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犠牲者が出ても止めないのはビキニも原発も同じ
2014/02/28(Fri)
 2月28日(金)

 3月1日はビキニ・デーです。
 今年は60年目を迎えるということで、現地マーシャル諸島のマジュロでは大きな追悼集会が予定されています。

 第二次世界大戦直後の1946年7月から58年にかけて、アメリカは統治下にあったマーシャル諸島ビキニ環礁で計67回の核実験を実施しました。1954年3月から5月にかけて行った6回の核実験の3月1日の実験で、アメリカが設定した危険水域の外で操業していた焼津港を母港とするマグロ漁船第五福竜丸と乗組員23人が 「死の灰」 を浴びました。救難信号を発しませんでした。発したらアメリカによって拿捕・撃沈させられる危険性がったと判断したからだということのようです。
 実験場の風下のロンゲラップ環礁では、死の灰を浴びた島民80人以上が被爆しました。全島民が無人島へ避難しましたが、甲状腺がんなどでの死者も多く出ました。

 3月14日、第五福竜丸は焼津港に帰ります。水揚げされたマグロは東京築地市場など14都府県に出荷されました。
 3月16日、読売新聞社静岡支局の記者が被爆したことをスクープします。「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇 23名が原子病」の見出しです。築地市場ではセリを中断、水産物は地中に埋められます。そこに 「原爆マグロ」 の塚を建立しました。
 その後被爆したのは第五福竜丸だけではないことも明らかになります。漁船に乗って被爆したのは2万人を越えるとみられています。全国で魚が売れなくなりました。

 「昭和29年 (1954年) 3月1日米国がビキニ環礁で初めて水爆実験をおこなったが、それに対してはその前から平和運動者や婦人民主クラブなどによって反対運動が行われていました。3月14日、第五福竜丸が焼津に帰港して、死の灰をあびた乗組員たちが重態になり、その水揚げマグロから強度の放射能が検出されたことが新聞に報道され、大さわぎになりました。死の灰が雨に混じって降るというので、子どもを持つ母親はふるえあがりました。雨にあたれば髪の毛が抜けるとか、皮膚にケロイドが出るとかいう話でもちきりで、仕事も手につかないほどでした。
 杉並では、偶然にも、その直前の1月に、当時杉並公民館長兼図書館長であった安井郁氏 (法政大学教授、国際法学者) の提唱で、杉並区内、自民党系や社会党系や共産党系までの多数の婦人団体をみんないっしょに結集した杉並婦人団体協議会が、新しく生まれたばかりのときでした。その婦団協の3月例会でも、水爆問題が大きく取り上げられて、なんとかしなければと話し合われました。その翌月の婦団協4月例会で、参加者の一主婦が発言して 『他の討論より、この放射能をどうするか、どうしたら防げるかを先にやって下さい』 と切実に訴えました。後の方にすわっていた魚屋のおばさんは 『私たち魚屋では放射能のため魚を買いにくる人がなくなりました。私の店だけではない、魚屋はどこでもそうです。昨日魚屋の組合が大会を開いて、水爆反対の署名をとることにしました。杉並の婦人団体も署名運動をしてください』 と訴えました。中央あたりの席にいた私も発言を求めて 『私も署名運動ですからみんなでやりましょう』 と述べました。列席していた安井氏も積極的に賛成を述べて、婦人団体が率先して原水爆禁止署名運動にとりくむことになりました。
 4月17日には杉並区議会が水爆実験の禁止を要求する決議をしました。5月9日に杉並公民館に杉並区民のあらゆる階層や団体を代表する人たちが3、40人集まって原水爆禁止署名運動杉並協議会が発足しました。」(『山内みな自伝』 新宿書房刊)

 9月23日、第五福竜丸の無線長の久保山愛吉さんが 「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」 と言い残して急性放射線障害で亡くなります。
 このことが報じられると署名運動は全国に、そして世界に広がっていきます。1年間で3千万人を超す署名が集まりました。翌年8月には第1回原水爆禁止世界大会が広島市と長崎で開かれました。

 広島、長崎は膨大な原爆被害を受けました。しかし報道を検閲されたGHQ支配がなくなっても被爆地以外では原爆の被害状況について語られなくなっていました。その一方で水爆実験と 「原子力の平和利用」 が進められていました。被爆者は恐怖に襲われ続けていました。
 それに反対する運動が巻き起こったのです。平和運動が戦争の危険性と対峙するのをみて、長崎で開催された世界大会の時、被爆者たちがおもわず吐いた言葉が 「生きていてよかった」 です。


 11年3月22日の 「活動報告」 の再録です。
 「東京・杉並区では鮮魚店連合が展開していた水爆禁止の署名運動をヒントに 『杉並アピール』 が発表されました。署名数は、8月に広島と長崎で開催された原水爆禁止世界大会までに900万筆に達しました。
 この時、焼津港と似た漁港を持つ、今回の震災で今も多くの行方不明者がいる石巻市は地域を挙げて取り組みました。船主は資金を出し、製紙工場は紙を拠出し、地方新聞社石巻日日新聞は文書作成と印刷を担当し、市民は市内の隅々にまで署名用紙を持ってまわりました。世界から称賛されました。
 今回この地域の震災による犠牲はあまりにも大きすぎるものがあります。しかしかつて世界から称賛されたように、市民の力を寄せ集めて、必ずや街を復興させることでしょう。
 石巻日日新聞は今回、避難所に毎日マジックで手書きの壁新聞を張り出しています。
 復興とは、人々が “普通の生活” を取り戻すことと “安心・安全を保障する街作り・社会建設” です。
 それに向けての挑戦が、亡くなった者たちへの何よりの弔いです。」 
 
 実は、幼い時の、この署名運動の記憶があります。町内会の世話役の人が署名要請に来ました。魚が食べられないという会話の中で、家族が署名をしていました。
 東日本大震災では、この船主も製紙工場も石巻日日新聞大きな被害を受けました。しかし地元に踏みとどまって復興に懸命です。(2012年3月16日、2012年7月3日、2013年11月6日の 『活動報告』) 


 水産庁は、第五福竜丸の被災を知ると、被災区域内にいる漁船に、塩釜、東京、三崎、清水、焼津港を指定して入港するよう通知します。
 厚生省は、3月30日から放射能魚の検査を通知します。5月以降はさらに13港で検査が開始されます。水爆実験は5月に中止されますが、それ以降に漁獲したものからも検出されます。しかも日本近海からのものからも検出されました。 
 しかし12月28日、突然検査は打ち切りを指示する通達が出されます。それまでに、のべ856隻の漁船が魚を破棄しました。

 しかし原水爆禁止運動が反米運動へと転化することを恐れたアメリカ政府は、日本政府との間で被爆補償の交渉を急ぎます。日本政府もアメリカを刺激したくないという思惑もありました。両政府は責任をあいまいにしたまま 「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」 確約のもと、事件の決着をはかります。
 1955年1月4日、アメリカが日本に総額200万ドル (当時で約7億2000万円) を賠償金でなく 「好意による」 見舞金として支払うことで政治決着します。


 『ビキニの海は忘れない』 (幡多高校生ゼミナール等編) からです。
 高知県の 「幡多高校生ゼミナール」 が、被爆40周年ということで地元の被爆者調査に取り組んでいる時、1人のお母さんから息子がビキニで死の灰を浴びたことを聞かされます。
 「私の息子は、マグロ漁船に乗ってビキニへ行っていた……ビキニの海図を家に持ち帰って……『第五福竜丸と同じように死の灰を浴びてしまった』 と言っていました。あの子は長崎でも被爆していたので……不安がっていました。」
 お母さんと子どもたちは長崎で被爆しました。息子は国民学校高等科1年生でした。
 その後家族は高知に移り住み、息子はマグロ船に乗るようになりました。
 息子は家族には心配かけまいとあまり話をしませんでしたが、57年にイギリスクリスマス島で初めて水爆実験をした年の 「ビキニ海図」 とメモが残されています。それ以外の死の灰を浴びたとおもわれる漁船にも乗っていました。死の灰を浴びていたことは自覚していたのです。
 耳が聞こえなくなったと漏らしたり、喉の治療を受けたりしていました。
 精神的に力尽き、入院していた病院を抜け出して自殺します。

 幡多高校生ゼミナールは調査を進めていくうちに、室戸水産高校練習船が第五福竜丸と一緒に死の灰を浴びていたこともわかりました。高校生1人が亡くなっていました。
 さらにビキニでの被災調査に取り組みます。
 そしてその成果を合唱構成詩にして発表します。

   黒潮に平和を

 1.命あふれる黒潮と ぼくらはともに生きてきた
   未来に平和を願いながら
   この世に核 (兵器) があるかぎり
   人の苦しみや悲しみは
   消えることはないだろう 
   だから世界をつなぐ海のように
   みんなの心で 世界をつなごう

 2.命あふれる黒潮の 流れのように歩もう
   未来の平和を信じながら
   悪魔の炎につつまれた
   人の苦しみや悲しみは
   消えることはないだろう 
   だから世界をつなぐ波海のように
   みんなの力で 世界をつなごう


 アメリカは犠牲者がでても水爆実験を止めませんでした。
 東日本大震災を経た日本政府と電会社の原発再開の動きと同じです。
 日米政府間の政治決着は、その後、水爆実験の被害について訴える手段を奪いまいました。昨今の日韓の戦後補償問題と同じです。政府間の政治決着は、本質的問題と反省を抜きにし、実際の被害者は排除されます。

 払われた犠牲を忘れてはいけません。
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「私たちは失業者の大軍に我慢できぬ」
2014/02/25(Tue)
 2月25日(火)

 炭坑を舞台にした映画、演劇、写真展等々の情報があると落ち着きを失います。待ちわびて出かけます。事務所には毎年北海道の 「炭坑 (やま) ナビカレンダー」 を飾ります。
 劇団民藝の舞台、テネシー・ウィリアムズ作の 『蝋燭の灯、太陽の光』 を観に行きました。

 1927年頃から36年頃にかけてのアメリカ南部アラバマ州の炭坑町の物語です。
 炭坑夫の夫は誇りを持って妻と長男と長女を養ってきました。しかし生活は困窮から脱出できません。賃金の代わりに支給される金券では、会社の売店で値段を吊り上げられた生活品しか購買できません。不況になるとパンやミルクを買う金券もなくなり、少量のマッシュポテトを分け合って生活してきました。妻は、ちゃんと家庭を守りながらも子供たちは炭坑の町を離れて夫とは違う別の人生を送ってほしいと願っています。
 長男は炭坑町を離れました。しかし結婚すると別の炭坑で働くことになり、妻と幼い息子を残して爆発事故に遭って亡くなります。長男の妻は、自分と出会わなければ炭坑で働くことも事故に遭うことはなかったという思いを持っています。
 長男の妻と幼い息子が炭坑夫の夫と妻に会いに来ます。そしてそのまま身を寄せることになります。長男の妻は息子を絶対に炭坑夫にはしない、学業を身に着けさせると決意し、一生懸命働き続けてそのための資金を貯めます。
 長女も父親とおり合いが悪く、家を出ますが同じ炭坑町で生活します。
 炭坑夫の夫は、長男の息子が成長すると炭坑で働かせようとします。しかし妻と長男の妻は反対し続けます。


 話を日本の三井三池に移します。
 1918年、米騒動の波及は8月27日から9月8日にかけて、三池炭鉱の宮浦、宮原、大浦、万田坑で坑夫たちが立ち上がらせました。なかでも9月4日から8日にかけての万田暴動は大規模なものでした。きっかけは坑夫の昇給幅の縮小と選炭方法の厳格化、さらに会社による売勘場 (売店) での日用品の値上げです。1000名の坑夫に家族も加わり、炭鉱納屋事務所、坑夫繰込所、選炭機械所が襲撃されました。売勘場が放火されましたが、「民家類焼の虞あり」 として参加者はその消化につとめます。争議は攻撃目標をはっきりさせたものでした。
 会社は軍隊、警察の出動を要請して鎮圧し、結果としては坑夫側の敗北となりました。しかしその後の会社・係員の坑夫に対する対応はがらりと変わったといいます。
 「暴動」には参加しなかった労働者は 「暴動ちゃあ、たいした力のあるもんばい」 と語ったといいます。(中村政則著 『労働者と農民』)
 米騒動は各地の工場、炭鉱、鉱山などに波及しました。各地で労働者が決起した様相は、それまでの労使関係に 「地殻変動」 を起こしました。21年友愛会の日本労働総同盟への改称、翌年の日本農民組合の成立、全国水平社の結成など、既存の組織から脱皮した新しい組織が作られていきます。

 米騒動の時、足尾鉱山では 「暴動」 が起きませんでした。
 「坑夫にとって日常必要な日用品は銅山 (鉱工業所) が倉庫品 (売店用品) として一括購入し、鉱夫たちに貸下げ (月末に賃金から差し引く) した。……このような倉庫制度により、従業員たちは作物の作不足や物価の変動にほとんど左右されることなく生計の営みができるようになった。
 米騒動の時も足尾では貸下制度のため騒動は起こらなかった。米価の差額は鉱業所が出した」 (太田貞祐著 『続足尾銅山の社会史』)
 倉庫制度での取り扱い以外の日用品は、鉱業所の働きかけで1908年に設立された 「三養会」 という鉱夫の 「自治的」 組織の購買組合が扱っていました。

 アメリカの炭坑の売店も三井三池の売勘場も炭坑夫を縛り付けておくためのものであると同時に、会社は二重に搾取をしていました。
 しかし20世紀に入っての労働組合の購買組合の組織化とその名残は労働者の生活を防衛する役割を果たしました。もちろん会社の労務政策の一環に組み込まれてはいましたが。


 アメリカ・アラバマ州の炭坑の舞台に戻ります。
 炭坑町にも1930年代を過ぎると不景気が押し寄せます。石炭が売れなくなり、賃金が支払らわれなくなります。そのようななかで労働者は労働組合を組織していきます。
 長男の息子は成長すると、自分で働いて資金を貯めて進学すると決意し、炭坑で働くと言い出します。母親は反対します。
 爆発事故が発生し多くの労働者が犠牲になります。労働組合はストライキに突入します。長期化すると物資が不足し、兵糧攻め状況になります。支援を呼び掛けますが間に合いません。
 組合長は、会社が雇った集団から追われて死を覚悟しなければならなくなります。個人としては恋人である炭坑夫の長女と一緒に生き続けたい。しかしその思いを振り切って闘争の先頭に立ちます。
 会社以外が持っている現金は、長男の妻が息子のために10年間貯めていた資金です。組合長は息子に母親からお金を借りることを要請します。息子は母親が了承するはずがないことはわかっています。息子は、みんなのためにと盗んで組合長に渡します。
 盗まれたことに気が付いた母親は追いかけてきて返せと迫ります。
 しかし、組合長から今資金が必要なこと、借りるのであって必ず返すと説得されます。
 結局、母親は返せということを諦め、みんなのためにという思いに至ります。
 みんな追い詰められていました。
 しかしその資金のおかげで、労働組合は敗北することを免れます。
 炭坑夫の夫は労働組合に批判的です。珪肺のため、少しずつ視力を失っていきます。熟練の腕があるから大丈夫だといいますが労働には耐えられなくなっています。


 また日本です。
 1925年3月の労働総同盟の大会で、「珪肺」 について保護の問題が要求としてだされ、啓蒙活動が開始されました。全日本鉱夫総聯合会は 「ヨロケ病調査」 を発表し、はじめて珪肺を告発しました。
 「即ちヨロケ病は、社会に必要な産業のため、労働を行ひ、その為めに起こった病気である。故にこの病気の社会的の値打は著しく高い。故にか様な病気は、当然社会が責任を以って予防し治療し保護すべきものであり、若し斯様な産業が一資本家の利益の為に、その手で経営されてゐる場合には、この予防、治療、保護は当然その資本家の責任を以って為すべき事である。況や現今におけるが如く、その原因の大半が資本家の横暴なる酷使、残虐なる搾取、欠陥だらけの設備等に基くものに就ては特に然りである。」
 しかし 「けい肺が重要な労働問題として進展を示さなかった理由は、この病気が極めて慢性な経過をとり、殆んどが結核を合併していたので、患者の多くは全く 『よろけ』 きらないうちにぽつぽつ脱落して鉱山を去って行ったし、結核を合併した場合は、けい肺は全く無視されて結核だけを重視して私傷病として取扱われることが多かった」(『近代民衆の記録』 から孫引)。
 そして足尾銅山などでは、珪肺の疑いがあると何とか理由をつけて労働者を追い出しました。夏目漱石の 「坑夫」 に描かれている状況です。
 足尾で坑夫の遺体を焼き、肺の付近の骨を拾おうとすると肺は金属音をたてたといいます。
 30年、内務省社会局は職業病扱いの通達をだしました。
 しかし珪肺の問題が本格的に問われて取り組みはじめられたのは戦後もかなり経ってからです。(2012年2月10日の 「活動報告」)


 1929年、株式市場が暴落、大恐慌が始まります。32年、民主党のローズベルトが第32代大統領に当選します。
 ニューディール政策が開始されます。
 労働救護については、立案者は行政機関も国民も、失業手当よりも、行った仕事に対して救護を与えるという原則を選びます。主要鉄道や道路、街路、橋や公園、公共建設物や学校、病院、空港、運動場、遊園地建設などなどです。公共建設物や学校、運動場、遊園地などの活用は社会参加につながっていきます。そして私企業に刺激を与えました。
 資金が必要となりますが増税と累進税で徴収されました。
 また失業者が賃金に関係なく仕事を奪い合うのを防止するため、一定の水準を維持しました。労働者の賃金をたやすく下げられない政策がとられました。
 失業手当の方が安くつきますが、失業者を怠けさせ、堕落させ、自尊心を失わせるという理由で反対でした。

 企業と労働者双方とも救済する方策がとられました。合衆国の産業構造全体を政府によって統制する計画を立てます。
企業にはトラスト反対法を中止させ、産業部門での競走、過剰生産を防止します。
 労働者には青年男女に仕事を創りだすため児童労働を廃止し、最低賃金と最高労働時間を制定しました。労働者が労働組合を組織する権利を法律で保護しました。
 その結果企業は自分たちで復興をすることができ、労働者は最低賃金を引き上げました。

 ロースベルトの思いは 「私は、永久的な失業者の大軍をわれわれの将来の必然的な状態としてうけとることを拒否することに私の運命をかける。反対に、私たちは、私たちが失業者の大軍に我慢できぬこと、できるだけ早く現在の失業なくし、そうして再び失業が生じないような賢明な処置をとるために、わが国民経済を調整することを国民的な原則としなければならぬ。永久に被保護者名簿にとどめられていることがアメリカ人の運命だとは、私は考えたくない」 です。

 ニューディール政策は成功したといえません。スタインベックの 『怒りの葡萄』 の時代でもあります。最終的に大恐慌から抜け出したのは戦争によってです。
 日本では、満州への移民が始まります。(2012年12月4日の 「活動報告」 参照)

 歴史を通して現在の日本の労働政策を捉えかえすと、日本の政策は無政策であることがはっきりします。

 労働者・労働組合は『蟹工船』の再来だなどと嘆く前に「対案」を準備することが必要です。
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オリンピックの陰で
2014/02/21(Fri)
 2月21日(金)

   押し売りは むかしゴムひも いま感動

 「朝日新聞」 の川柳に載っていました。

 冬期オリンピックでの日本選手の報道が、これでもかこれでもかと押し寄せます。中継なら見なければいいだけのことですが、ニュースでトップに流されます。しかも同じものが繰り返されます。
 オリンピックは日本選手だけが参加しているわけではありません。しかし放映されるのはほとんど日本選手だけです。外国選手・チームのいい演技・いい試合も放映されるなら観る気も起きますがナショナリズムを煽る放映にはうんざりです。アナウンサーや解説者は偏向していています。
 オリンピック、スポーツが政治に利用されています。テレビ局はそれに加担しています。
 日本選手への応援を強制されるのは恐怖です。その権限はテレビ局にはありません。別に日本選手を贔屓にしない者にとってはスポーツが嫌いになります。

 強制的に観せられたなかで、それでもいいなと思ったのは、スケートリンクなど競技会場に 「SOCHI 2014」 「СОЧИ 2014」 以外に企業名の宣伝看板がなかったことです。競技・球技を媒介して企業宣伝を強制的に見せられるのは重ねてうんざりです。
 しかし今回も協賛企業はそれではおさまりません。Uの字のスキー場を行ったり来たり滑りながら空を飛ぶ競技で、空を飛ぶ場面の下からの映像ではボードの裏面にしっかりと大きく企業名がありました。翌日の新聞一面には企業名がアップされたシーンの写真が載りました。新聞社は広告料をとっているのでしょうか。
 フィギア以外の選手たちのユニフォームには何社もの協賛企業のワッペンが貼られています。営業パーソンが競技をしています。

 しかし企業の支援がないと選手はオリンピックに参加できないのも事実のようです。
 ラジオ番組に、陸上競技の朝原宣治元選手が出演してオリンピックの裏話を紹介していました。リスナーから意見が寄せられました。何の競技についてかは聴きそびれましたが 「税金を使って参加してあんな結果なら税金の無駄使いだ」 という内容でした。
 朝原元選手が答えました。「文科省は選手1人にいくら援助していると思いますか。たった50万円ですよ。そんなはした金、返せというなら返しますよ」 選手側に立ってかなり立腹のようでした。50万円は往復の旅費相当です。それ以外は自腹、それぞれの選手・競技団体の自助努力です。朝原元選手の立腹はかっこよかったです。
 
 選手や競技団体と協賛企業の間に介入しているのが電通等の広告企業です。その見返りがコマーシャルです。それにテレビ局が一役買います。広告企業がオリンピックの動向を左右しているのが実態です。
 選手生活や参加には多額の資金が必要です。資金を出さないでも選手に 「国を背負わせる」 のがオリンピックです。
 選手にとっては迷惑な話です。だから選手は 「国」 など関係なく楽しめばいいのです。

 一方、インタビュー会場のバックは企業の看板満載でした。競技会場と比べると官庁街から繁華街に移ったような雰囲気でした。
 それにしてもインタビューに答える羽生結弦選手の人となりは謙虚でかっこよかったです。感動の押し売りではありませんでした。学年末にオリンピックに参加していては試験はどうなるのか、大学は進級できるのかと心配してしまいます。
 選手たちはしばらく休養させてそっとしておいてほしいと思います。


 この後はパラリンピックです。少しは陽が当るようになりました。
 ロンドンオリンピックを前後して、みのもんたはしつこくしつこく、オリンピックでいい成績を上げるとお金がもらえるのに、どうしてパラリンピックではもらえないのかと訴え続けました。その効果もあってパラリンピックも知られるようになりました。
 実際はやはり電通等の動きと協賛企業が経済効果があるという判断がありました。
 いい成績をあげないとお金がもらえないというのはスポーツ精神からの逸脱です。自助努力を強制し、成功したものだけがさらに報われるという現代社会そのものです。代表には選ばれたけど交通費だけというのは、入社させたけど、成果をあげない労働者には間接的退職強要する会社の手法と似ています。

 オリンピック、パラリンピックの他にデフリンピックがあります。聴覚障害者の競技大会です。しかしまったくメジャーになりません。電通等が企画しても経済効果が見込めないからです。
 大会運営はボランティアです。大変です。しかし選手たちは楽しんで満足しています。
 やはりオリンピックは 「お・も・て・な・し」 (表なし) = 「裏があり」 です。


 オリンピックもパラリンピックもデフリンピックも参加することに意味があります。「国」 からも企業からも自立して参加して楽しめるように作り変える必要があります。豪華な施設は必要ありません。今回のオリンピックを観ながら、会場設営にどれくらいの自然破壊が行われたのだろうかという思いがよぎりました。多くの人に観てもらうことは二の次です。お金がかかるなら地味にすればいいだけです。記録を競う必要はありません。


 オリンピックの放映を観せつけられながら、戦時中の大本営発表を流したラジオはこのような状況だったのだろうか、そして集団的自衛権の行使が認められた後のテレビはこのようなトーンになるのだろうかと想像すると恐ろしくなってしまいました。押し付け情報の垂れ流しの一方では秘密保護法による情報管理です。
 現にオリンピックの最中にも国会では不気味な審理は続いていました。


 人びとは、「国」 に騙されることなくしっかりと 「国」 を監視していかなければなりません。

 間もなく東京オリンピック開催決定の影響で復興が遅れ始めている東日本大震災の被災地は3年目を迎えます。
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「復興は30%にも達していない」 6割を超える
2014/02/18(Tue)
 2月18日(火)

 1月22日の 「朝日新聞」 は、「ふくしまの10市町村 267人早期退職」 の見出し記事を載せました。
 自治労が聞き取り調査をしてまとめですが、東京電力福島第一原発の事故で避難指示区域に指定された福島県内の南相馬市、広野、楢葉、富岡、大熊、双葉、浪江の6町、川内、葛尾、飯舘の3村で2011年3月の事故から2013年末までに職員計267人が早期退職しています。市職員が多い南相馬市180人、双葉町19人、大熊町18人、楢葉町16人の順です。
 南相馬市の場合は、13年4月から12月で21人が早期退職しています。早期退職のほとんどが私立病院などの看護師の女性で、家族と一緒に市外へ避難する際に辞めたといいます。それ以外の町村職員の理由はわかりません。
 また精神疾患で休職した職員は10市町村で少なくとも22人いるといいます。

 2月3日の 「河北新報」 は、同じ調査報告ですが、「原発避難区域市町村職員、『心の病』 休職増」 の見出し記事を載せました。
 福島第1原発事故で避難区域に指定された福島県内10市町村の職員のうち、自治労福島県本部の調べでは、精神疾患による休職職員は原発事故直後の11年度が22人で、12年度は半分の11人に減ったが、13年度は13人で、前年より2人増えたことが分かったといいます。避難市町村の職員は避難先から役場に通ったり、避難先の家族と離れて暮らしたりする人が多く、通常業務に復興業務が加わり、負担が重くなっていると分析しています。
 県本部は 「阪神大震災でも震災の約3年後から 『心の病』 が重症化する例が増えた。復興を支える職員への支援は今後も欠かせない」 と話しています。

 昨年10月16日の 「活動報告」 の再録です。
 9月30日付の読売新聞は、東日本大震災で被害をうけた岩手県12市町村、宮城県15市町、福島県の沿岸と東京電力福島第一原発事故で避難指示区域となった地域の15市町村の計42市町村を対象に、うつ病など心の問題で1か月以上長期休職している職員数の調査結果を載せました。13年度もすでに8月までの5か月間で147人が1か月以上の長期休職をしています。2010年度は177人でしたが、11年度は286人、12年度は254人でした。
 震災後2年半での県別の休職者数 (延べ人数) は、宮城県が461人、福島県が180人、岩手県が46人。市町村別 (同) では、仙台市が207人で最も多く、次いで福島県いわき市が101人、宮城県石巻市が90人でした。いわき市は、今年度の5か月間で20人が休職、10年度の23人に近い人数となっています。

 震災が原因の早期退職者、休職者が増えています。深刻に捉えて早急な対策が必要です。(教職員については13年7月18日の 「活動報告」 参照。福島県教育委員会は児童生徒が減少しているため、早期退職を働きかけているということもあります)


 そのようななかで、職員不足が問題になっています。
 東日本大震災で被害を受けた本県、宮城、福島、千葉の4県の業務を手助けするため、全国の地方自治体が派遣している地方公務員の数は、昨年10月1日時点での総務省の調査では2084人でした。昨年5月時点に比べ28人増えたが、被災自治体の人手不足は解消されておらず、総務省は引き続き派遣を要請することにしています。
 しかし派遣元となる各都道府県は行財政改革で職員数を減らしています。14年度の派遣職員について全国知事会は 「13年度並みの人数が確保できるか厳しい状況だ」 としています。職員の派遣は、福島と岩手、宮城の被災3県が全国知事会を通じて各都道府県などに要請しています。職員不足に悩む被災自治体は、県と連携して全国の自治体に足を運び、派遣協力を直接訴え続けています。
 派遣する自治体もゆとりがあるわけではありません。


 1月19日の 「福島民報」 に 「東日本大震災 【本県への職員派遣】 技術系確保 苦戦 全国的に不足 復旧・復興へ影響懸念」 の見出し記事が載っています。
 福島県は、特に復興事業に欠かせない土木や建築など技術系派遣職員確保に苦戦していて各都道府県や国に14度分として168人の派遣を要請しました。13年度に派遣された137人を上回っており、希望数に達するかは不透明だといいます。技術系職員は全国の自治体で足りず派遣する余裕がないことが背景にあります。
 福島県は災害公営住宅建設などが本格化します。建築職は13年度の派遣数に比べて13人増の28人、土木職は24人増の76人を求めました。15年度中に災害公営住宅3700戸の完成・入居を目指しています。同年度以降も1190戸の建設を計画しています。不足は復旧・復興を加速する上で影響が懸念されます。

 福島県が昨年11月末に14年度分として派遣を要請した職員数は241人。技術系職員の派遣を強く希望しました。14年度全体の要請数は13年度よりも55人少ないです。
 13年度、過去最多の329人 (獣医などの選考職種を除く) の正規職員を採用しました。「採用を増やした正職員や任期付き職員でこなせる業務はこなす。業務が集中する技術系職員はそれでも不足する」 と窮状を訴えています。
 11年度から任期付き職員の採用試験を始めまし。しかし行政職の倍率が10倍以上あるのに対し、土木職は2倍以下と低迷しています。
 また、県の一般会計予算事業の繰越が年々増え、除染など公共事業が消化できない状態が続いています。

 要請に対する派遣職員全体の各年度の充足率は70%台で推移しています。
 一般事務を主とする行政職の充足率は80~90%台でほぼ安定している一方、道路や堤防などの社会資本整備を担う土木職は50~90%台、ほ場整備や農業用水の復旧などを担当する農業土木職は20~90%台と年度により開きがあります。
 土木職や建築職などの人員は、大規模災害に備える国土強靱 (きょうじん) 化計画に伴う公共事業の増大に伴い不足しています。景気回復による民需の活発化で民間企業でも 「需要」 が高く、人材の奪い合いが起きています。

 県は11年度から任期付き職員の採用試験を始めまし。しかし行政職の倍率が10倍以上あるのに対し、土木職は2倍以下と低迷しています。また、県の一般会計予算事業の繰越が年々増え、除染など公共事業が消化できない状態が続いています。
 県は今春の人事作業を進めており 「職員の採用や外部委託などの業務の見直しで、できる限りの対応をする」 としています。


 被災した自治体はそれぞれまだまだ大変です。
 やっと仙台市だけは13年11月1日時点で62人いた応援職員を14年度からなしで業務を進めることができるようになりました。


 岩手県を見てみます。
 「岩手日報」 は昨年11月12日から12月3日まで郵送によるアンケート方式で行いました。県内80地点から20歳以上79歳以下の1200人を選挙人名簿から無作為に抽出し、県政課題など17項目を聞きました。761人 (男353人、女408人) が回答しました。
 「震災からの県内の復興はどの程度進んだと感じるか」 との質問に、「20~30%」 33.2%が最も多く、「10~20%」 24.2%、「30~40%」 13.0%、「10%以下」 7.8%の順でした。6割を超える人が復興は30%にも達していないと感じています。沿岸住民に限ると75.2%にも上ります。現地は復興の実感がより乏しいことも浮き彫りになりました。

 岩手県内への自治体職員派遣は、昨年10月時点で574人です。内訳は県に171人、市町村に403人。職種は一般事務が231人と多く、土木197人、建築45人と続きます。市町村に派遣された403人のうち、約3割に当たる132人は県や県内の内陸市町村からです。
 県外の派遣元は、都道府県では大阪府26人、東京都22人、静岡県19人。政令指定都市では名古屋市16人、堺市11人、北九州市10人。市区町村職員の派遣が最も多かったのは東京都で28人です。

 2月6日の 「岩手日報」 は 「応援職員、70人近くが不足 県、14年度見通し」 の見出し記事を載せました。
 県は、被災した沿岸市町村への14年度の応援職員について、必要数の707人に対し確保が見込まれるのは1月末時点で638人にとどまり、約1割に当たる69人が不足していることを県内市町村の人事担当者らを集めて盛岡市内で開いた連絡会議で示しました。派遣元の内訳は全国自治体285人、県128人 (プロパー18人、任期付き110人)、沿岸市町村が採用する任期付きや再任用86人、県内の内陸市町村が77人などです。
 ただ、全国分については現在派遣中の自治体に継続を要請していて、まだ正式回答が届いていない137人も含んでおり、完全に固まった確保数はさらに少ないのが実態だといいます。
 14年度に必要とされる707人は13年度の必要数より80人多いです。復興の本格化で、これまでニーズが高かった技術職だけでなく行政サービス全般で忙しくなり 「どの部署も人手が足りない」 (県市町村課) 状況となっているといいます。


 人手不足だからといって長時間労働や過重労働は絶対にさせてはいけません。職員にはゆとりと休養を保証しなければなりません。労働者を犠牲にした街づくりを復興とは呼びません。
 まだまだ道のりや遠いです。

 それにしても、小泉政権下での行政改革、構造改革は社会全体からゆとりを奪いました。そのつけが緊急時に回ってきます。
 そして東京オリンピックは、資材高騰と人員不足をもたらしています。迷惑千万です。

 2011年3月11日の地震と津波は自然災害ですが、それに続く事態の多くは人災です。震災と共にそのことも忘れてはいけません。
 それが東日本大震災の教訓ということは悲しいことですが。
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派遣法改訂と 「納屋制度」
2014/02/13(Thu)
 2月13日 (木)

 1月29日、労働政策審議会は 「労働者派遣制度の改正について」 を答申しました。改正案がこの通常国会に提案される予定のようです。
 内容は、常用代替防止の対象から外し、派遣業務に対する最長3年間の受け入れ制限の廃止を盛り込まれています。企業が派遣労働者を何年でも自由に使うことができる道を開きます。
 派遣法制定当時の趣旨からは大きく変更され、派遣労働者はますます増え、雇用は不安定になっていく危険性があります。

 1985年半ば、アメリカからの構造改革要求を受けて、日本では労働法制の改訂が進められます。85年は雇用問題を語るには大きな転換点でした。年功序列、終身雇用の 「日本的経営」 が崩れていきます。
 85年の 「プラザ合意」 の後、非正規労働者が増大していきます。女性労働者にとっては働きにくい労働環境が作られていきます。
 5月17日、「男女雇用機会均等法」 が成立。男女差別禁止事項が盛り込まれまし努力目標でしかなく、その一方女子の時間外労働、休日労働が一部解除になります。女性労働者は 「男性労働者と均等のチャンス」 を保証されたといわれますが、実際は 「男の 『戦場』 に均等に 『出兵』 させられたということです。
 6月11日、「労働者派遣法」 が成立しました。これまで制限されていた労働者派遣事業を専門的な知識・技能・技術を必要とする業務に限り民間業者が行なうことが容認されました。総合職ではない専門職の人件費を低く抑えるためのものとして活用されました。雇用先には雇用関係はなく、労働力の調整弁にもなる労働者群が登場していきます。
 12月19日、労働基準法研究会が最終報告書を提出します。その内容は労働時間の規制緩和で変形労働時間制、フレックスタイム制、裁量労働制などが含まれています。その後、これらを採りこんだ 「労働基準法」 が改正されていきます。

 そのようななかでも、96年3月、長野地裁上田支部で、「丸子警報機パート賃金差別訴訟」 は、労働時間が長いにせパート労働者に対して 「正社員の8割以下の賃金差別は違法」 という判決を勝ち取りました。
 女性労働者にとっては働きにくい、排除を作り出す労働法制改訂がすすむなかで女性労働者たちは現状を訴え、生活を維持するためにさまざまな問題提起を続けていきます。
また女性労働者は男女賃金差別訴訟で長い闘いのすえ、勝利判決を勝ち取っていきます。


 バブル経済が崩壊すると雇用問題は深刻になります。
 95年、日経連は 「新時代の 『日本的経営』」 を発表します。この内容を要約すると 「必要なときに、必要な人を、できるだけ安い賃金で働かせて、いつでも首が切れる」 雇用戦略です。
 労働者を① 「長期蓄積能力活用型グループ」 (総合職正規社員) ② 「高度専門能力活用型グループ」 (一般正規職員) ③ 「雇用柔軟型グループ」 (パート、臨時、派遣) に分けた雇用の方向づけをしました。これらの政策は 「雇用の流動化」 と呼ばれましたが、①から②、③に、②から③に異動することがあっても逆流はほとんどない一方通行の流動化です。再構築の意味合いの 「リストラクチャー」 の言葉で惑わせて、結果は年功序列賃金制度、終身雇用制度を廃止、そして解雇の意味を含む 「リストラ」 が行なわれました。
 人件費削減を目的とするこの政策は、職場では 「窓際族」 などの 「いじめ」 を伴なって進行します。
 
 この報告書発表に至る論議が2007年5月11日付の 『朝日新聞』 に掲載されています。
 94年2月25日、日本経済同友会は研究会を開催しましたが、そこでは激論が交わされました。
 「企業は、株主にどれだけ報いるかだ。雇用や国のあり方まで経営者が考える必要はない」 「それはあなた、国賊だ。我々はそんな気持ちでやってきたんじゃない」。前者はオリックス社長の宮内義彦で後者は新日鉄社長の今井敬。
 「終身雇用を改めるなら経営者が責任をとって辞めた後だ」 と今井に同調する日産自動車副社長塙儀一。「人口構成が逆ピラミッド型の高齢社会で終身雇用・年功序列は持たない」 と宮内を援護するウシオ電機会長の牛尾治朗。そして 「終身雇用が会社人間を作ってきた面もある。行き過ぎた会社中心社会を改める機会だ」 と主張する日本IBM会長の椎名武雄。さらに宮内は 「これまで企業が社会に責任を負いすぎた。我々は効率よく富を作ることに徹すればいい」 と発言。今井は 「苦労していない経営者に何がわかるか」 といら立つ。

 その後、日経連でも同じ論議が始まり、決着がつかないままで 「新時代の 『日本的経営』」 が発表されます。
 同友会の研究会に参加した富士ゼロックス会長の小林陽太郎は後に 「効率や株主配当は重要。場合によっては雇用にも手をつけなければいけないのは分かる。だが1にも2にも株主という意見にはちょっとついていけなかった」 と話しています。
 その富士ゼロックスは、95年 「成果主義賃金制度」 を日本で最初に導入します。雇用を維持するためには、経営者は人権費予算の裁量権を持つ必要があるという論です。実際は 「成果主義賃金制度」 は、正規労働者の人件費縮小を目的にしたもので、この後、他社も取り入れていきます。

 報告書を書いた日経連賃金部長小柳勝次郎は 「雇用の柔軟化、流動化は人中心の経営を守る手段として出てきた。」 と振り返ります。「これが派遣社員などを増やす低コスト経営の口実としてつまみ食いされた気がする」 とも語っています。
 「新時代の 『日本的経営』」 は、企業が雇用に責任を持たない方向で進行します。経営者は 「必要なときに、必要な人を、できるだけ安い賃金で働かせ、いつでも首が切れる」雇用戦略を取り始めます。「つまみ食い」 された派遣社員に対する派遣法はその後改訂が繰り返さます。派遣先が派遣元に支払うのは人件費ではなく委託料や物件費などです。雇用関係のない労働現場で働かせるということは、労働する人格と労働力を分離します。

 また同時に、民間による職業紹介が推進されます。労働者が生活の糧を得るための就職先をあっせんするのがビジネスになりました。


 改訂派遣法が施行されることを仮定した状況は、人買いが容認されるかつての 「納屋制度」 に似ています。
 「納屋制度は金属鉱山の飯場制度を佐賀藩の高島炭坑がとりいれたのが初めてだといわれれる。明治21年 (1888年) ごろの 『高島炭坑坑夫雇入手続』 に次のように記されている。
 『納屋頭ハ旧来ノ慣習ニシテ、抑抑明治初年旧佐賀藩坑業ヲ盛ンニセシ時、坑夫数百名ヲ募リ初テ納屋頭ヲ置テ坑夫ノ取締ヲナサシメ、之レヲ統轄スルニ受負人ヲ以テス。蓋シ受負人ハ当時ニアッテハ炭坑ノ指図ニ従ヒ採炭修繕等都テ坑内事業ヲ負担シ、納屋頭ヲシテ坑夫ヲ使役セシム。明治7年ノ冬炭坑ヲ鉱山寮ヨリ後藤氏ニ引渡セシ時モ、従来ノ慣習ニヨリ依然同様ノ取扱ヲナセリ。明治9年ニ至リ受負人等ニ於テ多少弊害ヲ生ジ、タメニ之レヲ廃シ、更ラニ納屋頭ヲ直接ノ受負人トナシ、爾来今日ニ至ルマデ其慣習ヲ存シ、多少ノ改良ヲ加へ継続スルニ至レリ』 (「日本労働運動史料」 第1巻)。
 このように炭坑が坑夫を直接雇傭せず納屋制度としたのは金属鉱山の伝統を引継いだわけだが、……この藩制期は人力だけで採炭していたので、手近かな部分を採り終れば、次の鉱脈を堀り当てるまで坑夫らは他山へ移った。山の栄枯ははなはだしくて、数千人の町が山奥に突如として生まれたり、あがり山となりだすと仕事がなくて餓死する者が出たりするありさまであった。
 山の経営法は、時代や諸藩や鉱物の含有状況などによってかなり差があるけれども、いずれもこうした不安定な産業を最低の経費で、最高の生産量をあげて維持しようとつとめる点では、共通していた。ために稼働者を必要に応じて集散させやすい方法で解雇したといえる。」 (森崎和江著 『奈落の神々 炭坑労働精神史』)

 「……炭坑の納屋制度はこの支配法をとりいれたのだが、山主がこのように直接稼働者をかかえるかわりに、山に数名の納屋頭がいて彼らが坑夫をかかえ、山の経営者と共に実にほしいままな坑夫支配を行なうことで開始された。その惨状は明治21年 (1888年) に松岡好一が雑誌 『日本人』 に 『高島炭鉱の惨状』 を発表して世間の知るところとなり、多くの報道や政府の実情調査が行われた。高島炭鉱はこれを契機として納屋制度に改革の手をのばしはじめたのだが、それでも 『一に高島、二に香焼』 といわれるようにその圧制はひどかった。またこの高島炭坑事件前後から筑豊にも納屋制度が定着するのである。
 坑夫の生活管理、作業監督のいっさいが納屋頭に一任されるばかりでなく、その労賃からは6分乃至1割の手数料を領収する上に賄料で利をあげ、前借金で拘束し就労の自由をうばい、生命の保証をしないことをおおっぴらに認可されるような使役の制度が、制度として普遍化したのである。そして事業所はそれら実労者に対して全面的に無責任・無関連であるとする雇用制度である。……おそらく可能なかぎりの悪質な募集・管理が行われた。その実務を担当したのが納屋制度であったといえる。」 (森崎和江著 『奈落の神々 炭坑労働精神史』)
 納屋制度は飯場制度などに変わっていきます。

 
1985年に制定された 「労働者派遣法」 は親企業から請負企業労働者への直接的指揮命令を禁止しました。
 しかし、この間の法改訂は、派遣先が請負企業を排除して、代わりに直接雇用でない派遣元労働者に直接的指揮命令ができることを合法化してきました。
 今回の改正は、事業所が労働者に対して全面的に無責任・無関連であるとする雇用制度である納屋制度に限りなく近づいていっているような気がします。
 労働者と労働、「雇用」 という労使関係が否定されようとしています。危険です。
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