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「半沢直樹」 を相談活動の視点でみると
2013/09/27(Fri)
 9月27日(金)

 テレビドラマ 「半沢直樹」 はかなりの高視聴率でした。東京よりは大阪の方が高かったということです。特に40代、50代の女性が高かったといいます。自分の夫、息子が会社でどのような働き方をさせられているのか知りたかったようだといわれています。
 放送開始の前半頃は、銀行業界への求職活動が敬遠されたとも言われました。終了して挽回したのかどうかは分かりません。

 TBSの高視聴率獲得に加勢し、放映時間にスケジュールを合わせて毎回ちゃんと観ました。
 ドラマをつまらなくしますが、「半沢直樹」 を労働相談の視点から見てみます。
 実際、銀行や生命保険会社の労働者が外部の相談機関を訪れることは多くありません。「行員」 は国家の財政政策や産業界の経営の一端を担い、さらに顧客の財産を管理しているのだから、行内の一切の情報は外部に洩らさないようにと徹底教育されています。行員としてのステータスを誇示するため身だしなみを整えるためと、生活保障のために高い賃金を支払っていると説明されます。(その分、潰れないという親方日の丸の体質も持っています) 体調不良に陥っても休職期間は長く、賃金は相当額補償されます。ですから “自分の限界を悟った” 労働者は、誰にも相談しないで黙って辞めていきます。まさしく去っていきます。
 そのような中で相談に訪れる労働者は、不正の濡れ衣を着せられた、人事上ひどい処遇を受けた、差別されたという事態に遭遇し、納得できないが自分ではどうすることも出来ない状況などの労働者です。

 半沢直樹が勤務する東京中央銀行は、三菱東京UFJ銀行がモデルといわれます。
 ドラマでは東京中央銀行内で出身行による派閥争いがありますが、実際はすでに決着済みのことではないでしょうか。
 三菱東京UFJ銀行は、東京三菱銀行とUFJ銀行が合併して発足しました。東京三菱銀行は東京銀行と三菱銀行が合併して発足しました。三菱東京UFJ銀行が発足する段階で東京三菱が逆になりました。
 合併は対等などということは絵空事です。合併する側とされる側が存在します。労働者にとってはどちらの就業規則が維持されるかです。合併される側の労働者は、1年後には1割、2年後には2割‥‥辞めていくといわれます。10年後にはどれだけ残っていたでしょうか。だから 「三菱東京」 は、文句を言う者はいなかったことを物語っています。

 半沢直樹の父親は、地方で零細企業を経営していました。しかし銀行からの融資計画を反故にされて自殺します。
 さて、東京三菱銀行でもUFJ銀行のどちらでも、地方支店は地場の零細企業と取引をするのでしょうか。
 金融業界にはヒエラルヒーがあります。都市銀行、地方銀行、第二地方銀行、相互銀行、信用金庫、信用組合。それぞれ顧客層が違います。地方銀行に潰された第二地方銀行はたくさんあります。
 ストーリーは実態からかけ離れているように思われました。

 しかし、実態を的確に映していたところもありました。登場する行員はほぼ男性で、男社会の物語です。銀行に 「男女雇用機会均等法」 は適用されていません。行員の妻は仕事を持っていません。


 「やられたらやり返す」 「倍がえし」 が流行語になっています。しかしあまり歓迎はできません。ドラマでは土下座のシーンが何回かありましたが、観ていて気持ちのいいものではありませんでした。心から詫びさせるということは自尊心を傷つけることではありません。恨みを遺します。
 いつの頃からか日本社会は 「仇討ちの思想」 が蘇っています。
 事件が発生して訴訟に至ると、被害者の関係者は加害者に重罰化を要求し、裁判所はそれを酌量して量刑を決定します。
 「罪を憎んで人を憎まず」 は過去のことになってしまいました。「罪を憎んで人を憎まず」 は、加害者の更生を期待するとともに、罪を発生させた社会状況、事件の背景をみんなで捉え返しました。
 最近は社会状況や背景は問題になりません。「社会的敗者」 の排除がまかり通ります。自分の思い通りにしたいという社会の私物化が進んでいます。結果は、発言力のある者が勝ち続けます。
 加害者・被害者それぞれに関係者がいます。仇討ちは、新たな仇討ちを生み出し解決の終着には至りません。

 では、東京中央銀行で 「やられたら」 どうすることができたのかと問われたら答えられません。被害者・犠牲者は個々に出ていますがそれは銀行全体が私利私欲で支配され、全体が腐っていることにどう対応するかの問題だからです。
 行員は個々に分断されてお互いがライバルです。労務担当者にとっては管理しやすい状況が完成されています。
1960年頃までは、各銀行にも従業員組合・労働組合が組織されていました。しかし大蔵省の指導の下で潰され、残ったのはごく少数でした。
 金融庁には、各銀行、生保会社についての様々な情報が寄せられてきます。しかし不正の情報があったらすぐ対応するということではありません。顧客に及ぼす影響、銀行の安定維持、社会的不安を生み出されないかを判断基準に処理します。正義が勝つとは限りません。

 ドラマを観ていての感想は、半沢直樹はよくそんなところで我慢しているなということでした。
 我慢したのは父親の 「仇討ち」 目的がありますが、もう1つは3人の同僚・“仲間” の存在です。仲間は慶應義塾大学の同窓生の想定です。
 銀行は、出身銀行の派閥は薄れていきますが、出身校ごとの学閥は固い絆で結ばれています。

 学閥は銀行だけではありません。ある実力主義を掲げて出身大学は問題にしないと公表していた電機メーカーの本社は、1年間勤務するとほぼ全員の出身大学が判明するといいます。毎日のスケジュールを記載するホワイトボードの夜の時間帯に、例えば 「三田会」 と記載した者は、その夜は残業免除で社内の慶応大学同窓に参加します。同窓会は単なる懇親会ではありません。

 ドラマでは、出向させられていたその仲間の1人に、北海道の僻地の支店勤務の内示が出されます。
 覚悟していた時に 「条件」 が提示されて本店に戻れることになります。
 またわかりやすく慶応大学を例にあげますが、慶応大学の三田会は社内だけでなく地域でも固い絆で結ばれています。同窓生が困難な状況に遭遇した時はどこからともなく手が差し伸べられます。
 だから仲間の1人は内示を拒否して辞めても再就職に苦労することはありません。はっきりと左遷とわかる内示を受け入れるというようなことは実際にはありません。


 この仲間は、“いじめ” が続いて精神的体調不良に陥り、電気会社に出向になります。
 体調不良は軽くありません。あのような労働者を出向させるということはあり得ません。傷病休暇です。あるとしたらその後に出向です。出向先にとっても迷惑な話です。
 しかし今回のドラマで、銀行とはどんなところかということと同時に、出向とは何なのか、どのように利用されているかを捉えかえす機会になりました。出向先は銀行の “植民地” です。


 「半沢直樹」 効果としては、「職場のいじめは構造的に起きている」 という説明をドラマを例に出しながらすると納得してもらいやすくなりました。ありがたいことです。
 しかし視聴者はドラマのいじめを許容しています。その感性は現実での “気付き” の遅さでもあります。言われないと気付きません。
 金融庁の上司は説教しながら部下の股間を掴みます。暴力であり、セクハラです。
 同じく言われないと気付きません。途中でそのシーンはなくなったのでどこからかクレームが来たのかと思ったら、後半でまたありました。製作者も認識がありません。

 最後のシーンは、半沢直樹は昇格を期待していたが出向が言い渡されます。
 甘い。
 銀行の評価システム、多くの会社の評価制度は、加点主義ではなく減点主義です。あれくらい上司に楯突いたら、出世させられるはずがありません。銀行としては危険が大きすぎます。それが現実です。 
 

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原爆遺構と総評労働運動
2013/09/25(Wed)
 9月25日(水)

 東日本大震災から2年半が過ぎました。被災地はいろいろ変化が起きています。
 震災直後から定期的に支援を続けてきた自治体やボランティア団体が区切りを付けつつあります。毎週1回被災地を訪れていた団体は100回を迎えたのを契機にしたといいます。本当は体制も財政も、もっと前からきつかったはずです。
 一方、報道で映される被災地の状況は、整地されたところはそのまま空地で、当時のままというところは雑草が生い茂っています。

 もう1つ、2年半が過ぎると震災遺構を保存するか撤去するかで続いていた議論に結論が出されつつあります。
 震災の恐ろしさを後世にちゃんと伝えなければならないという思いは皆同じです。しかし直接体験した被災者にとっては「見るのがつらい」という思いがまだまだ強くあります。体験を現実にあったこととして受け止めることができないでいるからです。恐怖の体験を話す相手がいないまま1人で抱え込んで共有できていない、壊された生活基盤の再建に手がつかずにいるからです。震災以前の状態に戻りたいという思いにまだ強く支配されています。
 そうさせる1つの理由は、復興が遅れているからです。


 震災遺構の問題に関連させて、原爆遺構の広島の原爆ドームの保存と長崎の浦上天主堂の解体が対比されています。
 広島には原爆ドームや探せば原爆遺構が当時のままではありませんがいくつか残っています。実際保存は大変です。バブル期に地価が高騰する中で取り壊しが続きました。個人の所有では保存の意思はあっても固定資産税の支払いなどは困難を極めました。活用するにも限界があります。
 長崎にも原爆遺構はありますが、広島の原爆ドームに相当するものがありません。

 折しも文化審議会の世界文化遺産・無形文化遺産部会は、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」 をユネスコの世界文化遺産に推薦することがニュースになりました。浦上天主堂が残っていたら当然含まれますし、その前にすでに文化遺産になった可能性があります。


 浦上天主堂はなぜ取り壊されたのでしょうか。
 高瀬毅著 『ナガサキ 消えたもう一つの 「原爆ドーム」』 (平凡社刊) は、政治的に消されたと推測しています。
 原爆で聖堂が壊された信徒は、近くの聖フランシスコ病院の地下室に間借りしていました。
 49年9月、長崎市に市長の諮問機関として 「原爆資料保存委員会」 が発足します。散在していた原爆関係資料をまとめて保存するのが目的でした。浦上天主堂の廃墟も含まれていました。委員会は 「保存すべし」 の答申を出し続けます。
 55年、長崎市にアメリカからセントポール市と姉妹都市提携の申し入れがありました。「市民同士の友情が深まれば、争いのない、平和な世界を築くことができるだろう」 という趣旨です。
 締結のセレモニーのためにセントポール市から長崎市長あてに招待の打診があります。
 「文面によるとセントポール市では近く田川 (長崎) 市長に対しこの式典への招待状を送ることにしているが、仲介役の日本国連協会では当日長崎市の名で桜20本を記念にセントポール市へ贈呈する。
 なおセントポール市はカトリック色の強い都市で原爆の洗礼を受けた長崎の天主堂の再建に深い関心を寄せているといわれ、縁結びとともに建設の資金の援助も行うものと期待されている」
 市議会は賛同しますが、市長は渡航費用の問題で躊躇します。結局この年は中止になります。
 セントポール市議会が姉妹都市提携を決議したのは12月7日でした。(真珠湾攻撃は、日本では12月8日ですが、アメリカ時間では7日です)
 「もう私たちは真珠湾攻撃のことにこだわりません。だからあなたたちも、原爆という過去の出来事はわすれて、未来を向いて仲良くしていきましょう」 という意味にも理解できるといいます。

 市長は翌年8月に渡米します。渡米期間は1か月間です。大がかりな招待でした。
 戦争で負けた日本の1市長を国務省関係者が出迎え、すべての世話をしました。姉妹都市提携は国務省マターのレベルでした。

 市長は帰国後態度が変わります。浦上天主堂廃墟の保存に消極的な姿勢を見せ始めます。
 市議会の答弁には開き直ります。
「原爆の威力というものは、科学的に実際の面におきまして、長崎、広島のあの悲惨な契機として今日まで研究し論議し尽くされて参っております。したがってその体験を持たない人も、原爆を使うべきものであるかどうか、製造すべきものであるかどうかという問題は、全世界をあげて論議の中心となっております。そこでこういった現段階において、浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料として十分なりや否や、こういう点に考えを持ってまいりますときに、私は率直に申し上げます。原爆の悲惨さを物語る資料としては適切にあらずと。平和を守るために存置する必要はないと、これが私の考えでございます。」
 議会は保存で全会一致します。
 市長は司教との協議の後、議会で報告します。
「議会の決議に基づいて教会側と折衝したが、天主堂再建のため、現状のまま残すことは工事の関係上都合が悪い。いろいろな事情から現状のままでの保存は不可能だと考える。移転して保存するための具体策を検討してもらいた」
 当初は保存を主張していた司教も撤去の方針になり、変更することはありませんでした。
 58年3月14日、浦上天主堂は解体が始まります。

 司教が方針を変更した事情としては、浦上天主堂再建に向けてアメリカを回った時、資金提供に対しては 「原爆の傷跡を消し去ること」 が条件だったといわれています。
 ではなぜ長崎市長は “心変わり” をしたのでしょうか。推測はありますが確実なことはいえません。ただアメリカから帰国した後からです。


 アメリカは53年にUSIA (アメリカ広報・文化交流庁) を設立します。活動目的は 「米国の政策を妨害する敵対的な動きを暴露し、米国政府の政策に対する理解を促進するようなアメリカ人の生活や文化的側面を説明すること」 です。たとえば 「アメリカンセンター」 のような関連する機関を設立してさまざまな工作を進めます。
 教育者や労働者、メディア関係者、学生たちに接触し、日本の若いリーダーたちを渡米させる役割を担っていきます。
 心理戦略評議会 (PSB) という組織のもとで作られた 「対日心理戦略計画」 は 「日本の中にあった中立主義、共産主義、反米主義を無力化すること」 が目的でした。
 今まで、労働組合以外で招待されて訪米した数は2000人に及ぶといわれています。


 53年8月、ソ連は水爆実験に成功します。
 危機感を感じたアメリカ・アイゼンハワー大統領は核政策の転換を打ち出します。
 12月、国連総会で、アイゼンハワーは核の平和利用政策 「アトムズ・フォー・ピース」 の演説を行います。
 「先進4か国による核開発競争が世界平和にとって脅威になっている。この状況を変えるためにもアメリカは世界各国に原子力の促進を呼びかける。アメリカはこの戦に沿って原子力の平和利用に関する共同研究と開発を各国とともに進めるため必要な援助を提供する用意がある。そしてこれにはアメリカの民間企業も参加させることにする。さらにこのような提案を実現するために国際機関 (のちの国際原子力機構:IAEA) を設立することも提案する」
 このアメリカの方針に沿って、日本で原子力の平和利用を進めようとしたのが、読売新聞社主で日本テレビ放送網社長だった正力松太郎でした。

 しかし54年3月1日にアメリカのビキニ環礁での水爆実験で第5福竜丸が被爆します。
 この事件は世界的な原水爆禁止運動に火を付けます。
 原爆によって破壊された浦上天主堂の廃墟の残骸は、アメリカから見れば反核・反米感情を刺激する建造物で、キリスト教徒の上に同じキリスト教徒が原爆を落とした罪の象徴として、忌まわしものでした。
 また 「原爆の悲惨を伝えるといったソフトウェアの問題だけでなく、ハードウェアの問題もあったかもしれませんね。原爆には大変な秘密が隠されているわけです。爆発によって出たアルファ線、ガンマ線はどのように放出されたのか。浦上天主堂や、焼けたマリア像なども相当重要な資料になります。そういうハードウェアとしての資料をソ連に知られたくない、取られたくない。守る側はそう考えたのかもしれません。」
 正力は、“アメリカ的平和政策” のため奔走します。
 反共主義を煽り、プロレス中継で力道山がアメリカの選手を降伏させるのは原水爆禁止運動から目をそらさせ、高揚するのを抑えるための手段の1つだったといわれています。
 その姿勢は今も読売新聞と日本テレビでは引き継がれています。


 1953年、国家安全保障会議 (NSC) は日本の労働運動について 「日本の労働組合への共産主義者の浸透に対抗する為、労働運動内の反共分子を奨励し、支持する」 目標を掲げます。日本政府と労組リーダーに働きかけて 「労働運動内の共産主義分子を孤立化させ、弱体化させるよう助言した」 (渡辺靖著 『アメリカン・センター』 岩波書店)
 孤立化のターゲットは反米の高野実です。
 USIAはさまざまな工作を行います。
最も効果があったのは、労働組合の穏健派の指導者たちを渡米させ、アメリカの組合関係者と引き合わせたことです。日本のUSIAによる組合向けのプログラムは深い影響をもたらし、左翼主導の組合を大きく転換させる結果となりました。」
 最大の目標とされたのは総評でした。

 最初の訪米者は、54年、総評事務局長に就任する前の岩井章や当時の動労委員長ら5人でした。アメリカ政府から招待され2カ月半アメリカの労働事情を視察して回り、ニクソン副大統領などとも会見ます。
 しかし、アメリカにとって岩井は “食い逃げ” だったといいます。岩井はイデオロギー色が薄く、“懐柔” されるには “柔軟さ” を持ち合わせていなければなりませんがそうではなかったようです。しかしその後も岩井は積極的に若い労働者を訪米させたといいます。

 工作調整委員会 (OCB) の報告では、「11人の労働界リーダーを90日間米国オリエンテーション旅行に招待した。このプログラムは極めて成功したとみられており、同様のプロジェクトを現在計画中」 (春名幹男著 『秘密のファイルCIAの対日工作』 共同通信社) とあります。
 この報告は、具体的には54年4月に総評を脱退して 「全労」 を結成した全繊同盟の滝田実会長らを指しているようです。
 61年3月アメリカ政府は滝田をホワイトハウスに招待します。ケネディー大統領と会談しています。その後同盟の結成に到ります。
 1950年代から80年代まで、アメリカから招待を受けたのは総評系で2000人、同盟系は1500人を上回るといいます。
 訪問者は、アメリカ社会の発展と市民の生活にあこがれを持って帰国したといいます。アメリカの戦略は成功しました。

 65年に国際自由労連の影響をうけたIMF-JC (全日本金属産業労働組合協議会) が結成されます。傘下の労働組合は、ヨーロッパよりはアメリカの影響を受けた労使協調の労働運動を展開していきます。そして総評の運動方針に距離を置いていきます。
その後、総評解体、連合結成に到ります。
 隠されてはいませんでしたが大きく取り上げられることのなかった日本労働運動の側面です。


 では、広島の原爆ドームはどのようにして残されたのでしょうか。
 原爆ドーム保存運動は全国で展開されていました。
 55年、2歳での時に被爆し、その後は元気だったが白血病が発症し、千羽鶴を折りながら亡くなった佐々木貞子ちゃんが亡くなります。思いを受け継いだ学友たちの呼びかけで像建設運動が開始され、全国から支援を受けて 「原爆の子の像」 を完成させます。原爆ドームの保存は不動のものになりました。
 そのことを見たときの “変化球” が長崎市への懐柔だったのかもしれません。
 総評は原水爆禁止、基地撤去などの平和運動を担っていました。しかし距離を置く単産が増えていきます。


 規制緩和の掛け声のもとに労働法制が大きく壊されようとしても連合は危機意識も持ちません。結成過程をみたら頷けます。この後は解体に到るのは必然です。
 今を危険と捉える労働者は、もう一度、総評労働運動と総評解体を分析し、教訓化することが必要なのかもしれません。 
 
  
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東北はいまだ植民地
2013/09/18(Wed)
 9月18日(水)

 9月17日、東京都人権啓発センター主催の人権問題都民講座が開催されました。
 タイトルは 「震災 ・ 差別 ・ ケガレ 3.11後の 『東北学』」 で、講師は学習院大学の赤坂憲雄教授です。

 赤坂教授は、東日本大震災と福島原発事故への政府の対応をみて、“東北はいまだ植民地だったのか” という思いにかられたといいます。
 理由は、福島原発で作られた電力はすべて関東地方に送られます。しかし事故が起きた後の対応をみるなら “契約” が成立していませんでした。事故前に福島の原子力ムラに投入された3000億円は、予想された危険を含めた対価としては釣り合っていいません。被災者への保障は不充分です。今も全町民が避難させられている飯館村への事故前の交付金は数百万円でしかありません。これでは契約以前の問題です。
 もっと多くの交付金を支払うべきだったということではありません。自分たちは安全地帯にいて、原子村住民に対しては危険性を騙して、安く叩いたのです。その関係性は “植民地” です。
 電力業界内部では、例えば中部電力の役員が 「東京電力さんや関西電力さんは植民地を持っていていいですね」 と発言するような会話が交わされているのだそうです。本社の遠くに、自社の管轄・消費地の外に原発を持っているということです。

 植民地はまだ歴史的用語になっていません。有力大学が他大学の教員ポストを管理したり、大学病院の医師の派遣などにおいて内部では使用されています。


 差別的対応は電力会社に限ったことではありません。
 震災から5カ月後の京都 ・ 「五山送り火」 は、陸前高田市から送られた高田松原のまきを燃やすことを拒否しました。
 昨年9月21日の 「活動報告」 の再録です。
 「昨年の大文字焼は、陸前高田の震災でなぎ倒された松で作った薪を燃やすことを拒否しました。死者を安楽浄土に導く仏教がそれを止め、生き残った被災者を傷つけたのです。生きている人びとに説法する仏教が一部市民の世論に迎合したのです。今や仏教は観光資源でしかなくなりました。」
 もう一つ、震災から1年後の石巻市で聞いた話を2012年3月16日の 「活動報告」 で報告しました。
 「公園で、初対面同士の60代と70代の被災者の方としばらく話をしました。
 やはり 『瓦礫』 と原発の話題になります。
 『陸前高田の松の木が京都の大文字焼で焚かれるのを拒否された時は悔しかったね』。もう1人が頷きます。『危険でなくてもああだから、被災地全部が危険だと拒否されたように受けとれた。「日本は1つ」 なんていうのは大嘘だったんだよね』
 『松の木が危険だというのなら、陸前高田に住んでいる人や、そのもっと手前にいる俺たちも危険に曝されていることになる。だけどそのことには関心ないんだよね。自分たちだけは危険にさらされるのが嫌だという』 『あれは一部の人で、支援してくれる人のほうが圧倒的に多いけど』 『あのおかげで人に頼らないで自分たちでちゃんとしなければという意識を持つきっかけになった』
 多くの人たちが心を寄せて支援を続けてくれていることへの感謝の気持ちは会話の中で何度も繰り返されます。しかし言わなくては晴れない気持ちもあります。」
 農作物への風評被害も同じです。
 陸前高田市は福島原発から250キロ離れています。

 皮肉なことですが、「五山送り火」 での高田松原のまきを燃やすことへの拒否は、被災者に自立を促すきっかけになりました

 「福島原発から250キロ離れています」 「東京は安全です」
 オリンピックの東京誘致を訴えた安倍首相の演説です。
 原子力発電は国家的政策でした。政府を挙げて安全だと説明して騙してきた事業で事故が起きたのです。そのなかで生活手段を奪われても地元に残っている・残らざるを得ない被災者に思いが至っていません。
 原発事故に伴うトラブル対応、再爆発を止めるために東京電力や関連会社、何重もの下請会社の労働者がまさに 「身体を張って」 頑張っています。その労働者を見殺しにするような発言です。
 人として無神経な発言です。首相の発言として軽率すぎます。

 
 赤坂教授は、「東北は差別の文化が希薄」 と説きます。
 著名な歴史学者が 「東北は経済的に遅れて分業がなかった、分業する必要もなかったから差別がなかった」 と語っていることを紹介しました。
 赤坂教授は果たしてそうかと反論します。
 5000年前 (縄文時代) の日本列島は人口が30万人と推測されます。その8割が信州、関東、東北に居住していました。東北は住みやすかったということです。
 狩猟文化、マタギ文化がありました。野生との距離が近く、肉を食べ、皮を着る生活文化がありました。野生を乱獲するようなことなどはなく共存していました。今も名残があります。
 縄文文化の中心は墓である広場です。そこを中心に同心円に住居が作られます。

 その文化は西日本の稲作文化と比較できません。
 東北に被差別部落は存在しませんでした。武士の移動に伴って作られました。
 西日本での “ケガレ” は3つあります。
 死のケガレ、お産などの血のケガレ、動物の皮をはぐ・肉食のケガレです。
 弥生時代以降、墓は日常から遠ざけます。共同墓地を作ります。死者を巡っては遺体を埋める 「埋め墓」 と死者をしたってお参りするための 「参 (ま) い墓」 を作ります。民俗学ではこの北限が石巻市なのだそうです。心当たりがあります。
 赤坂教授は、東北から見ると、差別は文化の中で生まれたイデオロギーだといいます。米と肉がせめぎ合っているといいます。

 赤坂教授が福島で放射能被害から避難しているお母さんたちと話をしていた時、「子供のために戸籍を変えたい」 と言われたといいます。追い詰められた、悲しい発言です。

 原発事故をめぐるすべての問題を福島に閉じ込められようとしています。避難者への対応は 「難民」 です。そして計器を持たせて自己責任で戻っていいという政策は 「棄民」 です。


 東北と西日本は縄文時代の中心地、弥生時代の中心地の違いだけではありません。
 蝦夷には大和からの侵略の歴史があります。坂上田村麻呂の 〈偉業〉 と阿弖流為の無念です。
 柳田國男の 『遠野物語』 には、「山人」・ 「我々社会以外の住民、即ち、我々と異なった生活をして居る民族」 が登場します。平地に居住する 『日本人』 = 「大和民族」 に先行し、やがて 「帰順」 した人びとです。
 柳田國男の 『遠野物語』 を皮肉った井上ひさしの 『新釈遠野物語』 に登場する 「山人の近くにいて人間の素振りをしてだまくらかす」 と遠野地方の人びとが語る河童は、実は侵略者 「大和民族」 で、その蛮行を遠巻きに語り継いできたのかもしれません。(11年7月22日の 「活動報告」)

 そして原発事故発生とその対応。大和民族にとっていまだ東北は植民地です。


 しかし東日本大震災の被災地と被災者に対して、「五山送り火」 で高田松原のまきを燃やすことを中止に追い込んだ人たちを極少数派として、たくさんの人たちが思いを寄せ、支援を続けています。避難する福島の人たちを受け入れています。

 以前に紹介した、平成23年度 全国中学生人権作文コンテスト埼玉県大会での最優秀作品・社団法人日本新聞協会会長賞を受賞した福島から本庄市に避難している中学生の作品をまた紹介します。


        『支えあって生きる』

 基本的人権の尊重。今までの自分が人権について知っていることと言えばこの言葉ぐらいだ。日本は、世界に比べれば平和で安全な国だし、自分もその国で、何不自由なく幸せに暮らしていた。そうあの日までは…。
 3月11日の東日本大震災は、たぶん日本の歴史に残る大きな災害だ。
 教室の後ろに掲示してある歴史年表にも、いつか刻まれることと思う。ぼくは、その被災地に住んでいた。地震で建物が壊れたりしたものの、家族や友達、地域の方々に亡くなった人はいなかった。
 しかし、地震の後の原発事故のため、ぼくと家族は家を離れ、友達や親しい人たちと別れなければならなくなった。生まれ育った故郷を離れなければならなかったのだ。
 人権をおびやかすもの。戦争や紛争、貧困、差別や偏見、環境破壊など、今までの自分にはなんの興味もなかったことだった。まだ戦争や紛争中で、子供たちの命が危ない国があることも、戦争は終わったけれど、貧困のため食べるものがなく、病気になっても満足な治療も受けることができない国があることも社会で学習した。テレビでそんなニュースを見れば、かわいそうだと思ったし、争いがよくないことも分かっていた。
 しかし、それは自分にとって、遠い遠い国の出来事で、自分の心を痛めるようなことではなかった。まさか自分たち家族が、家を無くし、日本中を転々と移動しながら、目に見えない恐怖におびえ逃げまどう避難民になろうとは、想像もしていなかった。避難所では、配給のおにぎりを妹と半分にして食べた。薄い毛布にくるまり、寒い夜を過ごした。ラジオのニュースを聞くのが、とても怖かった。
 避難先でぼくと妹は、父に言われたことがあった。
 「これから先、もしかしたら、おまえたちは差別を受けることがあるかもしれない。福島は被曝という厳しい現実と向き合わなければならないからだ。心ないことを言う人がいても我慢をしていこう。そういうときこそ、人の本当の温かさが分かる。人とのつながりがどんなに大切か分かるはずだから。周りをしっかり見ていきなさい。」
 その時は、父の言葉の意味がよく理解できなかった。いつになく真剣で、悲しそうな父の顔が印象に残っただけだった。
 自分は今、埼玉県本庄市に暮らし、学校にも通っている。なつかしい故郷にはまだ帰ることはできないが、新しい友達もでき、幸せだと思う。
 初めて学校に行く日は、とても緊張していた。自分が福島から来たことで、被曝者と言われたりしないか、無視されたりしないか、汚いものを見る目で見られたりしないか、不安でしょうがなかった。
 しかし、友達の反応は違っていた。自己紹介で、福島から避難してきたことを聞いた時は、一瞬驚いていたが、次の瞬間からは他の友達となんのかわりもなく接してくれた。
 みんなの態度は、ぼくにとって、とてもありがたかった。かわいそうにと思われてもかまわないが、ぼくは一人の中学一年生として、生活がしたかった。校長先生や他の先生方、先輩方にも、時々声をかけていただいたが、普段は他の友達と同じように、時には厳しく、時には優しく接してくださる。そんな生活の中で、ぼくは、自分が避難してきたことを忘れてしまいそうになる。
 このように、ぼくは、差別という人権侵害を一度もうけることがなかった。ぼくの人権を尊重し、受け入れてくれた皆さんにとても感謝している。
 人権を守るというのは、自分の力ではなかなかできないのではないかと思う。自分の人権は、誰かに守ってもらっているのだ。それは、家族だったり友達であったり、地域の人々だったりする。それだけではない。見ず知らずの人であっても、傷付け合ったりせず、お互いに人権を守り合うことが大切なのだと思う。それが人権を尊重すると言うことではないだろうか。
 震災は、自分にとって人とは何か、幸せとは何かについて考えたり気づいたりするよい機会になった。一番大切なことは、一人ひとりが、何が差別で何が人権侵害なのかを、しっかり考えることだと思う。そして、相手が何を望み、どう接してほしいのかを考えてあげることが必要だ。
 ぼくの未来はまだ何も見えてはいない。しかし、ぼくには分かったことがある。それは世界のどこにいても、どんな困難にぶつかったとしても、それぞれの人権や自由を守ることができる社会さえあれば、人は幸せに生活できるということだ。
 父の言葉には、そんな意味があったのかもしれない。それはまだ分からないが、今自分ができることをして生きていきたいと思う。
 それが、「支えあって生きていく」 ということではないだろうか。 
 

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海上保安官の体調不良、国境、オリンピック
2013/09/13(Fri)
 9月13日(金)

 8月4日の 「産経新聞」 に、「海保、激務で増えるストレス 尖閣や震災対応 休職など20年前の7倍」 の見出し記事が載りました。全文紹介します。

 「精神的なストレスを抱え休職などしている海上保安官らが、20年前に比べ約7倍に増えていることが3
 日、海上保安庁への取材で分かった。中国公船との対 (たい) 峙 (じ) が続く尖閣諸島 (沖縄県石垣
 市) や東日本大震災で派遣された職員に強いストレス症状がみられる例も相次ぐ。海保は、メンタルヘ
 ルス対策官を新たに置くなど対応を強化している。
  海保によると、職員約1万2千人のうち、精神的ストレスによる休職や制限勤務、経過観察中なのは昨
 年7月1日時点で224人。20年前の平成4年 (33人) から約7倍に増えている。
  その後の調査では、尖閣派遣へのストレス例も確認された。海保は全国規模で巡視船をやりくりし中国
 公船への対応を続けるが、長期派遣された巡視船1隻の乗組員の精神状態調査では約35人中7人に
 高いストレスがみられたという。
  また、別の尖閣対応船では、巡視船という閉鎖的な空間で長期の緊張を強いられることや、海上は携
 帯電話などが通じにくく、友人らと思うように連絡が取れないことに対するストレスを訴える例もあった。
  一方、東日本大震災発生直後の対応ストレスを今も訴える職員もいる。被災地派遣職員対象の 『惨事
ストレス調査』 (昨年6月) では回答を得た約3千人のうちの約3%に高いストレスが確認された。住民が
 流される様子を空から見たヘリの操縦士らが、『何もできなかった』 と自責の念を訴える例もあった。今も
 約10人が経過観察が必要という。」


 尖閣列島、竹島で国境・領土をめぐる緊張が続いています。その陰で海上保安官に被害が出ています。深刻な事態です。しかしこのままでは今後も増え続けることは確実です。
 国境警備と被災地派遣は違います。国境警備は、相手と対峙する訓練をいくら重ねていても、いざ生きた 「人間」 の相手を見ると自分という 「人間」 が登場してきます。すると別の対峙になります。任務と 「人間」 です。その結果、任務を果たしても 「人間」 が勝ると自分の不正義の行為を責め続けることになります。人は本来、人を殺傷できません。
 被災地派遣では遺体を目撃することがあります。しかし被災者からかけられる 「ありがとう」 の言葉は 「何もできなかった」 という思いを軽くしてくれます。
 10年11月に、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をおさめたビデオ映像が流出する事件がありました。流出させた職員は国家公務員法の守秘義務違反容疑で逮捕されましたが、真意は、自分たちの職務の実態を社会に訴えたかったのではないでしょうか。
 海上保安官の体調不良者をこれ以上出さないための方法は、国境・領土を巡るつまらない争いを直ちに止めることです。


 そもそも国境・領土とは何なのでしょうか。
 歴史を遡って〇〇はどこの帰属だったと主張しても、その時の為政者がその地域まで勢力を伸ばしていたと主張して記録しただけです。歴史書は時の為政者が自己の威勢を後世に示すために残したものです。実態は不明です。その視点を抜きにしていずれかの勢力に加勢していると足元をすくわれます。自分たちも支配され続けます。

 島人にとって為政者は自分たち自身でした。海に生きること以外の帰属意識はありません。他者と共生することはあっても支配下に入ることではありません。だれもお互いの生活圏を破壊することはありません。乱獲などしないで共存します。
 かつて瀬戸内海に存在した 「村上水軍」 は島を拠点に海域を支配していました。しかし時の大和の為政者の支配下に入っていたわけではなく、独立した勢力でした。彼らにとって大和は侵略者です。
 同じことが尖閣列島でも竹島でも言えます。島人が外部勢力から追放されて無人島になったのです。

 明治18年、日本政府とハワイは 「日本ハワイ移民条約」 を締結します。それに伴って山口県大島から多くの島民がハワイに渡りました。16年に旱魃、17年に風水害に襲われた状態で移民に飛びつきました。
 「しかし、石田寛広島大学名誉教授は 『貧しさだけが移民の増えた理由ではない』 と指摘する。海を渡って他の地域に行くことに抵抗感のない暮らし、閉鎖的だと思われがちだが、遠隔地の情報が意外に早く伝わってくる島の特性が下地にあって、移民への決断を容易にした、とみている」 (『移りゆく広島湾と暮らし』 中国新聞社刊)
 島人は、陸で暮らす人よりも広域での交流がありました。陸の支配者から干渉されません。

 山口県大島出身の作詞家星野哲郎の作品に 『なみだ船』、『兄弟船』 などの海人の歌、『風雪流れ旅』、『北陸流れ旅』 などの流浪芸人の歌などがあります。歌の光景に境界線はありません。どの作品もちまちましていません。その作風は他の誰も真似ができません。


 竹島を含む玄界灘は、海流がぶつかりあう絶好の漁場でした。明治維新以降、手漁撈に従事していた島人の目前で日本の漁船が近代漁法で漁場を荒らしました。その結果、島の周辺にいられなくなったのです。そして 「日韓併合」 に到ります。
 日韓併合は一朝一夕に出来上がった構造ではありません。「実績」 の積み重ねです。この視点を見過ごしたら日韓併合の実態が見えなくなります。条約の成立過程や解釈を巡る議論にしかなりません。
 7月26日の 「活動報告」 に書きましたが、海を荒らされた済州島の海女たちは、1920年には労働条件の改善を要求して 「済州島海女漁業組合」 を結成してストライキ闘争を展開、1932年1月には植民地からの搾取に抗議し、人間の尊厳や生存権を要求して 「済州島海女抗日闘争」 を開始して勝利しました。
 
 では、竹島は韓国の領土だったのでしょうか。支配下にあったと主張する為政者は、侵略者が出現した時、島人を保護する施策をとったのでしょうか。
 島と島人は為政者から独立・自立して生活圏を維持していたのです。
 海人文化は国境と無関係です。
 国境、海域は島人、海人の生活を無視して机上で制定されました。だから争いが起きます。

 どちらの勢力であっても生活を破壊した者は侵略者です。
 尖閣列島や竹島に、領土権を主張する政府が 「おれたちの祖先が強奪した島だ」 と主張するなら正しいです。双方の本来の領土ではありません。返すべきです。今、無人島や海は誰のものでもありません。双方手を引くべきです。

 解決の手法は、両国による、支配ではなく共同管理です。

 国境は勝手なものです。
 国境がなくなった 「日韓併合」 で漁場を奪われた済州島の人たちは多くが大阪に出稼ぎに渡ります。定住した人たちも多くいます。戦時中に強制連行された在日韓国・朝鮮の人たちと二世・三世にとって国境、そして国籍とは何なのでしょうか。区別され、排除され、排除されることが合法的に行われる領域を定めたものでしかありません。
 国境・国籍は不自由を強いるものです。


 オリンピックの開催地決定を巡って騒がしくなっています。
 東京に誘致、誘致反対で意見が割れています。だからといってどこの方がいいという議論は起きません。
 東京への誘致反対を叫ぶ人たちは、他の候補地ならいいのでしょうか。国境の外側への排除を主張しているだけです。
 この議論を聞いて原発問題を連想しました。自分のところに被害が及ばなければいいという論理です。 今、「フクシマ差別」 が生みだされています。安倍首相の 「東京と福島は250キロ離れています」 の演説と五十歩百歩の主張です。
 だから、それでいて競技が始まると国境の内側の国籍の選手を応援するのです。

 オリンピックは時代遅れだから止めようという意見は出ないのでしょうか。オリンピックを政治が関与しないスポーツの祭典などと誰も捉えていません。政治そのものです。
 選手団は国籍ごとに編成されます。国際的に人々の移動・移住が進み、国籍が違う人たちによる共生・共存社会の形成が拡大している状況の中で、国籍ごとに分断し直すことは人間関係の破壊でしかありません。そのようなことを肯定する運営は、力もつ勢力たちの覇権争いでしかありません。


 このような思考の 「非国民」 は1964年の東京オリンピック以降、スポーツは好きで観戦もしますが、オリンピックに関心を寄せたことがありません。

 東京オリンピックの記憶は、地方で子どもの時にテレビで観た開会式です。
 1945年8月6日に広島で生まれた酒井義則選手が聖火台に灯をともした、憲法違反の自衛隊機が上空で五輪を描いた、日本選手団は最後に集団で入場してきたなどの場面です。
 当時は、被爆者が白血病を発症し亡くなっていく映画やドラマがたくさんありました。かなりの影響を受けていました。テレビで酒井選手を見ながら、聖火台への階段を昇る途中に白血病が発症して倒れたら、世界中に原爆の恐ろしさと平和を訴えることができるというおかしな期待を本気で抱いていました。
 翌日の新聞に、ロイター電が 「原爆の子が灯をともした」 という見出しで記事を発信したという記事が載りました。(今捉えるとかなりの偏見がありました。また酒井選手は三次市出身でした。)
 自衛隊・員が競技に参加するのに嫌悪感を持ちました。
 日本選手団の入場行進は、「まつろまぬ民族」 の姿でした。孤立した異色の集団でした。
 その後に、同じ光景を1943年10月の学徒出陣式の記録映像で観ました。青空と土砂降りは違いますが、会場は同じ国立競技場です。日本選手団は学徒です。国から国威発揚の成果を強要されました。
 選手が自己犠牲を強いられるスポーツは何ものかから利用されているということです。
 その中で、優勝したアメリカの黒人選手が表彰台にのぼり、アメリカ国歌が流されてアメリカ国旗が掲揚される時に、右手の拳を振り上げて下を向いている姿を観ました。何でだろうという疑問と同時にえらく感動したのを覚えています。

 しかし最近はオリンピックはさておき、選手たちは国よりはチームと自分を大事にして競技を楽しんでいます。国籍に関係なく選手を応援しています。


 海上保安官らの体調不良、領土・国境、オリンピック、まったく異なる問題のようですが個人的には関連する1つの問題と見えています。 
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ITは人間を破壊した
2013/09/10(Tue)
 9月10日(火)

 前回、9月5日に 「ブラック企業被害対策弁護団設立記念シンポジウム」 が開催されたと報告しました。
 「ブラック企業」 という言葉は、2000年代にIT企業に働く労働者から生まれたと言います。
 IT企業といっても守備範囲が広いですが、開発、製造、販売、システム管理それぞれが 「ブラック企業」 です。競合する企業間のサバイバル、製造下請企業・生産者への廉価の強制、消費者の安物買い、その結果として労働者に労働条件の低下・破壊を強制しています。

 NHKのドキュメントが本になった松宮健一著 『フリーター漂流』 (旬報社 2006年刊) です。
 「請負会社の短期契約スタッフとして、毎日の行動は時間で厳しく管理される。
 (仕事初日) 眠そうな顔をした若者たちを乗せて、バスは工場へと向かって行った。
  ……
 請負会社が下請けをしている携帯電話の組み立てラインで働くことになった。
 ラインメンバーは15人。
 ……
 携帯電話の頭脳にあたる部分の組み立ては高度な技術が必要なため完全に機械化されていたが、その他の部分は手作業が中心だった。携帯電話はモデルチェンジが頻繁に行なわれるため、すべての工程をいちいち機械化していてはとても採算が合わないからだという。
 ……
 組み立てに限らず、通話テストや梱包などの作業も、請負会社の下で働くフリーターの仕事になっていた。
 メーカーはこの3年間で20%のコストダウンに成功していた。

 山端さんが携帯電話の組み立てラインで働き始めて3日目、請負会社の担当者が急遽工場に呼び出された。
 ……
 『私も今日の朝、現場の方から始めてくわしい事情を聞きました。もういまの機種の仕事がなくなってしまうので、ラインを中断して、新機種のラインを応援してもらいたい』
 ……
 『こちらのラインの方の仕事は今日で終了になります。今日でまあ終りと、あの、いちから出直しと言うか、またまったく新しい仕事にチャレンジすることになりますけど、まあ、ご理解を頂いてですねえ…』
 ……
 『もう異動しますからね』
 ……
 その姿は生産変動のなかで働くフリーターを象徴しているようだった。」

 消費者の欲望を刺激して商品購入の回転を早めるため製造会社は、ロボットの設備投資よりも人間の導入の方が切り替えが安易で安価だと判断しています。末端の不安定労働者が不可欠です。商品は 「生 (なま) もの」 と言われて大事にされますが、人間は 「生 (い) きもの」扱いをされていません。「生きもの」 扱いしない雇用は、労働力の買いたたきと我慢を強制します。
 大量消費で景気回復をねらうIT関連企業の生産現場はこのようにして維持されています。

 アメリカでIT産業を発展させたのは中小企業の技術開発型企業、いわゆるベンチャー・ビジネスで 「アメリカンドリーム」 を求めた人たちです。 
 アメリカのハイテク産業のメッカだったシリコンバレーで、1997年にAFL-CIOが2500社以上を調査した結果、全労働者のうち40%が非正規労働者 (派遣、パートタイマー、請負労働者) だったといいます。
 「派遣労働者の一部は、ハイテク分野で長期にわたって――何か月あるいは何年も同じ仕事で過ごす――仕事を任せられているので、自分たちのことを 『常用派遣』 と呼ぶのが習慣になっているほどである。そのような長い在職期間にもかかわらず、彼らは自営のかたちをとった請負労働者か人材派遣会社の登録社員のままである(もっと込みいったケースでは、派遣は、ハイテク企業自体が所有している派遣会社によって非正規の枠で雇用されている。しかし、たとえ派遣の配属がいつまでもつづく場合や、あるいはその企業だけに限定される場合でも、彼らはそれでもなお正社員とは見なされない。)」 (ジル・A・フレイザー著 『窒息するオフィス』)
 日本の雇用政策はアメリカを真似しています。


 日本でIT企業は、2000年前期まで若者の雇用増大させた成長産業でした。成長は専門分野を発生させ分社化、系列会社を支配しました。
 しかし2000年半ばに 「勝ち組」 と 「負け組」 に淘汰されました。
 生き残るために熾烈な競争が繰り返されました。大企業の系列や特殊技能を持った企業は 「勝ち組」 になりましたが、時流に乗っただけの企業は勝ち抜くことができませんでした。
 そのような中でシステム管理の労働者は、納期の一方的指定、やり直し、昼夜を問わずのシステム故障や問い合せへの対応など、まさに顧客のいいなりでした。自分の裁量がありません。長期出張、他社社員や分野が違う労働者、技能レベルが大きく異なる労働者が集まったプロジェクトは作業チェックが難しくなります。しかも管理監督者、責任者が不明です。業務以外の会話がありません。このような業務遂行を強制される労働者を業界内では 「IT土方」 と呼ばれていました。
 顧客の要請は、まさにトヨタが下請け企業に部品納入期限を強制している 「ジャストインタイム」 と同じです。

 話をわかりやすくするための例をあげると、ノーベル物理学賞の受賞者は、若い時の業績を晩年に讃えられるのだそうです。物理学に必要なインスピレーションは年齢を重ねると枯渇してきます。思考が柔軟な時が勝負なのだそうです。
 同じことがIT産業での開発部門にも言えるのだそうです。開発能力は若者の方が勝り、年齢を重ねると追いつけません。
 では年齢を重ねたらどうなるのでしょうか。管理能力を備えている者は経営者、管理職となっていきます。経営能力を備えた者は事業を拡大したり、独立したりします。そこにたどり着くことができなかった労働者は開発部門からはずれた技術・保全職に異動したり、退職します。このような状況をIT産業では 「35歳定年」 と呼ばれています。「生きもの」 扱いされなくても「賞味期限」はあります。

 若くて経営者、管理職に成り上がった者のもとで働く労働者は大変です。業界はサバイバルが続きます。(たまたまであろうが) 成功した自分のように働くことを他者に強制します。価値観を強制します。人に使われたことがない経営者は労基法を知りません。根性が足りない、努力が足りないと叫びながら低賃金を強制します。人より機械の方が好きな者、オタクが大勢います。その結果無法地帯が支配します。「IT土方」 の状態が加速されます。
 IT業界で体調を崩したり、残業代が支払われないということで相談にきた労働者の団体交渉は大変です。経営者は無法地帯を棚に上げて労働者を罵倒し続けて居直ります。議論がかみ合いません。いやなら辞めろ、代わりはいくらでもいるが本音です。オーナー企業でも同じような状況になることが多くあります。


 不況と高い失業率がこのような状態に拍車をかけています。
 労働者は置かれた状況はどうでしょうか。
 2013年8月23日の 「活動報告」 で紹介した 『窒息するオフィス』 を再録します。
 1984年、臨床心理学者のクレイド・ブロックは 「テクノストレス」 という用語を作り出しました。人びとが職場などで新しいテクノロジーに適用する姿を観察して、「事務職員同様、管理職にとっても、テクノストレスをかたちづくっている主な要素は、時間の感覚の歪みである。時間が圧縮・加速化されるにつれて、何日、何時間、何分といった単位の持つ意味が変わっている。人間の力の限界に対する認識がうすれてくるのである。」 と語っています。増える業務量をどうこなすか。生活時間、睡眠時間を浸食するしかありません。
 このような状況を経営者は「社員が潜在能力を充分発揮できる環境を保障している」とうそぶいています。実際は、現場労働者を取り換え可能な生産資源のひとつとしか見なしていませんでした・


 「工業時代は労働者は機械装置のリズムにすっかりからめとられてしまい、『ウォーンアウト (磨耗) した』 とか 『ブレークダウン(故障)した』 とかいうふうに、しばしば機会用語で自らの疲労を訴えてきた」「そして現在では、新しいコンピュータ文化のリズムに組み込まれている労働者が増え、ストレスがたまっていることを 『オーバーロード』 と言ったり、仕事がうまく処理できない状況を 『バーンアウト』 や 『シャットダウン』 と表したりするようになった。こうした用語は、コンピュータ技術によって設定された仕事のペースに労働者がどれほど深くとりこまれているかを婉曲にさし示すものである」
 機械が「オーバーロード」したら修繕が必要ですが、最終的に機械は労働者の言うことを聞いてくれます。しかし人間同士はそういかないことも多々あります。人間関係がうっとおしく感じるようになってきます。
 労働者がコンピュータに“マインドコントロール”されています。ストレスが蓄積しているのを実感しないこともあります。
 

 その結果、労働者はどのような状況になるでしょうか。
 『窒息するオフィス』 にはIT業界についてまとめて述べている個所はありませんが、インタビューに登場する労働者の発言を拾い集めてみます。
 「『本当に仕事に打ち込んでいるときは、他のことは一切視野に入らなくなるものです』。金銭に対する彼の注意力の欠如はそのよい例である。」
 日本でも相談に来るIT企業の労働者は本当に低賃金です。しかし賃金に対する不満は多くありません。

 「会社は雇用の重点をNCGたち (会社の仲間内のことばで、『大学の新卒 (new college graduates)』 を意味する) におく必要があるというグローブの指令である。その決定の裏にある企業にとっての理由は明らかである。新規卒業生は最新の技術的能力をもっており、経験を積んだ専門家より低い給料しか要求せず、おそらく、彼らが大学で慣れているのと同じくらい長い時間を猛烈に、自らすすんで働くかもしれない。新卒は会社の福利厚生制度に対しても軽い負担しかかけないだろう。なぜなら若い従業員 (とくに扶養家族のない者) はおそらく医療費が年長の労働者よりも少なくて済むであろうから」
 「総じてハイテク分野の内部には次のような、より大きな問題の徴候も現れている。企業はしばしば、経験やキャリアの長さに対してはほとんど金銭的見返りを与えない――それは主に、その仕事にあまりに長い期間就いていると、その人の技能が時代遅れになることが憂慮されるという考えからである。」
 「35歳定年」 での使い捨てはこのような理由です。

 「『人びとも私と同じような状態で働いている状況下で、私はとても長いあいだ耐え抜いてきました。限界に近い睡眠不足、限界に近い疲労のなかで働きました……』 彼は言葉を切って、最後にこう言った。『ある意味で、これは兵士みたいなものです。自分に砲弾が当たるかもしれないという恐れがあります。でも振り向いたり立ち止まったりはできません。そうしたら、撃たれてしまうでしょう。唯一の希望は進みつづけることだけなのです。』」
 「『20歳の人たちには途方もない魅力がありますよ。こんな言い習わしがあります。30代なら、使い捨てにされる。40代なら、もう雇ってもらえない。』
 いつもそうであったが、新しい短期の仕事を得る競争のなかで、彼は、高まるいっぽうの年齢の不利から逃れることができなかった。」
 「35歳定年」 は、労働者に低賃金を強いる構造を作り出しています。

 このような労働実態の中で労働者はどう対処したのでしょうか。
 「インタビューを進める中で、働きすぎ、不安感、精神的ストレスという話をとてもよく耳にしたので、私はインテルの現在の社員と元社員に、彼らはどのように対処したのかを尋ねはじめた。『私の課の全員がコーヒー中毒でした。多くの人は砂糖中毒でもありました。キャンディバー (チョコレートベースの棒状の菓子) やドーナツも同様です。私もそんな1人でした』、とある男性は私に行った。
 また他の人はこう説明した。『ときどき私はクラッシュしました。クラッシュとは、その場に座ってコンピュータを見つめ、動くことができず、何も聞こえなくなることです (普通はコンピュータが突然動かなくなることを意味する)。あるとき、監督者から警告を受けました。彼は、私がCAPの対象になりかねないことを告げました』。彼は言葉を切った。『精神科医にいくことでそうなることを回避できました。医者はプロザック [抗鬱剤] を処方しました』」。
 ゆとりがない業務が続くなかで改善方法はコーヒー等の自助努力です。
 やはり自分の状態を 「クラッシュ」 と機会用語で説明します。人と仕事が一体となって離れられない状況があります。
 IT企業からの労働相談は体調を崩してからが圧倒的です。相談に来る段階では責任感の重圧で業務が頭から離れていません。業務の関係者でない者と話をして 「身体が財産、健康が第一」 というような会話をするうちにやっと責任の荷をおろすことができ、意識が解放されていきます。体調を崩した結果、意識が解放されるという事態は悲しいことです。


 IT産業は労働を変形し、労働者を破壊しました。社会構造を破壊しました。他の産業がIT産業を真似ました。日本はそれらを真似ました。その実態が 「ブラック企業」 です。グローバル化、規制緩和の甘言のなかではさらに悪化していく危険性があります。「勝ち組」 と 「負け組」 の格差が拡大するだけでなく 「勝ち組」 が 「負け組」 を支配していきます。
 ブラック企業への対抗は、その構造に対峙しなければなりません。労働法制を守れだけではなく、人権・人格権の回復、それを伴う労働の回復、そして生活の改善要求の声を挙げて社会運動説いての展開が必要です。


 ITは人から人間性を奪いました。人を分断しました。携帯を身体から離さなかったり電車の中で覗きつづける人の姿は、友だちが少なくて人恋しい人、誰かからの呼びかけを待っている孤独な人と映ります。機械を媒介に作られる人間関係を本当の人間関係とは言いません。人間関係はそうではなく自分で努力して直接作るものです。
 最近電車の中で本を読む人が増えました。携帯、スマホが飽きられてきています。機械からの自立のようにも映ります。人間を支配した機械文明を拒否したと捉えることは大げさですがその光景を見るとうれしくなってきます。
 
  
  当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
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