2013/02 ≪  2013/03 12345678910111213141516171819202122232425262728293031  ≫ 2013/04
“俺たちはボタじゃない”
2013/03/01(Fri)
 3月1日(金)

 福岡・筑豊に行きました。『青春の門』 のぶらぶら探索が目的です。
 田川市の石炭記念公園にある田川市石炭・歴史博物館に向いました。たどり着くのに迷子になりそうになりましたが目指すは 『炭坑節』 (12年7月27日の 「活動報告」) の歌詞にある2本の高い煙突です。

  ♪月が出た出た 月が出た
   三池田川坑の上に出た
   あんまり煙突が 高いので
   ……          ♪

 煙突は、まだ電気が引かれていなかった頃、炭鉱の捲揚機や付属施設の動力用として設置された蒸気汽缶の排煙用で煉瓦製です。高さは45.45mあります。

 博物館は三井田川坑だけでなく、筑豊の大小の炭坑の歴史と当時の作業状況などを展示しています。団体客に炭鉱OBの方が説明をしていたので一緒についていきました。2階の一室は、山本作兵衛さんの 「炭坑記録画」 (11年6月28日の 「活動報告」) のコピー展示室になっています。
 福岡県の地図を見ると筑豊と北九州市は隣りです。筑豊の石炭は鉄道が走るまでは遠賀川を船で港に運びました。大型船に移し替えて各地に運搬します。八幡製鉄所の燃料にもなりました。若松港で荷役作業に従事していたのが 『花と竜』 の火野葦平親子たちです。(11年5月1日の 「活動報告」)
 石炭産業がエネルギー革命の名のもとに転換を迫られ、閉山が決定すると坑道に機材を残したまますぐに坑口から水が入れられました。坑道は落盤する危険があるからその防止策だと説明されましたが、再開を不可能にするためでもあります。ですから資料館に展示されている機材は、田川坑のではなく三池坑のものです。
 石炭が不要になったから閉山したのではありません。閉山後も今も外国炭を輸入しています。石炭は、現在のTPP問題で取り上げられている農産物のような犠牲になりました。
 資料館の敷地内には炭住 (炭鉱住宅) も残っています。売店ではお土産用に、石炭をまねた竹炭を使用した黒いまんじゅうや羊羹などが売っています。

 高さが28.4mの伊田竪坑櫓があります。竪坑櫓は、竪坑を通って坑内へ出入りするケージを上げ下げするためのものです。現在はこの1つしか残っていません。

  ♪一山二山 三山越え
   奥に咲いたる 八重椿♪

 博物館から遠くもなく、近くもないところに香春岳が見えます。一山二山三山の尖った連山でしたが手前の一山はセメント用の石灰石を掘り出している最中で平になっています。
 石炭は 「黒ダイヤ」、石灰岩は 「白ダイヤ」 と呼ばれましたが、今は 「白ダイヤ」 だけが残っています。
 香春岳の手前に小高い山があります。ボタ (石炭以外の廃石や捨石) を堆積したボタ山ですが今は木々が生えて緑色になっていて説明されないとわかりません。以前はたくさんありましたが、道路の舗装工事の材料に利用するため崩され、1つしか残っていません。

 資料館の隣にある、公園内の高台の一番高いところに 『韓国人徴用犠牲者慰霊碑』 が建っています。一番低い危険で悪条件の多い切羽で働かされた人の霊を慰めるため、一番高いところに建てたのだそうです。碑文はハングルですが、隣に日本語訳の碑が建てられています。

  この世に生をうけたものは、皆等しくその生を享受することができる。
  鳥は空に舞い、魚は水に遊び、命の限り生を楽しむ。まして、万物の霊長たる人間は、さらに言うまでも
 ない。
  思えば、大韓帝国末期、日本は 「日韓併合」 の美名のもとに人道に悖 (もと) る政策を断行した。特に
 第二次世界大戦が勃発するや韓国人の徴用、強制労働は、さらに苛酷なものになった。
  なつかしい故国と父母、妻子、兄弟、姉妹、親戚とも引き裂かれ、不慣れな風俗、人情の地、日本に強
 制連行され、戦争にかり出され、また、労役に苦しめられた。そして、ついには、夢寐 (むび) にも忘れ
 ぬ父母、妻子、美しい故国の山河を二度と見ることもなく逝ったのである。
  されば極まり無い数多くの御霊の痛恨はいかばかりであろう。いつになったら晴れるであろうか。
  歳月は無情にも溢れ、はや四十有余年を重ね世の中は大きく変わった。しかし、この先いかに歳月を
 重ねようとも、この凄惨な事実が埋もれてしまうことがあってはならない。
  よってこの地に在住する同胞ここに集まり、ささやかながら、この石碑を建立する。
  否塞な国運と共に犠牲となった同胞の御霊を末永く慰め、再び不幸な時代を繰り返させぬよう戒めの
 標(しるし)とするものである。
  冥界(めいかい)の御霊よ、願わくばその恨みを忘れ給え。そして安らかにねむり給え。

 「この世に生をうけたものは、皆等しくその生を享受することができる。」
 納屋制度、強制連行がそれを否定しました。


 「『圧政と低賃金』 のヤマとして知られていた麻生炭鉱は、……飯塚町を中心にして福岡県嘉穂郡にその坑口を開いていた。昭和初年における筑豊の朝鮮人炭鉱労働者は5300名、麻生系の諸炭坑には約1100名の朝鮮人労働者が働いていた。この麻生炭鉱は、朝鮮人労働者と未解放部落の出身者によって占められていた炭坑であったともいうことができる。1934 (昭和9) 年の福岡地方職業紹介事務所 『職業紹介事業より見たる炭山労働事情』 によると 『炭山の資本系統によって朝鮮人労働者を使用するところと、使用せざるところがある。すなわち筑豊地方では三菱、麻生系に最も多く、三井系炭山には1名も使用していないという状態である』 としている」(新藤東洋男著 『赤いボタ山の火 筑豊・三池の人びと』) とあります。
 同じ著者の小雑誌 『太平洋戦争下における三井鉱山と中国・朝鮮人労働者』 があります。その中の表には、三井独占の雇傭した外国人労働者 (昭和20年8月現在) の数が、三井炭鉱については朝鮮人2297人、中国人2348人、俘虜1409人、田川炭鉱については朝鮮人2195人、中国人623人、俘虜398人とあります。


 近くに 『田川地区炭鉱殉職者慰霊の碑』 があります。
 田川地区全炭鉱の殉職者(犠牲者)の慰霊碑です。碑文には、田川地区だけで2万人近い人がガス爆発、落盤、出水、坑内火災などの犠牲者がいたとあります。
 隣りに 『強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑』 があります。
 

 博物館から少し離れたところに 『筑豊塵肺訴訟記念碑』 が建っています。
 碑文を書き写しました。

  2004年4月29日、最高裁判所がわが国で初めて職業病に対する国の賠償責任を認めた日である。
 原告たち炭鉱労働者は、戦中戦後の日本経済を筑豊の地底から支えてきた。
  その筑豊の炭鉱を国は、スクラップ・アンド・スクラップ政策によって一挙に閉山に追い込んだ。
  炭鉱を追われた原告たち炭鉱労働者を待っていたのは、不治の病 『じん肺』 であった。繰り返すセキと
 タン、動悸、息切れ、呼吸困難の発作、そしてじん肺死であった。
  “俺たちはボタじゃない”
  1985年12月26日、原告たち炭鉱労働者は、企業だけでなく国に対して、筑豊じん肺訴訟を提起し
 た。
  炭鉱の安全管理を指導する国は、企業の石炭政策を優先し、原告たち炭鉱労働者がじん肺にかから
 ないための施策を怠ってきた。
  永い裁判闘争が続き、原告たち炭坑労働者が次々に志半ばにして命を奪われていった。
  原告たち炭鉱労働者とその妻たちは、街頭に立って支援を呼びかけ、多くの労働者、市民と結束してじ
 ん肺被害の償いとじん肺の根絶を求め続けた。
  筑豊じん肺訴訟の18年4ヶ月は、炭鉱労働者とその妻たちがじん肺被害の償いとじん肺根絶のために
 誇りをかけて挑んだ闘いである。
  筑豊じん肺訴訟の最高裁判所判決はすべての労働者・すべての市民のための救済の羅針盤となっ
 た。
  これは、“俺たちはボタじゃない” と結束して闘った原告たち炭鉱労働者とその妻たちの勝利の証であ
 る。
       筑豊じん肺訴訟記念碑建立実行委員会
       実行委員長 大野隆司
       1985.12.26 ~ 2004.4.27

 “俺たちはボタじゃない” は大きくなっています。
 これが全文です。
 「スクラップ・アンド・スクラップ政策」 の言い回しは炭坑労働者のおかれた状況を物語ります。

 博物館の説明を補足するような私的ホームページがあります。その中でこの碑と碑文を紹介しています。碑文は他に見つけることができません。しかし 「一部文章割愛」 とあります。どこを割愛したのでしょうか。
 「2004年4月27日、最高裁判所がわが国で初めて職業病に対する国の賠償責任を認めた日である。」「企業の石炭政策を優先し、」「筑豊じん肺訴訟記念碑建立実行委員会 実行委員長 大野隆司 1985.12.26 ~ 2004.4.27」 の3カ所です。
 私的なホームページに文句を言ってもしょうがありませんが、原告たちの肝心な思いが消されています。歴史的事実を忘れさせないために建立された碑から真実が消されています。
 ちなみにこのホームページに 『韓国人徴用犠牲者慰霊碑』 や 『強制連行中国人殉難者 鎮魂の碑』 の紹介もありません。

 同じように博物館全体の説明文や 『田川地区炭鉱殉職者慰霊の碑』 にも事実がきちんと書かれていません。
 しかし残念ながらこれが現在の 「世論」 です。従軍慰安婦問題に対する 「世論」 と重なりました。

 塵肺の痕跡は、古くはピラミッのミイラにも見られると言われますが、日本では江戸時代の佐渡銀山などの記録、夏目漱石の 『坑夫』 などにも出てきます。終戦直後からは国として取り組むことを決定しますが遅々として進みませんでした。
 そのような中で200年後に、「1985.12.26 ~ 2004.4.27」 の年月をかけて、やっと 「企業の石炭政策を優先し」 た事実と “俺たちはボタじゃない” の主張を認めさせたのが 「2004年4月27日」 です。

 地下に眠っている事実はまだまだたくさんあります。“俺たちはボタじゃない” と叫んでいます。「水を入れられて」 掘り出すには困難が伴います。しかし歴史を正しく掘り起こさないと、「この世に生をうけたものは、皆等しくその生を享受することができる」 ことを否定する誤った労働社会と未来を作ってしまいます。


 山本作兵衛さんの原画59点が、3月16日から5月6日まで東京タワー1階特設会場で展示されます。 


   当センター「いじめメンタルヘルス労働者支援センター」ホームページ・ご相談はこちらから
この記事のURL | 労災 | ▲ top
| メイン |