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足尾鉱毒事件が今に伝えるもの
2013/04/26(Fri)
 4月26日(金)

 4月14日、俳優の三國廉太郎が亡くなりました。
 三国廉太郎と共演したことがあるといったら嘘になりますが、足尾鉱毒事件の田中正造を演じた映画 『襤褸の旗』 の川俣事件のシーンにエキストラで出演しました。

 足尾鉱毒事件については詳細な説明をする必要はないと思います。
 1877年 (明治10年)、古河市兵衛は足尾銅山を買収します。
 1885年頃から、足尾銅山から渡良瀬川に流された鉱毒は下流の利根川流域の農民を苦しめはじめます。
 衆議院議員の正造は、1891年から国会で農民の鉱毒被害を取り上げ始めます。91年に質問した時の農商務大臣は陸奥宗光です。陸奥の息子潤吉は古河市兵衛の養子になっていました。
 農民は何度も政府に銅山鉱業停止を請願しますが聞き入れられませんでした。それでも運動を続けます。
 1896年、正造は館林市の雲竜寺に足尾銅山鉱業停止請願事務所を設け、栃木・群馬・埼玉・茨城4県の鉱毒被災民闘争本部にします。
 1900年2月13日未明、被害民2000人が雲竜寺に結集し、『鉱毒哀歌』 を歌いながら悲運の死者の仇討請願のために東京・農商務省に向かいます。しかし明和村川俣から利根川を渡って埼玉県に入る手前で、阻止線を張っていた警察官と乱闘になり、65人が投獄されます。

 このシーンの被災民役でのエキストラです。
 しかしリハーサルでは被災民と警官との乱闘シーンで被災民が勝ってしまったのです。当然監督は駄目出しをしましたが、歴史を逆転させたことに笑いが止まりませんでした。やり直しでわざと負けることは大変なことでした。
 完成した映画を観た時、深刻なシーンにもかかわらず思い出してくすくす笑いをしてしまいました。
 事件の時、本当に阻止線を突破していたらその後の展開はどうなっていたでしょか。農商務省の敷地にテントを張って世論に被害を訴えることができたでしょうか。

 1901年12月に正造は議員を辞職し、明治天皇の馬車に鉱業停止を訴える直訴状をかかげて駆け寄ります。
 川俣事件と天皇への直訴が足尾銅山被害を世に知らせる契機になりました。

 04年12月、栃木県議会は利根川下流の谷中村を鉱毒沈殿池にするため買収を採択します。抵抗する農民に対して、07年1月26日、西園寺公望内閣は土地収用法の適用を認定する公告をだしました。土地収用法所管の内務大臣原敬は、05年3月古河鉱業の副社長となり、内相就任と同時に顧問に就任していました。
 6月29日谷中村は強制破壊が行なわれました。しかし残留農民16戸は家屋が強制破壊された後も留まって抵抗を続けます。その拠点となった雷電神社跡地は今も残っています。
 留まる残留民に対して栃木県は08年7月、谷中提内に河川法を準用することを告示し、追い出しをはかりました。

 「谷中村はこうして亡びた。足尾銅山主古河市兵衛と姻戚関係にあった陸奥宗光の農相時代、はじめて重大な社会問題と化した鉱毒事件の最後の抵抗拠点たるや谷中村が、政治的には陸奥の乾児であり経済的には古河の大番頭であった内相原敬によって亡ぼされたことは、何という皮肉であろう。このくらい資本主義政治の害悪を、赤裸々に露出した例も稀だと言わねばならぬ。
 昔、イギリスに資本主義が勃興した初め頃羊毛の紡績業がさかんになったので貴族が領内の耕地を囲って羊を飼い、農民は強制的に土地から駆逐されたので 『羊が人間を食う』 といわれたと、物の本で読んだことがある。古河市兵衛が足尾銅山を経営したのは、日本の資本主義の勃興期に当っていた。彼はその富を蓄積する上に当路の大官要人と結託し、政府もまた資本主義産業の発展のためには一村を強制収用し、住民が生計の資を絶つことを意としなかった。イギリスでは 『羊が人間を食った』 のだが、日本では 『銅が人間を食った』 のである」(荒畑寒村著 『谷中村滅亡史』「改版にあたって」 序文)

 映画は谷中村から農民が追い出され、正造が荒野をさまようシーンで終わります。この時に正造は土を口に入れます。小道具係はチョコレートを用意したのですが、三国廉太郎は本当に土を食べたと言い継がれているシーンです。


 足尾鉱毒事件は現在にもたくさんの教訓を残しています。
 足尾銅山の奥にはかつて松木村が存在しました。しかし銅の製錬で発生する亜硫酸ガスの煙害で森林は消え、山肌もぼろぼになって崩れていきました。
 今、松木村は墓石だけが残っていて、かつては人が住んでいたということを証明しています。
 いったん村の生活基盤が壊れると再生は困難です。
 福島原発の避難区域と重なります。

 利根川流域の農民は、洪水は防ぐことができないものと受け入れていました。逆に洪水は田畑を肥沃にし、翌年は豊作が約束されました。
 かつては洪水を緩和するためにあちこちに沼がありました。農民は、土を盛り上げた 「水塚」 と呼ばれる高台に家と蔵を建てて生活をしていました。
 今は高い堤防が築かれています。上流に降った雨はそのまま短時間のうちに遠隔地の海にそそがれます。そのかわり、日照りの時は沼もなくなって水不足に悩まされることになりました。
 今、東日本大震災の被災地沿岸は高い防潮堤建設が計画されています。津波を物理力で阻止しようとしています。しかし陸と海の遮断は、プランクトンが繁栄しなくなり近海でのわかめ漁やカキなどの養殖に質でも量でも大きな影響をもたらすことは明らかです。
 物理力に依存した安心感は、逆に災害を受け止められなくなっていきます。

 足尾精錬所の周囲には選鉱・製錬で出た銅・鉛・亜鉛・ヒ素などの重金属を含む “ぼた” を棄てた堆積場がたくさんあります。雨が降ると溶けて川に流れ出ます。豪雨に見舞われたら決壊しそうなところもあります。
 銅の生産に集中するなかで、“ぼた” の危険性を無視して堆積を続け、危険性を拡大していきました。危険性は今もあります。
 原子力発電における放射能廃棄物処理に似ています。廃棄物の処理方法がないのだから廃棄物を作り出す事業を止めるのが最善の対策です。


 正造の議会での質問は多いです。
 質問は、足尾鉱毒事件以外にも官営企業の払下げに伴う政府と政商との結託による不正事件、現職巡査等による人民殺害事件にみられる人権無視、日清戦争中の軍隊による缶詰、毛布等買い上げにともなう不正事件などです。
軍隊の不正事件では 「石炭の需要は海軍の方が高価のを要すべきなのに陸軍の方が高価のを買い入れている」 「軍隊用牛肉鑵夢詰業者の選定に不鮮明」 「粗製品もしくは腐敗品が多い」 などするどく軍・兵站部の不正を追及しています。

 「あるわい、あるわい。今度の戦争 (日露戦争) で、儲けた者は随分あるわい。頭株を挙げてみると、日本一の持丸長者といわれている岩崎一家や、貿易と鉱山を両脇に抱えている三井一家や、30年前の西南戦争に浮名を流した藤田伝三郎など別看板として、陸軍省の御用を受けて缶詰類を入れた大倉喜八郎と、海軍省の御用を受けた高田慎蔵は、東西の両大関じゃろう。続いて九州の炭坑屋仲間が土俵に出てくる。麻生太吉、貝島太助を筆頭として、安川、古賀、橋本、高橋などいう炭坑屋連中は、ずらりと顔をならべている。
 ……そうじゃ。戦争当時公債を扱った安田、住友、第一、第百、村井、山口などいう銀行屋仲間も、何しろ幾百千万という金額を扱ったのじゃから、余禄を受けたのは固よりじゃ。じゃから、隠蓑を着て、大倉組や高田組の片隅に控えて見ておると、毎日毎日身代が太ってくるので、今度の戦争はなんでも、商人の身代を殖やす為めにやっていたように見えたそうじゃわい。弱い寡婦が日に幾百人と出来たが、炭坑屋や御用商人の目から見ると、戦争は福の神じゃ」 (横山源之助著 『明治富豪史』)

 正造は谷中村の救済の闘いのなかから戦争の本質が見えてきました。日露戦争への批判、「非戦」 論を強めます。
 1905年1月22日起きたペテルブルグの 「血の日曜日」 事件を知ります。
 「谷中村民は今死したり。蹴らるも、奪わるるも、殺さるるも、なす処を知らず。この死者に対する暴勢は、あたかも露都の暴政に同じ。露政府の暴挙にして請願人を虐殺す。これ決して露都の事として見るべからざる鳴り。我国もまたまさに相同じ。予は泣いて日露両国の貧民に代わりて両国の義人に訴うるものなり、就中谷中村の惨はその最たるものなり」


 谷中村を廃村にするために 「土地収用法」 が適用されました。
 現在の条文は 「公共の利益となる事業の用に供するため土地を必要とする場合において、その土地を当該事業の用に供することが土地の利用上適正且つ合理的であるとき」 に私有の土地を強制的に収用又は使用するための手続きを定めた法律です。

 土地収用法は、第三条で (土地を収用し、又は使用することができる事業) を定めています。
 例えば道路法による道路、河川法による堤防・護岸、電気事業法による電気工作物などです。
 戦前は皇族の陵墓、軍事基地なども含まれていました。「満州国」 でもまったく同じ内容の土地収用法が制定されて運用されました。
 しかし戦後の土地収用法から皇族の陵墓や軍事基地は排除されました。「平和憲法」 の精神にのっとるからです。ですから皇族の “私有地” は戦前に収奪した以上は拡大していません。自衛隊基地は拡大していません。強制使用もありません。(しかし強制使用は、PKO法の 「雑則」 に盛り込まれています)
 茨城県・自衛隊百里航空基地の誘導路は、基地反対の農民の土地が内側に食い込んでいるため 「く」 の字に曲がっていますが収用はできません。食い込んだ土地は支援者らの一坪共有地になっています。ついでながら、百里基地の周囲の小高い丘に1文字が1坪の大きさで 「自衛隊は憲法違反」 の看板が建っています。その看板を上空から見て除隊した隊員もいました。(しかし自衛隊は米軍基地を共同使用しています)
 憲法は歪曲された解釈がさまざまにまかり通っていますが、土地収用までは至っていません。平和憲法が活きています。

 土地収用法にはもう1つ平和憲法の精神が生きています。地方自治の精神です。
 土地収用委員会、農業委員会、教育委員会は、協議においては地域の特性を生かし、地元住民の意見を聞くために、構成する委員はその地域住民から選出されることになっています。協議は法律解釈の論議をするのではなく、地域の利害関係を調停する役割を大きく持っています。
 しかし昨今、自治体の首長が教育委員会に介入したり、委員の任命制を公言したりしています。教育委員会が地方自治体の1部署にされようとしています。
 教育委員会問題だけでなく、地方自治についてもう一度捉え返して議論し、制度の崩壊をくい止めなければまなりません。
 しかし今憲法そのものが危険にさらされています。


 三國廉太郎の話から大きく脱線しました。
 でも三国廉太郎は社会問題に大きな関心をもち、なおかつ権力を振りかざす側には与しませんでした。
 12年7月13日の 「活動報告」 で今井正監督の映画 『海軍特別年少兵』 について触れました。部分再録します。

 1943年6月、横須賀第二海兵団に14才になったばかりの少年たちが2等水兵として入団します。
 少年たちは、特権階級の学徒にはない事情をそれぞれ抱えていました。(学徒出陣については、2011年8月13日の 「活動報告」・「『きけ わだつみの声』 を繰り返さないために」 参照)
 上官から志願の動機を聞かれます。
 1人は 「父のようになりたくないからです」 と答えます。「父親がどうした」 と聞かれた後、回想シーンになります。
 父親は、貧乏人は国からの恩義はないのだから国の為に戦う必要はないという持論を持っています。そのため 「アカ」 と言われて特高から拷問を受け、足が不自由にされました。そのように息子にも説き、息子と対立していました。
 「父親がどうした」 もう一度上官が聞きます。
 「父はびっこ (ママ) なのです」
 「そうか、お国の為に頑張れない父親の分もおまえが頑張るのか」
 父親の役は三國連太郎でした。三國はセリフではなく自論を説いていました。


 『釣りバカ日記』 『三たびの海峡』 などたくさんの三國廉太郎が出演した映画を観ました。
 『三たびの海峡』 は、強制連行した労働者を酷使して財をなした麻生一族の現在の長・麻生太郎副総裁や閣僚には是非見てもらいたいものです。そうすると靖国参拝批判に対して 「いいがかり」 などと言う発言は出てきません。


  
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非正規労働者を生み出したのは労働組合の責任
2013/04/23(Tue)
 4月23日(火)

 2月に、安倍政権下の規制改革会議がすすめている検討課題は70項目にのぼることが明らかになりました。その中には解雇規制の柔軟化、裁量労働制の対象業務拡大、派遣労働の対象となる業務範囲の見直しなども含まれています。簡単に言うなら、雇用不安が進んで生活が脅かされ、労働が安価になり、使用者の義務が軽減される方向に向かいます。使用者の、労働者の使い勝手が合法化していきます。
 しかしここまで労働者が攻撃されていても連合からは反対の声が大きく上がりません。期待すること事態が無駄だという声はかなり前からありますが、それにしても動きが鈍いということは恥も感じなくなったのでしょうか。

 一方、安倍政権は使用者に賃上げを要請したり、最低賃金のアップも公言しています。これらは労働者の実態を考えてのことや景気回復を狙ったものではありません。本来、労働者が要求して実現させてきたことがいとも簡単に実行されようとしています。参院選と労働組合の更なる形骸化をはかるためです。
 それにしても労働組合はなめられています。労働組合の位置や期待はまた低下します。

 バブル経済の頃の春闘では労働組合の賃金アップ期待額より回答額が高かったということがありました。労働者は労働組合がなくても賃金はアップするという認識になり、会社と業務への期待を強めました。
 バブル経済が崩壊すると、労働時間が延期され、賃金アップは止まり、“リストラ” 攻撃が進むなかで、労働組合はなすすべを失っていました。
 春闘から権利要求は消え、賃金アップの要求以外は行われなくなりました。そして多くの労働組合にとって年1回の存在証明の機会になってしまいました。
 

 労働者の雇用は裁判で 「整理解雇の4要件」 の判例が定着していましたが、東京地裁を中心に判例が覆される事態が続きました。不当判決に対して当然当該は抗議行動を展開しました。自分らの問題でもあると捉えて呼応する労働組合の声も大きくなっていきました。東京地裁を“労働者の鎖”で包囲する方針が提案されて準備が進められました。結局は東京地裁への請願デモの方針に変更されましたが、これでも前代未聞のことでした。
 このような運動で 「整理解雇の4要件」 の判例は維持されています。
 しかしこの運動に大企業労組や連合が積極的に取り組むことはありませんでした。
 運動を中心に担ったのは中小の労働組合が集まった実行委員会です。

 そもそも 「整理解雇の4要件」 の判例は、使用者側からの乱暴な解雇攻撃に対し、労働組合が産別や地域の労働者と連帯して反対運動を展開し、裁判闘争に持ち込んで争議を継続する中で到達した地平です。労使の力関係の表現です。
 使用者は、その教訓から解雇するとかえって高くつく、労使関係が悪化する、自分たちも疲弊するということで解雇ではない労務政策を模索していきました。
 しかし昨今、労働組合の力がさらにおちた、抵抗が小さいだろうと判断して 「整理解雇の4要件」 を履えそうとしています。
 中小の労働組合は、大企業労組や連合は期待できなくても、なめられない闘いを構築して阻止しなければなりません。


 どうしてここまで労働組合と連合の力は低下したのでしょうか。
 労働運動関係の資料から問題点を探し出すと山積みになってしまいますので視点を変えて探求してみます。
 東大名誉教授で政治思想史専門の石田雄著 『誰もが人間らしく生きられる世界をめざして』 (唯学書房) から引用します。
 「戦後国会 (は)……経済成長の成果をどう配分するかについての議論が中心だった。そして、そもそも経済成長を市場目的とすること自身をどう考えるべきかに議論が及んだことはなかった。それは、国民世論の中で経済成長を最大の価値とする点に関し広い合意があったことによる。……
 食べることに困らなくなってからも、経済成長至上主義が続いたのはなぜだったのだろうか。それを考えるには、いわゆる革新勢力の側の組織論上の弱さについて見ていく必要が出てくる。
 ……占領下の民主改革の中心的な推進主体として大きな力を持った労働組合は、組織の特徴からすれば、戦前から連続する要素を持っていた。労働組織の影響力が最も大きかった時には、『昔陸軍、今総評』 といわれたこともあったが、このたとえは単に影響力の強さを誇張しているだけでなく、意図されてはいないとはいえ、組織上の連続性をも示唆していたのは誠に皮肉であった。革新政党としての社会党・共産党は、共にマルクス主義的な理論で武装しており、その組織論も前衛としての政党の指導部を中核として、その下に労働組合の全国組織を置くものだった。そして、その指導は上から下へと指令によって浸透していき、さらに組合のまわりには大衆団体がそれを支持うる形で配置されていた。
 こうした考え方を許した組織論上の原因は、組織の末端が個人の自由な選択による参加という形ではなく、戦前の産業報国会の末端と同じように、同一の職場に働く仲間が一緒に参加する丸抱え方式であった。その結果、指導部からの指令に同調的に従うことになり、組合の目的を末端から問い直すことにはならなかった
 このような同心円的忠誠と、上からの指令で動く革新勢力の組織構造は、皮肉なことに、天皇からの距離によって、権威と忠誠の強さが決まり、その影響力が同心円的に広がっていくという戦前の天皇制の忠誠構造と相似性をなしていた。保守勢力はこの天皇制忠誠構造を引き継ぎ、許認可権限を持った官僚組織から外郭団体を経て、業界団体まで影響力が及び、これに族議員が結びついて、政官業の鉄の三角形を作り上げていた。そしてそれが、55年体制の下での保守党の地盤をなしていた。
 ところが、これに対抗した革新政党も、その構造は相似形をなしていたのである。しかも相似形であるだけでなく、企業別組合という形で重なりあっていた。それゆえ、レッドパージによって、まず共産党の指導者が追放され、やがて60年の三井三池闘争で総資本と総労働の対決以降、協調主義的な第二組合が作られ、生産性向上運動に経営側と労働組合が協力して取り組むことになる。
 こうして、労使両勢力の共通目的である 『経済成長至上主義』 を問い直すことがなかったという労働の側に見られた組織構造上の弱さは、結局、労働組合の存在理由も次第に弱めていくことになった。」

 「失われた20年」は経済「界」用語で、労働社会の用語ではありません。しかし労働組合の運動方針も同調しています。あらゆる判断基準が経済=数字になっています。数字は株価になっています。労働法制に変わって「会社法」が跋扈しています。


 労働者は 「指導部からの指令に同調的に従う」 「忠誠」 が「団結」 と教えられ、自由な意見の表明や従わない行為は 「団結を乱す」 といって誹られます。異分子のレッテルが張られると排除、除名の対象となりました。団結の内実が問い直されることはありませんでした。
 「経済成長至上主義」 は 「日本的経営」 を見直すこともなく、つまりは労働基本権を尊重するのではなく 「労使協調」 を強固にしていきました。
 弱体した労働組合の具体的悲劇はいくらでも上げることができます。

 「経済成長至上主義」 の見直しは阪神淡路大震災の時に言われました。、そして東日本大震災においても言われています。
 しかし阪神淡路大震災において、労働組合は見事なまでの無能な姿をさらけ出しました。企業の撤退、解雇に対して抵抗もできませんでした。労働組合の役割を果たしたのは 「被災者ユニオン」 だけでした。この年の春闘では、私鉄総連は統一要求ができなくなります。
 97年から98年に全国で展開された労働基準法改悪反対闘争の時、ゼンセン同盟の地方支部は衆・参議長あての反対署名を上部団体や連合、連合と提携する政党ではなく共産党を経由して提出しました。連合は労働者からの信頼を完全に失っていました。

 『経済成長至上主義』 は個人の意識も占領しました。そのなかで終身雇用が崩れると 「個人の経済成長」 は自己責任になっていきます。個々人の労働者は労働組合を横目に見ながら使用者の雇用政策にしがみつきます。非正規労働者や同僚の悲劇に目を瞑って自己を防衛します。しかし淡い期待でしかありません。
 非正規労働者は、労働組合からも労働者からも 「本人の意思による」 「自由契約」 の自己責任といわれて無権利状態におかれて放置されています。
 今回はさらに、政府によって法律で不利になった基準で「本人の意思による」 「自由契約」 が強制されようとしています。「自由契約」 ではありません。
 大量の非正規労働者を生み出したのは労働組合側の責任でもあります。このことを労働組合と連合は自覚する必要があります。


 なぜ労働基本権を守らせる労働組合が機能しなくなったのでしょうか。
 石田名誉教授は、近現代日本における多くの組織に共通している組織構造上の特質を挙げています。
 「すべての組織は、その目的を問い直し、組織の自己目的化を防ぐためには、個人が組織を作る基礎をなす自発的結社としての構造が必要である。ところが戦後、噴出するように結成された多くの組織は、労働組合も含めて戦前に権力によって利用され、戦後には大政翼賛会によって一元的に統合される基礎となった組織の構造と次の3つの点で共通する要素を持っていた。
 その特徴の第一は、地域や職域にそれまであった連帯感を利用し、『仲間でみんな一緒に』 という同調性に頼る傾向があったことだ。私はこれを既存集団の 『丸抱え』 と特徴づけた。
 第二は、組織内部の指導も、それまで、意識の上で自然にその位置にあったと思われた指導者にお任せする形で、大多数の人は指導者の命令に依存する傾向があった。これを私は 『白紙委任型指導』 と特徴づけた。
 第三は、このような内部における関係を前提として指導者が外部に対する影響力を大きくするため、容易に外部の権力、すなわち、より上位の期間、さらには国家権力に依存していき、組織の自主性が脅かされることに注意を払わなかったことである。これを私は 『系列化、勢揃いによる影響力拡大』 『親方星条旗ないし親方日の丸』 と名付けている。」
 
 第三については、春闘を捉え返してみると明らかです。春闘構造は、末端の交渉権を喪失させ、支部・分会の力量を低下させました。
 組織が強化されると捉えられていたことが最大の弱点だったのです。その犠牲者が労働安全衛生において続出しています。

 ではこの構造から労働者はどのようにして脱出していくことができるでしょうか。
 石田名誉教授は、「丸抱え」 「白紙委任的指導」 のような方の巨大労組中心ではなく、あくまで個人を基礎にした自主的な連帯で要求をつらぬく方向の運動を評価しています。そして人間がより人間らしく生きられる社会をつくるという普遍主義的な価値を目指して、自己限定を超えてより積極的に諸問題に立ち向かおうとする運動団体、市民団体がお互いに共感し、連帯しながら運動を進めていくことだといいます。
 具体的には個人加盟のユニオン運動や反貧困運動、派遣村などの生活保護運動などを挙げて可能性を見出しています。
 相談に来た人に 「あなたのせいではない」 という話をし、自信を取り戻すための対話や働きかけをして行く。こうした人間同士の対話をすることによって、人間性を回復し、1人ひとりが持っている潜在的可能性を展開していき、信頼と協力のために結びつきを作っていきます。
 組織の間の自由な連帯、自主性を持った影響力の行使、権力との対抗が可能になります。小さくても本物の力になります

 もっと話を具体的にするために、フランスの経験をミシュエル・デスパックスの『労働法』(文庫クセジュ)から探って紹介します。
 労働運動の高揚には3つの戦線が必要です。1つは社会主義です。2つ目は「社会派カトリック」です。3つ目は、2つに影響をうけた労働者群です。言い換えるなら、企業から完全に自立した思考方法と社会正義の存在、その影響を受けて自己を捉え直した労働者群です。労働者は「都市における市民のように、労働者も企業においてそうあらねばならない」という公式を引き出すことができます。
 労働者だけでは企業から完全に自立した思考方法と社会正義に到達するのは不可能です。
 フランスで1981年に左翼連合の政権を獲得した潮流は、労働法の改革において「労働者の権利の回復と拡大」「労働集団の再編成」「労働者代表機関の強化」「団体交渉の復活」を目的にしました。

 日本では労働組合と連合は経営者の懐に抱え込まれてしまいました。使用者と運命共同体を決め込んで企業の中に閉じこもっています。
 だから自民党から “自分たちの政権”=民主党に政権が渡っても、民主党のマニュフェストを具体化することもできなければ、労働者がおかれている状態に変化を作ることもできませんでした。
 「労働者の人権は門前で立ち止まる」状況のままでした。
 労働組合と民主党が労働者の期待を裏切った結果が民主党の大敗です。

 日本においても企業から完全に自立した思考方法と社会正義の存在は登場しています。
 しかし派遣村の時、ボランティア活動に参加した市民から 「小さな労働組合は見えたけど大きな労働組合は見えなかった」 という感想が聞かされました。大きな労働組合が作り出した非正規労働者を、大きな労働組合は見殺しにしました。
 フランスのような運動の成果で到達した地平を羨ましがっていただけでは仕方ありません。
 今、フランスでも解雇規制法の改訂が目論まれています。

 繰り返しますが、前回 「整理解雇の4要件」 の判例が履えされようとした時、阻止したのは大きな労働組合の力ではなく中小の労働組合が結集した力です。経験は持っています。
 そのような力をまた結集させるときが来ました。

  
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民衆に寄り添った演歌師・添田唖蟬坊
2013/04/19(Fri)
 4月19日(金)

 神奈川近代文学館で 「添田唖蟬坊・知道展」 が開催されました。サブタイトルは 「明治・大正のストリート・シンガー」 です。
 4月6日には音楽家・土取利行氏による 「土取利行・語りと弾き唄い ~唖蟬坊・知道演歌の底流にあるもの~」 が開催されました。

 添田唖蟬坊? 回りくどい説明よりチラシを引用します。
 「明治初期に盛んであった自由民権運動の演説などがそのルーツとされる当時の演歌は、今の演歌とはかけ離れたメッセージ・ソングであり、歌詞には政治や社会への痛烈な批判や諷刺が込められていました。これを作り、街頭で歌う演歌師は気鋭のストリート・シンガーであり、市井のジャーナリストでもありました。その頂点に立ったのが唖蟬坊です。『ストライキ節』 『ラッパ節』 『あゝ金の世』 『ノンキ節』 など、唖蟬坊の演歌は、無骨で啓蒙色の強い従来の演歌 (壮士節) とは異なり、民衆の立場から世相を捉えた親しみやすさで、広く人びとの心を捉えました。
 父・唖蟬坊の薦めで書いたデビュー作 『東京節』 が大流行した長男・知道も10代から演歌師として活躍し、『復興節』 『ストトン節』 などのヒット作を著した後、文筆業に転じます。……」

 「無骨で啓蒙色の強い従来の演歌 (壮士節)」 とありますが、では壮士節はどのようなものでしょうか。
 展示や語りと弾き唄いではない資料からです。
 「時代順に並べれば、先ず最初に出てくるのは植木枝盛らの自由民権演歌であり、日清・日露両戦役間における軍歌の誕生、そしてこれらと音楽的には兄弟関係にある唱歌・寮歌の発生、そして後半は政治主義から脱却した職業的演歌の誕生といったものである。……
 演歌はその発生からして民権の拡充をかかげたもので、音楽的な拠りどころも民衆の音感覚に立とうとした。これに対して唱歌は支配者側の道徳的観念を敷衍することを目的とし、音楽的な拠りどころを西洋的音楽に求めようとしていた。」
 「演歌が1つのジャンルとして確立していったのは明治20年代のことだが、自由民権のうたごえはそれより早く、明治10年代に運動の先頭を切った板垣の出身地、土佐高地の政治結社・立志社の人たちによって始まった。ここに紹介する 『民権数え唄』 がそれで、これは各地を遊説した立志社の遊説員によって歌われ、たちまち全国の町々の女子どもにまで歌われるようになったという。
 
   1ツトセー 人の上には人ぞなき
    権利に変りがないからはコノ人じゃもの
    ……
   3ツトセー 民権自由の世の中に
    まだ目のさめない人がいるコノ哀れさよ

 革命的民主主義の思想家・植木枝盛の策と伝えられるこの歌は、20番まであって、千葉県の銚子の 〈大漁節〉 のメロディをかりて造られたものだった。この他にも……どれも歌詞が平易で啓蒙的な内容という点が特徴で、つまり闘争歌というより、与論に訴え運動の大衆的基盤を作り出そうとしたところに、その目的がおかれていたとみられる。」 (矢沢寛 「明治・大正歌謡――演歌の成立と唱歌」 (『国文学 解釈と鑑賞』 1981年3月号収録) 矢沢寛は歌 『黒い瞳の』 の訳詞者)
 「民権運動が盛んになると、当然政府の言論弾圧が激しくなる。……弾圧の追打ちに民権運動は手も足も出なくなった。そこで運動に携わる壮士たちは、演説のかわりに歌をもってすることを考え、これを演歌と称したのである。その第一声が 『壮士自由演歌』 と銘打った 『ダイナマイト節』 (明治24年) であった。

   民権論者の涙の雨で みがきあげたる大和魂
   国利民福増進して 民力休養せ もし成らなきゃ ダイナマイトドン

 ……はじめ啓蒙的な性格をもっていた自由民権の歌が、激しいたたかいのなかで抵抗の歌に変わっていった姿が感じられると思う。こういった演歌は、若い民権活動家によって、路ばたで人を集めて歌われ、宣伝された。けれどそういう街頭演歌が何の妨害もなくひろがったわけではなく、つねに官憲の干渉や圧迫があり、そのことがかえって壮士たちの意気を高めていった。
 こうした演歌を民衆は壮士節といった。壮士というのは 『戦国策燕策』 の “風瀟々として易水寒し、壮士ひとたび去つて復還らず” から出たので、国事に奔走して一身をかえりみないものをいった。」


 ここからが 「土取利行・語りと弾き唄い ~唖蟬坊・知道演歌の底流にあるもの~」 の報告と感想です。
 演歌は、全体にストーリー性がある長いもので、最後に “ブスッ” とやる、だから途中を省かないのだそうです。歌いながら歌詞を書いた紙を売る・「読売」 が演歌師の仕事です。
 壮士演歌は 「ゆかいなり ゆかいなり」 の放声で終わりますが、選挙運動などでは命がけの行動でした。

 唖蟬坊は1872年 (明治5年) 生まれです。92年 (明治25年) から演歌師の活動を開始し、99年 (明治32年) に壮士演歌から脱した 『ストライキ節 (東雲節)』 を発表します。
 時代は、高野房太郎が 『職工諸君に寄す』 を発表し、日本で最初の労働問題演説会を開催、労働組合期成会を結成 (明治30年) した頃で、ストライキが頻発していました。
 唖蟬坊の演歌の歌詞からは、当時の労働者の状況も知ることができます。

   自由廃業で廓は出たが ソレカラナントショ 行き場ないので屑拾い
   ウカレメノ ストライキ サリトハツライネ テナコトオッシャイマシタカネ

   工事誤魔化しお金を儲け コリャマタナントショ 芸者ひかして膝枕
   シュウワイノシリワレテ サリトハツライネ テナコトオッシャイマシタカネ

 金でしばられた娼婦が自由廃業できるようにはなったが、更生対策が確立されていないので元の木阿弥になる危険性があると訴えています。

 演歌は放声で歌い終わっていましたが、歌い継がれて独り歩きするようになります。
 1906年 (明治39年)、『社会党ラッパ節』 を発表します。
 04年に開戦した日露戦争は、実際は日本が勝利したのかどうか評価が分かれます。戦前は歴史学者が研究することも禁止されていました。
 唖蟬坊は、堺利彦に出会い 「非戦論」 に共鳴し、社会主義のメッセンジャーになります。

   華族の妾のかんざしに ピカピカ光るは何ですえ ダイヤモンドか違います
   可愛い百姓の膏汗 トコトットコト
   
   当世紳士のさかずきに ピカピカ光るは何ですえ シャーンペーンか違います
   可愛い女工の地の涙 トコトットコト
   
   大臣大将の胸先に ピカピカ光るは何ですえ 金鵄勲章か違います
   可愛い兵士のしゃれこうべ トコトットコト
   
   あはれ車掌や運転手 15時間の労働に 車のきしるそのたんび
   我と我身をそいでゆく トコトットコト

 演歌というとバイオリンを連想しますが、演歌師が西洋にあこがれたからです。
 唖蟬坊は使いません。小唄、鼻唄、わらべうたと同じで、メロディーは西洋音階ではありません。

 1918年 (大正7年) に 『あゝ踏切番』 を発表します。実話を題材にした12分以上のバラードです。

   20余年を碑文谷の 踏切番とさげすまれ 風の明日も雨の夜も 眠る暇なき働きの
   報いは飢をしのぐのみ わずかに飢えをしのぐのみ 労力の値ひ安き世の 勤めの身こそ 悲しけれ
   ……
   重き頭をささえつつ 思いは同じ同僚と 踏切守るや今日もまた なぐさめられつつなぐさめつ
   日毎夜毎のいと重き 勤めの疲れ重なりて 殊に今宵は堪えがたな いま一汽車をつつがなく
   ……
   今か今かと来ん汽車を 待てる2人はわれ知らず いつか睡魔の誘い来て あはれ夢路をゆきもどり
   ……
   とどろとどろと一筋に 鉄路を走る汽車の列 あわや間近く迫れるを あやふし夢は尚さめず
   砂吹く風の忽ちに おどろき見れば凄まじや 突き来る汽車は眼のあたり 鉄路を人の血に染めぬ
   2人は色を失いて 己が職務の怠りに 人を殺めしその罪の のがれ難きを如何にせむ
   1人の命とつりがえに 2人の命捨つるより 外に術なし諸共に 死なんの覚悟誰が知る

 2人の踏切番は線路上に身を伏せ、列車に轢かれて亡くなります。歌は事件への関心ではなく共感を得て広く歌われたといいます。
 今も昔もそうですが、過重労働が事故を引き起こしました。しかし責任は労働者に被せられます。

 22年 (大正11年) に 『職業婦人の歌』 を発表します。

   わたしゃ会社のタイピストよ タイピスト 働きゃいつでも心が躍る
   躍る心に光が満ちて 一字一字と打ち出す字にも 云うに云われぬ味さえ出ます
   男たよっている女には こんな気持ちはサ わかるまい

   わたしゃ電話の交換手よ 交換手 話通わしゃ話が漏れる
   浮いた話や家庭の波瀾 それに引き替え交換台で 男頼らぬ気楽な暮らし
   男たよっている女には こんな気持ちはサ わかるまい

   わたしゃ小学校の女教員や 女教員 いやな男の稼ぎを当てに
   貧乏世帯の苦労などせずに 人の子わが子の差別もせずに
   女子の義務もつくしてゆける
   男たよっている女には こんな気持ちはサ わかるまい

 「男たよっている女には こんな気持ちはサ わかるまい」。いい歌詞です。
 しかし、本当はそれぞれの業務は大変でした。2011年11月11日の 「活動報告」 に書きましたが、日本で使用者が最初にメンタルヘルス対策に取り組んだのはこの頃の電話交換手に対してです。

 23年 (大正12年) に 『復興節』 を発表します。9月1日に発生した関東大震災をテーマにしています。

   家は焼けても江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ 
   アラマオヤマ 忽ち並んだバラックに
   夜は寝ながらお月さま眺めて エーゾエーゾ 帝都復興エーゾエーゾ

 25年 (大正14年) に 『金金節』 を発表します。

   金だ金だと 汽笛がなれば 鐘もなるなる ガンガンひびく
   金だ金だよ 時間が金だ 朝の5時から べんと箱さげて

   ねぼけ眼で 金だよ金だ 金だ工場だ 会社だ金だ
   女工・男工・職業婦人 金だ金だと 電車も走る
   ……
   神経衰弱 栄養不足 だらけた顔して 金だよ金だ
   金だ金だよ 身売りの金だ カゴで行くのは お軽でござる
   ……
   江戸の大火で 暴利を占めた 元祖、買占・暴利の本家
   行きの吉原 大門うって まいた小判も 金だよ金だ

 関東大震災の復興は 「金だ金だ」 でした。(2012月8月31日の 「活動報告」) 貧富の差を拡大しました。労働者の状況は 「神経衰弱 栄養不足」 です。「神経衰弱」 は資料の行間から今でいうメンタルヘルスだと窺えます。
 そして東日本大震災の復興事業でも 「金だ金だ」 が言われています。

 唖蟬坊は、社会の問題を取り上げて世論を喚起するジャーナリストでもありました。
 語りと弾き唄いを聞きながら、唖蟬坊が活躍した時代と現在がさまざまに重なります。しかし現在の方が目暗ましにされていると実感させられます。「今」 を喚起させられました 


  
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平和を希求する島に基地建設
2013/04/16(Tue)
 4月16日(火)

 韓国・済州島報告の続きです。

 日本で済州島を語るとき、「4.3事件」 の前と後についても触れなければなりません。
 強い共同体で支えられてきた済州島は昔から 「三無の島」 と言われてきました。泥棒、乞食、門がありませんでした。
 しかし泥棒は海から何度もやってきました。蒙古の支配は1世紀続きました。近代になっては日本です。
 1910年、日本は「日韓併合」で植民地にします。そして中国侵略拠点として飛行場などを建設します。飛行場は44年に大規模な拡張工事が行われます。
 45年2月9日、大本営は本土防衛のための 「決号作戦」 を決定します。アメリカ軍の上陸を7地点に想定し、それを防ぐための準備を始めます。その1つが済州島、北九州で、済州島全島の玉砕型要塞化を計画します。
 4月15日、大本営は済州島要塞化を指揮する第58軍司令部を創設、満州の関東軍などを済州島に集めます。この年初めに1000人ほどだった駐屯日本兵が、8月には7万人になっていました。
 日本の降伏が遅れたら、済州島は沖縄戦のような状況になったと想定されます。

 今、済州島に残されている日本軍遺跡は、飛行場、飛行機格納庫、人間魚雷 「回天」 と特攻艇 「震洋」 の洞窟基地、高射砲陣地、地下坑道陣地など1000個所近くあります。
 これらの工事のために島内だけでなく朝鮮本土などから強制徴用された人たちが従事させられました。
 地下坑道陣地の工事は4月から開始されました。かなり広く、強固です。その一部は今、「釜岳平和博物館」 となって一般公開されています。


 済州島とともに沖縄も本土防衛の前線に位置づけられました。

 基地のない島だった沖縄に、第二次世界大戦が始まると日本軍が上陸して基地を建設します。読谷村に北飛行場、嘉手納に中飛行場を建設。42年に、伊江島に南方作戦の中継基地の飛行場を建設します。これらは今、米軍基地になっています。
 45年3月26日に米軍は慶良間諸島に上陸、4月1日に本島上陸して沖縄戦が開始されます。6月23日に組織的戦闘が終了するまでの3か月間に20万人以上の戦死者が出ました。
 慶良間諸島・渡嘉敷島のビーチには今も特攻艇用の洞窟が残っています。
 沖縄は “捨て石” でした。沖縄が一日戦争を延ばせば、本土決戦が一日延びるという作戦が実行されました。
 その後も沖縄は 「やまと」 から捨てられました。復帰後は米軍基地が集中させられました。

 沖縄戦までは、首里から普天間まで真っ直ぐな街道が走っていました。両側に3000本の琉球松が生い茂っていました。嘉数高地の激戦で街道が廃墟になると、そこに米軍は普天間飛行場を建設します。朝鮮戦争において重要性が認識され、強化されていきます。


 2007年、済州島江汀里に海軍基地建設が計画されます。今、民・軍複合観光美港と謳って 「先工事・後予算執行」 で工事を強行しています。近くには空港建設も計画されています。
 建設賛成・反対を巡って村の共同体は壊され、家族同士も引き裂かれました。
 しかし韓国本土の人たちには 「韓国全体の安保のためにはしかたがない」 という意見もあるといいます。地域差別と無関心があります。
 韓国とアメリカは 「米韓相互防衛条約およびSOFA (在韓米軍地位協定)」 があり、米軍が望めば使用できます。米軍の東アジア戦略と一体の計画であることは明らかです。
 反対運動でこれまでの400人が拘束されて処罰されています。課せられている罰金は総額3億ウォンに及びます。

 基地建設反対運動をしている人たちを訪問しました。ちょうどトラックが建設現場のゲートから出てくるところに遭遇しました。住民がゲートのすぐ近くに監視のために張ったテントから押しかけて抗議行動を展開していました。
 トラックが出入りしない時はゲート前に鉢植えの花やイスが並べられ、タイヤや木材が積まれています。トラックが出入りする時は警察官がそれらを撤去、住民はそれを許さない抵抗闘争をします。トラックが消えると住民がもとに戻します。
 「悔しいけど建設工事は続いています。しかし工事を1分でも遅らせる行動をずっと続けています。今後も続けます。私たちは最後まで闘い、歴史に私たちの闘いが正しかったと証明させます」 との思い出頑張っています。

 現状を訴え、支援を要請するリーフレットがあります。

  海軍基地建設の一連の流れを見ながら
  私達が本当に守らなければならないものは何なのかを考えます。
  我等が暮らしているこの美しい自然、
  そこで暮らしている沢山の人達の温かい生活、
  本当にそれらを守りたい気持ちで、
  それらを愛する気持ちで “安全保障” を口にしているのか
  そうでないなら何の為の “安全保障” なのか尋ねたい。
  国家を守るという言葉で国民の生活を壊し、
  人権を無視するのではなく、
  むやみに追い出されない、むやみに破壊しない、
  本当にこころのそこから国民を、
  そして国民の大事なものを守りたいと思う “国家” を先に創りたいです。

 これが2005年に政府が 「済州世界平和の島」 を宣言した済州島の現状です。


 安倍政権が成立してから、沖縄の辺野古基地建設計画が推進されました。
 普天間基地は 「撤去」 が決定されているのであって 「移設」 が決定されたのではありません。しかし今、普天間基地の辺野古への移設を口実に米軍基地の拡大・強化、機能集中化が進められようとしています。アメリカの言いなりです。
 沖縄戦の体験から平和を希求する沖縄の人たちの思いを圧殺しようとしています。

 20年前、沖縄本島中部に位置する恩納村に米軍が都市型戦闘訓練施設を建設しようとした時、喜瀬武原区民と安富祖区民は反対運動を展開しました。
 村民の思いが団結小屋のむしろに墨で大書きして吊るしてありました。

   山は心のささえ
   山死なば 村も死す
   山死なば 我が身諸共
   我が身死すとも 山守れ
   我心の富士 恩納岳
   山青き 水清き
   心のふるさと 恩納岳
   見殺すな 恩納岳
   戦世の思い 忘れるな
   山死して 国栄え
   山死して 村滅ぶ
   許すまじ 国の横暴

 この思いは辺野古の人たち、沖縄の人たちのものでもあります。


 少し前、済州島・江汀里で海軍基地建設反対闘争をしている人たちは、辺野古で基地建設反対をしている人たちから招待されました。「身体を休めに来てください」 と言われたといいます。
 お互いの闘いが長期化する中で、心情と必要なことを知っているからこその心遣いです。

 戦時中、済州島と沖縄は大本営の本土防衛のために要塞化されます。そのため満州から部隊が移動します。大本営は1945年2月の段階で満州を放棄しました。軍関係者、官庁役人、満州鉄道関係者はこっそりと逃亡します。しかし開拓団などで移住した人たちは放置され、「満州棄民」 にされました。
 

 4月12日、政府は4月28日を 「主権回復の日」 とすると発表しました。
 沖縄の人びとが切り捨てられた日が 「主権回復の日」 です。沖縄戦と戦後の苦闘を体験した人たちの思いが逆なでされています。


 かなり前、沖縄で平和運動を続けている中村文子さんの話を聞きました。中村さんは戦後、小学校・中学校の先生をしていました。作成したパンフレットからの引用です。
 
  私は、名護中学へ転勤しました。その頃の中学生の名前は、勝男、和彦、女子は、和江、勝子。勝とか
 和という、それこそ親たちの願いが込められた名前が多くありました。
  私は家庭訪問をしながら子供たちの誕生歴を聞きました。12~13歳になっています。
  勝子の家に行き、お母さんと話をしました。
 
  ちょうど身重になって生まれそうな時にお父さんは防衛隊に取られ、伊江島に送られます。
  お母さんは、いざという時に自分一人でお産をしてそれを処置しなければならないので、村の取り上げ
 婆さんにどうしたらいいかを習って、ちゃんと消毒したきれいな糸と安全カミソリ、包帯、産着などを1つの
 風呂敷に包んで背負っていました。
  艦砲が飛んでききて、部落の人たちと一緒に山を登って、もう1つ山奥に入ろうとした時に近くで砲弾が
 破裂します。その破片が4歳になる手を引いて歩いていた息子の腹部を貫通します。「かあちゃん」 とい
 う声がした途端に手が緩んで息子は即死しました。お母さんは息子を抱えて、前に見える大きな岩陰へ
 走って行って隠れました。そのショックでその晩産気づきます。
  部落の人たちはどんどん先に進んで行く。だれもそこで待って手伝ってあげられる状況ではありません
 でした。
  お母さんは悪戦苦闘の末、女の子を生みます。取り上げ婆さんが教えてくれたように自分で処理して新
 しい産着を着せ、一方で今さっき死んだ息子とを両手にかかえて一晩明かします。
  翌日夜が明けると岩陰をあさって 「あんた1人じゃないんだよ。今にお母さんもそうなるかもしれない。
 生きていたらあんたを迎えに来るからね。その間寂しがらずに待っていなさいよ」 といって石で息子を覆
 います。
  山でずっと岩陰や木陰に隠れて、5月になって天気のいい日に谷川に降りて行って勝子を1か月ぶりに
 産湯に着けました。

  お母さんは、「だから勝子は色が黒いんですよ、先生」 と言ってにこにこ笑いました。だけどその後私に
 お茶を勧めて、自分もすすりながら 「戦争なんて、戦争なんて……」 と言って湯飲み茶わんを握りしめ
 たんです。
  それが 「教え子を戦場に送らない」 という日教組のスローガンに繋がっていきました。平和憲法に繋が
 っていきました。本当に私たちが灯台のように大事にしたのが憲法9条でした。その憲法9条の灯台に向
 かって私たちは復帰運動をしたのです。

  そして1972年5月15日、復帰。それこそ親指ほどの大きな雨でした。その大豪雨の中で、私たちの願
 いとは裏腹の内容に、祝うはずの提灯行列が、与儀公園の泥んこの中での抗議集会に変わって、県庁
 前へ、あの時は琉球政府前へ行進しました。


 憲法9条の灯台に向かった 「復帰運動」 の期待は裏切られ、ますます基地は集中化され、強化され、今も居座っています。
 4月28日は 「屈辱の日」 です。そして5月15日も裏切られた日・「屈辱の日」 です。
 アメリカも日本政府も沖縄の人たちの叫びを受け止めません。逆に憲法9条の改訂が声高に叫ばれています。
 しかし沖縄の人たちは体験が醸し出す 「命どぅ宝」 の思いで闘いを続けます。だれにも屈服させることはできません。

 
  沖縄をことあるごとに思いださせる済州島訪問でした。国家とは何か、軍隊とは何かを改めて考えさせられます。
 明らかなことは、軍隊は人びとを守りません。


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「人間が悲しむことの自由、これは闘いなんです」
2013/04/12(Fri)
 4月12日(金)

   海流に乗って海洋文化が届く島、
   風に乗せて送る島。
   海人 (ウミンチュウ) は異国の文化を進取の意気で取り込み、
   共に生き、共に笑って生きてきた島。 
   たくさんの噴火口があり、ゴロゴロ石が転がっている火山島。
   その真ん中にそびえ立つ雪をかぶった4月の漢拏山 (はるらさん)。

   済州4・3抗争60周年慰霊祭への参加者を、
   道沿いに並んだ菜の花が出迎え、畑のあぜで桜が出迎え
   公園で椿が出迎えてくれた島、済州島。
   歴史が長く隠されてきた島。
   まだまだ沈黙は続くが、今やっと真実が語られ初めた島。


 4月2日から5日まで、韓国・済州島に行っていました。「済州島4・3事件65周年慰霊祭」 に出席するためです。関東と関西から約70人が参加しました。5年前の60周年慰霊祭以来2回目です。
 「済州島4・3事件」 は、金石範の小説 『火山島』 に詳細に描かれています。全7巻で、それぞれが分厚いです。
 長い間、島民の苦難の歴史が抹殺されていました。少しづつ真実が語られ始め、真実の掘り起こしと捉え返しが行われて、やっと犠牲になった人たちへの慰霊を行えるようになりました。


 1945年8月15日、朝鮮半島は解放されますが、アメリカ、イギリス、ソ連のヤルタ会談で決定された連合国の信託統治行なわれます。
 しかし解放された朝鮮半島の人びとは建国委員会のもとに自らの国家建設を開始します。信託統治を巡っては各地で抗争が続きます。

 済州島でも全島民の支持を得た人民委員会を中心に活動を開始していきます。
 47年3月1日、日本統治時代の1919年3月1日に起こった独立万歳運動の28周年目の 「3.1節」 記念式を終えて、30000人が邑の中心地である観徳亭前広場をデモ行進していました。そこに警察官が解散させようと発砲、6人が死亡、8人が負傷しました。人民委員会幹部への検挙も行われました。朝鮮半島は解放されたといっても、日帝時代の親日的な警察官が返り咲き、機能を継続していました。

 島全体で、ストライキで抗議しようという動きが起こり、3月10日から、道庁を始めとする160の機関が参加してゼネストが決行されます。3月1日に発砲命令を受けた警察官も辞表を提出してストに参加します。

 アメリカ軍刑務部長は 「島民の70%は左翼に加盟しているか同情的立場である」 という談話を出し、警察は島民の検挙を開始して暴力的な取り調べをします。さらに本島から、右翼集団や警察官が大量に送られてきて弾圧を繰り返します。
 米軍政・警察討伐対と島民の武装隊とが武力衝突を続けます。

 11月、国連総会は南北朝鮮総選挙案を可決します。
 48年1月、朝鮮北部は国連臨時朝鮮委員会の立ち入りを拒否。2月には南部で朝鮮単独選挙反対のゼネストが起きります。
 2月に北部で朝鮮人民軍が創設されると、国連は5月10日、南部の単独選挙案を可決します。
 そして日本では3月に、前回の 「活動報告」 に書いた朝鮮人学校に閉鎖命令が出され、4月に阪神教育闘争が起きます。

 4月3日の夜明け前、漢拏山の各地から一斉に狼煙があがり、武装した500人と非武装の1000人の島民が警察署と右翼団体の家を襲撃します。「4.3蜂起」 です。

 アメリカ軍政は鎮圧命令を出しますが、武力行使前の4月28日からに双方の会談が開始さわれます。
 最中の5月1日、右翼青年団によって集落の民家が放火されます。しかし米軍は暴徒による行為と規定し、焦土化作戦を命令します。

 5月10日、南部で単独選挙が強行されましたが、済州島では、3選挙区中2選挙区で投票所攻撃や住民の投票拒否で成立しませんでした。
 8月15日、李承晩を大統領に大韓民国が樹立されます。李承晩は鎮圧作戦を強めます。
 
 49年6月7日、武装隊の司令官が射殺され、武装隊の組織的抵抗は終わります。
 李承晩政権は成立から49年3月までに2万5000人から3万人を虐殺しました。

 50年6月25日に朝鮮戦争が始まると、4.3蜂起で逮捕されて釈放された島民が拘束されて虐殺されます。
 日本では自衛隊が設置されます。
 54年9月21日、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた翌日、道警察局長は 「漢拏山禁足令」 を解除します。

 この47年3月1日の警察官の発砲事件から54年9月21日の 「漢拏山禁足令」 解除までの7年7か月間を 「4.3事件」 と呼びます。
 事態の進展は日本の政治情勢と強く連結しています。


 しかし事件は終わりませんでした。
 人民委員会を否定したアメリカ軍政に抵抗し、単独選挙に反対・抵抗した島民に 「アカ」 のレッテルを貼って虐殺された島民の遺族は、その後も軍事独裁政権が続く間、死者を弔うことも出来ませんでした。武装隊を圧倒的島民が支持した島内では警察官や軍隊側の遺族も同じです。事件について語ることはありませんでした。
 しかし遺族は、命日になるとひっそりと祭事を行なっていました。
 済州島を離れて日本に渡った関係者や遺族も同じです。
 その1人が詩人の金時鐘です。彼は当時、南朝鮮労働党 (南労党) 員として活動しますがずっと沈黙をしてきました。今、岩波書店発刊の雑誌 『図書』 に当時のことを 「回想記」 のタイトルで連載しています。


   遺族からは 「悲しむ自由」 も奪われた。
   事件後60年間、同じ日を迎える真夜中12時、
   祭祀 (チェサ) の灯りが洩れる家々から
   押し殺しても、口を手で蔽っても、泣き声が漏れた。
   柱が泣き、雨戸が震えたという。

   やっと大声で泣けるようになると、
   「悲しむことができる自由」 は悲しむことができる喜びとなった。


 2003年10月31日、盧武鉉大統領は済州島4.3事件の被害者に対して公式に謝罪しました。

 「済州島4・3事件65周年慰霊祭」 は道庁主催で、平和公園の追慕昇華広場で開催されました。正面の位牌奉安所には氏名が判明した7000人の位牌が祀られています。


 朴正煕大統領政権の時、韓国で4.3事件を取り上げた玄基榮の小説 『順伊 (スニ) おばさん』 (新幹社刊) が発表されました。しかし彼は逮捕され、本は発売禁止になりました。内容が “過激” だからではありません。事件を抹殺しようとしたのです。
 日本でも翻訳されています。
 小説の舞台となった里を訪れました。


   朝天面北村里 (プクチョンリ) の国民学校と順伊 (スニ) おばさんの記念碑を巡る。
   49年1月17日の北村里は冷たい風が切りつけていた。
   部落の者たちは軍人たちの命令で国民学校に集められ、
   無差別に銃を撃ちまくられ、300人が虐殺された。
   北村里は 「無男村」 と呼ばれ家門が絶えた家も多い。
   しかし掠り傷1つ負わなかった順伊 (スニ) おばさん。

   順伊 (スニ) おばさんは、警察に夫の行方を白状しろと拷問を受けた。
   殻竿で頭が割れるまで殴打された。
   その恐怖の体験は、いつもいつも怯えさせる。
   軍人、巡警の影に怯えてしまう。
   神経衰弱は、幻聴症状を伴い、極端な潔癖症になった。
   苦痛は、
   56才の生涯に耕し続けた畑で、
   かつて銃が撃ちまくられた畑で、
   自の命を絶たせた。


 「怖かった」 と事実を、心象を誰にも語れなかった順伊 (スニ) おばさんは生涯、心傷性ストレス障害・PTSDから解放されることはありませんでした。


 『火山島』 の金石範さんは、今回、渡韓を朴正煕の娘の朴槿恵政権から拒否されました。
 60周年の時は可能でした。その時の思いを帰って来てから語っています。
 「向こうでもテレビとか新聞のインタビューがあって60周年に際しての感想はと聞かれましたが言葉がすぐに出てこない。ひとこと私が言ったのは、……日本語だったら 『悲しみの自由』。誰でも深い悲しみのときは泣いたり叫んだりするでしょう。長い間それができなかったのができるようになった。……
 いちばん大きいのは、泣くことが自由だということ。馬鹿げた話だと思いませんか。動物だって悲しかったら泣くんですよ。人間が鳴きたいときに泣けずに、それが済州島では半世紀つづいた。私はここに、記憶の問題、記憶の抹殺、権力による記憶の他殺、自分自身による記憶の自殺という言葉を使ってきました。
 人間が悲しむことの自由、これは闘いなんです。」(済州島4・3事件を考える会・東京編 『済州島4・3事件 記憶と真実』)


 悲しむことの自由は、人として怒り、苦しみ、悔しさを分かちあい、喜びを共有することと一緒にあります。しかし与えられるものではありません。勝ち取って守るものです。そうしないと気付かないうちに狭められていきます。息苦しくなっていきます。今、身近でも起きています。
 悲しむ自由があるときに、一緒に悲しみ、悲しんで自分を取り戻すことが、社会を、会社を、時代を喜びに変える力になります。


 4月24日午後6時20から、阪神教育闘争が盛りあがた日から65周年目の日、「済州島4・3事件65周年追悼の集い」が東京・日暮里サニーホールで開催されます。 

  
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