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「人を救うのは人しかいない」
2014/03/28(Fri)
 3月28日(金)

 3月9日、神戸市で開催された 「阪神・淡路から20年 東北へのメッセージ 震災と心のケアを考えるシンポジウム」 の続きです。
 講演に続くパネルディスカッションには4人のパネリストが登場しました。
 岩手県職員で宮古市に勤務しているAさん、兵庫県神河町から宮城県山元町に派遣されているBさん、阪神淡路大震災の時に神戸市灘区役所職員だったCさん、そして神戸新聞社の記者のDさんです。

 パネリストの発言を紹介します。
 まず、それぞれから震災での体験と、現在の状況について報告してもらいました。
 
Aさん 岩手県の県職員組合副委員長をしています。当時、組合役員でした。
 3月11日は県庁12階の事務所にいました。今まで経験したことのない地震なので被害が大きいだろうと組合員の安否確認をしました。
 私の自宅は宮古市の隣町の山田町です。山側でしたので津波の被害はないだろうと家族の心配をしませんでした。安否を確認するのは1週間後になってしまったことを今でも反省しています。
 宮古市、大槌町、陸前高田市が津波に遭って身動きが取れないことを知り、市町村支援は全県的に行わなければならないので支援体制の確立と無理をさせないための対応をとりました。当日は人事異動が発表されました。実施したら混乱するだろうと人事異動凍結の協議に走りました。
 組合員の被害は死亡1人です。教育委員会に派遣されていた学校事務職員です。家族の死亡は36人です。家の被害に遭った職員は140人を越えます。職場も釜石市の水産技術センター、大船渡市の職業能力開発センター、陸前高田市の農業研究センターが被害に遭いました。
 市町村職員はほとんど不眠不休で避難所の開設と避難者受け入れ、援助に集中しました。県はその支援に集中します。職員がローテーションを組んで支援をするような対策は採れなかったので、多くの職員が4日、5日間自宅に帰らずに避難所支援にあたりました。そのことが今、組合の中でも話題となり、議論を深めています。
 
 新たな問題としては現在の職場の実態があります。超勤業務が増え、水産関係の職場は10時に帰れば早い方だと仲間が報告しています。
 復興道路は目に見えるので先に着手されます。その職場での時間外労働が増えています。
 今まで経験がない取り組みではこれまでの基準では解決しないことが多くありますが国はなかなか基準を変えません。基準の中でどうするかに戸惑って時間外が増大している状況になっています。


B 去年の4月から宮城県山元町に派遣されています。派遣されるに至った経過です。
 兵庫県内12の町で構成されている町村会の取り組みとして派遣されています。全国市町村会で山元町町長から充分な支援が届いていないという訴えがあり、兵庫県の町村会長は県内の各町村から派遣しようと決定しました。12年度から4町村でローテーションを組んで1人、3年間派遣することを決めました。
 私はその決定を聞き、誰かが行かなければならなくて、誰も他に志願する人がいなければ行ってもいいと伝えました。
ちょうどその頃、宝塚市から大槌町に派遣されていた職員が自ら命を断たれた報道がありました。被災地の仕事はそんなに過酷なものなのかと少し不安に思いましたが、実際に行ってみないとわからないし、決まってからあれこれ考えても仕方がないと思って赴任しました。

 現地は、住民とは役場に用事があって訪れる時以外はほとんど接することがないです。田舎のいわゆるのんびりした雰囲気が残っているような気がします。役場は現在プレハブの仮設庁舎です。元の庁舎は津波の影響は受けていませんが、古かったので壁や柱に亀裂が入って震災直後から使用禁止になっています。
 山元町の職員数は出先を含めて176名。そこに全国から99名が派遣されています。本庁内の地元プロパー職員は約130名で、役場職員の約4割が派遣職員です。プレハブの庁舎は、夏は非常に暑くて、冬は寒いです。更衣室、休憩室、弁当を広げて食べる食堂のような仕事以外で使用できる部屋はまったくありません。女子職員の休憩室だけでも作ってあげたらなと個人的には思っています。しかし要求する人もいないようです。
 震災で殉職された職員が4名います。亡くなった職員の親の中にはそのことを知らされずに役場職員のために、また自分の息子の口に少しでも入ればと思って炊き出しをしておにぎりを運んできた方もいたと聞いています。


C 阪神淡路大震災での経験を報告します。
 自宅は西区の学園都市にあり、被害はほとんどなかったです。電車が動かないのはすぐわかりましたので自家用車で勤務地の灘区に向かいました。
 職場には200人以上の職員がいましたが8時頃で出勤していたのは10人いなかったと思います。
 1日目の終わり頃から遺体を安置所に搬送する仕事ができます。安置所に最初になったのは区役所会議室です。遺体と思って運んで行ったら動きだし、あわてて病院に戻すこともありました。運び込まれてきた板で職員が棺桶を作って運びました。灘区の場合は、火災ではなくて圧死です。ですから死体は黒か紫色です。
 次の仕事は避難所に物資を運ぶ仕事でした。黒いビニール袋にパンを入れて運びました。透明な袋だと途中でよこせという人が出てくるんじゃないかという役所的発想で隠して持っていくという手段です。
 罹災証明は役所が半壊なので隣りの公園にテントを張って発行していました。私は、苦情係でしたので、隣の人は全壊の認定なのに自分の家は半壊になっていると怒鳴られました。
 10日間は家に帰れませんでした。
 避難所に入れない方がいました。自分の近くの空き地にテントを張ったりしていました。しかし避難所とは認めらないので支援物資が配られません。私では判断できませんので課長を現場に連れて行って認めさせました。行政は組織がしっかりとしていると思っていましたが、こんな惨めな組織なのかなということも実感しました。

D 神戸新聞社で、現在は社会部で災害と防災担当のデスクをしています。
 阪神淡路大震災の時は、入社5年目の27歳、文化部に所属していました。
 西宮の自宅が全壊してタンスと本棚と下敷になりました。その日から西宮と芦屋を主に取材していました。
 当時、「心のケア」 とか惨事ストレスという言葉は一般的でなく、私たちの職場でもそんなことを言っている暇があったら仕事しろ、もっと働けというような仕事ぶりでした。阪神淡路大震災を経て問題がクローズアップされてきました。
私たちはそのような反省と教訓を込めて震災報道というかたちでいろいろ取材して発信してきたつもりです。

 東日本大震災が発生した時に、神戸、兵庫県の取り組みが活かされるかが試されるかの時が来たと思いました。当時は労働組合の委員長で職場から離れていました。春闘の対策会議をおこなっている時に船酔いするような揺れを経験しました。まず友好紙である宮城県の『河北新報』の労働組合に連絡したが繋がりません。『岩手日報』もそうです。私たちの19年前もそうだったので、あわてずにやりたいことより出来る事は何かということを考えて取り組もうと決めました。

 「心のケア」 は、東日本大震災前には新聞労働者の間でも大きく取り上げられていたとは思われません。奇しくも東日本大震災の1か月前に新聞労連によって東京でジャーナリストの惨事ストレスを考える勉強会が開かれて参加しました。その時に指名されて阪神淡路大震災の経験を話しました、専門家の方から、惨事ストレスについて初めて勉強しました。
 神戸新聞社の記者も東日本大震災の1週間余り後には被災地に取材に入っています。その時に私は個人的に彼らに東京での勉強会でもらった 「災害取材にあたる時の心得 気を付けること」 が箇条書きされているコピーを渡しました。その後支局を仙台に立ち上げますが、そこにコピーを送って貼っておいて何かあった時は見るようにしてもらいました。些細なことかもしれませんが、阪神淡路大震災の時は無防備でしたが少しでも役に立てればということ取り組みまいた。
 新聞販売店の方々もたくさん津波で呑み込まれてしまいました。従業員が亡くなったりしています。配達で使う自転車や車が流された話を「岩手日報」の仲間から聞きました。そこで全国の仲間に呼びかけて電動アシスト自転車を10数台購入して岩手県と宮城県に持参しました。岩手県の沿岸は坂道が多いので電動アシスト自転車にしました。
 その時に現地を見ると、阪神淡路とでは災害のタイプがまったく違う、心に与える影響もおのずと違う部分があると思いました。ただ新聞記者として被災者に寄り添って取材する、話を聞くということに関しては、同じだということを強く感じました。


 次に 「心のケア」 にテーマを移して報告してもらいました。

A 当時、情報収集や支援者の受け入れが県の役割で、情報整理に集中していました。
 県庁の中でも職員は日中ずっと働きづくめの状態でしたから4日目、5日目を過ぎるとボーっとなってきます。段々にお互いを責めあってしまうことが起きますが、その状況をどうわかり合うかということにはなりませんでした。
 職員の体調管理を含めて体制づくりをして欲しいと要請しても、お互いきつい言葉の言い合いでなかなか帰着点に行きません。上司も判断しきれなかったです。体調がボーっとする中でイライラだけが募ったという状況がありました。
 自治労のボランティアに入っていただいた宮古市などでは、対応するにも住民が話している内容をメモれないこともあったので、とにかく休む状態を作ろうということを意識しました。行政の支援が入るまで、ボランティアにとっては大変でした。なるべく休息をとるということが1つの課題だと今は実感しています。
 もう1つは孤立感です。今は人数がそれなりに来ていただいているのでいいのですが、人数を縮小した時に、どう結び付くのかが課題としてあるのかなと思います。

 現在の職場は宮古の地域振興センターです。職場実態は、予算執行が震災前の2.5倍から3倍ですが職員数は任期付職員を除けば増えていません。都道府県支援者で処理しています。その中で時間外が増えています。内在的に、精神的に問題を抱えている例が出始めています。

B 現在の職場の状況です。未曾有の災害に遭遇した地元職員が聞けば違うと言われるかもしれませんが、私が1年間いて感じた正直な思いです。
 私は産業振興課に配属されています。去年4月に配属された時点では、現地プロパー職員12名、派遣職員8名、臨時職員1名でした。実は前年度は3名の休職者が出ていました。すべてが「心の病」あるいはそれに起因うる体調不良です。昨年4月では全員が復帰していましたがまた休職に入り、2カ月休んでまた復職ということが繰り返されています。3人に加えてもう一人休職者が出ました。一番多い時で4名の休職者がいました。
 課長は業務の進行管理だとか成果に非常に厳しいです。震災の復興から早く立ち直らなければいけないという焦りがあるのかもしれません。その指示を受ける線の細い人や内にこもってしまうタイプの人は、日に日に傍から見ていて元気がなくなっていくことがわかります。しかし地元の職員も自分のことが精いっぱいで、なかなかその人をケアするということができていません。
 課長は、心の病は誰でも起こる、だけども休むと他の人に迷惑をかかる、特に派遣の人には大変な負担を強いることになるので体調管理は自分自身でしっかり行ってくれと言います。
 私の仕事は、これまで現地の職員が手が回らなくてできなかったことを任されています。これで貢献できているのかなという思いをすることは正直あります。何をどう進めたらいいか、手が付けたらいいかわからないこともありました。1年近く経ってやっとあれもしなければならないな、調べなければならないなということが見えかけています。
 兵庫から一緒に派遣されている仲間に聞きますと、1つの職場に立場の違う職員、つまりプロパーと派遣職員、派遣の中にも宮城県の職員、他県の職員、県内近隣の市町村職員、県外の市町村職員、そして任期付職員や再任用職員がいます。いろんな職員が混在していて待遇の違いがあります。それで隠れた妬みのような感情があるといわれています。
 別の仲間の話では、復興・復旧工事が進んで忙しくなっています。特に心を病んでいる人はいませんが、プロパー職員は、未曾有の大災害でイレギュラーな業務を3年間こなしてきてみんな自信をもっています。その分、少し体調を崩している人などに目を向けられなくなっているのかなということです。
 山元町のメンタルヘルスの取り組みとしては、昨年、全職員を対象にカウンセラーに来てもらって研修会を実施しました。職員の親睦を深める取り組みとして、派遣職員を対象に町の栄養士を中心にして地元の特産物を使った弁当を作ってもらったりしました。全職員を対象に夏に1回懇親会がありました。今月もう一回あります。
 私の場合、元気づけられたのは地元の仲間からの励ましです。職場の同級生や親しくしている先輩・後輩、これまでは話をしなかった人からもメールをもらったりしてありがたいと思っています。「無理したらあかんで」、「できないことはできないといいなよ」 とか声かけてもらいまして、職場でいやなことがあっても1人ではないなということが実感できました。地元の人事担当課長からも状況確認の電話をもらいました。このように周りのケアや家族の支え、地元の職員の交流もあって、1年間私の場合は、元気に過ごせたのかなと思います。

C 当時、神戸市職員2万人弱でした。亡くなった職員は16人です。ただ家族はかなりの数が亡くなっています。
 同じ職場の中で1人、最近もまだ休職と復職を繰り返している職員がいます。子供を亡くされていて、当時はずっと出勤できませんでした。管理職の方も残念ながら、出勤できなかった人が目立ちました。隣の席の職員は突発性難聴炎で入院しました。
 直接的、間接的であれ一時的であれ、症状が出た人がいたのは覚えています。
 当時は4月が人事異動でしたが、発生から3ヶ月の段階で希望を出して今までにない数が人事異動をしていました。
 私は組合支部の役員でしたので組合員からいろいろな苦情や何とかしてくれという話を毎日のように聞きました。何とか交渉してみんな1週間に1日ぐらいは休めということで勝手に強行しました。後で私のところだけが1週間に1日休んでいるということがわかって咎められました。そういうことをやらない限り、自分らを守れないという気持ちになっていました。そういうことは今後の健康問題としてもあるのではないかと思います。

D 去年、宝塚市から岩手県大槌町に派遣されていた職員が亡くなったということだけで衝撃を受けましたが、後から、幼いころから知っていた彼だったということを知って、さらに衝撃を受けました。
 配布された資料に 「復興を支えて」 という新聞記事がありますが 「神戸新聞」 の連載記事で私がデスクを担当した1年前の連載です。彼へのレクリエムをこめて現場に記者を派遣し、できるだけ当時の状況に迫ろう、彼だけでなくて全国各地から派遣された職員の労働の実態に少しでも迫りたい、そして彼がどういう形で仕事をしていたのか、あるいは今の被災地そのものの現状がどうなのかということを考えてみたいということで取り組みました。
 東日本大震災の被災地の支援活動や取材者として岩手、宮城、福島を見て感じるのは、赤十字ではないですが 「人を救うのは人しかいない」 ということです。被災地の職員、被災者みんなが奮闘されていますが、復興を応援している人たちをどう支えていくかも併せて考えていかなければならないと強く思っています。
 「復興を支えて」 の連載の中でも学識者の話を掲載していますが、応援に行く方はすごくやる気を持って臨まれる。ただ現地に行けばなかなか進まない状況、被災した人の生活がなかなか改善されない姿を目の当たりにして、また応援者同士、地元の人には言えないけどもずばずば言いあって苦情を受けたりするということを聞いたことがあります。いいやすいということもあるのでしょうが、受け止める側はそれが仕事であるわけです。そういった方が、では今日は飲みに行くぞ、休みには羽を伸ばすぞということができるかというとできません。宝塚の彼が住んでいた仮設住宅に行きました。大槌町から車で40分ぐらいのところです。仮説住宅以外は何もないところでした。片道40分の道中は毎日被災したところを目の当たりにします。
 国も宝塚市も対策を考えているようですが、復興を応援している人がいないと被災地は復興しませんし、応援している人をどう支えていくかということを私たちも含めて考えていかなければならないと強く思っています。


司会 隠れた被災者の姿が少しはクローズアップされたのではないかと思います。今日の話は全国的に共有されたらいいなと思います。
 この後も被災地でがんばる2人に拍手で激励したいと思います。

     関連 : “こころ” のケア
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震災発生から3年経った時期の心のケアは
2014/03/25(Tue)
 3月25日(火)

 3月9日、神戸市で 「阪神・淡路から20年 東北へのメッセージ 震災と心のケアを考えるシンポジウム」 が開催されました。主催は兵庫安全センターや全港湾、自治労などで構成される実行委員会です。  
 惨事ストレスについて、労働団体や労働組合が主催して集会を開催するのはおそらく全国でも初めてだと思われます。
 昨年の新年早々、宝塚市から岩手県大槌町に派遣されていた職員が自殺しているのが発見されました。(2013年1月8日の 「活動報告」)震災復興の支援活動の最中に命を落とすようなことはあってはならないことです。そのようなことを繰り返なさいための取り組みをすることが何よりの供養になるということから企画されました。
 集会には100人が参加しました。

 最初に、精神科の医師である岩井圭司兵庫教育大学大学院教授が講演しました。岩井医師は、阪神淡路大震災の時は大学病院に勤務していましたが、その後「心のケアセンター」に移り、2000年からは兵庫教育大学に移りました。東日本大震災後は岩手県教育委員会の支援も行っています。宮城、福島を合わせて年に10回ぐらい被災地を訪れているということです。
 講演内容は、阪神淡路大震災での経験を踏まえて東日本大震災で活かされる取り組み、注意点など多岐に渡るものでした。


 被災地では、阪神淡路大震災のやり方が良くも悪くも踏襲されています。一部は阪神淡路大震災の経験が反面教師として受け継がれています。同じような失敗を繰り返さないでほしいということです。治療に失敗した患者のカルテを医者の世界では 「苦いカルテ」 と呼んでいます。不幸にして治療に失敗した場合、そのカルテから学ぶことが医者の技量の向上には不可欠です。
 阪神淡路大震災の時は神戸市も兵庫県も、それ以外の官民もなけなしの資源をつなぎ合わせてよく頑張ったと思います。しかし充分な準備がないところに起きた大災害です。ですからあの時一生懸命やったことをそのまま次の防災計画に書いてはいけないのです。次に準備するならもう少し別のやり方になります。
阪神淡路大震災の死者は6453人です。
 日本の災害関連法規の制度ではまったく対処できない事態だったからあのような展開になったということを 「苦いカルテ」 として覚えておかなければなりません。

 復興期の心のケアとしてPTSDは早く治してあげた方がいいし、トラウマでうつ病になった方も心のケアが必要です。被災地でのアルコール依存症の問題も大きな問題です。そのような大切な問題がありますが、一番大切なのは自殺防止対策です。取り返しのつかないことを起こさないことが大切です。
 自殺予防のためには横軸と縦軸の対策が必要です。横軸は横断的に見た時、ある人は別の人よりもハイリスクを背負っていて統計的に将来自殺する確率が高い。そういう人には随時注意が必要です。
 縦軸は、同じ人でも行動が変化してきたら自殺が迫っているんじゃないか、自殺しようと考えているのではないかという危険サインです。
 そのように横軸と縦軸でみていくことが必要です。
 常にお互いに気づかうという形で、自殺やストレス、トラウマについてオープンに話す機会を持つ、あるいはそのような雰囲気を職場で作ってほしいです。お互いが目と目を合わせて話せる関係がある時にはオープンで話が出来るようにしていてほしいです。タブー視しないで、しんどくなったら人間死にたくなるよね、そういうことがあるらしいよね、でも死なないでほしいと話してください。そのことが予防になります。
 どういう人が自殺しやすいかについては統計的にハイリスク者はほぼ確定しています。自殺未遂の経験者は高いです。こういう兆候が出てきたら怪しいということでは、懐かしい人に会いに行く、見られたくない物を処分する、ずぼらの人が急に整理整頓を始めたなどです。
 兵庫県から派遣された職員が自殺したので対策をとらなければならないというような話をタブー視しないで話して欲しい。

 被災者のメンタルヘルス対策は、時間が経つとともに対策が変わっていきます。今は震災発生から3年経って急性期から中長期に入っています。
 災害発生後、被災者心理は3つの段階を経ます。直後は茫然自失です。半日からせいぜい2~3日。どうしていいかわからないでぼやっとしている時期です。やがてハネムーン期が来ます。お互いのことをおもんばかって、被災者の中でボランティア団体が結成され、お互いに助け合って避難所を運営していきます。愛情と熱意にあふれた時期です。しかし長続きしないで幻滅期に入ります。
 オーストラリアの精神科医ラファエルが著書 『災害の襲うとき』 には 「災害について新聞が取り上げなくなった時に幻滅期がやって来る」 とあります。
 阪神淡路大震災の時はどうだったかと捉え返すと3月20日に地下鉄サリン事件が起きて新聞のトップ記事になります。その時期だと思います。

 被災者の居場所も、震災直後は茫然自失で自宅や路上にいます。やがて避難所、仮設住宅、復興住宅に移ります。
 初期の避難所や仮設住宅に移った頃は初期的ケアが行われます。仮設住宅から復興住宅に移る時期は、緩和的ケアに比重が移されていきます。
 予防的ケアとは、トラウマ対策が重要になります。災害でトラウマを蒙りますがうつ病やPTSD、アルコール依存症にならないようにしましょうということです。
 トラウマは災害の時にドカンと来ます。個人差はありますが時間が経つと影響はだんだん軽くなります。身体の怪我も心の傷も自然回復力が働きます。
 ところが自然災害の場合は、災害後ライフラインが断たれ、復旧が充分でない中で避難所での生活を余儀なくされると生活ストレスは時間が経てば経つほど積み重なっていき、一般的ストレスの影響が強くなります。生活ストレスからくる症状を治療することに比重を移していかなければなりません。
 生活ストレス、あるいは職場での長期間にわたる災害後ストレスが積み重なって来るのを放置するといわゆる 「燃え尽き症候群」 が起きてきます。
 今は、その予防の方に徐々に重点を移されていく時期になっています。

 燃え尽きとは、特に職務上のストレス、疲労感が蓄積していって無気力、うつ状態のために職務上の能率低価が起きてしまうことをいいます。燃え尽きは、生きていても仕方がないという諦め、諦念、自己懺悔、自責感の結果から自殺に至ることがよくあります。
 そうならないための対策は一般的ストレス対策が有効です。一般的ストレス対策は3つです。
1つは休息です。休まずに根性で乗り切ろうというのが一番よくないです。真面目は心の健康にとっては悪いです。真面目で律儀な人は、落ち込みかけた時に弛んでいるとはっぱかけて頑張ります。一時的にはそれでいいです。ところが疲れてしんどいのに気合をいれたら余計に疲れが溜まり、もっと落ち込みが来ます。悪循環を起こします。頑張り過ぎないで休んでほしい。
 2つ目は、表出促進です。安心できる、信頼できる相手、絶対に味方になってくれる人に弱音を吐いてください。言わないと自分で自分を欺くことになります。
 3つ目は、体験共有です。同じ立場にある人同士がお互いにしんどいけど燃え尽きない程度に頑張っていこうなと支え合う、ちょっとだけ励まし合う、ねぎらい合う。そういう体験共有が出来ればいいと思います。

 同時に孤立無援化を防ぐことが大事です。「俺なんか周りの人に迷惑をかけているばかりだ」 「どうせ誰も俺のことなんか気にかけていない」 と思うと燃え尽き自殺が迫ってきます。
職場では 「連帯」 が一番大事です。
 孤立しがちな人がいます。そういう人には 「あなたのことを気にかけているよ」 というメッセージを出し続けてほしいと思います。


 兵庫県の心のケアセンターの95年から97年にかけての相談記録ではPTSDの相談は全体の3%ぐらいです。強い不安とか対人関係、眠れないというような相談が多かったです。ここからPTSDの罹患者は多くないから大丈夫と思ってはいけません。診断基準を満たさないけど不安が強い等の問題が起きていることを知ってほしいです。
 心のケアセンターで、阪神淡路大震災から3年8か月後から5か月間、県外にあった復興住宅で、住民の協力を得られた人の厳密な診断面接を行いました。住民の9.3%にfullPTSDが見つかりました。ゆるい診断基準であるpartialPTSDは14%でした。
 時間が経ったから増えてきたのか、きちんとした調べ方をしたら有病率が上がったのか。おそらく見逃していた部分もあると思います。その証拠にfullPTSDが8人みつかりましたが、そのうち6人は以前に心のケアセンターが接触していたことがあったのです。あったけど問題ないと見逃していたのです。
 しかも被災者の中には自分がしんどいことを悪気で隠すのではなく、もっと大きな被害を蒙った人に失礼だ、申し訳ないという気持ちから 「大丈夫です」 と笑顔で言う人もいます。
 自分を奮い立たせている人にもケアが必要です。

 
 長田の大火があった地域の写真が2枚あります。1枚は直後で一面焼け野原です。瓦礫の撤去作業が行われていました。東日本大震災でがれきの撤去が遅れていたと言われますが、はっきり言って阪神淡路の方が遅かったです。
 阪神淡路大震災も東日本大震災も、こういう状況で生活していたことはお互いのねぎらいの中で思い出しておく必要があります。ややもすると東日本大震災と比べると阪神淡路大震災は楽だという風潮が全国の中にちょっとあります。それでは阪神淡路大震災の被災者は浮かばれません。あの時も結構大変でした。お互いです。このことは確認しておいていいのではないかと思います。
 もう1枚は、震災2周年の日に私が撮った写真です。2年間で2枚目の写真まで復興しました。震災からの2年間でこの地域の住民の人たちの生活はどうなったかということに思いをはせたいと思います。記憶を呼び戻していただきたいし、想像力を働かせてもらいたいと思います。
 2年後の写真に更地が多いです。ようやく瓦礫を撤去した人、転居された人がいます。自立出来た人、コンテナで仮設営業している人、立派な家を自力で再建てた人もたくさんいます。2年間で立ち直りに個人差が生じています。おそらく東日本でもそうです。
 個人的状況に差がついてくる中で、やや生活復興が遅れている方は、自分たちはなかなか楽にならないな、いつまでもしんどいと考えて自分は情けないなと自分を責めながら燃え尽きが広がっていくことがあります。
この時期に、求められているのは、一言でいうと見守りと発信です。
 震災後の不自由な生活の中で、家族が亡くなったり、見守ってくれる人がいない状況にある人が孤立無援になると燃え尽きることがあります。そういう人から自殺者を出さないようにしなければなりません。

 重い心の傷をトラウマと言います。なぜトラウマが人間にとって最悪なのか。トラウマに罹った人は高率でPTSDやうつ病に罹患します。それだけではありません。
 トラウマが人の心にもたらす最悪のことは、トラウマ自身が人の心に孤立無援感をもたらし、孤立無援状態に陥りやすいということです。
 なぜならトラウマは人の心に3つの不信感をもたらすからです。
 1つは、社会に対する不信感です。世の中はいつ何が起こるかわからない、ひどいことが起こるに違いないという考え方です。2つ目は、他人に対する不信感、これだけ自分はしんどい思いをしているのに他人はわかってくれない、人間なんて所詮孤独なんだという考え方です。3つ目は、自分自身に対する不信感です。こんなことにへこんでいる自分自身が情けないという考え方で、自分自身を責める気持ちが出てきます。
 この3つがないまぜになって、自分を互助的なネットや連帯の中からはじき出す、被災者の一部は人間集団から「離断」されて孤立無援に落とし込められます。
 身の回りで孤立無援になっている人がいたなら 「私はあなたのことを気にかけてますよ」 というメッセージを送ることが大切です。

 忘れないということが必要です。人間は忘れたいのです。忘れた方が楽です。日本人は忘れることが上手です。100%悪いとはいいません。
 災害を覚えているということは、そのことで亡くなった人がいるということを覚えていることです。それによって遺族は救われます。もし世間がそのことを忘れてしまうなら、自分の大切な人が亡くなったことが犬死になったと思われてなりません。せめて自分たちだけでも覚えておかないと息ぐるしい形で辛い記憶に向き合い、しがみつきます。
 そうならないためには、世間は、ずっと覚えておくことはできないにしても、たまにみんなで思い出す機会を作ることが大事です。忘れないということが大事です。
 それは遺族の心のケアであると同時に、つらい体験を次に伝えることで災害の対策になります。亡くなった人を大切にするということは遺族を大切にすることであり、遺族の孤独感を和らげるとことになります。世間が覚えてくれているという安心感の中でもう一度互助的なネットワークの中に呼び戻すことができます。

 災害がゼロにはなりませんので、不安なままで安心しなさい。これが真実です。


 この後、4人のパネリストによるシンポジウムが開催されました。
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「福島第一原発で 今も安心を取り戻すために                      必死に闘っている人がいるのも知ってほしい」
2014/03/19(Wed)
 3月19日(水)

 東日本大震災を題材にした小説が発表され始めています。
 真山仁の 『そして、星の輝く夜が来る』 を読みました。舞台は被災地の小学校6年2組です。
 小説のストーリーを詳細に紹介することはつまらないことです。複合的に入り組んでいる流れを単線で紹介します。

 担任は、阪神淡路大震災の時に妻と娘を亡くします。東日本大震災直後に志願して派遣されます。
 着任早々、ストレスがたまっている児童たちから “ガス抜き” をするために模造紙で学級新聞を作ることを提案します。タイトルは 『わがんね新聞』 です。「わがんね」 はもうやってられないという意味の方言です。完成した新聞を玄関ホールの掲示板に貼りました。他のクラスも真似をします。6年1組のタイトルは 『ゆるせね新聞』 です。

 『ゆるせね新聞』 を2組の児童が破り捨てます。そして書いた児童と取っ組み合いのけんかをします。
 新聞には 「“ゲンパツ” は保科さんに謝れ」 と書かれていました。保科は津波で父親を亡くし、原発事故の被災地から避難してきましたが、転校後は学校を休みがちになっていました。
 書いた児童は 「保科さんは、放射能が怖くて家から出られなくなってしまったんです。だから、原発事故を起こした東電に謝ってほしくて書きました」 と答えます。
 2組の他の児童が反論します。「ウソつき。この “ゲンパツ” って、福島君のことでしょ」
 福島も震災が原因で転校してきました。父親が東京電力福島第一原子力発電所に勤務し、震災以降も原発に残って事態の収拾にあたっています。それで “ゲンパツ” と呼ばれていました。書いた児童は福島を 「うちの学校に、放射能を持ち込んだ」 と目の敵にしていました。
 東電社員の児童が2人転校しています。受け入れにあたってPTAの間でも議論がありました。書いた児童の母親は 「原発周辺から来た子は別の教室で授業をして欲しい」 と言ったといいます。

 担任は福島の家庭訪問をします。母親はそうに呼ばれていたことを知りませんでした。そして 「多くの方が東電に嫌悪感を抱かれるのは当然だと思います。それが偏見とも思いません。それについては、あの子ともしっかり話し合っています。なので、そっとしておいてほしいです」 と言います。

 しかし福島はみんなと話をしたいと言い出します。
 福島の言い分です。
 「原発について。みんな電気がないと困るのに、どうして急に原発は悪で東電はウソつきってきめつけるんだろ」
 「原発が危険だと言うなら、ずっと昔から危険だったはずでしょ。でも津波が来るまでは誰も何も言わなかった。なのに、事故が起きたら、東電ばかり非難するのはおかしいと思います。悪口を言う前に原発について知るべきだと思います。」
 「でも、この間まで原発は地球に優しいって言われてたんですよ。父の仕事が地球のためになるんだと知って、かっこいいなと思いました。それが事故が起こるなり最悪みたいに言われるのは我慢できません」
 福島は父が今も守り続けている原子力発電が悪者扱いされていることに心を痛めていました。

 「先生、電気じゃなくて原発が問題なんです。事故が起きてから、東電はずっと悪者です。原発を作ったからです。そして、安全だとみんなにウソをついていたからです。じゃあ、電気を使っていた人は悪くないんですか。みんな今だって毎日使っている。なのに自分たちは騙されたから被害者だって変でしょ。僕、引っ越す直前に、父に聞いたんです。お父さんは、原発が安全だってみんなを騙していたのって」
 「父は、原発の危険性については電力会社としてちゃんと伝えていたときっぱりといいました。でも世界一の技術を持つ日本の原発は絶対に安全だと自信を持っていたそうです。なのに事故を起こしてしまった。だから、何を言われても、しょうがないんだ。これ以上の被害を出さないよう頑張るから、応援してくれ――。父はそう言って悔しそうな顔をしました。あんな父を始めて見ました。
 それから僕なりに調べました。父の言うとおりでした。東電は原発の危険性についてもちゃんと伝えていました。それが足りなかったかもしれない。でもウソつきとか騙しとか、そんなふうに悪者にされるのはちょっと違う気がするんです」

 福島がこの問題をクラス討論したいと言い出したので後日、担任と校長の3人で話し合います。
 校長 「今回の地震では、誰もが形のないものをたくさん失って苦しんでいる気がしませんか」 「安心とか、気楽さとか、希望とかね」 「君が気にしている電気の問題もそうかな。……その上、原発事故は安心も気楽さも希望も奪ってしまったね」
 福島 「それは事故のせいだけなのでしょうか」
 校長 「そうじゃないだろうね。いままで想像したこともない出来事が起きて、びっくりしちゃった結果、何もかも失ってしまった気がしているのかもしれない」
 福島 「僕もそう思います。原発事故は大問題だけど、誰かを悪者にして済ませていては、いつまで経っても安心も希望もありません」
 校長 「でも、自分が悪かったって認めることは難しいことだね。毎日歯を食いしばって生きているのに、その上、あなたたちにも責任があるって言われるのはつらいな」
 福島 「だから、目を逸らすんですか」
 校長 「いや、手厳しいな。確かにそうかもしれない。でも、みんなが君のように強いわけじゃないよ」
 福島 「自分が強いとは思っていません。ただ、僕の父は、福島第一原発で今も命がけで闘っています。東電や原発は悪者かもしれません。でも、安心を取り戻すために必死に闘っている人がいるのも知ってほしいだけです」 「東電はみんなのものです。なのに東電や原発は許せないとか、騙したとか文句を言う。それは卑怯じゃないでしょうか」
  ……
 校長 「話し合う会を開きましょう。ただし、話し合いをしたら、君が大勢から攻撃されるかもしれませんよ」
 福島 「その覚悟はできています」
 校長 「いくら丁寧に説明しても、わかってくれない人もいると思いますよ」
 福島 「でも、わかってくれる人もいると思います」
 校長 「中には、君の訴えを聞いて、傷つく人がいるかもしれません」
    ……
 福島 「誰も傷つけたくありません。それでも、僕らは原発問題から目を逸らしてはならないと思います。今は傷ついても、ちゃんと議論をして良かったといつかきっと思える話し合いの方法を僕は必至で考えます」


 正直、原発の危険性については電力会社が伝えていたということは知りません。
 ただし、広島、長崎の被害、ビキニ環礁の被害、そして東海村JCO臨界事故、さらにチェルノブイリ事故、スリーマイル事故を知っています。危険性を警告する人たちも大勢いました。(2012年2月28日の 「活動報告」) しかし過去の事、遠くでの出来事と捉えて安心していたのも確かです。
 警鐘は鳴らされていたのです。


 一方、福島、放射能に対する偏見も本当にひどいものがあります。
 2013年3月19日の 「活動報告」 の再録です。埼玉県の人権作文コンテストで最優秀賞作品賞を受賞した中学生の作品です。
 
   『支えあって生きる』

 基本的人権の尊重。今までの自分が人権について知っていることと言えばこの言葉ぐらいだ。日本は、世界に比べれば平和で安全な国だし、自分もその国で、何不自由なく幸せに暮らしていた。そうあの日までは…。
 3月11日の東日本大震災は、たぶん日本の歴史に残る大きな災害だ。教室の後ろに掲示してある歴史年表にも、いつか刻まれることと思う。ぼくは、その被災地に住んでいた。地震で建物が壊れたりしたものの、家族や友達、地域の方々に亡くなった人はいなかった。
 しかし、地震の後の原発事故のため、ぼくと家族は家を離れ、友達や親しい人たちと別れなければならなくなった。生まれ育った故郷を離れなければならなかったのだ。
 人権をおびやかすもの。戦争や紛争、貧困、差別や偏見、環境破壊など、今までの自分にはなんの興味もなかったことだった。まだ戦争や紛争中で、子供たちの命が危ない国があることも、戦争は終わったけれど、貧困のため食べるものがなく、病気になっても満足な治療も受けることができない国があることも社会で学習した。テレビでそんなニュースを見れば、かわいそうだと思ったし、争いがよくないことも分かっていた。
 しかし、それは自分にとって、遠い遠い国の出来事で、自分の心を痛めるようなことではなかった。まさか自分たち家族が、家を無くし、日本中を転々と移動しながら、目に見えない恐怖におびえ逃げまどう避難民になろうとは、想像もしていなかった。避難所では、配給のおにぎりを妹と半分にして食べた。薄い毛布にくるまり、寒い夜を過ごした。ラジオのニュースを聞くのが、とても怖かった。
 避難先でぼくと妹は、父に言われたことがあった。
 「これから先、もしかしたら、おまえたちは差別を受けることがあるかもしれない。福島は被曝という厳しい現実と向き合わなければならないからだ。心ないことを言う人がいても我慢をしていこう。そういうときこそ、人の本当の温かさが分かる。人とのつながりがどんなに大切か分かるはずだから。周りをしっかり見ていきなさい。」
 その時は、父の言葉の意味がよく理解できなかった。いつになく真剣で、悲しそうな父の顔が印象に残っただけだった。
 自分は今、埼玉県本庄市に暮らし、学校にも通っている。なつかしい故郷にはまだ帰ることはできないが、新しい友達もでき、幸せだと思う。
 初めて学校に行く日は、とても緊張していた。自分が福島から来たことで、被曝者と言われたりしないか、無視されたりしないか、汚いものを見る目で見られたりしないか、不安でしょうがなかった。
 しかし、友達の反応は違っていた。自己紹介で、福島から避難してきたことを聞いた時は一瞬驚いていたが、次の瞬間からは他の友達となんのかわりもなく接してくれた。
 みんなの態度は、ぼくにとって、とてもありがたかった。かわいそうにと思われてもかまわないが、ぼくは一人の中学一年生として、生活がしたかった。校長先生や他の先生方、先輩方にも、時々声をかけていただいたが、普段は他の友達と同じように、時には厳しく、時には優しく接してくださる。そんな生活の中で、ぼくは、自分が避難してきたことを忘れてしまいそうになる。
 このように、ぼくは、差別という人権侵害を一度もうけることがなかった。ぼくの人権を尊重し、受け入れてくれた皆さんにとても感謝している。
 人権を守るというのは、自分の力ではなかなかできないのではないかと思う。自分の人権は、誰かに守ってもらっているのだ。それは、家族だったり友達であったり、地域の人々だったりする。それだけではない。見ず知らずの人であっても、傷付け合ったりせず、お互いに人権を守り合うことが大切なのだと思う。それが人権を尊重すると言うことではないだろうか。
 震災は、自分にとって人とは何か、幸せとは何かについて考えたり気づいたりするよい機会になった。
 一番大切なことは、一人ひとりが、何が差別で何が人権侵害なのかを、しっかり考えることだと思う。そして、相手が何を望み、どう接してほしいのかを考えてあげることが必要だ。
 ぼくの未来はまだ何も見えてはいない。しかし、ぼくには分かったことがある。それは世界のどこにいても、どんな困難にぶつかったとしても、それぞれの人権や自由を守ることができる社会さえあれば、人は幸せに生活できるということだ。
 父の言葉には、そんな意味があったのかもしれない。それはまだ分からないが、今自分ができることをして生きていきたいと思う。
 それが、「支えあって生きていく」 ということではないだろうか。
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「哀と 愛と 逢と・・・」
2014/03/14(Fri)
 3月14日(金)

 3月11日の石巻市は1日中曇り空に強い風が吹いていました。前夜雪もちらつきました。日陰には残雪もあります。

 午後2時46分、市内の日和山公園にいました。海と被災した街を見降ろせます。
 昨年は山頂に建つ神社で、全国の神社関係者が慰霊祭を催していました。今年はありません。丸3年目を迎えると風化が言われていますがその流れに沿うものなのでしょうか。
 平日ですので、昨年、一昨年ほどの人は見られません。しかし勤務中の労働者らしき姿もあります。近くに住むお年寄りたちが集まってきました。春休みということでボランティアに来ていた学生たちも集まっています。
 東日本大震災での石巻市の犠牲者は3200人を越え、いまだ行方不明者は400人を越えています。行方不明者の多くは海がさらって行ったと思われます。しかし海は穏やかです。
 サイレンに合わせてみなで海に向かって黙とうをしました。


 「震災ガイド」 の方が地元でない高校生の集団に北上川の河口を指しながら説明をしていました。
 「石巻はね、秋には秋刀魚が大漁にあがった。運ぶ時に少しぐらいこぼれても気にしなかった。だから港の近くに住む人たちは買わなくても拾って生活できた。」
 この話はかつて石巻を案内する雑誌にも書かれていました。内陸方面に運んでいく街道沿いでもそうでした。
 JR石巻駅の近くに「穀町」という地名があります。内陸方面から米が運ばれてくる街道沿いに倉庫が並んでいたあたりです。いったんここに納めて河口から船で各地に運ばれました。
 米が運ばれてくる時も、俵から少しぐらい米がこぼれても気にしなかったといいます。街道沿いに住む人たちは塵取りですくって食料にしました。
 雑誌には 「石巻はほうきと塵取りがあると生活できた町」 と紹介されていました。
 海と平野の収穫物が集まり、豊かな町でした。


 日和山公園から海の方を見渡しました。
 昨年からは大きな変化がありました。
 昨年まで、海岸沿いには高い瓦礫の山が堤防のように連なっていました。車が三重にも四重にも重ねられていました。それが消えています。かつての漁港近くにあった高さ20メートルの瓦礫の堆積場も消えました。震災直後は処理に20年かかるといわれましたが3年待たずに一応何とかなりました。
 誰かが 「きれいになりましたね」 と声をかけてきました。そしてすぐに 「いえ変な意味ではないですよ、瓦礫が片付いたということですよ」 と言い訳しました。
 悪意があるとは受け止めません。目の前に見えた瓦礫は頑張ろうという思いにはむかうバリケードのようなものでした。それが取り払われたのです。
 しかし、被災者にとっては何もかも “きれいさっぱりなくなった” ことを実感させました。改めてゼロからのスタートです。

 震災から数カ月後、管首相がここに立ちました。見下ろして 「お、家が残っているじゃないか」 と漏らしたといいます。瓦礫処理がまったく進んでない状況を見て、無事だったと勘違いしたようです。案内していた地元の県議会議員は 「おだづなよ」 (ふざけたこと言うんじゃないぞ) と声をあげ、もう少しで殴りかかるところだったといいます。
 それくらい瓦礫処理は遅れていました。

 山の直下は海まで約1キロ。かつては住宅街が広がり、商店が並んでいました。
 1年後は、津波に襲われた家屋の取り壊しの最中でした。街並みに沿って歩くとヘドロに覆われたところは水はけが悪く、池がたくさんできていました。ヘドロは草木を育てないので空地には雑草も生えていませんでした。泥の町でした。山の上から見たら黒い町でした。
 2年後は、かなり残骸が片づけられていました。空地が増え、そこには雑草が生えていました。夏には背丈ほどに伸びていました。上から見たら緑色の町でした。
 3年後の今年は、残骸はほとんど消えましたが、そこかしこに葦が生えています。上から見たら黄色い町です。そして数カ所に盛り土かさ上げ工事が行われています。海の近くは公園が作られる予定です。

 何処かに似たような光景……
 足尾銅山の奥は、精錬場からの煙害被害を蒙る前、久蔵村、松木村、仁田元村がありました。住民は畑を耕し、川魚を獲って生活していました。しかし煙害がひどくなると山の木が枯れ、人が住めなくなります。その跡は精錬鉱石くずの堆積場にされました。
 今も堆積場はそのまま黒い山肌で残っています。そしてかつて人が住んでいたあたりには春・夏には雑草、秋・冬には葦が生えています。気をつけて見ると確かに人が住んでいたことを証明する祠や道路と住居をつなぐ石段が残っていたりします。訪れる者がいない墓も数基あります。
 黒と緑の村、黒と黄色の村です。

 どちらも、確かに人が生活をしていたところから人影が消えました。


 山の下から海岸付近を歩きました。
 「がんばろう石巻」 の大きな看板が掲げられている公園はイベントの準備が進められています。蝋燭で「3.11」の文字と花模様が作られています。2時46分に、ここでは600人が黙とうしたという報道が載りました。そして暗くなってから蝋燭に灯をともしたようです。
 今年も神戸市長田区の方々が、訪れた人たちにコーヒーとパンとをふるまっていました。3回目になるそうです。3回目のコーヒーをいただきました。
 今年は小さな 「白松が最中」 を詰めた袋ももらいました。神戸から1000キロ。神戸トヨタレンタリースは神戸の人たちに無償で車を提供してくれたそうです。そして仙台トヨタレンタリースが 「白松が最中」 を提供してくれたのだそうです。
 「阪神淡路の時お世話になったから」
 強風に吹き飛ばされそうになるテントを守りながら話していました。
 
 門脇小学校に行きました。校舎全体がテントで覆われ、校庭には立ち入り禁止の金網が張り巡らされています。
 被災者からは、取り壊し、震災遺跡、双方の意見が出されています。
 隣りは墓地とお寺があります。1年目はほとんどの墓石は倒れたままでした。ゆとりがありませんでした。2年目は親族でお参りする姿がたくさんありました。3年目は墓石が元通りに立て直され、整理が進んでいます。
 道路に一番近くに元禄時代から代々の墓石が一列に並んでいます。
 近くのお寺には、慶長の遣欧使節としてスペインを訪れた支倉常長を祀った墓もあります。
 このあたりは、海に近くても400年以上にわたって津波に襲われたことがなかったのです。本当に東日本大震災は未曾有の出来事でした。

 墓地の隣りに「祈りの杜」の公園がつくられていました。
 公園名を刻んだ石に
  「哀と
    愛と
     逢と・・・」
と刻まれています。このあたりで被災した人たちの思いが込められているようです。


 平日の昼間、かつての繁華街に人影がありません。
 震災前のメインストリートはシャッター街ならぬベニヤ板街に変わっています。一時は頑張って営業再開にこぎつけた店もベニヤ板で閉鎖されています。復興の拠点にしようと空地に作られた商店街でも閉店のお知らせの貼り紙が目立ちます。
 復興という言葉を口にできる状況からはまだまだ程遠いです。
 しかし、夜になると工事関係者が飲食店街に集まってきます。その賑わいは震災前以上です。いま町を支えているのはそこでおとされるお金です。工事関係者からはあと2年かな、3年かなという声が漏れてきます。そしてその後のことはわからないと口をそろえます。

 
 神戸の 「メーデー実行委員会」 の人たちが入り口に看板を2本立てた仮設住宅を訪れました。1つの看板の表に 「いってらっしゃい」、もう1つには 「おかえりなさい」 と書かれています。そして裏側には阪神淡路大震災の時に避難所で作られた歌 「しあわせ運べるように」 の歌詞が故郷バージョンで書かれています。
  
    地震から16年 苦しい事ものりこえ
    当り前のようにすぎていく
    毎日を大切に生きて行こう
    これからの故郷を 僕たちが支えてゆこう
    次は僕らが支えて行く 故郷の町を

    響き渡れ ぼくたちの歌
    生まれ変わる 故郷の町に
    届けたい わたしたちの
    歌しあわせ運べるように

 外に人影はありません。空室も出始めています。3.11はひっそりとしていました。


 いろんな方から復興の進捗状況を聞きました。口が重いです。
 それでも異口同音に出た言葉があります。
 「村井知事は自衛隊出身だから、住民を守るのではなく、国土を守ることしか考えない。あいつではダメだ」
 被災者は近くにいる行政関係者に不満を漏らします。しかし県知事への批判は度を越しています。

 風化が進む被災地で建設業界だけが潤う復興になりつつあるようです。
 そのような政治を変えなければなりません。
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「愛を知らぬ者だけが憎しみ合うのだ」
2014/03/12(Wed)
 3月12日(水)

 アンネ・フランクの著書 「アンネの日記」 が東京都内の図書館などで破損された事件で、2月下旬になって各図書館は警視庁に被害届を出すなどの対応を取ったという報道がありました。警視庁は24日、器物損壊容疑で捜査本部を設置しました。それまでに305冊の被害を確認したといいます。
 このような行為で歴史的事実を覆い隠すことはできません。
 しかし目的は、「アンネの日記」 が書かれた背景等の歴史を話題として取り上げる者たちへの脅迫です。

 ニュースを最初に聞いた時、んーんと唸ってしまいました。
 最初に破損が確認されたのは1月下旬です。練馬区立南田中図書館で来館者が気づき職員に伝えたといいます。区内9館で計41冊が破損されました。
 しかし問題が新聞等で取りあげられたのが約1カ月後の2月中旬で、その後に被害届が出され始めました。1つの区が出すと他の区も続きました。
 なぜここまで対応が遅いのでしょうか。何を躊躇したのでしょうか。そのことが被害を拡大させています。

 破損行為には怒りが湧きます。しかし事件の公表が遅れたことについては恐怖を感じます。
 図書館という書籍の内容まで掌握して管理しているところで、同じ内容の本が複数破損されたのだからそれだけでも大きな問題です。
 発生した問題の捉え方が鈍感だったということではなく、問題として告発することで自分たちに攻撃の矢が向いてしまうのではというおかしな判断が敏感に働いていたのではないでしょうか。

 仮にそうだとしたならば危険な行為です。そして図書館の使命そのものが問われなければなりません。
 確かに現在の社会状況では恐怖感が湧いてきます。都合悪い歴史は消し去ろうとしています。権力を握っている者たちが煽っています。だからこそちゃんと対応しなければ事件は続発します。相手の思うつぼです。
 表現・言論の自由、差別の撤廃、人権尊重を保障し、そのような問題の啓蒙、再確認、保護を保障するスペースこそ図書館です。図書館が様々な圧力や暴力に屈してしまうことは、利用者の意識を窒息させてしまう結果をもたらします。
 図書館は表現・言論の自由、差別の撤廃、人権尊重を守る、利用者も一緒に守ろうという早急なアピールこそが必要でした。


 昨年8月に、故中沢啓治さんが自らの被爆体験を描いた漫画 『はだしのゲン』 が、12年12月から松江市内の全小中学校で教師の許可なく自由に閲覧できない閉架措置になっていたということが明らかにされました。
 閉架措置を陳情した団体は日教組の力が弱いところを狙ったと思われますが8か月間問題が表出することがなかったという事態にこそ恐怖を覚えました。


 2月28日の 「活動報告」 でビキニ環礁で被爆した第五福竜丸について書きました。第五福竜丸が展示されている展示館にはチャップリンの映画 『独裁者』 のセリフが掲示されています。

   私は皇帝になりたくない
   支配はしたくない
   できれば援助したい
   ユダヤ人も黒人も白人も
   人類はお互いに助け合うべきである
   他人の幸福を念願として
   お互いに憎しみあったりしてはならない
   世界には全人類を養う富がある
   人生は自由で楽しいはずであるのに
   貧欲が人類を毒し
   憎悪をもたらし
   悲劇と流血を招いた
   スピードも意志を通さず
   機械は貧富の差を作り
   知識をえて人類は懐疑的になった
   思想だけがあって感情がなく
   人間性が失われた
   知識より思いやりが必要である
   思いやりがないと暴力だけが残る
   航空機とラジオは
   我々を接近させ
   人類の良心に呼びかけて
   世界を1つにする力がある
   私の声は全世界に伝わり
   失意の人々にも届いている
   人々は罪なくして苦しんでいる
   人々よ失望してはならない
   貧欲はやがて姿を消し
   恐怖もやがて消え去り
   独裁者は死に絶える
   大衆は再び権力を取り戻し
   自由は決して失われぬ
   兵士諸君 犠牲になるな
   独裁者の奴隷になるな
   彼らは諸君をあざむき
   犠牲を強いて家畜のように追い回す
   彼らは人間ではない
   心も頭も機会に等しい
   諸君は機械ではない 人間だ
   心に愛を抱いている
   愛を知らぬ者だけが憎しみ合うのだ
   独裁者を排して自由の為に戦え
   “神の王国は人間の中にある”
   すべての人間の中に 諸君の中に
   諸君は幸福を生む力を持っている
   人生は美しく 自由であり
   すばらしいものだ
   諸君の力を民主主義のために
   結集しよう
   よき世界の為にたたかおう
   青年に希望を与え
   老人に保障を与えよう
   独裁者も同じ約束をした
   だが彼らは約束を守らない
   彼らの野心を満たし
   大衆を奴隷にした
   戦おう 約束を果たすために
   世界に自由をもたらし
   国境を除き
   貧欲と憎悪を追放しよう
   良識の為に戦おう
   文化の迫害が全人類を
   幸福に導くように
   兵士諸君 民主主義のために
     ※
   ハンナ 聞こえるかい
   元気をお出し
   ご覧 黒い雲が消え去った
   太陽が輝いている
   明るい光がさし始めた
   新しい世界が開けてきた
   人類は貧欲と憎悪と暴力を
   克服したのだ
   人間の魂は翼を与えられて
   やっと飛び始めた
   虹の中に飛び始めた
   希望に輝く未来に向かって
   輝かしい未来が 君にも私にも
   やって来る 我々すべてに
   ハンナ 元気をお出し
   ハンナ 聞いたかい
   聞きなさい


 「アンネの日記」 は、1942年、オランダのアムステルダムへのナチの侵攻が始まると13歳の少女アンネ・フランクの一家は、ユダヤ人迫害から逃れるために屋根裏部屋に隠れて2年間生活します。その間の生活をアンネが書き続けた日記です。アンネは、日記に思いを秘めました。「いつかこの場所を出られたら」 という思いで勉強もします。
 

 チャップリンのアピールにもアンネと同じ思いが込められています。

   ユダヤ人も黒人も白人も
   人類はお互いに助け合うべきである
   他人の幸福を念願として
   お互いに憎しみあったりしてはならない
 
 そして2人とも希望を抱き続けます。

 2人は読者や観客に希望を抱くことができる方法を示しています。にも関わらず 「アンネの日記」 を破損した者はできませんでした。悲しい現状です。
 おそらく日記を破損した者は 「アンネの日記」 を読んでいません。 


 12年5月29日の 「活動報告」 の再録です。
 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目 (ママ) となります。」
 敗戦40周年を迎えた1985年5月8日、西ドイツの連邦議会でのワイツゼッカー大統領の演説です。
 「演説」 はナチスドイツによって虐殺された人びと、弾圧・迫害された人びとに思いを馳せます。そして 「今」 をかたり、「次世代」 に希望を託します。
 終りの方には次のようなフレーズがあります。
 「ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
 若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人、これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。」
 
 過去に目を閉ざすと未来が見えなくなりますが、過去を消そうとする行為は同じ過ちを繰り返します。
 そのような危険を現政権に強く感じます。止めなければなりません。
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