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「あなた方は人を殺してはならない」
2014/01/07(Tue)
 1月7日(火)

 アレン・ネルソン。ニューヨーク市生まれのアフリカ系アメリカ人です。
 ベトナム戦争に海兵隊員として参加します。
 1967年、20歳の時、ベトナムから実家に帰ります。
 「ただいま」
 母が奥から出てきました。母はじっと見つめました。せいいっぱいのほほえみを母に向かってうかべました。そして母をだきしめようと近づいたそのときでした。母は拒絶するように首を大きくふると、こう言ったのです。
 「お前はもう、わたしの子どもじゃない」
 そのまま母は背を向け、キッチンへもどっていきました。
 でも母の気持ちがわかりました。母は、笑みをうかべた仮面の向こう側に、軍隊によって洗脳された殺人者の体臭と、ぬぐっても消えにおびただしい血のにおいとを、すぐにかぎとったのです。もう、あの無邪気なアレンではなかったのです。

 ネルソンはその後ホームレスになります。23歳です。
 通りを歩いていると、高校の同級生から声をかけられます。そして教師である彼女から生徒たちにベトナムでの体験を話すことを依頼されます。まよいましたが了解します。
 小学校4年生を前に話をしました。
 「1965年にわたしは海兵隊に入りました。そして、ベトナムに行きました」
 それから、戦争というものが、たくさんの人がケガをする、どんなにおそろしく、悲しいものであり、しかも莫大なお金がかかるものかということを話しました。ただし、残酷な話にはほとんどふれませんでしたし、もちろんベトナムで自分がしたことについてはいっさい語りませんでした。
 統計学者か評論家のような、おおおざっぱな数や、ピントのぼやけたイメージを使って、きれいごとばかりを語りつづけました。
 話し終えると、拍手がありました。

 教師が質問はないかとたずねました。いろんな質問がありました。
 いちばん前の列の女の子が手をあげました。
 「ミスター・ネルソン」
 まばたきもせず、ネルソンを見つめると、たずねました。
 「あなたは、人を殺しましたか?」
 だれかにおなかをなぐられたような感じがしました。
 でも、何も言うことができませんでした。目をつむりました
 心の中に深い暗闇が穴をあけていました。その暗闇の中から、初めて殺したベトナム人の死体がうかびあがってきました。
 人を殺したことに誇りさえ感じていたのです。
 教室の床にのめりこみそうな自分の体を、いっしょうけんめいにささえていました。
 心の中では、さまざまな声が入りみだれていました。
 ひとつの声は、このまま、教室を立ち去れと言っていました。もうひとつの声は、こう言っていました。「おまえにほんとうの戦争のことをだれも教えてくれなかったからこそ、今のこわれかけたおまえがいるのだ。だから、子どもたちには真実を知る権利がある」 と。しかし、もしYESと言ったら、子どもたちにとってもはや 「ミスター・ネルソン」 ではなく、残虐な殺人者であり、子どもたちはこわがるにちがいありません。
 気がつけばつぶやくようにして、しかし、はっきりとした口調で 「YES」 と答えていました。
 もう後もどりはできませんでした。自分が人殺しであることを、無垢な子どもたちの前でみとめたのです。

 そのとき、だれかの手が体にふれるのを感じました。
 思わず目を開くと、腰に小さな手を回してだきしめようとしている、質問をしたあの女の子の姿がそこにありました。女の子の瞳には涙がいっぱいたまっていました。
 「かわいそうなミスター・ネルソン」
 女の子がそういいました。彼女は、わたしのために泣いてくれたのです。
 と、同時に、わたしの目から大粒の涙が幾粒も幾粒も頬を伝っていきました。
 このとき、何かが溶けたのでした。
 自分自身のことが、とてもよく見えるような気がしました。
 何をすべきかもわかったような気がしました。
 戦ったベトナム戦争を、悪夢として時間の牢屋の中に閉じ込めるのではなく、今もなお目の前でおきていることとして見つめなくてはならないのです。
 悪夢に勝つためには、真実を語る必要があるのです。自分自身に対しても、そして他者に対しても。

 仕事を探しました。
 そして、退役軍人事務所に出向き、そこで精神科医の診断を受けたのです。
 精神科医は大量の薬をくれました。
 しかし、その薬はなんの役にもたたなかったどころか、副作用のために日常生活に支障をきたすようになりました。
ニイル・ダニエルという精神科医に出会いました。
 「べトナム・ストレス症候群」という名の戦争による精神的後遺症におかされているのだと知り、そこからぬけ出す筋道を見出すことができたのは、このニイル先生のおかげでした。
 彼は心的外傷後ストレス障害 (PTSD) の専門医でした。またニイル先生は非暴力主義の平和活動家でもありました。
 ニイル先生の治療をつづけるうちに、少しずつ心の奥底の嵐はやみ、心の湖面はないでいきました。
 やがて、悪夢は消え、夜もぐっすり眠れるようになったのです。

 ベトナムに行く前、1か月間沖縄に滞在しました。
 ふたたび沖縄とかかわりを持つようになったのは、1995年のテレビニュースがきっかけでした。家に帰って何気なくテレビのスイッチを入れると 「オキナワ」 という言葉が耳に飛び込んできたのです。思わず画面に目をやると、ニュースキャスターが、沖縄駐留のアメリカ兵3人がレイプの容疑で訴追されたと伝えているところでした。
 くわしいことが知りたくて、平和運動の仲間である日系アメリカ人に電話をしました。
 沖縄のために何かをしなければ。漠然とそう思うと、電話の向こうで彼が、沖縄に行き、基地をなくす運動のサポートの一環としてベトナム戦争の話をしてみないか、と。
 即座に 「OK」 と返事をしました。


 この話は、アレン・ネルソン著 『「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵士が語る 「ほんとうの戦争」』 (講談社刊) からの抜粋です。
 活動は映画にもなりました。

 ネルソンさんは、2009年3月26日お亡くなりになりました。


 ネルソンさんの活動については、本のあとがきでいろんな方が紹介しています。

 日本には何度もきて平和活動への参加、講演を行っています。
 1998年2月、大分・日出生台での海兵隊の実弾演習に対して、早朝、地元のメンバーとゲート前で抗議行動をおこないました。その時、ハンドマイクを握り、自衛隊演習場内にいる若い海兵隊員に向かって、アレンさんは、静かに呼びかけました。「あなた方は人を殺してはならない。そして、あなた方も死んではならない。武器を置いて家族のいる祖国へ帰ろう」 と。雪のなか、目に涙を浮かべていました。

 13年6月25日付の 「活動報告」 の再録です。沖縄本島中部の西海岸に面している恩納村と東海岸の金武町を結ぶ谷間を県道104号線が走っています。「復帰」 後の73年3月30日から、米軍はこの県道104号線を封鎖して北側のキャンプハンセンから南側の金武岳、ブート岳に向かって155ミリ砲の実弾演習を開始しました。演習の時は一帯が立ち入り禁止になります。
 地元住民は着弾地点の山に立て籠って反対運動を展開して中止に追い込みました。しかし人影が見えても演習が続けられることもありました。
 地元の報道陣も立て籠りに加わってフィルムを回しました。そのフィルムが映画に編集されました。『喜瀬武原』 です。タイヤを燃やして狼煙をあげ、飯盒で作ったインスタントラーメンとコンビーフの食事をとり、肩を組んで歌をうたってお互いを励まし合いながら死を覚悟して長期戦を闘いぬきました。
 これに対して日本政府は反対運動を排除するために 「日米安保条約に基づく刑事特措法」 を制定しました。
 しかし住民は闘いを止めません。1975年9月、原水禁に結集する支援者が山に入りました。特措法違反ということで逮捕され、起訴されます。
 いわゆる 「喜瀬武原闘争」 です。

 喜瀬武での住民の反対運動が続く中で、米軍と日本政府は実弾演習を本土の5か所に移転します。その1つが大分・日出生台でした。
 米軍が移転を了承したのは反対運動が強かったからだけではありません。喜瀬武原での演習は距離が短いので広いところを要求しました。
 いつの時も移転・移設は、基地強化です。


 ネルソンさんが僧侶の方に質問をました。
 沖縄の辺野古の米軍基地建設計画に反対する人々が、漁師の船やいかだで海上に出て抗議行動をしました。彼もそれに参加していたら、海上保安庁の大きな船がスピードを出してギュッと曲がる。高い波が襲ってきて、小さな船だとひっくり返されて海に放りだされてしまいます。お年寄りもいて命がけです。それを繰り返された時、怒りの心が起こってきて、「あいつらを殺したい」と思ったということです。
 「こんな私はどうしたらいいのだ。人には非暴力を説き、自分自身もたくさんの人を殺して、そのことで死ぬほど苦しんできた。にもかかわらず、まだ私の中から暴力が消えていない。こんな私はどうしたらいいのだ」
 僧侶は、彼の深い問いに答える言葉がなかったと言います。しばらく沈黙が続きました。


 12月27日、仲井真沖縄県知事はこれまでの姿勢を転換させて辺野古埋め立てを承認しました。政府がこれまでにない沖縄支援を約束したからと言います。
 沖縄の人たちは、日本政府と米軍に対峙してきました。その勢いに押されて頑張ってきた知事が金にころんでしまいました。屈服しました。
 沖縄の人たちは怒りを抑えることができません。

 1996年に、普天間基地は 「返還」・撤去 が決定されているのであって 「県内移設」 が決定されたのではありません。
 しかしいつの間にか普天間基地の辺野古への移設に挿げ替えられてしまいました。「基地移設は右手の荷物を左手に持ち変えるだけ」 です。(12年5月15日の 「活動報告」)
 辺野古移設は米軍基地の拡大・強化、機能集中化です。

 沖縄戦の体験から平和を希求する沖縄の人たちの思いを圧殺しようとしています。沖縄差別を放置します。
基地は殺し合いをするための基地です。
 この間の安倍政権の一連の 「強い国家」 作りは一部の者たちの権益を守ることが目的です。基地建設で建設企業、軍備強化で軍需産業が潤ったとしても経済成長とは言いません。人びとの生活は豊かになりません。「国 (国体) を守っても 「国民 (民衆)」 を守った軍隊など存在したことがないからです。沖縄戦はそれを証明しました。


 普天間基地撤去、辺野古基地建設阻止にむけて沖縄では大きな反対運動が続いています。ずっと続きます。アメリカなどからも批判の声が上がっています。
 辺野古基地建設阻止は沖縄の人たちだけの課題ではありません。
基地撤去は、人びとが安心して生活できるための基盤づくりです。

 安倍首相、仲井真沖知事、「あなた方は人を殺してはならない。」
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