懸命働かせたという点については積極的効果があったと、モラルが低下してかえって努力しなくなったというのが半々でした。
 インセンティブが機能しなかった理由は、評価制度がゆがんでいると思われる、業績加給が小規模で自分の行動を変える気がおきるほどのものでない、自分はもともと充分良心的に努力して働いてきたという認識などからです。業績加給はいわば人を侮辱しているように受け止められたといいます。

 では調査結果を踏まえた対策をどうするか。評価による格差を大きくすることと、雇用不安と競争を煽って良心を払拭させることです。日本の成果主義賃金制度はこの方法です。
 アングロサクソン諸国では労働時間が増えています。 (13年8月30日の 「活動報告」)
 

 政府や使用者が労働者に改善を働きかける時、動機付けとして 「仲間動機に訴える」 方法と 「市場動機に訴える」 があります。「仲間動機」 とは、共同体的企業の経営者が、現場の労働者とも仲間意識を共有すると掛け声をかけて進める方法です。一緒に成果を分かち合おうと提案します。「市場動機」 とは、株主への責任を忠実に果たそうとする利益の増大を第一とする経営者が、「こうすれば賃金を上げる」 と利益のおこぼれの分配を提案をする方法です。そのためには過酷な労働を強制します。
 かつてQCサークル運動の導入に際して、当初の 「仲間動機」 の提案に労働者は “ゆとり” を獲得しようと期待しました。しかし間もなくストレスが伴うようになり、息苦しさに襲われました。「市場動機」 であったことが明らかになります。
 成果主義賃金制度の導入に際しては 「市場動機」 です。その結果、仲間意識を完全に破壊してしまいました。

 今回の産業競争力会議の提案は、騙すことなく堂々と 「市場動機」 です。
 労働者と労働組合がなめられています。

 
 4月23日の 「朝日川柳」 に

   本人の 同意あったの 特攻兵

の作品が載っていました。残業代を支払わないで過労死を強制しようとする政策に、「志願制」 ・実際は強制されて散っていった特攻兵を重ねています。
 産業競争力会議の提案は、労働者を人間として扱わないで使い捨てをしようとしています。その中に労働者を取り込もうとしています。

 労働法制のこれ以上の崩壊を許すことはできません。労働者は提案に同意しません。
 提案を 「残業代ゼロ法案」 と経済的側不利益から捉えていると 「成果」 で切り返されます。
 産業競争力会議の提案は過労死促進法案です。「過労死防止法案」 の具体的政策に盛り込まれる必要がある労働者の人権回復、生活権獲得を対抗させて提案を阻止して行かなければなりません。

     関連 : ≪活動報告≫14.4.25
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軍は民衆を守らない、兵士も守らない
2014/05/16(Fri)
 5月16日 (金)

 以前、新宿駅の西口広場で沖縄物産展に合わせてイベントが行われていた時のことです。ミニコンサートも開かれ、出演したのが我如古より子でした。1部が終わって休憩に入る時、司会が2部で歌って欲しい曲がありましたらリクエストしてくださいと告げました。
 我如古より子本人に 「『あぁ対馬丸』 をお願いします」 と言いました。すると 「あの歌はね、悲しくて、涙が出て歌えなくなるの」 と答えられました。舞台などでは歌っていないようです。
 シングルCDが出ています。

 1、 夏の日差しに 照らされながら
    出船まっている 学童疎開
    思い出つのる ふるさとはなれ
    旅立つあの子も つらかろう
    見送る母は なおつらい
    あぁ あぁ なおつらい

 1943年7月、奄美大島、徳之島、沖縄の非戦闘員を島外に避難させる命令が出されます。軍の食料を確保するのがおもな目的です。
 8月21日、那覇港から長崎に向けて学童疎開の児童など1.661人、船員86人、船舶砲兵隊員41人を載せた対馬丸は、他の疎開船2隻と護衛艦、駆逐艦の合計5隻で船団を組んで出発しました。
 8月22日午後10時過ぎ、5隻が鹿児島県・悪石島の北西約10キロを通過していた時、対馬丸は米潜水艦に撃沈されます。ほとんどが船倉に取り残されました。学童775人、訓導・世話人29人、船舶砲兵隊員21人の合計1.418人が犠牲になりました。生存者は漁船や哨戒艇に救助された疎開者177人、船員・砲兵82人、奄美大島に漂流した者21人です。
 護衛艦と駆逐艦は撃沈を確認後、漂流する人たちを放置して逃走しました。そして日本軍はこの撃沈と犠牲を遺族にも隠し続けます。救助された人々には箝口令がしかれました。

 2、無事を祈って 別れたけれど
   そんな望みも はかなく消えて
   散ってしまった あの子の命
   かわってやりたや できるなら
   二度とあえない このわかれ
   あぁ あぁ このわかれ

 8月23日、パトロール中の陸上攻撃機が漂流している人たちを発見、漁をしていた漁船に通信筒を落して知らせ、現場に誘導します。救助に向かった漁船に中に、操業中だった鹿児島県山川町 (現指宿市) のカツオ漁船 「開洋丸」 がいました。


 5月12日付の毎日新聞に 「対馬丸遭難:救助に当たった漁船員の手記 記念館に寄贈」 の見出し記事が載りました。開洋丸の当時16歳の甲板員がその時の様子を便箋3枚に書いた手記が遺品の中から見つかり、5月11日に遺族から対馬丸記念館に寄贈されました。
 手記によると、遭難現場に到着したのは8月23日午後2時ごろ。「裸になり、ロープを腰にくくり海中に飛び込み、遭難者に接近、ロープをイカダに結びつけ、再三繰り返しながら、50、60人救助した」 「約15時間近くも泳いでいる者、救命胴衣着用したままボートの下敷きになり、死亡している方がたくさんいた」 「四方八方いかだの上で必死に助けを求めているものの、小生たちの船はそれ以上救助は無理」 などと記されています。最後は 「救助者の氏名すら一人として分からぬまま別れた。今どこでどうして生きているものか知りたい」 と結んでいます。

 3、呼べど叫べど 届かぬ声は
   遠くはなれた 悪石島の
   くらい冷たい 海底ふかく
   いまだに眠る あの子たち
   抱いてやりたや この胸に
   あぁ あぁ この胸に


 今、那覇市旭ヶ丘公園に建つ対馬丸記念館裏に 「小桜の塔」 が那覇港に向かって建っています。塔の周囲には悪石島の小石が霊石として敷き詰められています。
 以前は、近くの別のところに建っていました。その時の経過が塔に埋め込まれた版に記されています。
「小桜の塔建立について
 愛知県丹陽村の 「すずしろ子供会」 会長川井桂氏は戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え、昭和二十八年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河合氏を始め関係者は愛知県の児童に広く一円募金を呼びかけて二十余円の浄財及び資材を集めるに至り、同年五月五日小桜の塔が建立された。」
 移転前の 「小桜の塔」 は、沖縄戦で亡くなった全ての子どもたちを弔うためのものでした。その後、対馬丸犠牲者の遺族が集まるきっかけとなりました。

 2004年8月、「対馬丸記念館」 が開館しました。

 今年1月31日の 「活動報告」 に書きましたが、「9.11」 半年後の2002年1月11日、「小桜の塔」 の前で、みんなで反戦歌 「タンポポ」 を合唱しました。


 62年、悪石島西海岸のやすら浜港に、学童の遺体を海から引き揚げ手厚く葬った島民らによって、4つの石碑からなる 「対馬丸沈没慰霊碑」 が建立されました。
 今も、毎月1回、島をあげて碑の清掃をして大切に守られているといいます。

 45年になると、知覧など九州の基地から沖縄に向かって特攻機が飛び立ちます。特攻隊員は一握りの花・「別れの花」 をもって搭乗しました。ほとんどが目的を果たす前に撃ち落されました。
 戦後、知覧と沖縄の間にある島々に、それまでは生えていなかった花が咲きました。特攻機が撃ち落された時、花の種が散って降り、芽を出したのです。いつしか 「特攻花」 と呼ばれています。和名は 「テンニンギク」 です。喜界島では 「平和へのメッセージの花」 と呼んで大切に育てられています。おそらく悪石島にも咲いていると思われます。

 今年は対馬丸の犠牲から70年目を迎えます。
 対馬丸は、米軍の攻撃による犠牲ではありません。戦争の犠牲者です。


 「小桜の塔」 の隣りに、1961年に建立された 「戦没新聞人の像」 があります。
 碑文には 「一九四五年春から初夏にかけて沖縄は戦火に包まれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは二カ月にわたり新聞の発行を続けた。これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した十四人の霊はここに眠っている」 とあります。
 当時の新聞は 「軍司令部の戦況発表」 を載せて住民を煽りました。

 1995年6月25日、「戦没新聞人の像」 を訪れました。
 前々日の6月23日は、沖縄・平和祈念公園に、国籍や軍人、民間人の区別なく沖縄戦などで亡くなった20万人余の人びとの氏名を刻んだ 「平和の礎」 (へいわのいしじ) の除幕式が執り行われました。
  「戦没新聞人の像」 は周囲も含めてきれいに清掃され、台座には 「平和の礎」 の写真が一面を占める 「琉球新聞」 が捧げられ、その上に重し石が載っていました。
 「軍司令部の戦況発表」 の過ちを繰り返さない、「平和のためにペンを執る」 新聞人の誓いのように思われました。


 5月15日、沖縄 「復帰」 から42年目を迎えます。
 沖縄の人たちが期待したのは 「日本国憲法」 への復帰でした。しかし裏切られました。
 「復帰」 とは何だったのか。沖縄からの切実な問いかけが強くなっています。
 今、憲法解釈論議、改憲論議が騒がしくなっています。日本全体が 「復帰前の沖縄」 に 「復帰」 しようとしています。


 憲法を議論する時、国家とは、軍隊とは何かを、歴史的経験を踏まえて議論しなければなりません。歴史と現在の対話です。
 「15年戦争」 という言葉を最初に使用したのは鶴見俊輔です。彼の主張に基づいて1931年から45年を簡単に見てみます。
 1931年9月18日、関東軍内部の参謀将校数人がひそかに中国北東部の柳条溝で、満州鉄道の線路を爆破する計画をたてて実行します。しかし中国人がしたことと報道されます。日本軍は 「報復」 作戦に移り、宣戦布告がないまま戦闘状態に至ります。そして事態を既成事実として認めるよう陸軍参謀本部に強制します。「満州事変」 です。満州事変はまさに軍部の独走で始められました。
 作戦計画の裏には石原莞爾中佐がいました。目的は、日本軍が満州に軍事上の砦を作り、やがておとずれるであろう西欧諸国との戦闘の準備をするというものです。そして32年に 「満州国」 を作り、国際連盟から脱退します。

 1937年7月7日に北京の西南方向盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍との衝突事件が起きます。宣戦布告がないままで戦闘が続きます。当時の政府は 「北支事変」 と呼びました。日本軍は宣戦布告がないままで既成事実を積み上げていきます
 41年12月8日、日本はアメリカに宣戦布告します。9日、蒋介石の重慶政府は日本に宣戦布告をします。
 日本政府はこの戦争を何と呼ぶか決めかねていました。いくつかの名前が挙げられます。たとえば太平洋戦争、対英米戦争などです。最後に選ばれたのが 「大東亜戦争」 です。太平洋戦争、対英米戦争では、中国との間で続いている戦闘状態を含まなくなるからです。
 42年6月5日、日本軍は中央太平洋ミッドウェー海戦で敗北、43年2月7日はガダルカナル島を撤収します。43年5月29日、北太平洋のアリューシャン列島アッツ島が米軍支配になり、その後も次々に玉砕が続きます。
 戦時状況は、本土の視点からずらして見ると日本軍の敗戦はかなり前から明らかでした。


 戦地が沖縄に後退し、戦場になることが予想されると住民の疎開が計画され、44年8月に実行されます。対馬丸 が攻撃を受けた時、護衛艦と駆逐艦は救助をすることなく逃走しました。「軍は民衆を守らない」 これは沖縄戦だけでのことではありません。
 15年戦争における沖縄戦はこの時から始まったといえます。
 44年、南西諸島に大本営直轄の第32軍が設置され、基地がなかった沖縄に初めて建設が始まります。満州などから部隊が移動してきます。
 本島が空襲を受けたのが44年10月10日、慶良間諸島に米軍が上陸したのが45年3月26日、本島への上陸が4月1日です。そして沖縄戦の組織線の終了が6月23日です。沖縄での攻防は本土防衛・上陸を遅くするための時間稼ぎのためでもありました。
 そして8月15日を迎えます。
 戦後 「大東亜戦争」 は 「太平洋戦争」 と呼ばれたりします。31年からの中国との戦争の脈略から切り離すためです。そのことによって日本が中国に負けたという事実を見ないで済ますことができるからです。さらに歴史が歪曲されています
 

 もう1つの九州と沖縄の間の海洋であった事実です。
 沖縄に米軍が上陸した直後の4月7日、米軍海軍に対する特攻攻撃に組み込まれた潜水艦大和は、沖縄に向かって南下していて撃沈されます。その大和の艦内です。
「戦艦がこの最後の航海に入って日本の岸を離れると、ただちに士官部屋には完全な言論の自由が立ち現れました。これまで仕官たちを窒息させていた言論上の統制は、いまやとれてしまいました。士官たちは、なぜ自分たちが死ぬのかの目的について知りたいと考えていました。白熱した議論のただ中で、砲術士官の一職業軍人の臼淵大佐はこういいました。臼淵大佐がいうには、われわれのこの出撃は戦略から見て無意味であり敵に対してなんらの打撃をも与えないであろう、われられの目的は、このような行動の無意味であることを実証することであり、このためにわれわれは死ぬのだということでした。」 (鶴見俊輔著 『戦時期日本の精神史』 岩波書店)
 大和から海に放り出されて助かった海軍少佐の吉田満は 『戦艦大和ノ最後』 にこう記録しているといいます。映画 『男たちの大和』 で臼淵大佐役は長島一茂が演じました。

 軍は兵士も守りません。これが戦争の実態です。

 集団的自衛権は何を守るのでしょうか。
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