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沖縄に花を咲かせ続けよう
2014/01/31(Fri)
 1月31日(金)

 アメリカのシンガーソングライター・ピート・シーガーが1月27日に亡くなったというニュースが流れました。
 1955年代に 「花はどこへ行った」 を作ります。その後、いろんな歌手が歌詞を追加させたりしながら歌い継ぎ大ヒットさせました。ケネディ、ジョンソン大統領によってベトナム戦争が泥沼化していくことへの反対運動のなかで繰り返して歌われました。
 60年代のアメリカポップスでは 「勝利を我らに」、ボブディランの 「風に吹かれて」、ピーター・ポール・アンド・マリーの 「悲惨な戦争」、ジョーン・バエズの 「ドナ・ドナ」 などは日本でも大ヒットしました。

 オリジナルに追加された 「花はどこへ行った」 の歌詞にはいろいろな翻訳があります。

   花はどこへ行ったの?
   長い時間が過ぎたのに

   花はどこへ行ったの?
   少女たちの誰かが摘んでいったよ

   いつになったらわかるのだろうか

   少女たちはどこに行ったの?
   長い時間が過ぎたのに

   少女たちはどこに行ったの?
   青年たちのところに行ったよ

   いつになったらわかるのだろうか

   青年たちのところに行ったの?
   長い時間が過ぎたのに

   青年たちのところに行ったの?
   青年たちはみな兵士になったよ

   いつになったらわかるのだろうか

   兵士たちはどこへ行ったの?
   長い時間が過ぎたのに

   兵士たちはどこへ行ったの?
   墓場に行ったよ

   いつになったらわかるのだろうか

   墓場はどこへ行ったの?
   長い時間が過ぎたのに

   墓場はどこへ行ったの?
   墓場は花になったよ

   いつになったらわかるのだろうか

   花はどこへ行ったの? 
   長い時間が過ぎたのに

   花はどこへ行ったの
   少女たちの誰かが摘んでいったよ

   いつになったらわかるのだろうか

 かなり前、テレビで 「花はどこへ行った」 の歌詞のルーツをたどったドキュメンタリーが流れました。ソビエトの作家ショーロホフの 『静かなるドン』 にたどり着きます。その中に出てくるウクライナ地方のコサックの子守歌です。

   あしの葉はどこへいった?
   少女たちが刈り取った
   少女たちはどこへいった?
   少女たちは嫁いでいった
   どんな男に嫁いでいった?
   ドン川のコサックに
   そのコサックたちはどこへいった?
   戦争へいった

 ピート・シーガーは 『静かなるドン』 を参考に作詞したといいます。。『静かなるドン』 は40年ほど前に読みましたが覚えていません。余談ですが、ショーロホフが本当に書いたのかどうかという議論がロシア文学研究者のなかにあります。

 ベトナム戦争だけでなくその後に起きた様々な戦争、紛争の中で歌い継がれています。


 1月30日付 「毎日新聞」 の 「余録」 です。
 「わたしの歌 ふるさとの歌よ/わたしの花よ 子供よ!/わたしはおまえをいたわり育てた−−/どこにおまえを置いたらいいのか?……/ウクライナへ行け 子供たち!」。19世紀ウクライナの国民詩人シェフチェンコの詩の一節である▲「かの地でおまえは見いだすだろう/ひろい心とやさしい言葉を、/かの地でおまえは見いだすだろう/ひろい真実と あるいはさらに 光栄をも」。彼がロシア滞在中に出したウクライナ語の詩集 「コブザーリ (吟遊詩人 (ぎんゆうしじん))」 はウクライナの民族意識を覚醒 (かくせい) させた▲長きにわたってポーランドやロシアの支配を受けてきたウクライナである。国土の中央を流れるドニエプル川は、欧露の文明のはざまで育まれた民族の統一を象徴する一方、せめぎ合う東西の文明の断層線をも表してきた▲親欧路線を凍結して親露に転じたヤヌコビッチ大統領の退陣を求める大規模な反政府デモが続く今のウクライナである。事態収拾にむけてアザロフ首相の内閣が総辞職し、緊急招集された議会で各派の妥協が探られている。しかし危機打開の道筋は依然見えてこない▲国土の西部を基盤とする親欧派と、東部に依拠する親露派とで文字通り国を二分する対立を続けてきたこの国の政治である。双方には力による解決を図る強硬派もいる。首都キエフでの政治危機収拾に失敗すれば、国の分裂や流血の内戦も招きかねない瀬戸際 (せとぎわ) である▲国民詩人が子孫に予言した真実と光栄の地は、東西の文明の相克 (そうこく) に引き裂かれてしまうのか。どうか民族の記憶を深く掘り起こし、今求められる 『ひろい心とやさしい言葉』 を探り当ててほしい。」

 紛争を杞憂しながらウクライナの子供たちに思いを寄せる詩が紹介されています。 偶然でしょうか。追悼でしょうか。


 「勝利を我らに」は、1930年代にタバコ産業の黒人労働者の1人が、解雇に抗議して毎日門前で歌っていると少しづつ人の輪が出来て合唱になったといいます。ルーツは労働歌です。その後、公民権運動の中で歌い継がれました。60年代はキング牧師に象徴されるような運動が展開されました。
 13年9月13日の「活動報告」でふれましたが、64年に開催された東京オリンピックにほとんど関心がありませんでした。そのなかでも記憶が残っているのは、優勝したアメリカの黒人選手が表彰台にのぼり、アメリカ国歌が流されてアメリカ国旗が掲揚される間、右手の拳を振り上げて下を向いている姿です。疑問と同時にえらく感動したのを覚えています。
 ジョーン・バエズは、政府が税金の多くを軍事費に費やしていることに抗議して、税金を払わないために自分の家を建てず、財産も持たなかったと言います。


 ベトナム戦争を泥沼化させたケネディ大統領の娘が駐日大使になりました。近々沖縄を訪れるそうです。

 1961年11月、ケネディーと韓国大統領朴正煕の首脳会談が行われます。その席で朴正煕は韓国軍のベトナム派兵を提案して歓迎されます。
「ベトナム戦争を通して……韓国は年間30万名の人員を派遣し、5000名の死者と1万名の負傷者、そして、2万名余の枯葉剤の被害者という罪まで背負ったのです。……
 駐越韓国軍司令部の訓練集は、大多数の住民たちを敵に回さざるを得なかった韓国軍のベトナム参戦自体がいかに間違ったことだったのかを逆説的に教えてくれます。全斗煥など光州事件における虐殺の元凶とされている新軍部の中心の人たちは、全てベトナム戦争に連隊長クラスの指揮官として参戦しました。住民たちを潜在的な敵として見るしかなかったベトナム戦争での経験が、12・3年後、光州で市民たちに銃と帯剣を向けさせたと考えるのは、飛躍過ぎでしょうか。
 ベトナム戦争での民間人虐殺の大部分が、よりによって韓国軍によって行われたという事実は、実に不幸なことです。」 (韓洪九著 『韓国現代史Ⅱ』 平凡社刊)
 ベトナム派兵された韓国軍兵士は心身ともに破壊されて今も苦しんでいます。
 兵士と軍は抱きつづける恐怖感を払拭するために、さらに大きな虐殺行為を繰り返します。
 
 アメリカはベトナム戦争の経験をまだ教訓化していません。ピート・シーガーたちの叫びや派兵された者たちが今も苦しんでいる状況を理解しようとしません。


 ケネディ駐日大使は、沖縄に行くのなら父親の禍根を是正するために行動してほしいと思います。
 そのために伊江島の 「団結道場」 に行くことを勧めます。ベトナム戦争真っ只中の70年に米軍の土地取り上げに反対した島民は、闘争拠点を建設しました。その壁に大きく琉歌が書いてあります。
 
   アメリカぬ花ん 
   真謝原 (※地名) ぬ花ん
   土頼りてぃ咲ちゃる 花ぬ清らさ
   貧乏やぬ庭ん 金持ちぬ庭ん
   えらばずに咲ちゃる 花ぬ見事
 
 「歌を詠んだ野里竹松さんの家に咲いている花を米兵が軍用道路で車を止めて見とれているのをみて、花はアメリカも真謝原も区別しないよ、お互いに花に負けて区別してはいけないよとアメリカをさとし、また土というものがどんなに大事なものであるかを花に託して歌い上げたものでありました」 (阿波根昌鴻著 『米軍と農民』)

 そして小学生が作った詩に曲をつけて歌い継がれている歌 「タンポポ」 を聞くことを勧めます。金網の向こうとは米軍基地です。基地の理不尽さが見事に盛り込まれています。

   金網の向こうに 小さな春を つくってるタンポポ
   金網の外にも 小さな春を つくってるタンポポ
   光色のタンポポは
   金網があっても 金網がなくても
   沖縄中に春を ふりまいたでしょう

   デモ隊の足元に 光の花を 咲かそうとタンポポ
   米兵に踏まれても それでも花を 咲かそうとタンポポ
   強く生き抜くタンポポを
   金網のない平和な 緑の沖縄に
   みんなの思いを込めて 咲かせてあげたい

 花は土の上に咲きます。滑走路の上や軍艦には咲きません。
 沖縄の人びとは、歴史の教訓から沖縄の土に花を咲かせようとしています。
 沖縄の人びとは、辺野古の土にも花を咲かせ続けようとしています。


 「タンポポ」 は、かなり前に沖縄に行った時にバスガイドが歌ってくれました。
 帰ってきた後、かつて新宿にあった 「どん底」 に通っておぼえました。

 「9.11」 半年後の2002年1月11日11時11分に、アメリカの反撃を止めさせる世論を巻き起こす一環として、それぞれがその時に居るところで音を出そうと呼びかけがありました。
 ちょうどツアーで沖縄にいて、伊江島から本島に戻る連絡船に乗っている時刻です。
 前の晩、手書きの歌詞カードを作り、コンビニでコピーしてみんなで練習しました。
 当日は、11時頃から他の船客にも呼びかけて練習、11分に合唱で音を出しました。
 その後、那覇市内にある対馬丸の犠牲者を慰霊する 「小桜の塔」 を訪れました。そこでもう一度歌いました。 
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見えにくい休職者、復職者の実態
2014/01/28(Tue)
 1月28日(火)

 労働政策研修 研究機構の 「メンタルヘルス、私傷病などの治療と職業生活の両立支援に関する調査」 結果の検討の続きです。13年7月23日の 「活動報告」 で触れなかった分を中心に報告します。

 メンタルヘルスや私傷病に対する 「復職支援プログラム」 について、病気休職制度がある企業のうちで 「復職支援プログラム」 が 「ある」 11.5%です。「ある」 の割合は、規模が大きくなるほど高く、1000人以上規模では56.3%です。産業別で 「ある」 の割合が高いのは、「金融業、保険業」 29.6%、「情報通信業」 20.6%です。

 病気休職制度がある企業を対象に、病気休職からの復帰の条件が満たされないまま病気休職期間の上限が経過したときの対応についてです。「無回答」 23.9%、「ケースにより異なり一概にいえない」 27.6%、「休職期間満了をもって自動的に退職になる」 22.2%、「上限期間経過の時点で復帰の条件が満たされないことを確認の上、退職させる」 21.2%、の順です。
 産業別で 「休職期間満了をもって自動的に退職になる」 がもっとも高いのは 「金融業、保険業」 40.7%です。規模が小さくなるほど 「ケースにより異なり一概にいえない 」の割合が高くなっている一方で、規模が大きくなるほど 「休職期間満了をもって自動的に退職になる」 「上限期間経過の時点で復帰の条件が満たされないことを確認の上、退職させる」 の割合がおおむね高くなっています。

 病気休職制度がある企業を対象に病気休職から復帰する条件は、「病気休職前の原職へ復帰できる状態になったとき」 41.6%、「原職復帰の見込みがあり、かつ、他の仕事での就業ができる状態になったとき」 27.0%、「原職への復帰はできないが、他の仕事での就業ができる状態になったとき」 17.7%の順です。
 産業別では、「病気休職前の原職へ復帰できる状態になったとき」 は 「運輸業、郵便業」 53.2%、「不動産業、物品賃貸業」 (調査対象企業数が少ない) 47.2%、「情報通信業」 46.3%です。休職期間の上限別では、上限が短くなるほど「病気休職前の原職へ復帰できる状態になったとき」 の割合がおおむね高くなっています。

 病気休職制度がある企業を対象に復職の判断手順については、「主治医の診断書のみで判断している」 43.7%、「主治医の診断書をもとに産業医等の意見で判断している」 31.1%、「人事部、職場上司、産業医など関係者で構成される復職判定委員会等で判断している」 16.6%の順です。正社員規模別では、規模が小さくなるほど 「主治医の診断書のみで判断している」 の割合が高くなっている一方で、規模が大きくなるほど、「主治医の診断書をもとに産業医等の意見で判断している」 「人事部、職場上司、産業医など関係者で構成される復職判定委員会等で判断している」 の割合がおおむね高くなっています。
 産業医の選任の有無別の 「産業医 (精神科・精神科以外を選任)」 しているでは、「主治医の診断書をもとに産業医等の意見で判断している」 54.2%、「人事部、職場上司、産業医など関係者で構成される復職判定委員会等で判断している」 24.2%となっています。専属の 「産業医 (精神科・精神科以外を選任)」 がいるでも同じ状況です。
 しかし、「主治医の診断書をもとに産業医等の意見で判断している」 「人事部、職場上司、産業医など関係者で構成される復職判定委員会等で判断している」 においては、産業医が人事対策に利用されて、復職を絶対させないで休職を期限まで続けさせているところがかなりあります。

 そのことが理由かどうかはさておき、回答数は、「復職の判断手順」 についての5428社から 「復職時の対応」 に移ると3122社に減っています。

 病気休職制度がある企業を対象に、復職に当たっての 「試し出勤制度 (リハビリ出社等)」 についてです。「原則として試し出勤を行っている」 30.0%、「試し出勤を認めることがある」 46.8%、「原則として、試し出勤を認めていない」 23.2%です。
 産業別で 「原則として試し出勤を行っている」 の割合が高いのは 「金融業、保険業」 45.2%、「情報通信業」 35.5%です。正社員規模別では規模が大きくなるほど、「原則として試し出勤を行っている」 の割合が高くなっています。

 病気休職制度がある企業を対象に、復職当初の勤務場所についてです。「原則として休職前の部署」 73.7%、「より負担の少ない部門に配属する」 21.8%、です。
 復職後の配置転換についてです。回答はさらに減り2888社です。
 復職後、治療や再発の状態に合わせて、職場復帰者を負担の少ない職場に配置転換することがあるかについてです。「配置転換をすることがよくある」 47.4%、「配置転換をすることはほとんどない」 36.8%、「現職復帰が原則で配置転換はしない」 15.8%です。
 配置転換は、事業規模で 「できる」 企業と 「できない」 の前提条件が出てきます。また 「運輸業、郵便業」 や 「建設業」 などではグループ換えなどの 「配置転換」 もあります。
 問題は、「配置転換をすることがよくある」 が企業規模が1000人以上で51.2%、「配置転換をすることはほとんどない」 41.7%です。企業のメンタルヘルス対策の姿勢が表れています。


 病気休職制度の利用実績についてです。調査対象は5428社です。
 調査時点の病気休職制度の休職者人数は、0人75.1%、1人10.4%、2人3.3%、3から4人1.5%、5から9人0.8%、10人以上0.4%です。この分布は規模別ではありません。平均休職者数は0.37%です。他の疾病と比べると圧倒的に多いです。(2位は 「がん」 0.09%)
 ただ、病気休職制度のない企業、ある企業でも期間区分もありますのでこの数値は体調不良者の発症状況ではありません。
 過去3年間の病気休職制度の新規利用人数の疾病別内訳人数平均値は、「メンタルヘルス」 が1.30人、「その他の身体疾患」 0.94 人、「がん」 0.32人、「脳血管疾患」 0.12人の順です。
 「がん」の対策は早期発見ですが「メンタルヘルス」は発症「させられて」いる疾病で職場環境、労働条件の改善が早急に必要です。

 しかしこれらの調査からでもなかなか実態が見えてきません。


 全国状況ではありませんが、いくつかの資料から実態を探ってみます。

 13年11月4日付の 『熊本日日新聞』 に 「『精神的不調』 で休業226日 県内従業員平均 」 の見出し記事が掲載されました。
 熊本労働局は13年5~8月、県内の従業員30人以上の事業所3.468社を対象に13年 「心の健康対策」 調査を実施しました。2.785社 (80.3%) が回答しました。今回初めて、従業員50人未満の事業所も対象としました。
 その結果が発表されました。「精神的不調」 を抱える労働者の休業日数 (1人当たり) は平均226日で、過去2年の調査の平均に比べ55日増加しています。休業が長期化している状況が浮き彫りになりました。
 精神的不調による休業者が 「いる」 と回答した事業所は220社 (7.9%)。規模別でみると、従業員50人以上が13.3%、30~49人は3.4%で、規模が大きいほど休業者の比率は高いです。業種別では通信業15.8%、金融・広告業13.6%、教育研究業13.0%が高くなっています。
 心の健康対策を実施している事業所は53.6%。具体的な取り組み (複数回答) で多かったのは、「担当部署設置」 86.9%、「担当者選任」 66.1%など。そのほかは 「職場復帰支援」 33.0%、「セルフチェック」 32.4%、「医師の面談」 21.0%などです。
 同局健康安全課は 「休業が長引くと、職場復帰が難しくなる」 として、自己チェックや相談体制整備など、予防や早期の対応を呼び掛けています。
 

 休職者の人数、期間などについて唯一、明らかにされているのが、総務省の外郭団体 「地方公務員安全衛生推進協会」 の調査による地方公務員の状況です。
 2012年度の調査発表についての1月6日付の 「毎日新聞」 です。
 「2012年度に精神疾患で長期の病休を取った地方公務員が、10年前の2.4倍に増えていることが、総務省の外郭団体 『地方公務員安全衛生推進協会』 (東京) の調査で分かった。同会が調査を始めた1992年度以降過去最多。長期病休者のうち精神疾患が占める割合が初めて5割を超えたことも分かった。
 調査対象は、都道府県▽政令指定都市▽都内23区▽県庁所在市▽人口30万人以上の市▽人口5万〜10万人の市から抽出した94団体▽人口1万〜2万の町村から抽出した94団体−−の計342団体の地方公務員約78万人。それぞれの人事部局に一括回答してもらう形をとり、すべての団体から回答を得た。
 集計した数字は職員10万人当たりの数に換算。その結果、休暇・休職が連続30日以上、または通算1カ月以上だった『長期病休者』の数は、08年度の2465.7人をピークに減少し、12年度は2394.9人だった。
 一方、精神疾患による長期病休者は増加傾向で、12年度は1215.6人で過去最多。10年前 (02年度510.3人) の2.4倍、15年前 (97年度246.9人) の約5倍に達した。逆に、消化器系や循環器系の疾患、がんなどの長期病休者は微減傾向だった。結果、12年度で長期病休者のうち精神疾患が占める割合は50.8%となり、初めて過半数を占めた。
 人事院によると、国家公務員でも精神疾患による長期病休者は増加傾向にある。しかし、増え方は地方公務員の方が大きく、11年度に国家公務員 (一般職) 約27万人を対象に調べたところ3468人で、01年度の2218人と比べ10年間で1.56倍だった。」

 12年12月17日に開催された 「健康いきいき職場づくりフォーラム」 で株式会社デンソーの人事担当常務役員は社内のメンタルケアの状況を報告しました。
 その中で、社員は4万人いますが11年度が再発者を含めると700人の休職者がいると報告しました。新規は300人です。休職者が占める割合は1.8%です。休職期間は短くないと想定できます。貴重な資料です。
 常務役員は言い過ぎたようです。後に報告書が発行されましたがデンソーの報告は割愛されていました。


 疾病に罹患した労働者に対しては健保組合が負担する治療・療養費、薬代金、健保組合や企業が負担する傷病手当や賃金が支払われます。傷病手当は、退職しても一定期間支払われます。
 これらの数値を観ただけでも対策は急がれなければなりません。
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職場からの安全衛生の見直しは後退
2014/01/24(Fri)
1月23日(金)

 労働政策研修 研究機構は、11月に「メンタルヘルス、私傷病などの治療と職業生活の両立支援に関する調査」 結果の報告書がパンフレットになりました。調査結果の速報版については13年7月23日の 「活動報告」 でふれました。全国労働安全衛生センターは2月に厚生労働省に要請行動を行ないます。要請項目の中に「復職について」もあります。もう一度調査結果を詳しくみてみます。

 調査の趣旨・目的についてです。
 「……労働環境の変化により、精神疾患等の作業関連疾患 (脳・心臓疾患、精神疾患、腰痛等筋骨格系疾患、がんなど) が増加している。これにより職場復帰を目指して治療を受ける労働者や、治療を受けながら就労する労働者が増えている。作業関連疾患が増加する一方、労働者が治療と就労の両立ができないために、療養後の職場復帰を断念する、あるいは、復帰後に就労を継続できず、離職せざるを得ない状況に陥るケースが生じていると言われている。
  ……企業における労働者の治療(私傷病も含む)のための勤務条件・制度の導入状況、相談体制等の支援状況、労働 者の職場復帰状況等を明らかにするとともに、労働者の離職防止及び職場復帰の効果的な支援方法等について課題を把握するため、アンケート調査を実施した。」
 厚労省からの要請です。厚労省は。休職者や復職についての取り組みの必要性を認識し始めたようです。

 「調査」 報告書から、メンタルヘルスを中心に検討してみます。

 調査方法は、郵送による調査票の配布・回収で、常用労働者50人以上を雇用している全国の民間企業20,000 社 (農林漁業・公務除く) を対象に、産業・規模別に層化無作為抽出しました。調査実施時期は、2012年11月16日から11月30日。有効回収数は5,904件でした。メンタルヘルス対策、休職者、復職問題に関する調査の回収率は他の様々な労働実態調査と比べると低いです。企業は、都合悪い調査については回答しません。
 調査は、非正規労働者への制度等の適用についても詳細に触れています。非正規労働者は数の問題だけでなく、企業において依存する労働力になっています。

 回答企業に、「年間の年間売上高」、「利益率」、「生産性」、「総額人件費」 について3年前に比べての変化を「高まっている」、「やや高まっている」、「ほぼ同じ程度」、「やや低くなっている」、「低くなっている」 の選択枝を示して聞いています。
 「年間の年間売上高」 については 「ほぼ同じ程度」 22.6%、「やや高まっている」 20.1%の順です。「利益率」 は 「ほぼ同じ程度」 27.3%、「やや低くなっている」 21.5%、「生産性」 は「ほぼ同じ程度」 34.3%、「やや高まっている」 20.0、「総額人件費」 は「やや高まっている」 30.3%、「ほぼ同じ程度」 25.6%です。
 全体としては 「利益率」 はやや低く、「総額人件費」 は高くなっています。


 通常の年次有給休暇以外で、連続して1か月以上の休暇・休職・休業制度(慣行を含む。「病気休職制度」) がある企業は91.9%です。非正社員への適用状況は、「非正社員には適用されない」 48.5%ともっとも高く、「すべての非正社員に適用される」 31.1%、「一部に適用されている者がいる」 14.5です。

 産業保健や安全衛生管理にかかわる者の選任状況についてです。
 「選任している」 とする割合は、「産業医 (精神科)」 9.1%、「産業医 (精神科以外)」 63.0%、「衛生管理者」 69.6%、「総括安全衛生管理者」 44.2%、「安全管理者」 61.7%となっています。産業別にみると、「産業医(精神科)」 で 「選任している」 の割合が高いのは 「金融業、保険業」 「情報通信業」 などです。
 しかし、企業規模300人以上においても 「総括安全衛生管理者」 「安全管理者」 を選任しているのは70%前後です。
 職場の労働安全衛生は、現場の意見を組み入れ、労使が共同で点検などを実施しながら推進するものです。保健スタッフや産業医はそれを支援する役割です。しかしその視点が失われています。
 企業外の専門家に任せてしまっている事態が見えてきます。事業規模に関係なく労働安全衛生法違反が散見できます。それ以上に機能していない実態があります。

 メンタルヘルスに関する教育・研修制度は、「ある」 28.4%です。その他の身体疾患の場合は17.9%ですので、メンタルヘルスのほうが割合は高くなっています。産業別にみると「金融業、保険業」 43.6%、「情報通信業」 37.0%、「製造業」 などの順です。企業規模が大きくなるほど 「ある」 割合は高くなっています。
 金融業、保険業、情報通信業はメンタルヘルスの体調不良者を多く出しています。また、金融業、保険業は調査対象企業数が少ないです。対象企業は大・中企業だったと思われます。
 教育・研修制度は、2000年頃、電通過労自殺事件が和解した頃から取り組みが開始されました。その頃は、3年たったら忘れられると言われていました。忘れられてはいませんが、取り組む会社は増えていません。また内容が問題になっています。経営からのリスク管理をメインにしたものは効果が生まれていません。

 メンタルヘルスの相談や定期健康診断などの後での、異常の所見が出ている社員に対するフォローアップ体制は、「会社人事部が主体となって産業保健スタッフ等と連携しフォローアップしている」 38.7%、「健康保険組合などの社外の組織を主体としてフォローアップしている」 12.7%、「産業保健スタッフ等が主体となってフォローアップしている」 9.4%、「特段にフォローアップはしていない」 27.1%となっています。
 専門家、担当者任せになっています。

 年次有給休暇以外で利用できる、病気休暇制度 (特別休暇) が 「ある」 企業は47.6%で企業規模が大きくなるほどその割合は高くなっています。そのうち年間の取得日数上限があるのは61.4%です。取得日数の上限は、「3ゕ月~6か月以下」30.3%、「1か月以下」 25.4%、「1か月~3か月以下」 19.7%の順です (平均値で155.6日)。
 病気休暇の時間単位取得制度があるは12.9%です。

 失効した年次有給休暇を積み立てて、病気等で長期療養する場合に使える失効年休積立制度については 「ある」 23.4%です。労働組合の有無別にみると、労働組合のある企業は 「ある」 42.9%です。病気休暇制度がある企業では 「ある」 32.5%です。
 失効した年次有給休暇の年間積立日数の上限の有無では、「上限がある」 82.5%で、具体的な上限日数の平均は17.3 日です。また総積立日数の上限については、「上限がある」 87.5%です。具体的な上限日数の平均は41.5 日です。
 病気休暇制度がない企業の一方、病気休暇制度に加えて失効年休積立制度が確立しているというように両極端に分かれます。

 通常の年次有給休暇以外で、連続して1か月以上、私傷病時に利用できる休暇・休職・休業する制度 (「病気休職制度」) は、91.9%にあります。病気休職制度の就業規則等の規定状況は、「規定されている」 77.7%、「規定されていない」 9.7%です。慣行として病気休職制度があるのが1割弱です。

 病気休職制度がある企業のうち、休職期間の規定の勤続年数による区分状況は、「勤続年数により区分されている」 49.1%、「勤続年数による区分はない」 36.6%です。

 病気休職制度の休職期間の上限は、「6ヵ月超から1年未満まで」 22.3%、「1年超から1年6か月まで」 17.2%です。「1年6か月超から2年まで」 「2年超から2年6か月まで」 「2年6か月超から3年まで」 「3年超」 の合計は26.1%です。「上限なし」 4.5%です。
 「3年超」 の具体的な期間は、「3年超~3年半まで」 44.2%、「3年半超~4年まで」 19.5%です。「3年超」 の休職期間の平均値は4.2年、最大値10年です。

 2000年代における労働組合の取り組みは、社外の相談先の設定と紹介、休職期間の延長が主なものでした。その結果があらわれています。
 しかし、それらは体調不良者を職場から遠ざける・「排除」 になっているということに気付く必要があります。休職期間が長いことはいいことだけではありません。


 病気休職期間中の月例賃金 (「傷病手当金」 や 「傷病手当付加金」 等は除く) の支給状況は、「支給されない」 74.8%、「支給している」 18.1%です。
 「支給される」 については 「金融業、保険業」 が75.9%と高くなっています。
 休職期間の上限別では、上限が長くなるほど 「支給される」 の割合は高くなっています。特に1年6か月を超えると 「支給される」 とする割合は高まり、3年超では70.1%です。「上限なし」 は 「支給されない」 84.8%です。

 病気休職期間中に月例賃金が 「支給される」 とする企業を対象に、支給される月例賃金 (「傷病手当金」 や 「傷病手当付加金」 を除く) が休職前の月例賃金の何%かを休職期間ごと調査しています。最初の休職期間の 「3か月まで」 では、「100%」 が33.8%、「80~100%未満」 18.7%、「60~70%未満」 13.2%などです。
 休職期間が長くなるほど、「無給」 の割合がおおむね高まっています。

 病気休職制度を利用し、いったん職場復帰した後に、同一の疾病での再発等により再び休職した場合での過去の休職期間の通算状況についてです。
 「復帰後の出勤期間が一定期間内であれば通算される」 33.1%、「規定がないためケース・バイ・ケース」 28.4%、「通算されない」 17.6%、「復帰後の出勤期間にかかわらず同一の疾病であればすべて通算される」 17.4%などです。

 では 「復帰後の出勤期間が一定期間内であれば通算される」 場合の一定期間は、「6か月」 が23.2%、「3か月」 「1か月未満」などです。「3か月以下の合計」 51.9%です。

 体調不良者に対する総合的生活保障は 「格差」 があります。底上げが必要です。
 しかし、業務復帰に向けてのフォローがない生活保障は「飼い殺し」とも言えます。


 調査報告はこの後復職問題にと続きます。
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あしなが育英会の震災孤児支援に支援を
2014/01/21(Tue)
 1月21日(火)

 1月17日、阪神淡路大震災から19年目を迎えました。
 2年目の1月17日はまだ残っていた避難所で5時46分を迎えました。外は明るくなりかけていました。2年目は市内の公園で迎えました。それ以降は東京です。今年も東京でテレビを観ながら迎えました。5時46分は真っ暗です。そして例年に比べて寒いです。

 19年が過ぎて神戸はどこまで復興できたのでしょうか。
 13年11月19日の 「活動報告」 で兵庫県が震災後10年間、刊行を続けた 『阪神・淡路大震災復興誌』 の中の学校の状態、児童・生徒の心理状況はどうだったのか、教職員はどう対応していたのかを紹介しました。
 部分再録です。
 「しかし、被災から10年たっても児童・生徒が負った心の傷は今も残されている。大震災からの援興が広い分野で進んだ中で、いまだに解決、解消の道が遠い課題でもある。大震災から学んだ教訓だ。
 兵庫県教委は、被災直後の1996年から、震災による教育的配慮を必要とする児童・生徒数の調査を続けている。1998年度の4,106人をピークに、1997年度から3年間は4,000人の大台を超え、2000年度から減少傾向となった。要因別に見ると、被災から5年を境に、事情が変わってくる。前期は 『震災の恐怖によるストレス、住宅環境の変化、通学状況の変化』 などが主な要因。後半は 『家族・友人関係の変化』 や 『経済環境の変化』 などが漸増傾向を見せるようになる。これを県教委は 『二次的要因』 と位置づけている。
 要因はどうあれ、要配慮児童・生徒は、10年後の2004年度1,337人、2005年度808人にのぼる。県教委をはじめとして教育現場では、初体験の 『心のケア』 に取り組んできた。その成果が要配慮児童・生徒数の減少である。その中心的役割を果たしたとして評価されるのが 『教育復興担当教員』。略称 『復興担』 は被災後、国の教員加配措置で配置され、『心のケア』 と 『防災教育の推進』 に努めた。」
 「要配慮児童・生徒の2004年度要因 (複数回答) は 『住宅環境の変化』 が43.5% (前年40.1% 、前々年40.0%)。『経済環境の変化』 が37.1% (34.7%、33.1%)。『家族・友人関係の変化』 が36.9% (39.0%、41.0%)。『震災の恐怖によるストレス』 が29.9% (35.3%、36.8%) で、これら4項目が要因の大半を占める。4項目以外では 『学校環境の変化』 4.9% (6.9%、8.6%)、『通学状況の変化』 4.3% (4.7%、5.5%) など。
 トップの 『住宅環境の変化』 は前年と変わらないが、『経済環境の変化』 が2位 (前年4位、前々年4位) につけた。『家族・友人関係の変化』 は3位 (前年2位、前々年1位)。「震災の恐怖によるストレス」 は4位 (前年3位、前々年3位)。要因別順位は2位以下にかなりの変動が見られた。『震災の恐怖』 が大きくポイントを下げたのに対し、『経済環境』 は毎年ポイントを上げ、最近の二次的要因の特徴を2004年度も見せた。」

 時間の経過とともに事態が変化して行きます。このことは東日本大震災の今後の課題としおさえておく必要があります。


 阪神淡路大震災の後、学校以外のところで児童・生徒たちの抱えている問題に対処した団体の中にあしなが育英会があります。
 震災で親を亡くしたいわゆる震災孤児は569人にのぼりました。あしなが育英会は震災孤児の戸別訪問調査を行います。
 震災の年の夏に子供たちを招いた海水浴のつどいを開催した時に、1人の小学生が黒い虹の絵を描きました。そのような子供たちが悲しみや辛いことを話しあえる、思いを共有することができる施設を作ろう、そこには1人で誰に遠慮することなく大声を上げることができる部屋を作ろうという話が持ち上がり、全国に支援要請をおこないました。
 子どもたちの思いを載せた 『黒い虹 阪神大震災遺児たちの1年』 (あしなが育英会 廣済堂出版) が発刊されました。
 「今回の震災で『復興』という言葉が使われていますが、その言葉は嫌いです。私たちみたいな者にとっては、壊れたものは壊れたものとしてそのまま残るんです。心の傷は残ったままなんです。壊れたものや亡くした人を蘇らせることなんてできない。やり直すのではなく、また新しいものを作っていこうとしなければならないんだと思います。」
 子どもたちは現実をしっかり見ています。
 1999年、震災遺児の心のケアの家 「神戸レインボーハウス」 が完成しました。名前の由来は、子どもたちの心が黒い虹から本当の虹色に変わるようにとの思いが込められました。


 あしなが育英会は、今、震災で親を亡くした子供たちだけでなく、親が自死や過労死・過労自殺をした子供たちに対しても育英資金を含めた支援をしています。
 東日本大震災では1200世帯を超える遺児家庭が生まれたといわれています。子どもを抱えながら無理をする親も多くいます。そのような保護者のケアにも力を入れています。

 あしなが育英会は13年1月と2月、東日本大震災で保護者が死亡または行方不明となった子ども (大学院生以下または震災時に学生以外で未就労の18歳以下) のいる1180世帯に郵送でアンケート調査をおこないました。789世帯から回答がありました。
 その結果を4月16日に発表しました。母子家庭49%、父子家庭32%、両親がいない世帯17%です。1世帯当りの遺児の数は2人が最多で39%、次いで1人が37%でした。
 全遺児の51.6%が被災体験により 「心身に何らかの影響を受けている」 と認められました。複数回答の内訳は 「揺れに敏感」 33.2%、「暗闇を怖がる」 12.8%、「音に反応する」 8.4%の順です。「影響を受けている」 遺児は、12歳以下が67.7%、19歳以上は38.3%。女子は60.2%、男子は44.8%です。
 地震や津波について 「あまり話さない」 47%、「まったく話さない」 22%と、7割近くが口を閉ざしています。
亡くなった家族に対する感情 (複数回答) は 「寂しい」 67.6%、「悲しい」 56.7%、「かわいそう」 26.6、「納得できない」 14.8%、「自分のせいで家族が亡くなった」1.9%、「生き残ってつらい」1.6%などとなっています。
 亡くした家族については 「しょっちゅう話す」 6.3%、「ときどき話す」 39.4%、「あまりはなさない」 36.5%、「全く話さない」 15.1%です。
 調査結果を分析した樽川典子・筑波大大学院准教授は 「地震や津波のことを口にしないのは、つらい体験がよみがえるからではないか。特に年長の子は、親が心配するからと (感情を) 表に出していない可能性もある」 と話しています。


 あしなが育英会は、世界中に呼びかけて基金を募り、「東北レインボーハウス」 (宮城県仙台市) と被災した沿岸部4カ所 (石巻市と陸前高田市、その他) にサテライト施設を建設する計画を立てています。

 親を突然亡くしたということは、生活に大きな影響が出てきます。子どもたちが生活面で自立するまで、震災の年に生まれたこどもが大学卒業まではあと20年です。
 子どもたちにとっては、支援を受けながらも被災者が生活の自立が出来た時が震災からの 「復興」 です。

 東日本大震災においては、阪神淡路大震災の経験は様々なところで生かされています。本当は阪神淡路もまだまだです。東日本に対してもまだまだ支援が必要です。
 

   「ほどける」

   こころがほどけた その時に
   人は あったかい涙がこぼれます

   心がほどけた その時に
   人は あったかい笑顔がこぼれます

   こころがほどけた その時に
   人は 互いに強く引き合います

   心がほどけた その時に
   人は大きく許しあいます
      ……
      (「あったかい手」 小野﨑美紀編 発行ぱんたか より)


 3月9日 (日) 13時半から 「阪神・淡路から20年 東北へのメッセージ  震災と心のケアを考えるシンポジウム」 が神戸市勤労会館 多目的ホールで開催されます。 
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三池闘争を今どう受け止めるか
2014/01/16(Thu)
1月16日(木)

 12月13日から5回にわたって、『朝日新聞』 夕刊で 「三池炭鉱をたどって」 が連載されました。
 63年11月9日に発生した三池三川坑の炭じん爆破事故から50年が過ぎたということがあります。とはいいながらも、今も忘れられずに取りあげられ続けるということに、あらためて三池闘争が戦後労働運動史に占める大きさを感じさせられました。
 しかし記事は、文量の問題があるとは思いますが、表面をなぞったエピソード紹介で終わっています。三池闘争、炭じん爆破事故については事実関係をきちんと確認しながら 「総括」 をし、教訓を導き出しておく必要があります。
 三池闘争については、東日本大震災・福島原発事故問題の中のエネルギー政策の転換に関連して捉えかえされたことがありました。(12年7月20日の 「活動報告」) 炭じん爆破事故については、12年に亡くなられた原田正純医師の活動のなかで水俣病へのかかわりとともに取り上げられました。(12年10月10日の 「活動報告」)

 60年の三池闘争は解雇撤回闘争です。会社から、組合活動を積極的に担っていた労働者が 「生産疎外者」 と呼ばれて解雇されました。合理化に抵抗だけでなく、周囲の労働者にさぼることを煽る労働者という位置づけです。煽る労働者のなかに安全をチェックする職場委員も含まれます。

 三池炭鉱が閉山する1か月前、現地を数人で訪れました。交流のとき、三池労組の保安闘争の教訓を切々と語ってくれたのが三井三池炭塵訴訟原告でもあった遠藤長市さんです。三井鉱山では労使間の話し合いで、労組から委員を出して坑内の保安点検をする 「安全委員」 制度がつくられました。遠藤さんも委員になりました。他の炭鉱の事故調査にも参加しました。事故の原因をうやむやにしたい会社側からは嫌がられ、買収まがいのこともあったといいます。
 保安問題で会社に譲歩しない遠藤さんは業務を止めることもありました。
 たとえば、坑内で事故が発生し、毛布に包まれて遺体が運びあげられると、直ちにその遺体をはさんで原因追及の団体交渉を開催させました。あいまいな回答の場合は長時間続きました。交代時間が来ても労働者は坑内に入りません。

 しかし三井以外の炭鉱経営者も三池労組のこのような路線を見過ごすことはできませんでした。会社は57年から労務政策を大きく変更します。
 遠藤さんは、三池闘争の前年の59年に見せしめとして解雇されます。その後に1492人の大量解雇攻撃がかけられます。
 協定締結後の60年12月1日の一番方から全面就労が再開されます。
 三池闘争後、三池労組を徹底的に差別し、いじめ抜きました。組合役員に対して解雇攻撃がかけられます。
 再建協定によって、配役は現場協議制から職制 (係員) の指示によって行われることとなります。これを契機に職制は、中労委あっせんの 『差別はしない』 を無視し、三池労組が徹底的に不利益になるような差別的配役を行い、組織切り崩しを行います。三池労組員を高賃金職種から低賃金雑役に配転、第二組合員を低賃金職種から高賃金職種に配転します。生産上重要な職場は第二組合でかためて生産第一主義に保安機構の全面改定案を打ち出します。三池労組のストライキを無力にすることを狙いました。
 また差別待遇は、越盆手当、期末手当において新労と三池労組の格差でもあらわれました。さらに6月21日職場・社宅での組合活動の全面禁止を提案してきた。

 三池闘争が敗北すると、年末から翌年3月にかけて全国の炭坑で合理化提案がおこなわれ、炭労の各支部は、全面的首切り合理化に直面します。しかし炭労は産業別統一闘争を組む体制は崩れていました。各支部は独自の闘いを展開せざるをえませんでした。
 三井の各鉱山においても人員削減が提案され、「余剰人員」 は希望すると条件付きで三池に送られました。その1人だった広瀬勝さんです。 
 「広瀬勝さんは……20年働きつづけた田川四鉱が閉山になったからである。その時の三池への再就職者は田川四鉱従業員の1割にあたる約50人。むろんその全員が、受入れの条件として、第二組合に忠誠を誓うことを強制されている。……
 昭和43年 (68年) 8月7日、広瀬勝さんは落盤事故のため三川鉱で即死。……
 死んだ広瀬勝さんは、三池で採炭夫として再出発するようになってから後も、ひまを見つけてはオートバイを飛ばして筑豊へ戻り、田川鉱時代の仲間と語り合うのを、なによりの楽しみにしていたらしい。……
 彼は次のように話していたという。
 『なんぼなんでんひどすぐるばい。なんでああまで第一組合を差別せんとならんのか。第一に残っちょる連中は、みんな立派な、まじめか人ばっかしばい。せめて田川からいった者だけでも話合うて、こげなひどか差別だけはやめさするごと、組合 (第二) に申入ればせんといかんと俺は思いよる』
 彼はついにその申し入れさえ実現できないうちに殺されてしまった。……
 分裂このかた日に日に強められる差別支配の鎖、……。これを名づけて三井資本とその御用組合は、いみじくも“害虫駆除”政策と名づけている。」(『朝日ジャーナル』 69.11.2号 上野英信 『三池ルポ与論から網走まで』)
 三井鉱山の労務政策がどのようなものだったかが垣間みられます。

 そして会社は安全対策を蔑ろにしました。
 62年8月28日、四山坑で死者1人、重症8人、軽傷2人の事故が発生します。29日は1人死亡。30日は3人負傷。9月は死亡1人、重症147人、軽傷154人、10月は死亡4人、重症144人、軽傷185人です。『三池炭坑殉職者名簿』によると61年から63年10月までに47人が死亡。内訳は三池労組員が20人、三池新労が25人、下請け組夫が2人です。三池労組は団体交渉を申し入れますが会社はきちんと対応しません。そして多くの「黒い肺」 の塵肺患者が出ています。
 このような状況のなかで63年、炭じん爆破事故が発生しました。(13年11月12日の 「活動報告」)
 この経過を見ただけでも炭じん爆破事故は人災です。


 事故後、三池労組は遺族とCO中毒患者の補償に取り組みます。しかし事故の原因追及のために告訴をしますが、民事訴訟の方針は採りませんでした。
 三池を訪れた時、当時の組合役員だった方に 「どうして訴訟を起こさなかったんですか」 と質問しました。回答は 「全国から受けた支援に、労災制度を前進させることで恩返しをしたかった」 ということでした。
 今ならすぐに訴訟の準備が開始されますが当時は違います。
 三井山野炭鉱ガス爆発裁判の弁護や水俣裁判を担当した馬奈木昭雄弁護士が語っています。
 「炭鉱災害に対する企業の法的責任を裁判で認めさせるのは困難だというのが一般的で、なかなか訴訟には至りません。一番の理由だと思うのは 『弁当とけがは自分もち』 という炭坑の鉄則。逆に言うと、それ以外の生活全体が 『会社もち』 でした。……
 労働者を抱え込む労務政策そのものですが、労働者側も助かっていた。まさに 『ゆりかごから墓場まで』。例外が昼の弁当とけがの治療』だったんです。
 加えて炭坑労働者には揺るがぬ親分子分制度があるので反逆などあり得ない。」(馬奈木昭雄著 『たたかい続けるということ』 西日本新聞社)
 これらが炭坑労働者の団結の強さの要因でもありました。

 もう1つの理由です。
 「最初は組合も 『会社相手の裁判はしない』 方針でした。それは 「裁判で負けたら、これまでの自分ら闘いとってきたものが “後退” しかねない」という危惧、さらに 『国民とともに闘う、世論は必ず支持してくれる』 という確信が持てないゆえの立場であったように思える。
 労働者の意識を変えたのが『水俣』でした。『会社に勝てるんだ』 と」(『たたかい続けるということ』)

 「三池労組が会社の責任追及を一貫してたたかう方針であり、その刑事告訴が正しいと確信していたならば、なぜ、この段階で、真実の追及、会社の責任追及をあきらめたのであろうか、不法行為の時効の3年が間近に迫ったこの段階では、少なくとも、続いて民事訴訟の提訴を考えるべきであった。それがCO患者に対する政府・会社のその後の扱いについても、くさびを入れたはずであった。しかしながら三池労組には、『裁判は物取り主義である』 とか、『裁判はたたかえない者のやることだ』 というような一部最高指導部の見解もあったようだ。さらに、当時、多数のCO患者をかかえて組合としてあえいでいた状況や、昭和40年代後半以降のような公害裁判の盛りあがりもみられない段階でもあったため、民事裁判に打って出ることができなかったと思われる。それがのちに民事裁判において、『遺族について時効は完成している』 との会社の主張にさらされることになる。」(三池炭鉱労働組合 『みいけ炭鉱労働組合史』)


 水俣で闘っている人たちの支援を受けて組合員が訴訟を起こします。炭鉱事故で最初の集団訴訟です。
 その後の73年、三池労組は遺族を含めて集団訴訟を起こします。
 裁判は、一部の方は継続しましたが87年に和解します。
 裁判で和解することにたいして屈服という受け止め方は今もあります。しかし判決はリスクも背負うということを見逃すことはできません。
 三池労組の和解の判断は間違いではありません。
 判決に至ったなら、遺族は時効が完成しているという判断で賠償金はゼロです。和解だからこそ、解決金を遺族を含めて原告団で分配することができたのです。
 多くの炭坑では、遺族は、亡くなった労働者に代わって炭坑で働くことが保障されていました。遺族である労働組合員も大勢います。判決に至ったなら、新たな三池労組の分裂も予測されました。
 この段階で、早くに訴訟を起こしていたらという議論は詮無いことです。


 67年9月28日、三池・三川坑でまた炭塵爆発事故があり、7人の死者と数百人のガス中毒患者が出ました。
 「坑内の火が、まだ燃えさかっている9月29日朝、三川坑の繰込場で、異常な事態が起った。それは、これまで従順だと思われていた新労の組合員が、突然、会社の指示にさからい、消化作業の入坑を拒否し、あわせて説得にかけつけた組合幹部に激しく抵抗したのである。
 『安全がされたんか、証拠をみせろ』
 『坑内におりるのはオレたちぞ。いけというならお前らも一緒にこい』
 『お前ら、オレたちの気持ちがわかっとんのか。今度は、違うぞ』
 身の危険を眼前にして、新労組合員も黙ってはいられなくなったようだ。この光景を目撃した人は『とうとう、爆発したか』とささやいたという。このように新労の下部に不満がうっ積していることを、地元の人々もうすうす感じてはいたらしいが、それにしても、新労が分裂いらい労使一体となって生産体制を築いてきたことを知るものにとって予想外の出来事だったようである。むろん、新労幹部にとっても、会社側にとっても。」(『朝日ジャーナル』 1967.10.29号)
 会社は新労にも優しくありませんでした。それは死者の数からもそうだし、事故への補償においてもそうでした。

 この爆発事故の後、総評は労災問題に本格的に取り組むことを決定し、67年10月他の労働団体にも呼びかけて 「日本労働安全センター」 を設置します。(現在の全国労働安全衛生センターとは違います。)
  
 三池争議における法的対応とCO中毒患者の損害賠償訴訟を担ったのが東京の藤本正弁護士です。藤本弁護士は、68年に若手弁護士と 「労災研究会」 を組織します。そして労災問題を労働現場で起きている問題、労働組合が取り組むべき問題としてアピールを発します。

 「電通過労自殺裁判」 を担ったのが藤本弁護士です。
 藤本弁護士が 「電通過労自殺事件」 を受任すると周囲の弁護士に話をすると、みな負けるから止めた方がいいと説得したといいます。しかし提訴し、遺族である父親との二人三脚の闘争で最終的には勝利的和解になりました。
 「電通過労自殺事件」 は、精神障害の労災制度、職場の労働安全衛生制度を大きく前進させるきっかけを作りました。
 藤本弁護士は、三池の経験をずっと抱き続けていたのではないでしょうか。
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